おれは朝から寝巻の KIMONO のまヽで絵具いぢりを続けて居た。午飯も外へ食ひに出ないでホテルの料理を部屋へ運ばせて済ませた。まづい物を描いて EXTATIQUE な気分になれるおれの愚鈍さと子供らしさとを自分ながら可笑しく思はないで居られないが、またこの子供らしさが久しく沈んで

||それにあの女が大分この EXTASE を助けて居る。
おれは描き上げた
静まり返つて居た
||どなた。
||わたしよ、
おれは女がいつも牽いて来る毛の白い、脚の長い、狼のやうな

||今日は。
||今日は。
女は紫の光沢のある黒い毛皮の外套に、同じやうな色の
||タケノウチさん、あなたの仕事のお邪魔になりはしないこと。
と云つた。おれは女の見慣れないけば/\しい新粧と、三十歳ぢかい女の豊満な肉の匂ひと、香水のかをりとに一種の快い圧迫を感じた。
||そんなことはない。これは仕事ぢやなくて遊戯だもの。
おれは部屋の隅で徐かに手を洗つた。女は外套を寝台の上へ脱いだ。下には萌葱と淡紅色とを取り合せた繻子の||あなたのお部屋は段々と高くなるのね。
二週間に二階から三階へ四階へと·········
女は窓に寄つて外を眺めながら斯う云つた。女の右の手に日光があたつて指環に嵌めた玉が火の雫のやうに光つて居る。指も赤く透きとほつて紅玉質になつて居る。
||さうだ、僕は次第に天へ近づいて行くんだ。そして天へ近づいて行くほど巴里がよく見えるから結構だ。
||天へ。と女は云つて、
||「われは今天を棄てて下 りゆく、
太陽よ、星よ、風よ、雨よ、
いざさらば。天の物は彼女 に如かざれば。」
と目立たぬ||も一度。
と促した。女は再び歌ひ直して、
||解つたでせう。これはわたしの知つて居る若い詩人のパウルが大学を卒業して阿弗利加に居る父親の処へ行く時、七年の間の
||その男は「地へ」だ、僕は「天へ」だ。しかし僕も屋根裏 まで昇れば引返すかも知れない。
||菊 の国へ引返すんでせう。
||まだ其処までは考へられない。
||あなた御存じ。
||なにを。
||マダム・タケノウチの写真がオペラの前の店に並んで居るのを。
タケノウチを女は露西亜人の名のやうにタケノウイツチと発音するのが習慣になつて居る。おれは LES ANNALES 誌の主筆のブリツソン君が撮つて雑誌に載せた妻とおれとのまづい||
||まだ其処までは考へられない。
||あなた御存じ。
||なにを。
||マダム・タケノウチの写真がオペラの前の店に並んで居るのを。
||僕も知つて居る。
と云つたが、おれは此女と妻のことに就て語りたくなかつたので、
||何かもつと面白い
と話題を転じてしまつた。おれと此女との間に用ひる
||ダンヌンチヨが先 の週に或珈琲店 で或女優に言つた話があるの。女優は若い女で小説家に惚れて居るんです。夜食 の卓に胡桃が出ると、伊太利の大小説家は女に向いて云ひました、「恋は胡桃だよ、壊さなくちや味が解らない、さうでせう」つて。
||ダンヌンチヨはこれまで沢山の胡桃を壊 したんだらう。
||えヽ、えヽ、巴里でも沢山。·········わたしはあの人の飼つて居る廿七匹の猟犬が競売に出たら、その中の一匹それはそれは買ひたくてならない L
VRIER がありますの。
||大小説家が競売をするかしら。
||仏蘭西の今の文学者にダンヌンチヨのやうな奢侈家は居ません。ダンヌンチヨは作物と奢侈と借金とで名高くなつた文学者ですわ。借金で伊太利に居られなくなつた人は巴里にも居られなくなる時が来ます、屹度。
||あなた、今日は何処へ行つた帰りだね。
||帰りではなくて行く途中よ。·········あなたは美くしく着飾つた女と旅をなさることはお嫌ひ。
||それは悪 くない。
||ではあなた、わたしと一所に今夜行つて頂戴な、ランスまで。いいでせう、ランスには巴里やアミアンのノオトル・ダムと同じ古さのカテドラルがありますわ、それから三鞭酒 の名高い産地ですわ。王政時代の古いホテルで一晩泊つて明日の夕方芝居の時間までに帰つて来ませう。
女の言葉には拒むことの出来ない力があつた。おれは躊躇せずにこの突発の勧誘に応じてしまつた。||ダンヌンチヨはこれまで沢山の胡桃を
||えヽ、えヽ、巴里でも沢山。·········わたしはあの人の飼つて居る廿七匹の猟犬が競売に出たら、その中の一匹それはそれは買ひたくてならない L

