一
寛宝三年の四月十一日、まだ東京を江戸と申しました頃、
湯島天神の
社にて
聖徳太子の
御祭礼を致しまして、その時大層
参詣の人が出て
群集雑沓を
極めました。こゝに本郷三丁目に
藤村屋新兵衞という
刀屋がございまして、その店先には良い
代物が
列べてある所を、通りかゝりました一人のお侍は、年の頃二十一二とも
覚しく、色あくまでも白く、眉毛
秀で、目元きりゝっとして少し
癇癪持と見え、
鬢の毛をぐうっと吊り上げて結わせ、立派なお羽織に結構なお
袴を着け、
雪駄を
穿いて前に立ち、
背後に
浅葱の
法被に
梵天帯を締め、
真鍮巻の木刀を差したる
中間が附添い、此の
藤新の店先へ立寄って腰を掛け、
列べてある刀を眺めて。
侍「亭主や、
其処の黒糸だか紺糸だか知れんが、あの黒い色の
刀柄に
南蛮鉄の
鍔が附いた刀は誠に
善さそうな品だな、ちょっとお見せ」
亭「へい/\、こりゃお茶を差上げな、今日は天神の御祭礼で大層に人が出ましたから、定めし往来は
埃で
嘸お困りあそばしましたろう」
と刀の
塵を払いつゝ、
亭「これは少々
装飾が
破れて居りまする」
侍「成程少し
破れて
居るな」
亭「へい
中身は随分お
用になりまする、へいお
差料になされてもお
間に合いまする、お中身もお
性も
慥にお堅い品でございまして」
と云いながら、
亭「へい御覧遊ばしませ」
と
差出すを、侍は手に取って見ましたが、
旧時にはよくお侍様が刀を
買す時は、刀屋の店先で
引抜いて見て入らっしゃいましたが、あれは
危いことで、
若しお侍が気でも違いまして
抜身を
振
されたら、本当に
危険ではありませんか。今此のお侍も本当に刀を
鑒るお方ですから、
先ず
中身の
反り
工合から
焼曇の有り無しより、
差表差裏、
鋩尖何や
彼や吟味致しまするは、
流石にお
旗下の殿様の事ゆえ、
通常の者とは違います。
侍「とんだ良さそうな物、
拙者の
鑑定する
処では
備前物のように思われるが
何うじゃな」
亭「へい良いお
鑑定で
入っしゃいまするな、恐入りました、
仰せの通り
私共仲間の者も
天正助定であろうとの評判でございますが、
惜しい事には何分
無銘にて残念でございます」
侍「御亭主やこれはどの位するな」
亭「へい、有難う存じます、お
掛値は申上げませんが、只今も申します通り銘さえございますれば多分の
価値もございますが、無銘の所で
金拾枚でございます」
侍「なに拾両とか、
些と高いようだな、七枚半には
負らんかえ」
亭「どう致しまして何分それでは損が参りましてへい、なか/\もちましてへい」
と
頻りに侍と亭主と刀の値段の
掛引をいたして居りますと、
背後の
方で通り
掛りの
酔漢が、此の侍の
中間を
捕えて、
「やい何をしやアがる」
と云いながらひょろ/\と
踉けてハタと
臀餅を
搗き、
漸く起き
上って
額で
睨み、いきなり
拳骨を
振い
丁々と打たれて、中間は酒の
科と
堪忍して逆らわず、大地に手を突き
首を下げて、
頻りに
詫びても、
酔漢は耳にも懸けず
猛り狂って、
尚も中間をなぐり
居るを、侍はト見れば家来の藤助だから驚きまして、酔漢に
対い
会釈をなし、
侍「何を家来めが
無調法を致しましたか存じませんが、当人に成り
代り
私がお
詫申上げます、
何卒御勘弁を」
酔「なに
此奴は其の方の家来だと、
怪しからん無礼な奴、武士の供をするなら主人の側に小さくなって
居るが当然、
然るに
何だ
天水桶から三尺も往来へ出しゃばり、通行の
妨げをして拙者を
衝き
当らせたから、
止むを得ず
打擲いたした」
侍「何も
弁えぬものでございますれば
偏に御勘弁を、手前成り代ってお詫を申上げます」
酔「今この所で手前がよろけた
処をトーンと
衝き当ったから、犬でもあるかと思えば此の
下郎めが居て、地べたへ膝を突かせ、見なさる通りこれ此の様に衣類を泥だらけにいたした、無礼な奴だから
打擲致したが
如何致した、
拙者の存分に致すから
此処へお出しなさい」
侍「此の通り何も訳の
解らん者、犬同様のものでございますから、
何卒御勘弁下されませ」
酔「こりゃ面白い、初めて
承った、侍が犬の供を
召連れて歩くという法はあるまい、犬同様のものなら手前
申受けて帰り、
番木鼈でも喰わして
遣ろう、
何程詫びても料簡は成りません、これ家来の無調法を主人が
詫るならば、
大地へ両手を突き、
重々恐れ入ったと
首を
地に叩き着けて
詫をするこそ
然るべきに、
何だ片手に刀の
鯉口を切っていながら詫をする
抔とは侍の法にあるまい、何だ手前は拙者を斬る気か」
侍「いや是は手前が此の刀屋で買取ろうと存じまして只今
中身を
鑒て居ました
処へ此の騒ぎに
取敢えず
罷出ましたので」
酔「エーイそれは買うとも買わんとも
貴方の
御勝手じゃ」
と
罵るを侍は
頻りにその
酔狂を
宥めて
居ると、往来の人々は
「そりゃ喧嘩だ
危いぞ」
「なに喧嘩だとえ」
「おゝサ
対手は侍だ、それは
危険だな」
と云うを又一人が
「なんでげすねえ」
「左様さ、刀を買うとか買わないとかの間違だそうです、
彼の
酔ぱらっている侍が初め刀に
価を附けたが、高くて買われないで
居る
処へ、
此方の若い侍が又その刀に価を附けた処から
酔漢は
怒り出し、
己の買おうとしたものを己に
無沙汰で価を附けたとか何とかの間違いらしい」
と云えば又一人が、
「なにサ
左様じゃアありませんよ、あれは犬の間違いだアね、己の
家の犬に
番木鼈を喰わせたから、その代りの犬を渡せ、また番木鼈を喰わせて殺そうとかいうのですが、犬の間違いは昔からよくありますよ、
白井權八なども
矢張犬の喧嘩からあんな騒動に成ったのですからねえ」
と云えば又
傍に居る人が
「ナニサそんな訳じゃアない、あの二人は
叔父甥の間柄で、あの
真赤に
酔払って居るのは叔父さんで、若い綺麗な人が甥だそうだ、甥が叔父に
小遣銭を呉れないと云う処からの喧嘩だ」
と云えば、又側にいる人は
「ナーニあれは
巾着切だ」
などと往来の人々は口に任せて
種々の評判を致している
中に、一人の男が申しますは
「あの
酔漢は
丸山本妙寺中屋敷に住む人で、元は
小出様の御家来であったが、
身持が悪く、
酒色に
耽り、
折々は
抜刀などして人を
威かし乱暴を働いて
市中を
横行し、
或時は料理屋へ
上り込み、十分
酒肴に腹を
肥らし勘定は本妙寺中屋敷へ取りに来いと、
横柄に
喰倒し
飲倒して歩く
黒川孝藏という
悪侍ですから、年の若い方の人は見込まれて
結局酒でも買わせられるのでしょうよ」
「
左様ですか、
並大抵のものなら斬ってしまいますが、あの若い方はどうも病身のようだから斬れまいねえ」
「ナニあれは剣術を知らないのだろう、侍が剣術を知らなければ腰抜けだ」
などとさゝやく言葉がちら/\若い侍の耳に入るから、グッと込み上げ、
癇癖に
障り、
満面朱を注いだる如くになり、額に青筋を
顕わし、きっと詰め寄り、
侍「是程までにお詫びを申しても御勘弁なさりませぬか」
酔「くどい、見れば立派なお侍、
御直参か
何れの
御藩中かは知らないが
尾羽打枯らした浪人と
侮り失礼至極、
愈々勘弁がならなければどうする」
と云いさま、ガアッと
痰を
彼の若侍の顔に
唾き付けました故、
流石に勘弁強い若侍も、今は
早や
怒気一度に
面に
顕われ、
侍「
汝下手に出れば
附上り、ます/\
募る
罵詈暴行、武士たるものゝ
面上に痰を唾き付けるとは
不届な奴、勘弁が出来なければ
斯うする」
といいながら今刀屋で見ていた備前物の
刀柄に手が掛るが早いか、スラリと
引抜き、
酔漢の鼻の先へぴかりと出したから、見物は驚き
慌て、弱そうな男だからまだ
引抜はしまいと思ったに、ぴか/\といったから、ほら抜いたと
木の葉の風に
遇ったように四方八方にばら/\と散乱し、町々の木戸を閉じ、路地を締め切り、
商人は皆戸を締める騒ぎにて
町中はひっそりとなりましたが、藤新の亭主一人は
逃場を失い、つくねんとして
店頭に坐って居りました。さて黒川孝藏は
酔払っては居りますれども、
生酔本性違わずにて、
彼の若侍の
剣幕に恐れをなし、よろめきながら二十歩ばかり逃げ出すを、侍はおのれ
卑怯なり、口程でもない奴、武士が相手に
背後を見せるとは天下の耻辱になる奴、
還せ/\と、
雪駄穿にて跡を追い掛ければ、孝藏は最早かなわじと思いまして、
踉く足を踏みしめて、一
刀のやれ
柄に手を掛けて
此方を振り向く処を、若侍は得たりと踏込みざま、えイと
一声肩先を深くプッツリと切込む、斬られて孝藏はアッと叫び片膝を突く処をのしかゝり、エイと左の肩より胸元へ
切付けましたから、
斜に三つに切られて何だか
亀井戸の
葛餅のように成ってしまいました。若侍は
直と立派に
止めを刺して、
血刀を
振いながら藤新の
店頭へ
立帰りましたが、
本より
斬殺す料簡でございましたから、
些とも動ずる気色もなく、我が下郎に向い、
侍「これ藤助、その
天水桶の水を此の刀にかけろ」
と言いつければ、
最前より
慄えて居りました藤助は、
藤「へいとんでもない事になりました、
若し此の事から大殿様のお名前でも出ますようの事がございましては相済みません、元は
皆な
私から始まった事、どう致して
宜しゅうございましょう」
と半分は死人の顔。
侍「いや
左様に心配するには及ばぬ、市中を騒がす乱暴人、
切捨てゝも苦しくない奴だ、心配するな」
と下郎を慰めながら泰然として、
呆気に取られたる藤新の亭主を呼び、
侍「こりゃ御亭主や、此の刀はこれ程切れようとも思いませんだったが、なか/\斬れますな、余程
能く斬れる」
といえば亭主は
慄えながら、
亭「いや
貴方様のお手が
冴えているからでございます」
侍「いや/\全く刃物がよい、どうじゃな、七両二分に負けても
宜かろうな」
と云えば藤新は
係合を恐れ、
「宜しゅうございます」
侍「いやお前の店には決して迷惑は掛けません、兎に角此の事を
直ぐに自身番に届けなければならん、
名刺を書くから
一寸硯箱を貸して呉れろ」
と云われても、亭主は
己れの
傍に硯箱のあるのも眼に
入らず、
慄え
声にて、
「小僧や硯箱を持って来い」
と呼べど、
家内の者は
先きの騒ぎに
何れへか逃げてしまい、一人も居りませんから、
寂然として返事がなければ、
侍「御亭主、お前は
流石に
御渡世柄だけあって此の店を
一寸も動かず、
自若としてござるは感心な者だな」
亭「いえナニお
誉めで恐入ります、先程から
早腰が抜けて立てないので」
侍「硯箱はお前の
側にあるじゃアないか」
と云われてよう/\心付き、硯箱を
彼の侍の前に差出すと、侍は硯箱の
蓋を
推開きて筆を取り、すら/\と名前を
飯島平太郎と書きおわり、自身番に届け置き、牛込のお
邸へお帰りに成りまして、此の始末を、
御親父飯島
平左衞門様にお話を
申上げましたれば、平左衞門様は
宜く斬ったと
仰せありて、それから
直にお
頭たる
小林權太夫殿へお届けに及びましたが、させるお
咎めもなく切り
徳切られ
損となりました。
二
さて飯島平太郎様は、お年二十二の時に
悪者を
斬殺して
毫も動ぜぬ剛気の
胆力でございましたれば、お年を取るに
随い、
益々智慧が進みましたが、その
後御親父様には亡くなられ、平太郎様には
御家督を御相続あそばし、御親父様の
御名跡をお
嗣ぎ遊ばし、平左衞門と改名され、
水道端の
三宅様と申上げまするお
旗下から奥様をお迎えになりまして、程なく
御出生のお
女子をお
露様と申し上げ、
頗る
御器量美なれば、御両親は
掌中の
璧と
愛で
慈しみ、
後にお子供が出来ませず、一粒種の事なれば
猶さらに
撫育される
中、
隙ゆく
月日に
関守なく、今年は
早や嬢様は十六の春を迎えられ、お
家もいよ/\
御繁昌でございましたが、
盈つれば
虧くる世のならい、奥様には
不図した事が元となり、
遂に帰らぬ旅路に
赴かれましたところ、此の奥様のお
附の人に、お
國と申す女中がございまして、器量人並に
勝れ、
殊に
起居周旋に
如才なければ、殿様にも
独寝の
閨淋しいところから
早晩此のお國にお手がつき、お國は
到頭お
妾となり済しましたが、奥様のない
家のお妾なればお
羽振もずんと
宜しい。
然るにお嬢様は此のお國を憎く思い、
互にすれ/\になり、國々と呼び附けますると、お國は又お嬢様に
呼捨にされるを
厭に思い、お嬢様の事を
悪ざまに殿様に
彼是と
告口をするので、嬢様と國との間
何んとなく
落着かず、されば飯島様もこれを面倒な事に思いまして、
柳島辺に
或寮を買い、嬢様にお
米と申す女中を附けて、此の寮に別居させて置きましたが、そも飯島様のあやまりにて、是よりお
家のわるくなる初めでございました。さて其の年も暮れ、
明れば嬢様は十七歳にお成りあそばしました。こゝに
予て飯島様へお
出入のお医者に
山本志丈と申す者がございます。此の人一体は
古方家ではありますけれど、実はお
幇間医者のお
喋りで、諸人助けのために
匙を手に取らないという人物でございますれば、大概のお医者なれば、
一寸紙入の中にもお
丸薬か
散薬でも
這入っていますが、此の志丈の紙入の中には手品の種や
百眼などが入れてある位なものでございます。さて此の医者の
知己で、
根津の
清水谷に
田畑や貸長屋を持ち、その
上りで
生計を立てゝいる浪人の、
萩原新三郎と申します者が有りまして、
生れつき
美男で、年は二十一歳なれどもまだ妻をも
娶らず、独身で暮す
鰥に似ず、
極内気でございますから、
外出も致さず
閉籠り、
鬱々と
書見のみして居ります
処へ、
或日志丈が尋ねて参り、
志「今日は天気も
宜しければ亀井戸の
臥竜梅へ出掛け、その帰るさに僕の
知己飯島平左衞門の別荘へ立寄りましょう、いえサ君は一体内気で入らっしゃるから婦女子にお心掛けなさいませんが、男子に取っては婦女子位
楽みなものはないので、今申した飯島の別荘には婦人ばかりで、それは/\余程
別嬪な嬢様に親切な忠義の女中と
只二人ぎりですから、冗談でも申して来ましょう、本当に嬢様の別嬪を見るだけでも結構なくらいで、梅もよろしいが動きもしない口もきゝません、されども婦人は口もきくしサ動きもします、僕などは
助平の
性だから余程女の方が宜しい、マア兎も角も来たまえ」
と誘い出しまして、二人
打連れ臥竜梅へまいり、その帰り
路に飯島の別荘へ立寄り、
志「御免下さい、誠にしばらく」
という声聞き附け、
米「
何方さま、おや、よく
入っしゃいました」
志「是はお
米さん、其の
後は
遂にない存外の
御無沙汰をいたしました、嬢様にはお変りもなく、それは/\頂上々々、牛込から
此処へお
引移りになりましてからは、何分にも遠方ゆえ、存じながら御無沙汰に成りまして誠に相済みません」
米「まア
貴方が久しくお見えなさいませんから
何うなすったかと思って、毎度お噂を申して居りました、今日は
何方へ」
志「今日は臥竜梅へ梅見に出かけましたが、梅見れば
方図がないという
譬の通り、
未だ
慊たらず、
御庭中の
梅花を拝見いたしたく参りました」
米「それは
宜く入らっしゃいました、まア
何卒此方へお
入りあそばせ」
と庭の
切戸を
開きくれゝば、
「
然らば御免」
と庭口へ通ると、お米は
如才なく、
米「まア一服召上りませ、今日は
能く入らっしゃって下さいました、
平常は
私と嬢様ばかりですから、
淋しくって困って
居るところ、誠に有難うございます」
志「結構なお住いでげすな
······さて萩原氏、今日君のお
名吟は恐れ入りましたな、
何とか申したな、えゝと「煙草には
燧火のむまし梅の
中」とは感服々々、僕などのような
横着者は出る句も矢張り横着で「梅ほめて
紛らかしけり
門違い」かね、君のような
書見ばかりして
鬱々としてはいけませんよ、
先刻の
残酒が
此処にあるから一杯あがれよ
···何んですね、
厭です
···それでは
独りで頂戴いたします」
と
瓢箪を取り出す所へお米
出で
来り、
米「どうも誠にしばらく」
志「今日は嬢様に
拝顔を得たく参りました、
此処に
居るは僕が
極の親友です、今日はお
土産も
何にも持参致しません、エヘヽ有難うございます、是は恐れ入ります、お菓子を、
羊羹結構、萩原君召し上れよ」
とお米が茶へ湯をさしに行ったあとを見送り、
「こゝの
家は女二人ぎりで、菓子などは方々から貰っても、喰い切れずに積上げて置くものだから、皆
黴を
生かして捨てるくらいのものですから、喰ってやるのが
却って親切ですから召上れよ、実に此の
家のお嬢様は天下に無い美人です、今に出て
入っしゃるから御覧なさい」
とお
喋りをしている
処へ向うの四畳半の小座敷から、飯島のお嬢さまお露が人珍らしいから、障子の
隙間より
此方を
覗いて見ると、志丈の
傍に坐っているのは例の
美男萩原新三郎にて、男ぶりといい
人品といい、花の
顔月の眉、
女子にして見まほしき
優男だから、ゾッと身に
染み
何うした風の
吹廻しであんな綺麗な
殿御が
此処へ来たのかと思うと、カッと
逆上せて
耳朶が火の如くカッと
真紅になり、
何となく間が悪くなりましたから、はたと障子をしめきり、
裡へ入ったが、障子の内では男の顔が見られないから、又そっと障子を明けて庭の梅の花を眺める
態をしながら、ちょい/\と萩原の顔を見て又恥かしくなり、障子の内へ
這入るかと思えば又出て来る、出たり
引込んだり引込んだり出たり、もじ/\しているのを志丈は見つけ、
志「萩原君、君を嬢様が
先刻から
熟々と見ておりますよ、梅の花を見る
態をしていても、眼の
球は
全で
此方を見ているよ、今日は
頓と君に蹴られたね」
と言いながらお嬢様の方を見て
「アレ又
引込んだ、アラ又出た、引込んだり出たり出たり引込んだり、
恰で
鵜の
水呑/\」
と
噪ぎどよめいている
処へ下女のお米
出で
来り
「嬢様から一
献申し上げますが何もございません、
真の田舎料理でございますが
御緩りと召上り相変らず
貴方の御冗談を
伺いたいと
仰しゃいます」
と
酒肴を
出だせば、
志「
何うも恐入りましたな、へい是はお吸物誠に有難うございます、
先刻から
冷酒は持参致しておりまするが、お
燗酒は又格別、有難うございます、
何卒嬢様にも
入っしゃるように今日は梅じゃアない実はお嬢様を、いやなに」
米「ホヽヽヽ只今左様申し上げましたが、お
連のお方は御存じがないものですから間が悪いと仰しゃいますから、それならお
止し遊ばせと申し上げた
処が、それでも
往って見たいと仰しゃいますの」
志「いや、
此は僕の
真の
知己にて、竹馬の友と申しても
宜しい位なもので、御遠慮には及びませぬ、
何卒ちょっと嬢様にお目にかゝりたくって参りました」
と云えば、お米はやがて嬢様を伴い
来る。嬢様のお露様は恥かしげにお米の
後に坐って、口の
中にて
「志丈さん
入っしゃいまし」
と云ったぎりで、お米が
此方へ来れば此方へ
来り、
彼方へ
行けば彼方へ行き、始終女中の
後にばかりくッついて居る。
志「存じながら御無沙汰に相成りまして、
何時も御無事で、此の人は僕の
知己にて萩原新三郎と申します
独身者でございますが、お近づきの
為め
一寸お
盃を頂戴いたさせましょう、おや何だかこれでは御婚礼の
三々九度のようでございます」
と少しも
間断なく取巻きますと、嬢様は恥かしいが又嬉しく、萩原新三郎を横目にじろ/\見ない
振をしながら見て居ります。と気があれば目も口ほどに物をいうと云う
譬の通り、新三郎もお嬢様の
艶容に
見惚れ、魂も天外に飛ぶ
計りです。そうこうする
中に夕景になり、
灯火がちら/\
点く時刻となりましたけれども、新三郎は一向に帰ろうと云わないから。
志「大層に
長座を致しました、さお
暇を致しましょう」
米「何ですねえ志丈さん、
貴方はお
連様もありますからまア
宜いじゃアありませんか、お泊りなさいな」
新「僕は
宜しゅうございます、泊って参っても宜しゅうございます」
志「それじゃア僕一人憎まれ者になるのだ、
併し又
斯様な時は憎まれるのが
却って親切になるかも知れない、今日はまず
是迄としておさらば/\」
新「
鳥渡便所を拝借致しとうございます」
米「さア
此方へ
入っしゃいませ」
と先に立って案内を致し、廊下伝いに参り
「
此処が嬢様のお
室でございますから、まアお這入り遊ばして一服召上って入っしゃいまし」
新三郎は
「有難うございます」
と云いながら
用場へ這入りました。
米「お嬢様え、
彼のお方が、出て
入っしゃったらばお
水を掛けてお上げ遊ばせ、お
手拭は
此処にございます」
と新しい手拭を嬢様に渡し置き、お米は
此方へ帰りながら、お嬢様があゝいうお方に水を掛けて上げたならば
嘸お嬉しかろう、
彼のお方は
余程御意に
適った様子。と
独言をいいながら元の座敷へ参りましたが、忠義も度を
外すと
却って不忠に
陥ちて、お米は決して主人に
猥らな事をさせる積りではないが、
何時も嬢様は別にお
楽みもなく、
鬱いでばかり
入っしゃるから、
斯ういう冗談でもしたら少しはお
気晴しになるだろうと思い、主人のためを思ってしたので。さて萩原は便所から出て参りますと、嬢様は恥かしいのが一杯で只
茫然としてお
水を掛けましょうとも何とも云わず、
湯桶を両手に支えているを、新三郎は見て取り、
新「是は恐れ入ります、
憚りさま」
と両手を
差伸べれば、お嬢様は恥かしいのが一杯なれば、目も
眩み、見当違いのところへ水を掛けておりますから、新三郎の手も
彼方此方と
追かけて
漸う手を洗い、嬢様が手拭をと差出してもモジ/\している
間、新三郎も此のお嬢は
真に美しいものと思い詰めながら、ずっと手を出し手拭を取ろうとすると、まだもじ/\していて放さないから、新三郎も手拭の上からこわ/″\ながらその手をじっと握りましたが、此の手を握るのは誠に愛情の深いものでございます。お嬢様は手を握られ
真赤に成って、又その手を握り返している。
此方は山本志丈が新三郎が便所へ
行き、余り手間取るを
訝り
志「新三郎君は
何処へ
行かれました、さア帰りましょう」
と
急き立てればお米は
瞞かし、
米「
貴方何んですねえ、おや
貴方のお
頭がぴか/\光ってまいりましたよ」
志「なにさそれは
灯火で見るから光るのですわね、萩原氏々々」
と呼立てれば、
米「
何んですねえ、
宜うございますよう、
貴方はお嬢様のお気質も御存じではありませんか、お堅いから
仔細はありませんよ」
と云って居ります所へ新三郎が
漸よう出て来ましたから、
志「君
何方にいました、いざ帰りましょう、左様なればお
暇申します、今日は
種々御馳走に相成りました、有難うございます」
米「左様なら、今日はまア誠にお
草々さま左様なら」
と志丈新三郎の両人は
打連れ
立ちて帰りましたが、帰る時にお嬢様が新三郎に
「
貴方また来て下さらなければ
私は死んでしまいますよ」
と無量の情を含んで言われた言葉が、新三郎の耳に残り、
暫しも忘れる
暇はありませなんだ。
三
さても飯島様のお
邸の
方にては、お妾お國が腹一杯の
我儘を働く
間、今度
抱え入れた
草履取の
孝助は、年頃二十一二にて色白の綺麗な男ぶりで、今日しも三月二十二日殿様平左衞門様にはお非番でいらっしゃれば、庭先へ
出て
[#「出て」はママ]、
彼方此方を眺めおられる時、此の新参の孝助を見掛け。
平「これ/\手前は孝助と申すか」
孝「へい殿様には御機嫌
宜しゅう、
私は孝助と申しまする新参者でございます」
平「其の方は新参者でも
蔭日向なくよく働くといって
大分評判がよく、皆の
受がよいぞ、年頃は二十一二と見えるが、
人品といい男ぶりといい草履取には惜しいものだな」
孝「殿様には此の
間中御不快でございましたそうで、お案じ申上げましたが、さしたる事もございませんか」
平「おゝよく尋ねて呉れた、別にさしたる事もないが、して手前は今まで
何方へか奉公をした事があったか」
孝「へい只今まで方々奉公も致しました、
先ず一番先に
四谷の
金物商へ参りましたが一年程居りまして
駈出しました、それから
新橋の
鍜冶屋へ参り、三
月程過ぎて駈出し、又
仲通りの
絵草紙屋へ参りましたが、十
日で駈出しました」
平「其の方のようにそう
厭きては奉公は出来ないぞ」
孝「いえ
私が
倦きっぽいのではございませんが、私はどうぞして武家奉公が致したいと思い、其の訳を叔父に頼みましても、叔父は武家奉公は面倒だから
町家へ
往けと申しまして
彼方此方奉公にやりますから、私も
面当に駈出してやりました」
平「其の方は窮屈な武家奉公をしたいというのは
如何な訳じゃ」
孝「へい、
私は武家奉公を致しお剣術を覚えたいのでへい」
平「はて剣術が好きとな」
孝「へい
番町の
栗橋様が
御当家様は、
真影流の
御名人と承わりました故、
何うぞして御両家の内へ御奉公に
上りたいと思いましていました
処、
漸々の思いで
御当家様へお
召抱えに相成り、念が届いて有難うございます、どうぞお殿様のお
暇の節には、少々ずつにてもお稽古が願われようかと存じまして参りました、
御当家様に若様でも
入っしゃいます事ならば、若様のお
守をしながら皆様がお稽古を遊ばすのをお側で拝見致していましても、型ぐらいは覚えられましょうと存じましたに、若様はいらっしゃらず、お嬢様には柳島の御別荘にいらっしゃいまして、お年はお十七とのこと、これが若様なれば
余程宜しゅうございますに、お武家様にお嬢様は
糞ったれでございますなア」
平「はゝゝ、遠慮のない奴、これは
大きにさようだ、武家では女は実に糞ったれだのう」
孝「うっかりと飛んでもない事を申上げ、お気に
障りましたら御勘弁をねがいます、どうぞ只今もお願い申上げまする通りお暇の節にはお剣術を願われますまいか」
平「此の程は役が
替ってから稽古場もなく、誠に
多端ではあるが、
暇の節に随分教えてもやろう、其の
方の叔父は何商売じゃの」
孝「へい
彼は本当の叔父ではございません、
親父の
店受で、ちょっと間に合わせの叔父でございます」
平「何かえ
母親は
幾歳になるか」
孝「
母親は
私の
四歳の時に私を置去りに致しまして、越後の国へ往ってしまいましたそうです」
平「左様か、
大分不人情の女だの」
孝「いえ、それと申しまするのも親父の
不身持に
愛想を尽かしての事でございます」
平「親父はまだ
存生か」
と問われて、孝助は
「へい」
と云いながら
悄々として申しまするには、
「親父も亡くなりました、
私には兄弟も親類もございませんゆえ、
誰あって育てる者もないところから、
店受の
安兵衞さんに引取られ、
四歳の時から養育を受けまして、只今では叔父分となり、
斯様に御当家様へ御奉公に参りました、どうぞ
何時までもお目掛けられて下さいませ」
と云いさしてハラ/\と
落涙を致しますから、飯島平左衞門様も目をしばたゝき、
平
[#「平」は底本では「孝」]「感心な奴だ、手前ぐらいな年頃には親の
忌日さえ知らずに暮らすものだに、親はと聞かれて涙を流すとは親孝行な奴じゃて、親父は此の頃亡くなったのか」
孝「へい、親父の亡くなりましたは
私の
四歳の時でございます」
平「それでは両親の顔も知るまいのう」
孝「へい、ちっとも存じませんが、
私の十一歳の時に始めて
店受の叔父から
母親の事や親父の事も聞きました」
平「親父はどうして亡くなったか」
孝「へい、
斬殺されて」
と云いさしてわっとばかりに泣き沈む。
平「それは又
如何の間違いで、とんでもない事であったのう」
孝「左様でございます、只今より十八年以前、本郷三丁目の藤村屋新兵衞と申しまする刀屋の前で斬られました」
平「それは何月
幾日の事だの」
孝「へい、四月十一日だと申すことでございます」
平「シテ手前の親父は
何と申す者だ」
孝「元は小出様の御家来にて、お
馬廻の役を勤め、
食禄百五十石を頂戴致して居りました黒川孝藏と申しました」
と云われて飯島平左衞門はギックリと胸にこたえ、
恟りし、指折り数うれば十八年以前
聊の間違いから手に掛けたは此の孝助の実父で有ったか、
己を実父の
仇と知らず奉公に来たかと思えば
何とやら心悪く思いましたが、素知らぬ顔して、
平「それは
嘸残念に思うで有ろうな」
孝「へい親父の
仇討が致しとうございますが、何を申しますにも相手は立派なお侍様でございますから、どう致しても剣術を知りませんでは親の仇討は出来ませんゆえ、十一歳の時から
今日まで剣術を覚えたいと心掛けて居りましたが、
漸々のことで御当家様にまいりまして、誠に嬉しゅうございます、是からはお剣術を教えて
戴き、覚えました上は、それこそ死にもの狂いに成って親の
敵を討ちますから、どうぞ剣術を教えて下さいませ」
平「孝心な者じゃ、教えてやるが手前は親の
敵を討つというが、敵の
面体を知らんで居て、相手は立派な
剣術遣で、もし今
己が手前の敵だと云ってみす/\鼻の先へ敵が出たら其の時は手前どうするか」
孝「困りますな、みす/\鼻の先へ
敵が出れば仕方がございませんから、立派な侍でも
何でもかまいません、
飛ついて
喉笛でも喰い取ってやります」
平「
気性な奴だ、心配いたすな、
若し
敵の知れた其の時は、此の飯島が
助太刀をして敵を
屹度討たせてやるから、心丈夫に身を
厭い、随分大切に奉公をしろ」
孝「殿様本当にあなた様が助太刀をして下さいますか、有難う存じます、殿様がお助太刀をして下さいますれば、
敵の十人位は出て参りましても大丈夫です、あゝ有難うございます、有難うございます」
平「
己が助太刀をしてやるのをそれ程までに嬉しいか
可愛そうな奴だ」
と飯島平左衞門は孝心に感じ、
機を見て
自ら孝助の
敵と
名告り、討たれてやろうと常に心に掛けて居りました。
四
さて萩原新三郎は山本志丈と一緒に臥竜梅へ梅見に連れられ、その帰るさに
彼の飯島の別荘に立寄り、
不図彼の嬢様の姿を思い詰め、互いに只手を
手拭の上から握り合ったばかりで、実に枕を並べて寝たよりも
猶深く思い合いました。昔のものは皆こういう事に固うございました。ところが当節のお方はちょっと
洒落半分に
「君ちょっと来たまえ、
雑魚寝で」
と、男がいえば、女の方で
「お
戯けでないよ」
又男の方でも
「そう君のように云っては困るねえ、
否なら否だと
判然云い給え、否なら又
外を聞いて見よう」
と
明店か何かを捜す気に成っている位なものでございますが、萩原新三郎はあのお露どのと更に
猥らしい事は致しませんでしたが、実に枕をも並べて一ツ寝でも致したごとく思い詰めましたが、新三郎は人が良いものですから一人で逢いに
行くことが出来ません、逢いに参って
若し
万一飯島の家来にでも見付けられてはと思えば
行く事もならず、志丈が来れば是非お礼
旁々行きたいものだと思っておりましたが、志丈は一向に参りません。志丈も中々さるものゆえ、あの時萩原とお嬢との様子が
訝しいから、
若し
万一の事があって、事の
顕われた日には大変、
坊主首を斬られなければならん、これは
危険、
君子は
危きに近寄らずというから
行かぬ方がよいと、二月三月四月と過ぎても一向に志丈が訪ねて来ませんから、新三郎は
独りくよ/\お嬢のことばかり思い詰めて、食事もろく/\進みませんで居りますと、
或日のこと
孫店に夫婦暮しで住む
伴藏と申す者が訪ねて参り。
伴「旦那様、此の頃は
貴方様は
何うなさいました、ろく/\
御膳も
上りませんで、今日はお
昼食もあがりませんな」
新「あゝ食べないよ」
伴「
上らなくっちゃアいけませんよ、今の若さに一膳半ぐらいの御膳が
上れんとは、
私などは
親椀で山盛りにして五六杯も喰わなくっちゃアちっとも物を食べたような気持が致しやせん、あなた様はちっとも
外出をなさいませんな、此の二月でしたっけナ、山本さんと御一緒に梅見にお出掛けに成って、何か
洒落をおっしゃいましたっけナ、ちっと御保養をなさいませんと本当に毒ですよ」
新「伴藏貴様はあの
釣が好きだっけな」
伴「へい釣は好きのなんのッて、本当にお
飯より好きでございます」
新「左様か、そうならば一緒に釣に出掛けようかのう」
伴「あなたは
慥か釣はお嫌いではありませんか」
新「
何だか急にむか/\と釣が好きになったよ」
伴「へい、むか/\とお好きに成って、そして
何方へ釣にいらっしゃるお積りで」
新「そうサ、柳島の横川で大層釣れるというから
彼処へ
往こうか」
伴「横川というのは
彼の中川へ出る
処ですかえ、そうしてあんな処で何が釣れますえ」
新「大きな
鰹が釣れるとよ」
伴「馬鹿な事を
仰しゃい、川で鰹が釣れますものかね、たか/″\
鰡か
※[#「魚+節」、27-14]ぐらいのものでございましょう、兎も角もいらっしゃるならばお供をいたしましょう」
と弁当の用意を致し、酒を
吸筒へ詰込みまして、神田の
昌平橋の船宿から
漁夫を雇い
乗出しましたれど、新三郎は釣はしたくはないが、
唯飯島の別荘のお嬢の様子を垣の外からなりとも見ましょうとの
心組でございますから、新三郎は持って来た吸筒の酒にグッスリと酔って、船の中で寝込んでしまいましたが、伴藏は一人で日の
暮るまで釣を致して居ましたが、新三郎が寝たようだから、
伴「旦那え/\お風をひきますよ、五月頃は兎角冷えますから、旦那え/\、是は余りお酒を勧めすぎたかな」
新三郎はふと見ると横川のようだから。
新「伴藏こゝは
何処だ」
伴「へい
此処は横川です」
と云われて
傍の岸辺を見ますと、二重の
建仁寺の垣に
潜り門がありましたが、是は
確に飯島の別荘と思い、
新「伴藏や
一寸此処へ着けて呉れ、一寸行って来る所があるから」
伴「こんな所へ着けて
何方へ入らっしゃるのですえ、
私も御一緒に参りましょう」
新「お前は
其処に待っていなよ」
伴「だってそのための伴藏ではございませんか、お供を致しましょう」
新「
野暮だのう、色にはなまじ連れは邪魔よ」
伴「イヨお
洒落でげすね、
宜うがすねえ」
という途端に岸に船を着けましたから、新三郎は飯島の門の処へまいり、ブル/\
慄えながらそっと
家の様子を
覗き、門が少し明いてるようだから押して見ると明いたから、ずっと中へ
這入り、
予て勝手を知っている事
故、だん/\と庭伝いに参り、
泉水縁に赤松の生えてある処から
生垣に附いて廻れば、こゝは四畳半にて嬢様のお部屋でございました。お露も同じ思いで、新三郎に別れてから其の事ばかり思い詰め、三月から
煩って居ります所へ、新三郎は
折戸の所へ参り、そっとうちの様子を
覗き込みますと、うちでは嬢様は新三郎の事ばかり思い続けて、
誰を見ましても新三郎のように見える処へ、本当の新三郎が来た事ゆえ、ハッと思い
「
貴方は新三郎さまか」
と云えば、
新「静かに/\、其の
後は大層に御無沙汰を致しました、
鳥渡お礼に
上るんでございましたが、山本志丈があれぎり参りませんものですから、
私一人では
何分間が悪くッて上りませんだった」
露「よくまア
入っしゃいました」
ともう耻しいことも何も忘れてしまい、無理に新三郎の手を取ってお
上り遊ばせと
蚊帳の中へ引きずり込みました。お露は只もう嬉しいのが込み上げて物が云われず、新三郎の膝に両手を突いたなりで、嬉し涙を新三郎の膝にホロリと
零しました。これが本当の嬉し涙です。他人の所へ
悔みに行って零す
空涙とは違います。新三郎ももう是までだ、知れても構わんと心得、蚊帳の
中で
互に嬉しき枕をかわしました。
露「新三郎さま、是は
私の
母さまから譲られました大事な
香箱でございます、どうか私の形見と
思召しお預り下さい」
と
差出すを手に取って見ますと、秋野に虫の
象眼入の結構な品で、お露は此の
蓋を新三郎に渡し、自分は其の身の
方を取って互に語り合う所へ、
隔ての
襖をサラリと引き明けて出て来ましたは、おつゆの
親御飯島平左衞門様でございます。両人は此の
体を見てハッとばかりに
恟り致しましたが、逃げることもならず、唯うろ/\して居る所へ、平左衞門は
雪洞をズッと
差つけ、声を
怒らし。
平「コレ露これへ出ろ、又貴様は何者だ」
新「へい、手前は萩原新三郎と申す
粗忽の浪士でございます、誠に相済みません事を致しました」
平「露、手前はヤレ國がどうのこうの云うの、
親父がやかましいの、どうか閑静な所へ
行きたいのと、さま/″\の事を云うから、此の別荘に置けば、
斯様なる男を引きずり込み、親の目を
掠めて不義を働きたい
為めに
閑地へ
引込んだのであろう、これ
苟めにも天下
御直参の娘が、男を引入れるという事がパッと世間に
流布致せば、飯島は
家事不取締だと云われ
家名を
汚し、第一御先祖へ対して相済まん、不孝不義の
不届ものめが、
手打にするから左様心得ろ」
新「
暫くお待ち下さい、其のお
腹立は
重々御尤でございますが、お嬢様が
私を引きずり込み不義を遊ばしたのではなく、手前が此の二月始めて
罷出でまして、お嬢様を
唆かしたので、全く手前の罪でお嬢様には少しもお
科はございません、どうぞ嬢様はお助けなすって私を」
露「いゝえ、お
父様私が悪いのでございます、どうぞ私をお斬り遊ばして、新三郎様をばお助け下さいまし」
と
互に死を争いながら平左衞門の側へ
摺寄りますと、平左衞門は
剛刀をスラリと
引抜き、
「
誰彼と
容赦はない、不義は同罪、娘から先へ斬る、観念しろ」
と云いさま片手なぐりにヤッと
下した腕の
冴え、島田の首がコロリと前へ落ちました時、萩原新三郎はアッとばかりに驚いて前へのめる処を、
頬より
腮へ掛けてズンと切られ、ウーンと云って倒れると。
伴「旦那え/\大層
魘されていますね、
恐しい声をして
恟りしました、風邪を引くといけませんよ」
と云われて新三郎はやっと目を
覚し、ハアと
溜息をついて居るから。
伴「
何うなさいましたか」
新「伴藏や
己の首が落ちては居ないか」
と問われて、
伴「そうですねえ、
船舷で
煙管を叩くと
能く
雁首が川の中へ落っこちて困るもんですねえ」
新「そうじゃアない、己の首が落ちはしないかという事よ、
何処にも
疵が付いてはいないか」
伴「何を御冗談を
仰しゃる、疵も何も有りは致しません」
と云う。新三郎はお露に
何うにもして逢いたいと思い続けているものだから、其の事を夢に見てビッショリ汗をかき、
辻占が悪いから早く帰ろうと思い
「伴藏早く帰ろう」
と船を急がして帰りまして、船が着いたから
上ろうとすると。
伴「旦那こゝにこんな物が落ちて居ります」
と
差出すを新三郎が手に
