はしがき
「鼻の表現」なぞいう標題を掲げますと、人を馬鹿にしている||大方おしまいにお化粧品の効能書きでも出て来るのじゃないかと、初めから鼻であしらってしまわれる方が無いとも限りません。
しかし「鼻の表現」の一篇は、そんな不真面目なものではないのであります。初めからおしまい迄、「鼻の表現」なるものを、大にしては人類の盛衰、小にしては個人の死活にも関する大問題として極めて真面目に研究を進めて行ったものである事を、前以って御断り致しておきます。
それならば、この「鼻の表現」の一篇は独特の研究に
昔から人類の
それならば
これは一つは、今日迄に遂げられた各方面の先覚者の研究が実に到れり尽せりで、新発見のつもりで研究を進めて行っても直ぐに鼻が
前口上はこれ位に致しまして、
鼻の使命とは?
||懐疑と解釈のいろいろ
鏡にうつる御自分の鼻を御覧になると、御満足御不満足は別問題と致しまして、鼻の恰好その物に就いて一種のぼんやりとした疑問を
鼻ってものはどうしてこんなに高くなっているのか知らん······
何故こんな恰好をしているのであろう······
物を嗅いだり呼吸をしたりするほかには何の役にも立たないのか知らん······
なぞと考えられた御経験がおありになる事と想像されます。さもなくとも誰でも
ここで
人間万事を実用一点張りで解釈して行こうとする人は
「鼻というものは元来不必要なものである。平面の上に穴が二つ
というところに気付かれるでありましょう。
「これは大方鼻をかむという刺激が積り積ってこんな事になったのじゃないか」
なぞいう解釈を下している人もあります。
「しかしそれにしては鼻の頭が丸過ぎるし、左右の根っ株もふくれ過ぎている」
という事も同時に気付かれるであろうと考えられます。
これに反してもっと気取った人の
「鼻というものは万有進化の道程に於て一つの有力な条件と見られている美的方面の原理に
ところがもっと神経の鋭い人は、こうした断定があるにしてもまだまだ不満足が感ぜられるに違いありません。依然としてこの鼻に対して懐疑の念を持ち続けられるに違いありませぬ。
「たしかに何等かの使命を持っているものに違いない。もっともっと高潮した意義を含む存在の理由······人間の内的生活に対して何等かの深い関係を持っているもののように思われてならぬ······そうして又見れば見る程不思議な恰好······恐ろしく神秘的なもののような······同時に又恐ろしく無意義なるもののような······」
こうしてとうとう要領を得ずじまいに終られる方が多いであろうと考えられます。
しかしこの疑問に対してもっと突込んで研究して行こうというのは、いずれにしても余程の閑人か又はかなりの生まれ損ないでなければなりませぬ。この忙しい世の中に自分の鼻を睨んで考え詰めるというような人は滅多にあるまいと想像されます。
実際上世間では千人中の九百九十八人か九人位までは、生活の問題とその慰安
「鼻の表現なんてあるかないか
とお叱りを受けそうであります。
こうなると鼻も可哀相で、折角顔のお城の御本丸に
方向と位置と
||鼻の静的表現(一)
こんな御意見は詰まるところ、
「鼻は無いと困る。見っともなくて極りが悪いから」
というだけで、それ以上には鼻の表現の価値も権威も認められぬという事であります。
しかし如何程この意見を固守される方でも、御自分の鼻が御自分の向って行かれる方向を示している事だけは相違なく御認め下さるであろうと信ぜられます。
「どこへ行くんだ」
「鼻の向いた方へ」
なぞいった調子で、鼻がその持主の行く方向を示す事、船の
同時に鼻が時々自分というもののすべてを代表する意味に於て認められている事も明かな事実であります。
「この鼻様がいるのを知らぬか」
とか、
「この鼻を見忘れたか」
なぞいう古い
この二つの実例は何でもない事のようでありますが、鼻というものの表現······否、その鼻の持主のすべての表現と絶対の関係を持っているものであります。
しかし普通の場合に於てはそこまで重大な意義を認められておりませぬ。極めて軽い意味で前者は本人の意志を表明し、後者はその存在を提示するもの位にしか考えられておりませぬ。
その恰好と人物
||鼻の静的表現(二)
鼻は又その恰好に依ってその持主の性格、意志、感性なぞを表明しているものとも考えられておるようであります。それかあらぬか鼻にはいろんな名称があって、その名前を聞いただけでもその感じがわかる位であります。
先ず和製では、野生的の勇気を表わす「獅子鼻」を筆頭に、意地の悪い感じを与える「
意気筋では、よくは存じませぬが、江戸前の「ツンケン型」、上方式の「京人形型」、「オキャーセ型」、「アキマヘン型」、「バッテン型」なぞいうのが、その地方地方のこうした社会の気前を代表しているのだそうであります。
これを人類学的に分類致しますと、「アイヌ型」「コーカサス型」「モンゴリア型」「天孫型」「アレイ型」なぞの数種になる。いずれも本来はその文化程度を標示している筈のものだと申します。
一方舶来では各人種それぞれに共通の標準型があって、各その国民性もしくは民族性を代表しているそうであります。先ず上品な「
初対面の場合なぞは、この鼻の恰好から来る感じをソックリそのままその人の全人格の感じと認められている場合がたまにあるようであります。つまり鼻の恰好も一つの表現として見れば見られぬ事はないようであります。しかし鼻の方向や位置がその人の意志や存在を示す場合と違って、鼻の恰好が即ちその人の人格の表現であるとイキナリ決定して
近来西洋では、
「学問のある女性の鼻の方が、学問の無い女性のそれよりも高い」
という統計が出来ているそうであります。つまり鼻の低い女性でも学問さえすれば鼻が高くなるという······まるで落し話しでありますが、「その人類の文化程度は建築物の高さとあらかた一致する」というのと同じ論法で真面目に伝えられているそうであります。
そんなところからみれば鼻の形と人間の素養、性格なぞとはまるきり関係が無いとは言えないかも知れませぬ||否、大いにあってもらいたいものであります。
学問のある人の鼻は高く、人格者の鼻は端正に、無学文盲の鼻はヒシャゲて、悪人の鼻はねじくれていたら、世界の文化はどれ位向上し、人類の生活はどれ位幸福になるか知れませぬ。さらに今一歩を進めて、すべての男女の鼻が義務教育終了程度、中等学校程度、専門学校程度、学士、博士、大博士程度とそれぞれ高さが違って行く位になったら、世界の文運はどれ位進展するか知れますまい。
ところが実際から見るとこんな事例は先ず認め難いのであります。それどころか
尤も一方にこんな事実も多少はあり得ないと限らないのであります。
元来自分の鼻の恰好というものは存外に気にかかるものでありまして、一度鏡で見ておきますとどうかした時によく思い出すものであります。威勢のいい獅子鼻なぞを持っている人は、自分の鼻に対してもじっとしておられない場合が無いとも限らない。他人でも初対面の時なぞは一寸頼もしそうな鼻に思えて、ついおだてて見る気になる。一方不景気な抓み鼻を持っている人は、何だか顔を出しても出し
ところでこれが何しろ長い間の事でありますから、チョイチョイそんな気になっているうちには幾分性格にも差し響いて来る。つまり自分の鼻の恰好に感化を受けるという事も全く無いとは保障出来ないのであります。これは顔付でも同様で、多少共にこの傾向を持った人が存外多いものではないかと考えられます。
しかしこれは何と云っても愚かな話で、何も自分の鼻の恰好に義理を立てて余計な苦労を求める必要はあるまいと考えられます。持って生まれた根性と持って生まれた鼻の恰好とは、偶然に一致していない限り全く無関係なものであります。いくら鼻に義理を立てようとしても、本心に無い事である限り、そうそうは立て切れるものであるまいと思われます。
事実上その例証はいくらでもあります。
高利貸のような凄い鼻を持っている人でも
その人の先天的もしくは後天的の性格と鼻の恰好との間にはこれと云って取り立てる程の関係はない。
鼻の恰好から来る感じをその人の性格その他の表現と見るのは間違いと断定して大過は無い。
こうした判断のしかたは非常な危険を伴うものである。鼻の恰好から来る感じをその人の性格その他の表現と見るのは間違いと断定して大過は無い。
という事はここまで研究して参りますと一目瞭然するのであります。
鼻と諦め
||鼻の静的表現(三)
以上は人体に於ける鼻の位置、高低、恰好等から見た鼻の表現の研究でありますが、この種の表現は元来固定的
そのために又ここに一つの鼻の表現に対して大きな誤解を持っている人が
即ち鼻は絶対に静的なもので、眼や口なぞのように動的な表現力は全然持っていない。耳と同様に一種の飾りに過ぎぬものと昔から認められている事であります。逆に云えば、人間の意志や感情又は性格なぞいうものは何の影響をも鼻に与え得ないという事になります。
これは一般の人々ばかりではありませぬ。かなり進んだ頭を持った芸術家でも同様であります。芝居のお化粧なぞを見ましても鼻の動的表現の方は初めから問題にしないで、只鼻の恰好に現われる感じばかりを
喜怒色に現わさずという事をすべての修養の根本、社交の第一義とまでに尊重して来た東洋の人々を相手とする芸術家の間に「鼻の動的表現」が問題とならぬのは、無理からぬと云えば云えぬ理由もあります。しかしこれと反対に表情を極度に誇張しようと努めている西洋の芸術家や婦人達の間にも「鼻の動的表現」、言葉を換えて云えば「鼻の表情」とでもいうべきものが独立して研究されたという事を未だ
活動やお芝居なぞを見ておりましても一層この感じを深く裏書きされるのであります。世界を挙げて人類は鼻の表現を一切打ち忘れて、鼻以外の表現法ばかりを研究しているものときめかかって差し支えないようであります。
大袈裟なところでは眉が逆立ちをしたり、眼が宙釣りになったり、口が

その上に足の踏み方、手の動かし方、肩のゆすぶり方、腰のひねり方、又はお尻の振り方なぞいう、顔面表現の動的背景ともいうべき大道具までが参加して、縦横無尽千変万化、殆ど無限ともいうべき各種の表現を行って着々と成果を挙げているのであります。
然るにその中央のお眼通り正座に控えた鼻ばかりはいつも無でいるようであります。只のっそりぼんやりとかしこまったり、
その
容色の美醜は特に鼻の静的表現、即ち鼻の恰好に依って大変な違いが出来て来ますので、鼻に動的の表現が無い限りどうにも誤魔化しようが無いのであります。然るに天はなかなかこの鼻を思う通りの美的条件に合わせて生み付けてくれませぬので、たった鼻一つで売れ口の遅れるような実例が方々に出来て来るのであります。このような女性は毎日鏡を見るたんびに、遺伝という学問を編み出した学者を呪ったり、自分の鼻に似た恰好の鼻を持っている肉親の方を怨んだりしておられます。又は
隆鼻術は、こんな方々のこんな心理状態が社会に鬱積して生み出した医道の副産物であります。もしこれが百発百中

動的表現能力
||鼻の動的表現(一)
これを要するに、眼や口と同様に数限りない表現が鼻にも存在するということを、確信を以て断言し得る人はあまりあるまいと考えられます。
しかし又それと同時に、鼻というものは絶対に動的表現の能力を持たぬものと断定し得る人もあまり沢山はありますまい。つまるところ、あると云えばあるような、無いと思えばないような位のところが最も常識的な考え方であろうと思われます。
ところでそれはそれでいいとして、もしこの鼻の動的表現、即ち「鼻の表情」と名付けられるものが実際に於て絶対に無いものとしたらどんな事になるでしょうか。
これに反して鼻の表情なるものがもし存在するとなりましたならば、そんな人にとっては実に天来の福音として歓迎されるに違いありません。
同時に女神像のような恰好の
鼻にも表情がある。
美しい鼻でも心掛けようでは醜く見える。見っともない恰好の鼻でも
さらに一歩を進めて、この鼻なるものは断じてそんな表現界の死物ではない。又は中風病みか鉛毒に
しかも顔面表現のみならず、その人の全身の表現と深厚なる関係を持っているものである。もしこの鼻の表現と鼻以外のすべての表情とが一致しない時は、その人の表現は全然失敗となる。その人の表情は
もし又この鼻の表現を自由に支配して他の各部の表現と一致共鳴させる事が出来たならば、二重、三重、否、数重の意味を同時に表現することが出来る。芸術的の表現の場合なぞは
更に更に一歩を進めて、この鼻の表現を研究し練磨し修養をするということが人生終極の目的と一致するものである。大は歴史の推移転変から小は個人同士の離合集散まで、殆どこの「鼻の表現」に依って影響され支配されぬものは無いときまったら、そもそもどんな騒ぎが持上るでしょうか。
鼻に表情があるということすら信じ得ない程に常識の
古人の研究
||鼻の動的表現(二)
鼻の表現の存在、表現の方法、及びその価値に就いての研究応用、及びその影響は昔から鼻が
その権威は厳として宇宙に

事実上鼻の表現なるものに就いて真正面から堂々と論じてある例はあまり見当らないようであります。
