丁度夏に向つてる、すべての新鮮な若葉とおなじやうに、
多緒子は産後思はしくなかつたけれども、彼女の若い肉體には、別に少しのやつれも見えなかつた。やはり艶のいゝ生き/\した頬をして、娘の時のやうにありあまるやうな黒髮を手輕な銀杏返しに結つて、白い兩腕を
彼女は忽ちいつか電車のなかで見た、桃割に結つた内氣なおとなしい十六七の娘の淋しさうな横顏を思ひ浮べた。そしてそれが自分の娘であつた。彼女はその娘に對するいろ/\の心づかひや、衣服の選擇などを思ひ浮べた。
また彼女はいつか道ですれ違つた、海老茶色のリボンを前髮につけた眼の大きい、黒い編上げの靴をはいた快活さうな少女のことを考へた。そしてそれがまた彼女の子供であつた。彼女はすぐに通學する用意や、それに對する種々な注意、リボンの色合や袴の色について考をめぐらした。そして多緒子は、自分の持つてるフランス製の小さな女持の金時計を、その子供に與へなければならないと思つたのであつた。
けれども多緒子はまづ氣がついたやうに、第一、六つになつたならば幼稚園に通はせなければならないのだと考へた。また白いエプロンをかけて、赤い羅紗の輕い靴をはかせて、道を眞直に迷はないで石ころをよけて歩くやうに、片手をひいて幼稚園まで送つて行かなければならないのだと思ふと、彼女の瞳は急にうつむくやうになつて、淋しさうに考へ込んだ。そしてなにかにおどかされたやうに、側にねせてあつた赤ん坊の上にかぶさるやうになつて、新らしい果物のやうな赤ん坊の香りをかぎながら、やはらかな頬に顏を押しつけて、
『いつまでも、いつまでもこのまゝでゐるやうに。』
と、口の中でつぶやいた。そして多緒子は、大きな瞳をうるませながら、いろんな考へを振り切るやうにして、一生懸命働いた。
多緒子は、丁度二年程前に病氣で片足を失つた不自由な肉體であつた。それで彼女は姙娠するとすぐに、不具の親を持つた子の悲しみと、不具の子を持つた親の悲しみとを考へたのであつた。けれども、それは各々にとつて唯一な最愛なものなのだ、多緒子は自分の爲めに絶えず悲しんだ、自分の母親やまた姉の不具をはづかしく思つた妹のことなどを考へた。
多緒子は自分が母にならうとした時、そしてまた母になつてしまつてからでも、たえず我子がかつて母親の人並にすこやかであつた姿を見ることが出來ずに、まづ最初に知る母としての唯一のものが、不具であるのを知つた時に、なにも知らない、いとしい不幸な我子に對して、何といふ云ひわけをしたらいゝだらうと涙にくれた。
けれども多緒子は、自分の肉體に對して我子に云ひわけする何物もなかつた。彼女は自分が不具にならなければならなかつたことについては、何にも知らない、只病氣の爲めにといふ、その一言より知らないのである。けれども我子は必ず、『なぜ病氣になつたの。』と聞くに違ひない、けれども彼女自身もなぜ病氣になつたのか知らないのだ。
『身體が弱かつたから。』
『なぜ、身體が弱かつたの。』子供はまた聞くに違ひない。けれども彼女はなぜ自分が弱かつたかといふことについては、何と答へていゝか知らない。それよりも子供は
若い母親の多緒子は、そんなことを思ひつゞけて涙にくれた。彼女はまた無心の
『なぜお母樣は、足が一本ないの。』
『お母樣はね。』と彼女自身は云ひきかせるやうに誠らしく念をおして、
『お前を産む爲めに苦しんで、そして病氣になつて足を切つてしまつたの。』
けれども多緒子は急に胸がふさがつて、眼にいつぱいの涙が浮んで來ると、泣き出しさうな心になつた。なぜ自分は、そんな嘘を誠らしく本當に云はうとしてるのだらう。多緒子は、自分が不具であるといふ苦しさ悲しさの責任を、何も知らない、そして彼女の言葉のすべてを信じようとして、瞳を見張つてゐる我子の肩に荷なはせようとしたのだけれども、それは殆ど無意識に、多緒子の苦しい愛の悲しみのなかに彼女が考へたことであつたのだ。そして彼女は自分のその嘘によつてでも、我子のあはれみと愛とを求めようとしたのである。
多緒子は、涙をはらつて、自分自身をいまはしく思つた。そして赤ん坊の無心な顏をぢつと見つめて、また新らしく涙をながした。
『私は、この可愛い自分の子供を負つて歩くことも、手を引いて歩くことも、そして抱いて歩くことも出來ないのだ。子供はいまに知らないで、この母親の脊に手をかけておんぶと云ふだらう。そして抱いて坐つてゐると、立つて部屋のなかを歩けといふだらう。その時私はどうして、涙なしに出來ないといふことが出來るだらうか。子供にとつてそれは正常なことであるのに、私には絶對に出來ないのだ。そして軈て子供は自分の母親の肉體に氣づくだらう。子供はまづ初めに母親によつて、世の中の大きな不當を考へるだらう。疑を持つだらう。そして悲しみが子供の小さな心を包むに違ひない。』