取上げて見ますれば、飯島の娘と夢のうちにて
取交した、秋野に虫の模様の付いた香箱の蓋ばかりだから、ハッとばかりに
奇異の
想を致し、
何うして此の蓋が
我手にある事かと
恟り致しました。
五
話
替って、飯島平左衞門は
凛々しい
智者にて諸芸に達し、とりわけ剣術は真影流の
極意を
極めました名人にて、お
齢四十ぐらい、
人並に
勝れたお方なれども、妾の國というが心得違いの奴にて、
内々隣家の次男
源次郎を
引込み楽しんで居りました。お國は人目を
憚り庭口の
開き戸を明け置き、
此処より源次郎を忍ばせる
趣向で、殿様のお
泊番の時には此処から忍んで来るのだが、奥向きの
切盛は万事妾の國がする事ゆえ、
誰も此の様子を知る者は絶えてありません。今日しも七月二十一日殿様はお泊番の事ゆえ、源次郎を忍ばせようとの
下心で、庭下駄を
彼の開き戸の側に並べ置き、
國「今日は熱くって
堪らないから、風を入れないでは寝られない、雨戸を少しすかして置いてお呉れよ」
と
云附け置きました。さて源次郎は皆寝静まッたる様子を
窺い、そっと
跣足で庭石を伝わり、雨戸の明いた所から
這い
上り、お國の寝間に忍び寄れば、
國「源次郎さま大層に遅いじゃアありませんか、
私は
何うなすッたかと思いましたよ、
余まりですねえ」
源「
私も早く来たいのだけれども、兄上もお
姉様もお
母様もお休みにならず、奉公人までが皆熱い/\と
渋団扇を持って、あおぎ立てゝ凉んでいて仕方がないから、今まで我慢して、よう/\の思いで忍んで来たのだが、人に知れやアしないかねえ」
國「大丈夫知れッこはありませんよ、殿様があなたを
御贔屓に遊ばすから知れやアしませんよ、あなたの
御勘当が
許りてから此の
家へ
度々お
出になれるように致しましたのも、皆
私が側で殿様へ旨く
取なし、あなたをよく思わせたのですよ、殿様はなか/\
凛々しいお方ですから、
貴方と私との
間が少しでも変な様子があれば
気取られますのだが、
些も知れませんよ」
源「実に伯父さまは一通りならざる
智者だから、
私は本当に怖いよ、私も
放蕩を働き、
大塚の親類へ預けられていたのを、
当家の伯父さんのお
蔭で
家へ帰れるように成った、其の恩人の
寵愛なさるお前と
斯うやっているのが知れては実に済まないよ」
國「あゝいう事を
仰しゃる、あなたは本当に
情がありませんよ、
私は
貴方のためなら死んでも決して
厭いませんよ、
何ですねえ、そんな事ばかり仰しゃって、私の
傍へ来ない算段ばかり遊ばすのですものを、アノ源さま、こちらの
家でも此の間お嬢様がお
逝れになって、今は
外に
御家督がありませんから、是非とも御夫婦養子をせねばなりません、それに
就てはお隣の源次郎様をと
内々殿様にお勧め申しましたら、殿様が源次郎はまだ若くッて
了簡が定まらんからいかんと仰しゃいましたよ」
源「そうだろう、恩人の
愛妾の所へ忍び来るような訳だから、どうせ了簡が定まりゃアしないや」
國「
私は殿様の側に
何時までも附いていて、殿様が
長生をなすって、
貴方は
外へ御養子にでも入らっしゃれば、お目にかゝる事は出来ません、其の上綺麗な奥様でもお持ちなさろうものなら、國のくの字も仰しゃる
気遣いはありませんよ、それですから貴方が本当に
信実がおあり遊ばすならば、私の
願を
叶えて、
内の殿様を殺して下さいましな」
源「情があるから出来ないよ、
私の
為めには恩人の伯父さんだもの、
何うしてそんな事が出来るものかね」
國「こうなる上からは、もう恩も義理もありはしませんやね」
源「それでも伯父さんは牛込
名代の真影流の達人だから、手前如きものが二十人ぐらい掛っても
敵う訳のものではないよ、其の上
私は剣術が
極下手だもの」
國「そりゃア
貴方はお剣術はお
下手さね」
源「そんなにオヘータと力を入れて云うには及ばない、それだから
何うもいけないよ」
國「貴方は剣術はお
下手だが、よく殿様と一緒に
釣にいらっしゃいましょう、アノ来月四日はたしか中川へ釣にいらっしゃるお約束がありましょう、其の時殿様を船から川の中へ
突落して殺しておしまいなさいよ」
源「成程伯父さんは
水練を御存じないが、矢張り船頭がいるからいけないよ」
國「船頭を斬ってお仕舞い遊ばせな、なんぼ貴方が剣術がお下手でも、船頭ぐらいは斬れましょう」
源「それは斬れますとも」
國「殿様が落ちたというので、貴方は立腹して、早く探させてはいけませんよ、いろ/\
理窟をなが/\と
二時ばかりも言っていてそれから船頭に探させ、死骸を船に
揚げてから
不届な奴だといって船頭を斬ってお仕舞いなさい、それから帰り
路に
船宿に寄って、船頭が
麁相で殿様を川へ落し、殿様は死去されたれば、手前は
言訳がないから船頭は其の場で
手打に致したが、船頭ばかりでは相済まんぞ、亭主其の方も斬って仕舞うのだが、
内分で済ませて
遣わすにより、此の事は決して口外致すなと仰しゃれば、船宿の亭主も自分の命にかゝわる事ですから口外する
気遣いはありません、それから貴方はお
邸へお帰りになって、知らん顔でいて、お
兄様に
隣家では
家督がないから早く養子に
遣ってくれ/\と仰しゃれば、
此方は別に御親類もないからお
頭に話を致し、貴方を御養子のお届けを致しますまでは、殿様は御病気の届けを致して置いて、貴方の家督相続が済みましてから、殿様の死去のお届を致せば、貴方は
此家の御養子様、そうすると
私は
何時までも貴方の側に
粘り附いていて動きません、
此方の
家は貴方のお家より、
余程大尽ですから、
召物でもお腰のものでも結構なのが沢山ありますよ」
源「これは旨い趣向だ、考えたね」
國「
私は三日三晩寝ずに考えましたよ」
源「是は
至極宜しい、どうも宜しい」
と源次郎は
慾張と
助平とが合併して
乗気に成り、両人がひそ/\語り合っているを、忠義無類の孝助という草履取が、
御門の男部屋に
紙帳を吊って寝て見たが、何分にも熱くって寝付かれないものだから、
渋団扇を持って、
「どうも今年の様に熱い事はありゃアしない」
と云いながら、お庭をぶら/″\歩いていると、
板塀の三
尺の
開きがバタリ/\と風にあおられているのを見て、
孝「締りをして置いたのに
何うして
開いたのだろう、おや庭下駄が並べてあるぞ、
誰が来たな、
隣家の次男めがお國さんと様子が
訝しいから、ことによったら
密通いているのかも知れん」
と
抜足してそっと
此方へまいり、
沓脱石へ手を支えて座敷の様子を
窺うと、自分が命を捨てゝも奉公をいたそうと思っている殿様を殺すという相談に、孝助は
大いに
怒り、
歳はまだ二十一でございますが、負けない気性だから、怒りの余り思わず知らずガッと鼻を鳴らす。
源「お國さん
誰か来たようだよ」
國「
貴方は本当に
臆病で入らっしゃるよ、
誰も参りは致しません」
と耳を立てゝ聞けば人の居る様子ですから、
國「
誰だえ、
其処に居るのは」
孝「へい孝助でございます」
國「本当にまア
呆れますよ、
夜夜中奥向の庭口へ
這入り込んで済みますかえ」
孝「熱くッて/\仕様がございませんから凉みに参りました」
國「今晩は殿様はお
泊番だよ」
孝「
毎月二十一日のお泊番は知っています」
國「殿様のお泊番を知りながらなぜ門番をしない、
御門番は御門をさえ堅く守って
居れば
宜いのに、熱いからといって女
計りいる庭先へ来てすみますか」
孝「へい御門番だからといって御門計りを守っては
居りませんへい、庭も奥も守ります、へい
方々を守るのが役でございます、御門番だからと申して奥へ
盗賊が這入り、殿様とチャン/\
切合っているに門ばかり見てはいられません」
國「新参者のくせに、殿様のお気に入りだものだから、此の節では増長して大層お
羽振が
宜いよ、奥向を守るのは
私の役だ、部屋へ帰って寝てお仕舞い」
孝「そうですか、貴方が奥向のお守りをして、
斯様に
三尺戸を開けて置いて
宜しゅうございますか、庭口の戸が開いていると犬が這入って来ます、
何でも犬畜生の恩も義理も知らん奴が、殿様の大切にして入らっしゃるものをむしゃ/\喰っていますから、
私は夜通し
此処に
張番をしています、
此所に下駄が脱いでありますから、何でも人間が這入ったに違いはありません」
國「そうサ、
先刻お隣の源さまが入らっしゃったのサ」
孝「へえ、源さまが
何御用で入らっしゃいました」
國「
何の御用でも
宜いじゃアないか、草履取の身の上でお前は御門さえ守っていればよいのだよ」
孝「
毎月二十一日は殿様お泊番の事は、お隣の御次男様もよく御存じでいらっしゃいますに、殿様のお留守の処へお
出に成って、御用が足りるとはこりゃア変でございますな」
國「何が変だえ、殿様に御用があるのではない」
孝「殿様に御用ではなく、あなたに
内証の御用でしょう」
國「おや/\お前はそんな事を言って私を疑ぐるね」
孝「何も疑ぐりはしませんのに、疑ぐると思うのが
余程おかしい、夜夜中女ばかりの処へ男が這入り込むのは
何うも
訝しいと思っても
宜かろうと思います」
國「お前はまアとんでもない事を云って、お隣の源さまにすまないよ、
余りじゃアないか、お前だって私の心を知っているじゃアないか」
と、両人の争って居るのを聞いていた源次郎は、人の妾でも
奪ろうという位な奴だからなか/\
抜目はありません。そして其の頃は若殿と草履取とはお羽振が
雲泥の違いであります、源次郎はずっと出て来て、
源「これ/\孝助何を申す、是へ出ろ」
孝「へい何か御用で」
源「手前今承れば、何かお國殿と
己と何か
事情でもありそうにいうが、己も養子に
行く出世前の大切な身体だ、
尤も一旦
放蕩をして
勘当をされ、大塚の親類共へ預けられたから、左様思うも無理もないようだが、左様な事を云い掛けられては
捨置にならんぞ」
孝「
御大切の身の上を御存じなれば
何故夜夜中女一人の
処へおいでなされました、あなた様が御自分に
疵をお付けなさる様なものでございます、
貴方だッて
男女七歳にして席を
同ゅうせず、
瓜田に
履を
容れず、
李下に
冠を正さず位の事は
弁えておりましょう」
源「黙れ左様な無礼な事を申して、
若し用があったらどう致す、イヤサ御主人がお留守でも用の足りる
仔細があったら
何うする積りだ」
孝「殿様がお留守で御用の足りる
筈はありません、へい若しありましたら御存分になさいまし」
源「
然らば是を見い」
と投げ出す
片紙の
書面。孝助は手に
取上げて読み
下すに、
一
筆申入候過日御約束
致置候中川漁船
行の儀は来月四日と
致度就ては釣道具
大半破損致し
居候間夜分にても
御閑の節
御入来之上右釣道具
御繕い直し
被下候様奉願上候。
飯島平左衞門
と孝助がよく/\見れば全く主人の
手蹟だから、これはと思うと。
源「どうだ手前は無筆ではあるまい、夜分にてもよいから来て釣道具を直して呉れろとの頼みの状だ、今夜は熱くて寝られないから、釣道具を直しに参った、
然るを手前から疑念を掛けられ、
悪名を附けられ、
甚だ迷惑致す、貴様は
如何致す積りか」
孝「左様な御無理を仰しゃっては誠に困ります、此の
書付さえなければ
喧嘩は
私が
勝だけれども、書付が出たから私の方が
負に成ったのですが、
何方が悪いかとくと
貴方の胸に聞いて御覧遊ばせ、私は御当家様の家来でございます、無闇に斬っては済みますまい」
源「
汝の様な
汚れた
奴を斬るかえ、
打殺してしまうわ、何か棒はありませんか」
國「
此処にあります」
とお國が
重籐の弓の
折を
取出し、源次郎に渡す。
孝「
貴方様、
左様な御無理な事をして、
私のような
虚弱い身体に
疵でも出来ましては御奉公が勤まりません」
源「えい手前疑ぐるならば表向きに云えよ、何を証拠に
左様なことを申す、其のくらいならなぜお國殿と枕を並べている
処へ踏み込まん、
拙者は御主人から頼まれたから参ったのだ、憎い奴め」
と云いながらはたと
打つ。
孝「
痛うございます、
貴方左様な事を仰しゃっても、
篤と胸に聞いて御覧遊ばせ、
虚弱い草履取をお
打ちなすッて」
源「黙れ」
といいざまヒュウ/\と続け
打ちに十二三も
打ちのめせば、孝助はヒイ/\と叫びながら、ころ/\と
転げ

り、さも
恨めしげに源次郎の顔を
睨む所を、トーンと孝助の
月代際を
打割ったゆえ
黒血がタラ/\と流れる。
源「ぶち殺してもいゝ奴だが、命だけは助けてくれる、
向後左様の事を言うと助けては置かぬぞ、お國どの
私はもう御当家へは参りません」
國「アレ入らっしゃらないと
猶疑ぐられますよ」
と云うを
聞入れず、源次郎は是を
機会に
跣足にて
根府川石の
飛石を伝いて帰りました。
國「お前が悪いから
打たれたのだよ、お隣の御二男様に飛んでもない事を云って済まないよ、お前こゝにいられちゃア迷惑だから出て行ってお呉れ」
と云いながら、痛みに苦しむ孝助の腰をトンと突いて、庭へ突き
落すはずみに、根府川石に又痛く膝を
打ち、アッと云って倒れると、お國は雨戸をピッシャリ締めて奥へ
入る。
後に孝助くやしき声を震わせ、
「
畜生奴/\、犬畜生奴、自分達の悪い事を
余所にして私を
酷い目に逢わせる、殿様がお帰りになれば申上げて仕舞おうか、いや/\
若し此の事を表向きに殿様に申上げれば、
屹度あの両人と
突合せに成ると、向うには証拠の手紙があり、
此方は聞いたばかりの事だからどう云うても証拠になるまい、
殊には向うは二男の勢い、
此方は悲しいかな草履取の軽い身分だから、お
隣づからの義理でも私はお
暇になるに相違ない、私がいなければ殿様は殺されるに違いない、これはいっその事源次郎お國の両人を
槍で突き殺して、自分は腹を切ってしまおう」
と、忠義無二の孝助が覚悟を定めましたが、さて此のあとは
何うなりますか。
六
萩原新三郎は、独りクヨ/\として飯島のお嬢の事ばかり思い詰めています
処へ、
折しも六月二十三日の事にて、山本志丈が訪ねて参りました。
志「其の
後は存外の御無沙汰を致しました、ちょっと
伺うべきでございましたが、
如何にも麻布辺からの事
故、おッくうでもあり
且追々お熱く成って来たゆえ、
藪医でも相応に
病家もあり、何や
彼やで意外の御無沙汰、
貴方は
何うもお顔の色が
宜くない、なにお加減がわるいと、それは/\」
新「何分にも加減がわるく、四月の
中旬頃からどっと寝て居ります、飯もろく/\たべられない位で困ります、お前さんもあれぎり来ないのは
余り
酷いじゃアありませんか、
私も飯島さんの
処へ、ちょっと
菓子折の一つも持ってお礼に
行きたいと思っているのに、君が来ないから私は
行きそこなっているのです」
志「さて、あの飯島のお嬢も、
可愛そうに亡くなりましたよ」
新「えゝお嬢が亡くなりましたとえ」
志「あの時僕が君を連れて行ったのが
過りで、向うのお嬢がぞっこん君に惚れ込んだ様子だ、あの時何か小座敷で訳があったに違いないが、深い事でもなかろうが、もし其の事が向うの
親父さまにでも知れた日には、志丈が
手引した憎い奴め、斬って仕舞う、
坊主首を
打ち落す、といわれては僕も困るから、実はあれぎり参りもせんでいたところ、
不図此の間飯島のお
邸へまいり、平左衞門様にお目にかゝると、娘は
歿かり、女中のお米も
引続き亡くなったと申されましたから、段々様子を聞きますと、全く君に
焦れ
死をしたという事です、本当に君は罪造りですよ、男も
余り
美く生れると罪だねえ、死んだものは仕方がありませんからお念仏でも唱えてお上げなさい、左様なら」
新「あれさ志丈さん、あゝ
往って仕舞った、お嬢が死んだなら寺ぐらいは教えてくれゝばいゝに、聞こうと思っているうちに行って仕舞った、いけないねえ、
併しお嬢は全く
己に惚れ込んで己を思って死んだのか」
と思うとカッと
逆上せて来て、根が人がよいから
猶々気が
欝々して病気が重くなり、それからはお嬢の
俗名を書いて仏壇に備え、毎日々々念仏三
昧で暮しましたが、今日しも盆の十三日なれば
精霊棚の
支度などを致してしまい、縁側へちょっと敷物を敷き、
蚊遣を
薫らして、新三郎は白地の
浴衣を着、
深草形の
団扇を片手に蚊を払いながら、
冴え渡る十三日の月を眺めていますと、カラコン/\と珍らしく下駄の音をさせて
生垣の外を通るものがあるから、不図見れば、
先きへ立ったのは年頃三十位の
大丸髷の人柄のよい
年増にて、其の頃
流行った
縮緬細工の
牡丹芍薬などの花の附いた灯籠を
提げ、其の
後から十七八とも思われる娘が、髪は
文金の
高髷に結い、着物は
秋草色染の
振袖に、
緋縮緬の
長襦袢に
繻子の帯をしどけなく締め、
上方風の
塗柄の
団扇を持って、ぱたり/\と通る姿を、月影に
透し見るに、
何うも飯島の娘お露のようだから、新三郎は伸び
上り、首を差し延べて向うを見ると、向うの女も立止まり、
女「まア不思議じゃアございませんか、萩原さま」
と云われて新三郎もそれと気が付き、
新「おや、お米さん、まアどうして」
米「誠に思いがけない、
貴方様はお亡くなり遊ばしたという事でしたに」
新「へえ、ナニあなたの方でお亡くなり遊ばしたと承わりましたが」
米「
厭ですよ、縁起の悪い事ばかり仰しゃって、誰が左様な事を申しましたえ」
新「まアおはいりなさい、
其処の
折戸のところを明けて」
と云うから両人内へ
這入れば、
新「誠に御無沙汰を致しました、先日山本志丈が来まして、あなた方御両人ともお亡くなりなすったと申しました」
米「おやまア
彼奴が、
私の方へ来ても貴方がお亡くなり遊ばしたといいましたが、私の考えでは、貴方様はお人がよいものだから旨く
瞞したのです、お嬢様はお
邸に入らっしゃっても貴方の事
計り思って入らっしゃるものだから、つい口に出て
迂濶りと、貴方の事を仰しゃるのが、ちら/\と
御親父様のお耳にもはいり、又内にはお國という悪い妾がいるものですから邪魔を入れて、志丈に死んだと云わせ、
互に諦めさせようと、國の畜生がした事に違いはありませんよ、貴方がお亡くなり遊ばしたという事をお聞き遊ばして、お嬢様はおいとしいこと、
剃髪して尼に成ってしまうと仰しゃいますゆえ、そんな事を成すっては大変ですから、心でさえ尼に成った気で入らっしゃれば
宜しいと申上げて置きましたが、それでは志丈にそんな事をいわせ、互に諦めさせて置いて、お嬢さまに
婿を取れと御親父さまから仰しゃるのを、お嬢様は、婿は取りませんからどうかお
宅には夫婦養子をしてくださいまし、そして
他へ縁付くのも
否だと強情をお張り遊ばしたものですから、お宅が大層に揉めて、
親御さまがそんなら約束でもした男があってそんな事を云うのだろうと、
怒っても、一人のお嬢様で斬る事も出来ませんから、太い奴だ、そういう訳なら柳島にも置く事が出来ない、
放逐するというので、只今では私とお嬢様と両人お
邸を出まして、
谷中の
三崎へ参り、だいなしの
家に
這入って居りまして、私が手内職などをして、どうか
斯うか暮しを付けていますが、お嬢様は毎日々々お念仏
三昧で入らっしゃいますよ、今日は盆の事ですから、
方々お参りにまいりまして、
晩く帰る
処でございます」
新「なんの事です、そうでございますか、
私も嘘でも
何でもありません、此の通りお嬢さまの俗名を書いて毎日念仏しておりますので」
米「それ程に思って下さるは誠に有難うございます、本当にお嬢様は
仮令御勘当に成っても、斬られてもいゝから貴方のお
情を受けたいと仰しゃって入らっしゃるのですよ、そしてお嬢様は今晩
此方へお泊め申しても宜しゅうございますかえ」
新「
私の
孫店に住んで居る、
白翁堂勇齋という
人相見が、万事
私の世話をして
喧ましい奴だから、それに知れないように裏からそっとお這入り遊ばせ」
と云う言葉に随い、両人共に其の晩泊り、
夜の明けぬ内に帰り、是より雨の
夜も風の夜も毎晩来ては夜の明けぬ内に帰る事十三日より十九日まで
七日の間重なりましたから、両人が仲は
漆の如く
膠の如くになりまして新三郎も
現を抜かして居りましたが、こゝに萩原の
孫店に住む伴藏というものが、聞いていると、毎晩萩原の
家にて
夜夜中女の
話声がするゆえ、伴藏は変に思いまして、旦那は人がよいものだから悪い女に掛り、
騙されては困ると、
密と抜け出て、萩原の
家の戸の側へ行って家の様子を見ると、座敷に
蚊帳を吊り、
床の上に
比翼※[#「蓙」の左の「人」に代えて「口」、52-11]を敷き、新三郎とお露と並んで坐っているさまは
真の夫婦のようで、今は耻かしいのも何も
打忘れてお互いに
馴々しく、
露「アノ新三郎様、
私が
若し親に勘当されましたらば、米と両人をお
宅へ置いて下さいますかえ」
新「
引取りますとも、
貴方が勘当されゝば私は
仕合せですが、一人娘ですから御勘当なさる
気遣いはありません、
却って
後で
生木を
割かれるような事がなければ
宜いと思って私は苦労でなりませんよ」
露「
私は貴方より
外に
夫はないと存じておりますから、
仮令此の事がお
父さまに知れて
手打に成りましても、貴方の事は思い切れません、お見捨てなさるときゝませんよ」
と膝に
凭れ掛りて
[#「凭れ掛りて」は底本では「恁れ掛りて」]睦ましく話をするは、
余ぽど
惚れている様子だから。
伴「これは妙な女だ、あそばせ言葉で、どんな女かよく見てやろう」
と差し
覗いてハッとばかりに驚き、
「
化物だ/\」
と云いながら
真青になって夢中で
逃出し、白翁堂勇齋の
処へ
往こうと思って
駈出しました。
七
飯島家にては忠義の孝助が、お國と源次郎の
奸策の
一伍一什を
立聞致しまして、孝助は自分の部屋へ帰り、もう是までと思い詰め、
姦夫姦婦を殺すより
外に
手段はないと忠心一
途に思い込み、それに
就ては
仮令己は死んでも此のお
邸を出まい、殿様に
御別条のないように仕ようと、是から加減が悪いとて
引籠っており、
翌朝になりますと殿様はお帰りになり、残暑の強い時分でありますから、お國は殿様の側で出来たてのお
供見たように、
団扇であおぎながら、
國「殿様御機嫌
宜しゅう、
私はもう殿様にお暑さのお
中りでもなければよいと毎日心配ばかりしています」
飯「留守へ
誰も参りは致さなかったか」
國「あの
相川さまが
一寸お目通りが致したいと仰しゃって、お待ち申して居ります」
飯「ほウ相川
新五兵衞が、又医者でも頼みに参ったのかも知れん、いつもながら
粗忽かしい爺さんだよ、まア
此方へ通せ」
と云っていると相川は
「ハイ御免下さい」
と遠慮もなく案内も乞わず、ズカ/\奥へ通り、
相「殿様お帰りあそばせ、御機嫌さま、誠に存外の御無沙汰を致しました、
何時も相変らず
御番疲れもなく、
日々御苦労さまにぞんじます、厳しい残暑でございます」
飯「誠に熱い事で、おとくさまの御病気は
如何でござるな」
相「娘の病気もいろ/\と心配も致しましたが、何分にも
捗々しく参りませんで、それに
就て誠にどうも
······アヽ熱い、お國さま
先達ては誠に御馳走様に
相成りまして有難う、まだお礼もろく/\申上げませんで、へえ、アヽ熱い、誠に熱い、どうも熱い」
飯「まア少し
落着けば風が
這入って随分凉しくなります」
相「
折入って殿様にお願いの事がございまして、
罷出ました、
何うかお
聞済を願います」
飯「はてナ、どういう事で」
相「お國様やなにかには少々お話が
出来兼ますから、どうか
御近習の方々を皆遠ざけて戴きとう存じます」
飯「左様か
宜しい、皆あちらへ参り、
此方へ参らん様にするが宜しい、シテ
何ういうことで」
相「さて殿様、今日
態々出ましたは折入って殿様にお願い申したいは娘の病気の事に
就て出ましたが、御存じの通り
彼れの病気も永い事で、
私も
種々と心配いたしましたけれども、病の様子が
判然と解りませんでしたが、よう/\ナ昨晩当人が
私の病は実は
是々の訳だと申しましたから、なぜ早く云わん、けしからん奴だ、不孝ものであると小言は申しましたが、
彼れは七歳の時母に別れ今年十八まで男の手に丹誠して育てましたにより、あの通りの
初心な奴で何もかも知らん奴だから、そこが親馬鹿の
譬の通りですが、殿様訳をお話し申してもお笑い下さるな、お
蔑み下さるな」
飯「どういう御病気で」
相「手前一人の娘でございますから、早くナ
婿でも貰い、楽隠居がしたいと思い、日頃信心
気のない
私なれども、娘の病気を治そうと思い、夏とは云いながら此の老人が水をあびて
神仏へ祈るくらいな訳で、ところが昨夜娘のいうには、
私の病気は実は
是々といいましたが、其の事は
乳母にも云われないくらいな訳ですが、
其処が親馬鹿の
譬の通り、お
蔑み下さるな」
飯「どういう御病気ですな」
相「
私もだん/\と心配をいたして、どうか治してやりたいと心得、いろ/\医者にも掛けましたが、知れない訳で、是ばかりは神にも仏にも仕ようがないので、なぜ早く云わんと申しました」
飯「どういう訳で」
相「誠に申しにくい訳で、お笑い成さるな」
飯「
何だかさっぱりと訳が解りませんね」
相「実は殿様が日頃お
誉めなさる
此方の孝助殿、あれは忠義な者で、以前は
然るべき侍の
胤でござろう、今は
零落て草履取をしていても、
志は親孝行のものだ、
可愛いものだと殿様がお誉めなされ、あれには兄弟も
親族もない者だから、
行々は
己が
里方に成って
他へ養子にやり、相応な侍にしてやろうと仰しゃいますから、
私も
折々は
宅の家来
善藏などに、飯島様の孝助殿を見習えと叱り付けますものだから、台所のおさんまでが孝助さんは
男振もよし人柄もよし、優しいと誉め、
乳母までが
彼是と誉めはやすものだから、娘も、殿様お笑い下さるな、私は汗の出るほど
耻入ります、実は
疾くより娘があの孝助殿を
見染め、
恋煩いをして居ります、誠に
面目ない、それをサ
婆アにもいわないで、
漸く昨夜になって申しましたから、なぜ早く云わん、一
合取っても武士の娘という事が
浄瑠璃本にもあるではないか、侍の娘が男を見染めて恋煩いをするなどとは不孝ものめ、
仮令一人の娘でも手打にする
処だが、
併し
紺看板に
真鍮巻の木刀を差した見る影もない者に惚れたというのは、孝助殿の男振の
好いのに惚れたか、又は姿の好いのに惚れ込んだかと難じてやりました、そうすると娘がお
父さま実は孝助殿の男振にも姿にも惚れたのではございません、
外に
唯一つの
見所がありますからと
斯ういいますから、
何処に見所があると聞きますと、あのお忠義が見所でございます、
主へ忠義のお方は、親にも孝行でございましょうねえ、といいましたから、それは親に孝なるものは主へ忠義、主へ忠なるものは親へは必ず孝なるものだといいますと、娘が
私の
家はお
高は
僅か百俵二
人扶持ですから、
他家から御養子をしてお父さまが御隠居をなさいましても、もし其の御養子が心の良くない人でも来た其の時は、
此方の高が少ないから、私の肩身が狭く、
遂にはそれがために私までが、
倶にお父さまを不孝にするように成っては済みません、私も只今まで御恩を受けましたにより
何うか不孝をしたくない、
就きましては
仮令草履取でも家来でも志の正しい人を養子にして、夫婦諸共親に孝行を
尽したいと思いまして、孝助殿を見染め、寝ても覚めても諦められず、遂に病となりまして誠に相済みません、と涙を流して申しますから、私も
至極尤もの様にも聞えますから、兎に角お願いに出て、殿様から孝助殿を申受けて来ようと云って参りましたが、どうかあの孝助殿を手前の養子に下さるように願います」
飯「それはまア有難いこと、差上げたいね」
相「ナニ下さる、あゝ有難かった」
飯「だが一応当人へ
申聞けましょう、
嘸悦ぶ事で、孝助が得心の上で
確と御返事を申上げましょう」
相「孝助殿は
宜しい、
貴方さえ
諾と仰しゃって下さればそれで宜しい」
飯「私が養子に参るのではありませんから、そうはいかない」
相「孝助殿はいやと云う
気遣いは決してありません、
唯殿様から孝助行ってやれとお声掛りを願います、あれは忠義ものだから、殿様のお言葉は
背きません、
私も当年五十五歳で、娘は十八になりましたから早く養子をして身体を固めてやりたい、殿様どうか願います」
飯「宜しい、差上げましょう、
御胡乱に
思召すならば
金打でも致そうかね」
相「そのお言葉ばかりで沢山、有難うございます、早速娘に申し聞けましたら、
嘸悦ぶ事でしょう、これがね殿様が孝助に一応申し聞けて返事をするなどと仰しゃると、又娘が心配して、
仮令殿様が下さる気でも孝助殿が
何うだかなどゝ申しましょうが、そうはっきり事が
定れば、娘は嬉しがって飯の五六杯位も食べられ、一
足飛に病気も全快致しましょう、善は急げの
譬で、
明日御番帰りに
結納の取りかわせを致しとう存じますから、どうか孝助殿をお供に連れてお出で下さい、娘にも
一寸逢わせたい」
飯「まア
一献差上げるから」
と云っても相川は大喜びで、汗をダク/\流し、早く娘に此の事を聞かせとうございますから、今日はお
暇を申しましょうと云いながら、帰ろうとして、
「アイタ、柱に頭をぶっつけた」
飯「そゝっかしいから
誰か見て上げな」
飯島平左衞門も心嬉しく、鼻
高々と、
飯「孝助を呼べ」
國「孝助は不快で引いて居ります」
飯「不快でも宜しい、
一寸呼んでまいれ」
國「お竹どん/\、孝助を一寸呼んでおくれ、殿様が御用がありますと」
竹「孝助どん/\、殿様が召しますよ」
孝「へい/\只今
上ります」
と云ったが、額の
疵があるから出られません。けれども忠義の人ゆえ、殿様の御用と聞いて額の疵も
打忘れて出て参りました。
飯「孝助
此処へ来い/\、皆あちらへ参れ、
誰もまいる事はならんぞ」
孝「
大分お熱うございます、殿さまは毎日の御番疲れもありは致すまいかと心配をいたして居ります」
飯「
其方は加減がわるいと云って
引籠っているそうだが、どうじゃナ、手前に少し話したいことがあって呼んだのだ、
外の事でもないが、
水道端の相川におとくという今年十八になる娘があるナ、器量も人並に
勝れ
殊に孝行もので、あれが手前の忠義の志に感服したと見えて、手前を思い詰め、
煩っているくらいな訳で、是非手前を養子にしたいとの頼みだから行ってやれ」
と孝助の顔を見ると、額に傷があるから、
飯「孝助どう致した、額の
疵は」
孝「へい/\」
飯「
喧嘩でもしたか、
不埓な奴だ、出世前の大事の身体、殊に
面体に疵を受けているではないか、
私の
遺恨で身体に疵を付けるなどとは不忠者め、是が
一人前の侍なれば再び門を
跨いで
邸へ帰る事は出来ぬぞ」
孝「喧嘩を致したのではありません、お使い先で
宮邊様の
長家下を通りますと、屋根から
瓦が落ちて額に
中り、
斯様に
怪我を致しました、悪い瓦でございます、お
目障りに成って誠に
恐入ります」
飯「屋根瓦の傷ではない様だ、まアどうでもいゝが、
併し必ず喧嘩などをして疵を受けてはならんぞ、手前は
真直な気性だが、向うが曲って来れば真直に
行く事は出来まい、それだから
其処を
避けて通るようにすると広い所へ出られるものだ、
何でも
堪忍をしなければいけんぞ、堪忍の
忍の字は
刃の下に心を書く、一ツ動けばむねを斬るごとく何でも
我慢が
肝心だぞよ、奉公するからは主君へ上げ置いた身体、主人へ上げると心得て忠義を
尽すのだ、決して
軽挙の事をするな、曲った奴には
逆うなよ」
という意見が一々胸に
堪えて、孝助は
唯へい/\有難うございますと
泣々、
孝「殿様来月四日に中川へ
釣に
入っしゃると承わりましたが、此の
間お嬢様がお亡くなり遊ばして
間もない事でございますから、
何うか釣をお
止め下さいますように、
若しもお怪我があってはいけませんから」
飯「釣が悪ければやめようよ、決して心配するな、今云った通り相川へ行ってやれよ」
孝「
何方へかお
使に参りますのですか」
飯「
使じゃアない、相川の娘が手前を見染めたから養子に行って
遣れ」
孝「へえ成程、相川様へどなたが御養子になりますのです」
飯「なアに手前が
往くのだ」
孝「
私はいやでございます」
飯「べらぼうな奴だ手前の身の出世になる事だ、是ほど結構な事はあるまい」
孝「
私は
何時までも殿様の側に生涯へばり附いております、ふつゝかながら
片時も殿さまのお側を放さずお置き下さい」
飯「そんな事を云っては困るよ、
己がもう
請けをした、
金打をしたから仕方がない」
孝「金打をなすッてもいけません」
飯「それじゃア己が相川に済まんから腹を切らんければならん」
孝「腹を切っても構いません」
飯「主人の言葉を
背くならば
永の
暇を出すぞ」
孝「お暇に成っては
何にもならん、そういう訳でございますならば、ちょっと
一言ぐらい
斯う云う訳だと
私にお話し下さっても
宜しいのに」
飯「それは己が悪かった、此の通り板の間へ手を突いて
謝るから行ってやれ」
孝「そう仰しゃるなら仕方がありませんから
取極めだけして置いて、身体は十年が
間参りますまい」
飯「そんな事が出来るものか、
翌日結納を
取交わす積りだ、向うでも来月初旬に婚礼を致す積りだ」
との事を聞いて孝助の考えまするに、己が養子にゆけば、お國と源次郎と両人で殿様を殺すに違いないから、今夜にも両人を
槍で
突殺し、其の場で己も腹
掻切って死のうか、そうすれば是が御主人様の顔の見納め、と思えば
顔色も青くなり、主人の顔を見て涙を流せば、
飯「解らん奴だな、相川へ参るのはそんなに
厭か、相川はつい鼻の先の水道端だから毎日でも
往来の出来る所、何も
気遣う事はない、手前は気強いようでもよく泣くなア、
男子たるべきものがそんな
意気地がない魂ではいかんぞ」
孝「殿様
私は御当家様へ三月五日に御奉公に参りましたが、
外に兄弟も親もない奴だと仰しゃって目を掛けて下さる、其の御恩の程は私は死んでも忘れは致しませんが、殿様はお酒を召上ると正体なく
御寝なさる、又召上らなければ御寝なられません故、少し
上って下さい、余りよく御寝なると、どんな英雄でも、随分悪者の為に
如何なる目に逢うかも知れません、殿様決して御油断はなりません、私はそれが心配でなりません、それから藤田様から参りましたお薬は、どうか
隔日に召上って下さい」
飯「なんだナ、
遠国へでも
行くような事を云って、そんな事は云わんでもいゝわ」
八
萩原の
家で女の声がするから、伴藏が
覗いて
恟りし、ぞっと足元から
総毛立ちまして、物をも云わず勇齋の所へ
駆込もうとしましたが、怖いから
先ず自分の
家へ帰り、小さくなって寝てしまい、
夜の明けるのを
待兼て白翁堂の
宅へやって参り、
伴「先生々々」
勇「誰だのウ」
伴「伴藏でごぜえやす」
勇「なんだのウ」
伴「先生
一寸こゝを明けて下さい」
勇「大層早く起きたのウ、お
前には珍らしい
早起だ、待て/\今明けてやる」
と
掛鐶を
外し明けてやる。
伴「大層
真暗ですねえ」
勇「まだ
夜が明けきらねえからだ、それに
己は
行灯を消して寝るからな」
伴「先生静かにおしなせえ」
勇「
手前が
慌てゝいるのだ、なんだ何しに来た」
伴「先生萩原さまは大変ですよ」
勇「
何うかしたか」
伴「何うかしたかの
何のという騒ぎじゃございやせん、
私も先生も
斯うやって萩原様の地面
内に
孫店を借りて、お互いに
住っており、其の内でも私は
尚お萩原様の家来同様に畑をうなったり庭を掃いたり、使い
早間もして、
嚊は
洒ぎ洗濯をしておるから、
店賃もとらずに
偶には
小遣を貰ったり、
衣物の古いのを貰ったりする恩のある其の大切な萩原様が大変な訳だ、毎晩女が泊りに来ます」
勇「若くって
独身者でいるから、随分女も泊りに来るだろう、
併し其の女は人の悪いようなものではないか」
伴「なに、そんな訳ではありません、
私が今日用が有って
他へ行って、
夜中に
帰ってくると、萩原様の
家で女の声がするから
一寸覗きました」
勇「わるい事をするな」
伴「するとね、
蚊帳がこう
吊ってあって、其の中に萩原様と綺麗な女がいて、其の女が見捨てゝくださるなというと、生涯見捨てはしない、
仮令親に勘当されても
引取って女房にするから決して心配するなと萩原様がいうと、女が
私は親に殺されてもお
前さんの側は放れませんと、互いに話しをしていると」
勇「いつまでもそんな所を見ているなよ」
伴「ところがねえ、其の女が
唯の女じゃアないのだ」
勇「悪党か」
伴「なに、そんな訳じゃアない、骨と皮ばかりの
痩せた女で、髪は島田に結って
鬢の毛が顔に
下り、
真青な顔で、
裾がなくって腰から上ばかりで、骨と皮ばかりの手で萩原様の首ったまへかじりつくと、萩原様は嬉しそうな顔をしていると其の側に
丸髷の女がいて、
此奴も
痩て骨と皮ばかりで、ズッと
立上って
此方へくると、
矢張裾が見えないで、腰から上ばかり、
恰で絵に
描いた幽霊の通り、それを
私が見たから怖くて歯の根も合わず、
家へ逃げ
帰って今まで黙っていたんだが、
何ういう訳で萩原様があんな幽霊に見込まれたんだか、さっぱり訳が分りやせん」
勇「伴藏本当か」
伴「ほんとうか嘘かと云って馬鹿/\しい、なんで嘘を云いますものか、嘘だと思うならお前さん今夜行って御覧なせえ」
勇「
己アいやだ、ハテナ昔から幽霊と
逢引するなぞという事はない事だが、
尤も支那の小説にそういう事があるけれども、そんな事はあるべきものではない、伴藏嘘ではないか」
伴「だから嘘なら行って御覧なせえ」
勇「もう
夜も明けたから幽霊なら居る
気遣いはない」
伴「そんなら先生、幽霊と一緒に寝れば萩原様は死にましょう」
勇「それは必ず死ぬ、人は生きている内は陽気盛んにして正しく清く、死ねば陰気盛んにして
邪に
穢れるものだ、それゆえ幽霊と共に
偕老同穴の
契を結べば、
仮令百歳の長寿を保つ命も其のために
精血を減らし、必ず死ぬるものだ」
伴「先生、人の死ぬ前には
死相が出ると聞いていますが、お前さん
一寸行って萩原様を見たら知れましょう」
勇「手前も萩原は恩人だろう、
己も新三郎の親萩原
新左衞門殿の代から懇意にして、
親御の死ぬ時に新三郎殿の事をも頼まれたから心配しなければならない、此の事は決して世間の人に云うなよ」
伴「えゝ/\
嚊にも云わない位な訳ですから、
何で世間へ云いましょう」
勇「
屹度云うなよ、黙っておれ」
其の内に
夜もすっかり明け
放れましたから、親切な白翁堂は
藜の杖をついて、伴藏と一緒にポク/\出懸けて、萩原の内へまいり、
「萩原
氏々々」
新「
何方様でございます」
勇「隣の白翁堂です」
