全集は上下二巻になつて居る。下巻の方に初期の作が収められて居るのであるから、歴史的に云へば註釈も下巻から初めねばならぬものかも知れぬが、故人の意を尊重して私はやはり初めに編まれたものを前にする。
炉上の雪二百八十六首は割書にもある如く大正元年から昭和五年に到る間の雑詠から成つて居る。
炉の上の雪と題せりこの集のはかなきことは作者先づ知る
人も時時大宇宙の精神になつて物を見る時があつて、不滅の火であることを信じて居る自身の芸術なども太陽よおなじ処 に留まれと云ふに等しき願ひなるかな
去り行く青春をひんがしの国には住めど人並 に心の国を持たぬ寂しさ
住して居る所は確かに極東の日本であるが、自分の心には安住の国がない。他の人人を見ると誰れも自分のやうな焦慮はして居ないが自分には是れが苦しいと云ふのである。やうやくに自らを知るかく云へば人あやまりて驕慢 と聞く
此頃はやつと自分と云ふものが解つたやうな心境を得て居る。是れを自分は歌つて居るのであるがまま驕慢であるかのやうな誤解を受けると云ふのであつて、其事が並並の自覚と云ふものとは変つたものであることをも云はうとしたのである。白がちの桃色をして蓼の花涙ののちの頬 の如く立つ
細かに見れば蝶を見て恋を思ひぬその蝶を捉へつるにも逃がしつるにも
目前に現れた蝶に人の身の寂しき時は空を見て梢 も物を待つけしきかな
是れは少し言葉が省略されてあるからよく読まねばならない。人間の寂しさ[#「寂しさ」は底本では「寂し」]を深く覚える日には、目の前の木立の梢なども自分の如く、寂しさに堪へ切れない、奇蹟でも現れて来るのを待つ外はないと天を遥かに眺めて居るものとより見えないと云ふのである。たそがれの青き光に半面を空に向けつつ泣ける石像
青味のある夕明りの不思議なりわが新しく切りて読む本のなかにも笑める君が目
海を越えて仏蘭西の本の届いた場合であらう。紙切りで一方も二方も切りつつあるのは詩集か何かの本であるが、その中に遠い国で別れて来た恋人の目が笑みを含んで自分を見て居るやうに思はれるとはをかしいものであると云ふ歌。不思議と云ふやうな大袈裟な言葉を最初に使つて置いて、淡い戯れのやうで狂ほしき恋の最後に誘 はずば止まじとすらん麝香撫子
カアネイションであるが、是れは現在の花ではない。前の歌の成つたのと同時に囘想した往事の一場面ではなかつたであらうか。心の上でだけ愛し合つて居たこの男女を到る処にまで到らしめないではおかないやうなべにがらと黄土 を塗りて手軽くも楊貴妃とする支那の人形
大唐の楊太真も簡単な顔料を泥に塗つたもので現し得たやうに思つて居る隣人の稚気を云つたものであるが、形だけは歌に似たものも歌として通つて行く世の中を諷した作ではなからうか。わが前の河のなかばを白くして帆をうつしたる初秋 の船
作者は岸の家の階上に立つて居た。河は大江でもないが相当な水幅のあるものである。その河を半分まで白くして居ると云ふ所に誇張があるやうで実は河をより狭いものとして、この時の目に美くしく映る一点だけを説いて居るのである。初春初夏と別な音楽である初秋と云ふ言葉がよく利いて居る。磯の波うへに真珠 を綴りたる舞衣 のごとまろく拡がる
踊り子の真珠の飾りを沢山附けた白絹の光る魚かの太陽は難くとも空に向ひて網は打たまし
日と云ふ光の魚は捉へかねるかも知れぬが我等の網は他を考へずに彼れへ向けられねばならない、人間の理想は高きに置かなければならぬ、目標とするものは脣に銀の匙など触るる時冷たきもよし智慧の如くに
