ある晩、F楼の亭主が隣家のH楼の電話を借りにいった。
Fにも電話があるのに自分の処へ借りに来たものだから、H楼の亭主は何事かと思って、
『お宅の電話は、どうかしましたか?』
と
『ナニ、警察へちょっと······野郎感づくと遁がしちまうから······』
F楼の亭主はそういいながら電話室へ入ると、じきに電話を切って出て来たが、馴れ切った中にも、
それからすぐにH楼の亭主も、帯をぐっと締めなおして仲間の義理からF楼の帳場へ出掛けていった。
すると間もなく警察から私服の刑事がドヤドヤF楼の店へ入っていった。
刑事の一人が二階へ上がると、他の二人は階段の下で待っていた。
今にも階上で格闘が始まり、凄い物音の起こるであろう事を予期して、階下では皆身構えて
およそ十分
すると張りあいがない、ノッシ、ノッシと階段を下りて来た大男は、観念してるもののように平静に階下の刑事と面接した。
男の皮膚は赤銅色をして大きい目鼻は怪鳥のような凄みを持った、馬鹿にのっぽな、カインの末裔を思わせるような人間だった。身には少年の着物のようにゆきたけの短い紺絣の筒袖を着ている。
その背後から刑事と二人で下りて来たのは、買われた娼妓の九重だった。
蒼ざめた、然し思い詰めた表情をして、彼女は階段の下に立っていた。
客と刑事とは二三何か問答をして、腰縄を客に打って、一同は店の土間へ降りようとした。降りかけて客は九重の方を顧み、眼で刑事に哀願してから、また九重の傍に戻って来た。男は九重の首を抱き込むようにして、彼女の耳に何事をかささやいた[#「ささやいた」は底本では「さささやいた」]。
彼女は身を縮めて、耳を掩うように手を当て眼を閉じていた。
男は前科五犯という
『おまえに預けた短刀の事は、決して口外してはならぬぞ、もし口外してくれる時は、必ず出獄後に返礼をする』
そんな意味の事だったが、彼女はすぐにそれを立派に口外してしまったばかりか、短刀は警察の手へ渡して、ほっと息をついた。
それからその遊郭に二三年の月日が流れた。F楼からひかれて投獄された
来て見るとF楼には九重はいなかったが、その隣のH楼に、九重の妹のみどりという女がいた。
この両女は福島地方の農村から、親兄弟の為に売られて来たものだった。
姉妹とも取りたてていう程の美人では勿論ない、けれどもどちらも共通したセンジュアルな容貌の持ち主だった。
そのH楼のみどりの
それは二三年前、F楼にいた姉を買った、強竊盗常習犯の彼であろうとは、みどりは少しも知らなかった。
譬えそれを知っていた処で、拒み得ないのが彼女の境遇ではあったが、遊びぶりの大名のような寛大な処のある彼に、みどりは職業相当の笑顔は向けていた。然し彼の素性が何時迄も耳に入らない筈はない。警察から楼主へ、楼主から朋輩へ||、
『みどりさんのあのお客は、大へんな大泥棒だって、ああこわい、こわい。』
本人のみどりよりも朋輩達が、彼の入って来る顔を見ると、皆一所に寄り添うようにして、露骨に恐怖と憎悪とを表した。
そういう事に敏感ででもあろう彼は、H楼全体の自分への仕向けが、癪に障っている処へ肝心のみどりは、何時も病気だと称して姿を匿してしまうようになった。
客の素性を知ってしまった今は、その客の噂を耳にするさえ悪寒がしたそうだ。
昔からよくある慣いの事ではあるが、生来残忍な自暴自棄の彼だから、忽ち復讐心に燃えずにはいられなかった。
ある日の夕方、みどりは赤い長襦袢一つで、お風呂から上がって女部屋の鏡台に向かっていた。
綺麗に掃除がすんでお客の上がる入り口の閾の上にピラミッド式の盛り塩が、三つばかり人待ち顔に並んでいた。
其処からツカツカと入って来たのは彼だった。H楼の人達は、彼を見るなりギクッとして互いに狼狽したけれども、もうみどりを押し隠すひまも何もなかった。