新「お早い事、年寄は
早起だ」
なぞと云いながら戸を
引明け
「お早う入らっしゃいました、何か御用ですか」
勇「
貴方の人相を見ようと思って来ました」
新「朝っぱらから
何でございます、一つ地面
内におりますから
何時でも見られましょうに」
勇「そうでない、お日さまのお
上りになろうとする所で見るのが
宜いので、貴方とは
親御の時分から
別懇にした事だから」
と
懐より
天眼鏡を取出して、萩原を見て。
新「なんですねえ」
勇「萩原氏、貴方は
二十日を待たずして必ず死ぬ
相がありますよ」
新「へえ
私が死にますか」
勇「必ず死ぬ、なか/\不思議な事もあるもので、どうも仕方がない」
新「へえそれは困った事で、それだが先生、人の死ぬ時はその前に死相の出るという事は
予ねて承わって居り、
殊に
貴方は人相見の名人と聞いておりますし、又昔から
陰徳を
施して寿命を全くした話も聞いていますが、先生どうか死なゝい工夫はありますまいか」
勇「其の工夫は別にないが、毎晩貴方の所へ来る女を遠ざけるより
外に仕方がありません」
新「いゝえ、女なんぞは来やアしません」
勇「そりゃアいけない、昨夜
覗いて見たものがあるのだが、あれは一体何者です」
新「あなた、あれは御心配をなさいまする者ではございません」
勇「是程心配になる者はありません」
新「ナニあれは牛込の飯島という
旗下の娘で、訳あってこの節は谷中の三崎村へ、米という女中と二人で暮しているも、
皆な
私ゆえに苦労するので、死んだと思っていたのに此の間
図らず出逢い、其の
後は
度々逢引するので、私はあれを
行く/\は女房に貰う積りでございます」
勇「飛んでもない事をいう、毎晩来る女は幽霊だがお前知らないのだ、死んだと思ったなら
猶更幽霊に違いない、其のマア女が糸のように
痩せた骨と皮ばかりの手で、お前さんの首ッたまへかじり付くそうだ、そうしてお前さんは其の三崎村にいる女の
家へ行った事があるか」
といわれて行った事はない、逢引したのは今晩で七日目ですが。というものゝ、白翁堂の話に萩原も少し気味が悪くなったゆえ
顔色を変え。
新「先生、そんなら是から三崎へ行って調べて来ましょう」
と
家を
立出で、三崎へ参りて、女暮しで
斯ういう者はないかと段々尋ねましたが、一向に知れませんから、尋ねあぐんで帰りに、
新幡随院を通り抜けようとすると、お堂の
後に
新墓がありまして、それに大きな
角塔婆が有って、その前に牡丹の花の綺麗な灯籠が雨ざらしに成ってありまして、此の灯籠は毎晩お米が
点けて来た灯籠に違いないから、新三郎はいよ/\
訝しくなり、お寺の台所へ廻り、
新「少々
伺いとう存じます、あすこの
御堂の
後に新らしい牡丹の花の灯籠を
手向けてあるのは、あれは
何方のお墓でありますか」
僧「あれは牛込の
旗下飯島平左衞門様の娘で、
先達て亡くなりまして、全体
法住寺へ葬むる
筈のところ、当院は
末寺じゃから
此方へ葬むったので」
新「あの側に並べてある墓は」
僧「あれはその娘のお
附の女中で是も引続き看病疲れで死去いたしたから、一緒に葬られたので」
新「そうですか、それでは全く幽霊で」
僧「なにを」
新「なんでも
宜しゅうございます、左様なら」
と云いながら
恟りして
家に駈け戻り此の
趣を白翁堂に話すと、
勇「それはまア妙な訳で、驚いた事だ、なんたる因果な事か、惚れられるものに事を替えて幽霊に惚れられるとは」
新「
何うもなさけない訳でございます、今晩もまたまいりましょうか」
勇「それは分らねえな、約束でもしたかえ」
新「へえ、あしたの晩
屹度来ると、約束をしましたから、今晩
何うか先生泊って下さい」
勇「
真平御免だ」
新「占いでどうか来ないようになりますまいか」
勇「占いでは幽霊の
所置は出来ないが、あの新幡随院の和尚は中々に
豪い人で、念仏修業の行者で私も懇意だから手紙をつけるゆえ、和尚の所へ行って頼んで御覧」
と手紙を書いて萩原に渡す。萩原はその手紙を持ってやってまいり、
「
何うぞ此の書面を
良石和尚様へ上げて下さいまし」
と、差出すと、良石和尚は白翁堂とは別ならぬ間柄ゆえ、手紙を見て
直に萩原を居間へ通せば、和尚は木綿の座蒲団に
白衣を着て、其の上に茶色の
衣を着て、当年五十一歳の名僧、
寂寞としてちゃんと坐り、中々に道徳いや高く、念仏三昧という
有様で、新三郎は
自然に頭が
下る。
良「はい、お前が萩原新三郎さんか」
新「へえ
粗忽の浪士萩原新三郎と申します、白翁堂の書面の通り、
何の因果か死霊に悩まされ
難渋を致しますが、貴僧の
御法を
以て死霊を退散するようにお願い申します」
良「
此方へ来なさい、お前に死相が出たという書面だが、見てやるから此方へ来なさい、成程死ぬなア
近々に死ぬ」
新「
何うかして死なゝいように願います」
良「お前さんの因縁は深しい訳のある因縁じゃが、それをいうても本当にはせまいが、何しろ
口惜くて
祟る幽霊ではなく、
只恋しい/\と思う幽霊で、三
世も四世も前から、ある女がお前を思うて生きかわり死にかわり、
容は
種々に変えて
附纒うて
居るゆえ、
遁れ
難い悪因縁があり、どうしても遁れられないが、死霊
除のために
海音如来という大切の守りを貸してやる、其の内に折角
施餓鬼をしてやろうが、其のお
守は
金無垢じゃに
依って人に見せると盗まれるよ、
丈は四寸二分で目方も余程あるから、慾の深い奴は
潰しにしても余程の
値だから盗むかも知れない、
厨子ごと貸すにより
胴巻に入れて置くか、身体に
脊負うておきな、それから又こゝにある
雨宝陀羅尼経というお経をやるから
読誦しなさい、此の経は宝を雨ふらすと云うお経で、是を読誦すれば宝が雨のように降るので、
慾張たようだが決してそうじゃない、是を信心すれば海の音という如来さまが降って来るというのじゃ、この経は
妙月長者という人が、貧乏人に金を
施して悪い病の
流行る時に救ってやりたいと思ったが、宝がないから仏の力を
以て金を貸してくれろと云った所が、
釋迦がそれは誠に
心懸の
尊い事じゃと云って貸したのが
即ちこのお経じゃ、又
御札をやるから
方々へ
貼って置いて、幽霊の
入り
所のないようにして、そしてこのお経を読みなさい」
と親切の言葉に萩原は有がたく礼を述べて
立帰り、白翁堂に其の事を話し、それから白翁堂も手伝って其の御札を
家の四方八方へ貼り、萩原は
蚊帳を吊って其の中へ入り、
彼の陀羅尼経を読もうとしたが中々読めない。
曩謨婆
帝
駄
、
婆
捏具灑耶、
怛陀
多野、
怛
也陀
素噌閉、
跋捺
底。
※
※阿左※阿左跛※[#「目+(離れたくさかんむり/(罘−不)/冖/目)」、74-2][#「口+「隸」の「木」に代えて「ヒ」、74-2][#「口+「隸」の「木」に代えて「ヒ」、74-2][#「口+「隸」の「木」に代えて「ヒ」74-2]。
何だか外国人の
譫語の様で訳がわからない。其の
中上野の
夜の八ツの
鐘がボーンと
忍ヶ
岡の池に響き、
向ヶ
岡の清水の流れる音がそよ/\と聞え、山に当る秋風の音ばかりで、
陰々寂寞世間がしんとすると、いつもに変らず
根津の清水の
下から
駒下駄の音高くカランコロン/\とするから、新三郎は心のうちで、ソラ来たと小さくかたまり、
額から
腮へかけて
膏汗を流し、一生懸命一心不乱に
雨宝陀羅尼経を読誦して居ると、駒下駄の音が
生垣の元でぱったり
止みましたから、新三郎は
止せばいゝに念仏を唱えながら蚊帳を出て、そっと戸の節穴から
覗いて見ると、いつもの通り牡丹の花の灯籠を下げて米が先へ立ち、
後には髪を文金の
高髷に結い上げ、
秋草色染の
振袖に燃えるような
緋縮緬の
長襦袢、其の綺麗なこと云うばかりもなく、綺麗ほど
猶怖く、これが幽霊かと思えば、萩原は此の世からなる
焦熱地獄に落ちたる苦しみです、萩原の
家は四方八方にお札が貼ってあるので、二人の幽霊が
憶して
後へ
下り、
米「嬢さまとても入れません、萩原さんはお心変りが遊ばしまして、昨晩のお言葉と違い、
貴方を入れないように戸締りがつきましたから、
迚も入ることは出来ませんからお諦め遊ばしませ、心の変った男は迚も入れる
気遣いはありません、心の腐った男はお諦めあそばせ」
と慰むれば、
嬢「あれ程迄にお約束をしたのに、今夜に限り戸締りをするのは、男の心と秋の空、変り果てたる萩原様のお心が
情ない、米や、どうぞ萩原様に逢わせておくれ、逢わせてくれなければ私は帰らないよ」
と振袖を顔に当て、
潜々と泣く様子は、美しくもあり又
物凄くもなるから、新三郎は何も云わず、
只だ
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
米「お嬢様、あなたが是程までに慕うのに、萩原様にゃアあんまりなお方ではございませんか、
若しや裏口から
這入れないものでもありますまい、入らっしゃい」
と手を取って裏口へ廻ったが
矢張這入られません。
九
飯島の
家では妾のお國が、孝助を追出すか、しくじらするように
種々工夫を
凝し、この事ばかり寝ても覚めても考えている、悪い奴だ。殿様は翌日
御番でお
出向に成った
後へ、
隣家の源次郎がお早うと云いながらやって来ましたから、お國はしらばっくれて、
國「おや、いらっしゃいまし、引続きまして残暑が強く皆様御機嫌よろしゅう、
此方は風がよく入りますからいらっしゃいまし」
源次郎は小声になり、
「孝助は
昨夜の事を
喋りはしないかえ」
國「いえサ、孝助が
屹度告口をしますだろうと思いましたに、告口をしませんで、殿様に屋根瓦が落ちて頭へ当り怪我をしたと云ってね、其の時
私は弓の
折で
打たれたと云わなければよいと胸が
悸動しましたが、あの事は
何とも云いませんが、云わずにいるだけ
訝しいではありませんか」
と小声で云って、
態と大声で、
國「お熱い事この節のように熱くっては仕方がありません」
又小声になり。
國「いえ、それに水道端の相川新五兵衞様の一人娘のお徳様が、
宅の草履取の孝助に恋煩いをしているとサ、まア本当に
茶人も有ったものですねえ、馬鹿なお嬢様だよ、それからあの相川の爺さんが汗をだく/\流しながら、殿様に願って孝助をくれろと頼むと、殿様も
贔屓の孝助だから上げましょうと相談が出来まして、相川は帰りましたのですよ、そうして、今日は相川で結納の
取交せになるのですとさ」
源「それじゃア
宜しい、孝助が
往って仕舞えば
仔細はない」
國「いえサ、水道端の相川へ養子にやるのに、
宅の殿様がお里に
成って
遣るのだからいけませんよ、そうすると、
彼奴が此の
家の息子の
風をしましょう、草履取でさえ随分ツンケンした奴だから、そうなれば
屹度この間の
意趣を返すに違いはありません、
何でも彼奴が一件を
立聞したに違いないから、
貴方何うかして孝助
奴を殺して下さい」
源「彼奴は剣術が出来るから
己には殺せないよ」
國「貴方は
何故そう剣術がお下手だろうねえ」
源「いゝや、それには旨い事がある、相川のお嬢には
宅の
相助という若党が大層に惚れて居るから、
彼を旨く
欺し、孝助と喧嘩をさせて置き、
後で喧嘩両成敗だから、
己らの方で相助を追い出せば、伯父さんも義理で孝助を出すに違いないが、
就いちゃア
明日伯父
様と一緒に帰って来ては困るが、孝助が
独で先へ帰る訳には出来まいか」
國「それは訳なく出来ますとも、
私が殿様に用がありますから先へ帰して下さいましといえば、
屹度先へ帰して下さるに違いはありませんから、
大曲りあたりで
待伏せて
彼奴をぽか/\お
擲りなさい」
大声を出して、
國「誠におそう/\様で、左様なら」
源次郎は屋敷に帰ると
直に男部屋へ参ると、相助は少し
愚者で、鼻歌でデロレンなどを唄っている所へ源次郎が来て、
源「相助、大層精が出るのう」
相「オヤ
御二男様、誠に日々お熱い事でございます、当年は別してお熱いことで」
源「熱いのう、
其方は感心な奴だと常々兄上も
褒めていらっしゃる、
主用がなければ
自用を足し、少しも身体に
隙のない男だと仰しゃっている、それに手前は国に別段
親族もない事だから、当家が里になり、大した所ではないが相応な侍の
家へ養子にやる積りだよ」
相「恐れ入ります、
何ともはや誠にどうも恐れ入りますなア、殿様と申し
貴方と申し、
不束な
私をそれ程までに、これははや口ではお礼が述べきれましねえ、何ともヘイ分らなく有難うございます、それだが武士に成るにゃア私もいろはのいの字も知んねえもんだから誠に困るんで」
源「実は貴様も知っている水道端の相川のう、
彼処にお徳という十八ばかりの娘があるだろう、貴様を彼処の養子に世話をしてやろうと兄上が仰しゃった」
相「これははやモウどうも、本当でごぜえますか、はやどうも、あのくれえなお嬢様は世間にはないと思います、
頬辺などはぽっとして尻などがちま/\として、あのくれえな
美いお嬢様はたんとはありましねえ」
源「向うは
高が
寡ないから、若党でも
何でもよいから、堅い者なればというのだから、手前なれば
極よかろうとあらまし相談が整った所が、隣の草履取の孝助めが胡麻をすった為に、縁談が破談となってしまった、孝助が相川の男部屋へ行ってあの相助はいけない奴で、
大酒飲で、酒を飲むと前後を失ない、主人の見さかいもなく頭をぶち、女郎は買い、
博奕は打ち、其の上
盗人根性があると云ったもんだから、相川も
厭気になり、話が
縺れて、今度は
到頭孝助が相川の養子になる事に
極り、今日結納の
取交せだとよ、向うでは草履取でさえ欲しがるところだから、手前なれば
真鍮でも二本さす身だから、きっと
宜かったに違いはない、孝助は憎い奴だ」
相「なんですと、孝助が養子になると、
憎こい奴でごじいます、人の
恋路の邪魔をすればッて、
私が盗人根性があって、お負けに御主人の頭を
打すと、
何時私が御主人の頭を打しました」
源「
己に理窟を云っても仕方がない」
相「残念、腹が立ちますよ、
憎こい孝助だ。
只置きましねえ」
源「喧嘩しろ/\」
相「喧嘩しては
叶いましねえ、
彼奴は
剣術が
免許だから剣術は
迚も及びましねえ」
源「それじゃア
田中の
中間の喧嘩の
龜藏という奴で、身体中
疵だらけの奴がいるだろう、
彼と
藤田の
時藏と
両人に鼻薬をやって頼み、貴様と三人で、
明日孝助が相川の屋敷から一人で出て来る所を、大曲りで
打殺しても構わないから、ぽか/\
擲りにして川へ
投りこめ」
相「殺すのは
可愛相だが、
打してやりてえなア、だが喧嘩をした事が知れゝば
何うなりますか」
源「そうさ、喧嘩をした事が知れゝば、
己が兄上にそう云うと、兄上は
屹度不届な奴、相助を
暇にしてしまうと仰しゃってお暇に成るだろう」
相「お暇に成っては
詰りましねえ、
止しましょう」
源「だがのう、
此方で貴様に暇を出せば、隣でも義理だから孝助に暇を出すに違いない、
彼奴が暇になれば相川でも孝助は里がないから養子に貰う
気遣いはない、其の内此方では手前を先へ
呼返して相川へ養子にやる
積だ」
相「誠にお
前様、御親切が恐れ入り奉ります」
というから、源次郎は懐中より
金子若干を取出し、
源「金子をやるから龜藏たちと一杯呑んでくれ」
相「これははや
金子まで、これ戴いてはすみましねえ、折角の
思召しだから頂戴いたして置きます」
これから相助は龜藏と時藏の所へ
往き此の事を話すと、面白半分にやッつけろと、
手筈の相談を
取極めました。さて飯島平左衞門はそんな事とは知らず、孝助を供につれ、御番からお帰りに成りました。
國「殿様今日は相川様の所へ孝助の結納でお
出でになりますそうですが、少しお居間の御用が有りますからお送り申したら、孝助は殿様よりお先へお帰し下さいまし、用が済み次第
直に又お迎いに
遣わしましょう」
という飯島は
「よし/\」
と孝助を連れて相川の
宅へ参りましたが相川は
極小さい宅で、
孝「お頼み申します/\」
相「ドーレ、これ善藏や玄関に取次が有るようだ、善藏居ないか、
何処へ行ったんだ」
婆「あなた、善藏はお使いにおやり遊ばしたではありませんか」
相「
己が忘れた、牛込の飯島様がお
出でに成ったのかも知れない、煙草盆へ火を入れてお茶の用意をして置きな、多分孝助殿も一緒に来たかも知れないから、お徳に其の事を云いな、これ/\お前よく支度をして置け、己が出迎いをしよう」
と玄関まで出て参り、
相「これは殿様
大分お早くどうぞ
直にお
上りを願います、へい誠に此の通り見苦しい所孝助殿も、御挨拶は
後でします」
相川はいそ/\と一人で喜び、コッツリと柱に頭を
打付け、アイタヽ、兎に角
此方へと座敷へ通し、
「さて残暑お熱い事でございます、又
昨日は
上りまして御無理を願ったところ、早速にお
聞済み下され有がとう存じます」
飯「昨日はお
草々を申しました、
如何にもお急ぎなさいましたから
御酒も上げませんで、
大きにお草々申上げました」
相「あれから帰りまして娘に申し聞けまして、殿様がお承知の上孝助殿を
聟にとる事に極って、
明日は殿様お立合の上で結納
取交せになると云いますと、娘は
落涙をして悦びました、と云うと浮気の様ですが、そうではない、お
父様を大事に思うからとは云いながら、只今まで御苦労を掛けましたと申しますから、早く丈夫にならなければいけない孝助殿が来るからと申して、
直に薬を三
服立付けて飲ませました、それからお
粥を二膳半食べました、それから今日はナ娘がずっと気分が
癒って、お父様こんなに見苦しい
形でいては、孝助さまに
愛想を尽かされるといけませんからというので、化粧をする、婆アもお
鉄漿を附けるやら大変です、
私も
最早五十五歳ゆえ早く養子をして楽がしたいものですから、誠に耻入った次第でございますが、
早速のお
聞済み、誠に有難う存じます」
飯「あれから孝助に話しましたところ、当人も大層に悦び、
私の様な
不束者をそれ程までに
思召し下さるとは
冥加至極と申してナ、
大概当人も得心いたした様子でな」
相「いやもう、あの人は忠義だから
否でも殿様の仰しゃる事なら
唯と云って言う事を聞きます、あの位な忠義な人はない、
旗下八万騎の多い中にも恐らくはあの位な者は一人もありますまい、娘がそれを見込みましたのだ、善藏はまだ帰らないか、これ婆ア」
婆「なんでございます」
相「殿様に御挨拶をしないか」
婆「御挨拶をしようと思っても、
貴方がせか/\している者だから御挨拶する
間もありはしません、殿様、御機嫌
様よう
入っしゃいました」
飯「これは
婆やア、お徳様が長い
間御病気の所、早速の御全快誠にお目でたい、お前も心配したろう」
婆「お
蔭様で、
私はお嬢様のお
少さい時分からお側にいて、お気性も知って居りますのに
何とも仰しゃらず、
漸と此の間分ったので殿様に御苦労をかけました、誠に有がとうございます」
相「善藏はまだ帰らないか、長いなア、お菓子を持って来い、殿様御案内の通り手狭でございますから、何かちょっと
尾頭附で一
献差上げたいが、まアお聞き下さい、此の通り手狭ですからお座敷を別にする事も出来ませんから、孝助殿も
此処へ一緒にいたし、今日は
無礼講で御家来でなく、どうか御同席で
御酒を上げたい、孝助は
私が出迎えます」
飯「なに
私が呼びましょう」
相「ナアニあれは
私の大事な聟で、
死水を取ってもらう大事な養子だから」
と
立上り、玄関まで出迎え、
相「孝助殿誠に
宜く、いつもお
健に御奉公、今日はナ無礼講で、殿様の側で御酒、イヤなに酒は呑めないから御膳を
一寸上げたい」
孝「是は相川様御機嫌よろしゅう、承ればお嬢様は御不快の御様子、少しはお
宜しゅうございますか」
相「何を云うのだお前の女房をお嬢様だのお宜しいもないものだ」
飯「そんな事を云うと孝助が
間を
悪るがります、孝助折角の
思召し、御免を
蒙って
此方へ来い」
相「成程立派な男で、中々フウ、へえ、さて昨日は殿様に御無理を願い早速お
聞済み下さいましたが、
高は
寡なし娘は
不束なり、
舅は知っての通りの
粗忽者、実に
何と云って取る所はないだろうが、娘がお前でなければならないと
煩う迄に思い詰めたというと、浮気なようだが
然うではない、あれが
七歳の時母が死んで、それから十八まで
私が
育った者だから、あれも一人の親だと大事に思い、お前の心がけのよい、優しく忠義な所を見て思い詰め病となった程だ、どうかあんな奴でも見捨てずに
可愛がってやっておくれ、
私は
直にチョコ/\と隠居して、
隅の
方へ
引込んでしまうから、時々少々ずつ
小遣をくれゝばいゝ、それから
外に何もお前に譲る物はないが、
藤四郎吉光の
脇差が有る、
拵えは
野暮だが、それだけは私の
家に付いた物だからお前に譲る積りだ、出世はお前の器量にある」
飯「そういうと孝助が困るよ、孝助も誠に有難い事だが、少し仔細があって、今年一ぱい私の側で奉公したいと云うのが当人の
望だから、どうか当年一ぱいは私の手元に置いて、来年の二月に婚礼をする事に致したい、
尤も結納だけは今日致して置きます」
相「へい来年の二月では今月が七月だから、七八九十十一十二
正二と今から八ヶ月
間があるが、八ヶ月では
質物でも流れて仕舞うから、余り長いなア」
飯「それは深い訳が有っての事で」
相「成程、あゝ感服だ」
飯「お分りに成りましたか」
相「それだから孝助に娘の惚れるのも
尤もだ、娘より私が先へ惚れた、それは
斯うでしょう、今年一ぱい
貴方のお側で剣術を習い、免許でも取るような腕に成る積りだろう、
是れは
然うなくてはならない、孝助殿の思うにはなんぼ自分が
怜悧でも器量があるにした
処が、
少なくも
禄のある所へ養子にくるのだから
土産がなくてはおかしいと云うので、免許か目録の
書付を握って来る気だろう、それに違いない、あゝ感服、自分を
卑下した所が偉いねえ」
孝「殿様、
私は
一寸お屋敷へ帰って参ります」
相「
行くのは
御主用だから仕方がないが、何もないが
一寸御膳を上げます少し待ってお呉れ、善藏まだか、長いのう、だが孝助殿、又
直に帰って来るだろうが主用だから来られないかも知れないから、一寸奥の六畳へ行って徳に逢ってやっておくれ、徳が今日はお
白粉を
粧けて待っていたのだから、お前に逢わないと粧けたお白粉が
徒になってしまう」
飯「そう仰しゃると孝助が
間をわるがります」
相「兎に角アレサどうか一寸逢わせて」
飯「孝助あゝ仰しゃるものだから一寸お嬢様にお目通りして参れ、まだ
此方へ来ない
間は、手前は飯島の家来孝助だ、相川のお嬢様の所へ御病気見舞に
行くのだ、何をうじ/\している、お嬢様の御病気を
伺って参れ」
といわれ孝助は間を悪がってへい/\云っていると、
婆「
此方へどうぞ、御案内を致します」
とお徳の部屋へ連れて来る。
孝「これはお嬢様長らく御不快の
処、御様子は
如何様でございますか、お見舞を申し上げます」
婆「孝助様どうかお目を掛けられて下さいまし、お嬢様孝助様が入らっしゃいましたよ、アレマア
真赤に成って、今まで
貴方が御苦労をなすったお方じゃアありませんか、孝助様がお
出でに成ったらお
怨を云うと仰しゃったに、
唯真赤に成ってお尻で御挨拶なすってはいけません」
孝「お
暇を申します」
と挨拶をして主人の所へ参り、
孝「
一旦御用を
達して、早く済みましたら又
上ります」
相「困ったねえ、暗くなったが何が有るかえ」
孝「何がとは」
相「何サ
提灯があるかえ」
孝「提灯は持って居ります」
相「何が無いと困るがあるかえ、何サ
蝋燭があるかえ、何有るとえ、そんなら
宜しい」
孝助は
暇乞をして相川の
邸を
立出で、大曲りの方を通れば、前に申した三人が
待伏をして居るのだが、孝助の運が強かったと見え、
隆慶橋を渡り、
軽子坂から
邸へ帰って来た。
孝「只今帰りました」
というからお國は驚いた。なんでも今頃は孝助が大曲り辺で、三人の
中間に
真鍮巻の木刀で
打たれて殺されたろうと思っている所へ、
平常の通りで帰って来たから、
國「おや/\どうして帰ったえ」
孝「
貴方様がお居間の御用があるから帰れと仰しゃったから帰って参りました」
國「
何処から
何うお帰りだ」
孝「水道端を出て隆慶橋を渡り、軽子坂を
上って帰って来ました」
國「そうかえ、
私ゃ又今日は相川様でお前を
引留めて帰る事が出来まいと思ったから、御用は済ませて仕舞ったから、お前は
直に殿様のお迎いに
行っておくれ、そして
若しお前がお迎いに
行かない
間にお帰りになるかも知れないよ、お前
外の道を
行って、途中でお目に懸らないといけない、殿様は
何時でも大曲りの方をお通りになるから、あっちの方から
行けば途中で殿様にお目に懸るかも知れない、直に
行っておくれ」
孝「へい、そんなら帰らなければよかった」
と再び屋敷を
立出で、大曲りへかゝると、
中間三人は手に/\
真鍮巻の木刀を
捻くり待ちあぐんでいたのも道理、
来ようと思う
方から来ないで、
後の方から
花菱の
提灯を
提げて来るのを見付け、
慥に孝助と思い、相助はズッと進んで、
相「やい待て」
孝「誰だ、相助じゃねえか」
相「おゝ相助だ、貴様と喧嘩しょうと思って待っていたのだ」
孝「何をいうのだ、
唐突に、貴様と喧嘩する事は何もねえ」
相「
汝れ相川様へ
胡麻アすりやアがって、
己の養子になる邪魔をした、そればかりでなくおれの事を
盗人根性があると云やアがったろう、どう云う訳で胡麻を
摺って、
手前があのお嬢様の
処へ養子に
行こうとする、
憎い奴、
外の事とは違う、盗人根性があると云ったから喧嘩するから覚悟しろ」
と争って居る
横合から、龜藏が真鍮巻の木刀を持って、いきなり孝助の持っている提灯を叩き落す、提灯は地に落ちて燃え上る。
龜「
手前は新参者の癖に、殿様のお気に入りを鼻に懸け、大手を振って歩きやアがる、
一体貴様は気に入らねえ奴だ、この畜生め」
と云いながら孝助の
胸ぐらを取る。孝助は
此奴等は
徒党したのではないかと、
透して向うを見ると、
溝の
縁に今一人
踞んで居るから、孝助は
予ねて殿様が教えて下さるには、
敵手の大勢の時は
慌てると怪我をする、寝て働くがいゝと思い、胸ぐらを取られながら、龜藏の油断を見て
前袋に手がかゝるが早いか、孝助は自分の
体を
仰向けにして寝ながら、右の足を上げて龜藏の
睾丸のあたりを
蹴返せば、龜藏は
逆筋斗を打って
溝の縁へ投げ付けられるを、左の
方から時藏相助が打ってかゝるを、孝助はヒラリと
体を
引外し、腰に
差たる真鍮巻の木刀で相助の尻の
辺をドンと
打つ。相助
打たれて気が
逆上せ
上るほど痛く、眼も
眩み足もすわらず、ヒョロ/\と
遁出し
溝へ駆け込む。時藏も
打たれて同じく溝へ落ちたのを見て、
孝「やい、何をしやアがるのだ、サア
何奴でも
此奴でも来い飯島の家来には死んだ者は一
疋も居ねえぞ、お
印物の提灯を燃やしてしまって、殿様に
申訳がないぞ」
飯「まア/\もう
宜しい、心配するな」
孝「ヘイ、これは殿様どうしてこゝへ、
私がこんなに喧嘩をしたのを御覧遊ばして、又私が
失錯るのですかなア」
飯「相川の
方も用事が済んだから
立帰って来たところ、此の騒ぎ、憎い奴と思い、見ていて手前が負けそうなら
己が出て加勢をしようと思っていたが、貴様の力で追い散らして
先ず
宜かった、
焼落ちた提灯を持って供をして参れ」
と主従
連立って屋敷へお帰りに成ると、お國は二度
恟りしたが、素知らぬ顔で此の晩は済んでしまい、
翌朝になると隣の源次郎が
済してやってまいり、
源「伯父様お早うございます」
飯「いや、
大分お早いのう」
源「伯父様、昨晩大曲りで御当家の孝助と
私共の相助と喧嘩を致し、相助はさん/″\に
打たれ、ほう/\の
体で逃げ帰りましたが、兄上が大層に怒り、
怪しからん奴だ、年甲斐もないと申して
直に
暇を出しました、
就いては喧嘩両成敗の
譬の通り、御当家の孝助も定めてお暇になりましょう、家来の身分として
私の
遺恨を
以て喧嘩などをするとは以ての
外の事ですから、兄の
名代で
一寸念の
為めにお
届にまいりました」
飯「それは
宜しい、
昨晩のは孝助は悪くはないのだ、孝助が私の供をして提灯を持って大曲りへ掛ると、田中の龜藏、藤田の時藏お
宅の相助の三人が
突然に孝助に打ってかゝり、
供前を
妨ぐるのみならず、提灯を
打落とし、
印物を
燃しましたから、憎い奴、手打にしようと思ったが、
隣づからの
中間を切るでもないと我慢をしているうちに、孝助が
怒って木刀で
打散らしたのだから、
昨夕のは孝助は少しも悪くはない、
若し孝助に遺恨があるならばなぜ飯島に届けん、
供先を妨げ
怪しからん事だ、相助の暇に成るは
当然だ、
彼は暇を出すのが
宜しい、
彼奴を置いては宜しくありませんとお
兄さまに申し上げな、是から田中、藤田の両家へも
廻文を出して、時藏、龜藏も暇を出させる積りだ」
と云い放し、孝助ばかり残る事になりましたから、源次郎も当てが
外れ、挨拶も出来ない位な始末で、
何ともいう事が出来ず
邸へ帰りました。
十
さて
彼の伴藏は今年三十八歳、女房おみねは三十五歳、
互に貧乏
世帯を張るも萩原新三郎のお
蔭にて、
或時は畑を
耘い、庭や表のはき掃除などをし、女房おみねは萩原の
宅へ参り
煮焚洒ぎ洗濯やお
菜ごしらえお給仕などをしておりますゆえ、萩原も伴藏夫婦には
孫店を貸しては置けど、
店賃なしで住まわせて、
折々は
小遣や
浴衣などの古い物を
遣り、家来同様使っていました。伴藏は
懶惰ものにて内職もせず、おみねは独りで内職をいたし、毎晩八ツ九ツまで
夜延をいたしていましたが、
或晩の事
絞りだらけの
蚊帳を
吊り、この絞りの蚊帳というは蚊帳に穴が明いているものですから、
処々観世縒で
括ってあるので、其の蚊帳を吊り、伴藏は
寝※[#「蓙」の左の「人」に代えて「口」、92-4]を敷き、独りで寝ていて、足をばた/\やっており、蚊帳の外では女房が
頻りに夜延をしていますと、八ツの鐘がボンと聞え、世間はしんと致し、折々清水の水音が高く聞え、
何となく
物凄く、秋の夜風の草葉にあたり、
陰々寂寞と世間が一体にしんと致しましたから、此の時は小声で話をいたしても
宜く聞えるもので、蚊帳の
中で伴藏が、頻りに
誰かとこそ/\話をしているに、女房は気がつき、
行灯の
下影から、そっと蚊帳の
中を
差覗くと、伴藏が
起上り、ちゃんと坐り、両手を膝についていて、蚊帳の外には
誰か来て話をしている様子は、
何だかはっきり分りませんが、
何うも女の声のようだから
訝しい事だと、
嫉妬の虫がグッと胸へ込み上げたが、年若とは違い、もう三十五にもなる事ゆえ、
表向に
悋気もしかねるゆえ、
余りな人だと思っているうちに、女は帰った様子ゆえ
何とも云わず黙っていたが、翌晩も又来てこそ/\話を致し、
斯ういう事が丁度三晩の間続きましたので、女房ももう我慢が出来ません、ちと鼻が
尖がらかッて来て、鼻息が荒くなりました。
伴「おみね、もう寝ねえな」
みね「あゝ馬鹿々々しいやね、八ツ九ツまで夜延をしてさ」
伴「ぐず/\いわないで早く寝ねえな」
みね「えい、人が寝ないで稼いでいるのに、馬鹿々々しいからサ」
伴「蚊帳の中へへいんねえな」
おみねは
腹立まぎれにズッと蚊帳をまくって中へ入れば。
伴「そんな
這入りようがあるものか、なんてえ
這入りようだ、
突立って
這入ッちゃア蚊が
這入って仕ようがねえ」
みね「伴藏さん、毎晩お前の所へ来る女はあれはなんだえ」
伴「
何でもいゝよ」
みね「
何だかお云いなねえ」
伴「何でもいゝよ」
みね「お前はよかろうが
私ゃ詰らないよ、本当にお前の為に寝ないで
齷齪と稼いでいる女房の前も構わず、女なんぞを引きずり込まれては、私のような者でも
余りだ、あれは
斯ういう訳だと明かして云ってお呉れてもいゝじゃないか」
伴「そんな訳じゃねえよ、
己も云おう/\と思っているんだが、云うとお
前が怖がるから云わねえんだ」
みね「なんだえ怖がると、大方先の
阿魔女が
何かお
前に
怖もてゞ云やアがったんだろう、お前が
嚊があるから女房に持つ事が出来ないと云ったら、そんなら
打捨って置かないとか何とかいうのだろう、
理不尽に
阿魔女が女房のいる所へどか/\
入って来て話なんぞをしやアがって、もし
刃物三昧でもする
了簡なら私はたゞは置かないよ」
伴「そんな者じゃアないよ、話をしても
手前怖がるな、毎晩来る女は萩原様に
極惚れて
通って来るお嬢様とお
附の女中だ」
みね「萩原様は萩原様の働きがあってなさる事だが、お
前はこんな
貧乏世帯を張っていながら、そんな浮気をして済むかえ、それじゃアお前が其のお附の女中とくッついたんだろう」
伴「そんな訳じゃないよ、実は
一昨日の晩おれがうと/\していると、清水の方から牡丹の花の灯籠を
提げた
年増が先へ立ち、お嬢様の手を引いてずっと
己の
宅へ
入って来た所が、なか/\人柄のいゝお人だから、己のような者の宅へこんな人が来る
筈はないがと思っていると、其の女が己の
前へ手をついて、伴藏さんとはお
前さまでございますかというから、
私が伴藏でごぜえやすと云ったら、あなたは萩原様の御家来かと聞くから、まア/\家来同様な訳でごぜえますというと、萩原様はあんまりなお方でございます、お嬢様が萩原様に
恋焦れて、今夜いらっしゃいと
慥にお約束を遊ばしたのに、今はお嬢様をお嫌いなすって、
入れないようになさいますとは
余りなお方でございます、裏の小さい窓に御札が
貼ってあるので、どうしても
這入ることが出来ませんから、お
情に其の御札を
剥してくださいましというから、
明日屹度剥して置きましょう、
明晩屹度お願い申しますと云ってずっと
帰った、それから
昨日は
終日畠耘いをしていたが、つい忘れていると、其の翌晩又来て、
何故剥して下さいませんというから、
違えねえ、ツイ忘れやした、屹度
明日の晩剥がして置きやしょうと云ってそれから今朝畠へ出た
序に萩原様の裏手へ廻って見ると、裏の小窓に小さいお経の書いてある札が貼ってあるが、
何してもこんな小さい所から這入ることは人間には出来る物ではねえが、
予て聞いていたお嬢様が死んで、萩原様の所へ幽霊になって逢いに来るのがこれに相違ねえ、それじゃア
二晩来たのは幽霊だッたかと思うと、ぞっと身の毛がよだつ程怖くなった」
みね「あゝ、いやだよ、おふざけでないよ」
伴「今夜はよもや
来やアしめえと思っている所へ又来たア、今夜はおれが幽霊だと知っているから怖くッて口もきけず、
膏汗を流して固まっていて、おさえつけられるように苦しかった、そうすると
未だ剥してお
呉んなさいませんねえ、
何うしても剥しておくんなさいませんと、あなたまでお
怨み申しますと、
恐かねえ顔をしたから、
明日は屹度剥しますと云って
帰したんだ、それだのに
手前に
兎や
角う
嫉妬をやかれちゃア詰らねえよ、
己は幽霊に怨みを受ける覚えはねえが、札を剥せば萩原様が
喰殺されるか
取殺されるに
違えねえから、己はこゝを越してしまおうと思うよ」
みね「嘘をおつきよ、
何ぼ
何でも人を馬鹿にする、そんな事があるものかね」
伴「
疑るなら
明日の晩
手前が出て挨拶をしろ、
己は
真平だ、戸棚に
入って隠れていらア」
みね「そんなら本当かえ」
伴「本当も嘘もあるものか、だから
手前が出なよ」
みね「だッて帰る時には駒下駄の音がしたじゃアないか」
伴「そうだが、大層綺麗な女で、綺麗程
尚怖いもんだ、
明日の晩
己と一緒に出な」
みね「ほんとうなら大変だ、
私ゃいやだよう」
伴「そのお嬢様が
振袖を着て髪を島田に
結上げ、
極人柄のいゝ女中が
丁寧に、
己のような者に両手をついて、
痩ッこけた
何だか淋しい顔で、伴藏さんあなた
······」
みね「あゝ怖い」
伴「あゝ
恟りした、おれは
手前の声で驚いた」
みね「伴藏さん、ちょいといやだよう、それじゃア
斯うしておやりな、私達が萩原様のお
蔭で
何うやらこうやら口を
糊して居るのだから、
明日の晩幽霊が来たらば、おまえが一生懸命になって斯うおいいな、まことに
御尤もではございますが、あなたは萩原様にお
恨がございましょうとも、
私共夫婦は萩原様のお蔭で斯うやっているので、萩原様に
万一の事がありましては私共夫婦の暮し方が立ちませんから、どうか暮し方の付くようにお金を百両持って来て下さいまし、そうすれば
屹度剥しましょうとお云いよ、怖いだろうがお前は酒を飲めば気丈夫になるというから、
私が
夜延をしてお酒を五合ばかり買っておくから、酔った
紛れにそう云ったら
何うだろう」
伴「馬鹿云え、幽霊に金があるものか」
みね「だからいゝやね、金をよこさなければお札を剥さないやね、それで金もよこさないでお札を剥さなけりゃア
取殺すというような訳の分らない幽霊は無いよ、それにお前には
恨のある訳でもなしさ、
斯ういえば義理があるから心配はない、もしお金を持って来れば剥してやってもいゝじゃアないか」
伴「成程、あの位訳のわかる幽霊だから、そう云ったら得心して
帰るかも知れねえ、
殊によると百両持って来るものだよ」
みね「持って来たらお札を剥しておやりな、お前考えて御覧、百両あればお前と私は一生困りゃアしないよ」
伴「成程、こいつは
旨え、
屹度持って来るよ、こいつは一番やッつけよう」
と慾というものは
怖しいもので、
明る日は日の暮れるのを待っていました。そうこうする内に日も暮れましたれば、女房は
私ゃ見ないよと云いながら戸棚へ入るという騒ぎで、彼是しているうち
夜も段々と
更けわたり、もう八ツになると思うから、伴藏は茶碗酒でぐい/\引っかけ、酔った
紛れで掛合う積りでいると、其の内八ツの鐘がボーンと
不忍の
池に響いて聞えるに、女房は熱いのに戸棚へ入り、
襤褸を
被って小さく成っている。伴藏は蚊帳の
中にしゃに構えて待っているうち、清水のもとからカランコロン/\と駒下駄の音高く、常に変らず牡丹の花の灯籠を
提げて、
朦朧として
生垣の外まで来たなと思うと、伴藏はぞっと肩から水をかけられる程
怖気立ち、三合呑んだ酒もむだになってしまい、ぶる/\
慄えながらいると、蚊帳の側へ来て、伴藏さん/\というから、
伴「へい/\お
出でなさいまし」
女「毎晩参りまして、御迷惑の事をお願い申して誠に恐れ入りますが、
未だ今夜も御札が剥がれて居りませんので
這入る事が出来ず、お嬢様がお
憤かり遊ばし、
私が誠に困りますから、どうぞ二人のものを
不便と
思召してあのお札を剥して下さいまし」
伴藏はガタ/\
慄えながら、
伴「