作者は銀のためらはず宇宙を測る尺度 にわれ自らの本能を取る
何にギリシヤの海に見るべき白鳥が家鴨 にまじる鵞鳥にまじる
不運なこの白鳥は所を得て居ない。ギリシヤの海を遊び場所とせずに音も無く黒きころもの尼達が過ぎたるあとに残る夕焼
仏蘭西か伊太利亜の大寺院の庭を、何等の音響も立てずに、黒い喪衣を著た尼達が一列を作つて通つて行つた。その後に赤い夕焼が西の方に望まれると云ふので、息も出来ぬまでに鬼気が身に迫るやうな歌である。寺院の壁も屋根も木立も黒ずんで居るが其れは尼達の衣ほどの黒ではないから云はないのである。夕焼も余りに広く拡がつて居ないと見る方がよい。誰れよりも唯 だ逸早く走らんとして躓 ける流れ星かな
其れはかうである。自分と同じ流星なのであると作者は云ふ。あの星は他の追随するのを厭つて真先きに駈け出さうとして失敗しただけである。安全に以前からの位置を失はずに居る星に比べて彼れに欠陥はなかつた痛きまで心を刺しぬ桃色の薊 と云ひて君を憎まん
心のうづく程の深い恋の印として残る人だから、その人を花と云ふならば薊であると云はう。自らの花を惜めるこの蔓 は空に咲かんと攀 ぢ昇り行く
何時までも花を見せようとせぬ此の蔓草の志す所は天にあるらしく、其処へ達して初めて花を開かうと思つて居ることを、際限なく上へ上へと蔓を伸して行く風なので気が附いたと園の主人は歎息してゐる。その主人は詩人で、宜しい環境に置かれて居ない為めに、創作の興を失つて居ながらも理想だけはずんずん高くなつて行く自分と、この蔓草に共通なもののあるのを感じてゐるのである。大いなる救ひ主には逢はねども一人寂しく泣けばなぐさむ
宗教家の云ふやうな救世主とか、大慈大悲の仏菩薩とかには出逢はないでも、自分は一切を蔑 みせんとせしわが憎み君に及びて破れけるかな
一切の現実を否定しよう、蔑視しようとした人生に対する憎悪は、一念恋人に及んだ時に破れてしまつたと云ふのである。この憎悪を自殺の形式で現はさうとしたとまでは解釈せぬ方がよい。ある瞬間の気持ちなのである。世界をばひかりの網に入れて引く今朝の裸 の海の太陽
我我の棲息する陸地をば大詰のあとに序幕の来ることただ恋にのみ許さるるかな
最後の破綻と見なすべき事があつて、更らにまた初めの甘い相思が帰つて来る。他の事には見難いこの形式を人も見て疑はないのは恋愛にのみ限られた事であると云ふ歌。我が涙はかなく土に消ゆべきや否否人と云ふ海に入る
寂しく土に沁み込んで行くのを見る外もない自分の涙であらうか、さうは見えるであらうが事実は違つて居る。この涙を受けて呉れるのは海ほど広大な恋人の心であると云つてある。此処で人と使つてある言葉は、恋とか君とか云ふ方が解り易くはあるが、其れでは作者のねらつた重さが現れない。温い人間と云ふものの中の代表者である彼の人と云ふ事はこの一語で云ひ尽くされてゐるやうに私は思ふ。巴里にて夜遊びしつつ覚えたるよからぬ癖の嗅 ぎ煙草かな
作者の居たモンマルトルの宿は下宿人にマダムと云はれてゐる一人身の女が幾人か居て、其の人達も宿の主婦も嗅煙草の銀の小箱を持つて居たことは私も見たが、作者は私よりも長くその家に残つて居た間に、女達が嗅煙草をそれぞれ鼻の内側に塗りながら無駄話に夜を更かす客室にも居て、自身も嗅ぎ試みたことがあつたかも知れぬが、これは異邦で一時的の遊蕩子になつて居た人の、日本に帰つた当座の気持ちと云ふやうなものを創作して見たものと思はれる。作者の生活ではない。時として異邦に似たる寂しさをわれに与へて重き東京
