一、西町奉行所
天保八年
丁酉の
歳二月十九日の
暁方七つ
時に、大阪
西町奉行所の門を
敲くものがある。西町奉行所と云ふのは、大阪城の
大手の方角から、
内本町通を西へ行つて、
本町橋に掛からうとする北側にあつた。此頃はもう四年前から引き続いての
飢饉で、やれ
盗人、やれ
行倒と、
夜中も用事が
断えない。それにきのふの
御用日に、
月番の
東町奉行所へ
立会に
往つて帰つてからは、奉行
堀伊賀守利堅は何かひどく心せはしい様子で、急に
西組与力吉田
勝右衛門を呼び寄せて、長い間密談をした。それから東町奉行所との間に
往反して、けふ十九日にある
筈であつた堀の
初入式の巡見が
取止になつた。それから家老
中泉撰司を
以て、
奉行所詰のもの一同に、
夜中と
雖、格別に用心するやうにと云ふ
達しがあつた。そこで門を
敲かれた時、門番がすぐに立つて出て、外に来たものの姓名と用事とを聞き取つた。
門外に来てゐるのは二
人の少年であつた。一
人は東組町
同心吉見九郎右衛門の
倅英太郎、今一人は同組同心
河合郷左衛門の倅
八十次郎と
名告つた。
用向は一大事があつて吉見九郎右衛門の
訴状を持参したのを、ぢきにお
奉行様に差し出したいと云ふことである。
上下共何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。門番は
猶予なく
潜門をあけて二人の少年を入れた。まだ
暁の
白けた光が
夜闇の
衣を
僅に
穿つてゐる時で、
薄曇の空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。
英太郎は十六歳、
八十次郎は十八歳である。
「お奉行様にぢきに差し上げる
書付があるのだな。」門番は念を押した。
「はい。ここに持つてをります。」英太郎が
懐を
指さした。
「お前がその吉見九郎右衛門の
倅か。なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」
「父は病気で寝てをります。」
「
一体東のお奉行所
附のものの
書付なら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」
「西のお奉行様にでなくては申し上げられぬと、父が申しました。」
「ふん。さうか。」門番は
八十次郎の方に向いた。「お前はなぜ附いて来たのか。」
「大切な事だから、
間違の無いやうに
二人で
往けと、吉見のをぢさんが言ひ附けました。」
「ふん。お前は河合と言つたな。お前の
親父様は承知してお前をよこしたのかい。」
「父は正月の二十七日に出た
切、帰つて来ません。」
「さうか。」
門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。吉見の父が少年二人を
密訴に出したので、門番も
猜疑心を起さずに応対して、
却つて運びが好かつた。門番の聞き取つた所を、当番のものが
中泉に届ける。中泉が堀に申し上げる。間もなく堀の指図で、中泉が二人を長屋に呼び入れて、一応取り調べた上
訴状を受け取つた。
堀は
前役矢部駿河守定謙の
後を
襲いで、去年十一月に西町奉行になつて、やう/\今月二日に到着した。東西の町奉行は
月番交代をして職務を
行つてゐて、今月は堀が
非番である。東町奉行
跡部山城守良弼も去年四月に現職に任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、
兎に
角一
日の
長があるので、堀は
引き
廻して
貰ふと云ふ風になつてゐる。町奉行になつて大阪に来たものは、
初入式と云つて、前からゐる町奉行と一しよに三度に分けて市中を巡見する。
初度が
北組、二度目が南組、三度目が
天満組である。北組、南組とは
大手前は
本町通北側、
船場は
安土町通、
西横堀以西は
神田町通を
界にして、市中を二分してあるのである。
天満組とは北組の
北界になつてゐる
大川より更に北方に当る地域で、東は
材木蔵から西は
堂島の
米市場までの間、
天満の
青物市場、
天満宮、
総会所等を含んでゐる。北組が二百五十町、南組が二百六十一町、天満組が百九町ある。予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に
東照宮附近の
与力町に出て、
夕七つ
時には天満橋筋
長柄町を東に
入る北側の、
迎方東組与力
朝岡助之丞が屋敷で休息するのであつた。
迎方とは新任の奉行を迎へに江戸に往つて、
町与力同心の総代として
祝詞を述べ、引き続いて其奉行の在勤中、
手許の用を
達す与力一
人同心二
人で、朝岡は其与力である。
然るにきのふの御用日の朝、月番
跡部の東町奉行所へ
立会に往くと、其前日十七日の夜東組同心
平山助次郎と云ふものの
密訴の事を聞せられた。一大事と云ふ
詞が堀の耳を打つたのは
此時が
始であつた。それからはどんな事が起つて来るかと、
前晩も
殆寝ずに心配してゐる。今
中泉が一大事の訴状を持つて二人の少年が来たと云ふのを聞くと、堀はすぐにあの事だなと思つた。堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した
書付の内容は、
未知の事の発明ではなくて、
既知の事の
証験として期待せられてゐるのである。
堀は訴状を
披見した。胸を
跳らせながら最初から読んで行くと、
果してきのふ
跡部に聞いた、あの事である。
陰謀の
首領、その
与党などの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の
身囲である。堀が今少しく
精しく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、
疑懼、
愁訴である。きのふから気に掛かつてゐる
所謂一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考へながら読むので、
動もすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。はつと思つては又読み返す。やう/\読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐる事の外に、これ
丈の事が残つた。陰謀の与党の中で、筆者と東組与力
渡辺良左衛門、同組同心
河合郷左衛門との三人は首領を
諫めて陰謀を
止めさせようとした。
併し首領が聴かぬ。そこで河合は
逐電した。筆者は正月三日
後に風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を
以て首領にことわらせた。
此体では事を挙げられる日になつても
所詮働く事は出来ぬから、切腹して
詫びようと云つたのである。渡辺は首領の返事を伝へた。そんならゆる/\保養しろ。場合によつては
立ち
退けと云ふことである。これを伝へると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退を共にすると決心したことを話した。次いで首領は
倅と渡辺とを見舞によこした。筆者は病中やう/\の事で訴状を書いた。それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、
取次を頼むべき人が無い。そこで
隔所を
見計らつて
托訴をする。筆者は自分と倅英太郎以下の血族との
赦免を願ひたい。
尤も自分は
与党を
召し
捕られる時には、
矢張召し捕つて
貰ひたい。或は
其間に自殺するかも知れない。
留置、
預けなどゝ云ふことにせられては、病体で
凌ぎ
兼ねるから、それは
罷にして貰ひたい。倅英太郎は首領の立てゝゐる塾で、
人質のやうになつてゐて帰つて来ない。
兎に
角自分と一族とを
赦免して貰ひたい。それから西組
与力見習に
内山彦次郎と云ふものがある。これは首領に
嫉まれてゐるから、保護を加へて貰ひたいと云ふのである。
読んでしまつて、堀は前から
懐いてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の
侮蔑の念を起さずにはゐられなかつた。形式に
絡まれた役人生涯に慣れてはゐても、成立してゐる秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある
返忠を、
真の忠誠だと
看ることは、
生れ附いた人間の感情が許さない。その上自分の心中の
私を去ることを
難んずる人程
却つて他人の意中の
私を
訐くに
敏なるものである。九郎右衛門は一しよに
召し
捕られたいと云ふ。それは
責を引く
潔い心ではなくて、与党を
怖れ、世間を
憚る臆病である。又自殺するかも知れぬと云ふ。それは
覚束ない。自殺することが出来るなら、なぜ
先づ自殺して後に訴状を
貽さうとはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて
還るものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、
入らずに
済めば
入るまいとする筈である。
横着者だなとは思つたが、
役馴れた堀は、
公儀のお役に立つ
返忠のものを
周章の間にも非難しようとはしない。家老に言ひ付けて、少年二人を
目通りへ出させた。
「吉見英太郎と云ふのはお前か。」
「はい。」
怜悧らしい目を見張つて、存外
怯れた様子もなく堀を
仰ぎ
視た。
「父九郎右衛門は病気で寝てをるのぢやな。」
「
風邪の
跡で持病の
疝痛痔疾が起りまして、
行歩が

ひませぬ。」
「
書付にはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」
「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる
迄に
脱けて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞に参つた時の事でございます。それから一しよに塾にゐる河合
八十次郎と相談いたしまして、昨晩
四つ
時に抜けて帰りました。先生の所にはお客が
大勢ありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を
噤んだ。
堀は
暫く待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。「それからどういたした」と、堀が問うた。
「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」
「さうか。」東組与力瀬田
済之助、同小泉
淵次郎の二人が
連判に加はつてゐると云ふことは、平山の
口上にもあつたのである。
堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か。」
「はい。」
頬の
円い英太郎と違つて、これは
面長な少年であるが、同じやうに
小気が
利いてゐて、
臆する
気色は無い。
「お前の父はどういたしたのぢや。」
「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、
火箸で
打擲せられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の
謹之助を連れて、
天満宮へ参ると云つて出ましたが、それ
切どちらへ参つたか、帰りません。」
「さうか。もう
宜しい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。
「いかが取り計らひませう」と、中泉が主人の
気色を伺つた。
「番人を附けて
留め置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。
堀は居間に帰つて不安らしい様子をしてゐたが、
忙しげに手紙を書き出した。これは東町奉行に宛てて、当方にも
訴人があつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、
追附参上すると書いたのである。堀はそれを持たせて
使を出した
跡で、暫く
腕組をして
強ひて気を落ち着けようとしてゐた。
堀はきのふ
跡部に陰謀者の
方略を聞いた。けふの巡見を取り止めたのはそのためである。
然るに
只三月と書いて日附をせぬ吉見の訴状には、その方略は書いてない。吉見が未明に
倅を
托訴に出したのを見ると方略を知らぬのではない。書き入れる
暇がなかつたのだらう。東町奉行所へ訴へた平山は、今月十五日に渡辺良左衛門が来て、十九日の
手筈を話し、翌十六日に同志一同が集まつた席で、首領が方略を打ち明けたと云つたさうである。それは跡部と自分とが与力朝岡の
役宅に休息してゐる所へ
襲つて
来ようと云ふのである。一体吉見の訴状にはなんと云つてあつたか、それに添へてある
檄文にはどう書いてあるか、好く見て置かうと堀は考へて、書類を
袖の中から出した。
堀は不安らしい
目附をして、二つの
文書をあちこち
見競べた。陰謀に対してどう云ふ手段を取らうと云ふ成案がないので、すぐに
跡部の所へ往かずに書面を
遣つたが、安座して考へても、思案が
纏まらない。
併し何かせずにはゐられぬので、文書を調べ始めたのである。
訴状には「
御城、
御役所、
其外組屋敷等火攻の
謀」と書いてある。
檄文には
無道の役人を
誅し、次に金持の町人共を
懲すと云つてある。
兎に
角恐ろしい陰謀である。昨晩跡部からの書状には、
慥な与力共の
言分によれば、さ程の事でないかも知れぬから、
兼て打ち合せたやうに
捕方を出すことは
見合せてくれと云つてあつた。それで少し安心して、こつちから吉田を出すことも控へて置いた。併し
数人の
申分がかう符合して見れば、容易な事ではあるまい。跡部はどうする
積だらうか。手紙を
遣つたのだから、なんとか云つて来さうなものだ。こんな事を考へて、堀は時の移るのをも知らずにゐた。
二、東町奉行所
東町奉行所で、奉行
跡部山城守良弼が堀の手紙を受け取つたのは、
明六つ
時頃であつた。
大阪の東町奉行所は城の
京橋口の外、京橋
通と
谷町との
角屋敷で、
天満橋の
南詰東側にあつた。東は城、西は谷町の通である。南の
島町通には街を隔てて
籾蔵がある。北は京橋通の
河岸で、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。
只庭の
外囲に梅の
立木があつて、少し展望を
遮るだけである。
跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の
密訴した陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、
跡部は東組与力の中で、あれかこれかと
慥なものを
選り抜いて、とう/\
荻野勘左衛門、
同人倅四郎助、
磯矢頼母の三人を呼び出した。
頼母と四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。「あの先生は学問はえらいが、
肝積持で困ります」などと、四郎助が云つたこともある。「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに
激して来て、六寸もある
金頭を頭からめり/\と
咬ん食べたさうでございます」と云つた。それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍
念入にしてゐる。そこを見込んで跡部が呼び出したのである。
さて
捕方の事を言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、
良久しく顔を見合せて考へた上で云つた。平山が
訴はいかにも
実事とは信ぜられない。例の
肝積持の放言を
真に受けたのではあるまいか。お
受はいたすが、
余所ながら様子を見て、いよ/\
実正と知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を
目のあたり見た跡部は、一層切実に
忌々しい陰謀事件が

かも知れぬと云ふ想像に伴ふ、一種の安心を感じた。そこで逮捕を見合せた。
跡部は
荻野等の話を聞いてから考へて見て、平山に今一度一大事を聞いた前後の事を
精しく聞いて置けば好かつたと後悔した。をとつひの夜平山が来て、
用人野々村次平に取り次いで
貰つて、
所謂一大事の
訴をした時、跡部は急に思案して、
突飛な手段を取つた。尋常なら平山を
留め
置いて、陰謀を鎮圧する手段を取るべきであるのに、跡部はその決心が出来なかつた。若し平山を留め置いたら、陰謀者が露顕を悟つて、急に事を挙げはすまいかと
懼れ、さりとて平山を手放して此土地に置くのも
心許ないと思つたのである。そこで江戸で勘定奉行になつてゐる前任西町奉行矢部
駿河守定謙に当てた私信を書いて、平山にそれを持たせて、急に江戸へ立たせたのである。平山はきのふ
暁七つ
時に、
小者多助、
雇人弥助を連れて大阪を立つた。そして
後十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が
邸に着いた。
意志の確かでない跡部は、荻野等三人の
詞をたやすく
聴き
納れて、逮捕の事を
見合せたが、既にそれを見合せて置いて見ると、その見合せが自分の責任に帰すると云ふ所から、