多緒子は、いつもかういふ事を考へた揚句が、自分の生きてることが子供にとつて幸か不幸かといふことに思ひ至るのであつた。勿論彼女は決して幸福だとは思はないのである。そして多緒子は、いつも自分の死を考へてる刹那でも少しの躊躇もなく、我子の未來の成長した時のさま/″\の幻を描いてるのであつた。
赤ん坊の幸子は、多緒子にとつてもまた夫の
二人ははじめ各ひそかに赤ん坊の肉體をくまなく注意深く見て、少しのきずも少しの間違もないのを見ると、非常な安堵と感謝の心持とを深く感じた。多緒子はおどおどして赤ん坊と二人きりの時、幾度となく赤ん坊の縮こまつてる兩足を、そつとのばしてはくらべて見た。一分でもちがつてゐたら、成長してから一寸の違ひにもなるであらう。多緒子は常にある恐怖を持つて我子、我夫、すべて愛するものゝ足といふことを考へてゐたのであつた。
けれども幸子は二人の間に、本當に初夏の若葉のやうに快よく目に見えて幸福さうに育つた。二人はふとした休息の時に、寢入つてる幸子の顏をのぞき込んで、新らしい果物のやうな、甘い快い香ひをかぎながら、微笑み合つた。
『なんて完全に心持よく大きくなつたらう。』
『本當に、なんて
と、なにか云ひたいことが、とても口で事はれないと云つたやうにある感慨にみたされて云つた。二人はそのひまもぢつと幸子を見てゐた。やがて巍は、多緒子の顏を見ながら云つた。
『二人の愛のなかに産れた子供なだもの[#「なだもの」はママ]、全く全く純な愛、清らかな肉體から生れた子供だもの。だから幸子は、こんなに完全で氣持がよくきれいなんだよ。それが普通なんだもの。』
『本當にね。』
多緒子は涙を浮べてうなづいた。そして愛するものゝ爲めに、彼女は出來るだけの心づかひを持つて、一生懸命に働いた。
けれども
するとある日、夜半に目覺めた多緒子の
夜があけると、その日は細かい雨がふつてゐた。彼女は漸く床をはひ出て、
多緒子は、その日の
多緒子は肺が惡かつたのである。そして醫者は、少しの猶豫もなく空氣のいゝ海岸に轉地しなければ、いまにうごかすことが出來なくなるといふことを言つた。そしてそれと同時に、
けれども巍はこの海岸に來ると間もなく、繪をかく爲めに旅に出なければならなかつた。彼は畫家であつた。そしてその繪によつて生活しなければならなかつたので、彼は病める妻と子とを殘して、どうしても旅に出かけねばならなかつた。
『悲しんではいけない、ね、』と、多緒子が白い
『ぢや行つて來るぞ、ぢや行くぞ、いゝか。』
と言ひながら、
『どうした。』と言つてあわてゝのぞき込んだ。
『ぢや、いゝか。行くぞ。』
巍は
多緒子は、寢たまゝで夜と晝とをうつゝのやうに暮した。二人の女中が雇はれて一人は
幸子の咳はあまりひどい咳ではなかつたけれども、咳の出る度に幸子ははげしく泣いた。そして非常に機嫌が惡く、寢てゐる多緒子のそばから少しもはなれまいとした。そして幸子は夜中母親の力ない胸にすがつて乳をのんだ、多緒子は非常によく乳が出た。そして病氣になつてもやはり幸子が呑むせゐか、前と少しもかはりはなく、あふれる程出た。けれども夜中我子に乳を呑ませてゐる多緒子は、丁度すべての血管から血を吸ひとられてゐるやうに苦しかつた。彼女はあけ
幸子はいつも悲しさうに泣きながら、きたない女の脊中に負はれて海の
たんぽさん、たんぽさん、お前の國はどこじやいな。房州の房州の外房州。||
と歌ひながら、ぶらり/\と歩いて行くのであつた。多緒子は、ぢつと動かないやうに眼を閉ぢながら涙をためた。子供の細い泣き聲がいつまでも/\きこえてゐた。
たんぽさん、たんぽさん、お前のお國はどこじやいな。房州の房州の外房州。||
といふ唄の聲につれて、泣きながら海の方や松林のなかに、つれられて行くのであつた。多緒子は娘であつた頃病といふものを少しも怖れてゐなかつた。彼女は靜かな部屋のなかの藥とそして花の香の中で、力ない腕を見つめながら白い床の上にねてゐることは、本當に美しいことであると思つてゐた。そして殊に若く美しい花が人に
しかし多緒子はいま床の上に身を横たへながら、絶えず死の恐怖におそはれた。そして死の恐怖におそはれるが故に、彼女の悲しみは絶えなかつた。幸子の泣き聲にも、女の歌の聲にも、ゆるい波の音にも、たへがたい悲哀をおぼえた。彼女は自分の死後の悲慘な子供の未來が胸に浮んでならなかつた。