時時は万里の孤客であるやうな寂しさを自分に持たせる重苦しい帝都であると悲んだ歌。外套の襟を俄かにかき合せさし俯向けば旅ごこちする
これは前の歌とは違つた。ある日の途上で感じた淡い哀愁が歌はれてある。その時までは何とも思はなかつたが、衣服の端で寒い外気を青ざめて物思ふこと人よりも多きに過ぐるたそがれの薔薇
自分等などよりも物思ひを多くする風に青ざめた顔の白薔薇の花であると、夕明りももう暗くなりかかつた空の下で見たと云ふのであるが、物思ひを多くするらしいと見られてもなほ美を浮びたる芥 の中に一筋の船のあとあるたそがれの川
都の中の川らしい、川一面と云ふのでないが、作者の目の行つた所には相当に広く芥がひろがつて水をねがはくは若き木花咲耶姫 わが心をも花にしたまへ
或る音楽者が短歌の作曲をして見たいと申込まれた時に、作者は幾首かの歌を呈供したが、是れもその中の一首であつた。半切などにもよく故人はこの歌を書いた。春の神を呼びかけて云ふのにふさはしい快い調子の歌の出来たのを故人は嬉しく思つて居た。木の花を統べ給ふ情知りのさくや姫よ、自分の心にも花を咲き満たせ給へとかう歌つた作者は青春期になほ籍を置くもののやうに恍惚としてゐる。派手な恋の勇者にもならうと望んでゐる。手のひらを力士の如くひろげたるシヤボテンの樹に積るしら雪
その人に我れ代らんと叫べども同じ重荷を負へばかひなし
これは恋の歌ではなく、友情から発した悲憤の声であらうと思はれる。ある気の毒な境遇に居る人を自分の力で救ひ出さうと思つたが、顧れば自分もその人と同じだけの重荷を負つてゐて、身じろぎも出来ないのであつた。上げた叫びも空なものになつたと悲んで居る。美くしき太陽七つ出づと云ふ予言はなきやわが明日のため
自分だけが見る世界には美くしい太陽が七つまで出るであらうと云ふやうな予言を聞く事が出来ないのであらうか。不運な自分にせめて未来をさう云つて力づけるものがあればいいのであるがと云ふ歌で、作者は空想をただ文字に並べて七つの太陽などとしたのではなく、望む所の美も富も恋も詩も輝やかしく明らかに想像してゐる。その幸福をもう一歩で手に取り得る自信を十分に持つて云つてゐるのが佳いのである。わかくして思ひ合ひたる楽しみを礎 とする人間の塔
青春時代に相思ひ合つた恋愛の囘想を根拠にして建てた、宗教の外の是れは人間の塔である。自分の礼拝するものはこの以外にないと云つてある。手ずれたる銀の箔をば見る如く疎 らに光る猫柳かな
銀箔の押された屏風が古びて黒くなり、それがまた手擦れて所所の光るのを見るやうな落ちついた快さと同じものを早春の猫柳は見せてゐると云つてある。上白んだ猫柳の芽の銀色はいかにもさうとより思はれない。疎らに附いて居ると云ふのもなければならぬ説明である。取らんとて逃ぐるを恐る美くしき手は美くしき小鳥なるべし
恋人の手を取らうとした刹那に、この自分の手が其処へ行くまでに飛び立つてしまはないであらうか、取返しの附かぬ失望を次の瞬間から自分は味はねばならないのではなからうかと恐れた。美くしい手と云ふ物は美くしい小鳥と同じ性質の物であつたからこんな思ひも自分にさせたのであると云ふのであつて、作者は単に手の美だけを云はうとしたのではない。どれ程現実の物以上に理想化してその恋人を思つて居るかを一端だけ云つて見せたのである。薔薇の散る低き音にもわななきぬ恋の心は臆せると似る
二人で居る時の心境とも、一人で居る時の心もちとも思へるのであるが、私は作者の意は二人の方であらうと見る。地下室のくらき灯のもと椅子七つ秘密結社に似たる歌会
