十二月十日、珍らしいポカ/\した散歩日和で、暢気に郊外でも


丸善から来た。朝っぱらから何の用事かと封を切って見ると、『ケサミセヤケタ。』
はて、解らん。何の事ッたろう。何度読直しても『今朝店焼けた』としか読めない。金城鉄壁ならざる丸善の店が焼けるに決して不思議は無い筈だが、今朝焼けるとも想像していないから、此簡単な仮名七字が
且此朝は四時半から目が覚めていた。火事があったら半鐘の音ぐらい聞えそうなもんだったが、出火の
暗号ではないかとも思った。仮名が一字違ってやしないかとも思った。が、怎う読直しても、ケサミセヤケタ!
すると何となく、『焼けそうな家だった』という心持がして、急いで着のみ着のまゝの
呉服橋で電車を降りて店の近くへ来ると、ポンプの水が幾筋も流れてる中に、ホースが蛇のように蜒くっていた。其水溜の中にノンキらしい顔をした見物人が山のように集っていた。伊達巻の寝巻姿にハデなお召の羽織を引掛けた寝白粉の処班らな若い女がベチャクチャ喋べくっていた。煤だらけな顔をした耄碌頭巾の好い若い衆が気が抜けたように
泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古
猶だ工事中の新築の角を折れて、仮に新築の一部に設けた受附へ行くと、狭い入口が見舞人で一杯になっていた。受附の盆の上には名刺が堆かく山をなしていた。誰を見ても気が立った顔をしている店員と眼や頤で会釈しつゝ奥へ行くと、思い/\に火鉢を央に陣取ってる群が其処にも此処にも団欒していた。みんなソワ/\して、
大抵は目眩るしいようにセカ/\往ったり来たりして、人と人とが衝突りそうだ。用あり気に俄に駈出したかと思うと、二タ足三足で復た
無難に持出した帳場デスクの前に重役連が集まっていた。何れも外套帽子のまゝの下駄がけであった。重役の一人の繃帯が誰の目にも着くので直ぐ訊かれるが、火事場の怪我で無いと聞くと誰も皆安心した顔をして、何の病気だと折返して訊くものも無かった。

『何時ごろ?』『四時半ごろ。』『火許は何処?』『富田のアイロン場。』||と、誰が誰に話すのか解らぬが其処此処で聞えた。中には百遍も繰返したものもあったろう。
話を綜合すると、
今暁四時半、隣家の富田洋服店の三階の
雑然喧然騒然紛然たる中に立って誰からとなく此咄を聞きつゝ何とも言い知れない感慨に堪えなかった。眇たる丸善の店は焼けようと焼けまいと社会に何の影響も与えまいが、此中に充積する商品は皆日本の文明に寄与する糧であった。戦争に勝っても日本の文明は猶だ欧米と比べものにならない今日、ラデュームやエレクトロンやプラグマチズムや将たイプセンやニーチェやトルストイの思想が学者間の談柄にのみ限られてる今日、欧米首都の外は地理的名称さえ猶だ碌々知られていない今日、自然主義を誨淫文学と見做し社会主義を売国論と敵視する今日、ロイテル電報よりも三面雑報の重大視される今日、滔々たる各方面の名士さえ学校時代の教科書たる論語とセルフヘルプの外には哲学も倫理もなきように思う今日、此の如く人文程度の低い日本では西欧知識の断片零楮も猶お頗る愛惜しなければならない。眇たる丸善の損害は何程でもなかろうが、其肆頭の書籍は世間の虚栄を増長せしむる錦繍
工事中の新築の階下へ行って見ると、材木や煉瓦やセメント樽を片寄せて炭火を焚いてる周囲に店員が集って、見舞物の
煤けた顔をして縄襷を掛けてるのや、チョッキ一つで泥だらけになってるのや、意気地の無いダラシの無い
焼残りの書籍や文房具や洋物雑貨が塵溜のようにゴッタに積重ねられて隅々を塞げていた。其傍に無残に厚硝子を
一方の片隅には肩掛や膝掛が焼焦だらけ水だらけになって一と山積んであった。中には自働車や馬車に乗る貴夫人の肩や膝に纏わるべき美しい織物もあった。
山高や中折や鳥打やフッドの何れも歪んだり潰れたり焦げたり水を被ったりしたのが一ト山積んであった。新流行のオリーブの中折の半分鍔を焼かれた上に泥塗れになってるのが転がっていた。滅茶々々に圧潰されたシルクハットが一段と
其傍の鉋屑の中に、行末は誰が家の令嬢貴夫人の襟を飾ったかも知れない駝鳥ボアが水にショボ湿れてピシャ/\になっていたのが老いすがれた美人の衰えを見るように哀れであった。其外にも如何なる貴女紳士の春の粧いを凝らすの料ともなるべき粧飾品や化粧品が焦げたり泥塗れになったり破れたりしてそこらこゝらに狼籍[#「狼籍」はママ]散乱して、恰も平家の栄華の末路を偲ばせるような心地がした。