||大小説家が競売をするかしら。
||仏蘭西の今の文学者にダンヌンチヨのやうな奢侈家は居ません。ダンヌンチヨは作物と奢侈と借金とで名高くなつた文学者ですわ。借金で伊太利に居られなくなつた人は巴里にも居られなくなる時が来ます、屹度。
||あなた、今日は何処へ行つた帰りだね。
||帰りではなくて行く途中よ。·········あなたは美くしく着飾つた女と旅をなさることはお嫌ひ。
||それは
||ではあなた、わたしと一所に今夜行つて頂戴な、ランスまで。いいでせう、ランスには巴里やアミアンのノオトル・ダムと同じ古さのカテドラルがありますわ、それから
||行かう、それは面白からう········· 汽車は何時に出るの。
||午後四時。
時計を見ると四十分の猶予しかなかつた。おれは急いで顔を剃つた。女も手提の||午後四時。
発車前十分におれ達の自動車は北の停車場へ着いた。女は
汽車の中の廊を通る時、婦人専用室の中に腰を掛けた品のいい一人の老婦人の目と女の目とが合つた。二人は挨拶した。そして女が後ろを一寸振り向いて閃かした UN COUP D'



黄昏の燈火に満ちた巴里の街を離れてから、次第におれの心は淋しくなつて来た。妻をマルセエユまで送つて行つた帰りにリヨンから巴里へ乗つた夜汽車の淋しかつたことなどが思ひ出された。今日あたり妻が神戸へ着く頃だと思つては疲労した妻の青ざめた顔や母を迎へて喜ぶ児供等の顔が目に浮んだりもした。
||この女との関係がいつか在留して居る同国人の耳に入つて、あの連中の口から妻の耳に入る日が来るだらう。妻が HYST
RIQUE[#「HYST
RIQUE」は底本では「HYSTR
IQUE」] な気分から先に日本へ帰ると云ひ出した時、おれが容易 く其れを賛成して帰してしまつたことを、妻はその時既にこの女との関係がおれにあつたからだと思ふかも知れない。この女と初めて知つたのはまだ半月以前のことだ。仏蘭西座の看棚 で偶然新作の BAGATELLE を一所に観て言葉を掛け合つて以来のことだ。そんなことを云つたつて何にもならない、之は動機の問題ぢやなくて結果の問題だ、妻に対して抗弁しようと考へたりするのが抑も愚だ。その時が来たら何もかも一切ぶちまけてしまふことだ。
おれはこんなことを思つたが、また


||体この女は何んだ。PASSY に住んで居ると云ふだけで、くはしいことは自分から話すまで問はないで居て下さいと云つた。もう巴里に一年近く居るおれは大抵人間の階級の見当が附き相だ。けれどこの女の身の上は解りかねる。若しやと想ふこともあるが、それでは事実が余りに ROMANESQUE だ。おれと仏蘭西の NOBLESSE、そんな夢幻劇が型のやうに仕組まれやうとは考へられない。まあ暫く夢遊病者 になつて夢に引きずられて居やう。そのうちに女の正体が解つて来るだらう。けれど矢張気に掛けずには居られない。女はおれを何と想つてるのかしら。女はダンヌンチヨが黒奴や其他の野蛮人を下部 に使つて得意になつて居ると云ふことを話した。女はおれを黒奴の下部 あつかひにして居るのかも知れない。おれがあの女の後ろからこの荷物 を持つて供して居るのは黒奴でなくて何んだ。
おれはこんなことを考へて気を引き立てたり滅入らせたりして居た。それからベデカアを取り出して読んでランス市を仏蘭西の奈良だと思つた。
ランスへ着いたのは九時であつた。女は保護するやうにして老婦人の後について改札口を出た。おれはこんなことを考へて気を引き立てたり滅入らせたりして居た。それからベデカアを取り出して読んでランス市を仏蘭西の奈良だと思つた。
||あのお婆さんは親戚 の公爵夫人 [#ルビの「コンテツス」は底本では「コンツテス」]。今日ここの市長の嫁になつて居る娘を訪ねに来たのです。今日の汽車は間が悪くつてお気の毒でしたわね。
女は馬車の上で斯う云つてロオヤル・ホテルの夜食には名物の
||あなた、わたしがランスへ来た用向を話しませうか。
女は部屋へ帰つて壁の暖炉の真赤に燃える前でブロンドの髪を解きながら斯う云つた。
||気まぐれに散歩に来たのぢやないの。
||それはあなたとわたしとの用向ですわ。別にわたしだけの用向があるのよ。
||解らないね、云つて御覧。
||わたし子供に逢ひに来ましたの。男の子。去年の四月に生んだのですよ。里親 は此街に住んで居ます。この荷物 を解 きませう、みんな坊 に持つて来たんですよ。十七ヶ月も見ないんですもの、どんなに可愛くなつて居ますでせう。物もよく云ふでせうねえ。
女はこれまで素振にも見せなかつた物やさしい母親||あなたの子供なら美くしいでせう、屹度。
おれは咄嗟に都合よく女の