櫛を持って前髪をかいていたみどりは背後から、
『みどり||』
そう呼びかけられて何気なく振り向こうとした刹那、みどりは火のような叫び声を挙げて突然往来へ飛び出した。
その時彼女の肩口から、血潮がどんな風にどうだったか、冷静に見ていた人はひとりもない。兎に角みどりは切られながらも全力を挙げて隣家のF楼へ遁げこんだが、刀を提げた彼の男は執拗に女を追った。
みどりはF楼へ救いを求めたのだったが、もうこうなっては、誰も彼も傍観者だ! [#「! 」は底本では「!」]血眼になって追い迫る男を見ては、声を出す事すらできなかった。
F楼の廊下から中庭の飛び石へ、
追われ追われて、彼女は再び往来をめがけて外に突進しようとして、F楼の上がり
その時丁度F楼の軒下に瓦斯工事が行われつつあったので、深い溝が掘り下げてあった。運命なのか、地面へ飛び下りるつもりの彼女は、丁度その
この時男は背後から滅多突きに突いた。
『ああこれで気持ちがさっぱりした』
彼はこういって嘯きながら神妙に捕らわれてまた幾度目かの入獄をした。
それが、ある春の宵の出来事である。
春といえば······それも四月頃の一事件だった······と私は思い出す。
風邪をひいて寝ていた私は、
近所に何事か起こったらしい||すぐそう感じられる位イヤに静かだった。
すると、ある者がそそくさと向こうから帰って来たので、私はその人を捉えて訊いた。
『何処かで何事かあった?』
『S楼で心中があったんだ、無理心中が』
『男も女も死んじゃった?』
『男は死にもどうもしやしない、床の中へ潜りこんで小さくなって慄えてやがった』
『女の方は?
『女の方は||ったって、首も何もくっついちゃあいないといって
『····································』
『女の方を
『へええ、随分よく切れるものね······』
『今日はまた運悪く、S楼じゃ今朝っから研屋を
私の聴き得た事はそれだけだった。
また、ある娼妓は、夜半に眼を覚ますと、妙な物音を聴いた。
ブツリ、ブツリ、という音だ、はて何の音だろう||からだ中の神経をそばだてて聴いた。畳に何か通すような音だ!
気丈なその女は、すぐに何か直感したが、それが生命の問題であると知ると、自分で自分の心を
そして落ち着き払って、
『あんたまだ起きてたの、私は
その女は努めて落ちつき払っていいながらも、客に警戒しいしい床を脱け出した。
何気ない風を粧って階段を下りはしたが、下へ降りると一時に気が狂ったように大声で、
『大変です、大変です、救けて下さい!』
と怒鳴りながら楼中のものを起こした。
その女は幸いにも危うく死の道連れをまぬがれる事ができた。
後できくと、ブツリ、ブツリという音は、客が愈々心中を実行する場合に、女を篭の虫のように遁さない用心から、
また、私はある時、情死した娼妓の埋葬される処を見た。
何という奇怪な葬式だったろう||葬式そのものよりも其処に参列した会葬者達の感情と気分とが、普通の死を囲繞するものとは全然異なっている。
轢死の場所で検死が済むと、男の方は親へ、女の方は楼主へ引き渡されたものだった。
それでも白木の棺だけは用意されて、其処からは一丁程しかないお寺の墓地に
路に添うた墓地の一郭、此処は昔から無縁の死者を埋める処で、土饅頭が幾つも熊笹に埋もれているだけで、墓標も何もない、おまけに大きい樹が繁りあって、昼も暗く空を掩っている。血が滲み出しはしないかと思われる位、死後の時間を経過しない棺桶が一つ、あら縄で括られたまま手荷物か何かのように、今掘り起こされつつある
寺男の爺さんはせっせと鋤をふるいながら段々穴を掘り下げていたが、