御尤さまでございますけれども、
私共夫婦の者は、萩原様のお蔭様で
漸く其の日を送っている者でございますから、萩原様のお
体にもしもの事がございましては、私共夫婦のものが
後で暮し方に困りますから、どうぞ後で暮しに困らないように百両の金を持って来て下さいましたらば
直に剥しましょう」
と云うたびに冷たい汗を流し、やっとの思いで云いきりますと、両人は顔を見合せて、
暫く首を垂れて考えて居ましたが。
米「お嬢様、それ
御覧じませ、此のお方にお
恨はないのに御迷惑をかけて済まないではありませんか、萩原様はお心変りが遊ばしたのだから、
貴方がお
慕いなさるのはお
冗でございます、
何うぞふッつりお
諦めあそばして下さい」
露「米や、
私ゃ何うしても諦める事は出来ないから、
百目の
金子を伴藏さんに上げて御札を剥がして
戴き、何うぞ萩原様のお側へやっておくれヨウ/\」
といいながら、
振袖を顔に押しあて
潜々と泣く様子が実に物凄い
有様です。
米「あなた、そう仰しゃいますが何うして
私が百目の金子を持っておろう道理はございませんが、それ程までに
御意遊ばしますから、どうか才覚をして、明晩持ってまいりましょうが、伴藏さん、まだ御札の
外に萩原さまの
懐に入れていらっしゃるお
守は、
海音如来様という有難い
御守ですから、それが有っては
矢張お側へまいる事が出来ませんから、何うか其の御守も昼の内にあなたの御工夫でお盗み遊ばして、
外へお
取捨を願いたいものでございますが、出来ましょうか」
伴「へい/\御守を盗みましょうが、百両は
何うぞ
屹度持って来てお呉んなせえ」
米「嬢様それでは明晩までお待ち遊ばせ」
露「米や又今夜も萩原様にお目にかゝらないで帰るのかえ」
と泣きながらお米に手を引かれてスウーと出て
行きました。
十一
二十四
日は飯島様はお泊り番で、お國は
只寝ても覚めても考えるには、どうがなして
宮野邊の次男源次郎と一つになりたい、
就いては来月の四日に、殿様と源次郎と中川へ
釣に
行く約束がある故、源次郎に殿様を川の中へ
突落させ、殺してしまえば、源次郎は飯島の
家の養子になるまでの工夫は付いたものゝ、此の密談を孝助に
立聞かれましたから、どうがな工夫をして孝助に
暇を出すか、殿様のお
手打にでもさせる工夫はないかと、いろ/\と考え、
終いには疲れてとろ/\
仮寝むかと思うと、ふと目が覚めて、と見れば、二
間隔っている
襖がスウーとあきます。以前は屋敷
方にては暑中でも
簾障子はなかったもので、縁側はやはり障子、中は襖で立て切ってありまするのが、サラ/\と
開いたかと思うと、スラリ/\と忍び足で歩いて参り、又次のお居間の襖をスラリ/\と開けるから、お國はハテナ誰かまだ起きて居るかと思っていると、
地袋の戸がガタ/\と音がしたかと思うと、
錠を明ける音がガチ/\と聞えましたから、ハテナと思う内スウーットンと襖をしめ、ピシャリ/\と
裾を引くような
塩梅で台所の方へ出て
行きますから、ハテ変な事だと思い、お國は気丈な女でありますから起上り、
雪洞を
点け
行って見ると、誰もいないから、地袋の方を見ると戸が明け放してあって、お
納戸縮緬の胴巻が外の方へ流れ出して居たのに驚いて調べて見ると、殿様のお手文庫の錠前を
捻切り、胴巻の中に有った百
目の
金子が
紛失いたしたに、さては
盗賊かと思うと
後が
怖気立って
憶するもので、お國も一
時驚いたが、
忽ち一計を考え出し、此の胴巻の金子の紛失したるを
幸に、
之を証拠として、孝助を
盗賊に落し、殿様にたきつけて、お手打にさせるか
暇を出すか、どの道かに仕ようと、其の胴巻を
袂に入れ置き、
臥床に帰って寝てしまい、翌日になっても知らぬ顔をしており、孝助には弁当を持たせて殿様のお迎いに出してやり、其の
後へ
源助という若党が
箒を
提げてお庭の掃除に出てまいりました。
國「源助どん」
源「へい/\お早うございます、いつも御機嫌よろしゅう、此の節は
日中は大層いきれて
凌ぎ兼ねます、今年のような
酷しい事はございません、
何うも暑中より酷しいようでございます」
國「源助どん、お茶がはいったから一杯飲みな」
源「へい有難うございます、お屋敷様は
高台でございますから、余程風通しもよくて、へい御門は何うも
悉く熱うございまする、へい、これは何うも有難うございまする、
私は御酒をいたゞきませんからお茶は誠に結構で、時々お茶を戴きまするのは何よりの
楽みでございまする」
國「源助どん、お前は八ヶ年
前御当家へ来て中々正直者だが、孝助は三月の五日に当家へ御奉公に来たが、孝助は殿様の
御意に
入りを鼻にかけて、此の節は増長して
我儘になったから、お前も一つ部屋にいて、時々は腹の立つ事もあるだろうねえ」
源「いえ/\
何う致しまして、あの孝助ぐらいな
善く出来た人間はございません、其の上殿様思いで、殿様の事と云うと
気違のように成って働きます、年はまだ廿一だそうですが、中々届いたものでございます、そして誠に親切な事は
私も感心致しました、
先達て私の病気の時も孝助が
夜ぴて寝ないで看病をしてくれまして、朝も
眠むがらずに早くから起きて殿様のお供を致し、あの位な
情合のある男はないと私は実に感心をしております」
國「それだからお前は孝助に
誑されているのだよ、孝助はお前の事を殿様にどんなに胡麻をするだろう」
源「ヘエー胡麻をすりますか」
國「お前は知らないのかえ、此の間孝助が殿様に
云付けるのを聞いていたら、源助は
何うも意地が悪くて奉公がしにくい、一つ部屋にいるものだから、源助が新参ものと
侮り、
種々に
苛め、
私に何も教えて呉れませんで
仕損るようにばかり致し、お茶がはいって
旨しい物を戴いても、源助が一人で食べて仕舞って私にはくれません、本当に意地の悪い男だというものだから、殿様もお腹をお立ち遊ばして、源助は年甲斐もない憎い奴だ、今に
暇を出そうと思っていると仰しゃったよ」
源「へい、これは
何うも、孝助は途方もない事を云ったもので、これは何うも、
私は孝助にそんな事をいわれる覚えはございません、おいしい物を沢山に戴いた時は、孝助殿お前は若いから腹が減るだろうと云って、
皆な孝助にやって食べさせる位にしているのに
何たる事でしょう」
國「そればかりじゃアないよ孝助は殿様の物を
掠ねるから、お前孝助と一緒にいると今に掛り合いだよ」
源「へい何か
盗りましたか」
國「へいたッて、お前は何も知らないから今に掛り合いになるよ、
慥かに殿様の物を取った事を私は知っているよ、私は
先刻から女部屋のものまで
検めている位だから、お前はちょっと孝助の文庫をこゝへ持って来ておくれ」
源「掛り合いに成っては困ります」
國「
夫は私が
宜いように殿様に申上げて置いたから、そっと孝助の文庫を持って
来な」
といわれて、源助はもとより人が
好いからお國に
奸策あるとは知らず、部屋へ参りて孝助の文庫を持って参ってお國の前へ
差出すと、お國は文庫の
蓋を明け、中を
検める
振をしてそっと
彼のお納戸縮緬の胴巻を
袂から
取出して中へズッと差込んで置いて。
國「
呆れたよ、殿様の大事な品がこゝに入っているんだもの、今に殿様がお帰りの上で
目張りこで
皆の物を
検めなければ、私のお
預りの品が
失なったのだから、私が済まないよ、
屹度詮議を致します」
源「へい、人は見かけによらないものでございますねえ」
國「此の文庫を見た事を黙っておいでよ」
源「へい
宜しゅうございます」
と文庫を持って
立帰り、元の棚へ上げて置きました。すると八ツ時、今の三時半頃殿様がお帰りになりましたから、玄関まで
皆々お出迎いをいたし、殿様は奥へ通りお
褥の上にお坐りなされたから、いつもならば出来立てのお
供えのようにお國が側から
団扇で
扇ぎ立て、ちやほやいうのだが、いつもと違って
欝いでいる故、
飯「お國
大分すまん顔をしているが、気分でも悪いのか、
何うした」
國「殿様
申訳のない事が出来ました、昨晩お留守に
盗賊がはいり、金子が百
目紛失いたしました、あのお納戸縮緬の胴巻に入れて置いたのを胴巻ぐるみ紛失いたしました、
何でも昨晩の様子で見ると、台所口の障子が明いたようで、
外は締りは厳重にしてあって、誰も居りませんから、よく
検めますと、お居間の地袋の中にあるお文庫の錠前が
捻切ってありました、それから驚いて
毘沙門様に
願がけをしたり、
占者に見て貰うと、これは
内々の者が取ったに違いないと申しましたから、
皆の文庫や
葛籠を検めようと思って居ります」
飯「そんな事をするには及ばない、内々の者に、百両の金を取る程の器量のある者は一人もいない、
他から
這入った
賊であろう」
國「それでも御門の締りは厳重に付けておりますし、
只台所口が明いて居たのですから、内々の者を
一ト通り詮議をいたします、
······アノお竹どん、おきみどん、
皆此方へ来ておくれ」
竹「とんだ事でございました」
きみ「
私はお居間などにはお掃除の
外参った事はございませんが、
嘸御心配な事でございましょう、私なぞは昨晩の事はさっぱり存じませんでございます、誠に驚き入りました」
飯「手前達を疑ぐる訳ではないが、おれが留守で、國が預り中の事ゆえ心配をいたしているものだから」
女中は
「恐れ入ります、どうぞお
検め下さいまし」
と
銘々葛籠を縁側へ出す。
飯「たけの文庫には
何ういう物が入っているか見たいナ成程
たまかな女だ、
一昨年遣わした
手拭がチャンとしてあるな、女という者は
小切の端でもチャンと
畳紙へいれて置く位でなければいかん、おきみや、手前の文庫を一ツ見てやるから
此処へ出せ」
君「
私のは
何うぞ御免あそばして、殿様が
直に御覧あそばさないで下さい」
飯「そうはいかん、竹のを
検めて手前のばかり見ずにいては
怨みッこになる」
君「どうぞ御勘弁恐れ入ります」
飯「何も隠す事はない、成程、ハヽア大層
枕草紙をためたな」
君「恐れ入ります、
貯めたのではございません、親類
内から到来をいたしたので」
飯「
言訳をするな、着物が
殖ると云うから
宜いわ」
國「アノ男部屋の孝助と源助の文庫を
検めて見とうございます、お竹どん
一寸二人を呼んでおくれ」
竹「孝助どん、源助どん、殿様のお
召でございますよ」
源「へい/\お竹どんなんだえ」
竹「お金が百両
紛失して、
内々の者へお疑いがかゝり、今お調べの所だよ」
源「
何処から
這入ったろう、何しろ大変な事だ、何しろ行って見よう」
と両人飯島の前へ出て来て、
源「承わり
恟り致しました、百両の
金子が
御紛失になりましたそうでございますが、孝助と
私と御門を堅く守って居りましたに、
何ういう事でございましょう、
嘸御心配な事で」
飯「なに國が預り中で、大層心配をするから
一寸検めるのだ」
國「孝助どん、源助どん、お気の毒だがお前方二人は
何うも
疑られますよ、
葛籠をこゝへ持ってお
出で」
源「お
検めを願います」
國「これ
切りかえ」
源「一
切合切一世帯是切りでございます」
國「おや/\まア、着物を
袖畳みにして入れて置くものではないよ、ちゃんと畳んでお置きな、これは
何だえ、ナニ
寝衣だとえ、相変らず
無性をして丸めて置いて
穢ないねえ、此の
紐は何だえ、
虱紐だとえ、
穢いねえ、孝助どんお前のをお出し、此の文庫切りか」
と是から段々
ひろちゃくいたしましたが、元より入れて置いた胴巻ゆえ有るに違いない。お國はこれ見よがしに
団扇の
柄に
引掛けて、すッと差上げ、
國「おい孝助どん此の胴巻は
何うしてお前の文庫の中に入っていたのだ」
孝「おや/\/\、さっぱり存じません、何う致したのでしょう」
國「おとぼけでないよ、百両のお金が此の胴巻ぐるみ
紛失したから、
御神鬮の
占のと心配をしているのです、是が
失くなっては何うも私が殿様に済まないからお金を返しておくれよ」
孝「
私は取った覚えはありません、どんな事が有っても覚えはありません、へい/\何ういう訳で此の胴巻が入っていたか存じません、へえ」
國「源助どん、お前は一番古く此のお屋敷にいるし、年かさも多い事だから、これは孝助どんばかりの
仕業ではなかろう、お前と二人で心を合せてした事に違いない、源助どんお前から先へ白状しておしまい」
源「これは、
私はどうも、これ孝助々々、どうしたんだ、
己が迷惑を受けるだろうじゃないか、私は此のお屋敷に八ヶ年も御奉公をして、殿様から正直と云われているのに
年嵩だものだから
御疑念を受ける、孝助どうしたか云わねえか」
孝「
私は覚えはないよ」
源「覚えはないといったって、胴巻の出たのは
何うしたのだ」
孝「何うして出たか
私ゃ知らないよ、胴巻は
自然に出て来たのだもの」
國「
自然に出たと云ってすむかえ、胴巻の方から文庫の中へ
駆込むやつがあるものか、そら/″\しい、そんな優しい顔つきをして本当に怖い人だよ、恩も義理も知らない犬畜生とはお前の事だ、私が殿様にすまない」
と孝助の膝をグッと突く。
孝「何をなさいます、
私は覚えはございません、どんな事が有っても覚えはございません/\」
國「源助どん、お前から先へ白状おしよ」
源「孝助、
己が困る、己が
智慧でも付けたようにお疑ぐりがかゝり、困るから早く白状しろよ」
孝「
私ゃ覚えはない、そんな無理な事を云ってもいけないよ、
外の事と違って、
大それた、家来が御主人様のお金を百両取ったなんぞと、そんな覚えはない」
源「覚えがないと
計り云っても、それじゃア胴巻の出た趣意が立たねえ、己まで御疑念がかゝり困るから、早く白状して殿様の御疑念を
晴してくれろ」
とこづかれて、孝助は泣きながら、
只残念でございますと云っていると、お國は
先夜の意趣を
晴すは此の時なり、今日こそ孝助が殿様にお手打になるか
追出されるかと思えば、心地よく、わざと
「孝助どん云わないか」
と云いながら力に任せて孝助の膝をつねるから、孝助は身にちっとも覚えなき事なれど、証拠があれば云い解く
術もなく、
口惜涙を流し、
孝「
痛うございます、どんなに突かれても
抓られても、覚えのない事は云いようがありません」
國「源助どん、お前から先へ云ってしまいな」
源「孝助云わねえか」
と云いながらドンと
突飛ばす。
孝「何を突き飛ばすのだね」
源「いつまでも云わずにいちゃア己が迷惑する、云いなよ」
と又突飛ばす。孝助は両方から抓ねられ突飛ばされたりして、残念で
堪らない。
孝「突き飛ばしたって覚えはない、お前もあんまりだ、一つ部屋にいて己の気性も知っているじゃアないか、お庭の掃除をするにも草花一本も折らないように気を附け、釘一本落ちていても
直に拾って来て、お前に見せるようにしているじゃアないか、
己らの心も知っていながら、人を
盗賊と疑ぐるとは
余り
酷いじゃアないか、そんなにキャア/\いうと殿様までが
私を疑ぐります」
始終を聞いていた飯島は大声を上げて、
飯「黙れ孝助、主人の前も
憚からず
大声を発して
怪しからぬ奴、覚えがなければ
何うして胴巻が貴様の文庫の
中に有ったか、それを申せ、何うして胴巻があった」
孝「何うして有りましたか、さっぱり存じません」
飯「
只存ぜぬ知らんと云って済むと思うかえ、
不埓な奴だ、
己が是程目を懸けてやるにサ、其の恩義を
打忘れ、金子を盗むとは
不届ものめ、手前ばかりではよもあるまい、
外に同類があるだろう、さア
申訳が立たんければ手打にしてしまうから左様心得ろ」
と
云放つ。源助は驚いて、
源「どうかお手打の
処は御勘弁を願います、へい又何者にか
騙されましたか知れませんから、
篤と源助が取調べ御挨拶を申上げまする
迄お手打の処はお
日延を願いとう存じます」
飯「黙れ源助、さような事を申すと手前まで疑念が懸るぞ、孝助を構い立てすると手前も手打にするから左様心得ろ」
源「これ孝助、お
詫を願わないか」
孝「
私は何もお詫をするような不埓をした事はない、殿様にお手打になるのは有難い事だ、家来が殿様のお手に掛って死ぬのは
当然の事だ、御奉公に来た時から、身体は元より命まで殿様に差上げている気だから、死ぬのは元より覚悟だけれど、是まで殿様の御恩に成った其の御恩を孝助が忘れたと仰しゃった殿様のお言葉、そればかりが
冥途の
障りだ、
併し是も無実の難で致し方がない、
後で其の金を盗んだ奴が出て、あゝ孝助が盗んだのではない、孝助は無実の罪であったという事が分るだろうから、今お手打に成っても構わない、さア殿様スッパリとお願い申します、お手打になさいまし」
と
摩り寄ると、
飯「今は日のあるうち血を見せては
穢れる恐れがあるから、夕景になったら手打にするから、部屋へ参って
蟄居しておれ、これ源助、孝助を
取逃がさんように手前に預けたぞ」
源「孝助お詫を願え」
孝「お詫する事はない、お早くお手打を願います」
飯「孝助よく聞け、
匹夫下郎という者は
己の悪い事を
余所にして、主人を
怨み、
酷い分らんと
我を張って
自から舌なぞを噛み切り、
或は首をくゝって死ぬ者があるが、手前は武士の
胤だという事だから、よも左様な死にようは致すまいな、手打になるまで
屹度待っていろ」
と云われて孝助は
口惜涙の声を
慄わせ、
孝「そんな死にようは致しません、早くお手打になすって下さいまし」
源「これ孝助お詫びを願わないか」
孝「どうしても取った覚えはない」
源「殿様は荒い言葉もお掛なすった事もなかったが
大枚の百両の金が
紛失したので、金ずくだから
御尤もの事だ、お隣の宮野邊の御次男様にお頼み申し、お
詫言を願っていたゞけ」
孝「隣の次男なんぞに、たとえ舌を喰って死んでも詫言なぞは頼まねえ」
源「そんなら相川様へ願え、新五兵衞様へサ」
孝「何も
失錯の
廉がないものを、何も覚えがないのだから、あとで金の
盗人が知れるに違いない、
天誠を
照すというから、其の時殿様が御一言でも、あゝ孝助は
可愛相な事をしたと云って下されば、そればっかりが
私への
好い
手向だ、源助どん、お前にも長らく御厄介になったから、相川様へ養子に
行くように成ったら、
小遣でも上げようと心懸けていたのも、今となっては水の泡、どうぞ
私がない
後は、お前が一人で
二人前の働きをして、殿様を大切に気を付け、忠義を
尽して上げて下さい、そればかりがお願いだ、それに源助どんお前は病身だから
体を
大切に
厭って御奉公をし、丈夫でいておくれ、私は身に覚えのない
盗賊におとされたのが残念だ」
と声を放って泣き伏しましたから、源助も同じく鼻をすゝり、涙を
零して眼を
擦りながら、
源「わび事を頼めよ/\」
孝「心配おしでないよ」
と孝助はいよ/\手打になる時は、隣の次男源次郎とお國と姦通し、
剰え来月の四日中川で殿様を殺そうという
巧みの一
伍一什を
委しく殿様の前へ並べ立て、そしてお手打になろうという気でありますから、少しも
憶する色もなく、
平常の通りで居る。其の内に
灯がちら/\
点く時刻と成りますと、飯島の声で、
「孝助庭先へ廻れ」
という。此の
後は
何うなりますか、
次囘までお
預り。
十二
伴藏の
家では、幽霊と伴藏と物語をしているうち、女房おみねは戸棚に隠れ、熱さを
堪えて
襤褸を
被り、ビッショリ汗をかき、虫の息をころして居るうちに、お米は飯島の娘お露の手を引いて、姿は
朦朧として
掻消す如く見えなく成りましたから、伴藏は戸棚の戸をドン/\叩き、
伴「おみね、もう出なよ」
みね「まだ居やアしないかえ」
伴「
帰ってしまった、出ねえ/\」
みね「
何うしたえ」
伴「何うにも
斯うにも
己が一生懸命に掛合ったから、飲んだ酒も
醒めて仕舞った、
己ア
全体酒さえのめば、
侍でもなんでも
怖かなくねえように気が強くなるのだが、幽霊が側へ来たかと思うと、頭から水を打ちかけられるように成って、すっかり
酔も醒め、口もきけなくなった」
みね「私が戸棚で聞いていれば、
何だかお前と幽霊と話をしている声が
幽かに聞えて、本当に怖かったよ」
伴「
己は幽霊に百両の金を持って来ておくんなせえ、
私ども夫婦は萩原様のお
蔭で
何うやら
斯うやら暮しをつけて居ります者ですから、萩原様に
万一の事が有りましては
私共夫婦は暮し方に困りますから、百両のお金を下さったなら
屹度お札を
剥しましょうというと、幽霊は
明日の晩お金を持って来ますからお札を剥してくれろ、それに又萩原様の首に掛けていらっしゃる海音如来の
御守があっては入る事が出来ないから、どうか工夫をして其のお守を盗み、
外へ取捨てゝ下さいと云ったは、
金無垢で
丈は四寸二分の如来様だそうだ、己も此の間お開帳の時ちょっと見たが、あの時坊さんが何か云ってたよ、
抑も
何とかいったっけ、あれに
違えねえ、
何でも大変な
作物だそうだ、あれを盗むんだが、どうだえ」
かね「どうも旨いねえ、運が向いて来たんだよ、其の如来様はどっかへ売れるだろうねえ」
伴「
何うして江戸ではむずかしいから、
何所か知らない田舎へ持って行って売るのだなア、
仮令潰しにしても
大したものだ、百両や二百両は堅いものだ」
みね「そうかえ、まア二百両あれば、お前と私と二人ぐらいは一生楽に暮すことが出来るよ、それだからねえ、お前一生懸命でおやりよ」
伴「やるともさ、だが
併し首にかけているのだから、容易に放すまい、
何うしたら
宜かろうナ」
みね「萩原様は此の頃お湯にも入らず、
蚊帳を吊りきりでお経を読んでばかりいらっしゃるものだから、汗臭いから行水をお
遣いなさいと云って
勧めて使わせて、私が萩原様の身体を洗っているうちにお前がそっとお盗みな」
伴「成程
旨えや、だが中々外へは出まいよ」
みね「そんなら座敷の三畳の畳を上げて、あそこで遣わせよう」
と夫婦いろ/\相談をし、翌日湯を沸かし、伴藏は萩原の
宅へ出掛けて参り、
伴「旦那え、今日は湯を沸かしましたから行水をお遣いなせえ、旦那をお
初に遣わせようと思って」
新「いや/\行水はいけないよ、少し訳があって行水は遣えない」
みね「旦那此の熱いのに行水を遣わないで毒ですよ、お
寝衣も汗でビッショリになって居りますから、お天気ですから
宜うございますが、降りでもすると仕方がありません、身体のお毒になりますからお遣いなさいよ」
新「行水は日暮方表で遣うもので、
私は少し訳があって表へ出る事の出来ない身分だからいけないよ」
伴「それじゃアあすこの三畳の畳を上げてお
遣えなせえ」
新「いけないよ、裸になる事だから、裸になる事は出来ないよ」
伴「隣の
占者の白翁堂先生がよくいいますぜ、
何でも
穢くして置くから病気が起ったり幽霊や魔物などが
這入るのだ、清らかにしてさえ置けば幽霊なぞは這入られねえ、じゞむさくして置くと内から病が出る、又穢くして置くと幽霊がへいって来ますよ」
新「穢くして置くと幽霊が這入って来るか」
伴「来る
所じゃアありません
両人で手を引いて来ます」
新「それでは困る、内で行水を遣うから三畳の畳を上げてくんな」
というから、伴藏夫婦はしめたと思い、
伴「それ
盥を持って来て、
手桶へホレ湯を入れて来い」
などと手早く支度をした。萩原は着物を脱ぎ捨て、首に掛けているお
守を取りはずして伴藏に渡し、
新「これは
勿体ないお守だから、神棚へ上げて置いてくんな」
伴「へい/\、おみね、旦那の身体を洗って上げな、よく
丁寧にいゝか」
みね「旦那様
此方の方をお向きなすっちゃアいけませんよ、もっと
襟を下の方へ延ばして、もっとズウッと
屈んでいらっしゃい」
と襟を洗う
振をして伴藏の方を見せないようにしている
暇に、伴藏は
彼の胴巻をこき、ズル/\と出して見れば、
黒塗光沢消しのお
厨子で、扉を
開くと中はがたつくから黒い絹で
包んであり、中には
丈四寸二分、
金無垢の海音如来、そっと懐中へ
抜取り、代り物がなければいかぬと思い、
予ねて用心に持って来た同じような重さの瓦の不動様を中へ
押込み、元の
儘にして神棚へ上げ置き、
伴「おみねや長いのう、
余り長く洗っているとお
逆上なさるから、
宜い加減にしなよ」
新「もう上がろう」
と身体を
拭き、
浴衣を着、あゝ
宜い
心持になった。と着た浴衣は
経帷子、使った行水は
湯灌となる事とは、神ならぬ身の萩原新三郎は、誠に心持よく表を閉めさせ、
宵の内から
蚊帳を吊り、其の中で
雨宝陀羅尼経を
頻りに読んで居ります。
此方は伴藏夫婦は、持ちつけない品を持ったものだからほく/\喜び、
宅へ帰りて、
みね「お前立派な物だねえ、中々高そうな物だよ」
伴「なに
己らたちには
何だか訳が分らねえが、幽霊は
此奴があると
這入られねえという程な
魔除のお
守だ」
みね「ほんとうに運が向いて来たのだねえ」
伴「だがのう、
此奴があると幽霊が今夜百両の金を持って来ても、
己の所へ
這入る事が出来めえが、是にゃア困った」
みね「それじゃアお前出掛けて行って、途中でお目に懸ってお
出でな」
伴「馬鹿ア云え、そんな事が出来るものか」
みね「どっかへ預けたら
宜かろう」
伴「預けなんぞして、伴藏の
持物には不似合だ、
何ういう訳でこんな物を持っていると聞かれた日にゃア盗んだ事が露顕して、
此方がお
仕置に成ってしまわア、又質に置くことも出来ず、と云って
宅へ置いて、幽霊が札が剥がれたから萩原様の窓から
這入って、萩原様を
喰殺すか
取殺した跡をあらためた日にゃア、お守が身体にないものだから、
誰か盗んだに
違えねえと詮議になると、
疑りのかゝるは白翁堂か
己だ、白翁堂は年寄の事で正直者だから、
此方は
のっけに疑ぐられ、
家捜しでもされてこれが出ては大変だから
何うしよう、これを
羊羹箱か何かへ入れて畑へ埋めて置き、上へ印の竹を立てゝ置けば、家捜しをされても大丈夫だ、そこで一旦身を隠して、半年か一年も立って、ほとぼりの冷めた時分
帰って来て
掘出せば大丈夫知れる
気遣はねえ」
みね「旨い事ねえ、そんなら穴を深く掘って埋めてお仕舞いよ」
と、
直に伴藏は羊羹箱の古いのに
彼の像を入れ、畑へ
持出し
土中へ深く埋めて、其の上へ
目標の竹を
立置き
立帰り、さアこれから百両の金の来るのを待つばかり、前祝いに一杯やろうと夫婦
差向いで
互に
打解け
酌交し、
最う今に八ツになる頃だからというので、女房は戸棚へ
這入り、伴藏一人酒を飲んで待っているうちに、八ツの鐘が忍ヶ岡に響いて聞えますと、一
際世間がしんと致し、水の流れも止り、草木も眠るというくらいで、壁にすだく
蟋蟀の声も
幽かに
哀を
催おし、物凄く、清水の元からいつもの通り駒下駄の音高くカランコロン/\と聞えましたから、伴藏は来たなと思うと身の毛もぞっと縮まる程怖ろしく、かたまって、様子を
窺っていると、
生垣の元へ見えたかと思うと、いつの間にやら縁側の所へ来て、
「伴藏さん/\」
と云われると、伴藏は口が利けない、
漸々の事で、
「へい/\」
と云うと、
米「毎晩
上りまして御迷惑の事を願い、誠に恐れ入りまするが、
未だ今晩も萩原様の裏窓のお札が
剥れて居りませんから、どうかお剥しなすって下さいまし、お嬢様が萩原様に逢いたいと
私をお責め遊ばし、おむずかって誠に困り切りまするから、どうぞ
貴方様、二人の者を
不便に
思召しお札を剥して下さいまし」
伴「剥します、へい剥しますが、百両の金を持って来て下すったか」
米「百目の金子
慥に持参致しましたが、海音如来の
御守をお
取捨になりましたろうか」
伴「へい、あれは脇へ隠しました」
米「左様なれば百目の金子お
受取り下さいませ」
とズッと
差出すを、伴藏はよもや金ではあるまいと、手に
取上げて見れば、ズンとした小判の目方、持った事もない百両の金を見るより伴藏は怖い事も忘れてしまい、
慄えながら庭へ
下り立ち、
「御一緒にお
出でなせえ」
と
二間梯子を
持出し、萩原の裏窓の
蔀へ立て懸け、慄える足を
踏締めながらよう/\登り、手を差伸ばし、お札を剥そうとしても慄えるものだから思う
様に剥れませんから、力を入れて無理に剥そうと思い、グッと手を
引張る拍子に、梯子がガクリと揺れるに驚き、足を踏み
外し、
逆とんぼうを打って畑の中へ
転げ落ち、
起上る力もなく、お札を片手に
握んだまゝ声をふるわし、
唯南無阿弥陀仏/\と云っていると、幽霊は嬉しそうに両人顔を見合せ、
米「嬢様、今晩は萩原様にお目にかゝって、十分にお怨みを仰しゃいませ、さア
入っしゃい」
と手を引き伴藏の方を見ると、伴藏はお札を
掴んで倒れて居りますものだから、
袖で顔を隠しながら、裏窓からズッと
中へ這入りました。
十三
飯島平左衞門の
家では、お國が、今夜こそ
予ねて源次郎と
諜し
合せた一大事を
立聞きした邪魔者の孝助が、殿様のお
手打になるのだから、仕すましたりと思うところへ、飯島が奥から出てまいり、
飯「國、國、誠にとんだ事をした、
譬にも
七たび捜して人を疑ぐれという通り、
紛失した百両の金子が出たよ、金の入れ所は時々取違えなければならないものだから、
己が
外へ仕舞って置いて忘れていたのだ、
皆に心配を掛けて誠に気の毒だ、出たから悦んでくれろ」
國「おやまアお
目出度うございます」
と口には云えど、腹の内では
些とも目出たい事も
何にもない。
何うして金が出たであろうと不審が晴れないで居りますと、
飯「女どもを
皆こゝへ呼んでくれ」
國「お竹どん、おきみどん
皆こゝへお
出で」
竹「只今承わりますればお金が出ましたそうでおめでとう存じます」
君「殿様誠におめでとうございます」
飯「孝助も源助もこゝへ呼んで来い」
女「孝助どん源助どん、殿様がめしますよ」
源「へい/\、これ孝助お
詫事を願いな、お前は全く取らないようだが、お前の文庫の中から胴巻が出たのがお前があやまり、詫ごとをしなよ」
孝「いゝよ、いよ/\お手打になるときは、殿様の前で
私が
列べ立てる事がある、それを聞くとお前は
嘸悦ぶだろう」
源「なに嬉しい事があるものか、殿様が召すからマア行こう」
と両人
連立ってまいりますと、
飯「孝助、源助、
此方へ来てくれ」
源「殿様、只今部屋へ往って段々孝助へ説得を致しましたが、どうも全く孝助は
盗らないようにございます、お
腹立の段は重々
御尤でござりますが、お手打の儀は
何卒廿三
日までお
日延の程を願いとう存じます」
飯「まアいゝ、孝助これへ来てくれ」
孝「はいお庭でお手打になりますか、
※[#「蓙」の左の「人」に代えて「口」、125-11]をこれへ敷きましょうか、血が
滴れますから」
飯「縁側へ上がれ」
孝「へい、これはお縁側でお手打、これは有がたい、
勿体ない事で」
飯「そう云っちゃア困るよ、さて源助孝助、誠に相済まん事であったが、百両の金は実は
己が
仕舞処を違えて置いたのが、
用箪笥から出たから喜んでくれ、家来だからあんなに
疑ってもよいが、
外の者でもあっては己が
言訳のしようもない位な訳で、誠に申しわけがない」
孝「お金が出ましたか、さようなれば
私は
盗賊ではなく、お
疑りは晴れましたか」
飯「そうよ、疑りはすっぱり晴れた、己が間違いであったのだ」
孝「えゝ有がとうござります、
私は
素よりお手打になるのは
厭いませんけれども、
只全く私が取りませんのを取ったかと思われまするのが
冥路の
障りでございましたが、御疑念が晴れましたならお手打は厭いません、サヽお手打になされまし」
飯「己が悪かった、これが家来だからいゝが、
若し
朋友か何かであった日にゃア腹を切っても済まない所、家来だからといって、無闇に
疑りを掛けては済まない、飯島が板の間へ手を突いてこと/″\く詫びる、堪忍して呉れ」
孝「あゝ勿体ない、誠に嬉しゅうございました、源助どん」
源「誠にどうも」
飯「源助、手前は孝助を
疑って孝助を突いたから
謝まれ」
源「へい/\孝助どん、誠に済みません」
飯「たけや何かも何か少し孝助を疑ったろう」
竹「ナニ疑りは致しませんが、孝助どんは
平常の気性にも似合ないことだと存じまして、
些とばかり」
飯「矢張り疑ったのだから謝まれ、きみも謝まれ」
竹「孝助どん、誠にお
目出度存じます、先程は誠に済みません」
飯「これ國、貴様は一番孝助を疑り、膝を突いたり何かしたから余計に謝まれ、己でさえ手をついて謝ったではないか、貴様は
猶更丁寧に詫をしろ」
と云われてお國は、
此度こそ孝助がお手打になる事と思い、心の
中で仕済ましたりと思っている
処へ、金子が出て、孝助に謝まれと云うから残念で
堪らないけれども、仕方がないから、
國「孝助どん誠に重々すまない事を致しました、
何うか勘弁しておくんなさいましよ」
孝「なに
宜しゅうございます、お金が出たから
宜いが、
若しお手打にでもなるなら、殿様の前でお為になる事を並べ
立て死のうと思って
······」
と
急込んで云いかけるを、飯島は、
飯「孝助何も云って呉れるな己にめんじて何事もいうな」
孝「恐れ入ります、金子は出ましたが、
彼の胴巻は
何うして
私の文庫から出ましたろう」
飯「あれはホラいつか貴様が胴巻の古いのを一つ欲しいと云った事があったっけノウ、其の時おれが古いのを一つやったじゃないか」
孝「ナニさような事は」
飯「貴様がそれ欲しいと云ったじゃないか」
孝「草履取の身の上で
縮緬のお胴巻を戴いたとて仕方がございません」
飯「
此奴物覚えの悪いやつだ」
孝「
私より殿様は百両のお金を仕舞い忘れる位ですから
貴方の方が物覚えがわるい」
飯「成程これはおれがわるかった、何しろ
目出度いから
皆に
蕎麦でも喰わせてやれ」
と飯島は孝助の忠義の
志しは
予て見抜いてあるから、孝助が盗み取るようなことはないと知っている故、金子は全く
紛失したなれども、別に百両を
封金に
拵らえ、此の騒動を我が
粗忽にしてぴったりと納まりがつきました。飯島は
斯程までに孝助を愛する事ゆえ、孝助も主人の
為めには死んでもよいと思い込んで居りました。
斯くて其の月も過ぎて八月の三日となり、いよ/\
明日はお休みゆえ、殿様と
隣邸の次男源次郎と中川へ
釣に
行く約束の当日なれば、孝助は心配をいたし、今夜隣の源次郎が来て当家に泊るに相違ないから、殿様に
明日の釣をお
止めなさるように御意見を申し上げ、もし
何うしてもお
聞入のない其の時は、今夜客間に寝ている源次郎めが
中二階に寝ているお國の所へ廊下伝いに忍び
行くに相違ないから、廊下で源次郎を
槍玉にあげ、中二階へ
踏込んでお國を
突殺し、自分は其の場を去らず切腹すれば、何事もなく
事済になるに違いない、これが殿様へ生涯の恩返し、
併し何うかして
明日主人を
漁にやりたくないから、一応は御意見をして見ようと、
孝「殿様
明日は中川へ漁に
入っしゃいますか」
飯「あゝ
行くよ」
孝「
度々申上げるようですが、お嬢様がお亡くなりになり、
未だ
間もない事でございまするから、お
見合せなすっては
如何」
飯「
己は
外に
楽みはなく釣が
極好きで、番がこむから、
偶には好きな釣ぐらいはしなければならない、それを
止めてくれては困るな」
孝「
貴方は泳ぎを御存じがないから
水辺のお遊びは
宜しくございません、それともたって入っしゃいますならば孝助お供いたしましょう、何うか手前お供にお連れください」
飯「手前は釣は嫌いじゃないか、供はならんよ、
能く人の楽みを止める奴だ、止めるな」
孝「じゃア今晩やって仕舞います、長々御厄介になりました」
飯「何を」
孝「え、なんでも宜しゅうございます、
此方の事です、殿様
私は三月二十一日に御当家へ御奉公に参りまして、新参者の私を、人が
羨ましがる程お目を掛けてくださり、御恩義の程は死んでも忘れはいたしません、死ねば幽霊になって殿様のお身体に附きまとい、凶事のない様に守りまするが、全体貴方は御酒を召上れば前後も知らずお
寝みになる、又召上がらねば少しもお寝みになる事が出来ません、御酒も随分気を散じますから少々は召上がっても宜しゅうございますが、多分に召上ってお酔いなすっては、
仮令どんなに御剣術が御名人でも、悪者がどんなことを致しますかも知れません、私はそれが案じられてなりません」
飯「さような事は云わんでも宜しい、あちらへ参れ」
孝「へえ」
と立上がり、廊下を
二足三足行きにかゝりましたが、
是れがもう主人の顔の見納めかと思えば、足も先に進まず、又振返って主人の顔を見てポロリと涙を流し、
悄々として
行きますから、振返るを見て飯島もハテナと思い、
暫し腕
拱き、小首かたげて考えて居りました。孝助は玄関に参り、
欄間に
懸ってある槍をはずし、手に取って
鞘を
外して
検めるに、
真赤に
錆びて居りましたゆえ、庭へ
下り、
砥石を
持来り、槍の身をゴシ/\
研ぎはじめていると、
飯「孝助々々」
孝「へい/\」
飯「
何だ、何をする、どう致すのだ」
孝「これは槍でございます」
飯「槍を研いで
何う致すのだえ」
孝「
余り
真赤に
錆ておりますから、なんぼ泰平の
御代とは申しながら、
狼藉ものでも
入りますと、其の時のお役に立たないと思い、身体が閑でございますから研ぎ始めたのでございます」
飯「
錆槍で人が突けぬような事では役にたゝんぞ、
仮令向うに一
寸幅の
鉄板があろうとも、
此方の腕さえ
確ならプツリッと突き抜ける訳のものだ、錆ていようが
丸刃であろうが、さような事に
頓着はいらぬから研ぐには及ばん、又憎い奴を
突殺す時は錆槍で突いた方が、先の奴が痛いから此方が
却っていゝ
心持だ」
孝「成程こりゃアそうですな」
と其の
儘槍を元の
処へ掛けて置く。飯島は奥へ這入り、其の晩源次郎がまいり
酒宴が始まり、お國が長唄の
地で
春雨かなにか
三味線を掻きならし、当時の九時過まで興を添えて居りましたが、もうお
引にしましょうと客間へ蚊帳を一抔に吊って源次郎を寝かし、お國は
中二階へ寝てしまいました。お國は誰が泊っても中二階へ寝なければ源次郎の来た時不都合だから、
何時でもお客さえあればこゝへ寝ます。
夜も段々と更け渡ると、孝助は
手拭を
眉深に
頬冠りをし、
紺看板に
梵天帯を締め、槍を小脇に
掻込んで庭口へ忍び込み、雨戸を少々ずつ
二所明けて置いて、花壇の
中へ身を
潜め隠し縁の下へ槍を
突込んで様子を
窺っている。その
中に
八ツの鐘がボーンと鳴り響く。此の鐘は目白の鐘だから少々早めです。するとさらり/\と障子を明け、
抜足をして廊下を忍び来る者は、
寝衣姿なれば、
慥に源次郎に相違ないと、孝助は首を
差延べ様子を窺うに、
行灯の明りがぼんやりと障子に映るのみにて薄暗く、はっきりそれとは見分けられねど、段々中二階の方へ
行くから、孝助はいよ/\源次郎に違いなしとやり
過し、戸の
