別れてながき君とわれ
今宵あひみし嬉しさを
汲てもつきぬうま酒に
薄くれなゐの染いでし
君が片頬にびんの毛の
春風ゆるくそよぐかな。」
たのしからずやこの夕
はるはゆふべの薄雲に
二人のこひもさとる哉
おぼろに匂ふ月のもと
きみ心なきほゝゑみに
わかき命やさゝぐべき。」
やよをさなこよなれが目の
さやけき色をたとふれば
夕のそらの明星か
たわゝに肥えし頬の色は
濃染の梅に白ゆきの
かゝれる色か唇の
深紅の色は汝をば
はてなくめづる此をばの
ま心にしも似たるかな
かたことまじり※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、9巻-305-下-12]様と
我が名よばるゝそのたびに
あゝわがむねに浪ぞ立つ。
あゝさるにても幼子よ
恋故くちし此をばが
よきいましめぞ忘れても
枯野か原をひとりゆく
かなしき恋をなすなかれ
千草八千草さきみてる
そのはなぞのにぬる蝶の
たのしき夢は見るもよし
あゝそれとてもつかのまよ
思へばはかなをさな子よ
など人の世にうまれ来し
いつ迄くさのいつ迄も
かくてぞあらんすべもがな
神のすがたをそのまゝに
生きての後ののちの身は
何にならんと君は思ふ
恋しき人はほゝゑみて
我は花咲く木とならむ
さらばゆかしき桜木か
朝日に匂ふさま見れば
君が心にふさはしき
すがたは外にあらじかし
さかりいみじき一ときの
夢は昨日とすぎされば
今日はとひこん人もなき
心のうらを見んもうし
さらば軒端のたちばなか
しづかふせやのうち迄も
香あまねき匂ひこそ
君が心のそれならめ
昔の恋を思ひねの
夢のまくらに香りゆき
たまも消ゆべくわび人の
なげく涙を我は見じ
されば深山の楓にか
千入にそむるくれなゐの
もゆる思ひのある君と
頼める我の違へりや
きみがかごとぞおかしさよ
秋のもみぢと我ならじ
立田の姫の御心に
淡きと濃きの恨あり
うつろひやすき人の世に
ときめく木々ぞうたてかる
松の千年はたのまねど
ゆるがぬ色のなつかしや
ミユーズの神のすべ給ふ
岩間の清水わくほとり
枝をかはして君と我
松の大樹とならんかな
夏の山行く旅人に
涼しき影をつくるべく
いろうるはしき乙女子が
恋のさはりをなげく時
うき世のうさ蔽ふべく
若き詩人の木のもとに
恋のうたはむ夕あらば
清きしらべをともに合さん
[#改ページ]
君埋れ木の時を得て
花もみもあるかの君に
とつぎますなるよろこびを
ことほぐことば我れもてど
別れの今のかなしさに
おつる涙をいかにせむ
心弱きを今さらに
あやしむ勿れ我が友よ
雲のよそなる西の京
祇園あたりの高楼の
おばしま近く彼の君と
春を惜まん夕あらば
忘れ草生ふ住吉の
松原つゞき茅渟の浦
つらはなれたる雁金の
音になくあたり忍べ君
あれかさのみ多き世に
人の心のつらき時
同じ思ひに泣く友の
はるかにありと知れよかし
松の葉ごしの夕月に
君が片ほの青きかな
かのあづまやのともしびは
我がまたゝきに似たらんか
ふたりのたてる袖がきに
絶えず散り来る白梅の
再びさかむその春に
我は逢ふとも思ほえず
忘るゝなかれこの夕
忘れ給ふな此夕
鴨の流れは清くとも
さがの桜はいみじかるとも
ほそ筆もつ子
え堪へんや
友の
長き詩みじかき歌
ある日ある時
ねたしと見し
そのゑすがた
手筥に今
理想の友
姉と謂ひて
うなじまくに
このかひな
あまりかよわし
とかば髪
四尺はあらむ
胸により
わななくたけなが
あゝ裏くれなゐ
真玉に似たる
涙のおもて
ぬぐはんいざ君
われも
日はいつ
葬り終んぬ
霧ふかき京の山
あゝ恨み
[#改ページ]
平調の
月うすき今宵の春の
おもひにあはず歌のりかぬる
神こよひ人恋ひそめし
子の指にふれて立つ音と
ゑみかたぶけて聴きますらむか
手はすががき琴よ忘るな
海棠の
のらぬこの歌絹に染めおかむ
ともしび危し
河風おほはむ
紫の袖
そがひを許せ暫し
ともし火ようなし
鬢いとへとや
君その
かりに労をとれな
あな消えぬともし火
君いづこ
またも風
ちらば恨みむ
御手か君ゆるせ
あつきは何とや
わかき唇
君われ
わが
奪ひ
ともし火よばむ
河づらの宿
欄により
人もの云はぬ朝あけ
大ひえの山
すそ紫なり
岡崎の里
霜のあした
ゆきし
あゝいつの秋
君を兄とよびて
紅葉かざせし二人
やゝひくかりき
合がさのひと
黒谷の坂
石おほきみち
何れにかさむ手と
まどひしは誰れ
うさぎに見とれし
わかきまなざし
忘れず
君歌ありき
おもへばその時
恋をもかたりぬ
あゝ罪しらんや
をさなかりし
はらからのおもひ
それなりき
そのひとも
今とてあゝ神
住の江の浦
蝶のむくろそへて
わすれ草つみぬ
ちさきその人
すゝめしは何
秋赤き花
いのると泣きぬ
わがおもはるゝ恋
涙なからんや
われ
歌なからんや
西の京の山
[#改ページ]
盗人に宵寝の春を怨じけり
盗人に雛を誇る寝顔かな
雛の灯に盗人を追ふ夜半の春
戸まで具して雛を捨てし盗人か
雛の句は袂ながらに盗まれし
盗まれし紫繻子や節句の帯
わかきをよびてつみ人と
君よび給ふつみ人が
五つのゆびはふるる緒に
ものゝ
とけては朝のみづうみに
むらさきながすわが髪や
みだれてもゆるくちびるは
ここにまた見る花のいろ
君よ火かげにすかし見よ
君がぬかづく神いづこ
寺に古りたるしらかべの
声なき
かくもいみじきつみ人の
ふるさとこそは君しるや
はたまた
名づくる国へつれこしや誰
もとより琴の緒にしあれど
うらみにひくき音もこもり
のろひにたかきおともせむ
ほそ緒しら木のひと
君ふれ給ふことなかれ
もとより恋の琴なれば
はだやはらかういだかれて
きくべき胸のささやきを
あこがるるともしたふとも
あゝ君ふるることなかれ
ひと緒の琴のわが恋は
ひとりの人にふれてより
やむよしもなき
恋にうらみにある時は
人をのろひにやすきひまなき
[#改ページ]
竜神うろくづ海のつかひ
肩さし手さし
数へおよばぬ
おん
小波わきて飾る黒髪
瑠璃の
水晶に
大わだつみの底の
時に
星の七つぞ深く落ちくる
『美はしきもの
いまし竜神おそれ思はず
やまと
相摸の海や
清らの恋のいきみすだまよ
星の
いま上げませるおん
『相摸の
とぞ
※[#「執/れんが」、U+24360、9巻-319-上-8]く落ちぬと落ちぬと見しは
あなや刺櫛珠の刺櫛
櫛に尾を曳き星は昇りて
天ざかる鄙の上総に
藻をかづき
天がした今さわげるも
よそに聴く安き
めざむれば海は
はしきやし美くし
床に敷き
上

めづらかに尊かりしな
あな
得ばやとて相摸七浦
寄らずやと尋ねわびたる
さらば妻帆岡の
[#改ページ]
あさはかにものいふ君よ、
うまびとは耳もて聴かず、
いとふかき心に聴きぬ。
世はみな君をあざむとも、
とまれ、千とせのいちにんに
うなづかれまくものはのたまへ。
恋ふるとて君にはよりぬ、
君はしも恋は知らずも、
恋をただ歌はむすべに
こころ燃え、すがた

いかが語らむ、おもふこと、
そはいと長きこゝろなれ、
いま相むかふひとときに
つくしがたなき心なれ。
わが世のかぎり思ふとも、
われさへ知るは難からし、
君はた君がいのちをも
かけて知らむと願はずや。
夢のまどひか、よろこびか、
狂ひごこちか、はた※[#「執/れんが」、U+24360、9巻-322-上-1]か、
なべて詞に云ひがたし、
心ただ知れ、ふかき心に。
皷いだけば、うらわかき
姉のこゑこそうかびくれ、
姉のおもこそにほひくれ、
桜がなかに
宇治の河見るたかどのに、
姉とやどれる春の夜の
まばゆかりしを忘れめや、
もとより君は、ことばらに
うまれ給へば、十四まで、
父のなさけを身に知らず、
家に帰れる五つとせも
わが家ながら心おき、
さては穂に出ぬ初恋や
したに焦るる胸秘めて
おもはぬかたの人に添ひ、
泣く音をだにも憚れば
あえかの人はほほゑみて
うらはかなげにものいひぬ、
あゝさは夢か、短命の
二十八にてみまかりし
姉をしのべば、更にまた
そのすくせこそ泣かれぬれ。
しら玉の清らに透る
うるはしきすがたを見れば、
せきあへず涙わしりぬ、
しら玉は常ににほひて
ほこりかに世にもあるかな。
人のなかなるしら玉の
をとめ心は、わりなくも、
ひとりの君に染みてより、
命みじかき、いともろき
よろこびにしもまかせはてぬる。
よみのくら戸はひらかれて
恋びとよよといだきよれ、
かの
かたみに
土にかくれし石屑は
皆よりあひて玉と凝れ、
わが胸こがす恋の息
今つく熱きひと息に。
つづみうち扇とりては、みづいろの袖ふる京の人形を、おもしとわびぬ。円山や、雪見る家をたづねきて、扶けおろすと同車の人の。
よしのがは、
いかだしは歌うてくだる川ぎしの、
うつくしき君が御歌を画といはば、このみますなる御画題の、われのすがたは舞すがた、ふり袖きせて花櫛を添へたまふこそ今はをかしき。
髪すけば、君すむかたの山あをくわれに笑む日か、さくらさく君があたりの朝の雲、きて春雨とわが髪に油のごとくそそぐらむ日か。
われぞ病む、愛憎度なきおん神のしもべとなのるわかうどの、
ききたまへ、扇に似たる前髪にふさふとあへて云ふならば、われは
細眉や、こき前髪や、まろき頬や、姉によう似る我なれば、春ひねもすを小机の、はしに肘して人おもふ
おん髪はむすばず結はず、土に曳き
[#改ページ]
目にこそ浮べ、ふるさとの
堺の街の角の家、
帳塲づくゑと、水いろの
電気のほやのかがやきと、
店のあちこち積み箱の
かげに居睡る二三人。
この時黒き
衣ずれもせぬ忍び足
かいま見すなる中の
なでしこ色の帯のぬし、
あな、うら若きわが影は
そとのみ消えて
ほとつく息はいと苦し、
はたいと※[#「執/れんが」、U+24360、9巻-326-下-4]し、さはいへど
ふた親いますわが家を
捨てむとすなる前の宵
しづかに更くる刻刻の
時計の音ぞ凍りたる。
一番頭と父母と
茶ばなしするを安しと見、
こなたの隅にわが影は、
親を捨つると恋すると
繁き
あはれと歎き涙しぬ。
よよとし泣けば
電話の室のくらがりに
つとわが影は馳せ入りて
茶の間を見つつ受話器とる。
すてむとすなるふるさとの
和泉なまりの聞きをさめ。
人の声とは聞きしかど、
ただわがための忘れぬ日
楽しき日のみ作るとて、
なにの用とも誰ぞとも
知らず終りき。明日の日は
[#改ページ]
酒屋の
向ひの側の屋根火の見
釣半鐘やものほしの
二間ばかりを初秋の
日はしら壁につぶと照る。
ゆききとだえし細通り、
おやつ下りを帰りきぬ。
十四と十二髪さげし
その幼きはわれなりき。
一人の髪は今しらず。
評判者のいぢわるの
しげをの君は隣の子、
五町ばかりのゆきかへり
つれだつことを悲みぬ。
この日は何か先生に
しげをの君はしかられて
しげをの君はもの云はず、
何を云ひてもいらへせず、
いとおそろしき
肩ならべゆくここちして
われは死ぬべく思ほえぬ。
酒屋の庫のうら通り。
庫の下なる焼板に
あまたとまれる赤とんぼ
しげをの君の肩にきぬ。
一つと思ふにまた一つ
帯にとまりぬ、また一つ
裾にもとまる、赤とんぼ。
つと足とめて、あなをかし
とんぼの
とんぼの衣とその人も
はじめてものを云ふものか。
酒屋の庫のうら通り、
初秋の日は黄に照りき。
[#改ページ]
八番の
行き給へ、われに用なき
君なりと、いとあらゝかに
云ふめるは、この朝日屋の
中二階赤ら顔なる
宿ぬしの住ふ部屋より
もるゝ声、腹立ちの声。
小田原の
宿の妻、夕方ときし
洗ひ髪しづくのたるを
いとへれば椽にたゝずみ
大嶋の灯など見るらし。
水いろの絽の
いまだなほ
もの云はず蚊うつ団扇の
はた/\と音するばかり。
若い
唄の声何を云ひしか
この女闇にほゝ笑む。
音も無く物ぞ来れる。
静かなる胸を叩きて
傍らに寄り添ふけはひ。
見開きて見る目に映る
影ならず、黄色の衣
まばゆくも匂へるを着て
物は今足のまはりを
見じとして心ふたげば
物は消ゆ。嬉しと思ひ
目ひらけば又この度は
緋のころも袖うち振て
魔ぞ立てる。黄色の物と
緋の物とこもごも見えつ。
且つ見れば
黄色にて、こなたの袖は
赤なりき。物がうち振る
袖の
その如き真白き影の
ふと見えぬ。黄色の袖と
緋の袖とやがて消し時
残りしはしら鳥の雛。
わが悩み早も残らず、
子よ、
うら若き母のまぼろし。
しろがねの噴上の水に
仄かなる
あはれまた目にこそ浮べ、
若かりしわが盛り。
君知るや、若き男よ、
日は晴れて静かなる海のかなしさ。
あはれまた君知るや、
涙しづかに流るゝを。
夏のゆふべのおもしろさ。
夏のゆふべとなりぬれば
をみなの身こそうれしけれ。
鏡の前にうづくまり
うすく我が刷く
いとよきかをり身に
二階の屋根の物干に
街の灯を見るおもしろさ。
誰か知る、をみなの城を。
われはここにぞ立て籠る。
来り攻めよ、わがおほぎみ、
わが親、わが
あはれ最後の戦ひに
われは瘋癲病院の
冷き城に立て籠る。
庭つ鳥くだかけも
みにくき事す。
ただそれのみ。
あはれ言ひ解くすべも無しや。
麗しき、麗しき歌はあれども。
われは歩める。うなだれて
そそ走り、また、たもとほり。
さざら波うち寄する白き渚を。
ああ今は男に作るわが媚も
あはれ其の男の笑みも醜かり。
唯白き、白き渚のつづくまで
われは歩まめ。
家もたぬ身は羨し、
新しき家、空色の
四階の家のうらやまし。
都大路は馬、くるま、
人のゆききに塵あがり
笑ひ罵りわめくこゑ
