小野小町に夢の歌の多いのを見て、小町は特に夢を愛したのだと云ふ説があります。私は特に夢を尊重もしませんが、夢見が好いと其日一日の氣分が何となく嬉しく愉快で、心に張りがあり、仕事をするのに勇氣が自然に伴つて、それがために仕事が意外に捗ると云ふやうな經驗は月の中に二三度もあります。反對に夢見が好くないために氣分がくさくさして、何をしても程好く運ばないと云ふやうなことも月に一度ぐらゐはあるやうです。人は或程度まで氣分に支配されることを免れません。
夢の中で歌を詠んで自分ながら面白いと思つたものが、目が覺めてから考へるとお話にならない駄作であつたりすることは私に屡

古人のやうに夢の中で好い歌を感得したやうな經驗は持ちませんが、小説やお伽噺の構想を夢の中で捉へることは屡

それから、また、平生ぼんやりと考へて居ることや、どうして解釋して好いか解らないで行き惱んで居る問題などがはつきりと夢の中で判斷のつくこともあります。さう云ふ場合に夢と現實との間に境目と云ふものが無いやうな氣がします。と云つて、私は夢を少しも當てにして居るのでは無いのですが、小野小町が夢を愛したと云ふ氣持は私にも想像することが出來るやうに思ひます。
私の良人はよくM先生を夢に見ると云つて喜んで居ります。それで斷えずM先生にお目に掛つてお話を承つて居る積りになつて居て、却て久しく先生のお宅へ上ることもせず御無沙汰をして居るのは夢と不精との連合した極端な例ですが、崇拜したり、景慕したりする人を夢に見るのは嬉しいことであつて、支那の聖人が「近頃夢に周公を見なくなつた」と云つて歎かれたのも、全く聖人の實感であつたらうと思はれます。
古代は夢に由つて身の吉凶を判斷する占術者があつて、それを「夢解き」と云ひました。平安朝の初めに應天門を燒いた謀叛人の伴大納言善男がまだ田舍で郡司の從者をして居る程の卑しい身分であつた頃、東大寺と西大寺の塔に兩足を掛けて立つた夢を見て、その事を妻に話すと、無智な妻は「股が裂けるでせう」と云ふやうなことを云ひました。善男は瑞兆の夢だと考へて居たのに、妻の言ひ草を聞いて縁起でも無いと思つて夢解きの名人に占なつて貰ふと、その名人は「非常に吉い夢であるが、惜しいかなよく無い人に喋べつてしまつたので、上運に傷が附いた」と云ひました。果して善男は次第に好運が續いて大納言までに成り上りましたが、後に應天門の事件で失脚して流罪になつたと宇治拾遺物語に書かれて居ります。(これと同じことが藤原師輔に就いての傳説にもあります)また古代には吉い夢を他人が買ふと云ふことがありました。北條政子が妹の見た夢を買つて頼朝を良人にしたと云ふやうなことがその一例です。かう云ふ風に夢を迷信的に尊重する所から、吉い夢を見た時は其れを他人に話してはならない、話すと反對に惡運を招くと云ふやうな習慣までが生ずるに到りました。かうなると「癡人夢を説く」と云ふ痛罵が必要になります。
現代の人は「夢想家」と云ふ語を古臭いやうに云つて、そんな人間は日日に活動して居る實際の社會に一人も居ないやうな口氣を洩します。けれども果して其通りでせうか。人間は誰もまだまだ傳習の夢を見て居て、折々にちよいと目を開いては微かに眞實の一片を見るのでは無いでせうか。