隙間から脇腹を狙って、物をも云わず、力に任せて
繰出す槍先は
過たず、プツリッと
脾腹へ掛けて突き
徹す。突かれて男はよろめきながら
左手を
延して槍先を
引抜きさまグッと
突返す。突かれて孝助たじ/\と石へ
躓き尻もちをつく。男は槍の穂先を
掴み、縁側より下へヒョロ/\と降り、
沓脱石に腰を掛け、
「孝助外庭へ出ろ/\」
と云われて孝助、オヤ、と言って見ると、
恟りしたは源次郎と思いの
外、大恩受けたる主人の
肋骨へ槍を
突掛けた事なれば、アッとばかりに
呆れはて、
唯キョトキョト/\として
逆上あがってしまい、
呆気に取られて涙も出ずにいる。
飯「孝助こちらへ来い」
と気丈な殿様なれば
袂にて
疵口を
確かと押えてはいるものゝ、
血は
溢れてぼたり/\と流れ出す。飯島は血に
染みたる槍を杖として、
飛石伝いにヒョロ/\と建仁寺垣の外なる花壇の脇の所へ孝助を連れて来る。孝助は腰が抜けてしまって、歩けないで這って来た。
孝「へい/\
間違でござります」
飯「孝助
己の
上締を取って疵口を縛れ、早く縛れ」
と云われても、孝助は手がブル/\とふるえて思うまゝに締らないから、飯島自ら疵口をグッと堅く締め上げ、
猶手をもって其の上を押え、
根府川の飛石の上へペタ/\と坐る。
孝「殿様、とんでもない事をいたしました」
とばかりに
泣出す。
飯「静かにしろ、
他へ洩れては
宜しくないぞ、宮野邊源次郎めを突こうとして、
過まって平左衞門を突いたか」
孝「大変な事をいたしました、実は
召仕のお國と宮野邊の次男源次郎と
疾より不義をしていて、
先月廿一日お
泊番の時、源次郎がお國の
許へ忍び込み、お國と
密々話して居る所へうっかり
私がお庭へ出て参り、様子を聞くと、殿様がいらっしゃっては邪魔になるゆえ、来月の四日中川にて殿様を釣舟から
突落して殺してしまい、
体能くお
頭に届けをしてしまい、源次郎を養子に直し、お國と末長く楽しもうとの
悪工み、聞くに堪え兼ね、怒りに任せ、思わず
呻る声を聞きつけ、お國が出て参り、
彼此と言い
合はしたものゝ、源次郎の方には殿様から釣道具の直しを頼みたいとの手紙を
以て証拠といたし、一
時は
私云い籠められ、弓の
折にてしたゝか打たれ、いまだに残る額の
疵、
口惜くてたまり兼ね、
表向にしようとは思ったなれど、
此方は証拠のない聞いた事、
殊に向うは次男の勢い、無理でも
圧え付けられて私はお
暇になるに相違ないと思い諦め、
彼の事は胸にたゝんでしまって置き、いよ/\
明日は釣にお
出になるお約束日ゆえお止め申しましたが、お聞入れがないから、是非なく、今晩二人の不義者を殺し、其の場を去らず切腹なし、殿様の難義をお救い申そうと思うた事は

の
嘴と
喰違い、とんでもない間違をいたしました、主人の為に
仇を討とうと思ったに、
却って主人を殺すとは神も仏もない事か、
何たる因果な事であるか、殿様御免遊ばせ」
と飛石へ両手をつき孝助は泣き転がりました。飯島は苦痛を
堪えながら、
飯「あゝ/\
不束なる此の飯島を主人と思えばこそ、それ程までに思うてくれる志
忝ない、なんぼ
敵同士とは云いながら現在汝の槍先に命を果すとは
輪廻応報、あゝ実に殺生は出来んものだなア」
孝「殿様敵同士とは情ない、
何で
私は敵同志でございますの」
飯「其の方が当家へ奉公に参ったは三月廿一日、其の時
某非番にて貴様の身の上を尋ねしに、父は小出の藩中にて名をば黒川孝藏と呼び、今を去る事十八年前、本郷三丁目藤村屋新兵衞という刀屋の前にて、何者とも知れず人手に
罹り、非業の最期を遂げたゆえ、親の
敵を討ちたいと、若年の頃より武家奉公を心掛け、
漸々の思いで当家へ奉公
住をしたから、どうか敵の討てるよう剣術を教えて下さいと手前の物語りをした時、
恟りしたというは、拙者がまだ平太郎と申し部屋住の
折、
彼の孝藏と
聊の口論がもとゝなり、切捨てたるはかく云う飯島平左衞門であるぞ」
と云われて孝助は
唯へい/\とばかりに呆れ果て、張詰めた気もひょろぬけて腰が抜け、ペタ/\と尻もちを突き、呆気に取られて、飯島の顔を
打眺め、茫然として居りましたが、
暫くして、
孝「殿様そう云う訳なれば、なぜ其の時にそう云っては下さいません、お情のうございます」
飯「現在親の敵と知らず、主人に取って忠義を尽す汝の志、
殊に孝心深きに
愛で、
不便なものと心得、いつか敵と
名告って汝に討たれたいと、さま/″\に心痛いたしたなれど、
苟めにも一旦主人とした者に
刃向えば
主殺しの罪は
遁れ難し、されば
如何にもして汝をば罪に落さず、敵と名告り討たれたいと思いし折から、相川より汝を養子にしたいとの
所望に任せ、養子に
遣わし、一人前の侍となして置いて
仇と名告り討たれんものと心組んだる其の
処へ、國と源次郎めが密通したを
怒って、二人の命を絶たんとの汝の心底、最前庭にて錆槍を
磨ぎし時より
暁りしゆえ、機を
外さず討たれんものと、
態と源次郎の
容をして見違えさせ、槍で突かして孝心の無念をこゝに
晴させんと、かくは計らいたる事なり、今汝が錆槍にて脾腹を突かれし苦痛より、先の日汝が手を合せ、親の敵の討てるよう剣術を教えてくだされと、頼まれた時のせつなさは百倍
増であったるぞ、定めて敵を討ちたいだろうが、我が首を切る時は
忽ち主殺しの罪に落ちん、されば我
髷をば切取って、
之にて胸をば晴し、其の方は
一先こゝを
立退いて、相川新五兵衞方へ
行き
密々に万事相談致せ、此の刀は
先つ頃藤村屋新兵衞方にて買わんと思い、見ているうちに喧嘩となり、汝の父を討ったる刀、中身は天正助定なれば、是を汝に形見として
遣わすぞ、又此の
包の
中には金子百両と
悉しく
跡方の事の頼み状、これを
披いて
読下せば、我が屋敷の始末のあらましは分る筈、汝いつまでも
名残を惜しみて
此所にいる時は、汝は
主殺の罪に落るのみならず、飯島の家は改易となるは
当然、此の道理を聞分けて
疾く参れ」
孝「殿様、どんな事がございましょうとも此の場は
退きません、
仮令親父をお殺しなさりょうが、それは親父が悪いから、かくまで
情ある御主人を見捨てゝ
他へ
立退けましょうか、忠義の道を欠く時は
矢張孝行は立たない道理、一旦主人と頼みしお方を、
粗相とは云いながら槍先にかけたは
私の
過り、お
詫の為に此の場にて切腹いたして相果てます」
飯「馬鹿な事を申すな、手前に切腹させる位なら飯島はかくまで心痛はいたさぬわ、左様な事を申さず早く
往け、もし此の事が人の耳に
入りなば飯島の家に係わる大事、
悉しい事は
書置に有るから早く
行かぬか、これ孝助、一旦
主従の因縁を結びし事なれば、
仇は仇恩は恩、よいか一旦仇を討ったる
後は三
世も変らぬ主従と心得てくれ、敵同士でありながら汝の奉公に参りし時から、どう云う事か其の
方が我が子のように可愛くてなア」
と云われ孝助は、おい/\と泣きながら、
孝「へい/\、これまで殿様の御丹誠を受けまして、剣術といい槍といい、なま兵法に覚えたが今日
却って仇となり、腕が鈍くば
斯くまでに深くは突かぬものであったに、御勘弁なすってくださいまし」
と泣き沈む。
飯「これ早く往け、往かぬと家は
潰れるぞ」
と
急き立てられ、孝助は止むを得ず形見の一刀腰に打込み、包を片手に立上り、主人の
命に随って脇差抜いて主人の
元結をはじき、大地へ
慟と
泣伏し、
孝「おさらばでございます」
と別れを告げてこそ/\門を出て、早足に水道端なる相川の屋敷に参り。
孝「お頼ん申します/\」
相「善藏や
誰か門を叩くようだ、
御廻状が来たのかも知らん、
一寸出ろ、善藏や」
善「へい/\」
相「
何だ、返事ばかりしていてはいかんよ」
善「只今明けます、只今、へい
真暗でさっぱり訳がわからない、只今々々、へい/\、どっちが出口だか忘れた」
コツリと柱で頭を
打ッつけ、アイタアイタヽヽヽと
寝惚眼をこすりながら戸を
開いて表へ
立出で、
善「外の方がよっぽど明るいくらいだ、へい/\どなた様でございます」
孝「飯島の家来孝助でございますが、
宜しくお取次を願います」
善「御苦労様でございます、只今明けます」
と石の吊してある門をがッたん/\と明ける。
孝「
夜中上りまして、おしずまりに成った
処を御迷惑をかけました」
善「まだ殿様はおしずまりなされぬようで、まだ
御本のお声が聞えますくらい、
先ずお
這入り」
と内へ入れ、善藏は奥へ参り、
善「殿様、只今飯島様の孝助様が
入っしゃいました」
相「それじゃアこれへ、アレ、コリャ善藏寝惚てはいかん、これ蚊帳の釣手を取って向うの方へやって置け、これ馬鹿何を寝惚ているのだ、寝ろ/\、仕方のない奴」
と
呟きながら玄関まで出迎え、
「これは孝助殿、さア/\お
上り、今では親子の中何も遠慮はいらない、ズッと上れ」
と座敷へ通し、
相「さて孝助殿、
夜中のお
使定めて火急の御用だろう、承りましょう、えゝ
何う云う御用か、
何だ泣いているな、男が泣くくらいではよく/\な訳だろうが、どうしたんだ」
孝「夜中上り恐れ入りますが、不思議の御縁、御当家様の御所望に任せ、主人得心の上
私養子のお
取極はいたしましたが、深い仔細がございまして、どうあっても遠国へ参らんければなりませんゆえ、此の縁談は破談と遊ばして、どうか
外々から御養子をなされて下さいませ」
相「はいナア成程よろしい、お前が気に入らなければ仕方が無いねえ、高は少なし、娘は
不束なり、
舅は此の通りの
粗忽家で一つとして取り所がない、だが娘がお前の忠義を見抜いて
煩うまでに思い込んだもんだから、殿様にも話し、お前の得心の上取極めた事であるのを、お前一人来て破縁をしてくれろと云ってもそれは出来ないな、殿様が来てお取極めになったのを、お前一人で破るには、何か趣意がなければ破れまい、左様じゃござらんか、どう云う訳だか次第を承わりましょう、娘が気に入らないのか、舅が悪いのか、高が不足なのか、
何んだ」
孝「決してそういう訳ではございません」
相「それじゃアお前は飯島様を
失錯りでもしたか、どうも
尋常の顔付ではない、お前は根が忠義の人だから、しくじってハッと思い、腹でも切ろうか、遠方へでも
行こうと云うのだろうが、そんな事をしてはいかん、しくじったなら
私が一緒に行って詫をしてやろう、もうお前は結納まで
取交せをした事だから、内の者、云い付けて、孝助どのとは云わせず、孝助様と呼ばせるくらいで、云わば内の
忰を来年の二月婚礼を致すまで、先の主人へ預けて置くのだ、少し
位の粗相が有ったッてしくじらせる事があるものか、と不理窟をいえばそんなものだが、マア一緒に行こう、行ってやろう」
孝「いえ、そう云う訳ではございません」
相「何だ、それじゃアどう云う訳だ」
孝「申すに申し切れない程な深い訳がございまして」
相「はゝア分った、宜しい、そう有るべき事だろう、どうもお前のような忠義もの故、飯島様が相川へ行ってやれ、ハイと主命を
背かず
答はしたものゝ、お前の器量だから先に約束をした女でもあるのだろう、所が今度の事を其の女が知って私が先約だから是非とも女房にしてくれなければ主人に駆込んで此の事を告げるとか、何とか云い出したもんだから、お前はハッと思い、其の事が主人へ知れては相済まん、それじゃアお前を一緒に連れて遠国へ逃げようと云うのだろう、なに一人ぐらいの妾はあっても宜しい、お
頭へ
一寸届けて置けば仔細はない、
尤もの事だ、娘は表向の
御新造として、
内々の
処は其の女を御新造として置いてもいゝ、
私が取る分
米を其の女にやりますから宜しい、
私が行って其の女に逢って頼みましょう、其の女は何者じゃ、芸者か
何んだ」
孝「そんな事ではございません」
相「それじゃア何んだよ、エイ何んだ」
孝「それではお話をいたしまするが、殿様は
負傷でいます」
相「ナニ負傷で、
何故早く云わん、それじゃア
狼藉者が忍び込み、飯島が
流石手者でも
多勢に
無勢、
切立てられているのを、お前が一方を切抜けて知らせに来たのだろう、宜しい、手前は剣術は知らないが、若い時分に学んで槍は少々心得ておる、参ってお助太刀をいたそう」
孝「さようではございません、実は召使の國と隣の源次郎が
疾から密通をして」
相「へい、やっていますか、呆れたものだ、そういえばちら/\そんな噂もあるが、恩人の思いものをそんな事をして憎い奴だ、
人非人ですねえ、それから/\」
孝「先月の廿一日、殿様お
泊番の
夜に、源次郎が
密かにお國の
許へ忍び込み、
明日中川にて殿様を舟から突落し殺そうとの
悪計みを、
私が
立聞をした所から、争いとなりましたが、
此方は悲しいかな草履取の身の上、向うは二男の
勢なれば喧嘩は
負となったのみならず、弓の折にて
打擲され、額に残る此の
疵も其の時打たれた疵でございます」
相「不届至極な奴だ、お前なぜ其の事を
直に御主人に云わないのだ」
孝「申そうとは思いましたが、
私の方は聞いたばかり、証拠にならず、向うには殿様から、
暇があったら
夜にでも
宅へ参って釣道具の損じを直して呉れとの頼みの手紙がある事ゆえ、表沙汰にいたしますれば、主人は必ず隣へ対し、義理にも私はお
暇に成るに違いはありません、さすれば
後にて二人の者が思うがまゝに殿様を殺しますから、どうあっても
彼のお
邸は出られんと今日まで胸を
摩って居りましたが、
明日は
愈々中川へ釣にお
出になる当日ゆえ、それとなく今日殿様に
明日の漁をお止め申しましたが、お聞入れがありませんから、止むを得ず、
今宵の内に二人の者を殺し、其の場で私が切腹すれば、殿様のお命に別条はないと思い詰め、槍を
提げて庭先へ忍んで様子を
窺いました」
相「誠に感心感服、アヽ恐れ入ったね、忠義な事だ、誠に
何うも、それだから娘より
私が惚れたのだ、お前の志は
天晴なものだ、其の様な奴は
突放しで
宜いよ、腹は切らんでも宜いよ、
私が
何のようにもお頭に
届を出して置くよ、それから何うした」
孝「そういたしますると、廊下を通る
寝衣姿は
慥に源次郎と思い、繰出す槍先あやまたず、脇腹深く突き込みましたところ間違って主人を突いたのでございます」
相「ヤレハヤ、それはなんたることか、
併し疵は浅かろうか」
孝「いえ、深手でございます」
相「イヤハヤどうも、なぜ源次郎と声を掛けて突かないのだ、無闇に突くからだ、困った事をやったなア、だが
過って主人を突いたので、お前が不忠者でない悪人でない事は御主人は御存じだろうから、間違いだと云う事を御主人へ話したろうね」
孝「主人は
疾くより得心にて、わざと源次郎の姿と見違えさせ、
私に突かせたのでござります」
相「これはマア何ゆえそんな馬鹿な事をしたんだ」
孝「
私には深い事は分りませんが、此のお書置に
委しい事がございますから」
と差出す包を、
相「拝見いたしましょう、どれこれかえ、大きな包だ、前掛が入っている、ナニ
婆やアのだ、なぜこんな所に置くのだ、そっちへ持って
行け、コレ本の
間に眼鏡があるから取ってくれ」
と眼鏡を掛け、
行灯の明り掻き立て
読下して相川も、ハッとばかりに
溜息をついて驚きました。
十四
伴藏は畑へ転がりましたが、両人の姿が見えなくなりましたから、
慄えながらよう/\起上り、泥だらけの
儘家へ駈け戻り、
伴「おみねや、出なよ」
みね「あいよ、どうしたえ、まア私は熱かったこと、
膏汗がビッショリ流れる程出たが、我慢をして居たよ」
伴「
手前は熱い汗をかいたろうが、
己ア
冷てえ汗をかいた、幽霊が裏窓から
這入って行ったから、萩原様は
取殺されて仕舞うだろうか」
みね「私の考えじゃア殺すめえと思うよ、あれは悔しくって出る幽霊ではなく、恋しい/\と思っていたのに、お札が有って這入れなかったのだから、是が生きている人間ならば、お前さんは
余りな人だとか
何とか云って
口説でも云う所だから殺す
気遣はあるまいよ、どんな事をしているか、お前見ておいでよ」
伴「馬鹿をいうな」
みね「表から廻ってそっと見ておいでヨウ/\」
といわれるから、伴藏は
抜足して萩原の裏手へ廻り、
暫らくして
立帰り、
みね「大層長かったね、どうしたえ」
伴「おみね、成程
手前の云う通り、何だかゴチャ/\話し声がするようだから
覗いて見ると、
蚊帳が吊って有って何だか分らないから、裏手の方へ廻るうちに、話し声がパッタリとやんだようだから、大方仲直りが有って幽霊と寝たのかも知れねえ」
みね「いやだよ、詰らない事をお云いでない」
という
中に
夜もしら/\と明け離れましたから、
伴「おみね、夜が明けたから萩原様の所へ一緒に往って見よう」
みね「いやだよ
私ゃ夜が明けても怖くっていやだよ」
というのを、
伴「マア往きねえよ」
と
打連れだち。
伴「おみねや、戸を明けねえ」
みね「いやだよ、何だか怖いもの」
伴「そんな事を云ったって、
手前が毎朝戸を明けるじゃアねえか、ちょっと明けねえな」
みね「戸の間から手を入れてグッと押すと、
栓張棒が落ちるから、お前お明けよ」
伴「
手前そんな事を云ったって、毎朝来て御膳を炊いたりするじゃアねえか、それじゃア手前手を入れて栓張だけ外すがいゝ」
みね「私ゃいやだよ」
伴「それじゃアいゝや」
と云いながら栓張を外し、戸を引き開けながら、
伴「御免ねえ、旦那え/\夜が明けやしたよ、明るくなりやしたよ、旦那え、おみねや、音も沙汰もねえぜ」
みね「それだからいやだよ」
伴「
手前先へ
入れ、手前はこゝの内の勝手をよく知っているじゃアねえか」
みね「怖い時は勝手も何もないよ」
伴「旦那え/\、御免なせえ、夜が明けたのに何怖いことがあるものか、日の恐れがあるものを、なんで幽霊がいるものか、だがおみね世の中に何が怖いッて此の位怖いものア
無えなア」
みね「あゝ、いやだ」
伴藏は
呟きながら
中仕切の障子を明けると、
真暗で、
伴「旦那え/\、よく寝ていらッしゃる、まだ
生体なく
能く寝ていらッしゃるから大丈夫だ」
みね「そうかえ、旦那、夜が明けましたから
焚きつけましょう」
伴「御免なせえ、
私が戸を明けやすよ、旦那え/\」
と云いながら床の内を
差覗き、伴藏はキャッと声を上げ、
「おみねや、
己アもう此の
位な怖いもなア見た事はねえ」
とおみねは聞くよりアッと声をあげる。
伴「おゝ
手前の声でなお怖くなった」
みね「
何うなっているのだよ」
伴「何うなったの
斯うなったのと、実に
何とも
彼とも云いようのねえ
怖えことだが、これを
手前とおれと見たばかりじゃア
掛合にでもなっちゃア
大変だから、白翁堂の爺さんを連れて来て
立合をさせよう」
と白翁堂の宅へ参り、
伴「先生/\伴藏でごぜえやす、ちょっとお明けなすって」
白「そんなに叩かなくってもいゝ、寝ちゃアいねえんだ、
疾うに眼が覚めている、そんなに叩くと戸が
毀れらア、どれ/\待っていろ、あゝ
痛たゝゝゝ戸を明けたのに己の頭をなぐる奴があるものか」
伴「急いだものだから、つい、御免なせえ、先生ちょっと萩原様の所へ往って下せえ、何うかしましたよ、
大変ですよ」
白「何うしたんだ」
伴「何うにも斯うにも、
私が今おみねと
両人でいって見て驚いたんだから、お
前さん
一寸立合って下さい」
と聞くより勇齋も驚いて、
藜の
[#「藜の」は底本では「黎の」]杖を
曳き、ポク/\と出掛けて参り、
白「伴藏お
前先へ入んなよ」
伴「
私は怖いからいやだ」
白「じゃアおみねお
前先へ入れ」
みね「いやだよ、私だって怖いやねえ」
白「じゃアいゝ」
と云いながら中へ這入ったけれども、真暗で訳が分らない。
白「おみね、ちょっと小窓の障子を明けろ、萩原氏、どうかなすったか、お加減でも悪いかえ」
と云いながら、床の内を
差覗き、白翁堂はわな/\と
慄えながら思わず
後へ
下りました。
十五
相川新五兵衞は眼鏡を掛け、飯島の
遺書をば取る手おそしと読み下しまするに、孝助とは一旦
主従の
契りを結びしなれども
敵同士であったること、孝助の忠実に
愛で、孝心の深きに感じ、
主殺の罪に落さずして彼が本懐を遂げさせんがため、
態と宮野邊源次郎と見違えさせ討たれしこと、孝助を急ぎ
門外に
出し
遣り、自身に源次郎の
寝室に忍び入り、彼が刀の鬼となる覚悟、さすれば飯島の
家は滅亡致すこと、彼等両人我を打って
立退く先は必定お國の親元なる越後の村上ならん、
就いては汝孝助時を移さず跡追掛け、我が
仇なる両人の生首
提げて立帰り、
主の
敵を討ちたる
廉を
以て我が飯島の家名再興の儀を
頭に届けくれ、其の時は相川様にもお心添えの程
偏に願い
度いとのこと、又汝は相川へ養子に参る約束を結びたれば、娘お徳どのと互いに
睦ましく暮し、両人の間に出来た子供は
男女に
拘わらず、孝助の
血統を以て飯島の相続人と定めくれ、
後は
斯々云々と、実に細かに届く飯島の家来思いの切なる
情に、孝助は相川の
遺書を読む
間、息をもつかず聞いていながら、膝の上へぽたり/\と大粒な熱い涙を
零していましたが、
突然剣幕を変えて表の方へ飛出そうとするを、
相「これ孝助殿、血相変えて
何処へ
行きなさる」
と云われて孝助は泣声を震わせ、
孝「只今お
遺書の御様子にては、主人は
私を急いで出し、
後で客間へ踏込んで源次郎と闘うとの事ですが、
如何に源次郎が剣術を知らないでも、殿様があんな
深傷にてお立合なされては、彼が無残の刃の下に
果敢なくお成りなされるは知れた事、みす/\
敵を目の前に置きながら、恩あり義理ある御主人を彼等に
酷く討たせますは実に残念でござりますから、
直に取って返し、お助太刀を致す所存でございます」
相「分らない事を云わっしゃるな、御主人様が是だけの
遺書をお
遣わしなさるは何の
為めだと思わッしゃる、そんな事をしなさると、飯島の
家が
潰れるから、
邸へ
行く事は明朝までお待ち、此の遺書の事を心得てこれを
反故にしてはならんぜ」
と亀の甲より年の功、
流石老巧の親身の意見に孝助はかえす言葉もありませんで、
口惜がり、
唯身を震わして泣伏しました。話かわって飯島平左衞門は孝助を
門外に出し、急ぎ血潮
滴たる槍を杖とし、蟹のように成ってよう/\に縁側に這い上がり、
蹌めく足を踏みしめ踏みしめ、段々と廊下を伝い、そっと客間の障子を
開き中へ
入り、十二畳一杯に釣ってある蚊帳の
釣手を切り払い、
彼方へはねのけ、グウ/\とばかり
高鼾で
前後も知らず
眠ている源次郎の
頬の
辺りを、血に
染みた槍の穂先にてペタリ/\と叩きながら、
飯「
起ろ/\」
と云われて源次郎頬が
冷やりとしたに
不図目を
覚し、と見れば飯島が元結はじけて
散し髪で、眼は血走り、顔色は
土気色になり、血の
滴たる手槍をピタリッと付け立っている有様を見るより、源次郎は早くも
推し、アヽヽこりア
流石飯島は
智慧者だけある、己と妾のお國と不義している事を
覚られたか、さなくば例の悪計を孝助
奴が告げ口したに相違なし、何しろ余程の
腹立だ、飯島は真影流の
奥儀を
極めた剣術の名人で、
旗下八万騎の其の中に、肩を並ぶるものなき達人の聞えある人に槍を付けられた事だから、源次郎はぎょっとして、
枕頭の一刀を手早く手元に引付けながら、
慄える声を出して、
源「伯父様、何をなさいます」
と一生懸命
面色土気色に変わり、
眼色血走りました。飯島も面色土気色で目が血走りているから、あいこでせえでございます。源次郎は一刀の
鍔前に手を掛けてはいるものゝ、
気憶れがいたし刃向う事は出来ませんで
竦んで仕舞いました。
源「伯父様、
私をどうなさるお積りで」
飯島は
深傷を負いたる事なれば、
震える足を踏み止めながら、
飯「何事とは
不埓な奴だ、汝が
疾より我が召使國と不義
姦通しているのみならず、
明日中川にて
漁船より我を突き落し、命を取った暁に、うま/\此の飯島の家を
乗取らんとの悪だくみ、恩を仇なる汝が不所存、云おう
様なき
人非人、此の場に
於て槍玉に揚げてくれるから左様心得ろ」
と云い放たれて、源次郎は、剣術はからっ
下手にて、
放蕩を働き、大塚の親類に預けられる程な未熟
不鍛錬な者なれども、飯島は此の
深傷にては彼の刃に打たれて死するに相違なし、
併し打たれて死ぬまでも此の槍にてしたゝかに足を突くか手を突いて、
亀手か
跛足にでもして置かば、
後日孝助が
敵討を
為る時幾分かの助けになる事もあるだろうから、
何処かを突かんと狙い詰められ、
源「伯父さま
私は何も槍で突かれる様な覚えはございません」
飯「黙れ」
と怒りの声を振立てながら、
一歩進んで
繰出す
槍鋒鋭く突きかける。源次郎はアッと驚き身を
交したが受け損じ、太股へ掛けブッツリと突き貫き、今一本突こうとしましたが、孝助に突かれた
深傷に
堪え兼ね、
蹌々とする所を、源次郎は一本突かれ死物狂いになり、一刀を抜くより早く飛込みさま飯島目掛けて切り付ける。切付けられてアッと云って
蹌めく
処へ、又、太刀深く肩先へ切込まれ、アッと叫んで倒れる処へ乗し掛って、
恰で
河岸で
鮪でもこなす様に切って仕舞いました。お國は
中二階に寝ていましたが、此の物音を聞き附け、
寝衣の
儘に
階子を降り、そっと来て様子を
窺うと、此の
体裁に驚き、
慌てゝ二階へ
上ったり下へ下りたりしていると、源次郎が飯島に
止めを刺したようだから、お國は側へ
駈付けて、
國「源さま、
貴方にお怪我はございませんか」
源次郎は肩息をつきフウ/\とばかりで返事も致しません。
國「あなた黙っていては分りませんよ、お怪我はありませんか」
といわれて源次郎はフウ/\といいながら、
源「怪我はないよ、誰だ、お國さんか」
國「
貴方のお足から大層血が出ますよ」
源「これは槍で突かれました、
手強い奴と思いの
外なアにわけはなかった、
併し
此処に
何時迄こうしては
居られないから、
両人で一緒に
何処へなりとも
落延びようから、早く支度をしな」
と云われてお國は成程そうだと急ぎ奥へ駈戻り、手早く身支度をなし、用意の金子や結構な品々を
持来り、
國「源さまこの
印籠をお
提げなさいよ、この
召物を召せ」
と勧められ、源次郎は着物を幾枚も着て、印籠を七つ提げて、大小を六本

し、帯を三本締めるなど大変な騒ぎで、
漸々支度が整ったから、お國とともに手を取って忍び
出でようとする
処を、仲働きの女中お竹が、先程より騒々しい物音を聞付け、来て見れば此の有様に驚いて、
「アレ人殺し」
という奴を、源次郎が驚いて、此の声人に聞かれてはと、一刀抜くより飛込んで、デップリ
肥って居る身体を、肩口から背びらへ掛けて
斬付ける。斬られてお竹はキャッと声をあげて其の
儘息は絶えました。
他の女どもゝ驚いて下流しへ這込むやら、又は
薪箱の中へ
潜り込むやら騒いでいる
中に、源次郎お國の
両人は
此処を忍び
出で、
何処ともなく落ちて
行く。
後で源助は奥の騒ぎを聞きつけて、いきなり自分の部屋を飛びだし、
拳を
振って
隣家の
塀を打ち叩き、破れるような声を出して、
源「狼藉ものが這入りました/\」
と騒ぎ立てるに、
隣家の宮野邊源之進はこれを
聞附け思う
様、飯島のごとき
手者の
処へ押入る狼藉ものだから、
大勢徒党したに相違ないから、成るたけ遅くなって、夜が明けて
往く方がいゝと思い
先ず一同を
呼起し、蔵へまいって
著込を持ってまいれの、
小手脛当の用意のと云っているうちに、
夜はほの/″\と明け渡りたれば、もう狼藉者はいる
気遣はなかろうと、源之進は家来一二
人を召連れ来て見れば此の始末。
如何したる事ならんと思うところへ、
一人の女中が下流しから
這上り、源之進の前に両手をつかえ、
「実は昨晩の狼藉者は、貴方様の
御舎弟源次郎様とお國さんと、
疾うから密通してお
出でになって、昨夜殿様を殺し、金子衣類を
窃取り、
何処ともなく逃げました」
と聞いて源之進は大いに驚き、早速に
邸へ立帰り、急ぎお
頭へ向け源次郎が
出奔の
趣の
届を出す。飯島の方へはお目附が
御検屍に到来して、段々死骸を
検め見るに、脇腹に槍の
突傷がありましたから、源次郎如き鈍き腕前にては
兎ても飯島を討つ事は
叶うまじ、されば必ず飯島の
寝室に忍び入り、熟睡の油断に
附入りて槍を
以て
欺し討ちにした其の
後に、刀を以て
斬殺したに相違なしということで、源次郎はお尋ね者となりましたけれども、飯島の
家は
改易と決り、飯島の死骸は谷中新幡随院へおくり、こっそりと野辺送りをしてしまいました。こちらは孝助、御主人が
私の
為めに一命をお捨てなされた事なるかと思えば、いとゞ気もふさぎ、欝々としていますと、相川はお頭から帰って、
相「婆アや、少し孝助殿と相談があるから
此方へ来てはいかんよ、首などを出すな」
婆「何か御用で」
相「用じゃないのだよ、そっちへ
引込んでいろ、これ/\茶を入れて来い、それから仏様へ線香を上げな、さて孝助殿少し話したい事もあるから、まア/\
此方へ/\、誰にもいわれんが、
先以て御主人様のお
遺書通りに成るから心配するには及ばん、お前は親の
敵は討ったから、是からは御主人は御主人として、其の敵を
復し、飯島のお家再興だよ」
孝「仰せに及ばず、もとより敵討の覚悟でございます、此の
後万事に付き
宜しくお
心添の程を願います」
相「此の相川は年老いたれども、其の事は命に掛けて飯島様の
御家の立つように計らいます、そこでお前は
何日敵討に
出立なさるえ」
孝「最早一刻も猶予致す時でございませんゆえ、
明早天出立致す了簡です」
相「
明日直ぐに、左様かえ、余り
早や過ぎるじゃないか、宜しい此の事ばかりは
留められない、もう一日々々と引き広ぐ事は出来ないが、お前の出立
前に
私が
折入って頼みたい事があるが、どうか
叶えては下さるまいか」
孝「
何のような事でも宜しゅうございます」
相「お前の出立前に娘お徳と婚礼の盃だけをして下さい、
外に望みは何もない、どうか
聞済んで下さい」
孝「一旦お約束申した事ゆえ、婚礼を致しまして宜しいようなれど、主人よりのお約束申したは来年の二月、
殊に目の前にて主人があの通りになられましたのに、只今婚礼を致しましては主人の位牌へ対して済みません、敵討の本懐を
遂げ立帰り、
目出度く婚礼を致しますれば、どうぞそれ迄お待ち下さるように願います」
相「それはお前の事だから、遠からず本懐を遂げて御帰宅になるだろうが、敵の
行方が知れない時は、五年で帰るか十年でお帰りになるか、幾年掛るか知れず、それに私はもう取る年、
明日をも知れぬ身の上なれば、此の悦びを見ぬ内帰らぬ旅に
赴く事があっては
冥途の
障り、殊に娘も煩う程お前を思っていたのだから、どうか家内だけで、
盃事を済ませて置いて、安心させてくださいな、それにお前も飯島の家来では真鍮巻の木刀を差して
行かなければならん、それより相川の養子となり、其の筋へ養子の届をして、
一人前の立派な侍に
出立って往来すれば、途中で人足などに馬鹿にもされず
宜かろうから、
何うぞ家内だけの祝言を聞済んでください」
孝「至極
御尤もなる仰せです、家内だけなれば
違背はございません」
相「御承知くだすったか、千万
忝けない、あゝ有難い、相川は貧乏なれども婚礼の入費の備えとして五六十両は掛ると見込んで、別にして置いたが、これはお前の餞別に上げるから持って行っておくれ」
孝「金子は主人から貰いましたのが百両ございますから、もう入りません」
相「アレサいくら有っても
宜いのは金、殊に長旅のことなれば、邪魔でもあろうがそう云わずに持って行ってください、そこで私が
細い金を
選って、
襦袢の中へ縫い込んで置く積りだから、肌身離さず身に
著けて置きなさい、道中には胡麻の灰という奴があるから随分気をお付けなさい、それに此の矢立をさしてお
出で、又これなる一刀は
予ねて約束して置いた藤四郎吉光の
太刀、重くもあろうが差してお呉れ、是と御主人のお形見天正助定を差して
行けば、舅と主人がお前の
後影に付添っているも同様、勇ましき働きをなさいまし」
孝「有りがとうございます」
相「
何うか今夜
不束な娘だが婚礼をしてくだされ、これ婆、
明日は孝助殿が
目出度く御出立だ、そこで目出度い
序でに今夜婚礼をする積りだから、徳に髪でも取り上げさせ、お化粧でもさせて置いてくれ、其の前に仕事がある、此の金を襦袢へ縫込んでくれ、善藏や、手前は
直に水道町の花屋へ行って、目出度く何か
頭付きの魚を三枚ばかり取って来い、序でに酒屋へ行って酒を二升、
味淋を一升ばかり、それから帰りに半紙を十
帖ばかりに、煙草を二玉に、
草鞋の良いのを取って参れ」
といい付け、そうこうするうちに支度も整いましたから、
酒肴を座敷に取並べ、
媒妁なり親なり
兼帯にて、相川が四海浪静かにと
謡い、三々九度の
盃事、祝言の礼も果て、
先ずお開きと云う事になる。
相「あゝ/\婆ア、誠に目出度かった」
婆「誠にお目出とう存じます、
私はお嬢様のお
少さい時分からお附き申して御婚礼をなさるまで御奉公いたしましたかと存じますと、誠に嬉しゅうございます、あなた
嘸御安心でございましょう」
相「婆ア
宜かえ、頼むよ、おいらは
明日の朝早く起るから、お前飯を炊かして、孝助殿に尾頭付きでぽッぽッと湯気の立つ飯を食べさして立たせてやりたいから、いゝかえ、
緩りとお休み、先ずお
開と致しましょう、孝助殿どうか幾久しく願います、娘はまだ年もいかず、世間知らずの不束者だから何分宜しくお頼み申す、
氷人は宵の
中だから、婆アいゝかえ、頼んだぜ」
婆「
貴方は頼む/\と仰しゃって何でございます」
相「分らない婆アだな、嬢の事をサ、あすこへちょっと屏風を
立廻して、恥かしくないように、宜しいか、それがサ誠に
彼女が恥かしがって、もじ/\としているだろうから旨くソレ」
婆「旦那様なんのお手付きでございますよ」
相「
此奴わからぬ奴だナ、手前だって亭主を持ったから子供が出来たのだろう、子供が出来たのち乳が出て、乳母に出たのだろう、ホレ娘は年がいかないからいゝ
塩梅にホレ、いゝか」
婆「貴方は本当に
何時までもお嬢様をお
少さいように
思召ていらっしゃいますよ、大丈夫でございますよ」
相「成程目出たい、
宜いかえ頼むよ」
婆「旦那様、お嬢様お休み遊ばせ」
と云っても、孝助はお國源次郎の跡を追い掛け、
兎や
斯うと
種々心配などして腕こまねき、床の上に坐り込んでいるから、お徳も寝るわけにもいかず坐っているから、
婆「左様なれば旦那様御機嫌様宜しく、お嬢様先程申しました事は宜しゅうございますか」
徳「貴方少しお静まり遊ばせな」
孝「私は少し考え事がありますから、あなたお構いなくお先へお休みなすって下さいまし」
徳「
婆やア
一寸来ておくれ」
婆「ハイ、
何でございます」
徳「旦那様がお休みなさらなくって」
と云いさして口ごもる。
婆「貴方お静まりあそばせ、それではお嬢様がお休みなさる事が出来ませんよ」
孝「只今寝ます、どうかお構いなく」
婆「誠にどうもお
堅過でお気が詰りましょう、御機嫌様よろしゅう」
徳「あなた少しお横におなり遊ばしまし」
孝「どうかお先へお休みなさい」
徳「婆やア」
婆「困りますねえ、あなた少しお休みあそばせ」
徳「婆やア」
とのべつに呼んでいるから孝助も気の毒に思い、横になって枕をつけ、
玉椿八千代までと思い思った夫婦
中、初めての語らい、誠にお目出たいお話でございます。
翌日になると、暗いうちから孝助は支度をいたし、
相「これ/\婆アや、支度は出来たかえ、御膳を上げたか、湯気は立ったかえ、善藏に板橋まで送らせて
遣る積りだから、荷物は玄関の
敷台まで出して置きな、孝助殿御膳を
上れ」
孝「お
父様御機嫌よろしゅう、長い旅ですからつど/\書面を
上る訳にも参りません、
唯心配になるのはお父様のお身体、どうか
私が本懐を遂げ帰宅致すまで御丈夫にお
出であそばせよ、
敵の首を
提げてお目に掛け、お悦びのお顔が見とうございます」
相「お前も随分身体を大事にして下さい、どうか立派に出立して下さい、
種々と云いたい事もあるが、キョト/\して云えないから何も云いません、娘
何んで袖を
引張るのだ」
徳「お父様、旦那様は今日お立ちになりましたら、いつ頃お帰宅になるのでございますのでしょう」
相「まだ分らぬ事をいう、いつまでも
少さい子供のような気でいちゃアいけないぜ、旦那さまは御主人の敵討に御出立なさるので、伊勢参宮や物見遊山に
往くのではない、敵を討ち遂げねばお帰りにはならない、何だ
泣ッ
面をして」
徳「でも大概いつ頃お帰りになりましょうか」
相「おれにも五年かゝるか十年かゝるか分らない」
徳「そんなら五年も十年もお帰りあそばさないの」
と云いながら
潜々と泣き
萎れる。
相「これ、何が悲しい、
主の敵を討つなどゝ云う事は、侍の
中にも立派な事だ、かゝる立派な亭主を持ったのは有難いと思え、目出度い出立だ、
何故笑い顔をして立たせない、手前が未練を残せば少禄の娘だから未練だ、
意気地がないと孝助殿に
愛想を尽かされたら
何うする、孝助殿歳がいかない子供のような娘だから、気にかけて下さるな、婆ア何を泣く」
婆「
私だってお
名残りが惜しいから泣きます、貴方も泣いて入らっしゃるではございませんか」
相「己は年寄だから宜しい」
と言訳をしながら泣いていると、孝助は、
「さようならば御機嫌よろしゅう」
と玄関の敷台を
下り草鞋を
穿こうとする、其の側へお徳はすり寄り
袂を控え、涙に目もとをうるましながら、
「御機嫌様よろしく」
と
縋り付くを孝助は
慰め、善藏に送られ出立しました。
十六
白翁堂勇齋は萩原新三郎の
寝所を
捲くり、実にぞっと足の方から総毛立つほど怖く思ったのも道理、萩原新三郎は虚空を
掴み、歯を喰いしばり、面色土気色に変り、余程な苦しみをして死んだものゝ如く、其の脇へ
髑髏があって、手とも覚しき骨が萩原の
首玉にかじり付いており、あとは足の骨などがばら/\になって、床の
中に
取散らしてあるから、勇齋は見て
恟りし、
白「伴藏これは
何だ、おれは今年六十九に成るが、
斯んな怖ろしいものは初めて見た、支那の小説なぞにはよく狐を女房にしたの、幽霊に出逢ったなぞと云うことも随分あるが、
斯様な事にならないように、新幡随院の良石和尚に頼んで、有難い
魔除の
御守を借り受けて萩原の首を掛けさせて置いたのに、
何うも因縁は
免れられないもので仕方がないが、伴藏首に掛けて居る守を取って呉れ」
伴「怖いから
私ゃアいやだ」
白「おみね、こゝへ来な」
みね「
私もいやですよ」
白「何しろ雨戸を明けろ」
と戸を明けさせ、白翁堂が自ら立って萩原の首に掛けたる白木綿の胴巻を
取外し、グッとしごいてこき出せば、黒塗
光沢消の御厨子にて、中を開けばこは