しかしそれでも鼻という文字や言葉を使って鼻の表現の存在、方法、価値なぞいうものを端的に裏書してある実例はかなり発見する事が出来るのであります。
既に人が舞台に立って舞いを舞うという場合にその姿勢をどうしたら乱さずに保てるか、その眼や口の表現は如何なる心の落ち着きに依って正しく発露する事が出来るかという事から芸道の活き死にを説明してある中で「鼻」という項にこんな事が書いてあります。
鼻は不動のものなれば心するに及ばざる如くなれども、鼻うごめかすと俗にも云ふ如く心の色何となく此処 に映 るものなり、心に慢 りある時の如き最もよく鼻にて知らるゝものなれば意を止 む可 し(下略)
この能楽というものはその開祖以来代々の名人が受け継いでは演練し、演練しては研究して鼻の表現に就いての心得もその通りで、これだけの言葉のうちに代々の舞台上の聖人の惨憺たる研鑽の結果が
「心の色が鼻にうつる」
という事は取りも直さず鼻の表現の事であります。ここで成る程と早くも膝を打たれる人はやがてこの「心」と「鼻」とが如何に密接な「表現の関係」を持っているかという事を、如々実々に了解されるお方であります。
第一今の「鼻うごめかす」という事は、内心大得意の場合に「どうだ、おれはえらいだろう」という気持から鼻をうそうそさせる、又は「オホン」とか「ウフン」とかいう気分が鼻の頭の処に浮き出して来る事を云うので、
勿論この際その鼻の色合いや恰好は別にどうといって変化する訳ではありませぬ。眼や口とても格別鼻の表現に加勢をする訳ではないので、只チンと済ましてニッコリともしないのであります。そのままにこの気分がどことなく鼻の頭に浮き出して来るので、
「心の色が鼻にうつる」
とは如何にもよくこの間の兼ね合いを云い現わしてあると、今更に感心させられるのであります。さらに、
「心の底の
という事は、本来この鼻の静的表現の中に自己の存在的価値を代表する意味がある。もしくは前に掲げました一説「人類文化向上のプライドを標示したいという内的刺激に依って出来た」という「鼻の進化論」なぞと関連しているように思われる。即ち鼻柱出現の第一の使命がその辺にあるために、こうした気分が
意志、感情、性格
||鼻の動的表現(三)
しかし「鼻の表現」の実例はなかなかこれ位のものではありませぬ。小説、講談、文芸物、その他普通世間に云い伝えられていながら、鼻の表現としてはっきりと認められていない文句や言葉だけでもかなりの数に達するのであります。
「鼻にかける」という表現は、前の「鼻うごめかす」というのと同じような心理状態から出て来るものであります。「天下の色男は吾輩で御座い」なぞいうのがそれであります。持参金付きのお嫁さんなぞにもよくこの気持が出ているものだそうで、そのほか身分、容色、家柄なぞ、何でも本人の腹にあるものがこの気持ちの根拠地となるものらしく見受けられます。
「お天狗||鼻高々」なぞいうのは、この気持ちが今一層高潮して現われた場合の形容詞で、鼻が高かろうが低かろうがそんな事は
これに反して「鼻じろむ」というのは、強敵にぶつかって「到底
古い文章なぞに「鼻うちかむ」という言葉があります。これは何かに
「鼻であしらう」というのは
「鼻つき合い」というのは、これが両方からブツカッてスパークを発した場合で、局外者から見るとハラハラするような、面白いような表現を双方から見せ合っているものであります。
「鼻につく」という言葉は、始めのうちは珍らしさに
尚これは少々コジ付けの嫌いがありますが、「鼻ぐすり」という言葉があります。この種の薬を用いるのに何も特別に鼻という文字を担ぎ出さなくともよさそうに思われるのでありますが、実はしっかりした拠り処があるのであります。
つまり相手が兼ねてから見せていた「不賛成」とか「
以上は主として感情から来た鼻の表現の
「鼻を折る」とか「折られる」とかいうのもこれと同様の意味で、こちらの「どうするか見ろ」とかかって行く意気組と共に、先方の同じような突張り返った鼻の表現がタタキ落とされるかヘシ曲げられるかして、「もう堪忍」とか「無念」とかいうセンチメンタルな表現になるのを形容した言葉であります。
「鼻息が荒い」というのは、決して
「鼻っ張りが強い」という言葉は、「五分も引かぬ」「理が非でも勝つ」という意志が鼻っ柱に充実している場合を指す事は明らかであります。見様に依ってはこの表現が如何なる場合にも連続して発揮されるため、その本人の性格の象徴として認められているものとも考えられるのであります。
「鼻息を殺す」という形容詞も同様に鼻の表現の一つとして認められ得るのであります。これは「息を
泥棒や
「鼻息を窺う」というのもこれに似た気分であります。但しこれは相手が人間であって、しかも自分よりも
自分の鼻の表現を一切引き締めて、相手の気分の虚実に乗じてやろう、弱味があったらつけ込もう、強味があったら受け流そう、笑ったら笑ってやろう、泣いたら泣いてやろう、そうして相手を動かしてやろうというので、前に述べました「鼻ぐすり」の代りに掛け引き一つで行こうとする極めて徳用向きな||同時に千番に一番の兼ね
この表現を高潮させるには、先ず自分の性格、意志、感情なぞと同時に
主として性格を表わす分では、前に挙げました「鼻つまみ」の外にもっと主観的な形容の方では「
御知合いの
その証拠には事実上の鼻下長の方でも、随分鼻の下や鼻毛の切り詰まった方が多いのであります。これに反して鼻の下がレッテルの落ちたビール瓶のようにのろりとしていたり、鼻毛が埃を珠数つなぎにする程長かったりする人でも、猛烈に奥様を虐待される方があります。
つまり異性に対して恍惚としていられる方の気持はともかくもダレていて、天下泰平ノンビリフンナリしているところがあります。そのために鼻の付近に緊張味が無くなって、鼻の穴が縦に伸びて中の鼻毛でも見えそうな気分を示すので、これは誠に是非も無い鼻の表現と申し上ぐべきでありましょう。
「鼻毛をよむ」というのは、こうした鼻の表現と相対性を持った言葉であります。但し鼻という言葉が使ってはありますが鼻の表現とは認めにくいので、先ず鼻の表現の副産物といった位の格でありましょう。ただその態度のうちに相手をすっかり馬鹿にし切って鼻毛までも数え得るという冷静さと同時に、
これに反して純然たる性格を代表した鼻の表現の批評に「意地悪根性の鼻まがり、ぬかるみ
「鼻がつまったような奴」という形容詞は
相手が
蓄膿症や
馬鹿囃子
||鼻の動的表現(四)
昔から認められている「鼻の表現」の数々をここまで研究して参りますと、どうしても問題にしない訳に参りませぬのは、「おかめ」と「ヒョットコ」と「天狗」のお面であります。
いずれも子供衆のお相手
これ等のお面の表現の中心になっておりまする三様の鼻の表現は、人間の性格を三つの方面に分解して、その一つ一つの方面を芸術的に誇張された鼻の表現に依って代表させたものと見るのが最も早わかりで面白くて、しかも意味が深長なようであります。
「天狗」はその才能、通力なぞいうものに対する極度の誇りを、その
「何が来ても恐れ入らないぞ、何を持って来ても満足を与えないぞ、おれ様がどんなに
と、虚勢を張った表現をしております。
「おかめ」はこれと正反対に、普通以下に低いその鼻の形でそんなプライドが少しもない心を見せております。同時にその眼は細く波打ち口はすぼまり頬ペタは
「すっかり満足致しておりまする。何もかも勿体ない位面白くておかしい事ばかり。只もう嬉しくて嬉しくて」
という表現を作っております。その表現はそのチョッピリとした鼻の背景として、そうした気分を
然るに「ヒョットコ」となると、その高慢も謙遜もありませぬ。全く明け放しの鼻の表現をしております。
すべてに対して驚いております、不思議がっております、ビクビクしております、うろたえております、ヒョットコヒョットコしております。只色気を見せる鼻毛と、
この三種の仮面はかようにして、いずれもその思い切り誇張された鼻の形に依って、一時的もしくは永久的に現われる人間の性格の三つの傾向を代表させております。
この三種類の鼻の表現が代表する人間の性格の三つの傾向は、大きく云うと人類の文化||小さく云えば個人の性格と非常に深い関係があるのであります。即ち人間の性格は、この三つの
この三つの傾向を自覚というものに依って取り纏めて行くところに人間の性格の向上進展があるので、この三種類の鼻の表現を取り合わせて人間らしい高さと恰好に加減して行くところに、鼻の表現の根本原理が含まれているのではないかと考えられます。その証拠には人間が無自覚であればあるだけこんな鼻の表現に陥り易い。同様に国家や民族がこの三つの傾向のうちのどれかに
こんな風に観察して参りますと、この三つのお面が活躍する「お
かの三つの鼻の表現が、この馬鹿囃子に連れて動きまわる。極めて低級な芸術的価値しかない伝統的な踊りをおどる。そのつまらない単調子さのうちにどことなく騒々しいような、淋しいような||面白いような、
······実は永遠に無自覚な人類生活の悲哀を「鼻の表現」と「馬鹿囃子」に依って象徴した最も哲学的な舞踊劇である、人生もしくは宇宙その物の諷刺である······という事を、舞っているものも見ている人も、知らずにいるのではあるまいかと考えられて来るのであります。
本来無表現
||鼻の動的表現(五)
この
しかし或る一部にはまだこの鼻の表現について疑いを有しておられる方が無いとも限りませぬ。
「それはそんな気がするだけで、コジ付けと云えば云われぬ事もないが」
と考えられる方がおられる事と思います。これはかような方面にあまり興味を持たれぬ方々の云い草でありましょうが、同時に「表現」とか「表情」とかいう方面に特殊の注意を払っておられる人々はかような疑問を挿まれはしまいかと推測されるのであります。
「鼻の表現というのは一種の錯覚に過ぎぬ。顔面の他の部分の表現が鼻を中心として飛び違うために、その十字線が丁度鼻の上に結ばって一種の錯覚を起すものである。
この二つの疑問や反駁は詰るところ同じ意味で、誠に
事実上鼻はヒクヒクと動いたり、時々赤くなったり白けたりする外何等の変化も見えませぬ。
仮りに「鼻の表現というものがあると云うから一つ正体を見届けてやろう」という篤志家があって、他人と向い合った時なぞに相手の鼻ばかりをギョロギョロと見詰めておられたとします。
これに反して眼や口や眉は盛んに活躍します。その表現はその変化の刹那刹那に
しかし鼻はそんな場合でも
······矢っ張り鼻には動的の表現は無い······変化の出来ないものに表現力のあろう筈がない
······あっても他動的で自動的ではないにきまっている······
という事になります。
この観察は悉く
ところがその本来無表現を自認している鼻が、その本来無表現をそのままにあらゆる自動的表現をするから奇妙であります。有意識無意識のあらゆる方面に於ける内的実在もしくはその変化を、如何なる繊細深遠な範囲程度迄も自在に表現し得るから不思議であります。
人間のあらゆる表現を受け持つ顔の舞台面に於て眉や眼や唇なぞが受け持つ役は実に無限と云ってもよろしい程であります。しかしその中にはどうしても鼻でなければ受け持ち得ない役が又どの位あるか
手近い例を挙げましても今までに出て来た······
······鼻をうごめかす······
······鼻にかける······
······鼻じろむ······
······鼻であしらう······
······鼻っ張りが強い······
······鼻毛が長い······
というような感じの中一つでも眼や口に出来るのがありましょうか。
眼尻を下げても鼻毛はよまれぬ人が沢山にあります。
鼻の審判
||鼻の動的表現(六)
時は紀元前千二百三十四年、
埃及国の慣わしと致しまして、人間は死にますとすぐに神の法廷に召されて審判を受けます。即ちその心臓を
ダメス王はその統治する埃及国に於きまして、世界最初の文化の真盛りの時代を作った名王でありました。従ってその鼻の高さは世界最初のレコードを見せておりましたために、特別に天地の諸神の注意を
その時の裁判の情景は、その法廷の記録係タータというものに依って詳細に記録されて今日に伝えられております。これに依って見ますと、鼻の表現的使命は、既に紀元前一千二百余年前に於て明確に決定されているのであります。
タータの記録した象形文字は、次のごとく訳されております。
····························································
正面中央の高座、白雲黒雲の
その左右中段には四十二人の判官が、
下段右側には動的表現界の代表者、
その中央に黄金の鼻輪に繋がれて引き出されたのが、今日の被告ダメス王の鼻で、その背後には同じ王の眉と眼と口と耳とが証人として出廷着座しております。
ダメス王の鼻の前には一基の天秤がありまして、豹の頭を持ったマスピス神が鼻の罪量を計るべく
これ等はすべて、この空前絶後の鼻の裁判開始前の光景であります。