恐しきまで覚ゆるを、
四階の家はおほどかに
街の上より見下ろしぬ。
家もたぬ身もなぐさむは
新しき家、そらいろの
四階の家を仰ぐ時。
ひさかたの空色の家、
さき草の三葉四葉に殿作り
日かげにほへる此家は、
あはれ此家は誰が為にある。
新しき大御代の為、国人の為。
[#改ページ]
しちめんだうな
忘れて二人囃しごと、
ひやろ、ひやろ、と囃しごと。
お気に入らずはお主様
お叱りなされと囃しごと。
わたしキュラソオの酒を飲んだ事があつてよ、
四年ほど前の事なのよ。
こんな事云ツたツて
なんにも不思議では無いでせう。
けれどね、
今まで飲んだ事の無い様な顔をして居た事ね。
紫苑の花がひよろひよろと咲いてゐてね。
隣で蓄音器がしよつちゆう泣いてゐた
あの松井さんの柏木のお
あすこのお座敷の隅にあツた本棚、
そら、扇のやうな形のね、
あの下から三つ目に有ツたわ、
キュラソオの罎が
わたしはね、
日本の女が飲むもんじや無いと思ツてたの、
きつい、きついお酒だと思ツてね。
或日わたしは又
それで悲しくツてね、
ぶるぶると慄へながら行ツたの。あのお
すると、婆あやさんもゐました。
わたしは婆あやさんに「又叱られてよ」と云ひました。
松井さんがね、
「奥さん、キュラソオでもお上んなさいツ」と
中が水色でね、
外が牡丹色でね、
金のふくりんのね、
やツぱし日本の
たツた一つ丈わたしは飲みました。
ちツとも辛く無いの。
辛いとばかし思ツてたものがね、
甘かツたから
今日まで誰にも話が出来なかつたの。
お嫁に来てからの名なの、
いい名でせう。
小説家が来てね、
私に云つたの。
あの傑作の「煙」ですよ。
その時私はね、
唯かう云つたの、
私の
いい名でせうツて。
「煙」の
用吉の相手はね、
おしゆんぢやなかツた、
ねえ、おしゆんぢやないのよ。
だツて
「煙」におしゆんが出ないからツて、
用吉の相手にならないだツて、
好いのですとも。
鳥部山を知ツていらしツて。
男肌には白無垢や、
上に紫藤の紋ツてね。
傳兵衞はいいわねえ、
用吉はいけないわねえ。
[#改ページ]
来て寝やしやんせ、三本木。
前の河原に脊の高い、
青い蓬のあひだから、
ちよ、ちよ、ろ、ちよ、ちよ、ろと水が鳴る。
来て寝やしやんせ、三本木。
知恩院の鐘がどんよりと
曇る月夜に鳴る晩は
前の河にも花が散る。
来て寝やしやんせ、三本木。
祇園の夢を見残して
ひとり千鳥を聞く夜さは
しんぞ恋路が悲しかろ。
来て寝やしやんせ、三本木。
あの鳴る鐘は黒谷の
松に涼しい
お目が覚めたぢやないかいな。
朝顔の花の朝咲いて
まだ
わたしの知つたことで無い。
あなたの恋が尽きたとて、
わたしが何んで泣きませう。
わたしの泣くのはいつも一人で。
唯だ「人」と、若しくは「我」とのみ名乗るぞよき。
雑多の形容詞を附け足さんとするは誰ぞ。
大と云ひ、小と云ひ、善と云ひ、悪と云ひ······
そは事を好む子供の
何物をも附け足さぬはやがて一切を備へし故なるを。
行くほどに街は暮れて明るき月夜の海となり、
人は魚の如く跳り、ともし火は波の如く泡立つ。
地に落つる人影にわが影の入りまじる如く、
われは他の遊ぶを遊ぶ。
われは知る。つひに一人なり。
十月八日の夜の十二時すぎ、
三人の
語り疲れて床に入つたが、寝つかれぬ。
いつも点けて置く瓦斯の火を起きて消せば、
部屋中の魔性の「闇」ははたと
みるみる大きく成つて行く黒猫の柔かな手触りで
わたしの友染の掻巻の上を軽く圧へ、
また、涙に濡れた大きな黒目がちの
人を引く目の
片隅に白い右の手を
天井の同じ方ばかり待ち人のあるよな気分で見上げる。
(それはわたしの影であろ。)
部屋中の静かなことは石炭の
何処からとなく障子の破れを通す霜夜の風は
長い吹矢の
わたしはますます寝つかれぬ。
閉ぢても、閉ぢても目は円く開き、
横向に一人じつとして身ゆるぎもせぬ体は
わたしは風邪を引いたらしい。
それとも何かに生血を吸はして寝てるのか。
時計は二時を打つ。
東京のお客さんは皆さうお云ひやはる。
「京の秋は早よ寒い」と。
そないに寒がつておいでやしたら、あんたはん、
嵐山の
紅葉の盛りは十一月の中頃、
なんの寒いことがおすかいな。
大井川の時雨によいお客さんと屋形船に乗つて、
紅葉を見ながら、わたしら揃うて鼓を打つのどつせ。
姉はん、さうどすえなあ。
と云ひました。一人の舞妓が、
わたしの好きな、優しい京の言葉で。
[#改ページ]
石笛を恋の合図に吹くよな
鳥屋の軒で啼く雲雀、それを聞けば、
わたしの二人の子を預けて置く
玉川在の瑠璃色の空で啼いて雲雀が
薄くらがりの
村のわんぱくに捕られたのぢや
雛から鳥屋で育つた雲雀と
五町すぎ、七町すぎ、
うちの門まで気に掛る雲雀。
善しと人の褒むる物事の裏に
偽と慢心と嫉妬と潜む。
そは醜き不純の光なり
我は身を投げてあらゆる罪悪と悔恨と耻辱とに抱かまし、
その隠れて徐徐にあらはるるものほど、
遠空の星の永久に輝く如く、
純金の錆びず、金剛石の透きとほる如く、
いつ見ても活活として美くしく好ましきかな
あだし人のそを罵るも正直に罵るなれば亦美くし。
彩色硝子の高き窓を半ひらき、
引きしぼりたる印度更紗の窓紗の下に
下町の煙突の煤煙を見下しつつ、
小やかな軽き朝飯のあとに若き貴女の弾くピヤノの一曲、
東京の二月の空は曇れども、
若き貴女の心に緑さす
明るき若葉の夏の色、恋の色生の色。
たそがれに似るうす明り、
二月の庭の木を透きて、
赤むらさきのびろうどの
異国模様に触れるとき。
たそがれに似るうす明り、
赤むらさきのびろうどの
窓掛に
夢となりつゝ
たそがれに似るうす明り、
朝湯あがりの身を
軽く項を抱きかゝへ、
つく/″\人の恋しさよ。
昨日も今日も啼き渋る
若い気だてのうぐひす。
一こゑ渋るも恋のため、
二こゑ渋るも············
おゝ、わたしに似たうぐひす。
東京の正月の或日、
うれしくも恋しき人の手紙着けり。
「今わが船の行くは北緯一度の海、
甲板に立てる人皆
「印度洋の一千九百十一年
十二月二日の日の出の珍しさよ、美くしさよ。
鮮かな橄欖青を混へし珍しさよ、美くしさよ。」
「二十の
食堂のあひも変らぬむし暑さ。
今宵も
英吉利西婦人のミセス、ロオズが
人の目を惹く話しぶり。
それに流れ渡りの一人もの
素性の知れぬ諾威人が気を取られ、
果物マンゴスチインを下手に割れば
指もナフキンも紅く染む。」
かかることを数多書きて、
若やかに跳れる旅人の心うらやまし。
寒きかな、寒きかな、東京は
霙となりて今日も暮れゆく。
旅順の港に
堅い防波堤を築くなら、
せつかく凍らぬ港でも
潮が動かないで凍りませう。
君とわたしもそのとほり、
夫婦の頑固な
いつまでも恋する仲で居ませうよ。
たとへば沖つ浪きらく気ままに遊ぶやうに。
正月元日、
鏡餅の傍に寒牡丹一つ開き、
子供等みな健やかに、
東京よりも寒しと云ふ巴里の正月は如何に。
歳の暮君は其処に着き給ひしならん、
君の旅にかずかずの幸あれと
家を挙げて祝ふ清き正月元日。
真赤な花のいく
透きとほつたる真紅から、
うす紫を少し帯び、
さてはほんのり
また物恨むしつこさの
黒味に移るいく盛り。
君よ棄てゆくこと勿れ、
真赤な花は泣いてゐる。
[#改ページ]
虻のうなりか、わが髪に
触れて
遠い木魂か、噴上か、
をりをり斯んな声がする。
「君もわたしも出来るだけ
物の中身を吸ひませう。
今日のよろこび、行くすゑの
夢のかぎりを尽しませう。」
うすく
ひと花づつを、朝ごとに、
咲けば、どうやら、わが頼む
よい
うすく紅さす百合の花、
ひと花づつを、朝ごとに、
散らせば、あたら、わが夢も、
しばし香りて消えて行く。
うすく紅さす百合の花、
よし、
また、かりそめの夢とても、
わたしは花をじつと嗅ぐ。
若い娘の言ふことに、
「別れを述べる時が来た。
美くしい花、にほふ花。
わたしの無垢な日送りに
さびしい友であつた花。
今日までわたしを慰めた
やさしい花のかずかずに、
別れを述べる時が来た。
花の神様、いざさらば。
わたしは愛の神様に
手をば執られて参りましよ。」
若い娘の言ふことに、
「別れを述べる時が来た。
美くしい花、にほふ花。
弥生に代る初夏の、
青い海から吹いて来る
五月の風に似た男、
若い、やさしい、あたたかな、
生々としたあの男、
すべての花に打勝つて、
その目にわたしを引附けた。
男の中の花男。」
若い[#「若い」は底本では「花い」]娘の言ふことに、
「別れを述べる時が来た。
美くしい花、にほふ花。
おお、その上に、よい声で、
いつもわたしを呼び慣れた
赤い小鳥よ、そなたにも、
別れを述べる時が来た。
どれどれ籠から放しましよ。
済まないながら、今日からは、
燃えた、やさしいくちびるの外に聞きたい声もない。」
若い娘の言ふことに、
「雲雀よ、雲雀、
そなたは空で誰を喚ぶ。
||それは
わたしは君の名をば喚ぶ。
昼は百たび、
若い娘の言ふことに、
「あれ、あの青い
空であらうか、君の名は。
||それに違ひがないわいな。
ひとり小声で喚ぶたびに、
沈んだ心も、
しんぞ高くなる。」
若い娘の言ふことに、
「また、あの燃える
お日様である、君が名は。
||さうではないと誰が言はう。
わたしの心を
熱い吐息を
投げぬ間もない。」
若い娘の言ふことに、
「ああ、君が名を
喚ぶと云うても口の
||それを何うして君が知ろ。
自分の喚んで聴くばかり。
雲雀よ、雲雀、
わたしの上を掠めて通らぬ雲ならば、
勝手に曇れ、
勝手に渦巻け、
わたしの足もとの遠い雲。
愚痴のしぶき雨、
嘲りの霞をまじへた、
低い、低い、通り雲。
わたしの上には、水色の
ひろい空、日輪の
けれど、なんだか気に掛る。
あれ、あの地平線に見えるのは、
不安な、黒い雲の羽。
それとも、わたしに二度帰る
空飛ぶ馬の持つ羽か。
けれど、なんだか気に掛る。
かかる文書くべき人と、
かの人の思ひ当る名、
もつが憎くけれ、いかにしてまし。
○
をりふしに美くしき
いみじきすごき稲妻おこる
陰陽のあるらむ、わが一つなる心にも。
○
みな死ぬべきを閉ぢこめぬ。
チヤアルス王の、倫敦塔に似る心かな。
○
寒さをも、熱をも知らず、
ある人に云ふ如きこと、聞くは厭、
横恋慕などうち明けよかし。
○
おほよそは、そのむかし、
二十ばかりの若き日に、
過ちて入りたる門をわが家とする。
○
わが心、尼院の中に、尼達に、
かくまはれあればすべなし。
思ふとも、思はるるとも、
○
かの人が七人の子を見に帰れば、
かの人に、
老は俄におそひいたりぬ。
○
自らがちかひけるやう。
檀那様と生き、
檀那様と死に、
檀那様の知らぬまに、
唯ひとつ、何かしてまし。
○
別れて憂愁に居ぬ。
はねらるるとも、くれなゐに、
血のとばじな。あぢきなの身。
○
得たるもの忽にして擲つは
財宝すらもここちよし
まして、まして、何と云はむ。
○
大空の雪のごと、浮きたる心と、
流れの浄き心と
はらからなるをわれのみぞ知る。
○
いつの日か、いかなる時か、
しのびてわれに恩売りし、
美くしき見覚え人よ。
○
目に見たる津津浦浦よ、
わが上を、語らむ時にまさりたる、
おもむきなきをいかにしてまし。
○
うれしくも、幸と云ふものよりも、
好むところを語らせし、
夜の涙よ。拭ひ筆おく。
○
わが心唯ひとたびなりきと云ふ
何を云ふぞよ。かこつのかや。
恋を男を。
○
水色の船室に月さし入り、
隣なる、大僧正の飼犬が、
夜寒げに絶えずうめける。
○
老の魔がしのびより、鉛をかけぬ。
心に、あらずまづ面わに、髪に、
かなしきかなや三十路。
○
男来て導かむと思ひつるかな。
美くしくとも、醜くとも、
そはわれの若ければ、
あなものうし。かかる思ひ出。
○
別るるもよしや、うれしかりけり。
口づけを束にして、
環になしてもちかへること。
○
うつし世の渦巻の中、
と云ふにあらねども、なけれども、
する息のむづかし。落す涙も。
おのれをば殺せと云はむ、
誰に云はむや
十余年添ひたる人か、
いたりあの笛吹の子か。
○
男より退きて
地か空か知らず、走せ過ぎる。
驚くべきを
○
安らかに眠らむとして帰り来つるや
否々夢を、悪夢をば、
見むとぞ呼ぶ。やがて死ぬらむ。
○
恋をする時、死なむとする時
無くもがなの賢き
烏羽玉の髪覆ひぬれども。
○
かかる夕に思ふこと、
少しことなるものながら、
哲学と浮きたる恋と
○
ひそかにも火の燃ゆる口われのみぞ知る
○
続けざまに杯あげて酔ひ給へ。
いとほしの君、
みじめなる君、
わが思ふ君。
○
ここちよきものならまし。
悪の醒むるも善よりするも、
わが目きはめてさはやかならば。
○
むかしとは若き日のこと、
昔にもまさり恋はると、
云ふことが、心より、
うれしきや、よろこぶや。
○
灰色の壁による人。
みづいろの
○
檀那をば彼は忘れず、
肩すぎてブロンドの髪ゆらめきし、
わざをぎ男目に消えぬごと。
○
手さぐりに人心よぢてゆく、
女の恋のはかなかりけれ。
かの時より死の友となりけれ。
○
眠りたる心をば、呼び起すとて、
線香花火、青なると、
うす紫と、くれなゐと、
ばらばらばつと焚き給ふ君。
○
かく人は眉をひそめぬ。
わが心今日も昨日も夢のみを見る。
○
われは思ひき、毒婦ならまし。
ある宵にかたへ聞きせる
不幸なる運命の
