夜の小湊は波打ぎわの万華鏡のなかに、女博物館が開花していた。その夜は湾内に快速巡洋艦アメリカ号が
投錨した夜なので、女達の首にはたくましいヤンキーの水兵の腕がからんでいた。山下界隈の怪しい酒場で
酔泥れた一列の黒奴の火夫達が、最新流行歌をうたって和服の
蠱惑の街に傾いた。
その前日から、小湊のチョップ・ハウスの断髪女を中心にした三つの殺人事件が本牧横町の街を騒がしていた。数日前「Matsu・ホテル」のダンス・ホールでもと吉原の遊女であった中年の
女将が殺害された事件。その翌日、朝鮮の青年が「天界ホテル」の寝室にいた白痴のマリを殺害しようとした未遂事件。「アオイ・ホテル」のお六の亭主が東京郊外で令嬢殺しの疑いで
拘引され、
娼家街のマリアとしてお六のコケットな写真が新聞の三面を賑した事件。
それにもかかわらず、Matsu・ホテルの青い建物では
満艦飾のグロテスクな女が意気で
猥雑なブラック・ボトンを踊り、天界ホテルでは白痴のマリが、薔薇の花の模様のついた着物の裾を危機一髪のところまでまくって、米国水兵のまえでチャルストンをジャズに合せて踊っていた。部屋の片隅にはアオイ・ホテルから小湊へ事件後返り咲いたお六が、
南京刈の男のウィンクに応じて立上るとショートオオダァのために別室に消えた。
そのころ横浜市は、あの上層の
位階にある人の来市を待つために多額の復興資金が庁より付与され、ルネッサンス式の建築の黄金塔のそびえる庁舎を中心にして、外観の美を競うようにグランド・ホテルは白い影を水に映し、鉄筋にかこまれた廻送問屋が古代の面影を失い、万国橋より放射される街路にはエトランゼに投げられる魅惑的な和風の舌が色彩をあたえ、建設を急ぐ生糸市場の
肋骨の下には市を代表する実業家が黒眼鏡に面を俯せていた。しかし
麗屋の市街にもかかわらず内容の空虚は殆んど収拾することのできない
傷手を市民にあたえていた。
数日前、私は弁天町の金銀細工の街をマリとあるいていた。マリは賛沢品の商品窓を感ずると突然競馬馬のように駈けだすのであった。ソウペイ・シルク店ではアル・ヘンティナの
踊着のようなイヴニングを買約すると、マリが私に言った。
「おい
此ドレスなあ。黄に買わして喜ばしてやるんだ。」
「マリ、黄はお前と夫婦になりたいと云ったぞ。」
「毎夜おれが酔って、いびきかいてるうちになあ、
彼奴そんな真似をしているんだよ。」
「よせ、冗談は。黄は子供の頃京城で結婚した女と別れて晴れてお前と夫婦になりたいと真剣だったぞ。」
「よし。こん夜は彼奴の向うずねを蹴ってやる。」とマリは馬のような口をひらいた。
ミミ
母娘美容院では、パーマネント・ウェーブの電流が
蜘蛛の手のように空中にひらいて小柄なスイス公使夫人の黒い髪に巻きついていた。私達は再び丸善薬品本店まで引返して怪しげな英語の名前を云って買物をすると、本町のニューグランド・ホテルの方へあるいて行った。埠頭に
碇泊している船舶のマストにセイラーが双眼鏡をもってよじ登っていた。
「おい、マリ、山下へのみにゆかないか。ただし俺はカイン・ゲルトだ。」
「よせ、やあ。
剃刀を買おうよ。」
「大丸谷のチャブ屋女と間違えられるぞ。」
「ちぇ! 酔ってかいほうさしてやるぞ。こうみえてもなあ、おれは天界ホテルの令嬢マリよ。」
「へん、シンガポールから迎えのこぬうちにくたばっちまえ。」
云いおわらぬうちに毛皮の外套から白い手がでると、私の横顔をたたいて一目散に公園横町から支那街さして駈けだした。山下町の支那語韻の街まで彼女を追跡すると支那劇場の
喧噪な音楽の前でマリは
東洋族を驚かすような音を立てて倒れると、地上を寝床にして唇から泡を吹きながらタヌキ寝人を始めた。支那のフオックス・トロットが劇場の地下室の踊場から聞えてきた。
此界隈はもと
孫逸仙が亡命中の隠れ場所であった。
私が息をきらしてマリに××りになると、彼女の額に接吻して言った。
「マリ。お前乱暴してはよくないぞ。」
すると、彼女はずるそうに白い眼をひらくと、
「ううん、おれがよくなかった。」
「マリ、お前こん夜俺につきあうか。」
「なんでもよくきく。」
私達は腕をくむと、附近の
青天白日旗の
飜っている、支那公使館のまえのインタナショナル・バーの酒卓へ座ると、盃をかちあわした。
卓子におかれたザシカのクンセイのような扮装をして女達がワルツを踊っていた。女将のアレキサンドラは片隅で亭主の
白系露人とポーカーを七枚のカードを並列してやっていた。青い日本服をきた混血児が、なよ/\とした腰に支那人の中学生の腕をからませて踊っていた。もと神戸の元町のボントン・バーにいた、