如何に、金無垢の海音如来と思いの
外、いつしか誰か盗んですり替えたるものと見え、中は瓦に
赤銅箔を置いた土の不動と
化してあったから、白翁堂はアッと呆れて茫然と致し、
白「伴藏これは誰が盗んだろう」
伴「なんだか
私にゃアさっぱり訳が分りません」
白「これは世にも
尊き海音如来の立像にて、魔界も恐れて立去るという程な尊い品なれど、新幡随院の良石和尚が厚い
情の心より、萩原新三郎を
不便に思い、貸して下され、新三郎は肌身放さず首にかけていたものを、
何うして
斯様にすり替えられたか、誠に不思議な事だなア」
伴「成程なア、
私どもにゃア
何だか訳が分らねえが、観音様ですか」
白「伴藏手前を疑る訳じゃアねえが、萩原の地面
内に居る者は己と手前ばかりだ、よもや手前は盗みはしめえが、人の物を奪う時は必ず其の
相に
顕われるものだ、伴藏
一寸手前の人相を見てやるから顔を出せ」
と懐中より天眼鏡を取出され、伴藏は大きに驚き、見られては大変と思い。
伴「旦那え、冗談いっちゃアいけねえ、
私のような
斯んな
面は、どうせ出世の出来ねえ面だから見ねえでもいゝ」
と断る様子を白翁堂は早くも
推し、ハヽアこいつ伴藏がおかしいなと思いましたが、なまなかの事を云出して取逃がしてはいかぬと思い直し、
白「おみねや、事柄の済むまでは二人でよく気を付けて居て、
成たけ人に云わないようにしてくれ、己は是から幡随院へ行って話をして来る」
と
藜の杖を曳きながら幡随院へやって来ると、良石和尚は
浅葱木綿の衣を
着し、
寂寞として坐布団の上に坐っている所へ勇齋
入り
来たり、
白「これは良石和尚いつも御機嫌よろしく、とかく今年は残暑の強い事でございます」
良「やア出て来たねえ、
此方へ来なさい、誠に萩原も飛んだことになって、
到頭死んだのう」
白「えゝあなたはよく御存じで」
良「側に悪い奴が附いて居て、又萩原も
免れられない悪因縁で仕方がない、定まるこッちゃ、いゝわ心配せんでもよいわ」
白「道徳高き名僧智識は百年先の事を
看破るとの事だが、
貴僧の御見識誠に恐れ入りました、
就きまして
私が済まない事が出来ました」
良「海音如来などを盗まれたと云うのだろうが、ありゃア土の中に隠してあるが、あれは来年の八月には
屹度出るから心配するな、よいわ」
白「
私は
陰陽を
以って世を渡り、未来の禍福を占って人の志を定むる事は、私承知して居りますけれども、こればかりは気が付きませなんだ」
良「どうでもよいわ、萩原の死骸は
外に菩提所も有るだろうが、飯島の娘お露とは深い因縁がある事
故、あれの墓に並べて埋めて石塔を建てゝやれ、お前も萩原に世話になった事もあろうから施主に立ってやれ」
と云われ白翁堂は委細承知と
請をして寺をたち
出で、
路々も
何うして和尚があの事を早くも
覚ったろうと不思議に思いながら帰って来て、
白「伴藏、貴様も萩原様には恩になっているから、野辺の送りのお供をしろ」
と跡の始末を取り片付け、萩原の死骸は谷中の新幡随院へ葬ってしまいました。伴藏は
如何にもして自分の悪事を
匿そうため、今の
住家を
立退かんとは思いましたけれども、
慌てた事をしたら人の疑いがかゝろう、あゝもしようか、こうもしようかとやっとの事で一策を案じ
出し、自分から近所の人に、萩原様の所へ幽霊の来るのを己が
慥かに見たが、幽霊が二人でボン/\をして通り、一人は
島田髷の
新造で、一人は年増で牡丹の花の付いた灯籠を
提げていた、あれを見る者は三日を待たず死ぬから、己は怖くて
彼処にいられないなぞと
云触すと、聞く人々は尾に尾を付けて、萩原様の所へは幽霊が百人来るとか、根津の清水では女の泣声がするなど、さま/″\の評判が立ってちり/″\人が
他へ
引起してしまうから、白翁堂も薄気味悪くや思いけん、
此処を
引払って、
神田旅籠町辺へ
引越しました。伴藏おみねはこれを
機に、何分怖くて
居られぬとて、
栗橋在は伴藏の生れ故郷の事なれば、中仙道栗橋へ引越しました。
十七
伴藏は悪事の露顕を恐れ、女房おみねと栗橋へ
引越し、幽霊から貰った百両あれば
先ずしめたと、懇意の馬方
久藏を頼み、此の頃は諸式が安いから二十両で立派な
家を買取り、五十両を
資本に
下し
荒物見世を開きまして、
関口屋伴藏と呼び、初めの程は夫婦とも一生懸命働いて、安く仕込んで安く売りましたから、
忽ち世間の評判を取り、関口屋の
代物は値が安くて品がいゝと、
方々から押掛けて買いに来るほどゆえ、大いに繁昌を
極めました。凡夫盛んに神祟りなし、人盛んなる時は天に勝つ、人定まって天人に勝つとは古人の金言
宜なるかな、
素より
水泡銭の事なれば身につく道理のあるべき訳はなく、翌年の四月頃から伴藏は以前の事も打忘れ少し
贅沢がしたくなり、
絽の小紋の羽織が着たいとか、帯は献上博多を締めたいとか、
雪駄が
穿いて見たいとか云い出して、
一日同宿の
笹屋という料理屋へ
上り込み、一
盃やっている側に
酌取女に出た
別嬪は、年は二十七位だが、
何うしても廿三四位としか見えないという
頗る
代物を見るよりも、伴藏は心を動かし、二階を下りて此の
家の亭主に其の女の
身上を聞けば、さる頃夫婦の
旅人が此の家へ泊りしが、亭主は元は侍で、
如何なる事か足の
疵の痛み
烈しく立つ事ならず、一日々々との
長逗留、
遂に
旅用をも
遣いはたし、そういつ迄も宿屋の飯を食ってもいられぬ事なりとて、夫婦には土手下へ
世帯を持たせ、女房は
此方へ手伝い働き女として置いて、
僅かな給金で亭主を
見継いでいるとかの話を聞いて、伴藏は金さえ有れば何うにもなると、其の日は
幾許か金を与え、綺麗に家に帰りしが、これよりせっ/\と足近く笹屋に通い、金びら切って
口説きつけ、遂に
彼の女と怪しい中になりました。一体此の女は飯島平左衞門の妾お國にて、宮野邊源次郎と不義を働き、
剰さえ飯島を手に掛け、金銀衣類を奪い取り、江戸を
立退き、越後の村上へ逃出しましたが、親元
絶家して寄るべなきまゝ、段々と奥州路を
経囘りて
下街道へ出て参り此の栗橋にて
煩い付き、宿屋の亭主の
情を受けて今の始末、
素より
悪性のお國ゆえ
忽ち思う
様、此の人は
一代身上俄分限に相違なし、此の人の云う事を聞いたなら悪い事もあるまいと得心したる故、伴藏は四十を越して此のような若い綺麗な別嬪にもたつかれた事なれば、
有頂天界に飛上り、これより毎日こゝにばかり通い来て寝泊りを致しておりますと、伴藏の女房おみねは
込上る
悋気の角も奉公人の手前にめんじ我慢はしていましたが、
或日のこと馬を
牽いて店先を通る馬子を見付け、
みね「おや久藏さん、素通りかえ、
余りひどいね」
久「ヤアお
内儀さま、大きに無沙汰を致しやした、ちょっくり来るのだアけど今ア荷い積んで
幸手まで急いでゆくだから、寄っている訳にはいきましねえが、
此間は
小遣を下さって有難うごぜえます」
みね「まアいゝじゃアないか、お前は
宅の親類じゃないか、
一寸お寄りよ、一ぱい上げたいから」
久「そうですかえ、それじゃア御免なせい」
と馬を店の片端に
結い付け、裏口から奥へ通り、
久「
己ア
此家の旦那の身寄りだというので、
皆に大きに
可愛がられらア、この
家の
身上は去年から金持になったから、おらも鼻が高い」
と話の
中におみねは
幾許か紙に包み、
みね「なんぞ上げたいが、
余まり少しばかりだが
小遣にでもして置いておくれよ」
久「これアどうも、
毎度戴いてばかりいて済まねえよ、いつでも
厄介になりつゞけだが、折角の思し召しだから頂戴いたして置きますべい、おや
触って見た所じゃアえらく金があるようだから
単物でも買うべいか、大きに有難うござります」
みね「
何だよそんなにお礼を云われては
却って迷惑するよ、ちょいとお前に聞きたいのだが、
宅の旦那は、四月頃から笹屋へよくお泊りなすって、お前も一緒に行って遊ぶそうだが、お前は何故私に話をおしでない」
久「おれ知んねえよ」
みね「おとぼけで無いよ、ちゃんと種が
上っているよ」
久「種が上るか
下るか
己らア知んねえものを」
みね「アレサ笹屋の女のことサ、ゆうべ
宅の旦那が残らず白状してしまったよ、私はお婆さんになって
嫉妬をやく訳ではないが旦那の為を思うから云うので、あの通りな
粋な人だから、
悉皆と打明けて、私に話して、ゆうべは笑ってしまったのだが、お前が
余りしらばっくれて、素通りをするから呼んだのさ、云ったッて
宜いじゃアないかえ」
久「旦那どんが云ったけえ、アレマアわれさえ云わなければ知れる
気遣えはねえ、われが
心配だというもんだから、お前さまの前へ隠していたんだ、夫婦の
情合だから、云ったらお
前も
余り心持も
好くあんめえと思ったゞが、そうけえ旦那どんが云ったけえ、おれ困ったなア」
みね「旦那は私に云って仕舞ったよ、お前と時々一緒に行くんだろう」
久「あの
阿魔女は屋敷者だとよ、亭主は源次郎さんとか云って、足へ
疵が出来て立つ事が出来ねえで、土手下へ
世帯を持っていて、女房は笹屋へ働き女をしていて、亭主を
過しているのを、旦那が聞いて気の毒に思い、可愛相にと思って、一番始め金え三分くれて、二度目の時二両
後から三両それから五両、一ぺんに二十両やった事もあった、ありゃお國さんとか云って廿七だとか云うが、お
前さんなんぞより
余程綺···ナニお
前さまとは
違え、屋敷もんだから
不意気だが、なか/\
美い女だよ」
みね「何かえ、あれは旦那が遊びはじめたのは
何時だッけねえ、ゆうべ聞いたがちょいと忘れて仕舞った、お前知っているかえ」
久「四月の二日からかねえ」
みね「呆れるよ本当にマア四月から今まで私に打明けて話しもしないで、呆れかえった人だ、どんなに私が鎌を掛けて
宅の人に聞いても
何だの
彼だのとしらばっくれていて、ありがたいわ、それですっかり分った」
久「それじゃア旦那は云わねえのかえ」
みね「
当前サ、旦那が私に改まってそんな馬鹿な事をいう奴があるものかね」
久「アレヘエそれじゃアおらが困るべいじゃアねえか、旦那どんが
己れにわれえ
喋るなよと云うたに、困ったなア」
みね「ナニお前の名前は出さないから心配おしでないよ」
久「それじゃア
私の
名前を出しちゃアいかねえよ、大きに有難うござりました」
と久藏は立帰る。おみねは
込上る
悋気を押え、
夜延をして伴藏の帰りを待っていますと、
伴「
文助や明けてくれ」
文「お帰り遊ばせ」
伴「店の者も早く寝てしまいな、奥ももう寝たかえ」
といいながら奥へ通る。
伴「おみね、まだ寝ずか、もう夜なべはよしねえ、身体の毒だ、大概にして置きな、今夜は一杯飲んで、そうして寝よう、何か
肴は
有合でいゝや」
みね「何もないわ」
伴「
かくやでもこしらえて来てくんな」
みね「およしよ、お酒を
宅で飲んだって旨くもない、肴はなし、酌をする者は私のようなお婆さんだから、どうせ気に入る
気遣いはない、それよりは笹屋へ行ってお
上りよ」
伴「そりゃア笹屋は料理屋だから
何んでもあるが、
寝酒を飲むんだから
一寸海苔でも焼いて持って来ねえな」
みね「肴はそれでも
宜いとした所が、お酌が気に入らないだろうから、笹屋へ行ってお國さんにお酌をしてお貰いよ」
伴「
気障なことを云うな、お國が
何うしたんだ」
みね「おまえは何故そう隠すんだえ、隠さなくってもいゝじゃアないかえ、私が
十九や
廿の事ならばお前の隠すも無理ではないが、こうやってお互いにとる年だから、隠しだてをされては私が誠に心持が悪いからお云いな」
伴「何をよう」
みね「お國さんの事をサ、
美い女だとね、年は廿七だそうだが、ちょっと見ると廿二三にしか見えない位な美い
娘で、私も
惚々するくらいだから、ありゃア惚れてもいゝよ」
伴「
何だかさっぱり分らねえ、今日昼間馬方の久藏が
来やアしなかったか」
みね「いゝえ来やアしないよ」
伴「おれも此の節は
拠ろない用で時々
宅を明けるものだから、お
前がそう疑ぐるのも
尤もだが、そんな事を云わないでもいゝじゃアねえか」
みね「そりゃア男の働きだから何をしたっていゝが、お前のためだから云うのだよ、
彼の女の亭主は
双刀さんで、其の亭主の為にあゝやっているんだそうだから、亭主に知れると大変だから、私も案じられらアね、お前は四月の二日から彼の女に
係り
[#「係り」は底本では「係り」]合っていながら、これッぱかりも私に云わないのは
酷いよ、そいっておしまいなねえ」
伴「そう知っていちゃア本当に困るなア、あれは己が悪かった、面目ねえ、堪忍してくれ、おれだってお
前に何か
序でがあったら云おうと思っていたが、改まってさてこういう色が出来たとも云いにくいものだから、つい黙っていた、おれも随分道楽をした人間だから、そう
欺されて金を
奪られるような心配はねえ大丈夫だ」
みね「そうサ初めての時三分やって、其の次に二両、それから三両と五両二度にやって、二十両一ぺんにやった事があったねえ」
伴「いろんな事を知っていやアがる、昼間久藏が来たんだろう」
みね「来やしないよ、それじゃアお前こうおしな、
向の女も亭主があるのにお前に
姦通くくらいだから、惚れているに違いないが、亭主が有っちゃア
危険だから、貰い切って妾にしてお前の側へお置きよ、そうして私は別になって、私は関口屋の
出店でございますと云って、別に家業をやって見たいから、お前はお國さんと二人で一緒に成ってお稼ぎよ」
伴「
気障な事を云わねえがいゝ、別れるも何もねえじゃアねえか、あの女だって
双刀の妾、
主があるものだから、そう
何時までも係り合っている気はねえのだが、ありゃア酔った
紛れにツイ
摘食いをしたので、己がわるかったから堪忍してくれろ、もう二度と
彼処へ
往きさえしなければ
宜いだろう」
みね「行っておやりよ、あの女は亭主があってそんな事をする位だから、お前に惚れているんだからお
出でよ」
伴「そんな気障な事ばかり云って仕様がねえな
·········」
みね「いゝから
私ゃア別になりましょうよ」
と、くど/\云われて伴藏はグッと
癪にさわり、
伴「なッてえ/\、これ四
間間口の
表店を張っている荒物屋の旦那だア、一人二人の色が有ったってなんでえ、男の働きで
当前だ、
若えもんじゃあるめえし、
嫉妬を焼くなえ」
みね「それは誠に済みません、悪い事を申しました、四間間口の表店を張った旦那様だから、妾狂いをするのは
当前だと、大層もない事をお云いでないよ、今では旦那だと云って威張っているが、去年まではお前は
何だい、萩原様の奉公人同様に追い使われ小さな
孫店を
借ていて、萩原様から時々
小遣を戴いたり、
単物の古いのを戴いたりして
何うやら
斯うやらやっていたんじゃアないか、今斯うなったからと云ってそれを忘れて済むかえ」
伴「そんな大きな声で云わなくってもいゝじゃアねえか、店の者に聞えるといけねえやナ」
みね「云ったっていゝよ、四間間口の表店を張っている荒物屋の旦那だから、妾狂いが当前だなんぞと云って、
先のことを忘れたかい」
伴「
喧しいやい、出て行きやアがれ」
みね「はい、出て行きますとも、出て行きますからお金を百両私におくれ、これだけの身代になったのは誰のお
蔭だ、お互にこゝまでやったのじゃアないか」
伴「恵比須講の商いみたように大した事をいうな、静かにしろ」
みね「云ったっていゝよ、本当にこれまで互に
跣足になって一生懸命に働いて、萩原様の所にいる時も、私は
煮焚掃除や針仕事をし、お前は
使はやまをして
駈ずりまわり、何うやら斯うやらやっていたが、旨い酒も飲めないというから、私が内職をして、
偶には買って飲ませたりなんどして、八年
以来お前のためには大層苦労をしているんだア、それを
何だえ、荒物屋の旦那だとえ、御大層らしい、私ゃア今こう成ったッても、昔の事を忘れない為に、今でもこうやって木綿物を着て
夜延をしている位なんだ、それにまだ
一昨年の暮だっけ、お前が
鮭のせんばいでお酒を飲みてえものだというから
······」
伴「
静にしろ、
外聞がわりいや、奉公人に聞えてもいけねえ」
みね「いゝよ私ゃア云うよ、云いますよ、それから貧乏世帯を張っていた事だから、私も一生懸命に
三晩寝ないで夜延をして、お酒を三合買って、鮭のせんばいで飲ませてやった時お前は嬉しがって、其の時何と云ったい、持つべきものは女房だと云って喜んだ事を忘れたかい」
伴「大きな声をするな、それだから己はもう
彼処へ行かないというに」
みね「大きな声をしたっていゝよ、お前はお國さんの
処へお
出でよ、行ってもいゝよ、お前の方で
余り大きな事を云うじゃアないか」
と
尚々大きな声を出すから、伴藏は
「オヤこの阿魔」
といいながら
拳を上げて頭を
打つ、打たれておみねは
哮り立ち、泣声を振り立て、
みね「何を
打ちやアがるんだ、さア百両の金をおくれ、私ゃア出て参りましょう、お前は此の栗橋から出た人だから身寄もあるだろうが、私は江戸生れで、
斯んな所へ
引張られて来て、身寄
親戚がないと思っていゝ気に成って、私が年を取ったもんだから女狂いなんぞはじめ、今になって見放されては
喰方に困るから、これだけ金をおくれ、出て
往きますから」
伴「出て
往くなら出て往くがいゝが、何も貴様に百両の金を
遣るという因縁がねいやア」
みね「大層なことをお云いでないよ、私が考え付いた事で、幽霊から百両の金を貰ったのじゃないか」
伴「こら/\
静にしねえ」
みね「云ったっていゝよ、それから其の金で取りついて斯う成ったのじゃアないかそればかりじゃアねえ、萩原様を殺して海音如来のお像を盗み取って、清水の花壇の中へ埋めて置いたじゃアないか」
伴「静にしねえ、本当に
気違えだなア、人の耳へでも入ったら
何うする」
みね「私ゃア縛られて首を切られてもいゝよ、そうするとお前も其の
儘じゃア置かないよ、百両おくれ、私ゃア別に成りましょう」
伴「仕様が
無えな、己が悪かった、堪忍してくれ、そんなら是迄お
前と一緒になってはいたが、おれに
愛想が尽きたなら此の
宅はすっかりとお前にやってしまわア、と云うと、なにか己があの女でも一緒に連れて
何処かへ逃げでもすると思うだろうが、段々様子を聞けば、あの女は何か筋の悪い女だそうだから、もう
好加減に切りあげる積り、それともこゝの
家を二百両にでも三百両にでもたゝき売って仕舞って、お前を一緒に連れて越後の新潟あたりへ身を隠し、もう一と花咲かせ
巨かくやりてえと思うんだが、お前
最う一度
跣足になって苦労をしてくれる気はねえか」
みね「私だって無理に別れたいと云う訳でもなんでもありませんが、今に成ってお前が私を
邪慳にするものだから、そうは云ったものゝ、八年
以来連添っていたものだから、お前が見捨てないと云う事なら、
何処までも一緒に行こうじゃアないか」
伴「そんなら何も腹を立てる事はねえのだ、これから
中直りに一
杯飲んで、
両人で一緒に寝よう」
と云いながらおみねの手首を取って引寄せる。
みね「およしよ、いやだよウ」
川柳に「女房の角を□□□でたゝき折り」で
忽ち中も直りました。それから翌日は伴藏がおみねに好きな
衣類を買って
遣るからというので、幸手へまいり、呉服屋で
反物を買い、こゝの料理屋でも一杯やって
両人連れ立ち、もう帰ろうと幸手を出て土手へさしかゝると、伴藏が土手の下へ降りに掛るから、
みね「旦那、どこへ
行くの」
伴「実は江戸へ
仕入に行った時に、あの海音如来の
金無垢のお守を持って来て、
此処へ埋めて置いたのだから、
掘出そうと思って来たんだ」
みね「あらまアお前はそれまで隠して私に云わないのだよ、そんなら早く人の目つまにかゝらないうちに掘ってお仕舞いよ」
伴「これは掘出して
明日古河の旦那に売るんだ、
何だか雨がポツ/\降って来たようだな、向うの渡し口の所からなんだか人が二人ばかり段々こっちの方へ来るような
塩梅だから、見ていてくんねえ」
みね「誰も
来やアしないよ、どこへさ」
伴「向うの方へ気を付けろ」
という。向うは
往来が
三叉になっておりまして、
側えは
新利根大利根の
流にて、
折しも空はどんよりと雨もよう、
幽かに見ゆる
田舎家の
盆灯籠の火もはや消えなんとし、
往来も
途絶えて
物凄く、おみねは
何心なく向うの方へ目をつけている油断を
窺い、伴藏は腰に差したる
胴金造りの脇差を音のせぬように
引こ抜き、物をも云わず
背後から一生懸命力を入れて、おみねの肩先目がけて切り込めば、キャッとおみねは倒れながら伴藏の
裾にしがみ付き、
みね「それじゃアお前は私を殺して、お國を女房に持つ気だね」
伴「知れた事よ、惚れた女を女房に持つのだ、観念しろ」
と云いさま、刀を
逆手に持直し、
貝殻骨のあたりから乳の下へかけ、したゝかに
突込んだれば、おみねは七顛八倒の苦しみをなし、おのれ其の
儘にして置こうかと、又も裾へしがみつく。伴藏は
乗掛って
止めを刺したから、おみねは息が絶えましたが、
何うしてもしがみついた手を放しませんから、脇差にて一本々々指を切り落し、
漸く刀を
拭い、
鞘に納め、跡をも見ず飛ぶが如くに
我家に立帰り、
慌しく
拳をあげて
門の戸を
打叩き、
伴「文助、
一寸こゝを明けてくれ」
文「旦那でございますか、へいお帰り遊ばせ」
と表の戸を開く。伴藏ズッと
中に入り、
伴「文助や、大変だ、今土手で五人の
追剥が出て己の
胸ぐらを
掴まえたのを、払って漸く逃げて来たが、おみねは土手下へ降りたから、悪くすると怪我をしたかも知れない、
何うも案じられる、どうか
皆一緒に行って見てくれ」
というので奉公人一同大いに驚き、手に/\
半棒栓張棒なぞ
携え、伴藏を先に立て土手下へ来て見れば、
無慙やおみねは目も当てられぬように切殺されていたから、伴藏は
空涙を流しながら、
伴「あゝ可愛相な事をした、今一ト足早かったら、
斯んな非業な死はとらせまいものを」
と嘘を
遣い、人を
走せて其の筋へ届け、
御検屍もすんで
家に引取り、何事もなく村方へ野辺の送りをしてしまいましたが、伴藏が殺したと気が付くものは有りません。段々
日数も立って七日目の事ゆえ、伴藏は寺参りをして帰って来ると、召使のおますという三十一歳になる女中が
俄にがた/\と
慄えはじめて、ウンと
呻って倒れ、何か
譫言を云って困ると番頭がいうから、伴藏が女の寝ている所へ来て、
伴「お
前どんな
塩梅だ」
ます「伴藏さん貝殻骨から乳の下へ掛けてズブ/\と
突とおされた時の痛かったこと」
文「旦那様変な事を云いやす」
伴「おます、気を
慥かにしろ、風でも引いて熱でも出たのだろうから、
蒲団を
沢山かけて寝かしてしまえ」
と
夜着を掛けるとおますは重い夜着や
掻巻を一度にはね
退けて、蒲団の上にちょんと坐り、じいッと伴藏の顔を
睨むから、
文「変な
塩梅ですな」
伴「おます、
確かりしろ、狐にでも
憑かれたのじゃアないか」
ます「伴藏さん、こんな苦しい事はありません、貝殻骨のところから乳のところまで脇差の先が出るほどまで、ズブ/\と突かれた時の苦しさは、
何とも
彼とも云いようがありません」
と云われて伴藏も薄気味悪くなり、
伴「何を云うのだ、気でも違いはしないか」
ます「お互に
斯うして八年
以来貧乏世帯を張り、やッとの思いで今はこれ迄になったのを、お前は私を殺してお國を女房にしようとは、マア
余り
酷いじゃアないか」
伴「これは変な
塩梅だ」
と云うものゝ、腹の内では大いに驚き、早く療治をして直したいと思う所へ、此の節幸手に江戸から来ている名人の医者があるというから、それを呼ぼうと、人を
走せて呼びに
遣りました。
十八
伴藏は女房が死んで七日目に寺参りから帰った其の晩より、下女のおますが
訝しな
譫言を云い、幽霊に頼まれて百両の金を貰い、是迄の身代に取付いたの、萩原新三郎様を殺したの、海音如来のお守を盗み出し、根津の清水の花壇の中へ
埋めたなどゝ
喋り立てるに、奉公人たちは
何だか様子の分らぬ事ゆえ、
只馬鹿な
譫語をいうと思っておりましたが、伴藏の腹の中では、女房のおみねが己に取り付く事の出来ない所から、此の女に
取付いて己の悪事を喋らせて、お
上の耳に聞えさせ、おれを
召捕り、お
仕置にさせて
怨みをはらす了簡に違いなし、あの下女さえいなければ
斯様な事もあるまいから、いっそ
宿元へ下げて仕舞おうか、いや/\待てよ、宿へ下げ、あの通りに喋られては大変だ、コリャうっかりした事は出来ないと思案にくれている処へ、先程幸手へ
使に
遣りました下男の
仲助が、医者同道で帰って来て、
男「旦那只今
帰りやした、江戸からお
出でなすったお上手なお医者様だそうだがやっと願いやして御一緒に来てもらいやした」
伴「これは/\御苦労さま、手前方は
斯う云う商売柄店も散らかっておりますから、
先ず
此方へお通り下さいまし」
と奥の間へ案内をして
上座に
請じ、伴藏は
慇懃に両手をつかえ、
伴「初めましてお目通りを致します、
私は関口屋伴藏と申します者、
今日は早速の
御入で誠に御苦労様に存じまする」
医「はい/\初めまして、何か急病人の御様子、ハヽアお熱で、変な
譫語などを云うと」
と言いながら
不図伴藏を見て、
「おや、これは誠に
暫らく、これはどうも誠にどうも、どうなすって伴藏さん、
先ず一別以来相変らず御機嫌宜しく、どうもマア
図らざるところでお目に懸りました、これは君の
御新宅かえ、恐入ったねえ、
併し君は
斯くあるべき事だろうと、君が萩原新三郎様の所にいる時分から、あの伴藏さんおみねさんの夫婦は、どうも機転の
利き方、才智の廻る所から、中々只の人ではない、今にあれはえらい人になると云っていたが、
十指の指さす処
鑑定は違わず、実に君は大した
表店を張り、立派な事におなりなすったなア」
伴「いやこれは山本志丈さん、誠に思い掛けねえ所でお目にかゝりやした」
志「実は私も人には云えねえが江戸を喰い詰め、医者もしていられねえから、猫の
額のような
家だが売って、其の金子を路用として日光辺の
知己を頼って
行く途中、幸手の宿屋で
相宿の
旅人が熱病で悩むとて療治を頼まれ、其の脉を取れば運よく全快したが、実は僕が治したんじゃアねえ、ひとりでに治ったんだが、運に
叶って
忽ちにあれは名人だ名医だとの評が立ち、あっちこっちから療治を頼まれ、実はいゝ加減にやってはいるが、相応に薬礼をよこすから、足を
留めていたものゝ実は己ア医者は出来ねえのだ、
尤も
傷寒論の一冊位は読んだ事は有るが、一体病人は
嫌えだ、あの臭い寝床の側へ寄るのは
厭だから、金さえあればツイ一杯呑む気になるようなものだから、江戸を喰い詰めて来たのだが、あの
妻君はお達者かえ、イヤサおみねさんには久しく
拝顔を得ないがお達者かえ」
伴「あれは」
と口ごもりしが、
「八日あとの晩土手下で
盗賊に切殺されましたよ、それから
漸く引取って
葬式を出しました」
志「ヤレハヤこれはどうも、存外な、
嘸お
愁傷、お
馴染だけに
猶更お察し申します、あの方は誠に御貞節ないゝお方であったが、これが
仏家でいう因縁とでも申しますのか、嘸まア残念な事でありましたろう、それでは御病人はお家内ではないね」
伴「えゝ内の女ですが、なんだか熱にうかされて妙な事を云って困ります」
志「それじゃア
一寸診て上げて、
後で又いろ/\昔の話をしながら
緩りと一杯やろうじゃアないか、知らない土地へ来て馴染の人に逢うと何だか懐かしいものだ、病人は熱なら
造作もないからねえ」
伴「文助や、先生は甘い物は召上がらねえが、お茶とお菓子と持って来て置け、先生
此方へお
出でなせえ、こゝが女部屋で」
志「左様か、マア暑いから羽織を脱ごうよ」
伴「おますや、お医者様が
入っしゃったからよく
診ていたゞきな、気を
確かりしていろ、変な事をいうな」
志「どう云う御様子、どんな
塩梅で」
と云いながら側へ近寄ると、病人は重い
掻巻を
反ね
退けて布団の上にちゃんと坐り志丈の顔をジッと見詰めている。
志「お前どう云う塩梅で、大方風がこうじて熱となったのだろう、
悪寒でもするかえ」
ます「山本志丈さん、誠に久しくお目にかゝりませんでした」
志「これは妙だ、僕の名を呼んだぜ」
伴「こいつは妙な譫語ばッかり云っていますよ」
志「だって僕の名を知っているのが妙だ、フウンどういう様子だえ」
ます「私はね、此の貝殻骨から乳の所までズブ/\と伴藏さんに突かれた時の」
伴「これ/\何を詰らねえ事をいうんだ」
志「宜しいよ、心配したもうな、それから
何うしたえ」
ます「
貴方の御存じの通り、私共夫婦は萩原新三郎様の奉公人同様に追い使われ、
跣足になって
駈ずり廻っていましたが、萩原様が幽霊に取付かれたものだから、幡随院の和尚から魔除の御札を裏窓へ貼付けて置いて幽霊の
這入れない様にした所から、伴藏さんが幽霊に百両の金を貰って其の御札を
剥し」
伴「何を云うんだなア」
志「宜しいよ、僕だから、これは妙だ/\、へい、そこで」
ます「其の金から取付いて今はこれだけの身代となり、それのみならず萩原様のお首に掛けてる金無垢の海音如来の御守を盗み出し、根津の清水の花壇に埋め、
剰え萩原様を
蹴殺して
体よく跡を
取繕い」
伴「何を、とんでもない事を云うのだ」
志「よろしいよ僕だから、妙だ/\ヘイそれから」
ます「そうしてお前、そんなあぶく
銭で是までになったのに、お前は女狂いを始め、私を邪魔にして殺すとは
余り
酷い」
伴「どうも仕様がないの、何をいうのだ」
志「よろしいよ、妙だ、心配したもうな、これは早速宿へ下げたまえ、と云うと、宿で又こんな譫語を云うと思し召そうが、下げれば
屹度云わない、此の
家に居るから云うのだ、僕も壮年の
折こういう病人を二度ほど先生の
代脉で手掛けた事があるが、宿へ下げれば屹度云わないから下げべし/\」
と云われて、伴藏は小気味が悪いけれども、山本の勧めに任せ早速に宿を呼寄せ引渡し、表へ出るやいなや正気に
復った様子なれば、伴藏も安心していると今度は番頭の文助がウンと
呻って夜着をかむり、寝たかと思うと起上り、幽霊に貰った百両の金でこれだけの身代になり上り、といい出したれば、又宿を呼んで下げてしまうと、今度は小僧が呻り出したれば又宿へ下げてしまい、奉公人残らずを帰し、あとには伴藏と志丈と二人ぎりになりました。
志「伴藏さん、今度呻ればおいらの番だが、妙だったね、だが伴藏さん打明けて話をしてくんなせえ、萩原さんが幽霊に
魅られ、骨と一緒に死んでいたとの評判もあり、又首に掛けた大事の守りが
掏代っていたと云うが、其の鑑定はどうも分らなかった、
尤も白翁堂と云う人相見の
老爺が少しは
覚って新幡随院の和尚に話すと、和尚は
疾より
覚っていて、盗んだ奴が
土中へ埋め隠してあると云ったそうだが、
今日初めて此の病人の話によれば、僕の鑑定では
慥にお前と見て取ったが、もう
斯うなったらば隠さず云ってお仕舞い、そうすれば僕もお前と一つになって事を
計おうじゃないか、善悪共に相談をしようから打明け給え、それから君はおかみさんが邪魔になるものだから殺して置いて、
盗賊が
斬殺したというのだろう、そうでしょう/\」
といわれて伴藏最早隠し
遂せる事にもいかず、
伴「実は幽霊に頼まれたと云うのも、萩原様のあゝ云う怪しい姿で死んだというのも、いろ/\訳があって
皆私が
拵えた事、というのは私が萩原様の
肋を
蹴て殺して置いて、こっそりと新幡随院の墓場へ忍び、新塚を掘起し、
骸骨を取出し、持帰って萩原の床の中へ並べて置き、怪しい
死ざまに見せかけて白翁堂の
老爺をば一ぺい
欺込み、又海音如来の御守もまんまと首尾
好く盗み出し、根津の清水の花壇の中へ埋めて置き、それから己が色々と
法螺を吹いて近所の者を怖がらせ、皆あちこちへ
引越したを
好いしおにして、己も
亦おみねを連れ、百両の金を
掴んで此の土地へ
引込んで今の身の上、ところが己が
他の女に掛り合った所から、
嚊アが
悋気を起し、以前の悪事をがア/\と
呶鳴り立てられ仕方なく、旨く
賺して土手下へ連出して、己が手に掛け殺して置いて、追剥に殺されたと空涙で人を
騙かし、
弔いをも
済して仕舞った訳なんだ」
志「よく云った、誠に感服、大概の者ならそう打明けては云えぬものだに、己が殺したと
速に云うなどは是は悪党アヽ悪党、お前にそう打明けられて見れば、私はお喋りな人間だが、こればッかりは口外はしないよ、其の代り少し
好みがあるが
何うか叶えておくれ、と云うと何か君の身代でも当てにするようだが、そんな訳ではない」
伴「あゝ/\それはいゝとも、どんな事でも聞きやしょうから、どうか口外はして下さるな」
と云いながら懐中より廿五両包を取出し、志丈の前に差置いて、
伴「
少ねえが
切餅をたった一ツ取って置いてくんねえ」
志「これは云わない賃かえ薬礼ではないね、宜しい心得た、
何だかこう金が入ると浮気になったようだから、一
杯飲みながら、
緩りと
昔語がしてえのだが、こゝの
家ア陰気だから、これから
何処かへ行って一杯やろうじゃアねえか」
伴「そいつは
宜かろう、そんなら
己らの馴染の笹屋へ
行きやしょう」
と
打連立って
家を
立出で、笹屋へ上り込み、差向いにて酒を
酌交し、
伴「男ばかりじゃア旨くねえから、女を呼びにやろう」
とお國を呼寄せる。
國「おや旦那、御無沙汰を、よく
入っしゃって、
伺いますればお
内儀さんは不慮の事がございましたと、定めて御愁傷な事で、私も旦那にちょいとお目に懸りたいと思っておりましたは、内の人の傷も
漸く治り、
近々のうち越後へ向けて今
一度行きたいと云っておりますから、行った日には貴方にはお目に懸ることが出来ないと思っている所へお
使で、
余り嬉しいから飛んで来たんですよ」
伴「お國お
連の方に何故御挨拶をしないのだ」
國「これはあなた御免遊ばせ」
と云いながら志丈の顔を見て、
國「おや/\山本志丈さん、誠に
暫く」
志「これは妙、
何うも不思議、お國さんがこゝにお
出でとは計らざる事で、これは妙、
内々御様子を聞けば、思うお方と一緒なら
深山の奥までと云うようなる
意気事筋で、誠に不思議、これは
希代だ、妙々々」
と云われてお國はギックリ驚いたは、志丈はお國の身の上をば
精しく知った者ゆえ、
若し伴藏に喋べられてはならぬと思い、
國「志丈さんちょっと御免あそばせ」
と次の間へ立ち。
國「旦那ちょっと入っしゃい」
伴「あいよ、志丈さん、ちょいと待ってお呉れよ」
志「あゝ宜しい、
緩くり話をして来たまえ、僕はさようなことには慣れて居るから苦しくない、お構いなく、緩くりと話をして入っしゃい」
國「旦那どう云うわけであの志丈さんを連れて来たの」
伴「あれは内に病人があったから呼んだのよ」
國「旦那あの医者の云う事をなんでも本当にしちゃアいけませんよ、あんな嘘つきの奴はありません、あいつの云う事を本当にするととんでもない間違いが出来ますよ、人の
合中を
突つく
酷い奴ですから、今夜はあの医者を
何処かへやって、
貴方独りこゝに泊っていて下さいな、そうすれば内の人を寝かして置いて、貴方の所へ来て、いろ/\お話もしたい事がありますから
宜うございますか」
伴「よし/\、それじゃア内の方をいゝ
塩梅にして
屹度来ねえよ」
國「屹度来ますから待っておいでよ」
とお國は伴藏に別れ帰り
行く。
伴「やア志丈さん、誠にお待ちどう」
志「誠にどうも、アハヽあの女はもう四十に近いだろうが若いねえ、君もなか/\お
腕前だね、大方君はあの婦人を喰っているのだろうが、これからはもう君と善悪を一ツにしようと約束をした以上は、君のためにならねえ事は僕は云うよ、一体君はあの女の身の上を知って世話をするのか知らないのか」
伴「おらア知らねえが、お
前さんは心安いのか」
志「あの婦人には男が附いて居る、宮野邊源次郎と云って
旗下の次男だが、
其奴が悪人で、萩原新三郎さんを
恋慕った娘の
親御飯島平左衞門という旗下の奥様
附で来た女中で、奥様が亡くなった所から手がついて妾と成ったが今のお國で、源次郎と不義をはたらき、恩ある主人の飯島を
斬殺し、
有金二百六十両に、大小を三腰とか印籠を幾つとかを盗み取り
逐電した人殺しの
盗賊だ、すると
後から忠義の家来
藤助とか孝助とか云う男が、主人の
敵を討ちたいと
追かけて出たそうだ、私の思うのは、あれは君に惚れたのではなく、源次郎が
可愛いからお前の云う事を聞いたなら、亭主のためになるだろうと心得、身を任せ、
相対間男ではないかと僕は鑑定するが、今聞けば急に越後へ立つと云い、僕をはいて君独り寝ている処へ源次郎が踏込んでゆすり掛け、二百両位の手切れは取る目算に
違えねえが、君は承知かえ、だから君は今夜こゝに泊っていてはいけねえから、僕と一緒に
何処かへ女郎買に行ってしまい、あいつ
等二人に
素股を喰わせるとは
何うだえ」
伴「むゝ成程、そうか、それじゃアそうしよう」
と
連立ってこゝを
立出で、鶴屋という女郎屋へ
上り込む。
後へお國と源次郎が笹屋へ来て様子を聞けば、
先刻帰ったと云うことに二人は
萎れて立帰り、
源「お國もうこうなれば仕方がないから、
明日は己が関口屋へ掛合いに
行き、
若し向うで
しらをきった其の時は」
國「私が行って喋りつけ口を明かさず
たんまりとゆすってやろう」
と其の晩は寝てしまいました。
翌朝になり伴藏は志丈を連れて
我家へ帰り、
種々昨夜の
惚気など云っている
店前へ、
源「お頼ん申す/\」
伴「
商人の店先へお頼ん申すと云うのは
訝しいが、誰だろう」
志「大方ゆうべ話した源次郎が来たのかも知れねえ」
伴「そんならお
前其方へ隠れていてくれ」
志「
弥々難かしくなったら飛出そうか」
伴「いゝから
引込んでいなよ
······へい/\、少々
宅に
取込が有りまして店を閉めて居りますが、何か御用ならば店を明けてから願いとうございます」
源「いや買物ではござらん、御亭主に少々御面談いたしたく参ったのだ、
一寸明けてください」
伴「左様でございますか、
先ずお
上り」
源「早朝より
罷り
出でまして御迷惑、
貴方が御主人か」
伴「へい、関口屋伴藏は
私でございます、こゝは店先どうぞ奥へお通りくださいまし」
源「
然らば御免を
蒙むる」
と
蝋色鞘茶柄の刀を右の手に下げた
儘に、亭主に構わずずっと通り
上座に座す。
伴「どなた様でござりますか」
源「これは始めてお目に懸りました、手前は土手下に
世帯を持っている宮野邊源次郎と申す
粗忽の浪人、家内國
事、笹屋方にて
働女をなし、
僅な給金にてよう/\其の日を送りいる処、旦那より深く御贔屓を戴くよし、毎度國より承わりおりますれど、何分