○
ひとびとが憚らず、
声放ち歌ふ時、
君は知れりや、悲しみよりも、
悦びは少しみにくし。
[#改ページ]
しろい象牙の細櫛で
梳けばほろほろ、あさましく
昨日も今日も落ちること。
君に見せじと、物かげに
隠れて梳けば、わが
鏡にうつる青白さ。
身のすくむまでうら悲し。
巴里の街の
はや八月に散りかかる。
わたしの髪もこの国の
慣れぬ夜風に吹かれたか。
いいえ、それとも、憎らしく、
しろい象牙の細櫛が
鑢となりて擦り切るか。
恋を貪るこらしめに。
または悲しい人の世の
命の秋の入口に、
わたしも早く著きながら、
真夏の花をまだ嗅ぐか。
梳けばほろほろ、
昨日の恋が、今日の血が、
からんだ髪を琴にして。
心ひとつは若々と、
かをる油に打浸り、
死なぬ焔を立つれども、
ああ灰のよに髪が散る。
卓の上から二三輪
だりあの花の反りかへる
赤と金とのヂグザグが
針を並べた触をして、
きゆつと瞳を刺し通し、
朝のこころを慄はせる。
見返る
赤と金とのヂグザグが
花の
今日の命を吸へと云ふ。
それに書斎の片隅の
積んだ書物の間から、
夜の名残をただよはす
蔭に沈んで、寒さうに、
痩せた死人の頬を見せる
青いさびしい白菊が、
薬局で嗅ぐ風のよに
苦いかをりを立てるのは
まだ覚め切らぬ来し方の
わたしの夢の影であろ。
[#改ページ]
てれ、れん、れんと鳴り出した。
つて、れん、れんと鳴り出した。
それは
昼まへに来るマンドリン
歌もうたやるマンドリン。
窓の
白いレエスの冷たさよ。
お城の壁に
蔦の葉のよな襟かざり。
上を見上げる襟かざり。
ちり、りん、りんと
上で立てたる走り泣き。
初めのお客は誰れであろ、
わたしも投げてやりませう。
今朝の夜明の四時過ぎに、
誰れかとしたる喧嘩から、
ずつと泣いてたお隣の、
向うもわたしをちよいと見た。
思はず髪を引き入れた、
白い四階の窓口へ、
(
湿つた
アカシヤの葉が散りかかる。
ああ
年経しカテドラルの姿は
いと厳かに、古けれど、
その鐘楼の鐘こそは
万代に腐らぬ金銅の質を
混沌の蔓の
青き神秘の花として開き、
チン、カン、チン、カンと鳴る音は
爽かに
劇しき、力強き、
併せて新しき匂ひを
「時」の動脈に注しながら、
「時」の血を火の如く逸ませ、
常に朝の如く若返らせ、
はた、休む間なく進ましむ。
その響につれて
塔の上より
人は恐らく、そを
森の梢より風に散る
秋の
我は馬車、自動車、オムニブスの込合ふサン・ミツセルの橋に立ちつつ、
端なく我胸に砕け入る
その刹那、わが目に映る
そは
微塵もまた玉の如く光りながら波打ち、
我も人も
皆輝く魚として泳ぎ行きぬ。
覇王樹と戦争
[#「覇王樹と戦争」は底本では「覊王樹と戦争」]シヤボテンの樹を眺むれば、
芽が出ようとも思はれぬ
意外な辺が裂け出して、
そして不思議な葉の上へ
新しい葉が伸びてゆく。
ああ戦争も芽である、
突発の芽である、
古い人間を破る
新しい人間の芽である。
シヤボテンの樹を眺むれば、
生血に餓ゑた怖ろしい
傷つけ合ふが樹の意志か、
いいえ、あくまで生きる為。
ああ今、欧洲の戦争で、
白人の悲壮な血から
自由と美の新芽が
ずつとまた伸びようとして居る。
それから、
ここに日本人と戦つて居る、
日本人の生む芽は何だ。
ここに日本人も戦つて居る。
背中あはせのいやな椅子、
これにあなたと掛けたなら、
この気に入つた
唯だの
その思出もうとましい。
ギヤルソン外にいい部屋は無いの。
(アムステルダムの一夜)
[#改ページ]
広き庭の片隅に
物古りたる温室あり、
そこ、かしこ、
塵と蜘蛛の糸に埋れぬ。
棚の上の鉢の花は皆
何をも分かず枯れたれど、
一鉢の麝香撫子のみ
はかなげに花
おのが香と温気とに
今、温室は荒れたり、
憎げなる虻一つ
昼の光に唸るのみ。
今夜
シヤン・ゼリゼエの植込も、
セエヌの水もしつとりと
青い狭霧に街灯の
涙を垂れて泣いて居る。
群をはなれて

君ただひとり立つなかれ、
今宵は空の月さへも
人の踊を覗けるに。
いざ君、
ワルツの曲を聞きながら、
香料の香と、さかづきと、
女の燃ゆるまなざしと、
きやしやに
軽き笑まひと、足取と、
さらに渦巻く愛と美と。
[#改ページ]
せよ、怖い顔を、
せよ、みんなでせよ。
そしておまへ達の宝である
唯一の劒を大事にせよ。
せよ、
せよ、みんなでせよ。
そしておまへ達の護符である
てんかこくかを口にせよ。
おまへ達は決して笑はない。
おまへ達の望んで居る
日独同盟の成る日が来るとも、
どうして神聖サムラヒ族の顔が崩れよう。
おまへ達は科学主義の
血のシンボルの旗の
おまへ達の祖先である
南洋食人族の遺訓を行はうとする。
世界人類の愛に憧れる
われわれ無力の馬鹿者どもは
みんなおまへ達に殺されねばなるまい、
おまへ達が初めて笑ふ日のために。
併し······
八重の桜の盛りより
つつじ、芍薬、藤、牡丹、
春と夏との入りかはる
このひと時のめでたさよ。
街ゆく人も、田の人も、
今めづらしく驚くは
幹を出す木も枝毎に
友禅染の袖を掛け、
花と若芽と香り合ふ。
抑へかねたる誇りあり、
ただ一粒の砂さへも
光と熱に汗ばみぬ。
まして
恋はもとより、年頃の
恨める中も睦み合ひ、
このひと時に若返る。
ああ、またありや、人の世に
之に比ぶる
いでや短き
金泥をもてわれ書かん。
汽車は吼ゆ。
されどシベリヤの
雪と氷の原を行く汽車は
胴体こそ巨大の象のやうなれ、
この怪獣は石炭の
薪のみを食らへば、
吼ゆる声の力無く、
のろのろと
今停まれるは何と云ふ駅か知らず。
人の
落葉したる白楊の木
其処此処に聳えて、
灰色の低き空の
五月の風猶雪を散らせり。
汽笛の叫びに引かれて、
男、女、子供、
すべて靴を穿かぬ
シベリヤの農民等は
手に手に、
鶏を、牛乳を捧げて、
汽車の窓に馳せ寄り、
かしましく買へと云ひぬ。
わたしの庭の高い木に
秋が琴をば掛けにきた。
翡翠を
風は勝れた弾手にて、
人の心の奥にある
弧独の夢をゆり起し、
うす紫と、
白と、萠黄と、海老色と、
夢の境で見るやうな
はかない色がゆらゆらと
わたしの前で入りまじる。
女だてらに酔ひどれて、
月の明りにしどけなく
乱れて踊る一むれか。
わたしの窓の
風が吹く、吹く、コスモスを。
かたへの壁の炉の火ゆゑ
友の面輪も、肩先も、
後ろの椅子も、手の
濃き桃色にほほゑみぬ。
部屋の四隅の小暗くて、
中に一もと寒牡丹
われと並びて咲くと見る
友の姿のあてやかさ。
春にひとしき炉の火ゆゑ
友も我身も、しばらくは
花の木蔭を行く如く
こゝろごころに思ひ入る。
楽しき由を云はんとし、
伏せし瞳を揚ぐる時
友も俄かに手を解きて
我手の上にさし延べぬ。
[#改ページ]
わが前の丘に
断えず歌ふは
桃色に湧き上る噴水。
青白き三人の童子は
まるまると肥えし肩に
緑玉の水盤を支へたり。
われは、その桃色の水の
猛火に変るを待ちながら、
ぢつと今日も見まもる。
初春はきぬ、初春は
新たに焚ける壁の炉よ、
誰もこの朝うきうきと
身をくつろげて打向ふ。
初春はきぬ、初春は
誰の顔にも花にほひ、
誰の胸にも鳥うたひ、
誰の口にも韻の鳴る。
初春はきぬ、初春は
愛の笑まへる広場なり
雄雄しき人も恋人も
踊らんとして手を繋ぐ。
わが傍らに咲く花は
傷より
この花を見てかなしげに
思ひたまふや何ごとを。
嵐のあとに猶しばし
海の入日の泣くことか、
さては
飽くこと知らぬわが恋か。
[#改ページ]
おお、錫箔の寒さを持つた夜の空気が、
いつぱいに口を
わたしを吸はうとする。
二階の
わたしの全身は慄へあがる。
高々とした月夜。
コバルトと、白と、
墨とから成つた、素朴な、
さうして森厳な月夜。
月は何処にある。
見えない、見えない、
長く出た庇の上に凍てついて居るのか。
きつと、氷と、されかうべと、
銀の髪とを聯想させる月であらう。
軍医学校の建物はすべて尖り、
軒と軒との間にある空間は
遠くまで運河のやうに光つて居る。
近い一本の電柱は
大地へ無残に打ち込んだ巨きな釘の心地。
あの鈍い真鍮色の四角な光は
崖上の家の書斎の窓の
今、わたしの心に浮ぶのは、
その窓の中に沈思して、恐らく、
まだ眠らずに居る一人の神経質な青年。
ああ世界はしんとして居る。
冬だ、冬だ、
空気は真白く、
天は玲瓏として透きとほり、
月は
かさ、こそと、低く、
何処かにかすれた一つの物おと······
枝を離れる最後の落葉か、
わたしの心の
それとも霜であらうか。
やれ、春が来た、ほんのりと
日のさす中に、街々の
並木二側、梅ねずみ。
やれ、春が来た、この朝の
空は藤色、日本晴
下に並木の梅ねずみ。
やれ、春が来た、金の目が
どの窓からもさし覗く
そして並木の梅ねずみ。
春の初めに打て、打て、鼓。
打てば小唄に、やれ、この、さあ、
春の初めに振れ、振れ、袂。
振れば姿に、やれ、この、さあ、
天つ日さへも靡き寄る。
春の初めに舞へ、舞へ、舞を。
舞へば情に、やれ、この、さあ、
野山の花も目を開く。
春の初めに飲め、飲め、酒を。
飲めば笑らぎに、やれ、この、さあ、
福の神さへ踊り出す。
うれしきものは、春の宵、
人と
銀座通を行くこころ。
それにも増して嬉しきは、
夜更けて帰る濠ばたの
柳の靄の
暗い、血なまぐさい世界に
まばゆい、聖い夜明が近づく。
おお、そなたである、
一千九百十八年よ、
わたしが全身を投げ掛けながら
ある限りの熱情と期待を捧げて
この諸手をさし伸べるのは。
そなたは、||絶大の救世主よ||
世界の方向を
幾十万年目に
今はじめて一転させ、
人を野獣から救ひ出して、
我等が直立して歩む
今やうやく覚らしめる。
そなたの
太陽よりも、春よりも、
花よりも、||おお人道主義の年よ||
狂暴な現在の戦争を
世界の悪の最後とするものは
必定、そなたである。
わたしは三たび
そなたに礼拝を捧げる。
人間の善の歴史は
そなたの手から書かれるであらう、
なぜなら、||ああ恵まれたる年よ、||
過去の路は暗く塞がり、
唯だ、そなたの前のみ輝いて居る。
「見ずや君よ」と書きてまし、
ひと木盛りの紅梅を。
否、否、庭の春ならで、
猶も蕾のこの胸を。
うすくれなゐの薔薇さきぬ、
妬ましきまで、若やかに
力こもりて笑む花よ、
人の持つより熱き血を
自然の胸に得し花か。
うすくれなゐの薔薇さきぬ、
この花を見て、傷ましき、
はた恨めしき思出の
何一つだに無きことも
先づこそ我に嬉しけれ。
うすくれなゐの薔薇さきぬ、
人よ、来て
我等が交す言の葉に
燃ゆる命の有り無しは
花に比べて知りぬべし。
うすくれなゐの薔薇さきぬ、
この美くしく清らなる、
この尊げに匂ひたる、
花の証のある限り、
愛よ、そなたを我れ頼む。
おお、薔薇よ、
ゆたかにも、
うす紅く、
あまき
肉感の薔薇よ、
今日、そなたは
すべて唇なり。
花ごとに、
盛り上り、
血に燃えて、
かすかに
熱情の薔薇よ、
一切を吸ひ尽す
愛の唇よ。
その唇の上に、
太陽も、人も、
そよかぜも、
蜜蜂も、
身を投げて寄り伏し、
酔ひと夢の中に、
焼けて咽ぶ。
おお、五月の
名誉なる薔薇よ、
香ぐはしき刹那に
永久を烙印し、
万物の命を保証する
火の唇よ、
真実の唇よ。
薔薇よ、如何なれば
休むひま無く香るや。
花は、
之に答へぬ。
「我は自らを愛す、
されば思ふ、
妙香の中に生きんと。
たとひ香ることは
身一つに過ぎずとも、
世界は先づ
我よりぞ浄まる。」
薔薇の花打つ、あな憎し、
煤色の雨、砂の風。
薔薇は青みぬ、うつ伏しぬ、
砕けて白く散るもあり。
之を見るとき、花よりも
堪へ難ければ、傘とりて、
花の上にぞさしかざす。
三輪の薔薇、わが手より
移さんとして
またと得難き宝玉の
身をば離るる心地して。
瓶に移せる薔薇の花、
さて今は是れ、一
私に見る花ならず、
我背子も愛で、友も愛で、
美くしきかな、安きかな、
見る人々の為に咲く。
衰へて、濡れたる紙の如く、
瓶の端に
されど、しばし我は棄てじ。
花は仄かに猶
あはれ、こは、
香る、美くしき言葉も
わが運命の贈りもの、
恋と歌とに足る身には
薔薇を並べた日が続く、
真珠を並べた日が続く。
かよわき身には、有り余る、
思ひやりなき運命よ
多くの
風が
裸に帰る日は来ぬか。
このアカシヤの
わが今日踏みて思ふこと
甘き怖えに似たるかな。
かかる木蔭にそのむかし、
逢はで止まれぬ初恋の
人を待ちたる思ひ出か、
はた、此処に来て、はるばると
見渡す池の秋の水
濃き紫の身に沁むか。
人を脅かす太陽は隠れて、
星ある空は親しげに垂れ下り、
地は紫の気に満つ。
神秘と薄明の
夜は花の
その髪を振り乱す。
夜は美くし、安し、
今こそ小き我等も
一つの恋と一つの歌をもて
無限の世界に融け入るなれ。
大輪の
ぢつと見れば、
太陽の娘なる花の明るさ、
軽き
斫りし大輪の向日葵を採れば
花粉はこぼれて身に満つ、
おお、
君よ、我は焼かれんとするなり。
我は俄に筆を
我が書き行く文字の上に、
スフインクスの意地悪るき
ちらと覗く、それを見つれば。
永久の糧を送れと。
わが思ひつる如くにも
かの人は返事せず。
さて、ひと日過ぎ、
われは今みづから思ふ、
まことに恋に飢ゑつと。
灰となれば淋しや、
薔薇を焼きしも、
みな
されば、我は
薔薇に執せず、
榾に著せず、
唯だ求む、火となることを。
