私はよく、ホームシックに
八百屋の店頭に、水色のキャベツが積まれ、赤いトマトオが並べられ、雪のように白い夏大根が飾られる頃になると、私のホームシックは
そんなとき、私は
店の上に
そうして
停車場の待合室にはどこの停車場にも掛かっているような、全国の、国有鉄道の地図が
その地図の下に立ってみすぼらしい
私はそういう人々を、殆んど毎晩のように見かけた。なかには、眼を
併し私は、そういう人々を、ただ単に、見たとばかり言い得ないような気がする。
その人々の姿こそ、当時の私の姿ではなかったろうか? 歩いてでも郷里にかえりたかった。当時の私の心ではなかったろうか?
或る夜のことであった。私は停車場で、偶然一人の友人と落ち合った。彼は非常に沈んでいたようであった。
「誰か送って来たの? それとも誰か来るの?」と私は
「ううん。」
彼は神経質な眼をして頭を振った。
「君は?」と彼は訊いた。
「僕も、ただ散歩に。||ここへ来ると、田舎の言葉が聞けるもんだから······」
「僕もそうなんだよ。ただそれだけで、僕は小石川からわざわざ出掛けて来るんだよ。」
彼はこう言って、深い深い溜め息を一つついた。
私と彼とは、黙々として目を伏せて公園前の方へ歩いて行った。そうして歩きながら、彼は
都の距離をはかり見るかな。
私も彼も、大望を抱いて東京へ出て来たのであった。故里を去る時には、その意志を貫かないうちは、石に噛りついても帰らないはずであった。
併し、私も彼も、もう······。
その月の末に、私は彼が郷里に帰ったということを聞いた。もう再び東京には出て来ないつもりだということをも聞いた。
併し、彼の意志の弱かったことを誰が
私はその後も、折々停車場へ出掛けて行った。その帰り途、私はきっと、あの時彼が歌ったあの歌を、
停車場の、地図に指あて故里と
都の距離をはかり見るかな。
都の距離をはかり見るかな。
この歌を私は幾度も繰り返した。繰り返しているうちに、私の歌はいつか、泣き声になっていた。そして、
今では、もう停車場へ出掛けるようなことはなくなった。
けれども、夏が来て、八百屋の店頭に赤いトマトオが積みあげられ、水色のキャベツが並べられ、白い夏大根が飾られる頃になると、私は今でも、彼のあの歌を思い出すのである。
||大正十五年(一九二六年)『若草』十二月号||