疑懼が生じて来た。延期は自分が
極めて堀に言つて
遣つた。
若し手遅れと云ふ問題が起ると、堀は
免れて自分は免れぬのである。跡部が丁度この
新に生じた
疑懼に悩まされてゐる所へ、堀の
使が手紙を持つて来た。同じ陰謀に就いて西奉行所へも
訴人が出た、今日当番の瀬田、小泉に油断をするなと云ふ手紙である。
跡部は此手紙を読んで突然決心して、当番の瀬田、小泉に手を着けることにした。此決心には少し不思議な処がある。堀の手紙には何一つ前に平山が訴へたより以上の事実を書いては無い。瀬田、小泉が陰謀の与党だと云ふことは、既に平山が云つたので、荻野等三人に内命を下すにも、跡部は綿密な警戒をした。さうして見れば、堀の手紙によつて得た所は、今まで平山一人の
訴で聞いてゐた事が、更に吉見と云ふものの訴で繰り返されたと云ふに過ぎない。これには決心を
促す動機としての価値は
殆無い。
然るにその決心が跡部には出来て、前には
腫物に
障るやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする。これは一昨日の夜平山の
密訴を聞いた時にすべき決心を、今偶然の機縁に触れてしたやうなものである。
跡部は荻野等を呼んで、二
人を
捕へることを命じた。その
手筈はかうである。奉行所に詰めるものは、
先づ刀を
脱して
詰所の
刀架に
懸ける。そこで
脇差ばかり
挿してゐて、奉行に呼ばれると、脇差をも
畳廊下に抜いて置いて、
無腰で
御用談の
間に出る。この御用談の間に呼んで捕へようと云ふのが手筈である。
併し万一の事があつたら切り棄てる
外ないと云ふので、奉行所に
居合せた剣術の師
一条一が
切棄の役を引き受けた。
さて跡部は瀬田、小泉の二人を呼ばせた。それを聞いた時、瀬田は「
暫時御猶予を」と云つて便所に
起つた。小泉は一人いつもの
畳廊下まで来て、脇差を抜いて下に置かうとした。此畳廊下の横手に奉行の
近習部屋がある。小泉が脇差を下に置くや
否や、その近習部屋から一人の男が飛び出して、脇差に手を掛けた。「はつ」と思つた小泉は、一旦手を放した脇差を又
掴んだ。引き合ふはずみに
鞘走つて、とう/\、小泉が手に
白刃が残つた。様子を見てゐた跡部が、「それ、切り棄てい」と云ふと、弓の
間まで踏み出した小泉の
背後から、一条が
百会の下へ二寸程切り附けた。次に右の
肩尖を四寸程切り込んだ。小泉がよろめく所を、右の
脇腹へ
突を一本食はせた。東組与力小泉
淵次郎は十八歳を
一期として、陰謀第一の犠牲として
命を
隕した。花のやうな
許嫁の妻があつたさうである。
便所にゐた瀬田は
素足で庭へ飛び出して、一本の梅の木を足場にして、奉行所の北側の
塀を乗り越した。そして
天満橋を北へ渡つて、陰謀の首領
大塩平八郎の家へ
奔つた。
三、四軒屋敷
天満橋筋長柄町を東に
入つて、
角から二軒目の南側で、
所謂四軒屋敷の中に、東組与力
大塩格之助の
役宅がある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田
青太夫の弟に生れたのを、養父平八郎が
貰つて置いて、七年前にお
暇になる時、
番代に立たせたのである。
併し此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。
玄関を上がつて右が
旧塾と云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を
慕つて寄宿したものがある。左は講堂で、
読礼堂と云ふ
額が懸けてある。その東隣が後に
他家を買ひ
潰して広げた
新塾である。講堂の
背後が平八郎の書斎で、
中斎と名づけてある。それから奥、
東照宮の
境内の方へ向いた
部屋々々が
家内のものの
居所で、食事の時などに集まる広間には、
鏡中看花館と云ふ
額が
懸かつてゐる。これだけの建物の内に
起臥してゐるものは、家族でも学生でも、
悉く平八郎が独裁の
杖の
下に
項を屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる
平の学生に比べて、
殆何等の特権をも有してをらぬのである。
東町奉行所で
白刃の
下を
脱れて、瀬田
済之助が此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を
青天の
霹靂として聞くやうな、平穏無事の
光景ではなかつた。
家内中の
女子供はもう十日前に
悉く
立ち
退かせてある。平八郎が二十六歳で
番代に出た年に雇つた
妾、
曾根崎新地の茶屋大黒屋
和市の娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、
般若寺村の庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇
志摩の二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ
弓太郎を附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ
立ち
退かせたのである。
女子供がをらぬばかりでは無い。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それは
兼て門人の籍にゐる兵庫
西出町の
柴屋長太夫、
其外縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が
失錯をする
度に、科料の
代に父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に
入つてからそれを
悉く運び出させ、土蔵にあつた
一切経などをさへそれに加へて、書店
河内屋喜兵衛、同
新次郎、同
記一兵衛、同
茂兵衛の四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために
難儀する人民に
施すのだと云つて、
安堂寺町五丁目の
本屋会所で、親類や門下生に縁故のある
凡三十三町村のもの一万軒に、一
軒一
朱の
割を
以て配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、
家はがらんとしてしまつた。
今一つ此家の外貌が
傷けられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。
町与力は武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は
玉造組与力
柴田勘兵衛の門人で、
佐分利流の
槍を使ふ。当主格之助は同組同心故人
藤重孫三郎の門人で、中島流の
大筒を打つ。中にも砲術家は大筒をも
貯へ火薬をも製する
習ではあるが、此家では
夫が格別に
盛になつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格之助の師
藤重の
倅良左衛門、孫
槌太郎の両人を呼んで、今年の春
堺七
堂が
浜で格之助に
丁打をさせる相談をした。それから平八郎、格之助の部屋の附近に
戸締をして、塾生を使つて火薬を製させる。
棒火矢、
炮碌玉を作らせる。職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。
火矢の材木を
挽き切つた
天満北木幡町の大工
作兵衛などがそれである。かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。
大筒は人から買ひ取つた
百目筒が一
挺、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人
守口村の百姓兼質商
白井孝右衛門が土蔵の
側の松の木を
伐つて作つた
木筒が二挺ある。
砲車は石を運ぶ台だと云つて作らせた。要するに此半年ばかりの間に、
絃誦洋々の地が次第に
喧噪と雑
とを常とする
工場になつてゐたのである。
家がそんな
摸様になつてゐて、そこへ
重立つた門人共の寄り合つて、
夜の
更けるまで還らぬことが、此頃次第に
度重なつて来てゐる。昨夜は隠居と当主との
妾の家元、
摂津般若寺村の庄屋橋本忠兵衛、
物持で大塩家の生計を助けてゐる摂津
守口村の百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心
庄司義左衛門、同組同心の倅近藤
梶五郎、般若寺村の百姓
柏岡源右衛門、同倅
伝七、
河内門真三番村の百姓
茨田郡次の八人が酒を飲みながら話をしてゐて、
折々いつもの人を
圧伏するやうな調子の、隠居の声が漏れた。平生最も隠居に
親んでゐる此八人の門人は、とう/\屋敷に泊まつてしまつた。此頃は客があつてもなくても、勝手の
為事は、兼て塾の
賄方をしてゐる
杉山三平が、人夫を使つて取り
賄つてゐる。杉山は
河内国衣摺村の庄屋で、何か
仔細があつて
所払になつたものださうである。手近な用を
達すのは、格之助の若党
大和国曾我村生の曾我
岩蔵、
中間木八、
吉助である。女はうたと云ふ女中が一人、
傍輩のりつがお部屋に附いて
立ち
退いた
跡で、
頻に
暇を
貰ひたがるのを、
宥め
賺して
引き
留めてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、
賄方杉山、若党曾我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫
抔がゐたのである。
瀬田
済之助はかう云ふ中へ駆け込んで来た。
四、宇津木と岡田と
新塾にゐる学生のうちに、三年前に来て寄宿し、翌年一旦立ち去つて、去年再び来た
宇津木矩之允と云ふものがある。平八郎の
著した
大学刮目の
訓点を
施した一
人で、大塩の門人中学力の
優れた方である。此宇津木が一昨年九州に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎
西築町の医師岡田
道玄の子で、名を
良之進と云ふ。宇津木に連れられて親元を離れた時が十四歳だから、今年十六歳になつてゐる。
この岡田と云ふ少年が、けさ六つ半に目を
醒ました。職人が多く
入り
込むやうになつてから、随分騒がしい家ではあるが、けさは又格別である。がた/\、めり/\、みし/\と、物を打ち
毀す音がする。しかと聴き定めようとして、
床の上にすわつてゐるうちに、今毀してゐる物が
障子襖だと云ふことが分かつた。それに
雑つて人声がする。「役に立たぬものは
討ち棄てい」と云ふ
詞がはつきり聞えた。岡田は
怜悧な、思慮のある少年であつたが、余り思ひ掛けぬ事なので、一旦夢ではないかと思つた。それから宇津木先生はどうしてゐるかと思つて、
頸を
延ばして見ると、先生はいつもの
通に
着布団の
襟を
頤の下に
挿むやうにして寝てゐる。物音は次第に
劇しくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。
岡田は
跳ね
起きた。宇津木の
枕元にゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。
宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。
「先生。えらい騒ぎでございますが。」
「うん。知つてをる。
己は余り人を信じ過ぎて、君をまで
危地に置いた。こらへてくれ
給へ。去年の秋からの
丁打の
支度が、
仰山だとは
己も思つた。それに門人中の
老輩数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい
素振をする。それを
怪しいとは
己も思つた。
併し己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。
所が君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来て
遣ると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、
独り席を
起つて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お
前方はどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。
己は一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生
良知の学を
攻めてゐる。あれは根本の
教だ。
然るに今の天下の形勢は
枝葉を
病んでゐる。民の
疲弊は
窮まつてゐる。
草妨礙あらば、
理亦宜しく
去るべしである。天下のために
残賊を除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」
「はあ」と云つて、岡田は目を

つた。
「先づ
町奉行衆位の所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を
見損つてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」
「そんなら今
事を
挙げるのですね。」
「さうだ。家には火を掛け、
与せぬものは
切棄てゝ
起つと云ふのだらう。
併しあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し
暇がある。まあ、聞き
給へ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。
己は明朝御返事をすると云つて一時を
糊塗した。
若し
諫める機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ
止まらせよう。それが出来なかつたら、師となり
弟子となつたのが
命だ、
甘んじて死なうと決心した。そこで君だがね。」
岡田は又「はあ」と云つて耳を
欹てた。
「君は中斎先生の弟子ではない。
己は君に此場を立ち
退いて
貰ひたい。挙兵の時期が最も
好い。
若しどうすると問ふものがあつたら、お
供をすると云ひ
給へ。さう云つて置いて逃げるのだ。
己はゆうべ寝られぬから
墓誌銘を
自撰した。それを今書いて君に
遣る。それから京都
東本願寺家の
粟津陸奥之助と云ふものに、己の心血を
灑いだ
詩文稿が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄
下総の
邸へ往つて大林
権之進と云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら
宇津木はゆつくり起きて、机に
靠れたが、
宿墨に筆を
浸して、有り合せた
美濃紙二枚に、一字の
書損もなく
腹藁の文章を書いた。書き
畢つて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。
岡田は草稿を受け取りながら、「
併し先生」と何やら言ひ出しさうにした。
宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。
手に草稿を持つた
儘、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。
「先生の
指図通、宇津木を
遣つてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き
馴れた門人
大井の声である。
玉造組与力の
倅で、名は
正一郎と云ふ。三十五歳になる。
「
宜しい。しつかり
遣り
給へ。」これは
安田図書の声である。
外宮の
御師で、三十三歳になる。
岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」
「
好い。君早く逃げてくれ給へ。」
「
併し。」
「早くせんと駄目だ。」
廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を
懐に
捩ぢ込んで、机の所へ
小鼠のやうに走り戻つて、鉄の
文鎮を手に持つた。そして
跣足で庭に飛び下りて、
植込の中を
潜つて、
塀にぴつたり身を寄せた。
大井は
抜刀を手にして新塾に
這入つて来た。先づ
寝所の
温みを
探つてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち
留まつた。
暫くして便所の戸に手を掛けて開けた。
中から
無腰の宇津木が、
恬然たる態度で出て来た。
大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀を
構へながら
言分らしく「先生のお
指図だ」と云つた。
宇津木は「うん」と云つた
切、
棒立に立つてゐる。
大井は
酔人を虎が
食ひ
兼ねるやうに、
良久しく立ち
竦んでゐたが、やう/\思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて
真甲を
目掛けて切り
下した。宇津木が刀を受け取るやうに、
俯向加減になつたので、
百会の
背後が
縦に六寸程骨まで切れた。宇津木は
其儘立つてゐる。大井は少し
慌てながら、二の
太刀で宇津木の腹を刺した。刀は