足痛にて歩行も成り兼ねますれば、存じながら御無沙汰、重々御無礼をいたした」
伴「これはお初にお目通りをいたしました、伴藏と申す不調法もの幾久しく御懇意を願います、お前様の
塩梅の悪いと云う事は聞いていましたが、よくマア御全快、
私もお國さんを贔屓にするというものゝ、贔屓の引倒しで
何の役にも立ちません、旦那の
御新造がねえ、どうも恐れ入った、
勿体ねえ、
馬士や私のようなものゝ機嫌気づまを取りなさるかと思えば気の毒だ、それがために失礼も
度々致しやした」
源「どう致しまして、伴藏さんにちと折入って願いたい事がありますが、
私共夫婦は最早旅費を
遣いなくし、
殊には病中の
入費薬礼や何やかやで全く
財布の底を
払き、
漸く全快しましたれば、越後路へ出立したくも
如何にも旅費が乏しく、
何うしたら
宜かろうと思案の側から、女房が関口屋の旦那は御親切のお方ゆえ、泣附いてお話をしたらお
見継ぎくださる事もあろうとの勧めに任せ参りましたが、どうか
路金を少々拝借が出来ますれば有り難う存じます」
伴「これはどうも、そう貴方のように手を下げて頼まれては面目がありませんが」
と中は
幾許かしら紙に包んで源次郎の前にさし置き、
伴「ほんの
草鞋銭でございますが、お
請取り下せえ」
と云われて源次郎は取上げて見れば金千
疋。
源「これは二両二分、イヤサ御主人、二両二分で越後まで
足弱を連れて
行かれると思いなさるか、御親切
序でにもそっとお恵みが願いたい」
伴「千疋では少ないと仰しゃるなら、
幾許上げたら
宜いのでございます」
源「どうか百金お恵みを願いたい」
伴「一本え、冗談言っちゃアいけねえ、
薪かなんぞじゃアあるめえし、一本の二本のと転がっちゃアいねえよ、旦那え、こういう
事ア一
体此方で上げる心持
次第のもので、
幾許かくらと限られるものじゃアねえと思いやす、百両くれろと云われちゃア上げられねえ、又道中もしようで
限のないもの、千両も持って出て足りずに内へ取りによこす者もあり、四百の
銭で伊勢参宮をする者もあり、二分の金を持って
金毘羅参りをしたと云う話もあるから、旅はどうとも仕様によるものだから、そんな事を云ったって出来はしません、誠に
商人なぞは遊んだ金は無いもので、
表店を立派に張って居ても
内々は一両の銭に困る事もあるものだ、百両くれろと云っても、そんなに
私はお
前さんにお恵みをする縁がねえ」
源「國が別段御贔屓になっているから、
兎やかく面倒云わず、餞別として百金貰おうじゃアねえか、何も云わずにサ」
伴「お
前さんはおつう
訝しな事を云わっしゃる、何かお國さんと
私と
姦通いてでもいるというのか」
源「おゝサ
姦夫の
廉で
手切の百両を取りに来たんだ」
伴「ムヽ
私が不義をしたが
何うした」
源「黙れ、やい不義をしたとはなんだ、捨て置き
難い奴だ」
と云いながら刀を側へ引寄せ、親指にて
鯉口をプツリと切り、
「此の間から何かと
胡散の事もあったれど、
堪え/\て是迄
穏便沙汰に致し置き、昨晩それとなく國を責めた所、國の申すには、実は済まない事だが貧に迫って
止むを得ずあの人に身を任せたと申したから、其の場において手打にしようとは思ったれども、
斯う云う身の上だから勘弁いたし、事
穏かに話をしたに、
手前の口から不義したと口外されては捨置きがてえ、表向きに致さん」
と
哮り立って呶鳴ると、
伴「
静におしなせえ、隣はないが名主のない村じゃアないよ、お
前さんがそう哮り立って鯉口を切り、
私の
鬢たを
打切る剣幕を恐れて、ハイさようならとお金を出すような人間と思うのは
間違えだ、私なんぞは首が三ツあっても足りねえ身体だ、十一の時から狂い出して、
脱け
参りから江戸へ流れ、悪いという悪い事は二三の水出し、
遣らずの
最中、
野天丁半の
鼻ッ
張り、ヤアの
賭場まで
逐って来たのだ、今は
胼皹を
白足袋で隠し、なまぞらを
遣っているものゝ、悪い事はお前より上だよ、それに又
姦夫々々というが、あの女は飯島平左衞門様の妾で、それとお前がくッついて殿様を殺し、大小や
有金を
引攫い
高飛をしたのだから、云わばお前も盗みもの、それにお國も己なんぞに惚れたはれたのじゃなく、お前が可愛いばッかりで、病気の
薬代にでもする積りで
此方に持ち掛けたのを幸いに、己もそうとは知りながら、ツイ男のいじきたな、手を出したのは此方の
過りだから、何も云わずに千疋を出し、別段
餞別にしようと思い、これ此の通り廿五両をやろうと思っている処、一本よこせと云われちゃア、どうせ
細った首だから、
素首が飛んでも一文もやれねえ、それにお前よく聞きねえ、江戸
近のこんな所にまご/\していると危ねえぜ、孝助とかゞ主人の
敵だと云ってお前を狙っているから、お前の首が先へ飛ぶよ、冗談じゃアねえ」
と云われて源次郎は
途胸を突いて大いに驚き、
源「さような御苦労人とも知らず、只の
堅気の旦那と心得、
威して金を取ろうとしたのは誠に恐縮の至り、
然らば相済みませんが、これを拝借願います」
伴「早く
行きなせえ、
危険だよ」
源「さようならお
暇申します」
伴「跡をしめて行ってくんな」
志丈は戸棚より
潜り出し、
志「旨かったなア、感服だ、実に感服、君の二三の水出し、やらずの
最中とは感服、あゝ
何うもそこが悪党、あゝ悪党」
これより伴藏は志丈と二人連れ立って江戸へ参り、根津の清水の花壇より海音如来の像を掘出す処から、悪事露顕の一
埓はこの次までお預りに致しましょう。
十九
引続きまする怪談牡丹灯籠のお話は、飯島平左衞門の家来孝助は、主人の
仇なる宮野邊源次郎お國の両人が、越後の村上へ逃げ去りましたとのことゆえ、跡を追って村上へまいり、諸方を詮議致しましたが、とんと両人の行方が分りませんで、又我が母おりゑと申す者は、
内藤紀伊守の家来にて、
澤田右衞門の
妹にて、十八年以前に別れたが、今も無事でいられる事か、一目お目に懸りたい事と、段々御城中の様子を
聞合せまする処、澤田右衞門夫婦は
疾に相果て、今は養子の代に相成って
居る事ゆえ母の行方さえとんと分らず、
止むを得ず
此処に十日ばかし、
彼処に五日逗留いたし、
彼方此方と心当りの
処を尋ね、深く踏込んで探って見ましたけれども更に分らず、
空しく其の年も果て、翌年に相成って孝助は越後路から信濃路へかけ、美濃路へかゝり探しましたが一向に分らず、
早や主人の
年囘にも当る事ゆえ、一度江戸へ立帰らんと思い立ち、
日数を経て、八月三日江戸表へ
着いたし、
先ず谷中の三崎村なる新幡随院へ参り、主人の墓へ
香花を
手向け水を上げ、
墓原の前に両手を突きまして、
孝「旦那様
私は身
不肖にして、
未だ
仇たるお國源次郎に

り逢わず、未だ本懐は遂げませんが、丁度旦那様の一周忌の御年囘に当りまする事ゆえ、此の
度江戸表へ立帰り、御法事御供養をいたした上、早速又
敵の行方を捜しに参りましょう、此の度は方角を違え、是非とも
穿鑿を遂げまするの心得、
何卒草葉の蔭からお守りくださって、
一時も早く仇の行方の知れまするようにお守り下されまし」
と生きたる主人に物云う如く
恭しく
拝を遂げましてから、新幡随院の玄関に掛りまして、
「お頼み申します/\」
取次「どウれ、はア
何方からお
出でだな」
孝「手前は元牛込の飯島平左衞門の家来孝助と申す者でございますが、此の度主人の年囘を致したき心得で墓参りを致しましたが、方丈様
御在寺なればお目通りを願いとう存じます」
取「さようですか、
暫くお控えなさい」
と是から奥へ取次ぎますると、
此方へお通し申せという事ゆえ、孝助は案内に
連られ奥へ通りますると、良石和尚は年五十五歳、道心堅固の智識にて
大悟徹底致し、
寂寞と坐蒲団の上に坐っておりまするが、
道力自然に表に現われ、孝助は頭がひとりでに下がるような事で、
孝「これは方丈様には初めてお目にかゝりまする、手前事は相川孝助と申す者でございますが、当年は旧主人飯島平左衞門の一周忌の年囘に当る事ゆえ、一度江戸表へ立帰りましたが、
爰に金子五両ございまするが、これにて宜しく御法事御供養を願いとう存じます」
良「はい、初めまして、まアこっちへ来なさい、これはまア感心な事で
···コレ茶を進ぜい
···お前さんが飯島の御家来孝助殿か、立派なお人でよい心懸け、長旅を致した身の上なれば定めて沢山の
施主もあるまい、一人か二人位の事であろうから、内の坊主どもに云い付けて何か精進物を
拵えさせ、成るたけ金のいらんように、手は掛るが皆
此方でやって置くが、一ヶ
寺の住職を頼んで置きますが、お前ナア余り早く来ると此方で困るから、
昼飯でも喰ってからそろそろ出掛け、
夕飯は此方で喰う気で来なさい、そしてお前は是から水道端の方へ
行きなさろうが、お前を待っている人がたんとある、又お前は悦び事か何か
目出度い事があるから早う行って顔を見せてやんなさい」
孝「へい、
私は水道端へ参りまするが、
貴僧は
何うしてそれを御存じ、不思議な事でございます」
と云いながら、
「左様ならば
明日昼飯を仕舞いまして又出ますから、何分宜しくお願い申しまする、御機嫌よろしゅう」
と寺を出ましたが、心の内に思うよう、何うも不思議な和尚様だ、何うして
私が水道端へ
行く事を知っているだろうか、本当に
占者のような人だと云いながら、水道端なる相川新五兵衞方へ参りましたが、孝助は養子に成って間もなく旅へ出立し、一年ぶりにて立帰りました事ゆえ、少しは遠慮いたし、台所口から、
孝「御免下さいまし、只今帰りましたよ、これ/\善藏どん/\」
善「なんだよ、掃除屋が来たのかえ」
孝「ナニ私だよ」
善「おやこれはどうも、誠に失礼を申上げました、いつも今時分掃除屋が参りまするものですから、粗相を申しましたが、よくマア早くお帰りになりました、旦那様々々孝助様がお帰りになりました」
相「なに孝助殿が帰られたとか、
何処にお
出でになる」
善「へい、お台所にいらっしゃいます」
相「どれ/\、これはマア、
何んで台所などから来るのだ、そう云えば水は汲んで廻すものを、善藏コレ善藏何をぐる/\廻って
居るのだ、コレ
婆ア孝助どのがお帰りだよ」
婆「若旦那がお帰りでございますか、これはマア
嘸お疲れでございますだろう、
先ず御機嫌宜しゅう」
孝「お
父様にも御機嫌宜しゅう、
私も
都度々々書面を差上げたき心得ではございまするが、何分旅先の事ゆえ思うようにはお
便りも致し
難く、お父様は何うなされたかと日々お案じ申しまするのみでございましたが、先ずはお
健かなる
御顔を拝しまして誠に
大悦に存じまする」
相「誠にお前も目出たく御帰宅なされ、新五兵衞至極満足いたしました、はい実にねえ
烏の鳴かぬ日はあるがと云う
譬の通りで、お前のことは少しも忘れたことはない、雪の降る日は今日あたりはどんな山を越すか、風の吹く日はどんな野原を通るかと、雨につけ風につけお前の事ばかり少しも忘れた事はござらん、ところへ思いがけなくお帰りになり、誠に喜ばしく思いまする、娘もお前のことばかり案じ暮らし、お前の立った当座は
只だ泣いてばかりおりましたから私がそんなにくよ/\して
煩いでもしてはいかないから、気を取り直せよといい聞かせて置きましたが、お前もマア健かでお早くお帰りだ」
孝「
私は今日江戸へ着き、すぐに谷中の幡随院へ
参詣をいたして来ましたが、
明日は丁度主人の一周忌の年囘にあたりまするゆえ、法事供養をいたしたく立帰りました」
相「そうか、
如何にも
明日は飯島様の年囘に当るからと思ったが、お前がお留守だから私でも代参に
行こうかと話をしていたのだこれ婆ア、こゝへ来な、孝助様がお帰りになった」
婆「あら若旦那様お帰り遊ばしませ、御機嫌様よろしゅう、
貴方がお立ちになってからというものは、毎日お噂ばかり致しておりましたが、少しもお
窶れもなく、お色は少しお黒くおなり遊ばしましたが、相変らずよくまアねえ」
相「婆ア、あれを連れて来なよ」
婆「でも只今よく寝んねしていらッしゃいますから、お
めんめが覚めてから、お笑い顔を御覧に入れる方が宜しゅうございましょう」
相「ウンそうだ、初めて逢うのに無理に
めんめを
覚さして泣顔ではいかんから、だが大概にしてこゝへ連れて抱いて来い」
娘お徳は次の間に
乳児を抱いて居りましたが、孝助の帰るを聞き、飛立つばかり、嬉し涙を拭いながら出て来て、
徳「旦那様御機嫌様よろしゅう、よくマアお早くお帰り遊ばしました、毎日々々貴方のお噂ばかり致しておりましたが、お窶れも有りませんでお嬉しゅう存じまする」
孝「はい、お前も達者で目出たい、私が留守中はお父様の事何かと世話に成りました、旅先の事ゆえ都度々々便りも出来ず、どうなされたかと毎日案じるのみであったが、誠に
皆の達者な顔を見るというは此の様な嬉しいことはない」
徳「私は昨晩旦那様の御出立になる処を夢に見ましたが、よく人が
旅立の夢を見ると其の人にお目にかゝる事が出来ると申しますから、お近いうち旦那様にお目にかゝれるかと楽しんで居りましたが、今日お帰りとは思いませんでした」
相「おれも同じような夢を見たよ、婆アや抱いてお
出で、
最うおきたろう」
婆々は奥より
乳児を抱いて参る。
相「孝助殿これを御覧、いゝ
児だねえ」
孝「どちらのお子様で」
相「ナニサお前の子だアね」
孝「御冗談ばかり云っていらっしゃいます、
私は昨年の八月旅へ出ましたもので、子供なぞはございません」
相「
只一ぺんでも子供は出来ますよ、お前は娘と一つ寝をしたろう、だから只一度でも子は出来ます、只一度で子供が出来るというのは
余程縁の深い訳で、娘も
初のうちはくよ/\しているから、私が懐姙をしているからそれではいかん、身体に
障るからくよ/\せんが宜しいと云っているうちに産み落したから、私が名付け親で、お前の孝の字を貰って
孝太郎と付けてやりましたよ、マアよく似ておる事を、御覧よ」
孝「へい誠に不思議な事で、主人平左衞門様が遺言に、其の方養子となりて、
若し子供が出来たなら、
男女に
拘らず其の子を
以て家督と致し家の再興を頼むと御遺言書にありましたが、事によると殿様の生れ
変りかも知れません」
相「おゝ至極左様かも知れん、娘も子供が出来てからねえ、嬉し紛れにお父様私は旦那様の事はお案じ申しまするが、此の子が出来ましてから誠によく旦那様に似ておりますから、少しは紛れて、旦那様と一つ所におるように思われますというたから、私が又
余り
酷く抱締めて、坊の腕でも折るといけないなんぞと、馬鹿を云っている位な事で、善藏や」
善「へい/\」
相「善藏や」
善「参っています、
何でございます」
相「何だ、お前も板橋まで若旦那を送って行ったッけな」
善「へい参りました、これは若旦那様誠に御機嫌よろしゅう、あの折は実にお別れが惜しくて、泣きながら戻って参りましたが、よくマアお健かでいらっしゃいます」
孝「あの折は大きにお世話様であったのう」
相「それは兎も角も肝腎の
仇の手掛りが知れましたか」
孝「まだ仇には
廻り逢いませんが、主人の法事をしたく一先ず江戸表へ立帰りましたが、法事を致しまして
直に又出立致します」
相「フウ成程、
明日法事に
行くのだねえ」
孝「左ようでございます、お父様と
私と参りまする積りでございます、それに良石和尚の智識なる事は
予て聞き及んではいましたが、
応験解道窮りなく、百年先の事を見抜くという程だと承わっておりまするが、今日和尚の云う言葉に其の方は水道端へ参るだろう、参る時は必ず待っている者があり、
且慶び事があると申しましたが、私の考えは、
斯く子供の出来た事まで良石和尚は知っておるに違い有りません」
相「はてねえ、そんな所まで見抜きましたかえ、智識なぞという者は
趺跏量見智で
[#「趺跏量見智で」は底本では「跌跏量見智で」]、あの和尚は谷中の何とか云う智識の弟子と成り、禅学を打破ったと云う事を承わりおるが、えらいものだねえ、善藏や、大急ぎで水道町の花屋へ行って、おめでたいのだから、何かお
頭付の魚を三品ばかりに、それからよいお菓子を少し取ってくるように、道中には余り旨いお菓子はないから、それから
鮓も道中では良いのは食べられないから、鮓も少し取ってくるように、それから孝助殿は酒はあがらんから五合ばかりにして、
味淋のごく良いのを飲むのだから二合ばかり、それから
蕎麦も道中にはあるが、
醤油が悪いから良い蕎麦の御膳の
蒸籠を取って参れ、それからお汁粉も
誂らえてまいれ」
と
種々な物を取寄せ、其の晩はめでたく祝しまして床に
就きましたが、其の
夜は話も尽きやらず、長き夜も
忽ち明ける事になり、翌日刻限を計り、孝助は新五兵衞と同道にて水道端を
[#「水道端を」は底本では「水道橋を」]立出で
切支丹坂から小石川にかゝり、
白山から
団子坂を
下りて谷中の新幡随院へ参り、玄関へかゝると、お寺には
疾うより孝助の来るのを待っていて、
良「施主が遅くって誠に困るなア、坊主は
皆本堂に
詰懸けているから、さア/\早く」
と
急き立てられ、急ぎ本堂へ直りますると、かれこれ坊主の四五十人も
押並び、いと
懇なる法事供養をいたし、
施餓鬼をいたしまする内に、もはや日は
西山に傾く事になりましたゆえ、
坊様達には馳走なぞして帰してしまい、
後で又孝助、新五兵衞、良石和尚の三人へは別に膳がなおり、和尚の居間で一口飲むことになりました。
相「方丈様には初めてお目にかゝります、
私は相川新五兵衞と申す粗忽な者でございます、
今日又
御懇な法事供養を成しくだされ、仏も
嘸かし草葉の蔭から満足な事でございましょう」
良「はいお前は孝助殿の
舅御かえ、初めまして、孝助殿は器量と云い人柄と云い立派な正しい人じゃ、中々正直な人間で余程
怜悧じゃが、お前はそゝっかしそうな人じゃ」
相「方丈様はよく御存じ、気味のわるいようなお方だ」
良「
就いては、孝助殿は旅へ
行かれる事を承わったが、
未だ急には立ちはせまいのう、私が少し思う事があるから、
明日昼飯を喰って、それから
八ツ前後に神田の
旅籠町へ
行きなさい、
其処に白翁堂勇齋という人相を見る
親爺がいるが、今年はもう七十だが達者な老人でなア、人相は余程名人だよ、
是れに頼めばお前の望みの事は分ろうから
往って見なさい」
孝「はい、有り難う存じます、神田の旅籠町でございますか、
畏りました」
良「お前旅へ
行くなれば私が餞別を進ぜよう、お前が折角呉れた布施は
此方へ貰って置くが、又私が五両餞別に進ぜよう、それから此の線香は
外から貰ってあるから一箱進ぜよう仏壇へ線香や花の絶えんように上げて置きなさい、是れだけは私が志じゃ」
相「方丈様恐れ入りまする、
何うも御出家様からお線香なぞ戴いては誠にあべこべな事で」
良「そんな事を云わずに取って置きなさい」
孝「誠に有り難う存じます」
良「孝助殿気の毒だが、お前はどうも危い身の上でナア、
剣の上を渡るようなれども、それを恐れて
後へ
退るような事ではまさかの時の役には立たん、
何でも進むより
外はない、進むに利あり
退くに利あらずと云うところだから、何でも
憶してはならん、ずっと精神を
凝して、
仮令向うに鉄門があろうとも、それを
突切って通り越す心がなければなりませんぞ」
孝「有難うござりまする」
良「お舅御さん、これはねえ精進物だが、一体内で
拵えると云うたは嘘だが、仕出し屋へ頼んだのじゃ、
甘うもあるまいが此の重箱へ詰めて置いたから、二重とも土産に持って帰り、内の奉公人にでも喰わしてやってください」
相「これは又お土産まで戴き、実に何ともお礼の申そうようはございません」
良「孝助殿、お前帰りがけに
屹度剣難が見えるが、どうも
遁れ難いから其の積りで
行きなさい」
相「誰に剣難がございますと」
良「孝助殿はどうも遁れ難い剣難じゃ、なに軽くて
軽傷、それで済めば宜しいが、何うも
深傷じゃろう、間が悪いと斬り殺されるという訳じゃ、どうもこれは遁れられん因縁じゃ」
相「
私は最早五十五歳になりまするから、どう成っても宜しいが、
貴僧孝助は大事な身の上、
殊に大事を抱えて居りまする故、どうか一つあなたお助け下さいませんか」
良「お助け申すと云っても、これはどうも助けるわけにはいかんなア、因縁じゃから何うしても遁るゝ事はない」
相「左様ならば、どうか孝助だけを
御当寺へお
留め置きくだされ、
手前だけ帰りましょうか」
良「そんな弱い事では何うもこうもならんわえ、武士の一大事なものは剣術であろう、其の剣術の極意というものには、頭の上へ
晃めくはがねがあっても、
電光の如く斬込んで来た時は何うして
之を受けるという事は知っているだろう、
仏説にも
利剣頭面に
触るゝ時
如何という事があって其の時が大切の事じゃ、其の位な心得はあるだろう、
仮令火の中でも水の中でも
突切って
行きなさい、其の代りこれを突切れば
後は誠に楽になるから、さっ/\と行きなさい、其のような事で
気怯れがするような事ではいかん、ズッ/\と突切って行くようでなければいかん、それを恐れるような事ではなりませんぞ、火に
入って焼けず水に入って
溺れず、精神を
極めて進んで行きなさい」
相「さようなれば此のお重箱は置いて参りましょう」
良「いや折角だからマア持って
行きなさい」
相「
何方へか
遁路はございませんか」
良「そんな事を云わずズン/″\と
行きなさい」
相「さようならば
提灯を拝借して参りとうございます」
良「提灯を持たん方が
却て宜しい」
と云われて相川は意地の悪い和尚だと
呟きながら、挨拶もそわ/\孝助と共に幡随院の門を
立出でました。
二十
孝助は新幡随院にて主人の法事を仕舞い、其の帰り道に
遁れ難き剣難あり、
浅傷か
深傷か、運がわるければ斬り殺される程の剣難ありと、新幡随院の良石和尚という名僧智識の教えに相川新五兵衞も大いに驚き、孝助はまだ
漸く廿二歳、
殊に可愛いゝ娘の養子といい、
御主の
敵を打つまでは大事な身の上と、
種々心配をしながら打ち連れ立ちて帰る。孝助は
仮令如何なる
災があっても、それを恐れて一歩でも
退くようでは大事を仕遂げる事は出来ぬと思い、刀に
反を打ち、
目釘を
湿し、
鯉口を切り、用心堅固に身を固め、四方に心を配りて参り、相川は重箱を
提げて、孝助殿気を付けて
行けと云いながら参りますると、向うより
薄だゝみを押分けて、
血刀を提げ飛出して、物をも云わず孝助に斬り掛けました。此の者は栗橋無宿の伴藏にて、栗橋の
世帯を
代物付にて売払い、多分の
金子をもって山本志丈と二人にて江戸へ
立退き、
神田佐久間町の医師
何某は志丈の懇意ですから、二人はこゝに身を寄せて二三日逗留し、八月三日の
夜二人は
更けるを待ちまして忍び
来り、根津の清水に
埋めて置いた金無垢の海音如来の
尊像を掘出し、伴藏は手早く懐中へ入れましたが、伴藏の思うには、我が悪事を知ったは志丈ばかり、此の
儘に
生け置かば
後の恐れと、伴藏は差したる刀抜くより早く飛びかゝって、出し抜けに力に任して志丈に斬り付けますれば、アッと倒れる所を
乗し掛り、一刀
逆手に持直し、
肋へ
突込みこじり廻せば、山本志丈は其の儘にウンと云って身を
顫わせて、
忽ち息は絶えましたが、此の志丈も伴藏に
与し、悪事をした天罰のがれ難く
斯る非業を遂げました、死骸を見て伴藏は
後へさがり、逃げ出さんとする所、御用と声掛け、八方より取巻かれたに、伴藏も
慌てふためき必死となり、
捕方へ手向いなし、死物狂いに斬り廻り、
漸く一方を切抜けて
薄だゝみへ飛込んで、往来の広い所へ飛出す出合がしら、伴藏は眼も
眩み、
是れも同じ捕方と思いましたゆえ、ふいに孝助に斬掛けましたが、大概の者なれば
真二つにもなるべき所なれども、
流石は飯島平左衞門の仕込で真影流に達した腕前、
殊に用意をした事ゆえ、それと見るより孝助は一
歩退きしが、
抜合す間もなき事ゆえ、刀の
鍔元にてパチリと受流し、身を引く途端に伴藏がズルリと前へのめる所を、腕を取って逆に
捻倒し。
孝「やい/\
曲者何と致す」
曲「へい
真平御免下さえまし」
相「そら出たかえ、孝助怪我は無いか」
孝「へい怪我はございません、こりゃ
狼藉者め
何等の遺恨で我に斬付けたか、次第を申せ」
曲「へい/\全く人違いでごぜえやす」
と小声にて、
「今この先で友達と間違いをした所が、
皆が徒党をして、大勢で
私を
打殺すと云って
追掛けたものだから、一生懸命に
此処までは逃げて来たが、目が眩んでいますから、殿様とも心付きませんで、とんだ粗相を致しました、
何うかお見逃しを願います、
其奴らに見付けられると殺されますから、早くお逃しなすって下されませ」
孝「全くそれに違いないか」
曲「へい、全く
違えごぜえやせん」
相「あゝ驚いた、これ人違いにも事によるぞ、斬ってしまってから人違いで済むか、べらぼうめ、実に驚いた、良石和尚のお告げは不思議だなアおや今の騒ぎで重箱を
何処かへ落してしまった」
と
四辺を見

している所へ、
依田豊前守の組下にて
石子伴作、
金谷藤太郎という両人の
御用聞が駆けて来て、孝助に向い
慇懃に、
捕「へい申し殿様、誠に有難う存じます、此の者はお尋ね者にて、旧悪のある重罪な奴でござります、
私共は
彼処に待受けていまして、つい取逃がそうとした処を、旦那様のお蔭で
漸くお取押えなされ、有難うございます、どうかお引渡しを願いとう存じます」
相「そうかえ、あれは賊かい」
捕「
大盗賊でござります」
孝「お
父様呆れた奴でございます、此の不埓者め」
相「なんだ、人違いだなぞと嘘をついて、嘘をつく者は
盗賊の始りナニ
疾うに盗賊にもう成っているのだから仕方がない、
直ぐに縄を掛けてお引きなさい」
捕「殿様のお蔭で漸く取押え、誠に有り難う存じます、
何うかお名前を承わりとう存じます」
相「不浄人を取押えたとて姓名なぞを申すには及ばん、これ/\/\重箱を落したから捜してくれ、あゝこれだ/\、危なかったのう」
孝「
然しお父様、何分悪人とは申しながら、主人の法事の帰るさに縄を掛けて引渡すは何うも忍びない事でございます」
相「なれども
左様申してはいられない、渡してしまいなさい、早く引きなされ」
捕方は伴藏を受取り、縄打って引立て
行き、其の筋にて吟味の末、相当の刑に行われましたことはあとにて分ります。さて相川は孝助を連れて
我屋敷に帰り、互に無事を悦び、其の
夜は過ぎて翌日の朝、孝助は旅支度の用意の
為め、
小網町辺へ行って
種々買物をしようと
家を立ち
出で、神田旅籠町へ差懸る、向うに白き
幟に人相
墨色白翁堂勇齋とあるを見て、孝助は
「はゝアこれが、
昨日良石和尚が教えたには今日の八ツ頃には必ず逢いたいものに逢う事が出来ると仰せあった
占者だな、
敵の手掛りが分り、源次郎お國に
廻り逢う事もやあろうか、何にしろ判断して貰おう」
と思い、勇齋の
門辺に立って見ると、名人のようではござりません。竹の打ち付け窓に
煤だらけの障子を建て、脇に
欅の板に人相墨色白翁堂勇齋と記して有りますが、家の前などは掃除などした事はないと見え、
塵だらけゆえ、孝助は足を
爪立てながら
中に
入り、
孝「おたのみ申します/\」
白「なんだナ、誰だ、明けてお
入り、
履物を
其処へ置くと盗まれるといけないから持ってお
上り」
孝「はい、御免下さいまし」
と云いながら障子を明けて
中へ通ると、六畳ばかりの狭い所に、
真黒になった
今戸焼の火鉢の上に口のかけた
土瓶をかけ、茶碗が転がっている。脇の方に小さい机を前に置き、其の上に
易書を五六冊積上げ、
傍の
筆立には短かき
筮竹を立て、其の前に丸い小さな
硯を置き、勇齋はぼんやりと机の前に座しました
態は、名人かは知らないが、少しも山も飾りもない。じゞむさくしている故、名人らしい事は更になけれども、孝助は
予ねて良石和尚の教えもあればと思って両手を突き、
孝「白翁堂勇齋先生は
貴方様でございますか」
白「はい、始めましてお目にかゝります、勇齋は私だよ、今年はもう七十だ」
孝「それは誠に御壮健な事で」
白「まア/\達者でございます、お前は見て貰いにでも来たのか」
孝「へい手前は谷中新幡随院の良石和尚よりのお
指図で参りましたものでございますが、先生に身の上の判断をしていたゞきとうございます」
白「はゝア、お前は良石和尚と心安いか、あれは名僧だよ、智識だよ、実に
生仏だ、茶は
其処にあるから一人で勝手に汲んでお上り、ハヽアお前は侍さんだね、
何歳だえ」
孝「へい、二十二歳でございます」
白「ハア顔をお出し」
と天眼鏡を取出し、
暫くのあいだ相を見ておりましたが、大道の易者のように高慢は云わず
白「ハヽアお前さんはマア/\家柄の人だ、して是まで目上に縁なくして誠にどうも一々苦労ばかり重なって来るような訳に成ったの」
孝「はい、仰せの通り、どうも目上に縁がございません」
白「
其処でどうも是迄の身の上では、
薄氷を
蹈むが如く、
剣の上を渡るような
境界で、大いに千
辛万苦をした事が
顕われているが、そうだろうの」
孝「誠に不思議、実によく当りました、
私の身の上には
危い事ばかりでございました」
白「それでお前には望みがあるであろう」
孝「へい、ございますが、其の望みは本意が遂げられましょうか
如何でございましょう」
白「
望事は近く遂げられるが、
其処の所がちと危ない事で、これと云う場合に向いたなら、水の中でも火の中でも向うへ
突切る勢いがなければ、必ず
大望は遂げられぬが、まず
退くに利あらず進むに利あり、
斯ういう所で、悪くすると
斬殺されるよ、どうも剣難が見えるが、旨く火の中水の中を突切って仕舞えば、広々とした所へ出て、何事もお前の思う様になるが、それは難かしいから気を
注けなけりゃいけない、もう是切り見る事はないからお帰り/\」
孝「へい、それに
就きまして、
私疾うより尋ねる者がございますが、是は
何うしても逢えない事とは存じて居りますが、其の者の
生死は
如何でございましょう、御覧下さいませ」
白「ハヽア見せなさい」
と又
相して、
白「むゝ、是は目上だね」
孝「はい、
左様でございます」
白「これは逢っているぜ」
孝「いゝえ、逢いません」
白「いや逢っています」
孝「
尤も
今年より十九年以前に別れましたるゆえ、途中で逢っても顔も分らぬ位でありまするから、一緒に居りましても互いに知らずに居りましたかな」
白「いや/\何でも逢って居ます」
孝「
少さい時分に別れましたから、事に寄ったら往来で
摩れ違った事もございましょうが、逢った事はございません」
白「いや/\そうじゃない、
慥かに逢っている」
孝「それは少さい時分の事
故」
白「あゝ
煩さい、いや逢っていると云うのに、
外には何も云う事はない、人相に出ているから仕方がない、
屹度逢っている」
孝「それは間違いでございましょう」
白「間違いではない、
極めた所を云ったのだ、それより外に見る所はない、昼寝をするんだから帰っておくれ」
とそっけなく云われ、孝助は
後を細かく聞きたいからもじ/\していると、また門口より
入り来るは女連れの二人にて、
女「はい御免下さいませ」
白「あゝ又来たか、昼寝が出来ねえ、おゝ二人か何一人は供だと、そんなら
其処に待たして
此方へお上り」
女「はい御免くだされませ、先生のお名を承わりまして参りました、どうか
当用の身の上を御覧を願います」
白「はい
此方へお
出で」
と又此の女の相をよく/\見て、
「これは悪い相だなア、お前はいくつだえ」
女「はい四十四歳でございます」
白「これはいかん、もう見るがものはない、ひどい相だ、一体お前は目の下に
極縁のない相だ、それに
近々の内
屹度死ぬよ、死ぬのだから外に
何にも見る事はない」
と云われて驚き
暫く思案を致しまして、
女「命数は限りのあるもので、長い短かいは致し方がございませんが、
私は一人尋ねるものがございますが、其の者に逢われないで死にます事でございましょうか」
白「フウム是は逢っている訳だ」
女「いえ逢いません、
尤も幼年の折に別れましたから、先でも
私の顔を知らず、私も忘れたくらいな事で、すれ違ったくらいでは知れません」
白「
何でも逢っています、もうそれで外に見る所も
何もない」
女「其の者は男の子で、四つの時に別れた者でございますが」
という側から、孝助は
若しやそれかと
彼の女の側に膝をすりよせ、
孝「もし、お
内室様へ少々伺いますが、
何れの方かは存じませんが、只今四つの時に別れたと仰しゃいます、その人は本郷丸山
辺りで別れたのではございませんか、そしてあなたは越後村上の内藤紀伊守様の御家来澤田右衞門様のお妹御ではございませんか」
女「おやまアよく知ってお
出でゞす、誠に、はい/\」
孝「そして
貴方のお名前はおりゑ様とおっしゃって、小出信濃守様の御家来黒川孝藏様へお
縁附になり、其の
後御離縁になったお方ではございませんか」
女「おやまア貴方は
私の名前までお当てなすって、大そうお上手様、これは先生のお弟子でございますか」
と云うに、孝助は思わず側により、
孝「オヽお
母様お見忘れでございましょうが、十九年以前、手前四歳の折お別れ申した
忰の孝助めでございます」
りゑ「おやまアどうもマア、お前がアノ忰の孝助かえ」
白「それだから
先刻から逢っている/\と云うのだ」
おりゑは
嬉涙を拭い、
りゑ「
何うもマア思い
掛ない、誠に夢の様な事でございます、そうして大層立派にお成りだ、
斯う云う姿になっているのだものを、表で逢ったって知れる事じゃアありません」
孝「誠に神の引合せでございます、お母様お懐かしゅうございました、
私は昨年越後の村上へ参り、段々御様子を
伺いますれば、澤田右衞門様の代も替り、お母様のいらっしゃいます所も知れませんから、何うがなしてお目に懸りたいと存じていましたに、
図らずこゝでお目に懸り、
先ずお
壮健でいらッしゃいまして、
斯んな嬉しい事はございません」
りゑ「よくマア、
嘸お前は私を怨んでおいでだろう」
白「そんな話をこゝでしては困るわな、
併し十九年ぶりで親子の対面、嘸話があろうが、いらざる事だが、供に知れても
宜くない事もあろうから、
何処か
待合か何かへ行ってするがいゝ」
孝「はい/\、先生お蔭様で誠に有難うございました、良石様のお言葉といい、貴方様の人相のお名人と申し、実に驚き入りました」
白「人相が名人というわけでもあるまいが、皆こうなっている因縁だから
見料はいらねえから帰りな、ナニ
些とばかり置いて行くか、それも宜かろう」
りゑ「
種々お世話様、有り難う存じました、孝助や種々話もしたい事があるから斯うしよう、私は今
馬喰町三丁目
下野屋という宿屋に泊っているから、お前よ一ト足先へ帰り、供を買物に出すから、其の
後へ供に知れないように
上っておいで」
白「
嘸嬉しかろうのう」
孝「さようならば、これから
直見え
隠れにお母様のお跡に付いて参りましょう、それはそうと」
と云いつゝも懐中より何程か紙に包んで見料を置き、厚く礼を述べ白翁堂の家を
立出で、見え隠れに跡をつけ、馬喰町へまいり、下野屋の
門辺に
佇み待って
居るうちに、供の者が買ものに出て
行きましたから、孝助は宿屋に
入り、
下女に案内を頼んで奥へ通る。
りゑ「サア/\/\
此処へ来な、本当にマアどうもねえ」
と云いながら孝助をつく/″\見て、
「見忘れはしませぬ
幼顔、お前の親御孝藏殿によく似ておいでだよ、そうして大層立派におなりだねえ、お前がお
父様の跡を継いで、今でもお父様はお
存生でいらッしゃるかえ」
孝「はい、お母様此の両隣の座敷には誰も居りは致しませんか」
りゑ「いゝえ、私も来て間もないことだが、昼の
中は
皆買物や見物に出かけてしまうから誰もいないよ、日暮方は大勢帰って来るが、今は留守居が昼寝でもしている位だろうよ」
孝「フウ、左様なら申上げますが、お母様は
私の四つの時の二月にお離縁になりましたのも、お父様があの通りの酒乱からで、それからお父様は其の年の四月十一日、本郷三丁目の藤村屋新兵衞と申す刀屋の前で
斬殺され、
無慙な死をお遂げなされました」
りゑ「おやまア
矢張御酒ゆえで、それだから私アもうお前のお
父さんでは本当に苦労を仕抜いたよ、あの時もお前と云う可愛い子があることだから、別れたいのではないが、兄が物堅い気性だから、あんな者へ付けては置かれん、酒ゆえに
主家をお
暇に成るような者には添わせて置かんと、無理無体に離縁を取ったが、お行方の事は此の
年月忘れた事はありませぬ、そうしてお父様が亡くなっては、跡で誰もお前の世話をする者がなかったろう」
孝「さアお父様の
店受彌兵衞と申しまする者が育てゝ呉れ、
私が十一の時に、お前のお父さんはこれ/\で死んだと話して呉れました故、私も
仮令今は町人に成ってはいますものゝ、元は武家の子ですから、成人の
後は必ずお父様の
仇を報いたいと思い詰め、屋敷奉公をして剣術を覚えたいと思っていましたに、縁有って昨年の三月五日、牛込軽子坂に住む飯島平左衞門とおっしゃる、お
広敷番の頭をお勤めになる旗下屋敷に奉公
住を致した所、其の主人が私をば
我子のように可愛がってくれましたゆえ、私も身の上を
明し、親の
敵が討ちたいから、
何うか剣術を教えて下さいと頼みましたれば、殿様は御番疲れのお
厭いもなく、
夜までかけて御剣術を仕込んで下されました故、思いがけなく免許を取るまでになりました」
りゑ「おやそう、フウンー」
孝「すると其の
家にお國と申す召使がありました、これは水道端の三宅のお嬢様が殿様へ御縁組になる時に、奥様に附いて来た女でございますが、其の
後奥様がお
逝れになりましたものですから、此のお國にお手がつき、お妾となりました所、
隣家の
旗下の次男宮野邊源次郎と不義を働き、
内々主人を殺そうと
謀みましたが、主人は
素より
手者の事
故、容易に殺すことは出来ないから、中川へ
網船に誘い出し、船の上から
突落して殺そうという事を
私が立聞しましたゆえ、源次郎お國をひそかに殺し、自分は割腹しても何うか恩ある御主人を助けたいと思い、昨年の八月三日の晩に私が槍を持って庭先へ忍び込み、源次郎と心得
突懸けたは間違いで、主人平左衞門の
肋を深く突きました」
りゑ「おやまアとんだ事をおしだねえ」
孝「サア
私も驚いて気が狂うばかりに成りますと、主人は庭へ下りて来て、ひそ/\と私への
懴悔話に、今より十八年前の事、貴様の
親父を手に掛けたは此の平左衞門が
未だ部屋住にて、平太郎と申した昔の事、どうか其の方の親の敵と
名告り、貴様の手に掛りて討たれたいとは思えども、
主殺しの罪に落すを
不便に思い、今日までは打過ぎたが、今日こそ
好い折からなれば、
