私は、
私のたたかい。それは、一言[#「一言」は底本では「一事」]で言えば、古いものとのたたかいでした。ありきたりの気取りに対するたたかいです。見えすいたお
私は、エホバにだって誓って言えます。私は、そのたたかいの為に、自分の持ち物全部を失いました。そうして、やはり私は独りで、いつも酒を飲まずには居られない気持で、そうして、どうやら、負けそうになって来ました。
古い者は、意地が悪い。何のかのと、
私は、負けそうになりました。
先日、或るところで、下等な酒を飲んでいたら、そこへ年寄りの文学者が三人はいって来て、私がそのひとたちとは知合いでも何でも無いのに、いきなり私を取りかこみ、ひどくだらしない酔い方をして、私の小説に
「ひとが、ひとが、こんな、いのちがけで必死で書いているのに、みんなが、軽いなぶりものにして、······あのひとたちは、先輩なんだ、僕より十も二十も上なんだ、それでいて、みんな力を合せて、僕を否定しようとしていて、······
などと、とりとめの無い事をつぶやきながら、いよいよ
「おやすみなさい、ね。」
と言い、私を寝床に連れて行きましたが、寝てからも、そのくやし泣きの嗚咽が、なかなか、とまりませんでした。
ああ、生きて行くという事は、いやな事だ。
その、くやし泣きに泣いた日から、数日後、或る雑誌社の、若い記者が来て、私に向い、妙な事を言いました。
「上野の浮浪者を見に行きませんか?」
「浮浪者?」
「ええ、一緒の写真をとりたいのです。」
「僕が、浮浪者と一緒の?」
「そうです。」
と答えて、落ちついています。
なぜ、特に私を選んだのでしょう。太宰といえば、浮浪者。浮浪者といえば、太宰。何かそのような因果関係でもあるのでしょうか。
「参ります。」
私は、泣きべその気持の時に、かえって反射的に相手に立向う性癖を持っているようです。
私はすぐ立って背広に着換え、私の方から、その若い記者をせき立てるようにして家を出ました。
冬の寒い朝でした。私はハンカチで
思うに、太宰はあれは小心者だから、ウイスキイでも飲ませて少し元気をつけさせなければ、浮浪者とろくに対談も出来ないに違いないという本社
けれども私はそれを飲みました。グイグイ飲みました。そうして、応接間に集って来ていた記者たちにも、飲みませんか、と言ってすすめました。しかし、皆うす笑いして飲まないのです。そこに集って来ていた記者たちは、たいていひどいお酒飲みなのを私は
私だけが酔っぱらい、
「なんだい、君たちは失敬じゃあないか。てめえたちが飲めない程の珍妙なウイスキイを、客にすすめるとは、ひどいじゃないか。」
と笑いながら言って、記者たちは、もうそろそろ太宰も酔って来た、この勢いの消えないうちに、浮浪者と対面させなければならぬと、いわばチャンスを逃さず、私を自動車に乗せ、上野駅に連れて行き、浮浪者の巣と言われる地下道へ導くのでした。
けれども、記者たちのこの用意周到の計画も、あまり成功とは言えないようでした。私は、地下道へ降りて何も見ずに、ただ
「煙草は、よし
少年たちは、吸い掛けの煙草を素直に捨てました。すべて拾歳前後の、ほんの子供なのです。私は焼鳥屋のおかみに向い、
「おい、この子たちに一本ずつ。」
と言い、実に、へんな情なさを感じました。
これでも、善行という事になるのだろうか、たまらねえ。私は唐突にヴァレリイの
もし、私のその時の行いが俗物どもから、多少でも優しい仕草と見られたとしたら、私はヴァレリイにどんなに軽蔑されても致し方なかったんです。
ヴァレリイの言葉、||善をなす場合には、いつも
私は
四五人の記者たちが、私の後を追いかけて来て、
「どうでした。まるで地獄でしょう。」
別の一人が、
「とにかく、別世界だからな。」
また別の一人が、
「驚いたでしょう? 御感想は?」
私は声を出して笑いました。
「地獄? まさか。僕は少しも驚きませんでした。」
そう言って上野公園の方に歩いて行き、私は少しずつおしゃべりになって行きました。
「実は、僕なんにも見て来なかったんです。自分自身の苦しさばかり考えて、ただ真直を見て、地下道を急いで通り抜けただけなんです。でも、君たちが特に僕を選んで地下道を見せた理由は、
みんな大笑いしました。
「いや、冗談じゃない。君たちには気がつかなかったかね。僕は、真直を見て歩いていても、あの薄暗い
また、みんながどっと笑いました。
「美男子の件はとに角、そのほかに何か発見出来ましたか。」
と問われて私は、
「煙草です。あの美男子たちは、酒に酔っているようにも見えなかったが、煙草だけはたいてい吸っていましたね。煙草だって、安かないんだろう。煙草を買うお金があったら、
上野公園前の広場に出ました。さっきの四名の少年が冬の真昼の
「そのまま、そのまま。」
ひとりの記者がカメラを私たちの方に向けて叫び、パチリと写真をうつしました。
「こんどは、笑って!」
その記者が、レンズを
「顔を見合せると、つい笑ってしまうものだなあ。」
と言って笑い、私もつられて笑いました。
天使が空を舞い、神の
附記
この時うつした写真を、あとで記者が持って来てくれた。笑い合っている写真と、それからもう一枚は、私が浮浪児たちの前にしゃがんで、ひとりの浮浪児の足をつかんでいる
さらに一つ、笑い話を附け加えよう。その二枚の写真が届けられた時、私は女房を呼び、
「これが、上野の浮浪者だ。」
と教えてやったら、女房は
「はあ、これが浮浪者ですか。」
と言い、つくづく写真を見ていたが、ふと私はその女房の見詰めている個所を見て驚き、
「お前は、何を感違いして見ているのだ。それは、おれだよ。お前の亭主じゃないか。浮浪者は、そっちの方だ。」
女房は生真面目過ぎる程の性格の所有者で、冗談など言える女ではないのである。本気に私の姿を浮浪者のそれと見誤ったらしい。