臍の上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は
背後へ押し倒して
喉を刺した。
塀際にゐた岡田は、宇津木の
最期を見届けるや
否や、塀に沿うて
東照宮の
境内へ抜ける非常口に駆け附けた。そして
錠前を
文鎮で
開けて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。
五、門出
瀬田済之助が東町奉行所の危急を
逃れて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、
明六つを少し過ぎた時であつた。
書斎の
襖をあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の
与党、その
外中船場町の医師の
倅で
僅に十四歳になる松本
隣太夫、
天満五丁目の商人阿部
長助、
摂津沢上江村の百姓
上田孝太郎、
河内門真三番村の百姓
高橋九右衛門、河内
弓削村の百姓
西村利三郎、河内
尊延寺村の百姓
深尾才次郎、
播磨西村の百姓
堀井儀三郎、
近江小川村の医師
志村力之助、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は
茵の上に
端坐してゐた。
身の
丈五尺五六寸の、
面長な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い
眉は
弔つてゐるが、
張の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い
額に
青筋がある。
髷は短く
詰めて
結つてゐる。
月題は薄い。一度
喀血したことがあつて、口の悪い男には
青瓢箪と云はれたと云ふが、
現にもと
頷かれる。
「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。
「さうだらう。
巡見が
取止になつたには、
仔細がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の
所為だ。」
「小泉は
遣られました。」
「さうか。」
目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。
平八郎は一座をずつと見わたした。「
兼ての
手筈の通りに打ち立たう。棄て置き
難いのは宇津木一
人だが、その処置は大井と安田に任せる。」
大井、安田の二
人はすぐに
起たうとした。
「まあ待て。打ち立つてからの順序は、
只第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢや。」第一段とは朝岡の家を
襲ふことで、第二段とは
北船場へ進むことである。これは
方略に
極めてあつたのである。
「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を
顧みると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた
柏岡伝七と、
檄文を配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした
建具を
奥庭へ運び出す音がし出した。
平八郎は
其儘端坐してゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに
萌芽し、いかに生長し、いかなる曲折を
経て今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。
己が自分の
材幹と
値遇とによつて、
吏胥として
成し
遂げられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた
天保元年は泰平であつた。民の
休戚が
米作の
豊凶に
繋つてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に
稍常に復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に
螟虫が出来る。
海嘯がある。とう/\去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は
大風大水があり、東北を
始として全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述に
専にして、
古本大学刮目、
洗心洞剳記、同
附録抄、
儒門空虚聚語、
孝経彙註の刻本が次第に完成し、
剳記を富士山の
石室に
蔵し、又
足代権太夫弘訓の
勧によつて、宮崎、林崎の両文庫に
納めて、学者としての
志をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を
塞いで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に
平かなることが出来なかつた。
賑恤もする。
造酒に制限も加へる。
併し民の
疾苦は増すばかりで減じはせぬ。
殊に去年から与力内山を使つて東町奉行
跡部の
遣つてゐる
為事が気に食はぬ。
幕命によつて江戸へ米を
廻漕するのは好い。
併し
些しの米を京都に
輸ることをも
拒んで、
細民が大阪へ
小買に出ると、
捕縛するのは何事だ。
己は王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。
上の
驕奢と
下の
疲弊とがこれまでになつたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以て
推せば、これが
人世必然の
勢だとして
旁看するか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を
誅し富豪を
脅して其
私蓄を散ずるかの三つより
外あるまい。
己は此不平に甘んじて
旁看してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために
謀つてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\
誅伐と
脅迫とによつて事を
済さうと思ひ立つた。
鹿台の財を発するには、
無道の
商を
滅さんではならぬと考へたのだ。己が意を
此に決し、
言を
彼に
託し、格之助に
丁打をさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を
逐うて加はつても、準備の
捗つて行くのを顧みて、
慰藉を
其中に求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に
逡巡する
怯もないが、又
踊躍する
競もない。準備をしてゐる久しい間には、
折々成功の時の光景が
幻のやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に
頭を
叩く金持、それから
草木の風に
靡くやうに
来り
附する諸民が見えた。それが近頃はもうそんな
幻も見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、
高井殿に信任せられて、
耶蘇教徒を逮捕したり、
奸吏を
糺弾したり、破戒僧を
羅致したりしてゐながら、老婆
豊田貢の
磔になる所や、
両組与力弓削新右衛門の切腹する所や、
大勢の坊主が
珠数繋にせられる所を
幻に見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、
己の胸には一度も
疑が
萌さなかつた。今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が
先づ
恣に動いて、
外界の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、
何時でも用に立てられる
左券を握つてゐるやうに思つて、それを
慰藉にした
丈で、
動もすれば其準備を永く準備の
儘で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の
捗つて来たのは、事柄其物が自然に
捗つて来たのだと云つても好い。
己が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を
拉して走つたのだと云つても好い。一体
此終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。
平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に
捗つて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、
受持々々の
為事をする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を
討ち
果したとか、今
奥庭に積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、
其度毎に平八郎は
只一目そつちを見る
丈である。
さていよ/\
勢揃をすることになつた。場所は
兼て東照宮の
境内を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の
錠前の
開いてゐたのを知つた。行列の
真つ
先に押し立てたのは救民と書いた四
半の
旗である。次に中に
天照皇大神宮、右に
湯武両聖王、左に
八幡大菩薩と書いた旗、五七の
桐に二つ
引の旗を立てゝ行く。次に
木筒が二
挺行く。次は大井と庄司とで
各小筒を持つ。次に格之助が
着込野袴で、
白木綿の
鉢巻を
締めて行く。
下辻村の
猟師金助がそれに引き添ふ。次に
大筒が二挺と
鑓を持つた
雑人とが行く。次に
略格之助と同じ支度の平八郎が、
黒羅紗の羽織、
野袴で行く。
茨田と杉山とが
鑓を持つて左右に随ふ。
若党曾我と
中間木八、
吉助とが
背後に附き添ふ。次に
相図の太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等
重立つた人々で、
特に平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同
着込帯刀で、多くは
手鑓を持つ。
押へは
大筒一
挺を
挽かせ、
小筒持の
雑人二十人を随へた瀬田で、
傍に若党
植松周次、中間
浅佶が附いてゐる。
此総人数凡百余人が屋敷に火を掛け、
表側の
塀を押し倒して繰り出したのが、朝五つ
時である。
先づ主人の出勤した
跡の、
向屋敷朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、
天満橋筋の
長柄町に出て、南へ
源八町まで進んで、
与力町を西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、
迂回して
船場に向はうとするのである。
六、坂本鉉之助
東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の
与力同心を随へて来た。
跡部は堀と相談して、
明六つ
時にやう/\三箇条の
手配をした。
鈴木町の代官
根本善左衛門に
近郷の
取締を托したのが一つ。
谷町の代官池田
岩之丞に
天満の東照宮、
建国寺方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力
大西与五郎が
病気引をしてゐる所へ
使を
遣つて、
甥平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして
長柄町近くへ往くと、もう大塩の
同勢が繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ
奔り、又
懼れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。
大西へ
使を
遣つた
跡で、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した
捕手を大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、
天満に火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。
捕手は
所詮近寄れぬと云つて帰つた。
両奉行は鉄砲奉行
石渡彦太夫、
御手洗伊右衛門に、鉄砲同心を借りに
遣つた。同心は二
人の部下を
併せて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、
玉造口定番遠藤
但馬守胤統に加勢を願つた。遠藤は公用人
畑佐秋之助に命じて、玉造組与力で
月番同心支配をしてゐる坂本
鉉之助を
上屋敷に呼び出した。
坂本は
荻野流の砲術者で、けさ
丁打をすると云つて、門人を城の
東裏にある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い
大番所へ出た。そこに月番の玉造組
平与力本多為助、
山寺三二郎、小島
鶴之丞が出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の
所為だと告げた。これは大塩の屋敷に
出入する猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡
翁助に告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に
総出仕の用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は
上屋敷へ呼ばれたのである。
畑佐の伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の
旨を答へて、上屋敷から大番所へ廻つて
手配をした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、
小頭の与力二人には
平与力蒲生熊次郎、本多
為助を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人
宛出すことにした。集合の場所は
土橋と極めた。京橋組への伝達には、当番与力
脇勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。
手配が済んで、坂本は
役宅に帰つた。そして
火事装束、
草鞋掛で、
十文目筒を持つて
土橋へ出向いた。
蒲生と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた
畑佐は、
跡部に二度催促せられて、京橋口へ
廻つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一
人を
留めて置いて、集合地を発した。
堀端を西へ、東町奉行所を
指して進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。
坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡
助之丞と西組与力近藤三右衛門とが応接して、
大筒を用意して
貰ひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の
区々なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて
蒲生を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口
定番所へ遣つた。昼
四つ
時に跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した
北手の展望を害する梅の木を
伐ること、
島町に面した南手の
控柱と松の木とに丸太を結び附けて、
武者走の板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。
坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が
長柄町から南へ
迂廻したことを聞いた。そして
杣人足の一組に
天神橋と
難波橋[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]との橋板をこはせと言ひ付けた。
坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配
広瀬治左衛門、
馬場佐十郎に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口
定番米津丹後守昌寿が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が
預りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて
承らうと云つた。
広瀬は
雪駄穿で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、
原来お
互に
御城警固の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の
思召が分かり兼ねます。
貴殿はどう考へられますか。」
坂本は目を

つた。「
成程自分の役柄は
拙者も心得てをります。
併し
頭遠藤殿の
申付であつて見れば、
縦ひ
生駒山を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の
通拙者は
打支度をいたしてをります。」
「いや。それは
頭御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の
下知を
受るやうなわけで、体面にも
係るではありませんか。先年
出水の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の
御城警固の者を貸すことは相成らぬと
仰やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」
「それは御同意がなり兼ねます。
頭の
申付なら、拙者は誰の
下にでも附いて働きます。その上
叛逆人が起つた場合は
出水などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で
上屋敷へお
出になつて下さい。」
「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し
出しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」
「
已むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」
「
然らばお
暇しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。
そこへ京橋口を廻つて来た
畑佐が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、
暫くして同心三十人を連れて来た。
併し自分は矢張
雪駄穿で、
小筒も何も持たなかつた。
坂本は庭に出て、今工事を片付けて
持口に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ
跡部は、
相役堀を城代
土井大炊頭利位の所へ報告に
遣つて置いて、書院から降りて来た。そして
天満の火事を見てゐた。強くはないが、方角の
極まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる
西南の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか/\こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。
七、船場
大塩平八郎は
天満与力町を西へ進みながら、平生
私曲のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、
夫婦町の
四辻から
綿屋町を南へ折れた。それから天満宮の
側を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、
兼て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた
近郷の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に
馳せ加はつたものの中に、砲術の
心得のある
梅田源左衛門と云ふ彦根浪人もあつた。
平八郎は天神橋のこはされたのを見て、
菅原町河岸を西に進んで、
門樋橋を渡り、
樋上町河岸を
難波橋の
袂に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた
杣人足が、今難波橋の橋板を
剥がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は
抜身の
鑓を見て、ばら/\と散つた。
北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、
北船場に
簇がつてゐるので、もう
悉く
指顧の
間にある。平八郎は
倅格之助、瀬田以下の
重立つた人々を呼んで、
手筈の
通に取り掛かれと命じた。北側の
今橋筋には
鴻池屋善右衛門、
同庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の
大商人がゐる。南側の
高麗橋筋には三井、
岩城桝屋等の
大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう
脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと
抔は、
一々方略に
取り
極めてあつたので、ここでも
為事は自然に発展した。只
銭穀の
取扱だけは全く予定した所と相違して、
雑人共は身に
着られる
限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち
退いてしまつた。
鴻池本家の
外は、大抵
金庫を破壊せられたので、今橋筋には
二分金が道にばら
蒔いてあつた。
平八郎は
難波橋[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]の
南詰に
床几を立てさせて、白井、橋本、其外
若党中間を
傍にをらせ、腰に附けて出た
握飯を
噛みながら、砲声の
轟き渡り、
火焔の
燃え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した
枯寂の
空を感じてゐた。昼八つ
時に平八郎は
引上の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやう/\百五十人
許りであつた。その
重立つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を
懲すことは出来たが、窮民を
賑すことが出来ないからである。
切角発散した
鹿台の財を、
徒に
烏合の衆の
攫み取るに任せたからである。
人々は黙つて平八郎の
気色を
伺つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。
暫くして瀬田が「まだ
米店が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を
揺り
覚されたやうに
床几を
起つて、「
好い、そんなら
手配をせう」と云つた。そして
残の
人数を
二手に分けて、自分達親子の一手は
高麗橋を渡り、瀬田の一手は
今橋を渡つて、
内平野町の
米店に向ふことにした。
八、高麗橋、平野橋、淡路町
土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、
跡部に土井の
指図を伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。
「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と
玉造組とを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた
儘すわつてゐた。
堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや
否や、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に
小筒を持たせて来てゐた。
「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら
先手に立て」と堀が号令した。
同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の
詞を聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き
纏めて、西組与力同心の前に立つた。
堀の手は
島町通を西へ
御祓筋まで進んだ。丁度大塩
父子の
率ゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に
白旗が見えた。
「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
広瀬が同心等に「打て」と云つた。
同心等の持つてゐた三
文目五
分筒が
煎豆のやうな音を立てた。
堀の乗つてゐた馬が驚いて
跳ねた。堀はころりと馬から
墜ちた。それを見て同心等は「それ、お
頭が打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は
馬丁に馬を
牽かせて、
御祓筋の
会所に
這入つて休息した。部下を失つた広瀬は、
暇乞をして京橋口に帰つて、同役馬場に
此顛末を話して、一しよに東町奉行所前まで来て、
大川を隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。
御祓筋から高麗橋までは三丁余あるので、三
文目五
分筒の射撃を、大塩の
同勢は知らずにしまつた。
堀が出た
跡の東町奉行所へ、玉造口へ往つた
蒲生が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を
言上すると、遠藤は岡
翁助に当てて、
平与力四人に大筒を持たせて、目附
中井半左衛門方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百
目筒を一
挺宛、脇勝太郎、
米倉倬次郎に三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ
遣つた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。
跡部は坂本が手の者と、今到着した与力四人とを
併せて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、
内骨屋町筋を南に折れ、それから
内平野町へ出て、再び西へ曲らうとした。
此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが
東横堀川の
東河岸に落ち合つて、南へ
内平野町まで押して行き、
米店数軒に火を掛けて
平野橋の
東詰に引き上げてゐた。さうすると
内骨屋町筋から、
神明の
社の角をこつちへ曲がつて来る
跡部の
纏が見えた。二町足らず隔たつた
纏を
目当に、格之助は
木筒を打たせた。
跡部の手は停止した。与力
本多や同心
山崎弥四郎が、坂本に「打ちませうか/\」と催促した。
坂本は敵が見えぬので、「待て/\」と制しながら、
神明の
社の角に立つて見てゐると、やう/\烟の中に
木筒の口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに
小筒をつるべかけた。
烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が
橋向まで開いてゐる。
橋詰近く進んで見ると、
雑人が一人打たれて死んでゐた。
坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に
噎んで引き返した。そして
始て敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、
豊後町を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう/\落馬した。
思案橋を渡つて、
瓦町を西へ進む坂本の跡には、本多、
蒲生の外、同心山崎弥四郎、
糟谷助蔵等が切れ/″\に続いた。
平野橋で跡部の手と衝突した大塩の
同勢は、又逃亡者が出たので百人
余になり、
浅手を
負つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今
淡路町を西へ退く所である。
北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の
瓦町通を坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を
交叉する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一
丁目筋と
鍛冶屋町筋との交叉点では、もう敵が見えなかつた。
堺筋との交叉点に来た時、坂本はやう/\敵の砲車を認めた。
黒羽織を着た
[#「着た」は底本では「来た」]大男がそれを
挽かせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は
堺筋西側の紙屋の戸口に
紙荷の積んであるのを
小楯に取つて、十
文目筒で
大筒方らしい、
彼黒羽織を
狙ふ。さうすると
又東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が
猟筒で坂本を狙ふ。坂本の
背後にゐた本多が金助を見付けて、自分の
小筒で金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十
間程前へ出た。三人の筒は
殆同時に発射せられた。
坂本の玉は
大砲方の腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の
陣笠をかすつたが、坂本は
只顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の
玉は
全く
的をはづれた。
坂本等は
稍久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に
燃えて来る。四辻の
辺に敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、
百目筒三挺車台付、
木筒二挺内一挺車台付、
小筒三挺、其外
鑓、旗、太鼓、火薬
葛籠、
具足櫃、
長持等であつた。
鑓のうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の
持鑓だと云つた。
玉に
中つて死んだものは、
黒羽織の大筒方の外には、淡路町の北側に
雑人が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に
仰向に倒れてゐた。
身の
丈六尺余の大男で、
羅紗の黒羽織の下には、
黒羽二重紅裏の
小袖、
八丈の
下着を着て、
裾をからげ、
袴も
股引も着ずに、
素足に
草鞋を
穿いて、立派な
拵の
大小を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、
雑人二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、
堺筋では
町家の看板が
蜂の巣のやうに
貫かれ、
檐口の瓦が
砕かれてゐたのである。
跡部は
大筒方の首を斬らせて、
鑓先に
貫かせ、
市中を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の
士が、途中から大塩の
同勢に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
跡部が
淡路町の辻にゐた所へ、堀が
来合せた。堀は
御祓筋の
会所で休息してゐると、一旦散つた
与力同心が又ぽつ/\寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が
平野橋の敵を
打ち
退けたので、堀は会所を出て、
内平野町で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて
先手を命じ、
天神橋筋を南へ
橋詰町迄出て、西に折れて
本町橋を渡つた。これは本町を西に進んで、
迂廻して敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。
併し
一手のものが
悉く
跡へ/\とすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつ/\
耗つて、
本町堺筋では十三四人になつてしまふ。そのうち
瓦町と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう/\
堺筋を北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。
跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の
東詰まで引き上げて、二
人は
