これは、れいの飲食店閉鎖の命令が、
新宿辺も、こんどの戦火で、ずいぶん焼けたけれども、それこそ、ごたぶんにもれず最も早く復興したのは、飲み食いをする家であった。帝都座の裏の若松屋という、バラックではないが急ごしらえの二階建の家も、その一つであった。
「若松屋も、
「イグザクトリイ。あいつは、うるさい。フウルというものだ。」
そう言いながらも僕たちは、三日に一度はその若松屋に行き、そこの二階の六畳で、ぶっ倒れるまで飲み、そうして
僕はすぐに出かけ、酔っぱらって、そうして、泊った。姉というのはもう、初老のあっさりしたおかみさんだった。
何せ、借りが利くので
「林芙美子さんだ。」
それは僕より五つも年上の頭の
「あら、だって、······」
小説というものがメシよりも好きと
「林先生って、男の方なの?」
「そうだ。高浜
「みんな小説家?」
「まあ、そうだ。」
それ以来、その洋画家は、新宿の若松屋に
いちど僕は、ピアニストの川上六郎氏を、若松屋のその二階に案内した事があった。僕が下の御不浄に降りて行ったら、トシちゃんが、お
「あのかた、どなた?」
「うるさいなあ。誰だっていいじゃないか。」
僕も、さすがに閉口していた。
「ね、どなた?」
「川上っていうんだよ。」
もはや向っ腹が立って来て、いつもの冗談も言いたく無く、つい本当の事を言った。
「ああ、わかった。川上眉山。」
「馬鹿野郎!」
と言ってやった。
それ以来、僕たちは、面と向えば彼女をトシちゃんと呼んでいたが、かげでは、眉山と呼ぶようになった。そうしてまた、若松屋の事を眉山軒などと呼ぶ人も出て来た。
眉山の年齢は、はたち前後とでもいうようなところで、その
けれども、その無智と
「でも、基本的人権というのは、······」
と、誰かが言いかけると、
「え?」
とすぐに出しゃばり、
「それは、どんなんです? やはり、アメリカのものなんですか? いつ、配給になるんです?」
眉山ひとり、いかにも楽しげな笑顔で、
「だって、教えてくれないんですもの。」
「トシちゃん、下にお客さんが来ているらしいぜ。」
「かまいませんわ。」
「いや、君が、かまわなくたって、······」
だんだん不愉快になるばかりであった。
「白痴じゃないですか、あれは。」
僕たちは、眉山のいない時には、思い切り
「いかに何でも、ひどすぎますよ。この家も、わるくはないが、どうもあの眉山がいるんじゃあ。」
「あれで案外、
「わあ! たまらねえ。」
「いや、おおきにそうかも知れん。なんでも、あれは、貴族、······」
「へえ? それは初耳。めずらしい話だな。眉山みずからの御託宣ですか?」
「そうですとも。その貴族の一件でね、あいつ大失敗をやらかしてね、誰かが、あいつをだまして、ほんものの貴婦人は、おしっこをする時、しゃがまないものだと教えたのですね、すると、あの馬鹿が、こっそり御不浄でためしてみて、いやもう、四方八方に飛散し、御不浄は海、しかもあとは、知らん顔、御承知でしょうが、ここの御不浄は、裏の菓物屋さんと共同のものなんですから、菓物屋さんは怒り、下のおかみさんに抗議して、犯人はてっきり僕たち、酔っぱらいには困る、という事になり、僕たちが無実の罪を着せられたというにがにがしい経験もあるんです、しかし、いくら僕たちが酔っぱらっていたって、あんな大洪水の失礼は致しませんからね、不審に思って、いろいろせんさくの結果、眉山でした、かれは僕たちにあっさり白状したんです、御不浄の構造が悪いんだそうです。」
「どうしてまた、貴族だなんて。」
「いまの、はやり言葉じゃないんですか? 何でも、眉山の家は、静岡市の名門で、······」
「名門? ピンからキリまであるものだな。」
「住んでいた家が、ばかに大きかったんだそうです。戦災で全焼していまは落ちぶれたんだそうですけどね、何せ帝都座と同じくらいの大きさだったというんだから、おどろきますよ。よく聞いてみると、何、小学校なんです。その小学校の小使さんの娘なんですよ、あの眉山は。」
