幼少の頃、
最初は、女権拡張論ぐらい唱え出す意気込みがあったかも知れませんが、どうしてどうして社会は私達に、そんな自由を与えて呉れません。
自分の素養の足りない事をも顧みず、盲人蛇に怯じず的に、逆巻く濁流の渦中に飛び込んだので御座いました。
今思い出すと、怖ろしさと恥ずかしさとに戦慄を覚えます。
幾多の人の親切も
自由とか解放とか、
果たして自由の世界を発見する事を得ましたでしょうか。
社会に出てから、仕事は私にとって、案外困難な事でも御座いませんでした。然し自分の純白であった感情を斯くまで損なわれる事とは思いもよらなかったのでした。
最初に与えられた仕事というのは、名士や夫人を訪問する事で、余り
東京の地理さえも委しく知らず、何でも渋谷の伊達という
酒屋で聞いても薪屋で聞いても知れません。凡そ二時間も渋谷の野をうろついて、漸く差配をしている、駄菓子屋のお爺さんに尋ねますと、『その岡田さんというのは何を商売にしていなさるんです。』といった。『美術家、あの絵をお書きになるのです。』お爺さんは此の界隈で有名な
『それでは、
日当たりの悪い茅葺き屋根の家です。御免下さいとおとなえば、若い病みあがりらしい妻君が、蒼い顔をして出て来ました。その妻君も『岡田さん||、美術家||』と、暫く考え込んでいましたが、
『その方の奥さんでしょう、小説をお書きになるのは。それならば小説にいつか天現寺橋の辺りとありましたよ』とその橋を教えて呉れました。天現寺橋なんて名前すらも初めて聞くので御座います。
問いたいと思う事も口に出ず、思い切って問題を提出すれば、八千代女史は謙虚に、
『私達にはわかりませんで御座います。』とお逃げ遊ばす。それを突っ込む勇気もなければ、
談話は断片的で社へ帰ったとて、記事になりそうもなく、その焦慮と恥ずかしさが込み上げて、座に居堪えないようで御座いました。それでも日頃尊敬していた人に
男の方を訪問するのは割合に楽で、問題さえ提出すれば大抵の方はお話し下さるので、別に呼吸も何も要りませんが、婦人にして訪問記者に応ずる方は、余程解った方でしょう。
逢うには逢って下さるが、御謙遜が過ぎて皮肉なように受け取れます。尤も此方が神経過敏になっているせいで、
広い世間を歩いて見ると、色々な人に出会いますから、自分というものを全然殺してかからないと、此の商売は出来ません。
ある旧華族でしたが、御令嬢にお目にかかりたいと申し出でました。すると、『当家の姫君は新聞の
斯ういうものは執事の老人が時勢を知らぬので、夫人なり令嬢なりは当代の教育も受けられているし、決してそんな事はあるまいと存じます。それから櫻井ちか子(1)女史を訪問した事が御座いましたが、それも大きに失敗談。女史がタイプライターをせらるる間、三十分許り応接間でお待ち申すと、
先ず氷のように冷たい瞳の視線に、若い胸を射られて、ジロジロと見られるのが辛くて、居堪えられませんでしたが、自分は今訪問記者であるという自覚を強くして、問題を提出すると、『自分の答うべき問題ではない。』とある。それでは何でもお考えつきの事を、というと、『私は学校の長としても、一家の主婦としても多忙な身で新聞の
余りの侮辱に堪え兼ねて、一層新聞記者なんか止めて、再び父母の懐中へ帰って、服従の日を送ろうとまで思ったのは、此の時許りでは御座いませんでした。今になって見れば、女史に感謝すべき処が大いにあります。
初めの程は虚栄心に駆らるる事もなく、極く真面目に仕事の事にのみ追われて、一日の中に何物をか得なければ忽ち日刊新聞の事だから、あとからあとからと追われますのみか、編輯上の都合が悪くなるのですが、丁度留守の処へ行ったり、居ても逢えなかったり、引っ越しの後を追って見ても知れなかったりして、短い冬の日は徒労に終わる事もありました。そんな時は、何時も悄然とした姿をして、小石川の宿に帰って行くのでした。
帰れば何を勉強をする気にもなれず、筆をとる気にもなれず、唯疲れた
社内の事よりも何よりも、反抗するに
早稲田出身の文学士様さえ、最初の月給は二十円から二十五円と、相場の定った新聞社の事ですから、私は初め見習として十五円を与えられました。電車代は別です。
自給するようになって、生まれて初めて月給を
十五円の中、
円 銭
一〇、 食料及び炭,油
六〇 湯銭
六〇 郵便
二、七〇 電車券私用分(三十日)
一、一〇 小遣い
と計算立てて見ましたが、此の中から英語の月謝を出そうと思っても出ません。既に郵便の六十銭は不足、一円十銭のお小遣いでは足袋が切れても、下駄が悪くなっても買えません。それに半襟が汚れるとか化粧品を買うとか、臨時費が多く出ますから足りる筈がありません。書物も買えず勉強も出来ない、これでは仕様がないと思って、知り合いの妻君に相談しますと、東京の生活は百円でも出来れば、五円でも出来るという。食料の方から月謝位出そうなものですねと云いました。
それから直ぐその素人下宿を退いて、神田の裏長屋同然の家へ行きました。元、
雪の日にも風の日にも、私は社から疲れて帰って、かじかんだ手で鍵を開けて、真っ暗い家の中に入り、ランプを灯して、此度は火を起こしにかかるのです。馴れない為に幾ら起こしても消えて了う。終には
そんなに迄しましたが、遂に勉強の暇は得られませんでした。
下男は口癖のように、お嬢さんはお可哀想だと云っていましたが、遂に見兼ねてか私の生活の状態を、郷里の家へ知らせてやったと見えて、それから充分に
然うなって来ると、丁度空腹の人が食を得て眠くなるように、却って身の為になりません。その後
洗濯物すら素人の手では気持ち悪く、貴婦人達にはお友達が出来る。高価、月給の一割もするクリームが塗りたく、男のお友達も出来たりして、一時私は全く虚栄を夢見て、軽佻浮薄な日を送りましたね。
けれどもその後幾変遷、私という女は又当時の人と変わりました。
要するに、新聞記者雑誌記者は、幾ら文明になって来たと云っても、今の日本では婦人に困難な仕事で御座いますね。第一服装からして不便な事はお話になりません。米国あたりは知らぬ事、いまの日本の社会は幾十年、婦人が新聞界で奮闘して見たところで、苦しい経験を山のように積んだ処で、相当の地位を与えてくれる見込みは到底ありません。
私の初めの大理想は何処へやら消滅して、元気なく丁度、一旦泥水に浸みた女が、足を洗えずにもがいているようなもので、矢ッ張り相変わらずの日を過ごして居ります。
それでも『婦人は実力以上に買われる』という余徳あるが為で御座いましょう。
然し実力以上に買われるとは、何たる侮辱された言葉でしょう。決してそれを潔しとは致しませぬ。
要するに婦人の職業と云うことは、まだまだ範囲が狭いのみならず、殊に筆を持って立とうとなさる方は、なお更生活の途の苦しいと云うことを覚悟して、陣頭に立たれたいと思います。
注:(1)桜井女学校長