やがて正面上段の白雲黒雲の
「被告ダメス王の鼻は、王の顔面の静的動的両表現界の中央に位し、王の存命中傲然として何等の動的表現をなさむ。王の眼、眉、口等が無量の動的表現を以て王の知徳を国民に知らしむべく努力したるにも拘らず、国民の尊信は悉く王の鼻にのみ集中せり。その状
読み終った判官の一人は厳然としてダメス王の鼻に問いました。
「被告ダメス王の鼻よ、汝に於て
ダメス王の鼻は面倒臭そうに唯一言、
「弁疏無し」
と答えました。
この態度を見た満廷の諸神は、皆驚きの評を発しました。今まで死後の裁判に引き出されて、怖れ
顔を見合わせた判官たちは、次々に立ってダメス王の鼻の訊問を初めました。
問···被告ダメス王の鼻よ、汝は汝自身に静的と動的の両表現界のいずれに属するものと信ずるや。
答···予は両表現界の代表者なり。
問···王の眼、口、眉等は王の生前、各独立してその固有の動的表現をなし得たり。汝は独立して何等かの表現をなし得たる記憶ありや。
答···無し。
問···被告ダメス王の鼻よ。汝は汝自身に非ざればなし得ざる表現として他に認められたるものありや。
答···無限にあり。
問···そは他の顔面表現係の補助を受けてなし得たるものに非ざるなきか。
答···記憶せず。
問···この事に就いて考えたる事なきや。
答···考えてなし得る表現は尽く虚偽なり。生命は刻々に流転す。予はその真実を知るのみ。
問···知りしのみにて表現はせざりしか。
答···記憶せず。
問···王の眼、口等は王の命に依ってその敵手たるキタ人、エチオピア人、アッシリア人、リビア人、又はその愛する女性等に対し屡 虚偽の表現をなせり。而して屡その虚偽なる事を看破されたり。王の本心を知り得る汝は窃 にこれを表現したる事なきや。
答···記憶せず。
問···然からば汝は如何なる能力を自信して王の表現のすべての代表者なりと云うか。
答···予はダメス王の鼻なり。
問···王の動作もしくは静的表現の成果のすべてを盗みしに非ざるか。
答···知ってこれを代表せしのみ。
問···ダメス王は汝が王のすべてを知れる事を知れりや。
答···知らず。
問···何故に知らざるか。
答···自惚 れのために。
問···汝の知り且つ代表せる範囲とは、王自身の有意識界、無意識界、動的表現界、静的表現界のすべてを意味するか。
答···それ以上。
問···王の生前死後の総てを含むか。
答···それ以上。
問···王を中心とする自界他界、宇宙万有、地獄天堂の過去現在未来までもか。
答···それ以上。
問···叱 ! 汝はホリシス神の御前にある事を忘れたるか。
答···ホリシス神が予の前に在るを知るのみ。
問···咄 ! 然らば汝は神なるか。
答···人間の鼻なり。
問···汝の答弁は尽くその真なる事をホリシス神に誓い得るか。
答···誓うに及ばず。
問···言語道断! 何故に。
答···ダメス王の鼻、神の鼻に非ず。
独立只ホリシス神の御機嫌のみは
これに力を得た判官の一人は立ち上って、眉と眼と口と耳の四人の証人に向って、鼻の言葉の
判官は仕方なしに仮りに鼻の答弁を真実と認めて、これに依って検事と弁護士とに罪の有無を論争させる事にしました。
権威と使命
||鼻の動的表現(七)
検事の役目を承わった動的表現界の代表者、
「被告ダメス王の鼻には動的表現があったと認めなければなりませぬ。動的表現界に於ける詐欺行為者と認める訳には参りませぬ。ダメス王の鼻は王の生前に於て眼や口その他の動的表現係より受けたる恩義に
この言葉は又法廷の全部をどよめかすに充分でありました。検事が真先に被告の無罪を主張するという事も空前絶後の一つに数えられたからであります。しかも後半の議論に依って、犢の神が果してダメス王の鼻の弁護をしているものか、していないものかがわからなくなってしまいました。これこそ世界最初の
「ダメス王の鼻の無罪を主張する理由は、左の三ヶ条に尽きております。
第一には、王の鼻が何等かの理由無しに王の顔の真中に存在する筈がないのであります。眼や口なぞいう動的表現役者の真中に取り囲まれながら、悠然として静的表現を守っていられる筈はない。矢張り何等かの動的表現の使命を持っているものと認められなければなりません。
第二には、鼻という言葉を用いなければ説明の出来ない表現が沢山に存在する事であります。便宜上だけでもよろしい。鼻という文字を使わなければ受け取れない表現の形容が
第三には、錯覚でも何でもよろしい、鼻というものの動的表現の可能性を認めなければ、社会風教上その他万事につけて不都合なのであります。すべての鼻に絶対に動的表現が無いとすると、眼や口だけで表わしている意志や感情、性格なぞが全然虚偽であっても、その虚偽である事が永久に判明しないで済む事になるのであります。どんな悪心を蔵している奴でも顔付がニコニコしている以上、その悪人である事が永久に露顕しないで終る事が無いとも限りませぬ。ダメス王の虚偽の表現は、その鼻に依って裏切られていたものと認めた方が、神の
果せる
「動的表現界に於ける鼻の詐欺行為」は、こうして
この巧妙なる論告に対して静的表現界の代表者、月の神は立上りました。冷やかな態度でかような弁護をしました。
「私は鼻の動的表現を認める事が出来ませぬ。最前の審問に於て、ダメス王の鼻は||記憶せず||と云い抜けて、
すべて動的表現をするものは、色か形か何かを動かしていなければなりませぬ。波を切りわけて行く船の
色も形もかえ得ないものは、総て静的表現しか持たないものと考えなければなりませぬ。死物と同様に見なければなりませぬ。牛の鼻も人間の鼻もこの意味に於て死物同様であります。静的表現ばかりしか持ちませぬ。
ダメス王の鼻も同様でなければなりませぬ。王の鼻の表現は、死んでも生きても何等の変化も無い筈であります。色彩を施された王の木像の鼻とすこしも変りが無い筈であります。
この強い、そうして静かな議論は、その一言一句が悉く生と死||動と静の反語ばかりで成り立っている事を並いる神々に認めさせました。同時に鼻は生き物である、神秘世界の産物である、鼻の動的表現は理屈では認められぬ、ただ事実上にのみ存在し得るという事を深く深くうなずかせました。
法廷のそこここに溜息の評が洩れました。月の神はさらに議論を続けました。
「但し、これだけの事実は認められます。ダメス王の鼻が王自身の表現界の王であった事は、
ダメス王の鼻は、王の意志、感情、性格、その他王自身に就て、王の知らない事共までも存じていると申します。しかし、知っているということは、表現し得るという事ではありませぬ。
王の鼻は、その知っている事、感じている事をその臣下たる動的表現係の各大臣に申し付けて表現させました。そうして自分自身の表現であるかの如くに装いました。眼や口には出来ぬ、鼻でなくては到底ここまで深く現わし得ぬものと見られていた表現でも、それは王の鼻が他の表現機関を
王の顔面の総ての表現が、その鼻の表現と認められていた事、恰も埃及国内のすべての出来事が王の責任と認められていた如くでありました。王の全身の表現が、その鼻に依って代表されて他人に受け渡しをされていた事、恰も埃及国の全権が、ダメス王に依って掌握され、ダメス王の名に依って他国と批准交換されていた如くでありました。しかも王は太平楽の裡に無為徒食しておりました。
王の鼻が総ての表現を代表する事が出来たのは、その鼻自身が無表現だからでありました。
王の鼻の動的表現の可能性は、その絶対不動のところにあったのであります。
すべて動的活社会の統一的代表者は、不動的人格の所有者でなければなりませぬ。
同様に動的表現の支配的象徴者は、不動的表現の具有物でなければなりませぬ。
ダメス王の王座はこの如くにして、埃及の国家組織の中心に自ら胚胎した事でありました。
王の鼻の座もこの如くにして、王の顔面の中央に天然自然と開設されたものに相違ありませぬ。
王の鼻の動的表現が無から有を生じた事は、かようにして遺憾なく証明されるのであります。その動的表現の存在はかようにして否定され得るのであります。
その間に何等の不可思議もありませぬ。
何等の予質もありませぬ。
人間の知識では驚異に値するかも知れませぬ。しかし神の国に於いては、不可解の存在は許されませぬ。予質の神秘は認められませぬ」
月の神はかようにしてダメス王の鼻の動的表現能力を絶対に否定して、席に着きました。同時に並居る諸神は悉く絶対に、鼻の動的表現能力を認め得たのでありました。そうしてこの時、月の神と犢の神とが人知れず顔を見合わせてニッコリと笑いました。これを気付いていたのは只記録係タータの神ばかりでありました。
ここに於て四十二名の判官は別室に退いて、一つの判決文を作りました。そうして再び打ち揃って着席の上、中央の二名が立ち上って同音に読み上げました。
「ダメス王は無為徒食せるが故に国家の罪人とは認められざりき。王の鼻も又何等の動的表現を有せざりしという理由のもとに、動的表現界の罪人として認めらるべきものに非ず。その表現界統一の功績は、埃及に於けるダメス王の沿蹟と等しく万人の敬仰礼讃を受くべきものに属す」
次いで鼻はその黄金の鼻輪を除かれまして、正面の天秤の一方に載せられました。マスピス神はその反対の秤に、誠実を表す鳥の羽根を載せて罪の軽重を計量しましたが、左右の秤は物の見事に平均して、今の判決の真実である事を証明しました。
ダメス王の鼻は、ロルス神に導かれて正面の上段、ホリシス神の御前に進み寄りました。ホリシス神はこれを掌の上に招き載せて一同に見せながら、玉音朗かに宣言をされました。
「鼻は人間の神である。人界の動静両表現界を主宰させるために余が代理として遣わしたものである。
独立不動と不羈の向上||は余が秘密に授けた鼻の使命であった。
ダメス王の鼻が、この使命を最もよく発揮して、ここに人類界最高の記録を破り得た事を
人類の文化は
ダメス王の鼻は、魔神ラマムに与えらるべきものでない。
余||ホリシスに与えらるべきものである」
と云ううちにホリシス神はダメス王の鼻を口に入れてムシャムシャと喰ってしまいました。
最前から秤の
満廷の諸神は
····························································
これは三千年前の神の裁判の判決でありますが、これを二十一世紀の今日に於ける鼻の表現の実際に徴して見ると、どんな事になるでありましょうか。
無意識の表現
||鼻の動的表現(八)
三千年前の「タータの記録」に依りますと、鼻は絶対不動という事になっておりますが、今日では多少動いたり色が変ったりする鼻も珍らしくないようであります。これはタータの記録があまりに哲学的に論じてあるためか、又は今日の人類がそれだけに進化したためか、どちらかでなければなりませぬ。
しかしいずれにしましても、鼻が独力を以て動的表現をなし得ない事は先ず事実と認めて差し支えありますまい。鼻がたった一人で如何に色を換え、形を換え、手を変え品をかえて見ても、結局それは何を意味しているのか判然しませぬ。眼だけが細く波打って笑いを見せ、口だけがへの字になって怒りを見せるのとは同日の論でないのであります。
しかし同時に鼻が
ここに於て鼻の表現能力は如何なる哲学、如何なる宗教、如何なる芸術も解決し得ない不可思議その者となって来るのであります。
永久に解決出来ない神秘で、しかも眼前にある明白な事実となって来るのであります。
所詮、鼻は表現界中央の重鎮······表現界のドミナントであります。
偉い人はたった一人でいる時は、宿賃の工面は愚か車の
······御注進御注進、一大事一大事······ナ、何事じゃ······と慌てふためく動的はした役者よりも、舞台の真中に神色自若としている千両役者の方が、はるかに深い感動を見物に与えるようなものであります。
鼻は云わずして云う者以上に云い、泣かずして泣く者以上に泣き、笑わずして笑う者以上に笑い、怒らずして怒る者以上に怒る好個の千両役者であります。
同時に鼻は、他の動的表現係がいくら騒いでいる場合でも、その騒ぎが本物でない限り一切これに関係しない。
眼が表す悲しみや怒り、口が示す喜びや悲しみ、そんな通り一遍、一目瞭然の表現は、鼻には無いと云ってもいい位であります。
鼻の表現はもっと深刻であります。
もっと真率であります。
もっとデリケートであります。
それだけに有意識的に相手に認められ難い。
それだけに無意識的に相手に深い感銘を与えるのであります。
眼や口がその人間の感情や意志を現わして相手の感情を刺激するものならば、鼻はその魂を表して相手の魂に感じさせるものであります。世に云う以心伝心という事は、鼻の存在に依ってその可能性を裏書きされると云っても決して過言ではあるまいと考えられます。
全霊の真相
||鼻の動的表現(九)
鼻はその人の全霊の真相を表明するものであります。そうして最も忠実にこの任務を果しているものであります。
ここまで研究して参りますと、鼻の静的表現なぞは全く問題でなくなって参ります。