斯くわざと源次郎の
態をして貴様の手にかゝり、
猶委細の事は此の書置に
認め置いたれば、跡の始末は養父相川新五兵衞と共に相談せよ、貴様はこれにて
怨を晴してくれ、
然る上は
仇は仇恩は恩、三
世も変らぬ
主従と心得、飯島の
家を再興してくれろ、急いで
行けと
急き立てられ、養家先なる水道端の相川新五兵衞の宅へ参り、舅と共に書置を開いて見れば、主人は私を出した
後にて
直ぐに
客間へ忍び入り源次郎と槍試合をして、源次郎の手に掛り、最後をすると認めてありました書置の通りに、
遂に主人は其の晩
果敢なくおなりなされました、又源次郎お國は必ず越後の村上へ立越すべしとの遺書にありますから、
主の仇を報わん
為め、養父相川とも申し合せ、跡を追いかけて出立致し、越後へ参り、諸方を尋ねましたが一向に見当らず、又あなたの事もお尋ね申しましたが、これも分りません故、余儀なく此の
度主人の年囘をせん為めに当地へ帰りました所、
不図今日御面会を致しますとは不思議な事でございます」
と聞いて驚き小声に成り、
りゑ「おやマア不思議な事じゃアないか、あの源次郎とお國は私の
宅にかくまってありますよ、どうもまア
何たる悪縁だろう、不思議だねえ、私が廿六の時黒川の
家を離縁になって国へ帰り、村上に居ると、兄が
頻りに再縁しろとすゝめ、不思議な縁でお出入の町人で荒物の御用を
達す
樋口屋五
兵衞と云うものゝ所へ縁付くと、そこに十三になる
五郎三郎という男の子と、八ツになるお國という女の子がありまして、其のお國は年は
行かぬが意地の悪いとも
性の悪い奴で、夫婦の
合中を
突ついて仕様がないから、十一の
歳江戸の屋敷奉公にやった先は、水道端の三宅という旗下でな、其の
後奥様
附で牛込の方へ行ったとばかりで
後は手紙一本も寄越さぬくらい、実に
酷い奴で、夫五兵衞が亡くなった時も
訃音を出したに帰りもせず、返事もよこさぬ不孝もの、兄の五郎三郎も大層に腹を立っていましたが、其の
後私共は仔細有って越後を引払い、宇都宮の
杉原町に来て、五郎三郎の名前で荒物屋の店を開いて、最早七年居ますが、つい
先達てお國が源次郎と云う人を連れて来ていうのには、私が牛込の或るお屋敷へ奥様附で行った所が、若気の至りに源次郎様と不義
私通ゆえに此のお方は御勘当となり、
私故に今は路頭に迷う身の上だから、誠に済まない事だが
匿まってくれろと云って、そんな人を殺した事なんぞは何とも云わないから、源次郎への義理に今は宇都宮の私の内にいるよ、私は此の間五郎三郎から
小遣を貰い、江戸見物に出掛けて来て、未だこちらへ着いて間も無くお前に巡り逢って、此の事が知れるとは何たら事だねえ」
孝「ではお國源次郎は宇都宮に居りますか、つい鼻の先に居ることも知らないで、越後の方から能登へかけ尋ねあぐんで帰ったとは、誠に残念な事でございますから、どうぞお母様がお手引をして下すって、仇を討ち、主人の家の
立行くように致したいものでございます」
りゑ「それは手引をして上げようともサ、そんなら私は
直にこれから宇都宮へ帰るから、お前は一緒にお
出で、だがこゝに一つ困った事があると云うものは、あの供がいるから、
是れを聞き付け喋られると、お國源次郎を取逃がすような事になろうも知れぬから、こうと
······」
思案して、
「私は
明日の朝供を連れて出立するから、今日のようにお前が見え隠れに跡を追って来て、休む所も泊る所も一つ所にして、互に口をきかず、知らない者の様にして置いて、宇都宮の杉原町へ往ったら供を先へ
遣って置いて、そうして両人で
相図を
諜し
合したら
宜かろうね」
孝「お母様有り難う存じます、それでは何うかそういう
手筈に願いとう存じます、
私はこれより
直に
宅へ帰って、舅へ此の事を聞かせたなら
何のように悦びましょう、左様なら明朝早く参って、此の
家の門口に立って居りましょう、それからお母様先刻つい申上げ残しましたが、私は相川新五兵衞と申す者の
方へ主人の
媒妁で養子にまいり、男の子が出来ました、貴方様には初孫の事故お見せ申したいが、此の
度はお取急ぎでございますから、
何れ本懐を遂げた
後の事にいたしましょう」
りゑ「おやそうかえ、それは
何にしても目出度い事です、私も早く初孫の顔が見たいよ、それに
就いても、
何うか首尾よくお國と源次郎をお前に討たせたいものだのう、これから宇都宮へ
行けば私がよき手引をして、
屹度両人を討たせるから」
と互に言葉を誓い孝助は
暇を告げて急いで水道端へ立帰りました。
相「おや孝助殿、大層早くお帰りだ、いろ/\お買物が有ったろうね」
孝「いえ何も買いません」
相「なんの事だ、何も買わずに来た、そんなら何か用でも出来たかえ」
孝「お
父様どうも不思議な事がありました」
相「ハヽ随分世間には不思議な事も有るものでねえ、何か両国の川の上に
黒気でも立ったのか」
孝「左ようではございませんが、昨日良石和尚が教えて下さいました人相見の所へ参りました」
相「成程行ったかえ、そうかえ、名人だとなア、お前の身の上の判断は旨く当ったかえ/\」
孝「へい、良石和尚が申した通り、
私の身の上は
剣の上を渡る様なもので、進むに利あり退くに
利あらずと申しまして、良石和尚の言葉と
聊か違いはござりません」
相「違いませんか、成程智識と同じ事だ、それから、へえそれから
何の事を見て貰ったか」
孝「それから
私が本意を遂げられましょうかと聞くと、本意を遂げるは遠からぬうちだが、
遁れ
難い剣難が有ると申しました」
相「へえ剣難が有ると云いましたか、それは
極心配になる、又昨日のような事があると大変だからねえ、其の剣難は
何うかして遁れるような御祈祷でもしてやると云ったか」
孝「いえ左ような事は申しませんが、
貴方も御存じの通り
私が四歳の時別れました母に逢えましょうか、逢えますまいかと聞くと、白翁堂は逢っていると申しますから、幼年の時に別れたる故、途中で逢っても知れない位だと申しても、
何でも逢っていると申し
遂に争いになりました」
相「ハアそこの所は少し下手糞だ、
併し当るも
八卦当らぬも八卦、そう身の上も何もかも当りはしまいが、強情を張ってごまかそうと思ったのだろうが、
其所の所は下手糞だ、なんとか云ってやりましたか、下手糞とか何とか」
孝「すると
後から一人四十三四の女が参りまして、これも尋ねる者に逢えるか逢えないかと尋ねると、白翁堂は同じく逢っているというものだから、其の女はなに逢いませんといえば、
急度逢っていると又争いになりました」
相「あゝ、こりゃからッぺた誠に下手だが、そう当る訳のものではない、それには白翁堂も恥をかいたろう、お前と其の女と二人で取って押えてやったか、それから何うした」
孝「さア余り不思議な事で、
私も心にそれと思い当る事もありますから、其の女にはおりゑ様と仰しゃいませんかと尋ねました所が、それが全く
私の母でございまして、先でも驚きました」
相「ハヽア其の
占は名人だね、驚いたねえ、成程、フム」
是より孝助はお國源次郎両人の手懸りが知れた事から、母と
諜し合わせた
一伍一什を物語りますると、相川も驚きもいたし、又悦び、誠に天から授かった事なれば、
速に
明日の朝遅れぬように出立して、目出度く本懐を遂げて参れという事になりました。
翌朝早天に
仇討に出立を致し、是より仇討は次に申上げます。
二十一
孝助は図らずも十九年ぶりにて実母おりゑに
廻り逢いまして、馬喰町の下野屋と申す宿屋へ参り、互に
過し身の上の物語を致して見ると、思いがけなき事にて、母方にお國源次郎がかくまわれてある事を知り、誠に不思議の思いをなしました処、母が手引をして
仇を討たせてやろうとの言葉に、孝助は飛立つばかり急ぎ立帰り、右の次第を養父相川新五兵衞に話しまして、六日の早天水道端を出立し、馬喰町なる下野屋方へ参り様子を見ておりますると、母も
予ねて約したる事なれば、身支度を整え、下男を供に連れ
立ち
出でましたれば、孝助は見え
隠れに跡を
尾けて参りましたが、女の足の
捗どらず、幸手、栗橋、古河、
真間田、
雀の
宮を
後になし、宇都宮へ着きましたは、丁度九日の日の
暮々に相成りましたが、宇都宮の杉原町の手前まで参りますと、母おりゑは
先ず下男を先へ帰し、五郎三郎に我が帰りし事を知らせてくれろと云い付けやり、孝助を近く招ぎ寄せまして小声になり、
母「孝助や、私の
家は向うに見える
紺の
暖簾に
越後屋と書き、山形に五の字を
印したのが私の家だよ、あの先に板塀があり、付いて曲ると細い新道のような
横町があるから、それへ曲り三四軒
行くと左側の板塀に三尺の
開きが付いてあるが、それから
這入れば庭伝い、右の
方の四畳半の小座敷にお國源次郎が隠れいる事ゆえ、今晩私が開きの
栓をあけて置くから、九ツの鐘を合図に忍び込めば、袋の
中の鼠同様、
覚られぬよう致すがよい」
孝「はい誠に有り難うぞんじまする、
図らずも
母様のお蔭にて本懐を遂げ、江戸へ立帰り、
主家再興の上
私は相川の
家を相続致しますれば、お母様をお引取申して、必ず孝行を尽す心得、さすれば忠孝の道も全うする事が出来、誠に嬉しゅう存じます、さようなれば私は
何方へ参って待受けて居ましょう」
母「そうさ、
池上町の
角屋は堅いという評判だから、あれへ参り宿を取っておいで、九ツの鐘を忘れまいぞ」
孝「決して忘れません、さようならば」
と孝助は母に別れて角屋へまいり、九ツの鐘の鳴るのを待受けて居ました。母は孝助に別れ、越後屋五郎三郎方へ帰りますと、五郎三郎は大きに驚き、
五「大層お早くお帰りになりました、まだめったにはお帰りにならないと思っていましたのに、存じの
外にお早うござりました、それでは
迚も御見物は出来ませんでございましたろう」
母「はい、私は少し思う事があって、急に国へ帰る事になりましたから、奉公人共への土産物も取っている暇もない位で」
五「アレサなに左様御心配がいるものでございましょう、お
母さまは芝居でも御見物なすってお帰りになる事だろうから、中々一ト月や二タ月は
故郷忘じ
難しで、あっちこっちをお廻りなさるから、急にはお帰りになるまいと存じましたに」
母「さアお前に貰った旅用の残りだから、むやみに
遣っては済まないが、どうか
皆に
遣っておくれよ」
と奉公人
銘々に包んで遣わしまして、其の
外着古しの小袖
半纒などを取分け。
五「そんなに遣らなくっても
宜しゅうございます」
と申すに、
母「ハテこれは私の少々心あっての事で、詰らん物だが着古しの半纒は、女中にも色々世話に成りますからやっておくれ、シテお國や源次郎さんは矢張奥の四畳半に居りますか」
五「誠にあれはお
母様に対しても置かれた義理ではございません、憎い奴でございますが、
強て
縋り付いて参り、私故にお隣屋敷の源次郎さんが勘当をされたと申しますから、義理でよんどころなく置きましたものゝ、
嘸あなたはお
厭でございましょう」
母「私はお國に逢って
緩くり話がしたいから、用もあるだろうが、いつもより少々店を早くひけにして、寝かしておくれ、私は四畳半へ行って國や源さんに話があるのだが、是でお酒やお肴を」
五「およし遊ばせ」
母「いや、そうでない、何も買って来ないから是非上げておくれよ」
五「はい/\」
と気の毒そうに承知して、五郎三郎は母の云付けなれば
酒肴を
誂え、四畳半の小間へ入れ、店の奉公人も早く寝かしてしまい、母は四畳半の小座敷に来たりて内にはいれば、
國「おや、お
母様、大層早くお帰り遊ばしました、
私は
未だめったにお帰りにはなりますまいと思い、
屹度一ト月位は大丈夫お帰りにはならないとお噂ばかりして居りました、大層お早く、本当に
恟り致しました」
源「只今はお土産として
御酒肴を沢山に有り難うぞんじます」
母「いえ/\、なんぞ買って来ようと思いましたが、誠に急ぎましたゆえ何も取って居る
暇もありませんでした、誰も
外に聞いている人もないようだから、打解けて話をしなければならない事があるが、お國やお前が江戸のお屋敷を出た時の始末を隠さずに云っておくんなさい」
國「誠にお恥かしい事でございますが、若気の
過り、此の源さまと
馴染めた所から、源さまは御勘当になりまして、
行き所のないようにしたは
皆な
私ゆえと思い、悪いこととは知りながらお屋敷を逃出し、源さまと手を取り合い、日頃無沙汰を致した兄の所に頼り、今ではこうやって厄介になって居りまする」
母「不義
淫奔は若い内には随分ありがちの事だが、お國お前は飯島様のお屋敷へ奥様付になって来たが、奥様がおかくれになってから、殿様のお召使になっているうちに、お隣の御二男源次郎さまと、隣りずからの心安さに
折々お
出になる所から、お前は此の源さまと不義
密通を働いた末、お前方が申し合せ、殿様を殺し、有金大小
衣類を盗み取り、お屋敷を逃げておいでだろうがな」
と云われて二人は顔色変え、
國「おやまア
恟りします、お
母様何をおっしゃいます、誰が其の様な事を云いましたか、少しも身に覚えのない事を云いかけられ、本当に恟り致しますわ」
母「いえ/\いくら隠してもいけないよ、私の方にはちゃんと証拠がある事だから、隠さずに云っておしまい」
國「そんな事を誰が申しましたろうねえ源さま」
と云えば、源次郎
落着ながら、
源「誠に
怪しからん事です。お母様もし
外の事とは違います、手前も宮野邊源次郎、何ゆえお隣の伯父を殺し、有金
衣類を盗みしなどゝ何者がさような事を申しました、毛頭覚えはございません」
母「いや/\そうおっしゃいますが、私は江戸へ参り、不思議と久し振りで逢いました者が有って、其の者から承わりました」
源「フウ、シテ何者でございますか」
母「はい、飯島様のお屋敷でお草履取を勤めて居りました、孝助と申す者でなア」
源「ムヽ孝助、
彼奴は不届至極な奴で」
國「アラ彼奴はマア憎い奴で、御主人様のお金を百両盗みました位の者ですから、どんな
拵え事をしたか知れません、あんな者の云う事をあなた取上げてはいけません、
何うして草履取が奥の事を知っている訳はございません」
母「いえ/\お國や、その孝助は私の為には実の
忰でございます」
と云われて
両人は驚き顔して、
後へもじ/\とさがり、
母「さア、私が此の
家へ縁付いて来たのは、今年で丁度十七年前の事、元私の
良人は小出様の御家来で、お馬廻り役を勤め、百五十石頂戴致した黒川孝藏と云う者でありましたが、
乱酒故に屋敷は追放、本郷丸山の
本妙寺長屋へ浪人していました処、
私の兄澤田右衞門が物堅い気質で、左様な
酒癖あしき者に連添うているよりは、離縁を取って国へ帰れと
押て迫られ、兄の云うに是非もなく、其の時四つになる忰を
後に残し、離縁を取って越後の村上へ
引込み、二年程過ぎて此の家に再縁して参りましたが、此の
度江戸で図らずも十九年ぶりにて忰の孝助に逢いましたが、実の親子でありますゆえ、段々様子を聞いて見ると、お前達は飯島様を殺した上、有金大小衣類まで盗み取り、お屋敷を逐電したと聞き、私は恟りしましたよ、それが為飯島様のお家は改易になりましたから、忰の孝助が主人の
敵のお前方を討たなければ、飯島の家名を
興す事が出来ないから、敵を捜す身の上と、涙ながらの物語に、
私も十九年ぶりで実の子に逢いました嬉し紛れに、敵のお国源次郎は私の家に
匿まってあるから、手引をして敵を打たせてやろうと、サうっかり云ったは私の過り、孝助は血を分けた実子なれども、一旦離縁を取ったれば黒川の家の子、此の家に再縁する上からは、今はお前は私の為に
猶更義理ある
大切の娘なりや、縁の切れた忰の
情に引かされて、手引をしてお前達を討たせては、亡くなられたお前の親御樋口屋五兵衞殿の御位牌へ対して、何うも義理が立ちませんから、悪い事を云うた、何うしたら
宜かろうかと道々も考えて来ましたが、孝助は
後になり先になり私に附きて此の地に参り、実は今晩
九時の鐘を合図に庭口から
此家に忍んで来る約束、討たせては済まないから、お前達も隠さず実はこれ/\と云いさえすれば、五郎三郎から
小遣に貰った三十両の内、少し
遣って
未だ二十六七両は残ってありますから、これをお前達に路銀として餞別に上げようから、少しも早く逃げのびなさい、
立退く道は宇都宮の明神様の
後山を越え、
慈光寺の門前から付いて曲り、八
幡山を抜けてなだれに下りると日光街道、それより
鹿沼道へ一里半
行けば、十
郎ヶ
峰という所、それよりまた一里半あまり
行けば鹿沼へ出ます、それより先は
田沼道奈良村へ出る
間道、人の目つまにかゝらぬ
抜道、少しも早く逃げのびて、
何処の果なりとも身を隠し、悪い事をしたと気がつきましたら、髪を
剃って二人とも
袈裟と
衣に身を
窶し、殺した御主人飯島様の追善供養致したなら、命の助かる事もあろうが、只
不便なのは忰の孝助、敵の行方の知れぬ時は一生旅寝の
艱難困苦、
御主のお家も立ちません、気の毒な事と気がついたら心を入れかえ善人に成っておくれよ、さア/\早く」
と路銀まで出しまして、義理を立てぬく母の
真心、
流石の二人も
面目なく眼と眼を見合せ、
國「はい/\誠にどうも、左様とは存じませんでお隠し申したのは済みません」
源「実に
御信実なお言葉、恐れ入りました、拙者も飯島を殺す気ではござらんが、不義が
顕われ平左衞門が手槍にて突いてかゝる故、止むを得ず
斯の如きの
仕合でございます、仰せに従い早々逃げのび、改心致して再びお礼に参りまするでございます、これお國や、お餞別として路銀まで、あだに心得ては済みませんよ」
國「お
母様、どうぞ堪忍してくださいましよ」
母「さア/\早く
行かぬか、かれこれ
最早や九ツになります」
と云われて二人は支度をしていると、
後の障子を開けて這入りましたはお國の兄五郎三郎にて、
突然お國の側へより、
五「お母様少しお待ちなすってください、これ國これへ出ろ/\、本当にマア呆れはてゝ物が云われねえ奴だ、内へ尋ねて来た時なんと云った、お隣の次男と不義をしたゆえ、源さんは御勘当になり、身の置所がないようにしたも私ゆえ、お気の毒でならねえから一緒に連れて来ましたなどと、
生嘘を
遣って我をだましたな、内に
斯うやって置く奴じゃアねえぞ、お
父様が
御死去に成った時、
幾度手紙を出しても一通の返事も
遣さぬくらいな人でなし、
只一人の
妹だが死んだと思ってな諦めていたのだ、それにのめ/\と尋ねて来やアがって、置いてくれろというから、よもや人を殺し、泥坊をして来たとは思わねえから置いてやれば、今聞けば実に呆れて物が云われねえ奴だ、お
母様誠に有り難うございまするが、あなたが親父へ義理を立てゝ、
此奴等を逃がして下さいましても天命は
遁れられませんから、
迚も助かる
気遣いはございません、いっそ黙っておいでなすって、孝助様に切られてしまう方が宜しゅうございますのに、やいお國、お
母様は義理堅いお方ゆえ、親父の位牌へ対して路銀まで下すって、そのうえ
逃路まで教えて下さると云うはな実に有り難い事ではないか、
何とも申そう
様はございません、コレお國、この
罰当りめえ、お
母様が此の家へ嫁にいらッしゃった時は、
手前がな十一の時だが、意地がわるくてお父様とお母様と己との
合中をつゝき、何分家が揉めて困るから、己がお
父さんに勧めて他人の中を見せなければいけませんが、近い所だと駈出して帰って来ますから、いっそ江戸へ奉公に出した方が宜かろうと云って、江戸の屋敷奉公に出した所が、
善事は覚えねえで、
密夫をこしらえてお屋敷を
遁げ出すのみならず、御主人様を殺し、金を盗みしというは呆れ果てゝ物が云われぬ、お母様が並の人ならば、知らぬふりをしておいでなすッたら、今夜孝助様に
斬殺されるのも心がら、天罰で
手前達は
当然だが、坊主が憎けりゃ袈裟までの
譬で、
此奴も
敵の
片割と己までも殺される事を
仕出来すというは、不孝不義の犬畜生め、
只一人の
兄妹なり、
殊にゃア女の事だから、此の兄の
死水も
手前が取るのが
当前だのに、何の因果で
此様悪婦が出来たろう、お
父様も正直なお方、私も是までさのみ悪い事をした覚えはないのに、此の様な悪人が出来るとは実になさけない事でございます、此の畜生め/\サッサと早く出て
行け」
と云われて、二人とも
這々の
体にて
荷拵えをなし、
暇乞いもそこ/\に越後屋方を逃出しましたが、宇都宮明神の
後道にかゝりますと、昼さえ暗き八幡山、
況て真夜中の事でございますから、二人は気味わる/\
路の中ばまで参ると、一
叢茂る杉林の蔭より出てまいる者を
透して見れば、面部を包みたる二人の
男、いきなり源次郎の前へ
立塞がり、
○「やい、
神妙にしろ、身ぐるみ脱いて置いて
行け、
手前達は大方宇都宮の女郎を連出した
駈落者だろう」
×「やい金を出さないか」
と云われ源次郎は忍び姿の事なれば、大小を落し
差にして居りましたが、此の様子にハッと驚き、
拇指にて鯉口を切り、
慄え声を
振立って、
源「
手前達は何だ、狼藉者」
と云いながら、
透して九日の
夜の月影に見れば、一人は田中の中間喧嘩の龜藏、
見紛う
方なき面部の
古疵、一人は元召使いの相助なれば、源次郎は二度
恟り、
源「これ、相助ではないか」
相「これは御次男様、誠に
暫く」
源「まア安心した、本当に恟りした」
國「私も恟りして腰が抜けた様だったが、相助どんかえ」
相「誠にヘイ面目ありません」
源「手前は
未だ
斯様な悪い事をしているか」
相「実はお屋敷をお
暇に成って、藤田の時藏と田中の龜藏と私と三人
揃って出やしたが、
何処へも
行く所はなし、
何うしたら宜かろうかと考えながら、ぶら/\と宇都宮へ参りやして、雲助になり、何うやら
斯うやらやっているうち、時藏は
傷寒を
煩って死んでしまい、金はなくなって来た処から、ついふら/\と出来心で泥坊をやったが
病付となり、此の
間道はよく宇都宮の女郎を連れて、鹿沼の方へ駈落するものが時々あるので、こゝに待伏せして、サア出せと
一言いえば、私は剣術を知らねえでも、怖がって
直きに置いて行くような弱い奴ばっかりですから、今日もうっかり源様と知らず掛かりましたが、貴方に抜かれりゃアおッ切られてしまう処、誠になんともはや」
源「これ龜藏、手前も泥坊をするのか」
龜「へい雲助をしていやしたが、ろくな酒も飲めねえから太く短くやッつけろと、今では
斯な事をしておりやす」
と云われ、源次郎は
暫し小首を
傾げて居りましたが、
「
好い所で手前達に逢うた、手前達も飯島の孝助には遺恨があろうな」
龜「えゝ、ある所じゃアありやせん、川の中へ放り込まれ、石で頭を
打裂き、相助と二人ながら大曲りでは
酷い目に逢い、
這々の
体で逃げ返った処が、
此方はお
暇、孝助はぬくぬくと奉公しているというのだ、今でも口惜しくって
堪りませんが、
彼奴はどうしました」
源「
誰も
外に聞いている者はなかろうな」
相「へい
誰がいるものですか」
源「此の國の兄の
宅は杉原町の越後屋五郎三郎だから、
暫く
彼処に
匿まわれていたところ、母というのは義理ある後妻だが、不思議な事でそれが孝助の実母であるとよ、此の間母が江戸見物に行った時孝助に
廻り逢い、
悉しい様子を孝助から残らず母が聞取り、手引をして我を打たせんと宇都宮へ連れては来たが、義理堅い女だから、亡父五兵衞の位牌へ対してお國を討たしては済まないという所で、路銀まで貰い、
斯うやって立たせてはくれたものゝ、
其処は血肉を分けた親子の間、事によると
後から追掛けさせ、やって
来まいものでもないが、
何うしてか
手前らが加勢して孝助を殺してくれゝば、多分の礼は出来ないが、二十金やろうじゃないか」
龜「宜しゅうございやす、随分やッつけましょう」
相「龜藏
安受合するなよ、
彼奴と大曲で喧嘩した時、
大溝の中へ放り込まれ、水を
喰ってよう/\逃帰ったくらい、彼奴ア途方もなく剣術が旨いから、
迂濶り
打き合うと
叶やアしない」
龜「それは又工夫がある、鉄砲じゃア仕様があるめえ、十郎ヶ峰あたりへ待受け、源さまは清水流れの石橋の下へ隠れて居て、
己達ゃア林の間に身を隠している所へ、孝助がやって
来りゃア、橋を渡り切った所で、己が鉄砲を鼻ッ先へ突付けるのだ、孝助が驚いて
後へさがれば、源さまが飛出して斬付けりゃア
挟み打ち
[#「挟み打ち」は底本では「狭み打ち」]、わきアねえ、
遁げるも引くも出来アしねえ」
源「じゃアどうか工夫してくれろ、何分頼む」
と是から龜藏は
何処からか三
挺の鉄砲を持ってまいり、皆々連立ち十郎ヶ峰に孝助の来るを待受けました。
二十一の下
さて相川孝助は宇都宮池上町の角屋へ泊り、其の晩九ツの鐘の鳴るのを待ち掛けました処、もう今にも九ツだろうと思うから、刀の
下緒を取りまして
襷といたし、裏と表の
目釘を
湿し、養父相川新五兵衞から譲り受けた藤四郎吉光の刀をさし、主人飯島平左衞門より形見に譲られた天正助定を
差添といたしまして、橋を渡りて板塀の横へ忍んで這入りますと、三尺の開き戸が明いていますから、ハヽアこれは母が明けて置いてくれたのだなと忍んで
行きますと、母の云う通り四畳半の小座敷がありますから、雨戸の
側へ立寄り、耳を寄せて内の様子を
窺いますと、家内は一体に寝静まったと見え、奉公人の
鼾の声のみしんといたしまして、池上町と杉原町の境に橋がありまして、其の下を流れます水の音のみいたしております。孝助はもう家内が寝たかと耳を寄せて聞きますと、内では小声で念仏を唱えている声がいたしますから、ハテ
誰か念仏を唱えているものがあるそうだなと思いながら、雨戸へ手を掛けて細目に明けると、母のおりゑが
念珠を爪繰りまして念仏を唱えているから、孝助は不審に思い小声になり。
孝「お
母さま、これはお母様のお寝間でございますか、ひょっと場所を取違えましたか」
母「はい、源次郎お國は私が手引をいたしまして
疾に逃がしましたよ」
と云われて孝助は
恟りし、
孝「えゝ、お逃し遊ばしましたと」
母「はい十九年ぶりでお前に逢い、懐かしさのあまり、源次郎お國は私の
家へ
匿まってあるから手引きをして、私が討たせると云ったのは女の
浅慮、お前と道々来ながらも、お前に手引きをして両人を討たしては、私が再縁した樋口屋五兵衞どのに済まないと考えながら来ました、今こゝの家の主人五郎三郎は、十三の時お國が十一の時から世話になりましたから実の子も同じ事、お前は離縁をして黒川の
家へ置いて来た縁のない孝助だから、
両人を手引をして逃がしました、それは全く私がしたに違いないから、お前は
敵の縁に
繋がる私を殺し、お國源次郎の
後を追掛けて勝手に敵をお討ちなさい」
と云われ孝助は呆れて、
孝「えゝお母様、それは何ゆえ縁が切れたと仰しゃいます、成程親は乱酒でございますから、あなたも
愛想が尽きて、私の四ツの時に置いてお
出になった位ですから、よく/\の事で、お怨み申しませんが、
私は縁は切れても
血統は切れない実のお母さま、私は物心が付きましてお母様はお達者か、御無事でおいでかと案じてばかりおりました所、
此度図らずお目にかゝりましたのは日頃
神信心をしたお蔭だ、
殊にあなたがお手引をなすって、お國源次郎を討たせて下さると仰しゃッたから、此の上もない有難いことと喜んでおりました、それを今晩になってお前には縁がない、越後屋に縁がある、あかの他人に手引をする縁がないと仰しゃるはお情ない、左様なお心なら、江戸表にいる内に
何故これ/\と明かしては下さいません、私も敵の行方を知らなければ知らないなりに、又
外々を捜し、
仮令草を分けてもお國源次郎を討たずには置きません、それをお逃がし遊ばしては、仮令今から跡を追かけて
行きましても、
両人は姿を変えて逃げますから、私には討てませんから、主人の家を立てる事は出来ません、縁は切れても
血統は切れません、縁が切れても血統が切れても宜しゅうございますが、余りの事でございます」
と怨みつ泣きつ口説き立て、思わず母の膝の上に手をついて
揺ぶりました。母は中々
落着ものですから、
母「成程お前は屋敷奉公をしただけに理窟をいう、縁が切れても
血統は切れない、それを私が手引きをして敵を討たなければ、お前は主人飯島様の家を立てる事が出来ないから、其の
言訳は
斯うしてする」
と膝の下にある懐剣を抜くより早く、
咽喉へガバリッと突き立てましたから、孝助は
恟りし、
慌てゝ
縋り付き、
孝「お
母様何故御自害なさいました、お母様ア/\/\」
と力に任せて叫びます。気丈な母ですから、懐剣を抜いて
溢れ
落る血を
拭って、ホッ/\とつく息も絶え/″\になり、
面色土気色に変じ、息を絶つばかり、
母「孝助々々、縁は切れても、ホッ/\
血統は切れんという道理に迫り、
素より私は
両人を逃がせば死ぬ覚悟、ホッ/\江戸で白翁堂に
相て貰った時、お前は死相が出たから死ぬと云われたが、実に人相の名人という先生の云われた事が今思い当りました、ホッ/\再縁した家の娘がお前の主人を殺すと云うは実に
何たる悪縁か、さア死んで
行く身、今息を留めれば此の世にない身体、ホッ/\幽霊が云うと思えば五郎三郎に義理はありますまい、お國源次郎の逃げて行った道だけを教えてやるからよく聞けよ」
と云いながら孝助の手を取って膝に引寄せる。孝助は思わずも大声を出して
「情ない」
と云う声が聞えたから、五郎三郎は何事かと来て障子を明けて見れば此の始末、五郎三郎は
素より正直者だから母の側に縋り付き、
五「お
母様/\、それだから私が申さない事ではありません、孝助様
後で御挨拶を致します、私はお國の兄で、十三の時から御恩になり、
暖簾を分けて戴いたもお母様のお蔭、悪人のお國に義理を立て、
何故御自害をなさいました」
と云う声が耳に通じたか、母は五郎三郎の顔をじっと見詰め、苦しい息をつきながら、
母「五郎三郎、お前はちいさい時から
正当な人で、お前には似合わない
彼のお國なれども、義理に対しお位牌に対し、私が逃がしました、又孝助へ義理の立たんというは、
血統のものが恩義を受けた主人の家が立たないという義理を思い、自害をいたしたので、
何うかお國源次郎の逃げ道を教えてやりたいが、ハッ/\必ずお前怨んでお呉れでないよ」
五「いゝえ、怨む所ではありません、あなたおせつないから私が申しましょう、孝助様お聞き下さい、宇都の宮の
宿外れに慈光寺という寺がありますから、其の寺を抜けて右へ
往くと八幡山、それから十郎ヶ峯から鹿沼へ出ますから、
貴方お早くおいでなさい、ナアニ女の足ですから沢山は
行きますまいから、早くお國と源次郎の首を二つ取って、お
母様のお目の見える内に御覧にお入れなさい、早く/\」
と云うから孝助は泣きながら、
孝「はい/\お母様、五郎三郎さんがお國と源次郎の逃げた道を教えて呉れましたから、遠く逃げんうちに跡追っかけ、
両人の首を討ってお目にかけます」
という声
漸く耳に通じ、
母「ホッ/\勇ましい其の言葉
何うか早く敵を討って御主人様のお
家をたてゝ、立派な人に成って呉れホッ/\、五郎三郎殿此の孝助は
外に兄弟もない身の上、また五郎三郎殿も一粒種だから、これで敵は敵として、これからは何うか実の兄弟と思い、互に力になり合って私の菩提を頼みますヨウ/\」
と云いながら、孝助と五郎三郎の手を取って引き寄せますから、
両人は泣く/\介抱するうちに次第々々に声も細り、苦しき声で、
母「ホッ/\早く
行かんか/\」
と云って血のある懐剣を引き抜いて、
「さア源次郎お國は此の懐剣で
止めを刺せ」
と云いたいがもう云えない。孝助は懐剣を受取り、血を拭い、敵を討って立帰り、お母様に御覧に入れたいが、此の分では
之れがお顔の見納めだろうと、心の
中で念仏を唱え、
孝「五郎三郎さん、どうか何分願います」
と出掛けては見たが、今母上が最後の
際だから
行き切れないで、又帰って来ますと、気丈な母ですから血だらけで這出しながら、虫の息で、
母「早く
行かんか/\」
と云うから、孝助は
「へい
往きます」
と
後に心は残りますが、敵を逃がしては一大事と思い、跡を追って
行きました。先刻からこれを立聞きして居た龜藏は、ソリャこそと思い、孝助より
先きへ駆けぬけて、トッ/\と駆けて
行きまして、
龜「源さま、
私が今立聞をしていたら、孝助の
母親が
咽喉を突いて、お
前[#「お前」はママ]さん方の逃げた道を孝助に
教えたから、こゝへ
追掛けて来るに
違えねえから、お
前さんは此の石橋の下へ
抜身の
姿で隠れていて、孝助が石橋を一つ渡った所で、私共が孝助に鉄砲を向けますから、そうすると
後へ
下る所を後から
突然に斬っておしまいなさい」
源「ウム宜しい、ぬかっちゃアいけないよ」
と源次郎は石橋の下へ忍び、抜身を持って待ち構え、
他の者は十郎ヶ峰の
向の
雑木山へ登って、鉄砲を持って待っている所へ、かくとは知らず孝助は、息をもつかず
追掛けて来て、石橋まで来て渡りかけると、
龜「待て孝助」
と云うから、孝助が見ると鉄砲を持っている
様だから、
孝「火縄を持って何者だ」
と向うを見ますと喧嘩の龜藏が、
龜「やい孝助己を忘れたか、牛込にいた龜藏だ、よく己を
酷い目にあわせたな、
手前が源様の跡を追っかけて来たら殺そうと思って待っているのだ」
相「いえー孝助
手前のお蔭で屋敷を追出されて
盗賊をするように成った、今
此処で鉄砲で打ち殺すんだからそう思え」
と云えばお國も鉄砲を向けて、
國「孝助、サア
迚も逃げられねえから打たれて死んでしまやアがれ」
孝助は
後へ
下って刀を引き抜きながら声張り上げて。
孝「
卑怯だ、源次郎、
下人や女をこゝへ出して雑木山に隠れているか、
手前も立派な侍じゃアないか、卑怯だ」
という声が真夜中だからビーンと響きます。源次郎は孝助の
後から逃げたら討とうと思っていますから、孝助は進めば鉄砲で討たれる、
退けば源次郎がいて進退
此に
谷りて、一生懸命に成ったから、額と
総身から油汗が出ます。此の時孝助が図らず胸に浮んだのは、
予て良石和尚も云われたが、
退くに利あらず進むに利あり、
仮令火の中水の中でも
突切て
往かなければ
本望を遂げる事は出来ない、
憶して
後へ
下る時は討たれると云うのは此の時なり、仮令一発二発の鉄砲
丸に当っても何程の事あるべき、踏込んで
敵を討たずに置くべきやと、ふいに切込み、卑怯だと云いながら喧嘩龜藏の腕を切り落しました。龜藏は孝助が鉄砲に恐れて
後へ
下るように、わざと鼻の先へ出していた所へ、ふいに切込まれたのだから、アッと云って
後へ
下ったが間に合わない、手を切って落すと鉄砲もドッサリと切落して仕舞いました。昔から随分腕の
利いた者は
瓶を切り、
妙珍鍛の
兜を
割った
例もありますが、孝助はそれほど腕が利いておりませんが、鉄砲を切り落せる訳で、あの辺は芋畑が沢山あるから、其の
芋茎へ火縄を巻き付けて、それを持って
追剥がよく
旅人を
威して金を取るという事を、
予て龜藏が聞いて知ってるから、そいつを持って孝助を威かした。芋茎だから誰にでも切れます。
是れなら圓朝にでも切れます。龜藏が
「アッ」
と云って倒れたから、相助は驚いて逃出す所を、後ろから
切掛るのを見て、お國は
「アレ人殺し」
と云いながら鉄砲を放り出して雑木山へ逃げ込んだが、木の中だから帯が木の枝に
纒まってよろける所を
一刀あびせると、
「アッ」
と云って倒れる。源次郎は此の有様を見て、おのれお國を斬った憎い奴と孝助を斬ろうとしたが、雑木山で木が邪魔に成って斬れない所を、孝助は
後から来る奴があると思って、いきなり振返りながら源次郎の
肋へ掛けて斬りましたが、殺しませんでお國と源次郎の
髻を取って栗の根株に突き付けまして、
孝「やい悪人わりゃア恩義を忘却して、昨年七月廿一日に主人飯島平左衞門の留守を
窺い、奥庭へ忍び込んでお國と密通している所へ、此の孝助が参って手前と争った所が、手前は主人の手紙を出し、それを証拠だと云って、よくも孝助を弓の
折で
打ったな、それのみならず主人を殺し、
両人乗込んで飯島の家を
自儘にしようと云う
人非人、今こそ思い知ったか」
と云いながら栗の根株へ
両人の顔を
擦付けますから、両人とも泣きながら、
「
免せえ、堪忍しておくんなさいよう」
というのを耳にも掛けず、
孝「これお國、手前はお
母様が義理をもって逃がして下すったのは、樋口屋の位牌へ対して済まんと道まで教えて下すったなれども、自害をなすったも手前故だ、
唯一人の母親をよくも殺しおったな、主人の敵親の敵、なぶり殺しにするから左様心得ろ」
と、これから
差添を抜きまして、
孝「手前のような悪人に旦那様が
欺されておいでなすったかと思うと」
といいながら顔を
縦横ズタ/\に切りまして、又源次郎に向い、
孝「やい源次郎、此の口で
悪口を云ったか」
とこれも同じくズタ/\に切りまして、又母の懐剣で
止めをさして、
両人の首を切り
髻を持ったが、首という物は重いもので、孝助は敵を討って、もうこれでよいと思うと心に
緩みが出て尻もちをついて、
孝「あゝ有難い、日頃信心する八
幡築土明神のお蔭をもちまして、首尾よく敵を討ちおおせました」
と拝みをして、どれ
行こうと立上ると、
「
人殺々々」
という声がするからふり向くと、龜藏と相助の二人が眼が
眩んでるから、知らずに孝助の方へ逃げて来るから、
此奴も敵の片われと二人とも切殺して二つの首を下げて、ひょろ/\と宇都宮へ帰って来ますと、
往来の者は驚きました。生首を二つ
持て通るのだから驚きます。中には殿様へ訴える者もありました。孝助はすぐに五郎三郎の所へ行って敵を討った次第をのべ、
殊に
「母がまだ目が見えますか」
と云われ、五郎三郎は
妹の首を見て胸
塞がり、物も云えない。
母上様は先程息がきれましたというから、この
儘では置けないというので、御領主様へ届けると、
敵討の事だからというので、孝助は人を付けて江戸表へ送り届ける。孝助は相川の所へ帰り、首尾よく敵を討った始末を述べ、それよりお
頭小林へ届ける。小林から其の筋へ申立て、孝助が主人の敵を討った
廉を
以て飯島平左衞門の遺言に任せ、孝助の一
子孝太郎を以て飯島の家を立てまして、孝助は後見となり、芽出度く
本領安堵いたしますと、其の翌日伴藏がお仕置になり、其の
捨札をよんで見ますと、不思議な事で、飯島のお嬢さまと萩原新三郎と
私通いた所から、伴藏の悪事を働いたということが解りましたから、孝助は主人の
為め娘の為め、萩原新三郎の為めに、
濡れ
仏を
建立いたしたという。これ新幡随院濡れ仏の
縁起で、此の物語も少しは
勧善懲悪の道を助くる事もやと、かく長々とお
聴にいれました。
(拠若林

藏筆記)