イサク、父 アブラハムに語 りて、
父 よ、と曰 ふ。
彼 、答 へて、
子 よ、われ此 にあり、
といひければ、
||創世記二十二ノ七
といひければ、
||創世記二十二ノ七
義のために、わが子を犠牲にするという事は、人類がはじまって、すぐその直後に起った。信仰の祖といわれているアブラハムが、その信仰の義のために、わが子を殺そうとした事は、旧約の創世記に録されていて有名である。
ヱホバ、アブラハムを試みんとて、
アブラハムよ、
と呼びたまふ。
アブラハム答へていふ、
われここにあり。
ヱホバ言ひたまひけるは、
アブラハム、朝つとに起きて、その
イサク、父アブラハムに語りて、
父よ、
と言ふ。
彼、こたへて、
子よ、われここにあり、
といひければ、
イサクすなはち父に言ふ、
火と
アブラハム、言ひけるは、
子よ、神みづから、いけにへの小羊を備へたまはん。
アブラハム、壇を築き、柴薪をならべ、その子イサクを縛りて、
すなはち、アブラハム、手を伸べ、刀を執りて、その子を殺さんとす。
時に、ヱホバの使者、天より彼を呼びて、
アブラハムよ、
アブラハムよ、
と言へり。
彼言ふ、
われ、ここにあり。
使者の言ひけるは、
汝の手を
何をも彼に為すべからず、
汝はそのひとりごをも、わがために惜まざれば、われいま汝が神を
洋の東西を問わず、また信仰の対象の何たるかを問わず、義の世界は、
佐倉宗吾郎一代記という活動写真を見たのは、私の七つか八つの頃の事であったが、私はその活動写真のうちの、宗吾郎の幽霊が悪代官をくるしめる場面と、それからもう一つ、雪の日の子わかれの場を、いまでも忘れずにいる。
宗吾郎が、いよいよ
七つ八つの私は、それを見て涙を流したのであるが、しかし、それは泣き叫ぶ子供に同情したからではなかった。義のために子供を捨てる宗吾郎のつらさを思って、たまらなくなったからであった。
そうして、それ以来、私には、宗吾郎が忘れられなくなったのである。自分がこれから生き伸びて行くうちに、必ずあの宗吾郎の子別れの場のような、つらくてかなわない思いをする事が、二度か三度あるに違いないという予感がした。
私のこれまでの四十年ちかい生涯に於いて、幸福の予感は、たいていはずれるのが
私さえいなかったら、すくなくとも私の周囲の者たちが、平安に、落ちつくようになるのではあるまいか。私はことし既に三十九歳になるのであるが、私のこれまでの文筆に
親が無くても子は育つ、という。私の場合、親が有るから子は育たぬのだ。親が、子供の貯金をさえ使い果している始末なのだ。
炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだろう。とても、いたたまらない気がするのである。炉辺が、こわくてならぬのである。
午後三時か四時頃、私は仕事に一区切りをつけて立ち上る。机の引出しから
そうして、ことしの四月には、また子供が生れるという。それでなくても乏しかった衣類の、大半を、戦火で焼いてしまったので、こんど生れる子供の
ついさっき私は、「義のために」遊ぶ、と書いた。義? たわけた事を言ってはいけない。お前は、生きている資格も無い
それは、たしかに、盗人の
こんな
それらの不潔な
ことしの正月、十日頃、寒い風の吹いていた日に、
「きょうだけは、家にいて下さらない?」
と家の者が私に言った。
「なぜだ。」
「お米の配給があるかも知れませんから。」
「僕が取りに行くのか?」
「いいえ。」
家の者が二、三日前から
「大丈夫か?」
と私は言った。
「私がまいりますけど、子供を連れて行くのは、たいへんですから、あなたが家にいらして、子供たちを見ていて下さい。お米だけでも、なかなか重いんです。」
家の者の眼には、涙が光っていた。
おなかにも子供がいるし、背中にひとりおんぶして、もうひとりの子の手をひいて、そうして自身もかぜ気味で、一斗ちかいお米を運ぶ苦難は、その涙を見るまでもなく、私にもわかっている。
「いるさ。いるよ。家にいるよ。」
それから、三十分くらい経って、
「ごめん下さい。」
と玄関で女のひとの声がして、私が出て見ると、それは
「前田さんが、お見えになっていますけど。」
「あ、そう。」
部屋の出口の壁に吊り下げられている二重廻しに、私はもう手をかけていた。
とっさに、うまい
外には、上の女の子が立っていた。子供のほうで、
「前田さんが? ひとりで?」
私はわざと子供を無視して、おでんやの女中にたずねた。
「ええ。ちょっとでいいから、おめにかかりたいって。」
「そう。」
私たちは子供を残して、いそぎ足で歩いた。
前田さんとは、四十を越えた女性であった。永い事、有楽町の新聞社に勤めていたという。しかし、いまは何をしているのか、私にもわからない。そのひとは、二週間ほど前、年の暮に、そのおでんやに食事をしに来て、その時、私は、年少の友人ふたりを相手に
「遊ぼう。これから、遊ぼう。大いに、遊ぼう。」
と私がそのひとに言った時に、
「あまり遊べない人に限って、そんなに意気込むものですよ。ふだんケチケチ働いてばかりいるんでしょう?」
とそのひとが普通の音声で、落ちついて言った。