その人の本心が喜ばない以上、鼻は決して喜びの色を見せませぬ。そうして内心不平であれば遠慮なくムッとした色を見せ、残念であれば差し構い無しに怨めしい色をほのめかしているのであります。
「
と如何にも
「そう云っとかないと悪いからね」
という気持ちをうごめかしているのであります。
世間への義理や家内への示しのため、親類会議の真中へ一人息子を呼び出して、
「
を云い渡す親達の怒った眼と正反対に涙ぐましい鼻の表現||そこにすっかり現われている千万無量の胸のうちは、その座にいる人々をして道理至極とうなずかせずには
「あの後家さんはいつも呑気そうに気さくな事ばかり云っては人を笑わしているけれど、
と界隈の噂に上るのは、その後家さんの鼻の表現が他人にうつるからであります。心の貞節や人知れぬ涙を決して人に見せまいとする悩みから湧くこの世の淋しさが、まざまざと鼻に現われて来るからであります。
情ない時、しくじった時、困った時、又はギャフンと参った時なぞは、その気持が特に著しく鼻にあらわれるものであります。
「ナアニ。何でもないよ。アハハハ」
と笑いながら、鼻はすっかりしょげている。
「人間到る所青山ありさ」
なぞ達観したような事を云いながら、鼻だけはゲッソリして白茶気ている。甚だしいのになると、何だか
かようにして眼や口なぞが如何に努力をしても、その人間の本心から湧き出して来る感情が鼻の上に現われるのばかりは瞞着する事が出来ないように出来ているのであります。
同様に鼻はその本人の真底の意志を少しも偽らずに表明しているものであります。
意志がグラグラしている以上、鼻は如何なる場合でも決意の
惚れたお方を婿殿にと図星をさされた娘がテレ隠しに、
「
と口では云いながら飛び立つ思いを見せた鼻の表現がある||一方に嫌な男の処へ行けという親の前に両手を突いて
「私はどうでも」
という進まぬ鼻の表情······
「オッと
といった程度の安請合いに対する誠意の有る無しは、その眼よりも口よりも真中でニヤニヤ笑っているところに最もよく現われていなければなりませぬ。
「
と云いながらちっとも頂戴する気にならない気もちは、細く波打つ眼とおちょぼ口との間にありありと見えすいているものであります。
男と死ぬ約束をして奉公先からそれとなく
「
と云われて、
「アイヨ」
と笑った眼つき口もと。その間に云い知れぬ悲しい決意を示す鼻の表現······それがそれとなく気にかかって、
「ああ。無分別な事でも仕出かしてくれなければよいが」
という物思い······。
その他「重々恐れ入りました」という奴の鼻が「今に見ろ」という気ぶりを見せ、「貴方はおえらいですよ」と賞める鼻が「賞めたい事はちっともない」と裏書きし、「
鼻の表現がその本人の意志を偽らないと同様に、その本人の性格を表現する場合でも決してその真相を誤らないのであります。
性格が愚鈍である以上、その鼻の尖端に才気の閃きは決して見る事が出来ないのであります。いくら謹み返っていても性得ガサツ者である限り、鼻は何となくソワソワしているものであります。
「もう私は今度でこりごりしました。ふっつり道楽を思い
と両手を突いて涙をこぼしている息子の鼻が、昔の通りニューとしている。こんなのはテッペンから、
「糞でも喰らえ、この野郎。今度切りが何遍あるんだ。トットと出てうせろ」
とたたき出されます。
「何だ喧嘩だ。喧嘩なら持って来い。俺が相手になってやる。
と大見得を切って立ち上っても、臆病者の鼻の表現は必ず
小田原評定の場合なぞ、真中へ出て理屈をこねまわしている鼻が案外無責任らしく見える一方に、隅っこで黙って聞いている鼻が
こんな例は挙げたら限りも無い事でありますからこれ位で略します。
いずれにしても、鼻が如何に忠実に各種の表現の主役をつとめているものであるか。その補助機関が如何に誤魔化そうとしても鼻の表現ばかりは偽る事が出来ないものであるという事は、右に挙げました実例だけでも一通り説明し尽されている事と信じます。
極めて大掴みに考えて見ますと、鼻以外の表現はその人の
それ以外のものは全部鼻が受け持って表現していると考えてよろしいようで、しかも又この任務は断じて奪う事は出来ないのが原則と認めて差し支えありませぬ。手で撫でても、ハンケチで拭いても、又は別誂えの咳払いをしても、鼻の表現ばかりは掻き消す事も吹き払う事も出来ないのであります。
よく出鱈目や
表現の受け渡し
||鼻の動的表現(十)
▼鼻の表現は眼にも止まらず心にも残らぬ。
▼しかも不断にその人の真実の奥底まで表現してソックリそのまま相手に感銘させている。
▼そして鼻自身は知らん顔をしている。
▼その相手の感銘にこっちの鼻以外の表現で
▼しかし鼻の表現だけは偽る事も誤魔化す事も出来ない。
この事実の如何に一般に認められていないかという事は驚くべきものがあります。それは
同時にこの偽り得る表現と偽り得ない表現とが如何に入れ
「こんな
と番頭さんには云いながら、「欲しいわねえ」という鼻の表現を御主人に振り向けられます。御主人はさり気なく葉巻の煙をさり気なく吹き上げながら、
「そうだなあ」
と鼻だけニッタリとさせて、「ネーアナタ」を期待しておられます。
「その代り柄や色合はしっかり致しておりますから
とか何とか思い切って踏ん込めば、最後の「ネーアナタ」と「止むを得ぬ」とを同時に占領する事が出来るのであります。
「あなたの御蔭で私は起死回生の思いを致しました。
「どう致しまして。
というような会話が如何にもまことしやかに取り換わされます。ところがお礼を云われた方では何だか物足りないような気がしている。
「あいつどうも本当に有難がっていないらしい。世話をして見ると案外軽薄な奴に見える。一寸一杯喰わされたかな」
という一種の不愉快と不安が湧いている。そのような場合はきっと相手の鼻が衷心からの感謝の意を表明していないためで、
「こう云っときゃあ喜ぶだろう。又頼む時にも都合がいいから」
位の有難さしか感じていないその熱誠の度合いがそっくりそのまま鼻の頭に
「お宅に伺いますとついのんびりして
と口では云いながら、内心実はつまらない。長居したくない。ほんの義理で来ているので、うちにはまだ用事がドッサリあるとノツソツしていると、眼や口はニコニコしながら鼻だけどことなくソワソワしております。
デリケートな相手になると
「ホントニ御ゆっくり遊ばせな。お久し振りですから」
とか何とかバツを合わせながら障子の蔭で鼻の頭をイライラさせつつ、急いでゆっくりとお茶やお菓子を出します。
双方のびやかにお茶を
「アノ······では······又」
「アラまあお宜しいじゃ御座いませんか」
と立ち上って玄関へ出る。ここで初めてどちらもホッとした鼻の表現を見せ合いながら、イソイソと出て行かれる。一方はサッサと引込まれるといったような御経験は、特におつとめの
田舎から出てきた叔父さんが天下泰平の長逗留をする。これに閉口した若夫婦が、
「お国のお子さん方は淋しいでしょうね」
と親切そうに云う時の鼻の表現を見損ねた叔父さんは、
「有難う。そのうちに学校が済んだら三人共呼び寄せるかね」
と飛んでもない感謝を表明する事になります。その時に見合わせる若夫婦の鼻の表現······。
「死にたい、死にたい」
と云いながら死にたい気ぶりも見えぬ姑の鼻。どうぞそう願えますなら||と云いたい一パイのところを、
「アレ、又あんな事。後生ですからおっしゃらずに」
と打ち消す嫁の取りなし顔の鼻の表現。そこに起こる明暗
「私はノラ見たいな女が好きだよ」
というキルク抜式の鼻の表現||これに対するお嫁さんがまたエヘヘンと云う見得で、
「私は矢張り乃木大将の夫人式が本当と信じますわ」
と
鼻と実社会
||鼻の動的表現(十一)
こうして鼻の表現は、その大小、深浅、厚薄取り取りをそのままに、無意識の裡に相手に感応させております。相手も又無意識のまま感応に相当する意志や感情を動かしてその鼻に表現しているのであります。
この点に気付かない人が多いのと同比例に、世の中の事が思い通りに行かぬ人が多いらしいのであります。そうしてそこに鼻の表現の使命が遺憾なく裏書きされているのであります。
「おれがこんなにお百度を踏むのに、
「
「
「
なぞよく承わる事でありますが、これはさも有るべき事で、御本人の誠意が無い限り鼻が決してその誠意を裏書きしてくれないからであります。お向う様を怨むよりお手前の鼻に文句をつけた方が早わかりかも知れませぬ。このほか······
「親仁は癪に障るけど、おふくろが可哀相だから帰って来た」
という意気地無しの土性骨。
「奥様がおかわいそう」
という居候のねらい処。
「一ひねりだぞ」
と睨む空威張。
「会いとうて会いとうて」
という空涙。いずれもすっかり鼻に現われて相手の反感を買っているのであります。
しかもこうした鼻の表現の影響は単に差し向いの場合に限られたものではありませぬ。もっと大きな世間的の行事又は社会的の運動||そんなものにも現われて、その如何に偉大深刻なものであるかを切実に証明しているのであります。
「資本家を倒すのは人類のためだ」
と揚言しながら「実はおれ自身のためだ」というさもしい欲求||
「労働運動は多数を
と罵倒しながら「おれの儲け処が貴様達にわかるものか」という
「多数党如何に横暴なりとも正義が許さぬぞ」
という物欲しさ||
「本大臣は充分責任を負うております」
という不誠意||
どれもこれもその云う口の下からの鼻の表現に依って値打ちは付けられて、天下の軽侮嘲弄を買い、同時にその成功不成功を未然に判断させているのであります。
鼻の表現は随分遠方からでも見えるらしいのであります。
議会壇上に立って満場の選良に対して、
「本大臣は本日ここに諸君に
とか何とか音吐朗々とやっております。然るに内心では、
「ヤレヤレ又馬の糞議員共が寄り集まった。
という考えでおりますと、不思議に議場の隅に生あくびを噛み殺す奴が出て来るのであります。御同様に議員さんが立ち上って、
「国家のために政府案に賛成するのだ」
と拳固をふりまわしているのを見ると、
「これも役目だから」
という気持がスッカリ鼻の表現をだれさせているために、「国家のため」という言葉が根っから感動を与えないのがあります。
数万の聴衆を飽かせない大雄弁家でも、
「とにかくおれの演説はうまいだろう」
という気もちを鼻の頭にブラ下げて壇を
「うまいもんだなあ」
という印象だけが残ります。うっかりすると「演説使い」だとか「雄弁売り」||又は時と場合では「偽国士」とか「
喰い詰めた宗教家はよく十字街頭に立ちます。鬚だらけの
「アア天よ。この恵まれざる人々を······」
なぞやっております。しかしその下から、
「皆さん、欲をお離れなさい。そして私に御喜捨をなさい。私が神様に取次いで上げますから」
という情ない心境をその日に焼けた鼻に表現しておりまするために、人々に嘲笑冷視を以て迎えられております。
彼等はこれを知らずして只
「どうぞや、どうぞ」
と言う乞食よりも賢明でないものである事を同時にその鼻が表明しているのであります。
悪魔の鼻
||悪魔式鼻の表現(一)
こうして鼻の表現は絶対に偽る事は出来ないものでしょうか。どんなにうまい口前で如何ように眼や口を使いわけても、それが心にもない事である限りいつも鼻の表現に裏切られていなければならぬ筈のものでありましょうか。喜怒色に表わさずというモットーを文字通りに守り得る程の社交的人物でも、鼻ばかりは常に喜怒を表わしていなければならぬ筈のものでありましょうか。
フットライトの中に浮き出してあでやかに笑いまわる舞姫の鼻の表現のわびしさは、絶対に拭い
鼻の表現は眼や口なんぞと同じように支配する事は絶対に出来ないものと決っているものでありましょうか。
もしこの鼻の表現を自由自在に使いこなして、如何なる出鱈目でも嘘っ八でも決して他人に看破されない位に充実した鼻の表現でもって、その真実である事を裏書きして行く事が出来るものがいるとしたら、その者は如何に恐るべき成功を世渡りの上に博する事が出来るでありましょうか。
如何なる残忍酷薄な奴でもその鼻の表現に、自由自在に熱情の光を輝かす事が出来るものとしたならば、その人間の運命は如何に光明に満ち満ちたものとなり、その人間以外の社会生活は如何に暗黒な不安の
ここに「悪魔の鼻」と題しましたのは、この鼻の表現をある程度まで自由に支配しうる種族が人間社会にかなり沢山に存在しているのを総括して研究し批判して見たいためであります。
一面から申しますれば、眼付きや口もとの表現で他人を欺き得るものはまだ徹底的に欺き得るものとは云えない······悪魔の名を
先ず悪魔の鼻の研究に先だって是非とも研究しておかなければならぬ鼻が一種類あります。それは名優と称する人種の鼻であります。
名優の鼻
||悪魔式鼻の表現(二)
昔から名優と名を付けられた程の人々は、その
泣く時は衷心から泣き、笑う時は腹の底から笑う。怒る時は鼻柱から
これが所謂腹芸という奴で、こうして名優の心の底の変化は腹の底から鼻の頭へ表現されて、自由自在に見物に感動を与える事、