『どうです、洋物部の損害は?』と丁度居合わした半分真黒けな顔をした洋物部の主任に訊くと、
『全滅です、』と淋しげに笑った。

朦々と白い煙の立罩めた中に柱や棟木が重なって倒れ、真黒或は半焦になった材木の下に積重なった書籍が原形のまゝ黒焦げとなって、風に煽られる度に焼けた頁をヒラ/\と飛ばしていた。其処此処の熱灰の中からは折々余燼がチラ/\と焔を上げて、彼地此所に眼を配る消火夫の水に濡れると忽ち白い煙を渦立たして噴き出した。満目唯惨憺として猛火の暴虐を語っていた。
焼けた材木を伝い、焼落ちた屋根の亜鉛板を踏んで、美術書の陳んでいた辺へ行くと、一列のフォリオ形の美術書が奇麗に頭を揃えて建てたなりに、丁度一本の棟木のように真黒けにソックリ其儘原形を残して焼けていた。
是等の美術書の大部分は巴黎の「リブレール・ド・ボザール」や「デューシエ」や独逸の「ヘスリンク」から此頃新着したばかりのもので、各種の図案粧飾、又は名画彫塑の複製帖等、何れも精巧鮮美、目も覚めるようなものばかりであった。其価を云えば廉なるも二十円三十円、高価なるは百五十円二百円というものであった。是れだけの図案美術書類は、今日の日本には普通の図書館は勿論美術専攻の如何なる研究所にさえ揃っていないと断言して宜かろう。
ツイ此頃の新着だから、尚だ尽く目を通していなかったが、デュポン・トーベルヴ※[#小書き片仮名ヰ、156-1]ルの名物織物譜や、巴黎で新らしく出版された日本の織物帖、ビザンチンの美術大観、某々名家の蒐集した

其中には又クラインマンのアッシリア壁画の帖があった。スタインの

其中には又ヴヮンダイクの著名なエチングの複製画があった。(価は四百円であった。)英国印刷界を驚倒したメヂチ版の複製画があった。ニコルソンの飄逸な筆に成った現代文豪の肖像画等があった。新らしいものではあるが、是等は大抵多数に頒つを目的としないで、三百乃至五百、中には僅に五十部乃至百部を限った出版もあるゆえ、其中には二度と再び得られないものもあった。
之が皆焼けて了った。数十部の画帙画套が恰も一本の棟木のように一つに固まって真黒に焼けて了った。世界の大美術書の総数に比べたなら九牛の一毛どころか百牛の一毛にも当るまいが、シカモ世界の文献に乏しい日本では此の百牛の一毛なり万牛の一毛なりの美術書でさえが猶お貴重せざるを得なかった。
スチュヂオやアート・ヂャーナルの増刊やマイステル・デア・ファーベや其他各種の美術書は凡そ一千部以上も焼燼した。こんなものは註文すればイクラでも得られる、焼いても惜しくないと云えば云うようなものであるが、日本では欧羅巴に数千部を頒布する是等の普通の美術雑誌でさえも帳中の秘書として珍襲する美術家又は鑑賞家の甚だ少からぬを思い、更にこんな平凡普通なものをすら知らずに美術を談ずる者がヨリ一層少からざるを思うと、恁んなものでも灰となって了ったを亦頗る惜まざるを得ない。
余は屡々人に話した。倫敦タイムズ社が売った数千部のブリタニカやセンチュリー大辞典はツンドク先生の客間や質屋の庫に埋もれて了ったと、賢しら顔して云う人もあるが、客間の粧飾となっていようと質屋の庫に禁錮されていようと、久しい間には誰かゞ読む。一人が読めば一人だけを益する。ツマリ数千部のブリタニカやセンチュリーが日本に広がったは夫だけ日本の公衆の平均知識を増したわけである。
日本では
と心窃に感慨しつゝ、是等の大美術書を下駄で踏むのがアテナの神に対して済まないような気持がしながら


『ドウダネ、堀出し物でも[#「堀出し物でも」はママ]あるかネ?』
『何にもありません。悉皆焼けて了いました、』とKは力の抜けた声をして嘆息を吐いた。
『シーボルトは?』
『焼けて了いました。』
シーボルトの名は日本の文明の起源に興味を持つものは皆知ってる筈である。
此のシーボルトの『動植物譜』は先年倫敦の某稀覯書肆から買入れたのが丸善の誇りの一つであったが、之が焼けて了ったのだ。
『片無しかネ?』
『片無しでもありません。今、其処で