「うん、それで一つ思い出した事がある。あいつの階段の昇り降りが、いやに乱暴でしょう。昇る時は、ドスンドスン、降りる時はころげ落ちるみたいに、ダダダダダ。いやになりますよ、ダダダダダと降りてそのまま御不浄に飛び込んで扉をピシャリッでしょう。おかげで僕たちが、ほら、いつか、
「聞けば聞くほど、いやになる。あすからもう、
そのような決意をして、よその飲み屋をあちこち
はじめは僕の案内でこの家へ来たれいの頭の
あたたかくなって、そろそろ桜の花がひらきはじめ、僕はその日、前進座の若手俳優の中村国男君と、眉山軒で逢って或る用談をすることになっていた。用談というのは、実は彼の縁談なのであるが、少しややこしく、僕の家では、ちょっと声をひそめて相談しなければならぬ事情もあったので、眉山軒で逢って互いに大声で論じ合うべく約束をしていたのである。中村国男君も、その頃はもう、眉山軒の半常連くらいのところになっていて、そうして眉山は、彼を中村
行ってみると、中村武羅夫先生はまだ来ていなくて、林先生の橋田新一郎氏が土間のテーブルで、ひとりでコップ酒を飲みニヤニヤしていた。
「壮観でしたよ。眉山がミソを踏んづけちゃってね。」
「ミソ?」
僕は、カウンターに
おかみさんは、いかにも不機嫌そうに眉をひそめ、それから仕方無さそうに笑い出し、
「話にも何もなりやしないんですよ、あの子のそそっかしさったら。外からバタバタ眼つきをかえて
「踏んだのか。」
「ええ、きょう配給になったばかりのおミソをお重箱に山もりにして、私も置きどころが悪かったのでしょうけれど、わざわざそれに片足をつっ込まなくてもいいじゃありませんか。しかも、それをぐいと引き抜いて、
と言いかけて、さらに大声で笑った。
「お便所にミソは、まずいね。」
と僕は笑いをこらえながら、
「しかし、御不浄へ行く前でよかった。御不浄から出て来た足では、たまらない。何せ眉山の
「何だか、知りませんがね、とにかくあのおミソは使い物になりやしませんから、いまトシちゃんに捨てさせました。」
「全部か? そこが大事なところだ。時々、朝ここで、おみおつけのごちそうになる事があるからな。後学のために、おたずねする。」
「全部ですよ。そんなにお疑いなら、もう、うちではお客さまに、おみおつけは、お出し致しません。」
「そう願いたいね。トシちゃんは?」
「
と橋田氏は引き取り、
「とにかく壮烈なものでしたよ。私は見ていたんです。ミソ踏み眉山。
「いや、芝居にはなりますまい。おミソの小道具がめんどうです。」
橋田氏は、その日、用事があるとかで、すぐに帰り、僕は二階にあがって、中村先生を待っていた。
ミソ踏み眉山は、お銚子を持ってドスンドスンとやって来た。
「君は、どこか、からだが悪いんじゃないか? 傍に寄るなよ、けがれるわい。御不浄にばかり行ってるじゃないか。」
「まさか。」
と、たのしそうに笑い、
「私ね、小さい時、トシちゃんはお便所へいちども行った事が無いような顔をしているって、言われたものだわ。」
「貴族なんだそうだからね。······しかし、僕のいつわらざる実感を言えば、君はいつでもたったいま御不浄から出て来ましたって顔をしているが、······」
「まあ、ひどい。」
でも、やはり笑っている。
「いつか、羽織の
「あんな事ばかり。」
平然たるものである。
「おい、君、汚いじゃないか。客の前で、爪の
「あら、だって、あなたたちも、皆こうしていらっしゃるんでしょう? 皆さん、爪がきれいだわ。」
「ものが違うんだよ。いったい、君は、風呂へはいるのかね。正直に言ってごらん。」
「それあ、はいりますわよ。」
と、あいまいな返事をして、
「私ね、さっき本屋へ行ったのよ。そうしてこれを買って来たの。あなたのお名前も出ていてよ。」
ふところから、新刊の文芸雑誌を出して、パラパラ頁を繰って、その、僕の名前の出ているところを捜している様子である。