彼等名優がどうしてこのような不可思議な術を弄する事が出来るかという疑問は、昔から既に解決されております。その人物になり切ってしまう||その境界になり切ってしまう||という芸術界の最大の標語がそれであります。
その人物になり切ってしまう||見物の中にいい女がいようと、道具方が不行届であろうと、相手方がまずかろうと、人気があろうと無かろうと、そんな事は一切お構い無しに、すべての娑婆世界の利害損失の観念、即ち自己から離れてしまって、その持ち役の人物の性格や身の上を自分の事と思い込んで
その境界になり切ってしまう||すべての実世間の時間と空間とを脱却して、舞台上の時間と空間に魂の底まではまり込んでしまう。舞台の道具立て、入れかわり立ちかわる役者の表現、そこに移りかわってゆく出来事と気分、そこにしか自分の生命は無いようになってしまう。
実在する悪魔
||悪魔式鼻の表現(三)
然るにここに、この名優式の鼻の表現法を堂々と実世間で御披露に及んで、名優以上の木戸銭や
その主なるものは、毒婦とか色魔とか悪党とか又は横着政治家(政治家でいて横着でないものはあまりありますまいが、ここでは仮りに正真正銘の憂国慨世の士と対照してかく名付けたのであります)とか名づけられる種類であります。この他その商売商売に依っていろいろの悪魔性を帯びた者がいくらもあるに違いありませぬが、ここにはこの四つを代表的なものとして取り扱って見る事に致します。
彼等がその鼻の表現を使いわける代価として望むものはいろいろあります。男女の貞操を手はじめに、金銭、貴金属、衣服、財産、その他何でも······わけても横着政治家となりますとずっと狙い処が大きくなって、名誉権勢、地位人望、利権領土、その他あらゆるものを鼻の表現で釣り寄せようとするのであります。
毒婦とか色魔とかが異性を操る事の自由自在さは全く驚くべきものがあります。
これには引っかけられる側の
「それでは私に死ねとおっしゃるのですね」
と云うと、相手の異性は真青になってしまうのであります。これはその鼻が本当に死にたいという切り詰まった表現をしていると同時に、あなたより他に思う人は無いという気心を裏書きしているからであります。同様に、
「あなたとならばドコマデモ······」
という月並みな文句で相手をグンニャリトロリとさせて
これが少々ハイカラなのになって来ると、
「あなたを恋してはじめて私の卑しいすべてが私をさいなみ初めました」
と告白するその鼻が、その謙遜と誠意とをもって自己のアラを
「私のようなもののためにあなたのような貴いお美しい方の生涯を傷つけるという事はあまりに残酷だと思うと、つい気が引けて······」
と恥じらいを含んだ鼻の表現が、如何に相手の気を引き動かすに充分であるか、そうしてその自尊心をゾッとするまでに満足させるか······。
毒婦、色魔、悪党
||悪魔式鼻の表現(四)
敵は本能寺にあり、相手の生血を吸い取り得れば||相手を丸裸になし得れば||又はどこかに売りこかし得れば、あとは野となれ山となれ||泣こうが
毒婦や色魔は世間を摺れ枯らした結果、すべてに対して捨て鉢であると同時に高を
ですからすべての執着や気がかりを離れて、どんな気もちにでもなる事が出来るのであります。名優と同じように、その境界や場面のうちで最も相手の弱点を捕え得べき感情や意志を腹の底から表現する事が出来るのであります。真そこから泣き、笑い、怒り、怨み、
悪党とても同様であります。彼等は実世間を舞台とし背景として名優の鼻の表現法を行うものであります。
彼等は無言の裡に満腔の涙をその鼻の表現に浮き上らせて、相手の真実の感銘を誘います。彼等は物事が如何に思う壺にはまっても、そんな事はこっちの本旨ではないという、冷然たる鼻の表現を示し得るのであります。
「おれを引き渡すなら引渡せ。そうなりゃあ貴様も地獄の
と度胸をきめた鼻の表現の物凄さは、大抵の向う見ずでも震え上らせずにはおきませぬ。
「思いもかけぬ御
とひれ伏した鼻の表現の神妙さ。一通りのお役人なら一杯喰わされるにきまっております。
彼等の偉大なものになると、泰平の世に何十万石の知行とか何万両の財産とかを手に入れるため、十数年もしくは数十年の間忠実無二の性格を鼻の頭に輝かしつつ明かし暮らす事が出来るのであります。明日こそ毒殺してくれようという当の相手の主人の前に出て、「恐悦至極」の表現を鼻の頭に捧げ奉る事が出来るのであります。
本心を殺して時節を見る事を知らずに正面から諫言をする一刻者の鼻の表現のうちに当然含まれている良心の輝き、主人に対する怨恨、不平、さかしら振り、そのようなものがいろいろ主人の反感を買うのとうらはらに、悪党たちの柔和な、へり下った鼻の表現が着々として成果を収めて行くのは無理もない事であります。
こうして回を重ねた
横着政治家
||悪魔式鼻の表現(五)
横着政治家も
この種政治家は事実でもない事を事実として吹聴して人を驚かしたり、確信も無い事を実際に出来るかのように世間に認めさせたりしなければならぬ場合に数限りなく出合うために、つい有意識無意識の間に鼻の表現の使い方をおぼえ込んでしまうのであります。
老人に会えば「旧式の教育法を復活しない限り国家は滅亡の他ない」と悠然として長大息し、青年と席を同じくしては「日本文化の時代遅れ」を慨然として痛論します。軍人に出会って、世界の帝国主義が事実上に高潮しつつある事を厳然として指摘するかと思えば、社会主義者の顔を見ては、人類社会に於ける形而上と形而下のすべてが宗教、政治、芸術、経済の各方面に亘って民衆化し共産化しつつある事を決然として断言します。
みんなを一所に聞いていると何の事やらさっぱり見当がつきませぬが、相手は皆一人一人に本当だと思って傾聴し感激し共鳴しているのであります。つまり本人はその都度別の人間になって衷心からそう信じて云うから、鼻の頭までも熱誠と確信の光りを
さらに大嫌いの先輩に腹の底からの好意を示し、真誠無双の国士に白い眼を見せ、資本家のノラ息子の人格に絶大の敬意を払い、失脚者の孝行息子を無下に軽侮した鼻の表現を以て迎える。又は有力家の前に堂々たる容儀を整え、金銭の奴隷に下足を揃えて御機嫌を伺う。しかも微塵も鼻の表現をたじろがせずに常に先方に遺憾なき感動を与えるのをお茶の子仕事と心得ているのであります。
彼等は幾度か身の毛も
一、すべてに対する未練、執着、気がかり、気兼ね等から超脱する事
一、すべてを冷眼視し得る度胸で本心のゆらめきを圧迫し去る事
一、如何なる俄 作りの感情、お座なりの意志、間に合わせの信念でも直 に本心一パイに充実させ得るように心掛ける事
といったような術を天然自然と会得しております。猫をこうしてその心にすこしのわだかまりも不安も無しに如何なる場面にでもしっくりと落ち着き合う事が出来るのであります。
どんな気分にでもゆったりと調和し合う事が出来るのであります。
ここに於て······
······鼻の表現はその本心や性格の色彩を現わす。故にその本心や性格を変化させ得るものは、その鼻の表現を支配する事が出来る······
という逆定理が完全に彼等のものとなって来るのであります。この逆定理を応用してその本心を打ち消し、その性格を隠して、鼻の表現をさながらにそれらしく変化させて行く事が出来るのであります。この逆定理を舞台上の修業で手に入れたものは
この悪魔式鼻の表現に威かされたり、感銘したり、共鳴したりする人も又頗る多いように見受けられます。そのままに世の中は
しかしこれを正しい鼻の表現法から見れば、極めて浅薄な皮相的な研究法で、鼻の表現の真諦に入る階梯とはならないのであります。
鼻の表現法の真意義の研究に入るには、先ずその邪道なるものを飽く迄も知り抜いていなければ、その真意義なるものがはっきりとわかりにくいのみならず、却ってこの邪道に陥って又と再び本通りに帰る事が出来ないようになる恐れがあるのであります。
鼻の表現法の邪道なるものは、一度踏み込んでみると中中面白いものであります。大抵の奴はこの邪道でコロリコロリと参る······俗物は色気や欲気で誘い出し、君子はその道を以てこれを欺くといった風に、その効果が眼の前に現われます。どんな場合でもフン詰まらず、如何なる逆境でも順境に引っくり返す事が出来て、世間はどこまでも拡がって行くように見える。とうとうこれに浮されて、一生しんみりした鼻の表現の価値を認めず人間らしいつき合いの味を知らずに、しかも得々として眼をつぶる者さえ
正表現、邪表現
||悪魔式鼻の表現(六)
このような人々は悪魔に一生を捧げ尽した人と云うべきでありましょう。否、虚偽を以て真実を
その
それならそれでもいいじゃないかと功利派の人は云うかも知れませぬが、
鼻の表現研究の面白味はここに到って
最初から只今までズーッと述べて参りました鼻の表現の実例は、これを大別すると二通りになるのであります。
前の方に述べました実例は、主として鼻の表現を支配し得ぬ人々で、これを支配するは愚なこと、そんな表現機関が自分の顔の真中に存在している事すら夢にも気付かずにいた人々がその大部分を占めているのであります。
それからおしまいの方に悪魔式鼻の表現法として挙げましたのは、虚偽であれ何であれ、
ところでこの鼻の表現の支配し得る人々が何故に相手に深い感動を与え得るかと云うと、その眼や口や身ぶりの表現が鼻の表現と悉く一致しているからであります。だから本心からそう云っているように見える。思っているように察せられる。信ぜられる。
だから相手も疑わない。共鳴する。本気になる。とどのつまりが真っ赤な偽ものを真実至誠の者と認めて、身命を惜しまず奉公するという順序になって来るのであります。
個人もしくは民衆を徹底的に動かすものは真情の流露、至誠の発動であるという事は、今衆口の一致するところであります。
本当に喜んでいるものならば、その全身の表現はその上っ面の表現機関たる眼や口や身ぶりはもとより、鼻の表現までも一貫して徹底的に喜んでいる筈であります。
衷心からそう信じているものならば、その鼻の表現は他の表現機関ともろともに徹頭徹尾確信の輝きに満ちていなければなりませぬ。
こうしてその人のすべての表現が鼻のために少しも裏切られていない事が相手にわかった時に初めて、その人の表現が純一であると認められ得るのであります。その人の真剣味や至誠の力が相手を動かし得るものなのであります。
すべての表現の渾然たる一致||それが相手たる個人及び民衆に及ぼす影響の偉大さ||この機微を盗んで或る程度まで成功しているものがかの名優、その他仮りに悪魔式鼻の表現家と名づけた人々であります。
この中でも名優は商売でありますし、その表現は或る意味に於て実社会と直接交渉が無いのでありますから
この種の人々はその最大限度に於て仮りの本心、仮りの性格に依ってその鼻の表現を支配し得るに
如何に徹底した悪魔式の鼻の表現であっても、無欲にして明鏡の如くに澄み切った心||悪魔以上に
何となき疑い
||悪魔式鼻の表現(七)
悪魔はあらゆる霊智の存在を無視し、世間人間を馬鹿にしております。その無視しているところにその本性を看破される原因が存在し、その馬鹿にしているところに馬鹿にされる原因が
更にこれを名優の鼻の表現と比較すれば一目瞭然であります。名優の鼻の表現の根本基調を
鼻の表現はこれ等を飽く迄も如実に写し出します。それは如何に上等の
更にこの事実が相手方の共鳴又は反響の程度に依ってありありと証拠立てられるに到っては、鼻の表現研究に対して無限の興味を感じないわけには参りませぬ。
「人民保護の警官が人民を斬るとはなに事ぞ」
と大道演説壇上で男泣きに泣く人を民衆は神様として担ぎ上げます。しかしこの人のためなら
天下を窺う奸物の部下に就くものは、恩賞に眼がくれた欲張りか
「添われぬ位なら一層死にます」
と親には云いながら、女には土壇場で、
「お前はおれを欺すのじゃあるまいね」
と今一度念を押したくなるのは、その女の鼻の表現の底に横たわる冷やかな或るものに感じている証拠ではありますまいか。
云い寄る男に心は引き付けられながら、親しい学友にそっと手紙を見せて、
「あたしどうしようかと思っているのよ」
と相談をして見るのは、相手の言葉と鼻の表現とにそぐわないところがあるのにいつとなく感じた不安からでありましょう。
悪魔式鼻の表現の苦手は、いつでも
うっかりするといたいけな小児たちまでも、恐るべき苦手となる事が些なくないのであります。家内眷族が
「あの人は嫌い」とか「あの人は嘘
偽った鼻の表現の価値がどれ位のものであるか、同時に鼻がその人の二重三重の底意までも如何にデリケートな程度にまで写し出すものであるかという事は、今まで挙げました例証で
記憶と鼻
||悪魔式鼻の表現(八)
更にこの鼻の表現の邪道||掴ませものの鼻の表現||悪魔式鼻の表現を根本的に裏切り得る一種の鼻の表現があります。
それは人間の記憶に対する鼻の表現であります。
心に暗い記憶が浮かめば、その人の鼻の表現は自然と暗くなって来るものであります。快濶な輝きが見えなくなって、しまいには黙り込んでしまうようになります。甚だしくなると眼までも閉じて、これを打ち消そうと試みる位になります。しかもそうすればする程