と、Kがステッキで指さすを見ると、革の表紙が取れて、タイトル・ページが泥塗れになったシーボルトが無残に黒い灰の上に横たわっていた。が、断片零紙も惜むべき此種の名著は、縦令若干の焼け損じがあっても、一部のフロラが略ぼ揃える事が出来たなら猶お大に貴重するに足る。之を尽く灰として了わなかったは
『リンスホーテンもこんなになって了いました、』とKは懐ろからバラ/\になった焼焦だらけの紙片を出して見せ、『落ちてたのを之だけ拾って来ました。』
リンスホーテンの『東印度旅行記』||原名を“Navigatio ac itinerarivm”と云い、一五九九年ヘーゲの出版である。比の貴重なる初版が日本の図書館に有る乎無い乎は疑問である。
『ジェシュートの書翰集は?』
『あれは無論駄目です。あの棚のものは悉皆焼けて了いました。』
此書翰集こそ真に惜むべき貴重書であった。原名を“Cartas que los padres y hermaos de la Compania de Iesus, que andan en los reynos de Iapon”と云い、日本に在留したザビール初めアルメイダ、フェルナンデス、アコスタ等エズイット派の僧侶が本国に寄せた天文十八年(エズイット派が初めて渡来した年)から元亀二年(南蛮寺創設後三年)までの通信八十八通を集めたもので、一五七五年即ち天正三年アルカラ(
帝国大学の図書室で第一の稀覯書として珍重するは所謂“Jesuit press”と称する是等のバテレンが本国へ送った通信であって、蒐集の量も又決して少く無いから、或は此書翰集も大学に収蔵されてるかも知れないが、大学を外にしては日本では他の図書館或は蒐集家の文庫に此稀覯書を発見し得る乎怎う乎、頗る掛念である。
丸善は新書の供給を旨としておる。無論、日本では猶だ外国の稀覯書を珍重するほどの程度に達していないから、此の如き稀覯書を外国から仰いで積んで置く事は出来無いが、猶且容易に手に入れる事の出来ない此種の珍本も数十点あった。之が皆灰となって了った。
稀覯書というでは無いが、ベンガルの亜細亜協会の雑誌(一八三二年創刊?)の第一号から一九〇五年分までが揃っていた。亜細亜協会は東洋各地に設立されてるが、就中ベンガルは最も古い創立で、他の亜細亜協会の雑誌よりもヨリ多く重要なる論文に富み、東洋殊に印度学の研究の大宝庫として貴重されておる。其価は金一千二百円で、雑誌としては甚だ不廉のようであるが、七十四年間の雑誌を揃えるは頗る至難であって、仮令二千円三千円を出した処で今日直ちは揃え得られるものでは無い。僅か十年かそこらの日本の雑誌ですらも容易に揃えられないのは雑誌を集めた経験ある人には能く解る。況してや七十四年間の外国雑誌は長い間に何度も繰返して重複したものを買集めなければ揃えられないので、恐らく此雑誌も全部揃ったは日本に幾何も無いであろう。之が尽く灰となって了った。
『目録も焼けたろうネ?』
『焼けました。あれが焼けて了ったのが一番残念です、』とKは愈々憮然たる顔をした。
目録というは売品では無い。営業上の参考書である。が、丸善が最も誇るべきものゝ一つは此外国の各種の目録で、Kが専ら其衝に当って前後十何年の丹精を費やした努力の賜であった。
図書館の設備と書店の用意とは自ずから異なってるから、丸善に備えつけた目録を図書館に需めるは不当であろうが、日本の普通図書館には求められない特殊の外国書目が丸善には準備されているのだ。尤も書肆であるから学術上の貴重なる書目を尽く揃えていたわけでは無いが、試に其の一つ二つを云えば、“Heinsius Bucher-Lexicon”が一七〇〇年から一八九二年まで二百年間尽く揃っていた。ロレンツの仏蘭西書目が一八四〇年から今月まで六十年間全部揃っていた。レイボールドの『米国書目』は米国書目中の貴重書として珍重されて時価著るしく騰貴しているが、此の貴い書目も丸善の誇りの一つであった。学術上から云ったら余り貴くないかも知れぬが左に右く恁ういう日本には珍らしい書目が十数種あった。
現行書目にしも、英独仏露伊西以外、和蘭、瑞西、波蘭、瑞典、那威、澳太利、匈牙利、葡萄牙、墨西哥、アルゼンチン、将た印度、波斯、中央亜細亜あたりまでの各国書目を一と通り揃えていた。無論日本の分類書目的の普通目録であるが、恁ういう交通の少ない国の書目は最も普通のものでも猶お珍奇とするに足る。