自分がゐなくなつたならば、誰が
多緒子はしみ/″\と自分の心、自分の力、自分の愛が家のなかのすべてのものに、夫と子供の心のすべてに肉體のすべてに行き渡つて流れてゐることを感じた。そして自分の生きてるといふことが愛する夫や子供の幸福の幾分にでもなつてゐるのだと云ふことを考へると、一日でも一時間でもながく彼等の爲めに生きなければならないと考へた、彼女は死を怖れた。病を悲しんだ。もしもこの病が旅に出てゐる夫を再び見ることをさせず、慕う子供を殘して自分を死に導いたならば||と思ふのであつた。
夫の
『どうした、別に幸子もなんでもなかつたか。』
と巍は嬉しさうになつかしさうに笑ひながら、眼に涙を浮べた。彼は急に立つてそして着物をぬぎながら、
『どうした。どうしてゐた。變つたこともなかつたか、苦しいやうなこともなかつたか。』
と、部屋のなかを歩きながら繰りかへした。
多緒子は、そつと床の上に起き上つた。幸子は、やがて目覺めた。
『どうした、待つてたか。』
巍は、あわてゝ幸子の顏に顏を押しあてゝ抱き上げた、幸子は彼の顏を見ると泣き出した。彼は部屋のなかを歩きまはつた。すると幸子は急に泣きやんで彼の顏を見ると笑つた。
多緒子は嬉しさうにその樣子をぢつと見てゐた。
その夜、多緒子は夫に自分の死に對する恐怖を物語つた。そして彼女はつけ加へた。
『そして私はこんな事まで考へますの。私は肺が惡いんでせう、肺は
と彼女は顏に手をあてた。
『本當に、どうかして出來る丈のことをして癒さう、それでも癒らないで、お前が死なゝければならない時には、幸子も俺も死んだ方が幸福なのだ。お前が死ぬ時には、きつとみんな一緒に死なう。幸子が孤兒になる。そんなことは決してない。』
死なうとするのも、生きようとするのも、すべて愛の爲めであつた。そして生きることも死ぬことも絶對なのだ、若い兩親は、
多緒子は衰弱した。そして幸子が彼女の乳をのむことは、彼女の血を眞實吸ひとるかのやうに思はれた。彼女と
部屋のなかに散らばつてゐた幸子の必要なすべての品々は持ち去られた。そして横になつてる多緒子は眼をうすくして室内を見廻したが、我子のものは何物もなかつた。彼女は靜かに眼を閉ぢて眠りに入らうとしたが、心のなかには何物も待つものゝない頼りなさ、目覺めても
幸子をつれて置いて來た
『幸子が泣いてつれられて來たんぢやないか、たしかに幸子の泣き聲だ、俺は泣いてこまるやうだつたら、すぐつれて來てくれと言つて來たんだから。』
と、あわてたやうに
その夜
巍は氣がついたやうに、幸子の樣子を見てくると言つて家を出た。家のなかはすつかり靜まりかへつてしまつた。
多緒子は、その靜けさのなかに一人とり殘されたやうに、ぢつと眼を閉ぢてゐることが出來なかつた。彼女の心は我子を思ふ愛情の堪へがたさに波うつて、そしてはげしくふるへてゐた。彼女はたゞ一人靜かに起き上つた、そして力なくゐざりながら窓際によつて、霧につゝまれた裏の松林の
『母さんや、母さんや、』
ふつと霧につゝまれた松林のなかから、
『
多緒子は、
『あゝ可哀想に、可哀想になあ。』
『どんな風にして居りまして、おとなしく遊んで居りまして。』と、氣づかはしさうに彼の顏を見た。
『駄目だ。俺はもう
と、いつか巍の言葉は幸子に對して言つてゐるのであつた。多緒子は、その話を聞いて涙ぐみながら、もはやほゝ笑んで乳房からはなれてゐた幸子の身體を、着物をほどいて見てゐた。本當に一つも蚤にくはれなかつた子供の美しい肌が、
あゝそればかりでない、多緒子は一夜のうちに清い、美しい、愛する我子がどことなくよごされ、どことなく汚されたものゝやうになつたやうな氣がした。如何なる血のものか、いかなる
またすべて、只の一夜で幸子のものが部屋のなかに擴げられ、部屋のなかに我子のすべてが行き渡つてるやうな氣がした。
それから
夏がすぎて爽やかな秋になろうとするころ、多緒子の肉體もいつか心よくなつて來た。氣の向いた朝や夕べには、折々砂の上に片足をおろすこともあつた。そして幸子の咳は殆んど忘れたやうに根だえてゐた。
幸子は、機嫌がよくなつた。めつたに泣く事がなかつた。そしてまた肥えて來た。
『かあさん、かあさん。』と呼んだ。多緒子は床のなかで、
『かあさん、かあさん。』
巍の聲がまた彼女の耳にひつついて來ると、多緒子は笑ひながら起き上つて、ゐざりながら縁側に出た。そして遠い砂山の上に立つて、落日に顏を赤くそめながら、夕風に髮をふかれて、
彼女は笑つた。そして
『
と呼んだ。