悒欝の日がつづく、
わが思ひは暗し。
わが肩を
重き錯誤の時。
身は醒めながら
悪夢の中に痩せて行く。
月の出前の
マニラ
牡丹の花が前に咲き、
孔雀の鳥が舞ひ
まして、輪を
それの煙を眺むれば、
舞うて空ゆく身が見える。
崖の上にも街、
崖の下にも街、
その間を這ふ細き
坑道よりも薄暗し。
更に一段低き窪にあり。
門を覗きて斜めに
人も、我も
横穴の悒欝を思ふ。
門と玄関との間、
両側に立つ痩せし樫の幹は
土中より出でし骨の如くに黒み、
その灰色する疎らなる枝は
鉛の静脈を空に張れり。
我家は
その内部は暗く屈みて
常に太陽を見ず、
陰湿の空気壁に沁みて
菊の
さもあらばあれ、我は愛す、
我家の傷ましく淋しきを。
精舎と行者との如く、
同じ忍辱の中に
人と家とは黙し合ふ。
さて、我家にも、
二階の障子に
朝の日の射す片時あり、
見給へこの稀なる
我家の桃色の笑顔を。
発車前三分······
我は更に戦きて
汽車の窓に歩み寄る。
発車前三分······
中なる人も
いかで、我等に残るこの束の間、
猶吸はばや、君が心を、
君が※[#「執/れんが」、U+24360、10巻-377-下-7]を、君が
発車前三分
はた、わが命のため、
捉へて我目に留めばや、
君が顔を、君が姿を。
狂ほしくなれる我は
君が手の上に
はげしき
思はず、きと噛みぬ。
おゝ、今、
わが脈管を伝ひて拡がるは
君が聖なる血の一滴······
汽笛は空気を裂く。
時なり、汽車は動き、
二度と来らぬ旅人の
君は遠く去り行く······
さはれ匂はしき記憶よ、
我が
[#改ページ]
ひと
おお、めでたくも晴れやかに
天は紺青、地の上は
淡紫と薔薇色を
明るく混ぜた銀の雪、
強き弱きの差別なく
世の争ひを和らげて
まんまろと積む春の雪、
平等の雪、愛の雪。
此処へ東の地平から
身を躍らして駈け
若い初日の額髪。
おお、此処に、
躍りつつ、
歌ひつつ、
急ぐ女の一むれ······
時は朝、
地は雪の原。
急ぐ女の一むれ、
青白き雪の上を
真一文字に北へ向き、
風に逆ふ髪は
後ろに靡きて
大馬の
折からの日光を受けて
高く前に張れる両手は
確かに掴まんとする
理想の憧れに慄へて
槍の穂の如くに輝き、
優しの素足に
さくさくと雪を蹴りつつ、
甲斐甲斐しくも穿きたるは
さて桔梗色や
明るき
霧よりも
膝を越えて
つつましやかに靡けば、
女達の身は半
浮ぶとぞ見ゆる。
この美くしき行列は
断えず歌へり。
その節は
かすかに
快き
人と万物を誘ひ、
人には平和を、
木草には花を感ぜしむ。
女達は歌ひつつ行く。
「全世界を恋人とし、
いとし子として、
この温かき胸に
我等は愛の
かの太陽より来りぬ」と。
おお、此処に、
踊りつつ、
歌ひつつ、
急ぐ女の一むれ······
女達の踏む所に
紅水晶の色の香水
光の如くに降り注ぎ、
雪の上に一すぢ
春の路は虹の如く
ほのぼのとして現れぬ。
日の堪へ難く暑きまゝ
しばらく筆をさし置きて、
我れは氷のかたまりを
載せて遊びぬ、手のひらに。
貧しき家の我子等は
未だ見ざりしその母の
この戯れを怪しみて、
我が前にしも集まりぬ。
可愛ゆき子等よ、こは母が
珍しきまゝする事ぞ、
唯だ気紛れにする事ぞ、
いはれも無くてする事ぞ。
かゝる果敢なきすさびすら
母が昔の家にては
許されずして育ちにき、
唯だ頑なに護られて。
可愛ゆき子等よ、
いざ氷をば手に載せよ。
さて年長けて
母は自由を愛でにきと。
我れは矛盾の女なり、
また恐らくは、魂に
病を持てる女なり。
我れを知らんとする人は
先づ此事を知り給へ。
祖国を二なく愛でながら、
世界の人と生きんとし、
濫婚国に住みながら、
一つの恋を尊びぬ。
我れは矛盾の女なり。
また恐らくは、魂に
病を持てる女なり。
貧しき事を詫びながら、
貴人に似たる歌を詠み、
人の笑む日に泣くなれば。
虫干の日に見出でしは
早く世に亡き母の文、
乱れて半ば読み難し。
わが三度目の
案じ給へる
すべて満たせる文ぞとは
薄墨ながらいと
このおん文の着きし日に
我れは産をば終りしが、
二日の後に、俄にも
母は世に亡くなり給ひ、
産屋籠りの我がために
悲しき事は秘められて、
母なき身ぞと知りつるは
我れに賜へるこの文が
最後の筆とならんとは、
母みづからも知りまさぬ
天の
あゝ、いましつる其世には、
母を恨みし日もありき。
いまさずなりて我れは知る、
母の
否、母うへは
世に生きてこそ
遺したまへる幾人の
子の胸にこそ在すなれ。
いざ見そなはせ、此に我が
思ふも母の心なり、
述ぶるも母の言葉なり、
歌ふも母の
嵐の後の庭の木戸、
その掛金を失ひて、
風のまにまに打揺れぬ。
今朝我が来れば、外つ国の
女の如き身振にて、
軽き会釈を為す如し。
萎れたれども、花壇より
薔薇は仄かに香を挙げて
人を辿へぬ[#「辿へぬ」はママ]、いざ入らん、
嵐の後の庭の木戸。
早く一つの墓を持つ。
知るは我れのみ、わが歌を
やがて淋しき墓ぞとは。
げにわが歌は墓なれば、
刹那の我れを納れしまゝ、
冷たく暗き過去となり、
未来は永く塞がりぬ。
愛も、望みも、微笑みも、
憂きも、涙も、かなしみも
此処にありしと誰れ知らん、
灰のみ白き墓なれば。
大忘却の奥ふかく
合されて行く安楽の
二なきを知れる我れながら、
時には之をかなしみぬ。
あれ、あれ、花子の目があいた
真正面をばじつと見た。
泉に咲いた花のよな
まあるい、まるい、花子の目。
見さした夢が恋しいか、
今の世界が嬉しいか。
躍るこころを現はした
まあるい、まるい、花子の目。
桃や桜のさく前で、
真赤な風の吹く中で、
小鳥の歌を聞きながら、
まあるい、まるい、花子の目。
お池のなかの噴水も
嬉しい、嬉しい事がある。
言ひたい、言ひたい事がある。
お池のなかの噴水は
口をすぼめて、一心に
空を目がけて歌つてる。
小さい花子の心にも
嬉しい、嬉しい事がある。
言ひたい、言ひたい事がある。
小さい花子と噴水と
今日は並んで歌つてる。
ともに優しい、美くしい
長い唱歌を歌つてる。
ほんに不思議や、きらきらと
光る円顔、
童すがたのお日様が、
風に吹かれてゆらゆらと
青い空から降りて来て、
花子の居間をさし覗く。
近く眺める嬉しさに、
眩しいことも打忘れ、
思はず窓に駆け寄れば、
またも不思議や、お日様は
直ぐに一輪、
花に変つて立つて居る。
涼しい涼しい秋が来た
花子の好きな秋が来た。
空は固より、日の色も
水も空気も吹く風も
すつきりしやんと澄み徹る。
まして静かな
お伽噺を読む側で
月はきんきん
虫はりんりん鈴の声。
竹の中から美くしい
かうした秋の日であらう。
涼しい涼しい秋が来た。
裏の林の秋の昼
静かな中に音がした。
何の音かと小走りに
まんまるとした栗の実が
高い枝から落ちて居る。
今あたらしく世に生れ
空を見るのが嬉しいか
一つ一つに
そして花子も好い笑顔。
空の緑を映した中に、
どの
桃色に染まつて居る。
初秋の夷隅川、
そして、折折に来るのは、
白い光の鳥、
自由と
おお、私の心の中の一羽の鴎。
何処から来たのか、
海の上の
桔梗色の空の上に、
まん円く白い雲の一団。
今、その雲の
気紛れな太陽が少し染めると、
雲は命を得て、
見る見る生きて動く。
もう雲では無い。
項を垂れながら、
後足で空に跳ねる白い大牛。
私達は浜へ出た。
何処までも続く砂は
一ぱいに夕焼を受けて、
海は猶更、
大きな野を焼くやうに、
炎炎と燃え広がり、
壮厳な猛火の楽が聞える。
そして、私達の
夕焼を受けた顔を見ると、
どの顔も
けれども、地に曳く
青ざめた影を振返ると、
みんなが、淋しい、淋しい
永遠の旅人を自覚する。
長者町の浜と
一人の青年の渡守、
その名は田中文治さん。
文治さん、
あなたは
あなたは人の
やつと一言を答へます、
重い、重い、鉄のやうな一言を。
文治さん、
あなたは人が礼を述べても
大して嬉し相な表情を見せません、
勿論、世辞や
文治さん、
あなたは兵役から帰つて来た人です
それで居て、少しも都会じみず、
日焼の黒い顔と、
百姓の子の生地とを保つて居る。
文治さん、
あなたは避暑客のために、
この夏中、此町の青年と一緒に、
渡守の役目を引受けて居る。
文治さん、
あなたは三日置の自分の番の外に、
仲間の者の課役をも助けて、
殆ど毎日、逞ましい
炎天の
文治さん、
あなたは
けれど、その銅像のやうな全身は
未来の偉大な人道を語ります。
今朝田舎には、
しつとりと
白い大粒の露が置いて居る。
私達が素足に
竹の皮の草履を穿いて、
小走りに海の方へ下りて行くのは、
両側に藤豆と
人の丈よりも高く立つ細道。
おお、何と云ふ親しさだ。
小さな紅玉を綴つた花や、
翡翠の色の長い葉が
額にも、手にも、袂にも触れる。
さうして、その度に露がこぼれる。
今朝、田舎には
どの草木にも
愛の表情と涙とが溢れて居る。
秋の優しさ、しめやかさ。
どの木、どの草、どの葉にも、
冴えた
深い
そして、内気なそよ風も、
水晶質のしら露の
嬉し涙を吹き送る。
秋の優しさ、しめやかさ。
空行く雁は
高い大気を海として、
櫓を漕ぐやうな声を立て、
円居の人の夜話に
黄菊の色の灯が
秋は暮れ行く。
甘き涙と見し露も
物を刺す霜と変り、
花も、葉も、茎も
萎れて泣かぬは無し。
秋は暮れ行く。
栗は裸にて投げ
枯れがれの細き蔓よりも
離散する黒き実あり、
秋は暮れ行く。
今は人の心の水晶宮も
粛として澄み透り、
病みたる愛の女王の傍ら
睿智の獅子は目を開く。
[#改ページ]
お日様、お日様、
若いお日様、
今日はあなたの
正月元日、瑠璃色の
海になびいた霞幕、
その紫をすと分けて、
東の空に帆を揚げる
めでたや、めでたや、
おめでたや。
お日様、お日様、
若いお日様、
今日はあなたの鹿島立。
金のお船に積み余る
熱と光は世を
真紅の帆から洩る風は
そして行手は花盛り
めでたや、めでたや、
おめでたや。
衆議院解散の
号外を手にした刹那、
わたしは座を立つて
思はず叫んだ。
「原敬の白髪頭が
何と云ふ善い智慧を出したのだ
自暴自棄と云ふ事ほど
最上の自滅法はありません。
民衆の敵、
社会の敵、
自由の敵、
政友会よ、
もうお前は亡霊だ。」
汗をば流し、
今日もせつせと
裏の畑は
やくざな畑、
何処を打つても
石ころだらけ。
石と鍬とが
かつちり、こつちり、
鍬は泣きだす、
石は火出だす。
花を植ゑるか、
菜の種蒔くか、
なぜに打つかと
健之介に問へば、
「蒔くか、植ゑるか、
それはまだ決めぬ。
僕は力が
出したいばかり。」
六甲苦楽園の雲華庵に宿りて
津の国の武庫の山辺の
細々と、つつましやかに、
歩みくる村雨のおと。
高原の
猶しばし枕しながら、
そを聴けば静かに楽し、
おそらくは、青き
水晶の靴を穿きつつ、
打むれて山に遊べる
谷の精、それか、あらぬか。
戸を開けて打見下ろせば、
しら雲の
をちかたに遠ざかりゆく
あかつきの山の村雨。
栓をひねると
水道の水が跳ねて出る。
何処の流しへでも、
誰れの手へでも、
それは便利な機械的文化です。
併し、わたしは倦きました、
わたしは掘りたい、
自分の力で、
深い、深い、人間性の井戸が一つ。
すき通る緑、
泣いた女の瞼のやうな薄桃色。
一本の、
ひよろ、ひよろとしたねぢり草が
わたしの心に一ぱいになつて光つて居る。
どんなに、わたしの心が、今朝、
美くしい
そして、わたしは満足して居る。
一本の
ひよろ、ひよろとしたねぢり草が
わたしの心へ入つて来たことに、
すき通る緑、
泣いた女の瞼のやうな薄桃色。
大粒で無い秋の雨が
思ひ出したやうに、折折、
ぽつり、ぽつりと
わたしの髪を打つ。
黄ばんだ萱の葉を打つやうに、
咲き残つた
わたしは今、
東京の大通りを急ぎながら、
心は
浅間の山の裾野を歩いて居る。
わたしの一人の友が
逢ふたびに話す、
大正六年の颱風に
千葉街道の電柱が
一斉に、行儀よく、
濡れながら、
同じ方向へ倒れて居たことを、
わたしは、その快い話から、
颱風を憎まない。
それが破壊で無くて
新しい展開であるのを思ふと、
颱風を愛したくさへなる。
おお、一切の煩瑣な制約を掃蕩する
天来の清潔法である颱風。
青い淵、
エメラルドを湛へて
底の知れない淵、
怖ろしい淵、死の淵。
所へ、「みづすまし」が
一匹ふいと現れて、
細長い
四本の脚で身を支へ、
円く、円く、軽軽と、
踊つたり、舞つたり。
淵は今「みづすまし」の
美くしい命の
「渦巻つなぎ」に満ち、
この芸術家的な虫の
支配のもとに、
見るは唯だメロデイの淵、
恍惚の淵、青い淵。
[#改ページ]
母さん、母さん、
お糊を下さい。
アウギユストは今日、
古い端書で
象を切ります。
きり、きり、きり、きり。
そおれ、長い長いお鼻、
そおれ、脊中、
まんまるい脊中。
きり、きり、きり、きり。
それから、小さな
後脚とお腹、
さうして前脚。
きり、きり、きり、きり。
少し後脚が短い、
くたびれて、
象よ、板の上に、
足の裏を曲げて、
糊をば附けて、
さあ、かうしてお立ち。
可愛い象よ、
お腹が空いたら、
藁を遣ろ、
パンを遣ろ。
母さん、母さん、
象の脊中には何を載せるの。
人間ですか、
荷物ですか。
象の脊中に載せるのは
書物ですつて。
それは素敵だ、
僕がみんな読んで遣らう。