私もこの席の一人であつたやうに思はれるのであるが、何時何処の会とまでは明瞭に記憶しては居ない。例の小さい帖を寂してふ世の常に云ふ言の葉も君より聞けば一大事これ
何処にでも使はれて居る寂しいと云ふ言葉も、恋人の口から聞かされる場合にはどれ程の衝動を受けることか、其れこそ一大事出来と云はねばならない。こんなに深く愛して居てもなお不足を感ぜしめるのか、環境に欠陥があるのか、恋人に寂しいと云はせる理由は何かと急速度に反省がされると云ふものの相手が幾分甘く見られて居ることは歌の調子に見える。堪へがたし思ひの火より救へよと我がよぶ時に君もまた呼ぶ
情熱の火に焼かれつつある堪へ切れない心を救つてくれと最後の悲鳴を上げた時に、同じ言葉が恋人の口からも叫ばれたと云ふのである。呼ぶと云ひ、悲鳴を上げると云つても他の世界へ向つてして居るのではなく、二人だけの世界に於てであることは云ふまでもない。これはこの作者持まへの綺麗な出来上りを避けて、溢るるは唯 だにひと時おほかたは醜き石をあらはせる川
是れは象徴歌である。若若しい感情が豊富に胸から溢れ出して、良い芸術が幾つでもやすやすと出来上り、自らを満足させることは、雨後の出水時にだけ見ることの出来る山川の勢ひよさで、幾日も続くことではない。後は涸れて堅くなつた頭脳を苦苦しく思ふばかりである。石ばかりがごろごろとした醜い山の渓の其れのやうにと自嘲した意。工場に汽笛は鳴れど我れを喚ぶ声にはあらず行く方も無し
作者はまたしよんぼりと街を歩いて行く。この時に近い工場で作業の初まる汽笛が鳴つた。知らぬ人われを譏 ると聞くたびに昔は憎み今は寂しむ
自分をよく知らない人が自分を譏つて居る噂などを聞くと、昔はよく腹が立つたものであつた。今はそんな時にも怒る気にはならないで人生の寂しさをいよいよ深く思はせられるだけである。くれなゐの秋のひと葉を手に載せぬ若返るべきまじなひのごと
真赤に染まつた紅葉の一片を自分は手に載せてゐる、大切に大切に思はれて長く捨て去ることが出来ない。かうして居れば青春が返つてくるまじなひかのやうにと云ふのであるが、葉は楓でなく柿の葉ではなく、其れよりは細くて優しい桜のもみじであるやうに思はれる。美くしいとは云つてないが、其れは十分に読者の胸へ伝へられてゐる。わが機 に上 せて織れば寂しさも天衣 の料 となりぬべきかな
詩人である自分が心に摂取すれば、普通人には苦痛であるべき寂寥も勝れた創作を成就させる一分の用に立たせることが出来ると云ふのであつて、これには作者の自信が十分に盛られてある。啼きに啼くあさまし長しかまびすし短き歌を知らぬ蝉かな
何と何時までも啼き続ける蝉であらう。何と云ふ饒舌な蝉であらう、やかましい、うるさい、彼等は自分等が僅かな三十一文字で複雑な感情を簡潔に余すなく述べるやうな技術を持たないのである。憐むべき蝉だと云つてある。蝉はそんなものであるが、その声を聞く作者の心には無駄な文字を多く費すだけで、効果の少い拙い長詩を作る人達を歯がゆく思ふ所があつたのであらう。騒音は猶しのぶべし一やうに労働服を著たるさびしさ
これも象徴歌である。ソビエツトの都会を見たもののやうに云つてあるが、作者の意はあの下品な憂きときは薔薇をば嗅ぎてうち振りぬ胸に十字を描 く僧の如
悲しい気もちの起る時は薔薇を嗅いで、其れから薔薇の花を手で振つて見るのが自分の癖である。事に触れては天主の名を唱へて十字を胸に描く宗教家の如く、これは最も神聖な気分でしてゐることであると云ふ歌。薔薇であるために、恋人のことは云つてないがこの花を嗅いで、僧が神の幻を追ふやうに作者の思つて居るものは若い美くしい芳しいものの面影に違ひない。エルナニの恋のうたげに恐しき死の角笛 の響きくるかな