明るい記憶が浮んだ場合は、又これと正反対の結果を鼻の表現に現わすという事は、誰しも容易に認め得る事実であります。
鼻はその記憶の深浅、大小、濃淡から、これに対する良心の反映の明暗、厚薄まで一々残る方なく写し出すのであります。
その結果が如何に恐るべき影響を自分以外の者に及ぼし、その影響が如何に自分に反射して来るものであるか、十目の見るところ十指の指すところ、如何に隠しても隠し切れぬものであるか、神様は見通しという因果関係が如何にして出来て来るものであるかという研究は、さらに鼻の表現に新生面を与えるものでなければなりませぬ。
ここに男性というものがあると仮定します。
その男性なるものは極度に婦人を侮辱し蹂躙する事を得意とする性格を持っていると仮定します。その鼻の表現が如何に記憶に支配されて相手の婦人に影響して行くか······。
昨日は女優、今日はウエイトレス、
「あなたは僕の未来の妻です」
と身をふるわせ得る鳥打帽······。
「きっと身受けして本妻に」
と行く先々で嬉しがらせる金鎖······。
或いは又、吾が家の前で今一度口を拭って、
「ああくたびれた。どうも用事が長引いてね······」
と鞄一パイのお土産を
すべて知られてならぬ事は、知られてならぬ場合に限って特別にハッキリと心に浮かむものであります。長い事忘れていた借銭でも、貸した奴の顔を見ると忽ちに思い出すようなもので、まことに生憎千万なものであります。
色事なぞは取りわけても
真剣になろうとすればする程アデな調子になります。
そこでそこいらが何となくクスグッタクなる、コソバユクなる。「ウフン」とか「エヘン」とか「オホン」とか「ウニャムニャ」とかいう誤魔化し気分、又はその当時のモテ加減なぞを思い出して
このような場合には相手の婦人が鼻の研究者でない限り、又は余程の明眼達識の女性でない限り、もしくは特別の注意を男性の表現に払っていない限り気が付かないのが普通であります。しかしこれは有意識にそれと突き止め得ないだけで、無意識的には必ずこの男性の鼻の表現の裡面を往来する怪しい気分に感付いているものなのであります。女がゾッコン惚れ込んでいればいるだけ、この方面に対する神経は緊張しているものであります。
偽表現の影響
||悪魔式鼻の表現(九)
旦那様を信用し切っている奥様でもいつの間にか一件を感付いて御座るというのは、こんな消息があるからであります。
男性が念には念を入れてその隠し事の気ぶりを
このような女性は
二人切りになった時、妙にしおれた様子をしていて、
「どうしたのか」
と尋ねても理由を云わない。あれかこれかと問い詰めた揚句ワッとばかりに泣き出すので、やっとわかるなぞいうのがあります。
もっとヒステリーなのになると、夫の顔を見るたんびに何だか淋しくたよりなくなる。男の顔を見るのが物悲しく心苦しくなる。理屈も何も無いままにこの世が心細くわびしく思われて来て、
「あたしこの頃何だか変なの。あたし一人でいたくて仕様がないの。どうぞ構わないで頂戴」
なぞ云いながら、自分でも何故そんな気もちになるのだかわからない。身に余る晴れやかな男の親切の
「これがヒステリーというものでないかしら」
なぞ考えているうちに、とうとう本物のヒステリーにかかってしまう。かかってから初めて潜在意識を意識して、
「あなたは妾を欺していらっしゃるでしょう」
と正面から開き直り得るような事になるのであります。
こんなのになると、いくら云いわけをしてもあやまっても頑として聴き入れないようであります。眼玉が灰落しのように
鼻の表現の影響の深刻さ、ここに到って実に身の毛も
一方にこうして女性に図星を指された場合、男性はその面目上
「そんな卑しい男と思うか」
とか何とか眼も口も頬も額も、
しかし
馬鹿にされる
||悪魔式鼻の表現(十)
少々余談に亘りますが、男性の中でも夫と名付くる種類の
さもなくとも何か知ら機嫌が悪くて、
ですからしまいには女子供にまで馬鹿にされて、「ソラお帰りだ」とか「又初まった」位にしか扱われぬ事になります。本人もこの程度の成功に満足して、「とにかく一件がバレなければいい」というような情ない日を送る事になります。自分の鼻の表現に呪われた男ほどミジメなものはありませぬ。
その他、自分の良心に対する女性の正面攻撃に出合った場合、男性の執る態度や手段はいくらでもあります。利口なのや馬鹿なの、気の長いのや短いのなぞに依って種々雑多に千変万化しますが、いずれにしても鼻の表現に裏切られる事は免れ得ませぬ。本当に前非を後悔して、
ありとあらゆる男性は、皆申し合せたようにこのお許しの哀願を忌避します。忌避するためにジタバタ致します。知恵のあらん限りを絞って、掛引きのあらん限りを試みます。芝居や小説のタネが尽きませぬ。鼻の表現研究の興味も尽きない事になるのであります。
しかし又世間は御方便なもので、一方から見るとこの鼻の表現の影響は、こう迄厳密に男女関係に当てはまって行きませぬ。
つまり男性ばかりでなく相手の女性の鼻の表現||本心や性格にもいろいろな条件が付いていて、男性の鼻の表現に対する感覚が鈍っているのであります。惚れた弱味や惚れない強味、先入主や後入主、
悪魔式鼻の表現はこの間に活躍して縦横
貞操と鼻
||悪魔式鼻の表現(十一)
近来「男子の姦通罪を認めよ」とか「認めるな」とかいう問題が次第に
現代の社会組織とか、この中に行われる習慣とか、又は一般道徳とかいうものを標準にされる法律では、こんな問題が問題になるかも知れませぬ。市役所に出す婚姻届が絶大の権威を持つ法律では、こんな研究が八釜しい研究材料となるかも知れませぬ。しかし鼻の表現研究の原則から見れば全く問題とするに足りませぬ。研究する事すら馬鹿馬鹿しい位であります。
妻は常に夫に対して純真純美な鼻の表現を見せていなければならぬと同時に、夫は常に妻に対して公明正大な鼻の表現を示していなければなりませぬ。
法律の御厄介にならねばならぬような貞操関係を持つ夫婦は、世間的には夫婦かも知れませぬが、人間的には夫婦でありませぬ。市役所の戸籍面では夫婦かも知れませぬが、鼻の表現上の夫婦関係は消滅しているのであります。そんな事ならば初めから夫婦にならぬ方がよろしい。否、初めから恋をせぬ方がよろしい。生涯
世間に習慣というものを生み出した人間が、その習慣の根本原理に対する無理解のある限り||社会というものを組織した人類が、その社会組織の原則に対する無自覚のある限り||又は異性同士が、「性欲」と「恋」と「愛」とに対して無区別、無分別である限り||さらに突込んで云えば、相手の本心の動き方や性格のかたまり方の美しさよりも、肉体や容貌や挙動なぞの美醜||さらに今一つ突込んで云えば、鼻の表現よりも、鼻以外の表現の方が愛の対象としての価値を定める条件としてより多く重んぜられている限り、男女関係の悲喜劇は永久に地球表面上から絶滅しないのであります。警察に出る捜索願いが絶えないわけであります。船板塀に見越しの松や、売れなくともよい小売店の影は決して世の中から消え失せない道理であります。下等のところでは肉の切り売りをする五燭光の影、上等なのでは良心の卸問屋に輝く百燭光の
つまるところ遺憾ながら、問題は矢張り法律の必要な世界に逆戻りして来るので、結局原則は原則、実際は実際という事になります。親同志で勝手に取り決めた
日本ではまだ戦国時代の婦人邪魔物的観念、封建時代の人間の消費経済や血統保存、又は家庭経済の成り立ちから来た道徳的習慣なぞが残っております。そのために婦人は多少に拘らず束縛されて、貞操を破り難い立場に置かれておりまして、その貞操に対する道徳的習慣は、殆どその良心の鋭敏さ||純潔無垢な恋の発露と一致せねばならぬ位に切り詰められております。道徳の方からは、「貞女両夫に
一面から見れば日本の文化程度は、形而上だけでも婦人の貞操に就いて進歩している、純愛の原則に合致し得る迄に突き
これに対して男性の貞操はさほどに切り詰められておりませぬ。理想化されておりませぬ。道徳も習慣も男性の貞操に関しては、
これに対して近頃「男子の貞操」が問題になりかけて来たのは、誠にさもあるべき事であります。太平楽の並べ合いをする「男女同権」の意味からでなく、家庭和楽のすすめ合いをする「男女同義務」の上から見て||鼻の表現研究の行き方である恋愛至上主義、即ち文化生活向上の意味から見て、取り敢ず
ところが男性の貞操に対する道徳観念、又は性的欲求に対する習慣は、なかなかこれ位の
さながらに漬物の味見でもするように、異性の性愛の芽立ちから
こうして男性なるものは、その愛の第一義を二方面にも三方面にも、
イヤハヤまことに御盛んな事で、容易に寄りつける沙汰ではありませぬ。法律で禁止しようが、社会課で宣伝しようが、救世軍が
只ここに鼻の表現なるものが存在して、かような人類文化の頽廃を随所随時に喰い止めて、悪魔式の表現を片っ端から裏切っているのであります。人間の表現を純真にして、社会生活を純美に導くべく、悪魔式鼻の表現を絶滅すべく、鼻という鼻の一つ
ずっと前にも研究致しましたように、鼻の表現なるものはその持ち主の意志、感情、信念等の変化を表すと共に、その誠意の充実の程度迄も一々細やかに写し出すものでありますが、これが女性に対するとどうなるか。
実意のある無しが、鼻の表現にすっかり現われるという事になります。事実上口先でどんなにうまい事を云っても、実意のある無しは鼻の表現に依ってチャンと相手に感じているので、只相手の神経の鋭敏さ、又は気持ちの静かさに依って、その感じ方に早し遅しがあるだけの違いであります。
如何に大勢の女性を同時に愛し得る男性でも、その相手の一人と差し向いでいる間は常に第一義の愛を求めているものであります。相手が純真純美の愛を捧げて身も魂も打ち込んで来る事を望んでいるものであります。
これは人情の自然、まことに止むを得ないところで、エイ子にはビー子とシー子の存在を秘密にして
要するにこの種の男性は、自分の第二義第三義以下の性愛を以てしても、相手の女性に求むるところのものは、常にその第一義の性愛であります。そのためには自分の愛が、第一義もしくはそれ以上に高潮したものである事を、相手の女性のそれぞれに対してふんだんに示さなければなりませぬ。男性の本心はそこに大きな空虚を感じない訳には行かないのであります。
この空虚が鼻の表現に顕われて、その実意のある無しを証明するのであります。
殊にこの傾向は、意地で世間を振り切ったというような、一種緊張した境地を歩む女性、又は男に飽き果てたという極度の濁りから出た、一種の澄み切った気分を楽しむ婦人、
ここまで来ると鼻の表現の価値の神聖無上さは実に天地の富にも換え難い位で、女性は只男性の鼻の表現のために生きていると云っても差支えないのであります。
「何の二千石君と寝よ」という凄いのが出て来るのもこの理由からであります。
「
ここに到っては如何なる悪魔式表現も倒退三千里||七里ケッパイの外ないのであります。
記憶と鼻
||悪魔式鼻の表現(十二)
人間に記憶というものが存在する限り、如何に古い出来事でも必ずその鼻の表現に影響を与えずには
然るに一般の人々はこんな事を夢にも気付きませぬ。すべての人は他人に見られさえしなければ、どんな悪い事をしてもわからぬものと考えておられるようであります。もっと端的に云えば、世間では腹の悪いものが
これは至極
少くとも現在の社会では心からの正直者が大抵の場合、損をしているように見えます。それと同時に現在偉くなっている人々は、大抵他人を見殺しにしたり、又は他人の精神上や物質上の損害を自分の出世の犠牲にして知らぬ顔をする事の上手な人ばかりであるように見受けられます。だから俺もそうしないと損だというように考えられているようで、男の
「まだ世間知らずだなあ」
なぞと悲観するという。悪魔式鼻の表現研究者の卵は、こうして人間到る処に
これを防止するためには「鼻の表現」の価値と権威とを宣伝するのが一番の近道であります。大きな鼻の絶頂に意志や感情を象徴した五色の旗を立てたポスターなぞは、最も眼新しくて面白かろうとさえ考えられる位であります。いずれにしてもその人間の腹の底にあるものは必ず鼻の表現に現われるのであるという事を、出来るだけ深く明らかに全世界の人類に知らせるのが何より急務であろうと考えられます。
善因善果、悪因悪果、悔い改めよの、心を入れ換えよの、やれ神罰の、仏罰の、天の怒り地の
しかし鼻の表現ばかりはそうは行かぬ。「天に口なし、鼻を以て云わしむる」という事を
「そんな事があるものか」と笑う人の鼻の表現にはきっと負け
鼻の無い方が世間に何人おられるか存じませぬが、そんな方はお気の毒ですからここではイジメませぬ。さもない限りすべての鼻の持主は、正に人類文化の大革命、表現界の大恐慌として狼狽されるに違いありませぬ。
鼻と文化生活
||悪魔式鼻の表現(十三)
悪魔式鼻の表現の弱点をここ迄
鼻の表現は人の心をアケスケに見せるという事はよくわかった。それが又人類文化向上の原動力だという理屈もよくわかった。しかしこの道理を人類全体が自覚したとしたら変な事になってしまいはしないか。