袂を分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ
這入つた。坂本、本多、
蒲生、柴田、脇
並に同心等は、
大手前の
番場で跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。
九、八軒屋、新築地、下寺町
梅田の
挽かせて行く
大筒を、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る/\
耗つて、
大筒の車を
挽く
人足にも事を
闕くやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が
殆無節制の状態に
陥り掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、
人々勝手に射撃する。平八郎は
暫くそれを見てゐたが、
重立つた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、
銘々此場を
立ち
退いて、
然るべく処決せられい」と云ひ渡した。
集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、
茨田、高橋、父
柏岡、西村、杉山と瀬田の若党
植松とであつたが、平八郎の
詞を聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、
御趣意はなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして
所々に固まつてゐる
身方の残兵に
首領の詞を伝達した。
それを聞いて
悄然と手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構へたやうに持つてゐた
鑓、
負つてゐた荷を棄てて、
足早に逃げるものもある。大抵は此場を
脱け出ることが出来たが、安田が一
人逃げおくれて、
町家に潜伏したために捕へられた。此時同勢の
中に
長持の
宰領をして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩
父子の供がしたいと云つて
居残つた。
質樸な職人
気質から平八郎が
企の私欲を離れた処に感心したので、
強ひて与党に入れられた
怨を忘れて、生死を共にする気になつたのである。
平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、
淡路町二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の
東平野町へ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、
大ぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く
迹を
晦ますことが出来た。
此時
北船場の方角は、もう騒動が済んでから
暫く立つたので、焼けた家の
址から青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物にか
執着して、黒く
焦げた柱、地に
委ねた
瓦のかけらの
側を離れ兼ねてゐるやうな人、
獣の
屍の
腐る所に、
鴉や
野犬の寄るやうに、何物をか
捜し
顔にうろついてゐる人などが、
互に顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の
立ち
退く邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に
薄鼠色になつて来て、
陰鬱な、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。まだ鉄砲や
鑓を持つてゐる十四人は、
詞もなく、
稲妻形に
焼跡の町を
縫つて、影のやうに
歩を運びつつ
東横堀川の
西河岸へ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の
裾だけ残つた中に、青い火がちよろ/\と
燃えてゐるのを、平八郎が足を
停めて見て、
懐から巻物を出して
焔の中に投げた。これは陰謀の
檄文と軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた
連判状であつた。
十四人はたつた今七八十人の同勢を
率ゐて渡つた
高麗橋を、
殆世を隔てたやうな
思をして、同じ方向に渡つた。
河岸に沿うて曲つて、
天神橋詰を過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、
桟橋に一
艘の舟が
繋いであつた。船頭が一人
艫の方に
蹲つてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、
屋形のやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に
目食はせをして、此舟に飛び乗つた。
跡から十三人がどや/\と
乗込んだ。
「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。
不意を打たれた船頭は器械的に
起つて
纜を解いた。
舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十
文目筒、其外の人々は
手鑓を水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆
着込を
脱いで、これも水中に投げた。
「どつちへでも好いから
漕いでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭に
艪を
操らせた。火災に
遭つたものの荷物を運び出す舟が、
大川にはばら
蒔いたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれに
雑つて
上つたり
下だつたりしてゐても、誰も
見咎めるものはない。
併し器械的に働いてゐる船頭は、次第に
醒覚して来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「
旦那方どこへお
上りなさいます。」
「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。
平八郎は
側にゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」
「へえ。これは済みません。直吉と申します。」
これからは船頭が素直に指図を聞いた。平八郎は
項垂れてゐた
頭を挙げて、「これから
拙者の
所存をお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存と云ふのは大略かうである。
此度の
企は
残賊を
誅して
禍害を
絶つと云ふ事と、
私蓄を
発いて
陥溺を救ふと云ふ事との二つを
志した者である。
然るに
彼は
全く敗れ、
此は成るに
垂として
挫けた。主謀たる自分は天をも
怨まず、人をも
尤めない。
只気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお
前方である。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の
団欒として、
袂を分つて
陸に
上り、
各潔く処決して
貰ひたい。自分等
父子は
最早思ひ置くこともないが、
跡には女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の
隠家へ往き、
自裁するやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。平八郎の
妾以下は、初め
般若寺村の橋本方へ
立ち
退いて、それから
伊丹の紙屋某
方へ往つたのである。後に彼等が
縛に
就いたのは京都であつたが、それは二人の妾が
弓太郎を残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。
暮六つ頃から、
天満橋北詰の人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父
柏岡、西村、
茨田、高橋と瀬田に
暇を貰つた
植松との五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子を
落して
遣つた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で
願人坊主になつて、
時疫で死に、植松は京都で捕はれた。
跡に残つた人々は
土佐堀川から
西横堀川に
這入つて、
新築地に上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎に
迫つて
所存を問うたが、
只「いづれ
免れぬ身ながら、少し
考がある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は
心残のないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。
一行は
暫く四つ橋の
傍に立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ
死所を求めに往くにしても、
大小を
挿してゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助
始、人々もこれに従つて刀を投げて、皆
脇差ばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩く
跡に附いて、一同
下寺町まで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても
名残は尽きぬと云つて、
暇乞をした。後に白井は杉山を連れて、
河内国渋川郡大蓮寺村の伯父の家に往き、
鋏を借りて杉山と
倶に髪を
剪り、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。
跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち
下寺町で火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は
天王寺村で
夜を
明かして、
平野郷から
河内、
大和を経て、自分と前後して
大和路へ
奔つた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。
庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや
先刻考があるとは云つたが、別にかうと
極まつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。
己は今暫く世の
成行を見てゐようと思ふ。
尤も
間断なく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共
御先途を見届けます」と云つて、
河内から
大和路へ
奔ることを
父子に勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る
畑中道の
闇の
裏に消えた。
十、城
けふの騒動が
始て大阪の
城代土井の耳に
入つたのは、東町奉行
跡部が
玉造口定番遠藤に加勢を
請うた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに
沙汰を受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。
土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ
時に
定番、
大番、
加番の面々を呼び集めた。
城代土井は
下総古河の城主である。其下に居る
定番二人のうち、まだ着任しない京橋口定番
米倉は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は
近江三上の城主である。定番の下には一年交代の
大番頭が二人ゐる。東大番頭は
三河新城の
菅沼織部正定忠、西大番頭は
河内狭山の北条
遠江守氏春である。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各
組頭四人、
組衆四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。これ
丈では守備が不足なので、幕府は
外様の大名に
役知一万石
宛を
遣つて
加番に取つてゐる。
山里丸の一加番が越前大野の
土井能登守利忠、
中小屋の二加番が越後
与板の井伊
右京亮直経、
青屋口の三加番が
出羽長瀞の
米津伊勢守政懿、
雁木坂の四加番が
播磨安志の小笠原
信濃守長武である。加番は各
物頭五人、
徒目付六人、
平士九人、
徒六人、
小頭七人、
足軽二百二十四人を
率ゐて入城する。其内に
小筒六十
挺弓二十
張がある。又
棒突足軽が三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。
定番、大番、加番の集まつた所で、土井は
正九つ
時に城内を巡見するから、それまでに
各持口を固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは
鎧櫃を
担ぎ出す。
具足奉行上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行
石渡彦太夫は
鉄砲玉薬を分配する。
鍋釜の
這入つてゐた
鎧櫃もあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は
一方ならぬ混雑であつた。
九つ時になると、両
大番頭が先導になつて、土井は
定番、
加番の諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井は
暮六つ
時に改めて巡見することにした。
二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、
尼崎、
岸和田、
高槻、
淀などから繰り出した兵が到着してゐる。
坤に
開いてゐる城の
大手は土井の
持口である。
詰所は門内の北にある。門前には
柵を
結ひ、
竹束を立て、土俵を築き上げて、
大筒二門を
据ゑ、別に
予備筒二門が置いてある。門内には
番頭が控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平
遠江守忠栄の一番手三百三十余人が西向に陣取る。
略同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に
遷り、次いで
跡部の要求によつて
守口、
吹田へ往つた。後に
郡山の一二番手も大手に加はつた。
大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、
乾の
角に京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部
内膳正長和の一番手二百余人、高槻の永井
飛騨守直与の手、
其外淀の手が備へてゐる。
京橋口定番の詰所の東隣は
焔硝蔵である。焔硝蔵と
艮の
角の青屋口との中間に、本丸に入る
極楽橋が掛かつてゐる。極楽橋から
這入つた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。
青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、
中小屋加番の井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、
雁木坂加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に
馬印を立ててゐる。
玉造口
定番の詰所は
巽に開いてゐる。玉造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には
郡山の三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。
土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内
所々を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。
夜に
入つてからは、城の内外の
持口々々に
篝火を
焚き
連ねて、
炎焔天を
焦すのであつた。跡部の
役宅には伏見奉行
加納遠江守久儔、堀の役宅には堺奉行
曲淵甲斐守景山が、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。