其他各国大学又は図書館協会或は学会等、及びクワーリッチ、ヒールセマン等英仏独蘭の稀覯書肆から出版した各種の稀覯書目録(欧羅巴の稀覯書肆の特別刊行の書目は細密なる分類を施こし且往々解題を加え或はファクシミルを挿入する故書史学者の参考として最も珍重すべきものである。)が数百種あった。凡そ是等の特種書目は三百部乃至五百部を限るゆえ再び之を獲る事は決して出来ないのだ。
無論、是等の書目の多くは日々の営業上必要なものでなく、大抵高閣に束ねて滅多に参考する事は無いが、外国書籍の知識を得る為めには絶好の資料であった。我々が外国古文学又は特殊の書籍又は稀覯書等に就て知らんとするに方って普通の目録や書籍歴史では決して得られない知識を探り得られる是等の含蓄多き貴重なる書目の滅亡は真に悲むべきであった。
Kと一緒に暫らく灰燼の中を左視右顧しつゝ
四壁の書架は尽く焼燼して一片紙の残るものだに無かった。日本の思想界を賑わしたトルストイもニーチェもワイニンゲルもストリンドベルグもハウプトマンもアンドレーフもアナトール・フランスも皆跡もなく猛火の餌食となって了った。近代的装釘技術の標本として屡々人に示したクレーマー出版の『ウェルタール・ウント・メンシハイト』の精巧細緻なレザーの模範的装釘も痕跡だになく亡び、此頃での大出版と云われる
眇たる丸善の損害は幾何でも無いが、一万三千余種八万巻の書冊は其数量に於てこそ堂々たる大図書館の十分一将た二十分一にも過ぎないが、其質に於ては大図書館にこそ及ばざれ、尋常普通の文庫に勝るものがあった。之を区々一商店の損失として金銭を以て算当すべきでは無かろう。
古来焚書の厄は屡々歴史に散見する。殊にアレキサンドリアの文庫の滅亡は惨絶凄絶を極めて、永く後世をして転た浩嘆せしめる。近頃之を後人の仮作とする史家の説もあるが、聖経、詩賦、文章、歴史等古代の文献が尽く猛火の餌食となって焔々天を焦がし、尊いマニュスクリプトを焚いて風呂まで沸かしたというに到っては匹夫の手に果てたる英雄の最期を聞く如き感がある。一書肆の災を以て歴史上の大事件に比するは倫を失したもので聊か滑稽に類するかも知れないが、昨日までは金銀五彩の美くしいのを誇った書冊が目のあたりに灰となり泥となってるを見、現に千金を値いする大美術書を足下に踏まえてるを気が付くと、人世無常の感に堪えない。彼処には“Indian Archives”が炭のように焼けておる。此処にはロガンの“Journal of Indian Archipelago”が黒き灰文字となって僅かに面影を残しておる。見よ、心なき消火夫か泥草鞋もて
此満目傷心の惨状に感慨禁ずる能わず、暫らくは焼けた材木の上を飛び/\、余熱に煽られつゝ彼方此方に佇立低徊していた。其中に面会者があると云って呼びに来たので、何の書断片であるかは知らないが満文蒙文或るは瓜哇文の散紙狼藉たる中を、タイプライターの赤く焼けた残骸二ツ三ツが無残に転がってるを横に見つゝ新築家屋の事務所へ戻ると、人声が四壁に反響して騒然、喧然、雑然、
重役の二三人は新聞記者に包囲されていた。自分に特に面会を求めたのも新聞記者であって、或人は損害の程度を訊いた。或人は保険の額を訊いた。或人は営業開始の時期を訊いた。或人は焼けた書籍の中の特記すべきものを訊いた。或人は丸善の火災が文明に及ぼす影響などゝ云う大問題を提起した。中には又突拍子もない質問を提出したものもあった。曰く、『焼けた本の目録はありますか?』
丸善は如何に機敏でも常から焼けるのを待構えて、焼けるべく予想する本の目録を作って置かない。又焼けてから半日経たぬ間に焼けた本の目録を作るは丸善のような遅鈍な商人には決して出来ない。概算一万三千種の書目を作るは十人のタイピストが掛っても二日や三日では出来るものではない。恐らく此記者先生は丸善を雑誌屋とでも思ったのであろう。此質問一ヵ条を持出して、『目録は出来ていません』と答えると直ぐ『さよなら』と帰って了った。
見舞人は続々来た。受附の店員は代る/″\に頭を下げていた。丁度印刷が出来て来た答礼の葉書の上書きを五人の店員が
誰一人
||明治四十一年十二月十一日、火災の翌日記||