第一自分の鼻がそんな物騒なものだとわかったら、うっかり口も利けなくなる。人類文化の改良どころか社会生活の破滅になりはしないか。
たった一度しか買わぬのに「毎度有難う」と云う商売人、又かと思ういやなお客に「ホントニお久し振りね」と云う芸者、「貴国の軍備縮小に満腔の敬意を払う」と云う外交官、「とんだ御不幸で」と駈け付ける新聞記者、その他到る処の御世辞や御愛嬌は片っ端からフン詰まりになって、人間到る処、篦棒とブッキラ棒のたたき合いになってしまう。そうなれば人類文化の運の尽 ではないか。これを以てこれを見れば、鼻の表現の研究宣伝は不可能である。可能であっても不賛成である。
······と······。第一自分の鼻がそんな物騒なものだとわかったら、うっかり口も利けなくなる。人類文化の改良どころか社会生活の破滅になりはしないか。
たった一度しか買わぬのに「毎度有難う」と云う商売人、又かと思ういやなお客に「ホントニお久し振りね」と云う芸者、「貴国の軍備縮小に満腔の敬意を払う」と云う外交官、「とんだ御不幸で」と駈け付ける新聞記者、その他到る処の御世辞や御愛嬌は片っ端からフン詰まりになって、人間到る処、篦棒とブッキラ棒のたたき合いになってしまう。そうなれば人類文化の運の
······まことに事理明白な次第でありますが、幸か不幸かこの御心配は御無用である事を、
横町の黒犬と竪町の白犬とは初めて曲り角で出会うや否や、
これは畜生同志が初めて出会った時の心理状態を有りのままに見せた表現でありますが、遺憾ながら万物の霊長たる人間にも、この性質を発見する事が出来るのであります。子供ならば、学校が違ったり部落が違ったりすると、ただ訳もなく睨み合います。大人になってもこの心理作用はなかなか消え失せないので、電車の中や汽車の中、その他到る処にこの気分の発露を見受けられますようで······尤も理由なしに咬み合いは始めませんが、一寸足でも踏むか横っ腹でも突くと、何だこの野郎、失敬な奴だという気持になります。甚だしいのになると、それをきっかけに電車の二三台位は訳なく止めるような事になるので、その云い草や理屈が如何に文化的であっても、要するに野蛮時代から潜在的に遺伝して来た動物性の暴露である事は疑いを容れませぬ。
ですから······これでは人類の共同的文化生活は永久に
そこで「ウヌが人間ならオレも人間だ。向うへ行きたけりゃ手前の方からよけて通れ」という鼻の表現を
これを以てこれを見れば、礼儀作法とか御愛嬌や御挨拶なぞというものは、共同生活の本義から割り出された四海同胞主義、それからまた煎じ出された博愛の精神を標準目標として出来たものと考えられます。商売上の掛引にせよ何にせよ、相手に好感を与えねばならぬという人類共通の本心から出たものである事は間違いないようであります。
同時に精神上から見ても物質上から云っても、世間はだんだん実質本位になって来ます。お世辞でも中味のある方がいい。礼式でも無駄なのは廃してしまえというので、精神上物質上充実されたものでなければ人が相手にしなくなるのは当り前であります。
これが次第に拡充されて来ると、当世流行の人類愛迄漕ぎつけます。赤の他人にでも奉仕する。知らぬ人間でも尊敬をする。
鼻の表現研究の主目標は、ここにあるのであります。
この光明に達し得る最上の近道が、鼻の表現の研究に外ならないのであります。
「イヤアどうも。一度是非お伺いしなければならぬとはいつも考えながら、ついどうも」
という鼻の表現の内容が如何に充実していないものであるかという事は、本人自身もよくわかっている筈であります。
「アラチョイト。旦那にはどこかでお眼にかかったようだわ。
という鼻の表現が如何に三十円に値せぬかは、通人ならぬ御客様でも一眼でおわかりの事と存じます。
「お蔭様で助かります」
という
「抵当が欲しけりゃ持って行け」
という
鼻の表現はこうして常にその誠意の有無を裏書して、相手の警戒心を挑発します。「嘘から出たまこと」でも「
親の罪を引き受けて「私が致しました」というしおらしい孝子の鼻の表現と、自分の罪を他人になすり付けて「一向に存じませぬ」と
かようにして鼻の表現は、人間に記憶力なるものが存在する限り法律上の罪悪をも映し出すので、こうなると現代の証拠裁判なぞいうものは甚だ
かようにして法律上の罪悪、又は道徳上の汚行は、その犯行者本人の鼻の表現に依って呪われて行くのであります。この境界を超脱した純正純美なる鼻の表現の持ち主こそ真の紳士、真の淑女と呼ばるべき人々で、人類文化生活の共同的向上は、このような人々に依ってこそ達成せらるべきであります。学識財産、身分の高下、服装の如何等に依ってこの尊号を奉る事が人類堕落の原因である事は説明する迄もないのであります。
輪廻転生
||運命と鼻の表現(一)
その人の個性及び、その個性がその人の修養と経験とで
勇者の鼻は鉄壁をも貫く気合を見せております。智者の鼻は
さもない凡人たちの鼻でも、つつましやかな人の鼻はしおらしく控えております。高ぶった奴の鼻はツンと済ましております。意久地なしの鼻は高くても低く見え、図々しい奴の鼻はヒシャゲていてもニューと
これに対する相手の感じよう、又は世間の反響は、
これを逆に観察致しますと、こうした運命に支配されて、
その人の性格の基礎となるべき個性の
人間性というのは、これが洪積世以後人間にまで進化してから各種の体験に依って作り上げた特性で、こんなのが通有性と固有性とを問わずゴチャゴチャと遺伝されている事は申すまでもありませぬ。そうしてその固有性を基礎として築き上げられたその人の性格は、その鼻の表現に依って他人に反映して、その人の将来の運命を支配すると同様に、その通有性はその人の属する国家、民族の各個人の個性に含まれている通有性と共鳴して、その通有性に適合した社会を組織し、これにふさわしい宗教、芸術、学術、技術を生み、そうしてその国の民族の盛衰消長を支配して行くのであります。
動物性と人間性······固有性と通有性······ただ個性というものの中にも、これだけの複雑広大な因子が含まれております。これがオギャーと生れてから
顔面中央の一肉団······本来不動、無表現の鼻柱はかくしてその人の個性、性格、人格を表明すると共に、父母未生以前の因果、
ずっと前に研究を致しました······
「鼻の表現能力は、その無表現のところに在る······
無から有を生ずるところに在る······
不変不動のまま千変万化するところにある······
造化の妙理、自然の大作用はここにも窺う事が出来る······」
という事実が如何に驚異に値するか······ただ言語道断。気を呑み声を
昔から偉人とか傑士とか、又は苦労人と呼ばれる人々は、多少に拘らず無意識の裡にこの間の消息を飲み込んでおったもののようであります。
「人品骨柄卑しからぬものと見えた。召し抱えよう程に名を問うて参れ」
といったような話があります。この人品骨柄卑しからぬという
如何に経歴を偽っても、又は柔和な人相をしていても、
「此奴油断のならぬ奴」
と思わせるのは、その
戦場
泥水商売に身も心も
この故に大聖孔子は、一野翁老子の前に頭が上らなかったのではありますまいか。
かかるが故に、
骨相学者や運命判断の原理は別としましても、その人の経歴と性格と運命とが、鼻の表現を中心として循環転変して行きつつある事は疑う余地ありませぬ。
この道理は歴史の上にも現われて、成る程と思わせられる事が甚だ多いのであります。
歴史上に活躍する人物の性格と、これに対する群集心理との結合は何に依って成り立っているか。何に依って認められ、何に依って反響を招きつつあるか。
思うてここに到る時、鼻の表現の権威の偉大さに驚かざるを得ないのであります。
世界の歴史は誇張した意味でなしに、鼻の表現の歴史と見て差し支えないのであります。
人類文化の推移は掛け引き無しのところ、鼻の表現の推移と考えられるのであります。
スフィンクス
||運命と鼻の表現(二)
世界歴史の表面に鼻を向けるに先立って、是非一度研究しておかねばならぬのは、前に御紹介致しました世界最古の文明国エジプトはナイル河畔に、数千年の昔から横たわっているスフィンクスの鼻の表現であります。
青藍色に澄み切った大空の
この石像の不可思議が今日迄解決されないままに「
然るにここに注目すべきは、そのスフィンクス像の鼻は偶然か天意か知らず、いつの間にか欠け落ちている事であります。その欠け落ちたのは勿論後世の探検家に発見される以前の事で、本来高かったものか低かったものか、又はどんな恰好をしていたものか、今日からは全く見当のつけようがないのであります。
鼻の表現の研究が世界歴史に触れるに当っては、是非ともこの事実を問題としない訳には参りませぬ。スフィンクスの鼻が欠け落ちているために、如何にそのスフィンクスたる表現を強めているか。スフィンクスの象徴している意味が、如何にスフィンクスられているかということは、「鼻の表現」に与えられた一つの謎語として······人類に与えられた永久に新しい、そうして永久に古い「謎語」として深い注意を払わない訳には参りませぬ。
人類の作った宗教的、哲学的、又は芸術的の芸術品には、そのいずれの一つとして意味の無いものはありませぬ。その中にただ一つ「謎語」と名付けられて残っている、世界最大最古の象徴的芸術品||「彼は彼自身である」という解釈より外に適当な解釈を下された事の無い「謎語」の像||その「謎語」たる彼自身の真面目を標榜しているべきスフィンクスの鼻の表現が、
一方から見ますと、人類進化の道程は先ず
しかし同時に、このデザインを建てた程の芸術家ならば、キットこのスフィンクスの鼻の表現を残しておく事が、永久に人類を鼻の表現に対して無自覚に終らしむる
ここに於てかその芸術家は、この大作品を当時の
いずれにしてもスフィンクスのスフィンクスたる所以は、その鼻の表現が無くなっているところにあります。そこにあらゆる芸術的判断、又は宗教的哲学的の思索を超越した「謎語」としての価値が感得されるのであります。
折れたビナス像の腕を再造するという事は、芸術上の大問題になっております。それ程の文化程度に進んだ現代の人類が、スフィンクスの鼻に対し何等の問題を起こさないという事は更に更に大きな「謎語」ではありますまいか。
スフィンクスは世界の終りまで、鼻を再造してもらう事は出来ないでありましょうか。
クレオパトラ
||運命と鼻の表現(三)
鼻の欠け落ちた大怪像スフィンクスの
「彼女||クレオパトラの鼻が、今
という云い伝えが、もし彼女の鼻の静的表現の高さに就いてのみ解説されたものであるとするならば、どうしても鼻の表現の真相を
クレオパトラは美人の代名詞として今日迄も
シーザーは、はるばる羅馬から彼女を見物に来て、この超世界的の女王の鼻の表現を見ると、そのまま黙って羅馬に帰ってしまったと伝えられております。
傲岸不屈、世界を眼下に見るシーザーの鼻の表現が、如何なる男性をも自己の美と女王としての権威の膝下に屈服せしめなければ措かぬというクレオパトラの鼻の表現と相容れ得なかった事は、想像するに難くありませぬ。
こうして世界の運命は、男性と女性の最高のプライドの鉢合せに依って決せられたのであります。
これに反してアントニーは、彼女の鼻の外面的美的条件を見ただけで、これに惑溺したのだそうであります。そうして引き続いてクレオパトラに愛せられたところを見ると、アントニーの鼻の表現は余程のお人好しか好色漢の色彩を帯びたものであったろうと想像されます。
男性の性格の両面とも云うべき「愛」と「功名」||これを代表したこの二つの鼻の表現が、彼女の鼻に対して結んだ因果関係||それに依って支配された二英雄の運命||それに依って支配された羅馬の将来||それに依って運命づけられた世界の今日||。
それは世界歴史の
クレオパトラとアントニーは、
一方シーザーは、羅馬に於てブルタスの刃に刺されました。これはその鼻の野心満々たる表現が、
人類史と謎語
||運命と鼻の表現(四)
こうして世界歴史の表面を飾る人々の鼻の表現は、人類進化の道程に於ける何等かの意義を象徴して、その時代の人々を導きました。それ等の人々の盛衰興亡に一新紀元を劃し、それ等の人々が作る文化の栄枯消長に一転機を与えました。そうして後世の人々に、何等かの霊的又は物的の暗示を残して行きました。
骸骨の塔の高さを誇る鼻の種族は、敵を見る事草木の如き
版図の大を誇る鼻の一団は、智勇豪邁、気宇万軍を圧する鼻に従ってこれに殉じました。
石から大理石に、大理石から銅に、銅から金銀に、その文化の光明を誇る鼻の群れは、公明聡慧一世に冠たる鼻を仰いでその徳を讃美しました。
現界の富強を
吾れに従う人々の安息の地を求むべく、
精神的にも物質的にも茫々たる不毛の国土を開拓して、隆々たる文化を
高潔
文化的爛熟期に入った列国代表者のデリケートな鼻の表現の間を、新興民族の蛮勇を象徴した鼻の表現で、片っ端から押しわけて行った巨人がありました。