「やめろ!」
こらえ切れず、僕は怒声を発した。打ち据えてやりたいくらいの
「そんなものを、読むもんじゃない。わかりやしないよ、お前には。何だってまた、そんなものを買って来るんだい。無駄だよ。」
「あら、だって、あなたのお名前が。」
「それじゃ、お前は、僕の名前の出ている本を、全部片っ端から買い集めることが出来るかい。出来やしないだろう。」
へんな論理であったが、僕はムカついて、たまらなかった。その雑誌は、僕のところにも恵送せられて来ていたのであるが、それには僕の小説を、それこそ、クソミソに非難している論文が載っているのを僕は知っているのだ。それを、眉山がれいの、けろりとした顔をして読む。いや、そんな理由ばかりではなく、眉山ごときに、僕の名前や、作品を、少しでもいじられるのが、いやでいやで、堪え切れなかった。いや、案外、小説がメシより好き、なんて言っている連中には、こんな眉山級が多いのかも知れない。それに気附かず、作者は、汗水流し、妻子を犠牲にしてまで、そのような読者たちに奉仕しているのではあるまいか、と思えば、泣くにも泣けないほどの残念無念の情が胸にこみ上げて来るのだ。
「とにかく、その雑誌は、ひっこめてくれ。ひっこめないと、ぶん殴るぜ。」
「わるかったわね。」
と、やっぱりニヤニヤ笑いながら、
「読まなけれあいいんでしょう?」
「どだい、買うのが馬鹿の証拠だ。」
「あら、私、馬鹿じゃないわよ。子供なのよ。」
「子供? お前が? へえ?」
僕は二の句がつげず、しんから、にがり切った。
それから数日後、僕はお酒の飲みすぎで、突然、からだの調子を悪くして、十日ほど寝込み、どうやら
「眉山軒ですか?」
「ええ、どうです、一緒に。」
と、僕は橋田氏を誘った。
「いや、私はもう行って来たんです。」
「いいじゃありませんか、もう一回。」
「おからだを、悪くしたとか、······」
「もう大丈夫なんです。まいりましょう。」
「ええ。」
橋田氏は、そのひとらしくも無く、なぜだか、ひどく
裏通りを選んで歩きながら、僕は、ふいと思い出したみたいな口調でたずねた。
「ミソ踏み眉山は、相変らずですか?」
「いないんです。」
「え?」
「きょう行ってみたら、いないんです。あれは、死にますよ。」
ぎょっとした。
「おかみから、いま聞いて来たんですけどね、」
と橋田氏も、まじめな顔をして、
「あの子は、
「そうですか。······いい子でしたがね。」
思わず、溜息と共にその言葉が出て、僕は
「いい子でした。」
と、橋田氏は、落ちついてしみじみ言い、
「いまどき、あんないい気性の子は、めったにありませんですよ。私たちのためにも、一生懸命つとめてくれましたからね。私たちが二階に泊って、午前二時でも三時でも眼がさめるとすぐ、下へ行って、トシちゃん、お酒、と言えば、その一ことで、ハイッと返事して、寒いのに、ちっともたいぎがらずにすぐ起きてお酒を持って来てくれましたね、あんな子は、めったにありません。」
涙が出そうになったので、僕は、それをごまかそうとして、
「でも、ミソ踏み眉山なんて、あれは、あなたの命名でしたよ。」
「悪かったと思っているんです。腎臓結核は、おしっこが、ひどく近いものらしいですからね、ミソを踏んだり、階段をころげ落ちるようにして降りてお便所にはいるのも、無理がないんですよ。」
「眉山の
「きまっていますよ、」
と橋田氏は、僕の茶化すような質問に立腹したような口調で、
「貴族の立小便なんかじゃありませんよ。少しでも、ほんのちょっとでも永く、私たちの傍にいたくて、我慢に我慢をしていたせいですよ。階段をのぼる時の、ドスンドスンも、病気でからだが大儀で、それでも、無理して、私たちにつとめてくれていたんです。私たちみんな、ずいぶん世話を焼かせましたからね。」
僕は立ちどまり、
「ほかへ行きましょう。あそこでは、飲めない。」
「同感です。」
僕たちは、その日から、ふっと