ユウゴウのエルナニと云ふ劇の演ぜられるのを私も一度故人と一所に仏蘭西座で見物した。作者は其れが好きで磨かんとして砕けたるそののちは玉の屑 ぞと云ふ人も無し
磨かうとして過つて砕いた玉に相違ないが是れが玉の屑であつて、小石ではないことを誰れも認めようとしない。曇つたままで置けば玉であることは疑はれなかつたであらうがと作者は思つて云つて居るらしいが、意地の悪い世間は必ずしもさうとは云はなかつたであらう。不幸な作者よ。人の見て沙の塔とも云へよかしはかなき中 に自らを立つ
好意を持たぬ人間から、是れは永久性のない沙の塔であると云はれても構はない。貧しい生活はしながらも独自の人生観を芸術に托して云はうと努める者は自分であると云ふ歌。我が玄耳蘭を愛することをしぬ遠方 びとを思ひ余りて
故人澁川玄耳氏が山東省の青島に居られた頃に、愛養の百種の蘭を写真にして送られた。玄耳子は愛人を東京に置いて行つて居られたのである。この場合の「我が」には我が親愛なると云ふ意が含められてある。「我が君」、「我が国」、「我が妻」も単に自分のと云ふだけではないのである。近来は「幼な児が第一春と書ける文字太く跳 ねたり今朝の世界に
是れは末女の藤子が或年の春の書初めに、止まりたる柱時計を巻きながらふと思ふこと天を蔑 みせり
今まで止まつて居た柱の時計の自らを恋に置くなりしら玉よ香る手箱にあれと云ひつつ
今や自分は恋愛三昧の人である。白玉にも辻に立ち電車の旗を振る人もいしく振る日は楽しからまし
これはまだ交通の信号燈などの出来なかつた時代の東京の街上風景に得た感想である。水道橋とか、神保町とかの四つ角に立ち青旗、赤旗を振つて居る人は、みじめな仕事をして居ながらも旗の振りやうが思ひ通りに巧みに出来た場合は、自分等に良き創作の出来た時と変らない満足感があるであらうと云ふのであつて、高村光太郎氏の歌に女みな流星よりもはかなげにわが世 の介 の目を過ぎにけん
西鶴の好色一代男の主人公(ここの「我が」は自分が愛して居るのではなく、作者の西鶴が愛して居ると云ふ意)が相手にした多くの女達はどれも空の流星の如く世の介の目に一時的な光を投げ得ただけの価値よりないものであつて、次次ぎに消えて行つたと取り為すべきであらう。彼れをして終生変らぬ執著を持たしめる女は無かつただけで、必ずしも世の介を軽薄と云ふべきでないと云つてある。作者の自己弁護が少しは混つてゐるかも知れない。自らを愛づるこころに準らへてしら梅を嗅ぐ臘月 の人
早く十二月に咲いた白梅の花の香を自分自身を賞美すると云ふのに近い気持ちで嗅いで居る。自分は白梅の清香に類したものを内に蔵して居るから殊更この花を愛すると云つて居るのであつて、人は作者自らである。地の上に時を蔑 みする何物も無きかと歎く草の青めば
この大地には自然が押しつけて約束したことに違背する勇気のあるものは何も無いのであらうか、とこんなことを自分は春になつて、毎年の例のやうに若草が青む時に思ふと云ふのであつて、何事かを起さないでは居られないやうな目を遣れば世の恋よりも何よりも燃えて待つなり片隅の薔薇
ふと室の一隅を見ると云ふ言葉で、その時まで作者は或る思ひに懊悩してゐたことが解る。其処には血の燃え立つ色を見せた薔薇の花があつた。世と云ふのは世の人間のと云ふ意である。其れは自分が対象にしてゐる恋人の生温るさには似ない熱意を見せて自分の近づくのを待つ薔薇ではないかと云ふのと同時に作者は溜息をこの国に呟 くことをふと愧 ぢぬ冬もめでたき瑠璃 の空かな