断頭台上に端然として告別の辞を述べ、信念と慈愛の表現を万世に残して、人々の涙を絞らせる美人の鼻がありました。
出しゃばりたい一パイの鼻の表現をふりまわして、数十万の生命を
戦争の惨禍を坐視し得ぬ鼻の表現から、世界的の博愛事業を生み出して、今日まで幾千万の人々をして人類愛に感泣せしめつつある婦人がありました。
天体の推移を睨み詰めつつ、古井戸に落ちた鼻の表現がありました。
徳業にいそしんで九年面壁した鼻がありました。
寡頭政治から民衆政治へ移すべく、街頭に怒号する鼻がありました。
宗乗の誤謬を
形式を破って自由の天地を打開すべく熱狂した鼻がありました。
伝統の文化から個性の文化へ導くべく悶死した鼻がありました。
高い鼻を見ると、無意識にこれを礼拝しました。
大きい鼻に出合うと、無条件でその庇護を受けようとしました。
強い鼻にぶつかると、訳も無くこれに服従しました。
その代り些しでも弱い鼻は圧倒しよう、小さい鼻は併呑しよう、低い鼻は蹂躙しようと、互に押し合いへし合いました。
こうして世界の歴史は芋を洗うように転変し、その文化は雑草のように興亡しました。
····························································
テン テレツク テレツク ツ
テン テレツク テレツク ツ
という囃子に連れて、恐ろしく高い鼻と、
世界歴史の表面を見渡していると、どことなくこんな感じがします。
現代の人類社会の生活を見渡しても、こんな気持ちがして仕方がない時があります。
何だかタヨリナイような||
世界はどこまで行っても、おかめとヒョットコと天狗の踊りに過ぎないものでしょうか。
人類の生活はどこ迄行っても、馬鹿囃子位のものなのでしょうか。
そうして人類の鼻の表現は、行き詰まったところがこの三つの鼻の表現のうちどれかになってしまうよりほかに、仕方がないものでしょうか。
人間というものは、そんなつまらない使命のために生れて来ているものでしょうか。
これは一つの大きな
万有進化と鼻
||運命と鼻の表現(五)
「謎語」という言葉はかの
世界中の鼻の表現のうちで、この鼻の表現研究上の根本的疑問を解決する事が出来るものは、かの鼻の欠け落ちたスフィンクス像よりほかにありませぬ。
スフィンクスは黙ってこの疑問を解決しております。
||頭は人間||
スフィンクスが出現してから二千年以上
||獣から人間へ||
この理屈を説き証したものが進化論と名付けられております。
進化論の説くところに依りますと、この||獣から人間へ||という事は、天地間、ありとあらゆる森羅万象が進化しているという事実の一端を示した事になるのであります。
||無生物から生物へ||
||生物から植物と動物へ||
||植物は||苔から草へ||草から木へ||
||動物は||虫から魚へ||魚から鳥獣へ||鳥獣から人間へ||
皆進化している||
この進化の原動力は「自己の愛護と向上発展」云々||
何だか中等学校のお講義めいて来ましたが、この証明に依ると、何だか宇宙自身にも本来の「自己の愛護と向上進展」があるそうであります。そうしてその進化の方向は、矢張り進化論の説明と同じ方向であるスフィンクスの暗示、
||獣から人間へ||
というのに一致しているのではないかと考えられます。これが宇宙進化の鼻の向うところで、これがスフィンクスの鼻に依って表現されていたのではありますまいか。
昔は交通が不便でありましたために、お釈迦様やイエス様は、その当時の文化の先進国たる埃及へ洋行された事はなかったものと見えます。もしあんな頭のいい人が一度でも埃及へ行ってスフィンクスを見ましたならば、あんな説法の仕方をしなかったであろう、その流れを汲む人々が今日になってあんなに進化論と喧嘩をしなくてもよかったろうにと、今更遺憾に堪えませぬ。
しかしその上に今一つ遺憾な事を云えば、その進化論も、獣から人間が出て来たところまでしか証明しておりませぬ。人間からこんどは何になるかという事に就いては少しも説明を加えておりませぬ。
······スフィンクスもここまでしか暗示しておりませぬ。
「それから先は説明の限りに非ず」
というのか、
「それから先はわからぬ」
というのか、それとも又、
「それから先はおしまい」
というのかわかりませぬ。鼻の表現を隠して知らん顔をしております。そうしてこれを永久の謎語として人類に暗示しつつ、沙漠の方を向いております。
そこでおかめとヒョットコと天狗様とが飛び出して、馬鹿囃子を初めなければならぬ事になります。
スフィンクスから欠き落とされた表現は、数千里を隔てた日本に吹き散って来ました。
そうしてその中からヒョットコとおかめと天狗様が生れたのではないかと思われる位、スフィンクスと馬鹿囃子の関係は密接なものがあるのであります。
まことに
呪われた鼻
||運命と鼻の表現(六)
意地の悪いスフィンクスは
突放された人間がヒョットコでありました。
ヒョットコは見る物毎に驚きました、呆れました。人間の五官の世界が果しもなく広く美しく眩しく荘厳に不可思議なのに肝を潰してしまいました。えらい処へ来たと思いました。大変なものばかりであると思いました。そのために鼻の穴がスッカリ開け放しになってしまいました。
オッカナビックリ歩きまわって見ました。しかしいくら歩きまわっても、只驚くべき怪しむべき事ばかりで、行っても行っても同じ風が吹いているという事だけがわかりました。どこへどう落ち着いて、どんなに日を送っていいか、まるっきり見当がつかなくなりました。
スッカリスフィンクスに馬鹿にされてしまいました。
仕方がないのでヒョットコは、遂に色気と喰い気に逆もどりをしました。昔
姿は人間でありながら、心は昔の獣のまま喰って惚れて生きている||
||絶対の無自覚の姿!
「オホホホホホホ」
とおかめがこれを見て笑い出しました。
「マア、面白い事。おかしい事。
おかめはこうして総てに満足しました。この上に何物も望みませんでした。
人間の五官を備えている事だけに満足し切って、空虚な喜びに生きている||
||消極的の無自覚の姿!
この無知無能に対して、恐ろしく憤慨したのは天狗様でした。
「おれは貴様達のような無自覚なものじゃないぞ。何物にも満足するような無知なものではないぞ。如何なる事でも
こうして総てを眼下に
自覚心があり過ぎて、
そうしてすべてにこの自覚の誇りを宣伝すべく、全世界を飛びまわりはじめました。
||鼻ばかり高く突き出しながら||
||積極的無自覚の姿!
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||おかめとヒョットコと天狗様||この三つはこうして人間の無自覚||スフィンクスの鼻の表現から生まれました。
いずれも絶対の馬鹿の表現であります。
無自覚に
永久にスフィンクスに呪われた姿であります。
子供のオモチャにしかならぬ程度のものであります。
こうなりたくないために||スフィンクスの呪いにかかりたくないために||子供のオモチャにしかならぬ程度の一生を送りたくないために、噴火口や瀑布に飛び込む人すらある位であります。
その他の人々は、しかもそうは考えませぬ。自分の満足するところに満足すりゃいいじゃないかといった調子で、めいめい行き得るところまで行って、これに満足し得意になる。あとは只驚いている。首をひねっている。感心している。喜んだりビクビクしたりしている。こんな鼻の表現がもしあったならば、その持ち主は同時にヒョットコであり、おかめであり、天狗様でなければなりませぬ。
スフィンクスに呪われた人でなければなりませぬ。
鉱物式や植物、動物式の性格
||運命と鼻の表現(七)
スフィンクスは
先ず無生物式に呪われているというのは、変化の無いつめたい石や金属の性質を帯びている鼻の表現であります。
男性では頑冥不霊の石塔の鼻や、微塵も色気の無い石部金吉の鼻、鉄のように頑強な性質、又は銅臭に囚われた人、或は金ピカ自慢の方なぞがこの部類であります。いずれにしても或る硬度にまで凝り固まった融通の利かぬタチで、中には合金や
女性の方でも同様で、めいめいに御自分のプライドを鉱物や金属に思いなして、囚われておいでになるようであります。鉄や銅のように世帯向きの実用式性格を御自慢の向きもあれば、上流向きの銀子さんや金子さんを以て自ら任じておいでになる方もあります。又は御自分を水晶と見ておられる方もあれば、
お次に植物式に囚われた鼻の表現のうちで一番多く見うけるのは、極めて狭い処に極く小さな芽をふいて、チョッピリした枝葉を出して、イササカの花を咲かせ実を結んで満足している鼻であります。
これという実も花も持たぬままに、
梅、桜、牡丹、
しかも植物式の囚われ方をしたものの
「アア、これでやっと眼が
と安心して閑日月を楽しもうという、このような鼻の表現が何となく物足りなく見えるのは、その表現が植物性を帯びているからではありますまいか。そこが人間の有難いところだと眼を細くしている鼻は、草木が茂り栄えるのをためつすがめつしている鼻と同じ鼻ではありますまいか。
いずれにしてもスフィンクスに呪われているには違いないので、ヒョットコの鼻は免れても、おかめの鼻は免れませぬ。
一方にスフィンクスから動物式に呪われている鼻では、こんなのが眼に付きます。
「俺はそんな外面的の誇り、植物式の生活には囚われないのだ。俺を束縛し得るものは無いのだ。おれは物質的に死ぬるとも精神界に活躍したいのだ」
と宗教界、芸術界、哲学界や他の思想界なぞいう様々な霊界に飛び出してはねまわります。鳥のように天空を
こんなのはヒョットコやおかめの鼻は免れても、天狗たる事は免れませぬ。もちろんスフィンクスから動物式に呪われている事は間違いないので、よく天狗の
但しこんなのは
「外面的の生活に囚われた奴は人間の形をした植物である。又内面的な生活に囚われた奴は人間の心から動物に退化した奴である。何ものにも囚われぬ人間たる
彼等は皆悉くおれの用を達しに来た者である。そうしてみんなおれの厄介にならなければ、何の役にも立たない奴ばかりである。生まれた甲斐の無い奴ばかりである。こんな天狗たちは元来おれの同胞であり後輩である。弟子たちである。同時にこんな後輩たちは、それぞれその囚われた鼻の表現で、おれに囚われてはいけない事を身を以て教えてくれたものである。或る意味から云えばおれの家族、分身である。恐ろしく心配をかける奴ばかりである。
けれ共また、飽く迄も可愛い奴である。
沙漠の中の一人ぼっちになるのだ。自滅する外はないのだ。此奴等がいるので、吾々も生き甲斐があるというものである。
それにしても此奴等がみんなおれ位にまでなり得たら、おれもどれ位気が楽になるか知れないがなあ。
||やれやれ||」
と世界を見渡して、羽
こんな大々的の天狗様になると、もう
······いつの間にか世界は、天狗様ばかりになってしまいました。
中でも天狗の原産地たる吾国では、到る処の高山深谷に住んで、
中天狗、小天狗、山水天狗、独天狗、赤天狗、青天狗、烏天狗、
といったようなもの共で、今日でも盛んに江湖専門の道場を開いて天狗道を奨励し、又は八方に爪を
世界のある限り、人間のある限り、天狗の取り付き処はなくなりそうに見えませぬ。
無限大の呪い
||運命と鼻の表現(八)
世界はいつになったら、これ等の呪われたる鼻の表現から救われる事が出来るでありましょうか||
いつになったら馬鹿囃子が止む事でしょうか||
スフィンクスはいつ迄も知らぬ顔をして、茫々たる沙漠を見つめております。
その上には日月星辰が晴れやかにめぐりめぐっております。その下には地球が刻々に零下二百七十四度に向って
||獣から||人間へ||
||人間から······?
スフィンクスは矢っ張り鼻の表現を見せませぬ。依然たる「
吾々人類はどちらに向って進化したらいいでしょうか。
どうしたらいいでしょうか? この驚くべき大きさ||限りない長さを。この美しさ、楽しさ||この不思議さ、怪しさを。この騒々しさ、可笑しさ||この淋しさ、悲しさを。
この長たらしい馬鹿囃子||無味単調な茶番神楽を如何に踊ったらいいでしょうか。
矢っ張りすべてはおかめとヒョットコと天狗の面を離れませぬ。吾々は皆スフィンクスに呪われております。
こうなっては仕方がありませぬ。
吾々は自分の鼻の表現を研究するより他に方法がありませぬ。自分の鼻の表現の起こる源に探りを入れて、その根本を明らめて方向をきめる。そうしてその方向に時々刻々に油断なく進むよりほかに致し方ありませぬ。
うっかり立ち
獣から人間へ||
物質界から精神界へ||
そうして人間から······?······へ
さて又精神界から······?······へ
自分自身がスフィンクスになって||
自分の鼻の表現を研究し完成して||
鼻の表現研究の必要がなくなっても||
これを超越してしまっても||
「アハハハハハハハハハ」
······まだ天狗様が笑っております。
||自覚||自覚||飽く迄も||
||いつ迄も||
そうして、
地球の
鼻の表現を||新しく||新しく||