目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ
手配は、日暮頃から始まつたが、はか/″\しい働きも出来なかつた。
吹田村で
氏神の神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇
志摩の所へ
捕手の向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して
溜池に飛び込んだ。
船手奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を
撤したのも二十一日である。
朝五つ時に
天満から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、
思の
外にひろがつた。天満は東が川崎、西が
知源寺、
摂津国町、
又二郎町、越後町、
旅籠町、南が大川、北が与力町を
界とし、大手前から
船場へ掛けての市街は、
谷町一丁目から三丁目までを
東界、
上大みそ筋から
下難波橋筋までを
西界、
内本町、
太郎左衛門町、
西入町、
豊後町、
安土町、
魚屋町を
南界、大川、土佐堀川を
北界として、一面の焦土となつた。
本町橋東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く
燃えて来たので、
夕七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度
火消人足が谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、
暮六つ
半に谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の
宵五つ半である。
町数で言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、
家数、
竈数で言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が
災に
罹つたのである。
十一、二月十九日の後の一、信貴越
大阪
兵燹の
余焔が城内の
篝火と共に
闇を
照し、
番場の原には避難した病人産婦の
呻吟を聞く二月十九日の夜、
平野郷のとある
森蔭に
体を寄せ合つて寒さを
凌いでゐる四人があつた。これは
夜の
明けぬ
間に
河内へ越さうとして、身も心も疲れ果て、
最早一歩も進むことの出来なくなつた平八郎
父子と瀬田、渡辺とである。
四人は翌二十日に
河内の
界に
入つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、
間道を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やう/\
産土の
社を見付けて
駈け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の
手足纏にならぬやうにすると云つて、手早く
脇差を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り
切先が
這入つたので、
所詮助からぬと
見極めて、平八郎が
介錯した。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は
僅に四十を越したばかりであつた。
二十一日の
暁になつても、大風雨は
止みさうな
気色もない。平八郎
父子と瀬田とは、渡辺の
死骸を
跡に残して、
産土の
社を出た。土地の百姓が死骸を見出して
訴へたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は
河内国志紀郡田井中村である。
三人は風雨を
冒して、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやう/\
午頃に
息んだが、肌まで
濡れ
通つて、寒さは身に
染みる。
辛うじて
大和川の支流幾つかを渡つて、
夜に入つて
高安郡恩地村に着いた。さて例の
通人家を避けて、
籔陰の辻堂を捜し当てた。近辺から
枯枝を集めて来て、おそる/\
焚火をしてゐると、瀬田が
発熱して来た。いつも血色の悪い、
蒼白い顔が、
大酒をしたやうに
暗赤色になつて、持前の
二皮目が
血走つてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其
間々は焚火の前に
蹲つて、
現とも
夢とも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を
脱いで平八郎に
襲ねさせたので、誰よりも強く寒さに
侵されたものだらう。平八郎は瀬田に、
兎に
角人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に
田圃道を百姓家のある方へ往かせた。其
後影を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして
信貴越の方角を
志して、格之助と一しよに、又
間道を歩き出した。
瀬田は頭がぼんやりして、
体ぢゆうの脈が
鼓を打つやうに耳に響く。狭い田の
畔道を踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。
動もすれば
苅株の間の
湿つた泥に足を
蹈み込む。やう/\一軒の百姓家の戸の
隙から明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、
暫く休息させて
貰ひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な
赭ら顔の
爺いさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、
思の
外拒まうともせずに、
囲炉裏の
側に寄つて休めと云つた。
婆あさんが
草鞋を
脱がせて、足を洗つてくれた。瀬田は火の
側に横になるや
否や、目を閉ぢてすぐに
鼾をかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、
脇差を抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。
行灯の下にすわつた婆あさんは、
呆れて夫の
跡を見送つた。
瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は
力限駈けて行く。
跡から
大勢の人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、
殆鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに
頗満足して、
只追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は
急調に
鼓を打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の
亡くなつたのを知つた。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程
的確に判断することが出来た。
瀬田は
跳ね
起きた。
眩暈の
起りさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前に
爺いさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。
行灯の
下の
婆あさんは、又
呆れてそれを見送つた。
百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて
孟宗竹の
大籔がある。その奥を
透かして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田は
堆く積もつた竹の葉を
蹈んで、松の下に往つて
懐を探つた。懐には偶然
捕縄があつた。それを出してほぐして、低い枝に足を
蹈み
締めて、高い枝に投げ掛けた。そして
罠を作つて自分の
頸に掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい
最期を遂げた。村役人を連れて帰つた
爺いさんが、
其夜の
中に死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉
丹後守に届けた。
平八郎は格之助の
遅れ
勝になるのを叱り励まして、二十二日の午後に
大和の
境に入つた。それから日暮に
南畑で格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に
這入つた。
暫くすると出て来て、「お前も頭を
剃るのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が
僧形になつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の
明六つ頃であつた。
寺にゐた間は平八郎が
殆一
言も物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」
格之助も
此詞には驚いた。「でも帰りましたら。」
「
好いから黙つて附いて来い。」
平八郎は足の裏が
燃えるやうに逃げて来た道を、
渇したものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。
傍から見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺で
宵と
暁とに
温い
粥を
振舞はれてからは、
霊薬を服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。
併し一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふ
考が念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。
十二、二月十九日後の二、美吉屋
大阪
油懸町の、
紀伊国橋を南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目に
美吉屋と云ふ
手拭地の
為入屋がある。主人五郎兵衛は六十二歳、妻つねは五十歳になつて、娘かつ、孫娘かくの
外、
家内に
下男五人、
下女一人を使つてゐる。上下十人暮しである。五郎兵衛は年来大塩家に出入して、
勝手向の用を
達したこともあるので、二月十九日に暴動のあつた後は、町奉行所の
沙汰で
町預になつてゐる。
此
美吉屋で二月二十四日の晩に、いつものやうに主人が勝手に寝て、家族や奉公人を二階と台所とに寝させてゐると、
宵の五つ過に表の門を
敲くものがある。主人が起きて
誰だと問へば、
備前島町河内屋八五郎の
使だと云ふ。河内屋は
兼て
取引をしてゐる家なので、どんな用事があつて、
夜に
入つて人をよこしたかと
訝りながら、庭へ降りて
潜戸を開けた。
戸があくとすぐに、衣の上に
鼠色の
木綿合羽をはおつた僧侶が二人つと
這入つて、低い声に力を入れて、早くその戸を
締めろと指図した。驚きながら見れば、二人共
僧形に
不似合な
脇差を左の手に持つてゐる。五郎兵衛はがた/\震えて、返事もせず、身動きもしない。先に這入つた年上の僧が
目食はせをすると、
跡から這入つた若い僧が五郎兵衛を押し
除けて
戸締をした。
二人は
縁に腰を掛けて、
草鞋の
紐を
解き始めた。五郎兵衛はそれを見てゐるうちに、再び驚いた。
髪をおろして
相好は変つてゐても、大塩親子だと分かつたからである。「や。大塩様ではございませんか。」「名なんぞを言ふな」と、平八郎が叱るやうに云つた。
二人は黙つて奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、
納戸の小部屋に案内した。五郎兵衛が、「どうなさる
思召か」と問ふと、平八郎は
只「当分厄介になる」とだけ云つた。
陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。
併し平八郎の言ふことは、年来
暗示のやうに此
爺いさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは
所詮出来ない。其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく
威嚇の功を奏してゐる。五郎兵衛は只二人を留めて置いて、
若し人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、
禍殃を未来に
推し
遣る工夫をするより外ない。そこで小部屋の
襖をぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を
調へて運ぶことにした。
一日立つ。二日立つ。いつは
立ち
退いてくれるかと、老人夫婦は客の様子を
覗つてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。
心安い人が来ては奥の間へ通ることもあるので、
襖一重の先にお
尋者を置くのが心配に堪へない。
幸に
美吉屋の家には、
坤の
隅に
離座敷がある。
周囲は
小庭になつてゐて、
母屋との間には、小さい戸口の附いた
板塀がある。それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る
路次に附いてゐる。此離座敷なら家族も出入せぬから、奉公人に知られる
虞もない。そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。そして
日々飯米を
測つて勝手へ出す時、
紙袋に取り分け、
味噌、
塩、
香の
物などを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。それを親子
炭火で
自炊するのである。
兎角するうちに三月になつて、
美吉屋にも奉公人の
出代があつた。その時女中の一人が
平野郷の
宿元に帰つてこんな話をした。美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様に
供へるのだらうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。
平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、
七名家と云ふ土着のものが支配してゐる。其中の
末吉平左衛門、
中瀬九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、
郷の
陣屋に訴へた。陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。土井が
立入与力内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代の
許へ出して用を聞せる与力である。五郎兵衛は内山に
糺問せられて、すぐに実を告げた。
土井は大目附
時田肇に、岡野
小右衛門、菊地鉄平、
芹沢啓次郎、
松高縫蔵、
安立讃太郎、
遠山勇之助、斎藤
正五郎[#ルビの「しやうごらう」は底本では「しやうごろう」]、菊地
弥六の八人を附けて、これに逮捕を命じた。
三月二十六日の
夜四つ
半時、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに
支度をして中屋敷に集合させた。中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の摸様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を
生擒にするやうにと云ふ城代の注文を告げた。岡野某は相談して、時田から
半棒を受け取つた。それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番を
籤で
極めて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。岡野は重ねて、自分は
齢五十歳を過ぎて、
跡取の
倅もあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つて
貰つて、次の二番から八番までの
籤を人々に引かせたいと云つた。これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。
二十七日の
暁八つ
時過、土井の家老
鷹見十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに
部屋目附鳥巣彦四郎を添へて、偵察に
遣ることを告げた。岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に