肥太った女がひどく酔って悪臭を放っていた。ロシア人の老人夫婦が、ロシア・クラシック・オペラの一節を弾じはじめた。
ウォッカの酔いがまわると、マリがアレキサンドラの娘をとらえて
饒舌りだした。
「おい、ナタリー、おまえおれの女房になってくれ。」
「マリ、するとあんたが
妾のダンナさんね。」
「うん、そうだ。」
すると、ナタリーが
眼脂をふいてこたえた。
「わたし、いやです。」
赤い
焔のように、一条の直線がナタリーの頬にふれた。同時にナタリーの悲鳴が爆発して彼女の頬に紅色の液体がながれていた。私は、
酒盃を投げつけて茫然と立っているマリを街路に連れだして車にのせると車体は海岸線を疾風のように走りだした。
「マリ、どうかしたかね。」
「うん、おれはナタリーが好きだ。」
と、彼女は云うと猛然と私におどりかかって、銀色の唾液のなかで二枚の
褪紅色の破片が格闘をはじめた。
暫らく波の音が水上の音楽を私達にもたらした。
天界ホテルのサルーンへ這入ると、有名な五十に近い小柄な舞踏の師匠を取巻いて、コムミニストだというマルクス派の作家らしい男達がひどく酔って女達に愛想をつかされていた。深刻な表情をして酒盃を傾けている黄をマリは見つけると、つか/\と彼のかたわら迄彼女は行くと、少しばかりスカートを捲いてマリは薬品の為にオリーブ色になった唾液を床に吐いた。
「おい、黄。おれはなあ、今夜っきりおまえがやあになったんだ。こん夜っきりおれにかかわらずにおくれ。」
乱暴に床を蹴って部屋から出て行った。
||マリさん、マリさん。と、叫びながら狂気のように黄は彼女の後を追いかけたが、
手擲弾のようなマリの靴を
向脛に見まわれて
跛をひきながら彼は街路に飛出した。野蛮
··················マリを跳ねかえした。波打際の階上のマリの寝室であった。
暁がたちかくふと私は眼覚めた。食べちらされたトーストと玉子の殻と、
鼾をかいて寝ている彼女の黄色い鼻がオレンヂ色に染められていた。カーテンの引かれなかった窓ガラスには、影絵のように狂暴な黄の顔がうつし出され、私の
驚愕に無関心なように黄の手にした挙銃の引金がマリの寝姿に向って引かれた。
私が窓をひらいたときには、階上から転落した黄の姿が小さな尾を海辺にひいていた。再び陽光が火薬のように部屋に這入ってきた。私は相かわらず鼾をかいて寝ているマリが、時々うるさそうに鼾をかくのをみた。するとそこに
微かに弾丸の傷痕が見られた。
私は三面鏡の
抽斗から、
煉白粉をとりだすとマリの鼻を厚化粧してしまった。
お六が南京刈の男と再びサルーンにでてきた。私は彼女の濃厚な紫色の白粉の下に疲労した美しさを感じた。紫色の影をつくる
腋の下に魅力を感じて立あがると、藍色のアブサン酒を彼女のグラスに
注いだ。
黒奴の火夫達の一団がぞろ/\這入ってきた。ジャズ・バンドが開演された。マリと一人の怪偉なニグロがシミー・ダンスを×××をかちあわして踊りだした。マリが時々奇妙なかけ声を発すると、それに合してニグロの男は白色婦人が××で好む一種の奇妙な声をだした。床をがた/\踏み鳴らしながら、マリが私にちかづいてくると、
「おい、おれはおまえがやあになった。」
「マリ、あばよ。」私がさけんだ。
するとマリはくす/\わらいながら黒い男と部屋をでて行った。私は多彩な女の断面図にベールをかけるように
煙草のけむりをふかした。しかしいつのまにか私は女の×のなかにいた。紫色の衣服をつけたお六が、私の肩に手を巻くとそっぽを向いて煙草の黄色いけむりを吐きだした。
私は強烈なアブサン酒をあおると、彼女に言った。
「おい、お六ちゃん。亭主が引ぱられてからの感想が聞きたいよ。」
「そんなこと云わんとおいておくれよ。」
「淋しいかい。」
「淋しくなくてかい。」
「信じているかい。」
「犯罪については妾には分りませんわ。しかしいまになって妾はあの男を愛していたような悲壮な気もちがいたしますわ。」
「ふふん、もっともそんな気もちになって喜んでいるのもおたのしみだね。」
彼女の紫色の影が私を× すると言った。
「ねえ、今夜、妾につきあわない。」
私は明暗の多い女を肩ぐるまにのせて、お六の穴倉のような部屋に彼女を運搬した。
夜が明けると、天界ホテルの海辺に面したダンス・ホールで、マリを先頭にして十三人の娼婦が一列に並んで健康のための体操をはじめたが、何故かお六ひとりその列に見えなかった。