それから、象よ、
僕が書物を読んで仕舞つたら、
僕をお載せ、
さうして一散に駆け出して頂戴。
アウギユストは象に乗つて
何処へ行かう。
兄さんの大学へ行かう、
兄さんをおどかしに。
いや、いけない、いけない、
兄さんはお医者になるのだから、
象に注射をして、
象を解剖するかも知れない。
母さん、何処へ行きませう、
宣しい、
母さんの云ふやうに、
広い広い沙漠へ行きませう。
象は沙漠が好きですとさ、
淋しい沙漠がね。
其処を通れば
太陽の国へ帰られる。
(註「アウギユスト」は作者の幼い四男の名です。)
元日のこころは若し、
清々し、美くし、優し。
人すべて一つになりて、
微笑みて
貧しきも富を憎まず、
盗人も盗みを忘れ、
溢るるは感謝のおもひ、
太陽も讃めて拝まん。
みしめ縄、
見る物に春の色あり。
霞みたる都のかたに
打仰ぐ青き空には
だれも、だれも、
春の日に
花を摘む。
むらさきの花、
紅い花。
庭で摘む、
野で摘む、
山で摘む。
むらさきの花
紅い花。
わたしも花を
摘むけれど、
淋しいわたしの
摘む花は、
うなだれた花、
泣いた花。
野にも、山にも
見つからぬ
欝金の花や
青い花。
春が来たとて
外へ出ず、
自分の書いた
絵の中と、
自分の作る
歌の中、
其処で摘む、
独りで摘む。
欝金の花や
青い花。
咲いた盛りの
桜のなかで、
啄木鳥よ、
おまへは自然の
電信技師、
何処へ打つのか、
桜のなかで、
春のしらせを
こつ、こつと。
虹のやうな
光る衣物、
着いたいな。
鳩のやうな白靴、
穿きたいな。
天馬のやうな大馬、
青い馬、
乗りたいな。
みんなで着いたいな、
みんなで穿きたいな、
みんなで乗りたいな。
そして、みんなで行きたいな、
みんなで踊りに行きたいな。
お猿が出て来た、
負はれて出て来た。
お目をぱちくり、
赤ん
お猿、手に持つ、
負はれた
ちよこなんと降りた。
降りたお猿は
足もとふらふら、
狭い座敷を
斜めに歩るき、
舞ふかと
嬢さんの前で、
あれ、まあ、赤ン
いやなお猿。
[#改ページ]
元日の夜明の
伊豆の海のほとり、
うす闇の中に
人々の白き人魚の肌。
がらす戸の外には
たわやかなる紺青の海。
大空の色は翡翠の如く、
その空と海の合へる涯には
今起る、
あはれ、神々しき
初日の登場、
燦爛たる火の鳥の舞。
波ことごとく
恋する人の
崖に沿ひたる我が家は、
その崖下を大貨車の
過ぎゆく度に打震ふ。
四とせ五とせ住みながら、
慣れぬ心の悲しさに、
また地震かと驚きぬ。
船をば家とする人も
かかる
我れは家をば船とする。
からりと晴れた
夏の日に、
季節ちがひの
くわりんの
一すぢ、
わたしの心のなかに、
その果肉の甘さを以て
ただよつてゐる。
わたしの心は
踊り疲れた女のやうに
半眠つてゐる。
さうして、半嗅いでゐる、
そのくわりんの果の香りを。
こんな時が
十分ほど続いて、
ふと現実に還つたあとで、
また、
わたしの重い頭が
猶そのくわりんの果の香りを
目の前にあるやうに探してゐる。
耳もとには
貪欲な蚊が一つ二つ唸つてゐる。
平凡な
暑くるしい夕ぐれ。
書きかけた原稿が
机にわたしを待つてゐる。
くわりんの果の香りは
わたしの感情と一緒に
もうまた帰りさうにない。
地平線は
高く高く
はての無い
星の多い、
明るい月夜の空に
結びつけてゐる。
砂原のなかには、
一ところ、
廃墟のやうな、
一段盛りあがつた丘の上に、
方形な白い石の家が立ち、
遥かな前方には、
一すぢの廻りくねつた川が
茂つた木立ちの中を縫つてゐる。
夜見る木立は
草のやうに低く黒く
中には、ほのかに、
二本、三本、
針金のやうな細い幹が
傾いて立つてゐる。
月の光の当たつてゐる部分は、
川も、木立も、
銀の
陰影はすべて
鉄のやうに重い。
世界は静かだ。
青繻子の感触を持つ空には、
星が宝石と金銀の飾りを
派手にぎらつかせ、
淡い一輪の月を
病人の顔でも覗き込むやうに
とり囲んでゐる。
川の水が
遥かな割に、
ちよろ、ちよろと
淋しい音を立てゝ流れる。
わたしは今、目を閉ぢると、
こんな景色が見える。
さうして、
その石の家の窓には
わたしが一人
じつと坐つてゐるやうである。
また、その遥かな水音も
私自身が泣いてゐるやうである。
また、その白い月が
わたしであつて、
高いところから、
傷ついた心で、
その
見下ろしてゐるやうでもある。
[#改ページ]
生暖かい三月半の
東京駅の一つの
人の群で黒くなつてゐる。
停電であるらしい、
久しく電車が来ない。
乗客は刻一刻に殖えるばかり、
皆、家庭へ下宿へと
急ぐ人々だ。
誰れも自制してはゐるが、
心のなかでは呟いてゐる、
或はいらいらとしてゐる、
唸り出したい気分になつてゐる者もある。
じつとしては居られないで、
線路を覗く人、
有楽町の方を眺める人、
頻りに
人込みを縫つて右往左往する人もある。
誰れの心もじれつたさに
其中に女の私もゐる。
やつと一台の電車が来た。
人々は押合ひながら
乗ることが出来た。
ああ救はれた、
電車は動き出した。
けれど、私の車の中には
鳥打帽をかぶつた、
汚れたビロオド服の大の男が
五人分の席を占めて、
ふんぞり反つて寝てゐる。
この満員の中で
その労働者は傍若無人の
酔つてゐるのか、
恐らくさうでは無からう。
乗客は其男の前に密集しながら、
誰も喚び起さうとする者はない。
男達は皆其男と大差のない
プロレタリアでありながら、
仕へてゐる主人の真似をして
ブルジヨア風の
其男に気兼し、
其男を怒らせることを恐れてゐる。
電車は走つて行く。
其男は呑気にふんぞり反つて寝てゐる。
乗客は窮屈な中に
忍耐の修行をして立ち、
わざと其男の方を見ない振をしてゐる。
その中に女の私もゐる。
一人で五人分の席を押領する······
人人がこんなに込合つて
息も出来ないほど困つてゐる中で······
あゝ一体、人間相互の生活は
かう云ふ風でよいものか知ら······
私は眉を顰めながら、
反動時代の醜さと怖ろしさを思ひ
我々プロレタリアの階級に
よい指導者の要ることを思つてみた。
併しまた、私は思つた、
なんだ、一人の、酔つぱらつた、
疲れた、行儀のない、
心の荒んだ、
汚れたビロオド服の労働者が
五人分の席に寝そべることなんかは。
昔も、今も、
少数の、狡猾な、遊惰な、
暴力と財力とを持つ人面獣が、
おのおの万人分の席を占めて、
どれ位われわれを飢させ、
病ませ、苦めてゐるか知れない。
電車の中の五人分の席は
吹けば飛ぶ塵ほどの事だ。
かう思つて更に見ると、
大勢の乗客は皆、
自分達と同じ弱者の仲間の
一人の兄弟の不作法を、
反抗的な不作法を、
その傍に立塞がつて
その中に女の私もゐる。
書き捨てた反古を捻つて、
幾つも幾つも作る、
「母あさんは今日、
是で我慢をなさいな。」
ひよろ、ひよろとした小犬が
幾つも机の上に並ぶのを見て、
四歳の児の目は円くなる。
「母あさん、此犬を啼かして頂戴、
啼かなけりや、母あさんは
犬を作るのが下手ですよ。」
路は花園に入り、
カンナの黄な花が
両側に立つてゐる。
藁屋根の、矮い、
煤けた一軒の百姓家が
私を迎へる。
その入口の前に
石で囲んだ古井戸。
一人の若い男が鍬を洗つてゐる。
私のパラソルを見て、
五六羽の鶏が
向日葵の蔭へ馳けて行く。
黄楊の木の生垣の向うで
田へ落ちる水が、
ちよろ、ちよろと鳴つてゐる。
唯だ、あれが見えねば好からう、
青いペンキ塗の
活動写真撮影場。
六月の太陽のもとで、
高架線から見る東京。
帆のやうに、幕のやうに、
舞台装置の背景布のやうに、
幾ところからもせり出した
染物屋の物干の
高い大きな布のかたまり。
なんとそれが
堂々と揺れて光ることだ。
日本銀行と
全身不随症の建物が
その蔭で尻餅をついてゐる。
おどろけるは我なるに、
よろよろとする自転車、
その自転車乗り
わが前に
おまへは
竹を割りて
まろく幹をつつみ、
黒き細縄もて縛れり。
簡素ながら、
いと好くしたる
職人の街路樹の愛。
一人の
路ばたにがつしりと据ゑぬ、
大臣、市長、頭取の
椅子よりも重く。
よいかな、爺、
我等の児になくて叶はぬ
飴屋の荷の台。
銀座通りの夜店の
人込のなかの敷石に、
盛上がりてねむる赤犬、
大胆のばけもの、
無神経のかたまり。
たれもよけて過ぎ行く。
白き綿の玉の如き
二羽のひよこが
ぴよぴよと鳴き、
その小さきくちばしを
母鶏の口につく。
母鶏はしどけなく
ななめにゐざりふし、
片足を出だして
ひよこにあまえぬ。
六月の雨上りの砂
心にはなほ
肩あげあり、
前髪、
人は見ぬにや、
知らぬにや、
心にはなほ
ゆめをおへども······
もう乳を欲しがらず、
抱かれようとも言はぬ。
辻褄の合はぬお伽噺を
根ほり葉ほり問ふ。
ママの膝なんかに用は無い、
ちやんと一人の席を持つてゐる。
[#改ページ]
東の空、
見よ、この日の、
かがやく、
いみじき光を。
めでたきかなや、
世の星なる、
麗はし、
良き姫めとらす。
雄雄しくいます、
日嗣の皇子、
げに、人皆、
とこしへ、
たのまん
ならびて
天つ
そのみなさけ、
優しく、
みけしき気高し。
咲きつぐ花、
此の白菊、
いざ、いざ、
すべて世のこと人のわざ、
善きが続くは難かるに、
これの
百に重ぬる、更に一。
百てふ数は豊かなり、
倉に満ちたる穀のごと、
これの冊子の来し方の、
足らへることの証なり。
一は
春立つ朝の空のごと、
これの冊子の更にまた、
新たに開く世界なり。
ああ見よ、此処に、まばゆくも、
聡く、気高く、うるはしき、
久遠の女、人のため、
行くべき
ふたおやの愛の心は
等しくて差別なけれど、
その愛の姿のうへに
おのづから母ぞ異る。
女にて母とならずば
如何ばかり淋しからまし。
女なる身の幸ひは
母となり初めて知りぬ。
生むことは聖なるわざぞ、
母ひとり之をなすのみ。
神の子と云はるる人も
母の血を浴びて生れき。
男らは
人斬りし道なき世にも、
をさな児に乳房を与へ、
かき
母なくば人は絶えけん、
母ありて、人の
つぎつぎに新たになりぬ、
美くしくやさしくなりぬ。
今の世も男ごころは
おしなべて荒く硬かり。
正しきに導くものは
母ならで誰か
願はくは母の名に由り、
地の上の人を浄めん、
富む者の欲を制せん、
戦ひを
[#改ページ]
或日、わがこころは
うす墨色の桜、
また別の日、わが心は
紅き一ひらの
時は短し、欲多し。
あなた、石が泣いて居ます、
石が泣くのを御覧なさいまし。
あの朴の木の下の二つ目の石、
光を半分
上を向いて、
渋面をして泣いて居ます。
こんな山の中で、静かな中で、
だまつて泣いて居ます。
黄味がかつた白い睡蓮、
この花を見ると、
直ぐ私の目に浮ぶのは
自然らしい公園の奥の池、
あなたと私とは立止まり、
さて其処に見た、
静かなる浴女の
[#改ページ]
今年ここに第一の春、
元日の卓の上に、
まろまろと白き牡丹
力満ちて開かんとす。
金属も火も知らぬ、
かよわき中の強さ、
よき人の稀に持つ
素顔の気高さ。
この喜びにいざ取らん
わが好む細き細き穂長の筆。
牡丹とわが心と今
共にほと
粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
涙
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語。
×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。
世は変る、変る、
偏すること無く変る、
愛と正義の中に変る。
×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の
×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ。
世界は如何に動くべき、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
×
我等は陛下の
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の
陛下は地上の太陽、
唯だ光もて
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界を
我等は日本人、
まして今、
華やかに若き陛下まします。
×
争ひは無し、今日の心に、
事に
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
×
眠りつるは覚めよ、
乱れつるは正せ、
己が国には己が振。
改まるべき日は
×
我等が行くべき
陛下今指さし給ふ。
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。
[#改ページ]
障害物を越ゆる
騎馬の人の写真より、
我目は青磁の皿なる
レモンの黄に移り行き、
ふと、次の
鳩の時計の呼ぶに、
やがて心は
碓氷の峰の
冬枯の
浅間より浮び来る
白き雲に乗りつつ、
高く高く遊ぶ。
飛べ、けはしきを、風の空、
吹け、はげしきを、火の
摘め、かをれるを、赤い薔薇、
漕げ、
君が愛、音楽、詩の力。
[#改ページ]
見上げたる高き
胸ひかる小鳥のつがひ、