日本に居て美くしき心を空に書きたれば明星は打つ金 のピリウド
自分は夕方の大空を見て清い恋を思つて居た。美くしい言葉にして其れを青色の広い広い紙にも書く自分であつた。この時に出て来た明星は自分の文章にわが額 を鞭 もて打つは誰がわざぞ見覚めて見れば手の上の書
ぴしりと自分の前額を打つ者があつた。誰れからこの大いなる傘に受くれば一しきり跳 れる雨も快きかな
大きい傘の拡げられた刹那にばらばらと降りかかる雨が上に跳つてゐるやうな快感が覚えられた。雨も新味と変化とを喜ぶ自分達の心と同じであると云つてある。之れは夏の日の雨らしい。寒いことなどは思はれない。世の隅に涼しき目をば一つ持ち静かにあらんことをのみ思ふ
善悪と美醜のけぢめに正しい判断力を備へた自分を守つて、世の表面などには出ず、人目につかぬ片隅で静かな存在としてあることが幸福であらうとばかりこの頃は時の波絶えず寄せ来て人の身をはてなき沙に埋めんとする
止む間もなく押し寄せてくる時と云ふ波はこの世のどの人間をも寂しい死の沙に埋めようとして居る。こんな戦慄をする時のある作者であつた。私は作者が寂しい無色の沙へ永久に埋歿されたとは思はない。私が故人を思ふだけの心でさへ百彩の錦をなして居ると信じて居る。猶しばし昨日の夢にかかはりぬ覚めぎはの目の甘くおもたく
忘れ去るべき人であると自分の理知が命ずる儘に違背しようとはして居らぬが、自分の感情のとばりより君覗くなり水色の矢車草 を指にはさみて
自分が下を通つて行く時に窓のカアテンの間から恋人が外を覗いて居た。水色の矢車の花を指と指の間に狭みながらと云ふのであつて、是れは日本婦人の習慣に其れ程無く、異国の婦人には有り勝ちな媚態を作つて居たことが思はれる。巴里の宿の前の庭に矢車草の沢山咲いて居たこともこの歌から私は目に見えるやうに思はれる。もろともに花をかざして若き日はまたなしとしも歎きつるかな
是れも同じ人を追想して出来たものらしい。花も矢車草であつたであらう。或ひは白いマアガレツトかも知れない。かざすと云ふ言葉は男が洋服の胸へさしたこともかう云つてよいのである。二人で同じ花を胸にさして若い日は去り易い、其れを知つて居る我等は燃ゆる火を内に抱いて相寄つて居るのではないか、罪であつても何であつても仕方が無いと話し合つたと云ふのである。歎くと云ふのは二人の恋の底に不安があるからである。其の場面には花園用の萠葱色のベンチがなくてはならない。天つ日が四月の昼に見る夢か武庫 の高原 つつじ花咲く
空の太陽が陽春四月の昼に見て居る夢が是れなのであらうかと思つた。この片隅にありて耳をば澄すなりめしひの如き水色の壺
室の一隅に水色をした陶器の壺が置かれてある。じつと耳を澄して常人の耳にはまだ入らない音をも聞かうとして居る。敏感なそしてうす無味の悪い盲目の人の座つた姿が思はれる壺であると云ふ歌。何となく寒気を覚える程確実に物が掴んである。行く水の上に書きたる夢なれど我が力には消しがたきかな
行く水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけりと云ふ古今集の歌の意を受けて、さうした無駄な思ひかは知らぬが、自分の意志の力ではこの空想を壊してしまふことは出来ないと歎いた歌で、恋歌とせずに、他から見ては突飛な希望と云ふやうなものを胸に畳んでゐることを云つたものと解釈して置く方が妥当なやうである。洞門の出口にわれを待つ友がたそがれに吹く青き鳥笛