『お、こんなものが出やがった、偉い酒の好きな仏様だと見えて······』
そういって何か土塊のようなものを、見物人のあしもと
黒い大徳利が一つ、過ぎ去った人生そのもののような顔をして、久しぶりで空気の中に置かれた。
『みんな、見物ばかりしてねえで、お酒でも買って上げな、そうしねえてと今夜この仏様がよ、打ち掛け姿で礼に廻って歩くと······』
爺さんが気味の悪い冗談をいうと皆も、
『何も化けて出るこたありゃしまい、散々思いあって思う男と死に遂げるなんて、こんな
そんな風な冗談をいいあったが、何故か心から笑う者はなかった。その目の前には、何等の形式の片影も
無宗教の葬式のように、お経を読むでもなく香を焚くでもなく華を手向けるでもない、悼詞で死者の生涯を讃めたたえるような友人も彼女に勿論あろう筈がないのだった。
文字どおりただ埋めるだけなのである。
墓場に和尚は顔を出しても、法衣一つ身に纏わず、自分も迷惑そうな苦笑さえ浮かべて、
『××楼さん||どうもはやお気の毒な事で、とんだ御損害で······』
楼主に対して挨拶をする。
坊さんばかりでなく、此処へ集まって来ている誰も彼もが、不思議と彼女を憐れもうとする者は一人もなく、
『御災難で、御損害で、御気の毒で』
と楼主に対して繰り返してる。
然しそれは不思議でも何でもないかも知れない、一度こうした変死者を出すと、その抱え主の
そしてまた彼女達は、何と容易に死を選ぶことだろう、刃物で、劇薬で、鉄道線路で······。
××楼の[#「 ××楼の」は底本では「××楼の」]あの座敷は、三度情死のあった場所だろうか、壁を塗り代えても畳をとりかえても、すぐ血痕が附着するとか、線路上に飛散した男女の肉片が、夜来の豪雨に洗い曝された、
また私はある者が、暗い小部屋で肺患に呻吟しているのを見た。
蒼ざめ痩せ細っていても、まだ快方に向かう希望のある中は、一歩も其処から解放されることはできないだろう。譬えまた、自由に行け、行って静養しておいで! といわれた処で、帰るべき家に、病人の彼女が齎らしてゆくおみやげは、一家の負担を一層切なくする飢えをもってゆくだけだろう。
『大抵な女を、可哀想だと思って家に帰すと、帰って直ぐに死んでしまう、それは此処にいるように養生が出来ないからだ······』
彼女達の抱え主はよくそんな事をいう。何という悲惨な事だろう。そしてそれは抱え主の優越感ばかりでなく実際のようだ。
然し彼女達がその奴隷の境遇から優しく鎖を解かれる時は、既に医者から楼主へ、死の宣告の下された時だ!
それからまた私は見た||
彼女達は白昼
それから彼女達が何曜日かの朝、怪しげな美衣を纏って、不良な髪油と白粉との悪臭を放ちながら、白昼公然奇異な一群をなして、ぞろぞろと病院へ検診にやられる姿は、同性全体が担わなければならない耻かしめではないか。そして彼女達の生命は、この安価な惨めな取り扱いに日々腐乱し、鈍感にされてゆくばかりだ。
そして私達は母として自分達が一つの生命に払って来た、デリケイトな心づかいを顧みる時に、それをまた、彼女達の生命の上に移して考える時に、あの真空の電球を、赤ン坊の目の前で破裂さして見るような、きわどい
母性というものは、貧しければ貧しいなりに、我が子の生命の為には惜しみなく心を労するものだ。彼女達も嘗ては球のような新しい身をもって生まれ、何よりも母親たちの恐れる麻疹、天然痘、疫痢、ジフテリア等に、幾種もの小児病を幸いにも無事に経過して来た、尊い肉体である事は、人として
湿地の棒杭の腐れから生える、あの
豊饒な土壌に根を下ろして、憎い程太い幹をして、終日太陽の顔を正視するあの向日葵の花と咲いて、心ゆくばかり日光を吸収する事のできる||その日の為、彼女等よ、花苑は日に新しく耕されつつあるであろう。