もろともに
一すぢの細き藁屑、
まめやかに、いぢらしきかな、
日のあたる南に向きて、
こもりたる青葉の蔭に、
巣を作る
春の日は若き
花の木に枝うつりして、
霜と雨、風をも凌ぎ、
歌ひけん、岡より岡へ。
初夏の小鳥のこころ
今は唯だ生むを楽み、
雛のため、高き木間に
巣を作る頬白のわざ。
小蒸汽の
ここに立ちて
後ろを見れば、
過ぎ去る、
過ぎ去る、
逃げるやうに過ぎ去る
わたしの小蒸汽。
後ろに長く引くのは、
板硝子のやうな航跡、
その両側に
船底から
糊を附けて
藍色の布の
襞と皺とを盛り上げる。
ぱつと白く、
そのなかに、遠ざかる
港の桟橋を隠して、
レエスの網を跳ね上げる
また突然に沢山の
言葉のやうに呟いて
やがて消えゆく泡。
陸から、人から、
貧乏から、筆から、
わたしの平生から、
ああ、かうして離れるのは好い。
過ぎ去る、
過ぎ去る、
わたしの小蒸汽。
まぶたよ、
何と云ふ自在な鎧窓だ。
おかげで、わたしは
じつと内を観る。
唯だ気の毒なのは、折々
涙の雨で濡れることである。
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教へ子のわが
この花をいざ受けたまへ。
君たちのめでたき門出、
よき此日、うれしき此日、
そのはじめ皆をさなくて
ほの紅き蕾と見しも、
いつしかとわが少女たち
この花にいとこそ似たれ。
似たまふは姿のみかは、
うるはしく匂へる色は
やがて其の豊かに開く
新しきみこころの花。
教へ子のわが少女たち、
この花をいざ受けたまへ。
この花にその
幸ひを眺めたまへよ。
いとよくも修めたまひき。
つつましく優しきなさけ。
明るくも敏きその智慧
創造の
君たちの行手の道は
ほがらかに春の日照らん。
荒き風よしや吹くとも、
少女子の花はとこしへ。
かく云へど、永き
相馴れし親のこころに、
別れをば惜む涙の
つと流る、如何にとどめん。
いざさらば我が少女たち、
この花のごとくにいませ
若やかに光りていませ
この花をいざ受けたまへ。
ねんねんよ、ねんねんよ、
雨が降るからねんねんよ、
ねんねんよ、ねんねんよ、
鵞鳥の坊やのおめざには、
ちいしやの
ねんねんよ、ねんねんよ、
ああかいお日様上げませう。
ねんねんよ、ねんねんよ、
いゝ子の坊やはねんねした。
[#改ページ]
思ひあまれど猶しばし
云はで
如何にすぐれた歌とても
書いてしまへば旧くなる。
すべて
要らぬ言葉の多きなり。
寒山は詩を作り、
拾得は釜を焚く。
それで昔は暮された。
ああ一千九百三十年、
わたくしはまた随筆を売る。
時計を見れば十一時、
秋の夜長の嬉しさよ、
筆さしおきて、また更に
立ちつつ棚の本を
夜更けて物を読むことは、
田を刈る人が手を
しばらく空を見るよりも
更に澄み入る心なれ。
一のペイヂをそつと切る。
今夜新たに読む本は
未知の世界の旅ぞかし。
初めの程は著者とわれ
少し離れて行くも
敬ふごとく次を切る。
唯だ
もどかしとする虫ならん、
我れに代りて爽かに
前の廊より声立てぬ。
電灯のいろ水に似る。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
わが
思ひがけぬ虫の声よ、
小暗き廊をつたひて
わが筆執る書斎に入るなり。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
げに其声は鈴を振る。
駄馬の鈴ならず、
橇の鈴ならず、
法師の祈る鈴ならず。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
朗朗として澄み昇る。
聴けば唯だ
すべてみな
盛唐の詩の韻なり。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
その声は喜びに溢る。
促されずして歌ひ、
堪へきれずして歌ひ、
恍惚の
りん、りん、りんと鈴虫の声、
なんぞ傍若無人なる。
寸にも足らぬ虫なれど、
今彼れの心に
唯だ歌ありて一切を忘る。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
彼の虫ぞ自らを恃める。
人間の心には気兼あり、
りん、りん、りんと鈴虫の声、
誰れか今宵その籠を掛けたる。
わが子らの中の
いづれの子のわざならん、
かの

りん、りん、りんと鈴虫の声、
猶かの

すでに午前一時、
その硝子には白からん、
栴檀の葉を通す十五夜の月。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
月の光の如く流る。
虫よ知るや、其処の椅子に、
詩人木下杢太郎博士
十日前に来て掛け給ひしを。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
更けていよいよ冴え渡る。
また知るや虫よ、其の

火曜日ごとに若き女達きて
我れと共に歌ふ所なるを。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
書斎に入りて我れを繞る。
我れは猶筆を捨てず、
よきかな、我が思ひと我が言葉
今は鈴虫の韻に乗る。
同じ囲ひのうちに
鶏のむれ、鵞鳥のむれ、
すでに食み終りて
猶も餌を待てり。
餌の無きにあらず、
彼等の目の見難きなり。
見よ、同じ囲ひのうちに
雀の
猶よく見よ、餌を運ぶ蟻は
今正に収穫の農繁期なり。
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飢ゑたひよ鳥も食べぬ
にがい、にがい
飢饉地の子供が其れを食べる。
わたしの今日此頃の心も
人知れず枳殻の実を食べる。
唯一つ、
さし出した手は寂しい。
しかし、待て、
皆が、皆が、一斉に
手を伸ばす日は来ぬか。
わたしは行きます、
ぢつと見ると怖いので、
ただ一人めくらとなり。
どんな音が爆ぜようとも
ただ一人めくらとなり。
ひよろ、ひよろとして
枯れてゐる木、
勿論、雑木のはしくれ、
それでも小鳥を遊ばせるに十分な
枯れてゐる木。
一人の兵士が斃れた、
前から来た
しかし、兵士自身は知つてゐる、
背嚢が重過ぎたのだ、
後ろの重味に斃れたのだ。
太つて「
はじめは可笑しく見えた、
次に見たら苦し相であつた、
それがまた今日逢つたら
紙製の軽さに見えた。
均斉と云ふことが厭で
こんな隅に窓を開けました。
御覧、ここから見えるのは
山の脚ばかり
さうして低い所に野が少し。
花粉ばかりなんですが、
余計な
わたしは顔を洗ふ水に
毎朝花粉を散らすのですが、
花粉ばかりなんですが。
心の奥の薔薇と香り合ふ、
カアテンの隙から日が射してゐる、
心の奥にも射してゐる、
わたしの門前の泥、霜どけの、
これが東京まで続いてゐよう、
丸ビルの口で誰れかが靴を洗つてゐよう、
下級の新聞社員が
また自弁で円タクを飛ばすであらう。
今、煙突掃除夫の手、
地獄の底を掻きまはした手、
やけになりきつた手、
痛快を死に賭けて悔いない手、
その母が見たら泣きませう。
さうでない、さうでないと
否定ばかりを続けて、
青年が老人になつて行く。
手を挙げよ、
誰れが新しい道を見つけたか。
ところが、繋がつてゐるのです、
一つを切ると
一つが死ぬのです、
いや、皆が死ぬのです、
人間と草木とはちがひます。
かきまはすと触れあつて
がりがりと音のする
幾塊かの氷片、
バケツの中の世界は
困る、
葬式は出して欲しいのに。
困る、血のつづかぬ同志が
もう
死人が叫ぶ、聞えない。
江湾鎮の西の
かの塹壕に何を見る。
行けど行けども敵の死屍、
折れ重なれる敵の死屍。
中に一きは哀しきは
学生隊の二百人。
十七八の若さなり、
彼等、やさしき母あらん、
その母如何に是れを見ん。
支那の習ひに、美くしき
彼等すこしく書を読めり、
世界の事も知りたらん。
国の和平を
誰れぞ、彼等を欺きて、
そのうら若き純情に、
善き隣なる日本をば
侮るべしと教へしは。
誰れぞ、彼等を
筆を
若き命を、此春の
梅に先だち散らせるは。
十九路軍の総司令

今日の
己れの軍を知らざりき。
江湾鎮の西の方
かの塹壕に何を見る。
泥と血を浴び斃れたる
紅顔の子の二百人。
(右、読売新聞記者安藤覺氏の上海通信を読み感動して作る。)
白く塗つた椅子を一つ
芝の上に出したら、
それが
お待ち、お待ち、天へ昇るのは。
まだ足らぬ、春風が。
魯迅と郭沫若と、
胡適と周作人と、
彼等とわたしの間に
塹壕は無いのだけれど、
重砲が聾にしてしまふ。
ああ大御代の凜凜しさよ、
人の心は目醒めたり。
責任感に燃ゆる世ぞ、
「誠」一つに励む世ぞ。
空疎の議論こゑを絶ち、
妥協、惰弱の夢破る。
正しき
百の苦難に突撃す。
身は一兵士、しかれども、
破壊筒をば抱く時は、
鉄条網に躍り入り、
実にその身を
身は一少佐、しかれども、
敵のなさけに安んぜず、
花より清く身を散らし、
武士の名誉を生かせたり。
其等の人に限らんや、
同じ心の烈士たち、
わが皇軍の行く所、
北と南に奮ひ起つ。
わづかに是れは
われら銃後の民もまた、
おのおの励む
自己の勇気を幾倍す。
武人にあらぬ国民も、
尖る心に血を流し、
命を断えず小刻みに
国に尽すは変り無し。
たとへば我れの此歌も、
破壊筒をば抱きながら
鉄条網にわしり寄り
投ぐる心に通へかし。
無力の女われさへも
かくの如くに思ふなり。
父祖の美風を継げる民。
ああ大御代の凜凜しさよ、
人の心は目醒めたり。
責任感に燃ゆる世ぞ、
「誠」一つに励む世ぞ。
東の国に美くしく
天の恵める海と山、
比べよ、其れに適はしき
我等日本の女子あるを。
中にも特にすぐれたる
瀬戸の
その優しさと気高さは
やがて我等の理想なり。
我等は
常に夜明の喜びを。
心の奥に光るもの
春の日に似る愛なれば。
日本の女子は誇らねど、
深く
軽佻浮華の
真の文化に生きんとす。
技術と学の一切を
今ぞおのおの身に修む。
斯くして立つは新しき
御代の男子の協力者。
聡明にして優雅なり、
慎ましくして勇気あり。
匂へる
智慧と慈悲とを満たす母。
固より女子の働くは
遠き祖先の遺風なり。
男子と同じ務めにも
共に奮ひて進み出づ。
桜と梅のひと重、八重、
開く姿は異なれど、
すべて香れる人の華。
蘇峰先生古稀
大地の上に
報ゆる心澄み徹る
時代の先駆、蘇峰先生。
想は明健まどかにて、
筆は暢達はなやげり。
常に
仮りの一語も生気あり。
天下の恩師、蘇峰先生。
奇しき力を身に兼ねて、
老いざる巨人、蘇峰先生。
寿をたてまつる、先生よ、
とこしへ若くおはしませ。
豊かに高きその史筆
明治の篇を結びませ。
燦たる光、蘇峰先生。
銀座であつたと、人の噂、
それはもうベルが鳴らない前の事。
浮動層のあなたに、
併し猶、映写幕に消えぬ
新居格先生のプロフイル。
(今井鑷子女の新舞踊のために作る。)
今宵のこころ躍るかな、
君来たまふや、来まさぬや、
隔てて住めば藤原も、
近江国にことならず。
あやしく躍る心かな、
何がつらきか、此世には、
思ひあへども逢はぬこと、
逢はれぬことに
心うれしく躍るなり、
身に余りたる我が恋は
君知らしめせ、忍びかね、
こころぞ躍る、この夕、
君来たまはんしるしなり、
蜘蛛は軒より一すぢの、
長き糸こそ垂れにけれ。
今日の森は涼し、
わたり行く風の音
はらはらと旗を振る。
濃いお
上の山より斜めに
遠き地平にまで晴れたり。
まろく白き雲ひとつ
帆の如くに浮び出で、
その空も海に似る。
森の木は皆高し、
ぶな、黒樺、稀れに赤松、
樹脂の
太陽は近き幹をすべり、
我が凭る椅子の脚にも
手を伸べて
かのぶなの枝に巣あり、
何の小鳥ぞ、胸は朱、
鳴かずして二羽帰る。
紅萩、みじかき茅、
りんだうの紫の花、
猶濡れたれば行かじ。
我れは屋前の椅子に、
読みさせる書をまた開く。
秋は今日森に満つ。
蒋介石に手紙を出したが、
届いたと云ふことを聞かぬ。
聞違つてゐた、
わたしは唐韻の詩で書いた、
商用華語を知らないので。
煙突男が消えたあと、
銀座の柳が溺れたあと、
流行の洪水に
ノアの箱舟が一艘
陸軍旗を立てて来る。
切腹しかけた判官が
由良之介を待つてゐる。
由良之介が駆けつける。
シネマを見馴れた少年は
お医者と間違へる。
[#改ページ]
今日もよい
硝子障子にさし入るのは
今、午前十時の日光、
おまけに
適度に空内を
わたしは平和な気分で坐る。
今日一日外へ出ずに済むことが
なんとわたしを落ち著かせることか。
でも
せめてこの二十分を楽まう。
硝子越しに見る庭の木、
みな落葉した裸の木、
うす桃色に少し硬く光つて、
幹にも小枝までにも
その片面が日光を受けてゐる。
こんな日に何を書かう、
論じるなんて醜いことだ。
他に求める心があるからだ。
自然は求めてゐない、
その有るが儘に任せてゐる。
わたしは此のひまに歌はう、
白い椿も咲きはじめた、
花の頬と香りの声で
冬の日にも自然は歌つてゐる。
裸の木の上には青空、
それがまろく野のはてにまで
お納戸いろを垂れてゐる。
二階へ上がつたら
富士もまつ白に光つてゐよう。
風が少しある、
感じやすい竹が挨拶をしてゐる。
あたたかい室内で
硝子ごしに見ると、
その風も春風のなごやかさである。