是れは同じ時に塔の沢から湯本の玉簾の滝を見に出かけた途中で、洞門の出口に友人の西村伊作氏が背を寄せて、土産物店で買つて来た笛を吹いて居たのであつた。桃色の明りの中に白 を著て少女 の如く走 しりくる船
白を著てと云ふ所まで読んで、しののめの空の下を来る少女を云ふ歌かと思ふと、さうでなく、そんな風にして白い色の船が此方へ来ると云ふのである。速力の早い小舟が生き生きとした力を現して出て来たのである。夏の歌かと思はれる。寂しさよこの頃おつる髪を見て作り笑ひもことにこそよれ
寂しい事実である。何がさうかと云ふと、額の方を広くばかりして抜け落ちて行く髪の毛を目に見て、滑稽だなどとも云つて人に笑つて見せて居る自分が情けなく寂しいのである。心にもなく人に笑つて見せることはあつても是れは余りであつて、自分を醜くするこのことに反省がされると云ふ歌。はしたなく縁 の取れたる鏡などあらはに見ゆる我が家の秋
縁が無くなつて裏もはげた中身だけの醜い感じのする鏡、其れがうら寒い秋にうら寒いものの目に附き易くて自分を女達鏡の間 より裾引きてまどに寄るなり秋の夜の月
鏡の間はベルサイユ宮殿の一室の鏡で張りつめた間のことである。大広間の一つになつて居て、窓は広い森に向いて開かれてゐる。是れは鏡の間の方から隣の部屋へ今出て来た皆夜会服の裾を長く引いた貴女達で、其の人達はこの間の広い窓の傍へ寄り、秋の夜の月の明るい庭を眺めるのであつたと云つてある。ルイ十三四世の頃の宮廷の光景を描いて居るのであつて、漢詩の宮詞と云ふやうなものである。沈香亭の北の欄干に倚つて牡丹を見て居た楊貴姫は牡丹の花と同じやうに想像され、このルイ朝の貴女達は秋の月のやうな麗人であることを思はしめる。曇る空波のしろきを前にして網を打つなり真裸 の人
曇つた空が上にあつて、下の海には白い波が立つてゐる。この風景を前にして裸体の人が網を打つて居ると云つてあるが、壮重な感じは一漁夫が立つて居るとする方にあるが、私は漁夫が幾人も居ると見る方がよいと思ふ。其れをこの言葉だけで表現し足りないとは思はない。裸男の大勢の力が集められて居ても大海や空に比べては小さいものであらうから。木立みな十字にとがり太陽も十字に光る冬枯の上
どの木も十字に見え、それに象の背の菩薩の如く群青 と白の絵の具の古び行く秋
象の背に乗つて居る一切に背を向けながら入る如き甘さを感ず劇場の口
芝居の入口に達した時の心もちに、是れで一時的にもせよ世間と断たれた世界へ身を置くことになると云ふ満足がある。気に入らぬ一切の物に背を向けて遺ることの出来る快感を感じるのはこの時であるとかの隅になにがし立ちて叫べども振る手のみ見ゆ群衆の上
一方の隅に名士の某が立ち高い声を放つて演説をしてゐるやうであるが、何も必ずと云ふ約束をたやすげにかはして別るうら若き人
永久の愛の誓ひを初めとして二年三年の後の約束も若い人達は平気でするが、其れは実行の出来難い物である事を、過去の経験からよく知つて居る自分である。自分も以前にやすやすとした約束が一つとして果されたものはない。諸君は今に自分のやうな苦い悔いばかりを味はねばならないであらうと云つて、若い人をやはらかに海に入らんとする山を磯にささへて白き城かな
伊太利亜にてと云ふ端書きがある。伊太利亜を私は見ないのであるが、作者の歌つた所は南方の伊太利亜で、柔い岬の山が地中海に伸びて終らうとする所に白いシヤトウが立つてゐて、山の線を止めた形に見えたやうである。我れも行く春の銀座の灯のもとを巴里の宵の人中 として