鷹見の処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから、手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。七つ半過に
鳥巣が
中屋敷に来て、内山の口上を伝へて、
本町五丁目の
会所へ案内した。時田以下の九人は
鳥巣を先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。
暫く本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。
油懸町の
南裏通である。
信濃町では、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、
東表口に向ふ
追手と、
西裏口に向ふ
搦手とに分れることになつた。
追手は内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、
搦手は同心二人、遠山、
安立、
芹沢、斎藤、時田の七人である。此二手は総年寄今井官之助、
比田小伝次、
永瀬七三郎三人の率ゐた
火消人足に
前以て取り巻かせてある
美吉屋へ、六つ半時に出向いた。
搦手は一歩先に進んで西裏口を固めた。
追手は続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。鉄平は一人では
心元ないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。
追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。お前は
板塀の戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。内の五郎兵衛はお
預けになつてゐるので、今
家財改のお役人が来られた。どうぞちよいとの間
裏の
路次口から外へ出てゐて下さいと云ふのだ。間違へてはならぬぞ」と云つた。
つねは顔色が
真つ
蒼になつたが、やう/\先に立つて板塀の戸口に往つて、もし/\と声を掛けた。
併し教へられた口上を言ふことは出来なかつた。
暫くすると戸口が細目に
開いた。内から
覗いたのは
坊主頭の平八郎である。平八郎は
捕手と顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。
岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。「平八郎
卑怯だ。これへ出い。」
「待て」と、平八郎が
離座敷の雨戸の内から叫んだ。
岡野等は
暫くためらつてゐた。
表口の内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の
立ち
退いた
跡で
暫く待つてゐたが、
板塀の戸口で手間の取れる様子を見て、
鍵形になつてゐる表の庭を、縁側の
角に附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。
「
宜しうございませう」と同心が答へた。
鉄平は戸口をつと
這入つて、正面にある
離座敷の雨戸を
半棒で
敲きこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬の
臭がした。
鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。
離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を
覆ひ、
間内の障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、
燃えながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の
壁際に、平八郎は
鞘を払つた
脇差を持つて立つてゐたが、踏み込んだ
捕手を見て、其
刃を横に
吭に突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。
投げた脇差は、
傍輩と一しよに半棒で火を払ひ
除けてゐる菊地弥六の頭を越し、
襟から袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、
灑ぎ掛けたやうに血が附いた。
火は次第に燃えひろがつた。捕手は皆
焔を避けて、板塀の戸口から
表庭へ出た。
弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。
併し火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には
鍔がありますから、引つ掛けて
掻き寄せませう」と云つた。脇差は
旨く掻き寄せられた。
柄は
茶糸巻で、
刃が一尺八寸あつた。
搦手は一歩先に
西裏口に来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、
真ん
中に道を
開け、逃げ出したら
挟撃にしようと待つてゐた。そのうち余り
手間取るので、安立、遠山、斎藤の三人が
覗きに這入つた。離座敷には人声がしてゐる。又
持場に帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。三人が又
覗きに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。
併し火気が
熾なので、此手のものも這入ることが出来なかつた。
そこへ内山が来て、「もう
跡は火を消せば好いのですから、
消防方に任せてはいかがでせう」と云つた。
遠山が云つた。「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」
遠山はかう云つて、
傍輩と一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、
消防方が段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。
総年寄今井が
火消人足を指揮して、焼けた材木を
取り
除けさせた。其下から吉兵衛と云ふ人足が
先づ格之助らしい死骸を引き出した。胸が
刺し
貫いてある。平生歯が出てゐたが、其歯を
剥き出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これは
吭を突いて
俯伏してゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。平八郎の首は焼けふくらんで、肩に
埋まつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、
面体を見定めた。格之助は
創の様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。今井は近所の
三宅といふ医者の家から、
駕籠を二
挺出させて、それに死骸を載せた。
二つの死骸は美吉屋夫婦と共に
高原溜へ送られた。道筋には見物人の山を
築いた。
十三、二月十九日後の三、評定
大塩平八郎が陰謀事件の
評定は、六月七日に江戸の
評定所に命ぜられた。大岡
紀伊守忠愛の預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、
同英太郎、河合
八十次郎、大井正一郎、
安田図書、大西
与五郎、
美吉屋五郎兵衛、
同つね、
其外西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした
黄檗の僧
剛嶽、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の
願人冷月、西村の死骸を
葬つた浅草
遍照院の
所化尭周等が呼び出されて、七月十六日から
取調が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年
閏四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。
平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、
茨田[#ルビの「いばらだ」はママ]、高橋、父
柏岡、倅柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた
摂津森小路村の医師横山
文哉、同国
猪飼野村の百姓木村
司馬之助との十九人、それから
返忠をし掛けて
遅疑した
弓奉行組同心小頭竹上万太郎は
磔になつた。
然るに九月十八日に
鳶田で刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一
人である。
他の十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、
彼江戸へ廻された大井迄
悉く牢死したので、
磔柱には
塩詰の死骸を懸けた。中にも平八郎
父子は焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓を
毀たれた。
松本、堀井、杉山、
曾我、
植松、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の
中間浅佶、深尾の募集に応じた
尊延寺村の百姓忠右衛門と
無宿新右衛門とは
獄門、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井
孝右衛門の
甥儀次郎、
般若寺村の百姓
卯兵衛は死罪、平八郎の
妾ゆう、美吉屋の女房つね、大西与五郎と白井孝右衛門の
倅で、
穉い時大塩の塾にゐたこともあり、父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは
遠島、安田と杉山を剃髪させた
同人の伯父、
河内大蓮寺の僧
正方、西村の逃亡を助けた同人の
姉婿、堺の医師
寛輔の二
人とは追放になつた。
併し此人々も杉山、上田、大西、倅白井の四人の外は、皆刑の執行前に牢死した。
密訴をした平山と父吉見とは
取高の
儘譜代席小普請入になり、吉見英太郎、河合
八十次郎は
各銀五十枚を
賜はつた。
此中で酒井
大和守忠嗣へ
預替になつてゐた平山は、番人の便所に立つた留守に
詰所の棚の
刀箱から脇差を取り出して自殺した。
城代土井以下賞与を受けたものは十九人あつた。中にも坂本
鉉之助は
鉄砲方になつて、
目見以上の
末席に進められた。併し両町奉行には賞与がなかつた。
[#改頁] 附録
私が大塩平八郎の事を調べて見ようと思ひ立つたのは、鈴木本次郎君に一冊の写本を借りて見た時からの事である。写本は
墨付二十七枚の美濃紙本で、表紙に「大阪大塩平八郎
万記録」と題してある。表紙の右肩には「川辺文庫」の印がある。
川辺御楯君が鈴木君に贈与したものださうである。
万記録の内容は、松平
遠江守の家来稲垣
左近右衛門と云ふ者が、見聞した事を数度に主家へ注進した文書である。松平遠江守とは
摂津尼崎の城主松平
忠栄の事であらう。
万記録は
所謂風説が大部分を占めてゐるので、其中から史実を
選み出さうとして見ると、獲ものは
頗乏しい。
併し記事が穴だらけなだけに、私はそれに空想を
刺戟せられた。
そこで現に公にせられてゐる、大塩に関した書籍の中で、一番多くの史料を使つて、一番
精しく書いてある
幸田成友君の「大塩平八郎」を読み、同君の新小説に出した同題の記事を読んだ。そして古い大阪の地図や、「大阪城志」を参考して、伝へられた事実を時間と空間との経緯に配列して見た。
こんな事をしてゐる間、私の頭の中を
稍久しく大塩平八郎と云ふ人物が占領してゐた。私は友人に逢ふ
度に、平八郎の話をし出して、これに関係した史料や史論を聞かうとした。
松岡寿君は平八郎の塾にゐた宇津木矩之允と岡田良之進との事に就いて、在来の記録に無い事実を聞かせてくれ、又
三上参次君、
松本亦太郎君は多少
纏つた評論を聞せてくれた。
そのうち私の旧主人が建ててゐる
菁々塾の創立記念会があつた。私は講話を頼まれて、外に何も考へてゐなかつた為め、大塩平八郎を題とした二時間ばかりの話をした。
そしてとうとう平八郎の事に就いて何か書かうと云ふ気になつた。
||||||||||||||||||||[#直線は中央に配置] 私は無遠慮に「大塩平八郎」と題した一篇を書いた。それは中央公論に載せられた。
平八郎の暴動は天保八年二月十九日である。私は史実に推測を加へて、此二月十九日と云ふ一日の間の出来事を書いたのである。史実として時刻の考へられるものは、
概ね左の通である。
天保八年二月十九日
今の時刻 昔の時刻 事実
午前四時 暁七時(寅) 吉見英太郎、河合八十次郎の二少年吉見の父九郎右衛門の告発書を大阪西町奉行
堀利堅に呈す。
六時 明六時(卯) 東町奉行
跡部良弼は代官二人に防備を命じ、大塩平八郎の母兄大西与五郎に平八郎を
訪ひて処決せしむることを
嘱す。
七時 朝五時(辰) 平八郎家宅に放火して事を挙ぐ。
十時 昼四時(巳) 跡部坂本
鉉之助に東町奉行所の防備を命ず。
十一時 昼四半時 城代
土井利位城内の防備を命ず。
十二時 昼九時(午) 平八郎の隊北浜に至る。土井初めて城内を巡視す。
午後四時 夕七時(申) 平八郎等八軒屋に至りて船に上る。
六時 暮六時(酉) 平八郎に附随せる与党の一部上陸す。土井再び城内を巡視す。
時刻の知れてゐるこれだけの事実の前後と中間とに、伝へられてゐる一日間の一切の事実を盛り込んで、矛盾が生じなければ、それで一切の事実が正確だと云ふことは証明せられぬまでも、記載の信用は可なり高まるわけである。私は
敢てそれを試みた。そして其間に推測を
逞くしたには相違ないが、余り暴力的な
切盛や、人を馬鹿にした
捏造はしなかつた。
||||||||||||||||||||[#直線は中央に配置] 私の「大塩平八郎」は一日間の事を書くを主としてはゐたのだが、其一日の間に活動してゐる平八郎と周囲の人物とは、皆それぞれの過去を持つてゐる。記憶を持つてゐる。
殊に外生活だけを
臚列するに甘んじないで、幾分か内生活に立ち入つて書くことになると、過去の記憶は比較的大きい影響を其人々の上に加へなくてはならない。さう云ふ場合を書く時、一目に見わたしの付くやうに、私は平八郎の年譜を作つた。原稿には次第に種々な事を書き入れたので、
啻に
些の空白をも残さぬばかりでなく、文字と文字とが重なり合つて、他人が見てはなんの
反古だか分からぬやうになつた。ここにはそれを省略して載せる。
大塩平八郎年譜
寛政五年癸丑(一七九三年) 大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地を授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をして家を襲がしむ。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。数世にして喜内と云ふものあり。其弟を助左衛門、其子を政之丞成余と云ふ。成余の子を平八郎敬高と云ふ。敬高の弟志摩出でて宮脇氏を冒す。敬高大西氏を娶る。文之助を生む。名は後素。字は子起。通称は平八郎。中斎と号す。居る所を洗心洞と云ふ。其親族関係左の如し。(幸田)
橋本氏 某─┬─忠兵衛─┬─みね
│ │
└ゆう └松次郎
│
┌太一郎 │
│ │┌格之助
大西氏 某─┼与五郎─善之進 ├┤
│ │└いく
└女 │
│ │
│ ┌平八郎
├────┤
│ └忠之丞
大塩氏 ┌平八郎
┌喜内─政之丞─┤
某─┤ └志摩
└助左衛門 │
│┌発太郎
│├とく
│├いく
├┼新次郎
│├ゑい
│└辰三郎
│
宮脇氏 日向─┬りか
└むつ
是年平八郎後素の祖父成余四十二歳、父敬高二十四歳。
六年甲寅 平八郎二歳。成余四十三歳。敬高二十五歳。
七年乙卯 平八郎三歳。成余四十四歳。敬高二十六歳。
八年丙辰 平八郎四歳。成余四十五歳。敬高二十七歳。橋本忠兵衛生る。
九年丁巳 平八郎五歳。成余四十六歳。敬高二十八歳。
十年戊午 平八郎六歳。成余四十七歳。敬高二十九歳。大黒屋和市の女ひろ生る。後橋本氏ゆうと改名し、平八郎の
妾となる。
十一年己未 平八郎七歳。成余四十八歳。五月十一日敬高三十歳にして歿す。平八郎の弟忠之丞生る。
十二年庚申 平八郎八歳。成余四十九歳。七月二十五日忠之丞歿す。九月二十日平八郎の母大西氏歿す。
享和元年辛酉 平八郎九歳。成余五十歳。宮脇りか生る。
二年壬戌 平八郎十歳。成余五十一歳。
三年癸亥 平八郎十一歳。成余五十二歳。
文化元年甲子 平八郎十二歳。成余五十三歳。
二年乙丑 平八郎十三歳。成余五十四歳。
三年丙寅 平八郎十四歳。此頃番方見習となる。成余五十五歳。
四年丁卯 平八郎十五歳。家譜を読みて志を立つ。成余五十六歳。
五年戊辰 平八郎十六歳。成余五十七歳。
六年己巳 平八郎十七歳。成余五十八歳。
七年庚午 平八郎十八歳。成余五十九歳。豊田貢斎藤伊織に離別せられ、水野軍記の徒弟となる。
八年辛未 平八郎十九歳。成余六十歳。
九年壬申 平八郎二十歳。成余六十一歳。
十年癸酉 平八郎二十一歳。始て学問す。成余六十二歳。西組与力
弓削新右衛門地方役たり。
十一年甲戌 平八郎二十二歳。此頃竹上万太郎平八郎の門人となる。成余六十三歳。