私は、どきりとして、
「よし、そんならこんど逢った時、僕の徹底的な遊び振りを見せてあげる。」
と言ったが、内心は、いやなおばさんだと思った。私の口から言うのもおかしいだろうが、こんなひとこそ、ほんものの不健康というものではなかろうかと思った。私は
ばかな奴だと思った。しかし、私も、ばかであった。負けたくなかった。偉そうな事を言ったって、こいつは、どうせ俗物に違いないんだ。この次には、うんと引っぱり歩いて、こづきまわして、面皮をひんむいてやろうと思った。
いつでもお相手をするから、気のむいたときに、このおでんやに来て、そうして女中を使って僕を呼び出しなさい、と言って、握手をしてわかれたのを、私は泥酔していても、忘れてはいなかった。
と書けば、いかにも私ひとり高潔の、いい子のようになってしまうが、しかし、やっぱり、泥酔の果の下等な薄汚いお色気だけのせいであったのかも知れない。
私は、その不健康な、悪魔の
「おめでとう。新年おめでとう。」
私はそんな事を前田さんに、てれ隠しに言った。
前田さんは、前は洋装であったが、こんどは和服であった。おでんやの土間の椅子に腰かけて、煙草を吸っていた。
私はただやたらにコップ酒をあおり、そうして、おもに、おでんやのおかみや女中を相手におしゃべりした。前田さんは、ほとんど何も口をきかず、お酒もあまり飲まなかった。
「きょうは、ばかに神妙じゃありませんか。」
と私は実に面白くない気持で、そう言ってみた。
しかし、前田さんは、顔を伏せたまま、ふんと笑っただけだった。
「思い切り遊ぶという約束でしたね。」と私はさらに言った。「少し飲みなさいよ。こないだの晩は、かなり飲みましたね。」
「昼は、だめなんですの。」
「昼だって、夜だって同じ事ですよ。あなたは、遊びのチャンピオンなんでしょう?」
「お酒は、プレイのうちにはいりませんわ。」
と小生意気な事を言った。
私はいよいよ興覚めて、
「それじゃ何がいいんですか?
色婆め! こっちは、子わかれの場まで演じて、遊びの附合いをしてやっているんだ。
「わたくし、帰りますわ。」女はテーブルの上のハンドバッグを引き寄せ、「失礼しました。そんなつもりで、お呼びしたのでは、······」と言いかけて、泣き
それは、実にまずい顔つきであった。あまりにまずくて、あわれであった。
「あ、ごめんなさい。一緒に出ましょう。」
女は
一緒に外へ出て、
「僕は野蛮人でね、プレイも何も知らんのですよ。お酒がだめなら、困ったな。」
なぜこのまますぐに、おわかれが出来ないのだろう。
女は、外へ出ると急に元気になって、
「恥をかきましたわ。あそこのおでんやは、わたくし、せんから知っているんですけど、きょう、あなたをお呼びしてって、おかみさんにたのんだら、とてもいやな、へんな顔をするんですもの。わたくしなんかもう、女でも何でも無いのに、いやあねえ。あなたは、どうなの? 男ですか?」
いよいよキザな事を言う。しかし、それでも私は、まださよならが言えなかった。
「遊びましょう。何かプレイの名案が無いですか?」
と、気持とまるで反対の事を、足もとの石ころを
「わたくしのアパートにいらっしゃいません? きょうは、はじめから、そのつもりでいたのよ。アパートには、面白いお友達がたくさんいますわ。」
私は
「アパートに行けば、すばらしいプレイがあるのですか?」
くすと笑って、
「何もありやしませんわ。作家って、案外、現実家なのねえ。」
「そりゃ、······」
と私は、言いかけて口を
いた! いたのだ。半病人の家の者が、白いガーゼのマスクを掛けて、下の男の子を背負い、寒風に吹きさらされて、お米の配給の列の中に立っていたのだ。家の者は、私に気づかぬ振りをしていたが、その傍に立っている上の女の子は、私を見つけた。女の子は、母の
「お嬢さんじゃありません?」
「冗談じゃない。」
笑おうとしたが、口がゆがんだだけだった。
「でも、感じがどこやら、······」
「からかっちゃいけない。」
私たちは、配給所の前を通り過ぎた。
「アパートは? 遠いんですか?」
「いいえ、すぐそこよ。いらして下さる? お友達がよろこぶわ。」
家の者にお金を置いて来なかったが、大丈夫なのかしら。私は
「行きましょう。どこか途中に、ウイスキイでも、ゆずってくれる店が無いかな?」
「お酒なら、わたくし、用意してありますわ。」
「どれくらい?」
「現実家ねえ。」
アパートの、前田さんの部屋には、三十歳をとうに越えて、やはりどうにも、まともでない感じの女が二人、あそびに来ていた。そうして色気も何もなく、いや、色気におびえて発狂気味、とでも言おうか、男よりも乱暴なくらいの態度で私に向って話しかけ、また女同士で、哲学だか文学だか美学だか、なんの事やら、まるでちっともなっていない、
義。
義とは?
その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗吾郎は子わかれの場を演じ、私は意地になって地獄にはまり込まなければならぬ、その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。