苛酷な冬の自然にも
こんな平和な一日がある。
師走の忙しさは嵐の中のやうだ、
それは人間のこと、
自然は今、息を入れて休んでゐる。
富士山の上の霧氷、
それを写真で見て喜んでゐる。
美くしいことは解る、
それがどんなに寒い世界の消息かは
登山者以外には解らない。
あなたにわたしの歌が解りますつて、
さうでせうか、さうでせうか。
彼れは感歎家にして慷慨家、
形容詞ばかりで生きてゐる。
また他の一人の彼れは計画家、
建築の経験を持たない製図師。
忙しい師走の半ばに
二人のお相手は出来ない、
わたしは失礼して為事をする。
お客同志でゆつくりとお話し下さい。
灯をつけない深夜の室に、
燃え残つたストオヴが深紅に光る。
ストオヴは黙つてゐる。
それを自分の心臓だと見るわたしは
炭をつぎ足さうかと思ふ。
いや、誰れが手を
独り此の寂しい深紅を守らう。
わたしには問はないで下さい、
「あなたの心の
クリスチヤンじみたことを。
誰れが故郷を持つてゐると云ふのです。
みんな漂泊者である日に、
みんな新世界を探してゐる日に、
過去から離れて、みんな
蒙昧を開拓しようとしてゐる日に。
それよりも見せて下さい、
あなたに鶴嘴を上げる力があるか、
一尺の灌漑用の水でも
あなたの足元の沙から出るか。
ちび筆に線を引きて
半紙に木瓜の枝を写生し、
赤インクにて花を
末の娘、見て笑ふ、
母の木瓜には刺無し。
同じ免官者でも
急に言葉が荒くなり、
知事や将校は便衣隊に見える。
校長たちの気の毒さ、
番茶で棋を打つてゐる。
武蔵野の中、
日の入りて
屋上の台に昇る。
わが座は今
わが庭の
最も高き梢と並ぶ。
風、かの白き天の川より降るか、
我れを斜めに吹きて
余勢、なほ
わが町の木と屋根と皆黒し、
唯だ疎らに黄なるは
街灯の点のみ。
一台のトラツク遠きに黙し、
東の方、遥なる丘の上に、
うす桃色の靄長く引けるは、
東京の明かりならん。
我れ独り屋上の暗きに坐る。
燦爛たる星、
満身には風。
つくづくと天の濶きを見上げて、
つつましき心に、この時、
感謝の涙流る。
我等近く来るたびに、
久住の山、
雲動き霧馳せて、
雨さへも荒し。
久住の山、
我等の見るは、
頂にあらずば裾の
わづかに一部。
一部なれども、
深むらさきの壁に
天の一方を塞ぎ、
隠れまた現る。
ああ全貌を見ずとも、
久住の山、
大地より卓立して
威容かくの如し。
ねがはくは我等の歌、
云ふ所は短けれども、
久住の山
この中にも在れ。
日木は伸びたり、
滿洲の荒野も今は
大君の御旗のもと。
よきかな、我友吉本夫人、
かかる世に雄雄しくも
海こえて行き給ふ。
願はくは君に由りて、
その親しさを加へよ、
日満の民。
夫人こそ東の
我等女子に代る
平和の使節。
君の過ぎ給ふところ、
如何に愛と微笑の
美くしき花咲かん。
語らざれども、その徳
おのづから人に及ばん。
ああ旅順にして、日露の役に
死して還らぬ
茲に君を招き給ふか。
行き給へ、吉本夫人、
生きて平和に尽すも
まして君は歌びと、
新しき滿洲の感激に
みこころ如何に躍らん。
我れは祝ふ、吉本夫人、
非常時は君を起たしむ、
非常時は君を送る。
月、まどかな月、
永遠の処女のやうな月、
昭和八年の中秋の月。
山に、湖上に、海に、
美くしい自然と
友情のなかで眺めた月、
そなたを観た私からは
百首の歌が流れて出た。
今夜の私は沈黙して居よう、
沈黙してそなたに聴かう。
そなたは雲を出て踊り、
そなたは雲に入つて歌ふ。
木犀の香はそなたの息、
竹のそよぎはそなたの衣ずれ。
ああ月よ、
そなたは私を迎へて
かの高きへ引き上げる。
私は今、光る雲の上で、
そなたと遊んでゐる。
[#改ページ]
下つ毛の
いと長く、はた、いと低し。
指さして人教ふらく、
かしここそ
いにしへの世の作者たち、
遠きをば現はすことに
白河の関を引きつれ、
その里は山の裾なり。
雪の日の斯かるけしきを
端近く出でて望めど、
昨日より病のあれば
いにしへの世も身に沁まず、
今のことはた
みづからの目に見るものは、
今少し陸奥よりも、
白河の関よりも猶
遥かにて、雪いと白く、
ひた寒き、この世ならざる
国のさかひぞ。
やさしい楓の枝、小枝、
今、伸ばしはじめた
紅い新芽、
柿右衛門の手法と
芸術境を
正に此の楓は知つてゐる。
かはいい小鳥の足とても、
こんなに繊細な
美くしさは持つてゐない。
珊瑚の小枝は是れよりも
紅い糸状の海草の或物は
是れに似て、併し柔軟に過ぎる。
楓の紅い新芽よ、
そなたのみである、
花と若葉の多いなかに
繊麗深紅の一体を立てて、
そのつつましい心と姿で
四月の太陽を讃めるのは。
花を作るも勇みあり。
学ぶ我等の気は揚がる。
この楽しみを共にして、
あまた良き師に導かれ、
ここに学べる朗らかさ、
北には六甲、東には
生駒山脈そびえたり。
我等ながめて、
山の力に励まさる。
大坂湾の
紀淡海峡遠白し。
我等ながめて、おのづから、
内の心を濶くする。
日本の
古き世からの習ひなり。
我等おのおの身を鍛へ、
常に凜凜しき姿あり。
我等の愛は限り無し、
自然、道徳、学の愛、
家庭、交友、国の愛、
国の
是等の愛を生かすため、
善を行ひ、智を磨き、
女子の我等も、大御代に
永く至誠の民たらん。
我等は思ふ、御代の恩、
更に師の恩、親の恩。
謝せよ、互に学べるは
高き是等のみなさけぞ。
我等は嫌ふ、軽佻を、
無智を、惰弱を、妄動を。
起れ、聡明、堅実の
清き日本よ、我等より。
ああ、もろともに祝ひなん、
西宮なる高女生、
ここに学びて
斯かる理想の光る旗。
我等の歌は、もろともに
内の理想の叫びなり。
また、みづからを励まして
呼ばるる声ぞ、いざ歌へ。
平野のかなた、天つ空、
峰を連ぬる立山に
明るく高き心あれ。
桜の馬場に花ひかり、
古城公園松
やさしき花のわれわれも
身の健やかさ、松に似よ。
婦人の徳の
愛を養ひ、智を磨き、
善事に励む習はしの
楽しき日をば重ねなん。
ああ、大御代に生れ来て、
われら
このありがたき幸ひを
空しくせざれ、わが友よ。
互に他をば敬ひて、
ともに自ら重んぜん。
師の君たちの
いざ、つつましく従はん。
この感激をくり返し、
同じ理想に手をつなぎ、
確かに一歩、また一歩、
勇みて進む朗らかさ。
高岡市立高女生、
これを我等の誇りとす。
凜凜しき今日のよき
輝やく明日の人の母。
ありがたう、琉球の友よ、
送り給へる檳榔の葉の団扇
昨日より我手にあり。
我れは此の形を
陰暦十日の月と見て
那覇の港の夜を思ひ、
なつかしき君が心も
此の風にまじると思へり。
この団扇には柄無し、
大きく手に掴みて取れば
乾隆の詩箋を捧ぐるが如し。
我れは是れを額に載せて眠り
その南島の夢を見ん。
何と云ふ小鳥の巣ならん、
うす赤き幹の
枝三つ斜めして並べるに、
枯れし小枝と、苔と、
すすきの穂とを組みて、
二寸の高さにまろく、
満月の形したり。
巣のある木を
更に上より傘したるは
方三丈の大樹、
などか小鳥は
その黒樺をえらばずして、
きやしやなる幹の
沙羅の枝に住みつらん。
小鳥の巣、
今は既に空ろなり、
ここにて
その親鳥の飛び去れるは
谷の風吹きのぼるたびに
熊笹、山の林の奥にまで浪打ち、
前には遠き連山に八月の雪あり。
小鳥の巣、
幸ひあれよ、
その飛び去れる小鳥らに。
我れもまた今日は旅びと、
恐らく、東京の我が家をも
この巣の如くさし覗きて、
我が旅のために祈る友あらん。
小田原より東京へ
むし暑き日の二時間、
我れは
二人は論じ且つ論ず。
その対象となる固有名詞は
すべて大臣大将なれど、
その末に敬称を附せざるは
二人の自負のより高きが為めならん。
満員の列車、
避くべき席も無し。
我れは久しく斯かる英雄に遇はず、
されば謹みて猶聴きぬ。
日米のこと、日露のこと
政党弾圧のこと、
首相を要せず、外務大臣を要せず、
天下は二人ありて決するが如し。
大船駅停車の二分に
我れは今日の夕刊を買ひぬ。
新聞には「昭和九年」とあれど、
我れの前の二人は明治型の国士なり。
新聞を開きて、我れは現代に返る。
一面の隅に如是閑先生の文章あり。
偶然にも取上げたる新聞は
英雄たちと我れの間に幕となりぬ。
誰れか震災を回顧する
敵機の襲来を仮想して、
全市の人、防空に
午後六時、
サイレンは鳴りわたる。
子らよ、灯を皆消せるか、
戸をすべて鎖しつるか。
良人と、我れと、
泊り合せたる
暗き廊を折れ曲りて
手探りに電灯をひねれば、
下二尺
わづかにも
雨、雨、俄かなる雨、
風さへも荒く添へり。
サイレンに交りて
砲声遠く起る。
防護団の若き人人、
今、敏活の動作いかなるべき。
いざ、斯かる夜に歌詠まん、
屋外の任務に就かぬ我等は。
この即興の言葉に、
是山ぬし先づ微笑み、
良人はうなづきて
黙して紙に向へば、
サイレンと、暴雨と、砲声と、
是れ、我等を励ますなり、
我等の気は揚がる。
但だ、筆を執る姿は
軒昂たること難し、
俯向ける三人の背に
全市の闇を負へり。
地震なり、
板戸、硝子戸、鳴りとどろき、
家三たび荒く揺れぬ。
子の一人馳せ来て告ぐ、
横浜なる防空本部のラヂオ
今云ひぬ、
「この松屋の屋上も揺れつつあり」と。
人は敵機の空襲に備へて、
震災記念日を忘れたれど、
大地は忘れずして
我等を驚かしつるならん。
砲声は更に加はる、
敵機、市の空に入れるか。
驚異と惶惑の夜、
我等は猶筆を執る。
九段の坂の上に来て、
大東京の中央に
高く立つこそ涼しけれ。
まして今宵の大空は
秋にも通ふ色をして、
濃いお
しとどに置ける露のごと、
星みな白くまたたくは、
空にも風のそよぐらん。
見下ろす街は近きより
遠きへかけて奥のある
墨と
飾りとしたる灯の色は
濡れたる
紅き瑪瑙とエメラルド。
ここにて聴けば、輪の軋り、
汽笛の叫び、それもまた
喜び狂ふ楽となり、
今宵の街を満たすもの、
行き交ふ袖も、
すべて祭の姿なり。
かかる心地に、我れ曾て
モンマルトルの高きより
宵の
おなじ心地に、今宵また
明るき御代の我が都
大東京を観ることよ。
いとま無き身に唯だ暫し、
九段の坂の上に来て
高く立つこそ涼しけれ。
(山崎矢太郎氏の詩集に序する擬古一章)
わが恋ふる北の信濃は、
雲分けてむら山聳え、
沙わしり行く川長し。
あけがたの浅間のふもと、
たそがれの碓氷の峠、
幾たびも我れを立たしめ、
思ふこと尽くべくも無し。
子らと来てまたも遊ばん、
飽くことを知らぬ心に
かくさへも願ふなりけり。
ましてまた松川の奥、
紅葉する渓の深さよ。
いで湯をば野沢に浴びて、
霧を愛で、月をよろこび、
日を経ればいよいよ楽し。
往きかへり、
橋こえて打見わたせば、
とりどりに五つの峰の
晴わたる雲を帯ぶるも、
云ひ古りし常の言葉に
讃ふべきすべの無きかな。
旅の身はあはれと歎き、
唯だ暫し見てこそ過ぐれ。
羨まし、この国の人
常に見てこころ足るらん。
今の世の都に染まぬ
新しく清き歌あれ、
この山と水に合せて
美しく高き歌あれ、
なつかしく光りたる国
北の信濃に。
蔭にわたしを立てながら、
優しく物を云ひ掛ける。
もう落葉した路の楢。
楢とわたしは目で語る、
風が聴かうと覗くから。
×
杉にからんだ蔓を攀ぢ、
秋の夕日が食べてゐる、
山の葡萄の朱の
ちぎれて低く駆けて来る
雲は二三の野の羊。
×
わたしを何処へ捨てたのか、
とんと思ひがまとまらぬ。
がらんとしたる
前に尾を振る白い犬、
これを眺めてもう
×
裾野の路に、たくたくと、
二町はなれた森にまで
秋にひびかす靴のおと。
わたしは森の端に出で、
呼びたけれども、旅の人。
×
秋の日ざしに照り透り、
蔦の
どれも身軽な紅い鳥。
今日は
見上げる壁に一しきり。
×
既に云ひ得ず、今の史家、
未来の史家も誤らう、
時を隔てて何知らう。
真の批判が世にあるか、
自負する人は寒からう。
×
ハンドバツクを持つ振も
みなが凜凜しく、大事らし、
そして鋪道を西ひがし。
霜に曇つたこの朝も
職ある娘はいそぎ足。
×
霜ふらぬ
乏しけれども秋の薔薇、
純情の薔薇、夢の薔薇、
これを摘まずば寂しかろ、
べにと薄黄に香る薔薇。
×
泣かずともよい高い木も、
露が置くとて泣いてゐる、
霜が降るとて泣いてゐる。
泣くのが無理か、真昼にも
蔭に日を見ぬ草の蔓。
×
どこをどうして来たことか、
ひまある人は振り返る、
清い浜べとまるい丘。
常にわたしは馳せとほる、
いばら、からたち、岩のなか。
×
枇杷の葉ほどの小硯に、
指の染むのも嫌はずに。
朱は擦るたびに低くなる、
地平の末の日のやうに。
×
落葉が揺れる、
蜘蛛の巣にひと葉、
鉢の水にひと葉。
空ゆく月は笑つてる、
見よ、美くしいあの白歯。
×
戸のすきまより、寒き月、
三尺の長さなる
しら刄を内に送る。
我れはこの時、
退屈を二つに斬る。
×
今なり、
心にある
寒き月きたり照すは。
我れは独り歩めり、
凍らんとするそのみぎは。
×
手ごたへを聴かぬ限り
おろす、おろす、おろす||錨
その末に||音||かちと、
今われの
聴くことの楽しさよ、独り||かちと。
×
わたしを痛く刺したれど、
秋まで残る蚊のこころ、
秋に堪へても生きたかろ。
世にあることは唯だ一度、
刹那の
×
みぞれ降る日に開け放ち、
黒き小机、
生けたるは茶の花ひと
あるじなほ縁に立ち、
×
それを通したかたくなが