銀座の春の灯が連つた所を自分も行く。ここにして夜毎に逢 ふと語る時銀座通を新居格 の行く
此の頁に並んでゐるのは何れも軽い調子の歌である。銀座の夜に三四人がカフエエより扇形して春の夜の銀座の雪を照らすともし火
銀座の雪の上へ家の入口の灯の明りが末広がりに扇の形をして若きむれ酔ひて歌へば片側の卓にある身もおもしろきかな
作者と片隅の卓へ一所に倚つて居る人達を云ふのでなく、彼方此方に一団一団になつて居る若い連中があるのである。酔つて歌ひ出すまでにも其の人達の歓語が耳を喜ばせて居た。なほ注 げと低き声しぬ誰れ待ちて隅の卓なる白きうなじぞ
「もう一つ」と女は低い声で云つて、ギヤルソンに卓上の君により初めて明日の歌を聞く凍れる中の春のおとづれ
吉田精一氏の歌集春の口笛の序に詠まれた歌の一つである。この作者ににはかにも松を通して朱をながす夕日の中の街道の雨
夏の変調な天気らしい。東海道の藤沢辺の街道を少し奥へ入つた家から作者は見て居るやうである。古い並木の松であるから大木が列をなしてゐて、足柄辺りへ入る日が赤い夕焼を作つてゐる空が背景になつて居る。この街道の上に今雨が降つて居るのである。相当に何故と世に問ふことを忘れたるうつろの心しづかなるかな
自分が何故に無視されてゐなければならぬかを世間に対して問つてやりたい心持ちも、何時となくどうでも好い気になつた、従つて憎みも悲みも忘れた今の心境は静かである。この空虚は愛すべきものであると云ふ歌。もとより是れは作者自身だけが空虚と呼んでゐる空虚なのである。うきことは思はぬ如く馳せながら薔薇を散らしぬ曲馬の女
人間である以上、その中に白き孔雀の誇りもて長く引きたる夕ごろもかな
仏蘭西座の廊下を往来する貴婦人達の中の特に目立つ一人を作者は歌つたのであるが、そんな場所でなく、或る大邸宅の夜会場で思ふ人が誰れよりも素ばらしく、白い衣装を著けて現れて来たやうな解釈が出来ないこともない。作者が巴里に居た頃の女の夜の服は四五尺も裾を引くのが多かつた。白い孔雀が鳥の王のやうな誇りを持つて居るのと、其の人の外へ現れた自尊心に共通なものがあつたのである。我が筆もミケランゼロの鑿 のごと著くるところに人をあらはせ
巨匠ミケランゼロの鑿の当てられるものは岩も木も生命のある人になつたと云ふが、自分の筆もさうでありたい。一度び書かうとすれば遺憾なく万象が詩になるやうにありたいとかう作者は望んである。いろいろの波斯 のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑
松戸の高等園芸学校の花畑であらう。色彩の多い、そして直線が主になつて出来た模様のペルシヤの更紗の其れをまた種類も幾つも混ぜて、四角に、長方形に岡へ切りはめたやうに畑の見えたのも、時季が多様な花に満ちた初夏だからであつたであらう。我が手もて捉ふることの難しとはなほ願 くは知らであらまし
自分の力ではどんなに最善を尽くしても得られぬ望みであると云ふ自覚は永久に与へて欲しくない。何時までもこの空想を捨てたくないと云ふことが云はれてゐるのであつて、恋の歌と解釈が出来ないではないが、作者の比較的後年の作であるから、その外のことと見る方が妥当なやうに私は思ふ。おほかたの目に見えざれば人知らじ心に祈り血を流せども
是れも恋歌めいては居るがさうではないと私には思はれる。普通の目で見ては自分ものんきな者に見えるであらう、芸術の道の精進の為めに心には血を流すほどの苦しみをして居るのであるがと解すべきである。