十二年乙亥 平八郎二十三歳。成余六十四歳。
十三年丙子 平八郎二十四歳。成余六十五歳。京屋きぬ水野の徒弟となる。
十四年丁丑 平八郎二十五歳。成余六十六歳。
文政元年戊寅 六月二日成余六十七歳にして歿す。平八郎二十六歳にして番代を命ぜらる。妾ゆうを
納る。二十一歳。宮脇むつ生る。
二年己卯 平八郎二十七歳。
三年庚辰 平八郎二十八歳。目安役並証文役たり。十一月高井山城守実徳東町奉行となる。
四年辛巳 平八郎二十九歳。平山助次郎十六歳にして入門す。四月坂本鉉之助始て平八郎を訪ふ。橋本みね生る。
五年壬午 平八郎三十歳。
六年癸未 平八郎三十一歳。平八郎の叔父志摩宮脇氏の婿養子となり、りかに配せらる。是年大井正一郎入門す。水野軍記の妻そへ歿す。
七年甲申 平八郎三十二歳。宮脇発太郎生る。庄司義左衛門、堀井儀三郎入門す。庄司は二十七歳。水野軍記大阪木屋町に歿す。
八年乙酉 平八郎三十三歳。正月十四日洗心洞学舎東掲西掲を書す。白井孝右衛門三十七歳にして入門す。
九年丙戌 平八郎三十四歳。宮脇とく生る。
十年丁亥 平八郎三十五歳。吟味役たり。正月京屋さの、四月京屋きぬ、六月豊田貢、閏六月より七月に至り、水野軍記の関係者皆逮捕せらる。さの五十六歳、きぬ五十九歳、貢五十四歳、所謂邪宗門事件なり。
十一年戊子 平八郎三十六歳。吉見九郎右衛門三十八歳にして入門す。十月邪宗門事件評定所に移さる。
十二年己丑 平八郎三十七歳。三月弓削新右衛門糺弾事件あり。平八郎の妾ゆう
薙髪す。十二月五日邪宗門事件落着す。貢、きぬ、さの、外三人
磔に処せらる。きぬ、さのは
屍を磔す。是年宮脇いく生る。上田孝太郎入門す。木村司馬之助、横山文哉
交を
訂す。
天保元年庚寅 平八郎三十八歳。三月破戒僧検挙事件あり。七月高井実徳西丸留守居に転ず。平八郎勤仕十三年にして暇を乞ひ、養子格之助番代を命ぜらる。格之助妾橋本みねを納る。九月平八郎名古屋の宗家を訪ひ、展墓す。
頼襄序を作りて送る。十一月大阪に帰る。是年松本隣太夫、茨田軍次、白井儀次郎入門す。松本は
甫めて七歳なりき。
二年辛卯 平八郎三十九歳。父祖の墓石を天満東寺町成正寺に建つ。吉見英太郎、河合八十次郎入門す。彼は十歳、此は十二歳なり。
三年壬辰 平八郎四十歳。四月頼襄京都より至り、古本
大学刮目に序せんことを約す。六月大学刮目に自序す。同月近江国小川村なる中江藤樹の遺蹟を訪ふ。帰途舟に上りて大溝より坂本に至り、風波に逢ふ。秋頼襄京都に病む。平八郎往いて訪へば既に
亡し。是年宮脇いくを養ひて女とす。柴屋長太夫三十六歳にして入門す。
四年癸巳 平八郎四十一歳。四月
洗心洞剳記に自序し、これを刻す。頼余一に一本を
貽る。又一本を佐藤
坦に寄せ、手書して志を言ふ。七月十七日富士山に登り、剳記を石室に蔵す。八月足代弘訓の
勧により、剳記を宮崎、林崎の両文庫に
納む。九月
奉納書籍聚跋に序す。十二月
儒門空虚聚語に自序す。是年柏岡伝七、塩屋喜代蔵入門す。
五年甲午 平八郎四十二歳。秋
剳記附録抄を刻す。十一月
孝経彙註に序す。是年宇津木矩之允入塾す。柏岡源右衛門入門す。此頃高橋九右衛門も亦入門す。
六年乙未 平八郎四十三歳。四月孝経彙註を刻す。夏剳記及附録抄の版を
書估に与ふ。
七年丙申 平八郎四十四歳。七月跡部良弼東町奉行となる。九月格之助砲術を試みんとすと称し、火薬を製す。十一月百目筒三挺を買ひ又借る。十二月檄文を印刷す。同月格之助の子弓太郎生る。安田図書、服部末次郎入門す。宇津木矩之允再び入塾す。天保四年以後飢饉にして、是歳最も甚し。
八年丁酉(一八三七年) 平八郎四十五歳。正月八日吉見、平山、庄司連判状に署名す。十八日柏岡源右衛門、同伝七署名す。二十八日茨田、高橋署名す。是月白井孝右衛門、橋本、大井も亦署名す。二月二日西町奉行堀利堅就任す。七日ゆう、みね、弓太郎、いく般若寺村橋本の家に
徙る。上旬中書籍を売りて、金を窮民に施す。十三日竹上署名す。吉見父子平八郎の陰謀を告発せんと
謀る。十五日上田署名す。木村、横山も亦此頃署名す。十六日より与党日々平八郎の家に会す。十七日夜平山陰謀を跡部に告発す。十八日
暁六
時跡部平山を江戸矢部定謙の
許に
遣る。堀と共に次日市内を巡視することを
停む。十九日暁七時吉見英太郎、河合八十次郎英太郎が父の書を
懐にして、平八郎の陰謀を堀利堅に告発す。東町奉行所に跡部平八郎の与党小泉淵次郎を斬らしめ、瀬田済之助を逸す。瀬田逃れて平八郎の家に至る。平八郎宇津木を殺さしめ、朝五時事を挙ぐ。昼九時北浜に至る。鴻池等を襲ふ。跡部の兵と平野橋、淡路町に闘ふ。二十日夜兵火
息む。二十四日夕平八郎父子油懸町美吉屋五郎兵衛の家に
潜む。三月二十七日平八郎父子死す。
九年戊戌 八月二十一日平八郎等の獄定まる。九月十八日平八郎以下二十人を鳶田に磔す。竹上一人を除く外、皆
屍なり。十月江戸日本橋に捨札を掲ぐ。
二月十九日中の事を書くに、十九日前の事を回顧する必要があるやうに、十九日後の事も多少書き足さなくてはならない。それは平八郎の末路を明にして置きたいからである。平八郎は十九日の夜大阪下寺町を彷徨してゐた。それから二十四日の夕方同所油懸町の美吉屋に来て潜伏するまでの道行は不確である。併し下寺町で平八郎と一しよに彷徨してゐた渡辺良左衛門は河内国志紀郡田井中村で切腹してをり、瀬田済之助は同国高安郡恩地村で
縊死してをつて、二人の死骸は二十二日に発見せられた。そこで大阪下寺町、河内田井中村、同恩地村の三箇所を貫いて線を引いて見ると、大阪から河内国を横断して、大和国に入る道筋になる。平八郎が二十日の朝から二十四日の暮までの間に、大阪、田井中、恩地の間を往反したことは、
殆疑を
容れない。又下寺町から田井中へ出るには、平野郷口から出たことも、
亦推定することが出来る。
唯恩地から先をどの方向にどれ丈歩いたかが不明である。
試みに大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の変換と行程の延長とを避けて、大和境に向けて引いて見ると、
亀瀬峠は南に偏し、十三峠は北に偏してゐて、恩地と相隣してゐる
服部川から
信貴越をするのが順路だと云ひたくなる。かう云ふ理由で、私は平八郎父子に信貴越をさせた。そして美吉屋を叙する前に、信貴越の一段を挿入した。
二月十九日後の記事は一、信貴越 二、美吉屋 三、評定と云ふことになつた。
||||||||||||||||||||[#直線は中央に配置] 平八郎が暴動の原因は、簡単に言へば飢饉である。外に種々の説があつても、大抵
揣摩である。
大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方に
凶歉があつても、すぐに大影響を
被る。市内の賤民が飢饉に苦むのに、官吏や富豪が奢侈を
恣にしてゐる。平八郎はそれを
憤つた。それから幕府の命令で江戸に米を
回漕して、京都へ
遣らない。それをも不公平だと思つた。江戸の米の需要に比すれば、京都の米の需要は
極僅少であるから、京都への米の運送を絶たなくても好ささうなものである。全国の
石高を幕府、諸大名、御料、皇族並公卿、社寺に配当したのを見るに、左の通である。
石高実数(単位万石) 全国石高に対する百分比例
徳川幕府 800 29.2
諸大名 1900 69.4
御料 3 0.1
皇族并公卿 4.7 0.2
社寺 30 1.2
|||||||||||||||||||| 計 2737.7 100
天保元年、二年は豊作であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために、江戸で白米が一両に付四斗、百文に付四合とまでなつた。
卸値は文政頃一両に付二石であつたのである。五年になつても江戸で最高価格が前年と同じであつた。七年には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両に付一斗二升、百文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしいが、当時大阪総年寄をしてゐた今井官之助、後に克復と云つた人の話に、一石二十七匁五分の白米が二百匁近くなつてゐたと云ふことである。いかにも一石百八十七匁と云ふ記載がある。金一両銀六十匁銭六貫五百文の比例で換算して見ると、平常の一石二十七匁五分は一両に付二石一斗八升となり、一石百八十七匁は一両に付三斗二升となる。百文に付四合九勺である。此年の全国の作割と云ふものがある。
五畿内東山道 45%
東海道 45
関八州 30
|40
奥州 28
羽州 40
北陸道 54
山陰道 32
山陽道及南海道 55
西海道 50
||||||||||||| ○ 42.4%
これから古米食込高一二%を入れ戻せば、三〇、四%の収穫となる。七年の不良な景況は、八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五升俵として換算すれば、一両に付三斗四合である。
平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。
若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の
儘に放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。
若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎
風情には不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を
揮はせる余地があつたら、暴動は起らなかつただらう。
この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破壊して
望を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。
未だ醒覚せざる社会主義は、独り平八郎が懐抱してゐたばかりではない。天保より前に、天明の飢饉と云ふのがあつた。天明七年には江戸で白米が一両に付一斗二升、小売百文に付三合五勺になつた。此年の五月十二日に大阪で米屋こはしと云ふことが始まつた。貧民が群をなして米店を破壊したのである。同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた米商富人の家が千七百戸に及んだ。次いで天保の飢饉になつても、天保七年五月十二日に大阪の貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も同じ暴動をした。此等の貧民の頭の中には、皆未だ醒覚せざる社会主義があつたのである。彼等は食ふべき米を得ることが出来ない。そして富家と米商とが其資本を運転して、買占其他の策を施し、貧民の膏血を
涸らして自ら肥えるのを見てゐる。彼等はこれに処するにどう云ふ方法を以てして好いか知らない。彼等は未だ醒覚してゐない。唯盲目な暴力を以て富家と米商とに反抗するのである。
平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。
平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。
||||||||||||||||||||[#直線は中央に配置] 平八郎が陰謀の与党は養子格之助、叔父宮脇志摩を除く外、殆皆門人である。それ以外には家塾の
賄方、格之助の若党、
中間、瀬田済之助の若党、中間、大工が一人、猟師が一人ゐる位のものである。橋本忠兵衛は平八郎の妾の義兄、格之助の妾の実父であるが、これも同時に門人になつてゐた。
暴動の翌年天保九年八月二十一日の裁決によつて、磔に処せられた二十人は左の通である。
大塩平八郎 美吉屋にて自刃す
大塩格之助 東組与力西田青太夫実子 美吉屋にて死す
渡辺良左衛門 東組同心 河内田井中にて切腹す
瀬田済之助 東組与力 河内恩地にて縊死す
小泉淵次郎 郡山柳沢甲斐守家来春木弥之助実子、東組与力養子 東町奉行所にて斬らる
庄司義左衛門 河内丹北郡東瓜破村助右衛門実子、東組同心養子 奈良にて捕はる
近藤梶五郎 東組同心 自宅焼跡にて切腹す
大井正一郎 玉造口与力倅 京都にて捕はる
深尾才次郎 河内交野郡尊延寺村百姓 能登にて自殺す
茨田郡次 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す
高橋九右衛門 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す
柏岡源右衛門 摂津東成郡般若寺村百姓 支配役場へ自首す
柏岡伝七 同上倅 自宅にて捕はる
西村利三郎 河内志紀郡弓削村百姓 江戸にて願人となり病死す
宮脇志摩 摂津三島郡吹田村神主 自宅にて切腹入水す
橋本忠兵衛 摂津東成郡般若寺村庄屋 京都にて捕はる
白井孝右衛門 摂津守口村百姓兼質屋 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる
横山文哉 肥前三原村の人、摂津東成郡森小路村の医師となる 捕はる
木村司馬之助 摂津東成郡猪飼野村百姓 捕はる
竹上万太郎 弓奉行組同心 捕はる
次に左の十一人は獄門に処せられた。
松本隣太夫 大阪船場医師倅 捕はる
堀井儀三郎 播磨加東郡西村百姓 捕はる
杉山三平 大塩塾賄方 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる
曾我岩蔵 大塩若党 大阪にて捕はる
植松周次 瀬田若党 京都にて捕はる
作兵衛 天満北木幡町大工 京都にて捕はる
金助 摂津東成郡下辻村猟師 捕はる
美吉屋五郎兵衛 油懸町手拭地職 自宅にて捕はる
浅佶 瀬田中間 捕はる
新兵衛 河内尊延寺村無宿、深尾才次郎の募に応ず 捕はる
忠右衛門 同村百姓、同上 捕はる
次に左の三人は死罪に処せられた。
上田孝太郎 摂津東成郡沢上江村百姓 捕はる
白井儀次郎 河内渋河郡衣摺村百姓、白井孝右衛門従弟 捕はる
卯兵衛 摂津東成郡般若寺村百姓 捕はる
次に左の四人は遠島に処せられた。
大西与五郎 東組与力、平八郎の母兄 捕はる
白井彦右衛門 孝右衛門倅 大和に往く途中捕はる
橋本氏ゆう 実は曾根崎新地茶屋町大黒屋和市娘ひろ 京都にて捕はる
美吉屋つね 五郎兵衛妻 自宅にて捕はる
次に左の三人は追放に処せられた。
安田図書 伊勢山田外宮御師 淡路町附近にて捕はる
寛輔 堺北糸町医師、西村の姉婿、西村の逃亡を
幇助す 捕はる
正方 河内渋河郡大蓮寺隠居、杉山の伯父にして杉山をして剃髪せしむ 捕はる
以上重罪者三十一人の中で、刑を執行せられる時生存してゐたものは、竹上、杉山、上田、大西、白井彦右衛門の五人丈である。他の二十六人は
悉く死んでゐて、内平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇六人は自殺、小泉は他殺、格之助は他殺の疑、西村は逮捕せられずに病死、残余の十七人は牢死である。九月十八日には鳶田で
塩詰にした屍首を
磔柱、獄門台に
懸けた。江戸で
願人坊主[#ルビの「ぐわんにんばうず」は底本では「ぐわんにんぼうず」]になつて死んだ西村
丈は、浅草遍照院に
葬つた死骸が腐つてゐたので、墓を
毀たれた。
当時の罪人は一年以内には必ず死ぬる牢屋に入れられ、死んでから刑の宣告を受け、塩詰にした死骸を磔柱などに懸けられたものである。これは
独平八郎の与党のみではない。平八郎が前に吟味役として取り扱つた邪宗門事件の罪人も、同じ処置に逢つたのである。
||||||||||||||||||||[#直線は中央に配置] 近い頃のロシアの小説に、

を
衝かぬ小学生徒と云ふものを書いたのがある。我事も人の事も、有の儘を教師に告げる。そこで
傍輩に憎まれてゐたたまらなくなるのである。又ドイツの或る新聞は「小学教師は生徒に傍輩の非行を告発することを強制すべきものなりや否や」と云ふ問題を出して、諸方面の名士の答案を募つた。答案は
区々であつた。
個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを
褒むべき行為にしてゐた。秩序を維持する一の手段として奨励したのである。中にも非行の同類が告発をするのを
返忠と称して、これに忠と云ふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものである。
平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。
平山助次郎 東組同心 暴動に先だつこと二日、東町奉行跡部良弼に密訴す
吉見九郎右衛門 東組同心 暴動当日の
昧爽、西町奉行堀利堅に上書す
吉見英太郎 九郎右衛門倅 九郎右衛門の訴状を堀に呈す
河合八十次郎 平八郎の陰謀に
与し、半途にして逃亡し、遂に行方不明になりし東組同心郷左衛門の
倅なり、陰謀事件の関係者中行方不明になりしは、此郷左衛門と近江小川村医師志村力之助との二人のみ 九郎右衛門の訴状を堀に呈す
評定の結果として、平山、吉見は取高の儘
小普請入を命ぜられ、英太郎、八十次郎の二少年は賞銀を賜はつた。然るに平山は評定の局を結んだ天保九年
閏四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられてゐた安房勝山の城主酒井大和守
忠和の
邸で、人間らしく自殺を遂げた。