仮に堅めた
沙の塔ぞと人云はん、
押せばくづるるわたしの
×
ボタンを押せばベルが鳴り、
取次を経て座に通る、
なんとかずかず手間が要る。
わたしの客はわたしなり、
逢ひたい時に側にゐる。
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しら布に覆へる小箱、
三等車より
黙黙として抱だきたるは
羽織袴の青年。
名誉の死者の弟か。
知らぬ他国の我れなれど、
この駅に来合せて、
人人の後ろより、
手を合せつつ見送れば
涙先づ落つ。
駅のそとには
一すぢの旗動き、
兵士、友人、縁者の
粛然と遺骨の箱に従ふ。
「万歳」の声も無し。
我れは思ふ、
などか此の尊き戦死者の霊を
此のふるさとに送るに
一等車を以てせざりしや。
我が涙また落つ。
師走の初め、都にも
今年は寒く雪ふりぬ。
出羽奥州の凶作地
如何に真冬のつらからん。
陛下の御代の
人飢ゑしむること勿れ。
国には米の余れるに
恵みて分つすべ無きか。
飢ゑ凍えたる父母に
その少女らを売らしむな。
彼等の子なる兵士らは
出でて御国を護れども、
ああ、その心、ふるさとの
家を思はば悲まん。
ともに陛下の御民なり。
是れよそごとか、ただごとか。
いざ、もろともに分けて負へ、
彼等の難は己が難。
たけ高きこと一丈、
鸞ならん、鳳ならん、
青き空より舞ひくだり、
そのくはへたる紫の花を
幾たびも我手に置きぬ。
昨夜の夢は是れなり、
かかる夢は好し、
覚めたる後も猶
燦爛として心光る。
今日わしれども、わしれども、
武蔵の路の長くして、
われの車の窓に入る、
盛り上がりたる白き富士。
晴れわたりつつ、雲飛ばず。
見て行く萩の上にあり、
河原より吹く風のおと。
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能はずとせしことなれど、
怪しく此処に得たりけれ。
おのれの死にて亡き後の、
世をば一とせ我れの見る。
能はずとして思ひし日、
これさへ色と
与らぬをばさびしやと、
羨しやと、泣かれたり。
見るべからざる物を見て、
寂しく時を送りぬと、
君見て云はん後もなし、
虚無の世界のことなれば。
私の子供達、さやうなら。
お父様のところへ行きます、
いろんな話をしませう。
あなた達もさう思ふだらう。
けれどそれは詩だよ、
何があるものですか未来に、
そんな世界がねえ。
私はよく知つてゐた。
あれからの私は寂しかつた。
でもそればかりではなかつた、
私は詩を描いてゐたからね、
生活のおよそ半分を、
詩で塗つて来ましたよ。
この期に臨んでも、
私は抱いてゐます詩を、
詩を半分以上。
それでは行きますよ。
宣しく云ひませうね、
あなた達のお父様に。
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永久に若い天女の、
降りて来たのが藤七の工場。
作られて行く硝子の
美くしさに、うつとりと、
手を触れた指の跡。
うす
上からでも、下からでも、
もともと硝子なのですから。
指紋が残つて居ればとて、
不思議なぞありません。
硝子のまだ半液体である時、
其れが火より熱かつたとて、
天女の指は焼けません。
人の
かうした場合などにも、
触れて見ない手ではありません。
我が
内なるは君にあらずて、
藤子こそ眠りたりけれ。
この事実、いつよりとなく
覚えたり、
或る夜半の悪夢のうちに、
救ひをば我れの求めて、
声を上げ、君を呼びてき。
その寝ねて
遥かにも離れてありき。
今もなほ、目にこそ見ゆれ。
君が寝て在ませるベツド、
細長く縁深かりき、
夢にわれ箱と悟らず、
ましてこれ柩なりとは。
観客となり君が居る、
舞台であれば独白の、
長い
どんな身振りも出来ませう。
重き病の悲みも、
訴へるよな、云ふやうな、
時と所を持たざれば、
感じぬことと変りなし。
たつた一句の捨台詞
わが引込みに云ふことも
無駄な舞台の上に描く、
黒い小さい疑問符を。
海を渡らん我が友へ、
別れを述べに行きし時、
涙に我れの濡らしてき。
老いたる寡婦の悲みが、
別離の情に誘はれし、
不覚の態と恥ぢたりき、
友の客室の我が涙。
死ぬは
重い病になりしとて、
強き心の我が友を、
殊更思ふこともなし。
世のもてなしの礼なさが、
病に障りあらすなと、
惑へる子等を我れは見ぬ。
旅立つ友に流したる、
涙のこころやうやくに、
悟るを得たり、わが友よ。
朝の光が外にゐて、
さて鎧戸と、窓掛と、
その内側の白い蚊帳、
かうした中に生えてゐる、
蜜柑の若木五六本。
それが私に見えるのだ。
いまだ開かぬ瞼ごし、
まぼろしでなく夢でなく、
昨日の朝も今朝も見る。
はなたちばなが咲くでなし、
蜜柑の木より榊とも、
かなつたやうな若い木で、
穂すすきめいた弓なりの、
四尺ばかりの五六本。
初めの朝に蜜柑だと、
決めて眺めた緑の木。
熊野の浦の浜畑の、
白い沙地と見えるのは、
まさしく蚊帳の麻の目よ。
私はこれを楽しんで、
見てゐながらも思ひます。
かうした蚊帳の中にある、
蜜柑畑のほの白い、
朝が私にあることを。
穂の薄をば手に提げて、
盆の仏の帰る絵を、
身の毛のよだつ思ひして、
見たは幼い日のわたし。
そのすすきより細い手も、
それより白い骨もまた、
恐しい気のせずなりて、
十三日の待たるるよ。
巴里の街の下に見し、
カタコンブなる
人骨などはよそのこと、
あの絵に描いた白い人。
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霜月の末の落日、
常磐木の
その
中目黒、
広縁に畳敷かれて、
古柱、紫檀めきたり。
この入日、平家の船を
西海に照らせる如く、
我れを射て、いといと赤し
心をば云ふにあらねど、
風なくて肩の寒かり、
君逝きし二十六日。
導きて、うら若草の、
妹と背の君の入るてふ、
甲子園、ホテルの宵を、
遥かにも思ひやりつつ、
浮びくる唐の詩人の
幸ひの身にも及ぶと
云ふ如く、我れ楽みき。
あることか、二三日のちの
消息は、
うちつけに、その夜中より
病して、妹背の契り、
空しくも、うたかたとなり、
永久に帰らぬ国へ、
翌る日の十七日に、
赴くと、
云ふものか、報ずるものか。
あさましと、云ふにも過ぎぬ。
はかなしと云ふきはならず。
喪の人と、この時すでに、
新妻の美喜子の君は
なりたまひ、つるばみごろも、
深く染め、籠りたまふと、
云ふことを、誰れか思はん。
涙ゆゑ濡れまろがりし
ひたひ髪、そのまみ見ゆれ。
哀愁にとざされはてし、
思はれて、虚無の隣の
人の世を、ひたすら歎く。
涙の花のことごとく、
白く咲く日も、その内に
燃ゆる焔のひそみたる、
女の胸の怪しさよ。
かの青春が放ちたる、
火の綿綿と絶えざるを、
抱きて死ぬ期に至るこそ
太陽の子の女なれ。
かつてはあてに香ぐはしき、
くれなゐの花咲かしめき、
恨みの心深きとき、
むらさきの花零せしか。
六十年の
病の深くむしばめる、
身は身なれども、我れは斯く、
思ひ上りて歌を書く。
藍鼠をば著た上に、
伊達ものめいた黒を掛け、
党を組んだるひよどりが、
柑橘の畑荒しても、
追はぬ
若人達を相手にて、
一葉余さず落葉掃く、
蓬が
折しも続く東海の、
錦の雲の真中に、
ネエブル色の日が出れば、
伊太利亜型のひよどりは、
蜜柑の枝に背を反らし、
其処へ行かうと同志等に、
ささやく声もうち消して、
どつと渚の波が寄る。
都の中の神田にも、
丑三つ時のあることを、
病みて知れるにあらねども、
声の無きこそ哀れなれ。
しとどの汗のうちに覚め、
そこはかとなく明りさす
室の広きを見渡せば、
昼の二三の顔浮ぶ。
病めば思ひも多からで、
同じ筋のみたどられぬ。
我がこととなくよそよそし。
小床と向ふ垂幕に、
伊豆の入江の烏賊船の、
いさり火模様描くものは、
下谷浅草本所の火。
短夜なれば既にして、
外を通へる風の音、
明けん
もち初めしよと我れは聞く。
確かにも脈ぞ打ちたる、
安んぜよ愁ふるなかれ、
阿佐ヶ谷の博士来たまひ、
斯くも云ひ慰めませど、
我れは聞く、こと新しと。
友のE歩み寄り来て、
話せじ見ば足りぬべし、
としも告げ、
抜足に病室を出づ。
何となく昨日と今日の、
変れるを下に悟れど、
我がやまひいちじるしくも、
重りぬぞなど思はんや、
※[#「執/れんが」、U+24360、10巻-490-上-12]の度を人の計れど、
たださんと我れはせぬなり、
初めよりせぬことするは、
恥しき事と思へば。
[#改ページ]
こし方を書き綴れよと、
云ふ人のあるはうるさし。
未来をばいかに夢むと、
問はるべき人にあらずと、
我れはやく知らぬにあらず、
知りてなほ、さはあらんやと、
目に見えぬものにあらがひ、
こころざし、世の笑ふとも、
我れならで、我れを正しく、
述べて云ふもののあらねば、
憚らず今云ひ放つ、
何ごとも昔はむかし、
今は今、未来のみこそ、
はかりえぬ光なりけれ。
朝夕におのれを育て、
我れと云ふものを見知らぬ、
大かたのあげつらひ人、
目開かん世を期してのみ
進むべく我れを掟てぬ。
一切の過去は切るべき
鈴蘭は変貌します。
鈴蘭は変貌をしません。
この花は優しい。
この花は恐しい。
グロテスクな花。
北海道の
思つたままを云ひませう。
私の遠い昔の五月の日、
通り過ぎたシベリヤは、
むらむらの白樺を混ぜた
鈴蘭の原であつた。
早春の雪の厚さで、
盛られた鈴蘭の大野、
鈴蘭の気流の中を、
私は三日程進んで行つた。
函館のトラピストの庭で、
尼君の名を問ふと、
伊藤とも加藤とも云はれず
マルチノと告げられた。
尼マルチノと私は並んで立つた、
仄かな鈴蘭の香の中で。
花は撒かれた霰ほどだつた。
尼君は私のために摘んだ。
六月に入ると
箱詰めにして送られる鈴蘭、
おのれの強い芳香の、
化学的変化が、
毒素になつて死ぬ鈴蘭。
初めだけは白花、青い葉。
二日日には満身の赤錆。
毒死するのです。
五臓六腑うに沁み渡る、
芝居はともかくも、
この
死の舞台の音羽屋より、
服毒した鈴蘭を、
今も憐んで云ふ、
押花になつてくればよかつた。
王の栄華と耶蘇の比べた、
百合はアネモネだと云ふ説のやうに、
強烈な色に印度では咲く
沙羅双樹か知らぬが、
日本の山の白い沙羅は、
あてに、いみじく、脆い花である。
初めもはても高雅である。
鈴蘭を
みちのくの津軽の友の
云ひしこと、今ゆくりなく
思ひ出で、涙流るる。
悲しやと、さまで身に沁む
筋ならず聞きつることの、
年を経て思はるるかな。
おん寺の銀杏の大木、
色うつり、黄になる見れば、
朝夕になげかるるなり、
忌はしく、ゆゆしき冬の、
近づきし、こと疑ひも
なきためと、友は云ひてき。
今われが柱に倚りて
見るものに、
木草なし、
海鳴りのごと蝉の鳴く、
八月に怪しく見ゆれ、
みちのくの、板柳町
岩木川流るるあたり、
古りにたる某でらの
境内の片隅にして、
上向きに枝を皆上げ、
葉のいまだ厚き銀杏の
黄に変り、冬を示せる
立姿、かの町びとの
目よりまた、除きがたかる、
寂しさの備る銀杏。
うつつにし、見るにもあらず、
この庭に立つにはあらず、
衰へし命の中に、
見ゆるなれ、北の津軽の
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Aさんの死、
そんなことがと云ひながらも、
否定の出来ない事実であるのを
弁へる心も私は持つてゐた。
人間はいつもこんな風に
運命を従順に受け入れる。
受け入れる外はないからである。
だから死は恐い。
最後の偽善をしようとせぬ限り、
誰れにも恐しくない死はない。
哲人もさうである、
大作家も詩人も、
大僧正も。
Aさんが壇から下り、
急に倒れた時と、
死との間の短い時に
どんな恐しい思ひをしたことか。
死刑前の五分間の長さを、
或る作家は書いてゐる、
短くば短い程、
死を待つ心の苦は長い。
Aさんを悲んで、
死の真際などに語ればさうした、
ことはどうでもよかつた、
と云はれるやうな思ひ出に、
Aさんでなく、生きてゐる私は、
飽くなく浸つてゐる。
Aさんは五十四ではてた。
Nさんと同じ頃、
紅梅町へ来た人である、
Nさんは五十二で去年逝つた。
若さそのもののやうな人、
私はのちのAさんの面影よりも
裄の短い単衣の下に白襟を重ね、
木綿袴を穿いた、
Aさんばかりを目に描いてゐる。
葬式の日に私はまた病んで
娘を代りに出した。
藤子が葬場で聞いて来たことは、
Aさんの死の何時間かまへ、
お茶の卓で他の社員へ托した、
私へのことづてであつた。
身体を大事にして欲しい、
無理を決してせぬことなど、
それから私には今子の誰れが
かしづいてゐるか、
ともAさんは問つたさうである。
その社員は私の隣人であつた。
涙が幾日も流れた、幾日も。
Aさんが云つたやうに、
養生をすべきであらうか、
とばかりも私には思へない、
死は恐いと云つたのであるが。
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西の薩摩の城いくつ
廻ぐりめぐりて大海へ
姿を下にのぞむ山
神代の樟の
影いと深く清らなる
御垣の内を許されて
我れ等は学び我れ等は遊ぶ
愛の心と人も知る
深き教を垂れ賜ひ
大き興亜の御業に
我れ等も