この巻は
信濃、越後等の八百方里内外の面積を有する、それと並び立つ時には、僅かに三十五方里を有するに過ぎないこの国は哀れなものであります。むしろその小さな方から言って、
小さい方から四番目の安房の国。そこにはまた小さいものに比例して雪をいただく高山もなく、大風の動く広野もないことは不思議ではありません。源を
さればにや、昔の物の本にも、この国には鯉が
こうして今更、安房の小さいことを並べ立てるのは、背の低い人をわざと人中へ引張り出してその
「日蓮は日本国東夷東条、安房の国海辺の旃陀羅 が子なり。いたづらに朽 ちん身を法華経の御故 に捨てまゐらせん事、あに石を金 にかふるにあらずや」
日蓮自ら刻みつけた銘の光は、朝な朝な東海の上にのぼる日輪の光と同じように、永遠にかがやくものでありましょう。その日蓮上人は
周囲四丈八尺ある門前の
明徳三年の銘あるこの鐘、たしか方広寺の鐘銘より以前に「国家安康」の文字が刻んであったはずの鐘、それが物静かに鳴り出しました。その鐘の声の中から生れて来たもののように、一人の若い僧侶が、山門の石段を踏んでトボトボと歩き出しました。
身の丈に二尺も余るほどの金剛杖を右の手について、左の手にさげた
「え、何ですか、どなたが、わたしをお呼びになりましたか」
この頭の僧侶は急にたちどまって、
「弁信さん」
今度は、たしかに人の声がしました。姿はやっぱり見えないけれども、それは焚火の燃え残っている四丈八尺の
「エ、
頭の僧侶はホッと息をついて、金剛杖を立て直して、巨杉の上のあたりを打仰ぎました。
杉の枝葉と幹との間に隠れている声の
「弁信さん、お前また
木の上の主がこう言いました。
「エ、近いうちに大暴風雨があるって? 茂ちゃん、お前、どうしてそれがわかる」
「そりゃ、ちゃんとわかるよ」
「どうして」
「蛇がどっさり、この木の上に登っているからさ」
「エ、蛇が?」
「ああ、蛇が木へのぼるとね、そうすると近いうちに雨が降るか、風が吹くか、そうでなければ
「いやだね、わたしゃ蛇は大嫌いさ、そんなにたくさん蛇がいるなら、茂ちゃん、早く下りておいでな」
「いけないよ、弁信さん、おいらはその蛇が大好きなんだから、それを
「エ、三つ! お前、そんなに蛇を捉まえてどうするの、食いつかれたら、どうするの、気味が悪いじゃないか、気味が悪いじゃないか、およしよ、およしよ」
「三つ捉まえて懐ろに入れてるんだよ、食いつきゃしないさ、慣れてるから食いつくものか、あたいの懐ろの中で、いい心持に眠っていらあ」
「ああいやだ、聞いてもぞっとする」
「だっていいだろう、なにも、あたいは蛇を
木の上では申しわけのような返事です。
「それにしたってお前、蛇なんぞ······早く下りておいで」
「もう二つばかり捉まえてから下りるから、弁信さん、お前、あたいにかまわずに燈籠を
木の上の悪太郎は下りようともしないから、盲法師は
浪切不動の丘の上に立つ高燈籠の下まで来た盲法師は、金剛杖を高燈籠の腰板へ立てかけて、左の手首にかけた合鍵を深ると、


その
「え、何ですか、どなたか、わたしをお呼びになりましたか」
前に腰板へ立てかけておいた金剛杖を、再び手に取ろうとして盲法師は、また聞き耳を立てました。これがこの盲法師の癖かも知れません。誰も呼ぶ人はないのにまず自分の耳を疑わないで、あてもないところを咎め立てしてみるのは、今に始まったことではありませんでした。金剛杖は手に持ったけれども、やはりその場は動かないで、怪しげな頭を振り立てて、前後左右の気配をみているようです。
しかしながら、ここは前と違って、あたりに大木もなければ人家もありません。往来の山道よりは少し離れて高く突き出したところですから、わざわざでなければ、この夕暮に人が上って来ようとは思われないところです。
それにもかかわらず、盲法師はその人を見つけたかのように、いったん手に取った金剛杖をまたもとのところへさしかけて、
「どう致しまして、これは、わたしから
誰も相手が無いのに、盲法師はこう言ってから、金剛杖を取り上げてそろそろ歩き出しました。
けれども、その夜から翌日へかけては、べつだん雨風の模様は見えませんでした。三日目になって朝から曇りはじめたといえば曇りはじめた分のことで、これまた急には雨風を呼ぼうとも思えません。江戸の方面とても無論それと同じ気圧に支配されているのですから、その日の
その二人の客の一人は、どうも見たことのあるような年増の女です。つとめて眼に立たないようにはしているけれど、こうして男ばかりの乗客の中へ、息をはずませて乗り込んでみると、誰もその
「庄さん、それでもよかったね、もう一足
「いいあんばいでございましたよ」
お
「皆さん、少々御免下さいまし、おい、小僧さん、ここへ敷物を二枚くんな。親方、これへお坐りなさいまし、ここが荷物の蔭になってよろしうございます」
船頭の子から敷物を二枚借り受けて、酒樽の蔭のほどよいところへ、それを敷きました。帆柱の下にあたる最上の席は、もう先客に占められているのだから、まあ、この若い者が見つくろったあたりが、今では
お角は遠慮をせずにその席へつくと、若い者がその傍へ、両がけの荷物を下ろして、どっかと坐り込みました。
「なんだか天気がちっとばかりおかしいけれど、明日の朝の
若い者が空を仰ぐと、お角も空模様を見て、
「降りはすまいけれど、なんだか、いやに蒸すようじゃないか」
程経てこの船が海へ乗り出した時分に、帆柱が押立てられて、帆がキリキリと捲き上げられると、船は
「ちょっとお待ちなさいよ、乗合の衆はみんなでエート二十三人でござんすね、二十三人、間違いはございませんね」
駄目を押すと乗合の客は、いずれも
「それで、女のお客さんは······エート、おかみさんお一人ですね、女のお客さんは一人しか
と言って船頭は、例のお角の面をじっと見つめています。
「ええ、わたし一人のようですよ」
お角はわるびれずに答えました。
「そうですか、それじゃあ、どうかこっちの方へおいでなすって下さいまし、その帆柱の下においでなさるお年寄のお方、済みませんがそこんところのお席を、このおかみさんに譲って上げておくんなさいまし」
「え、ここをどうするんだね」
「済みませんがね、船のオキテですからね、女の方が一人客の時には、その方に上座を張らして上げなくっちゃならねえんです、それというのは船は女ですからね、腹を上にして物を載せるから、女にかたどってあるんでござんさあ、だから
こう言われると年寄のお客、それは深川の炭問屋の主人だというのが
「なるほど、そういうわけでしたか。そういうわけならば、さあ、おかみさん、こちらへおいで下さい、若い衆さんもここへおいでなさいましよ」
快く席を譲ってくれました。その
「まあ、ほんとにお気の毒に存じます、では、船のえんぎでございますから、あとから参りまして、女のくせにお高いところで御免を
こんなわけで、座席の入れ替えが無事に済みました。お角はこの船の中で、神様から二番目の人にされてしまいました。
まもなくお角は、その隣席にいる例の深川の炭問屋の主人と好い
「どちらへいらっしゃいますね」
炭問屋の主人がまずこう言って尋ねると、お角がそれに答えて、
「はい、木更津から
「ごゆさんでございますかね」
「そういうわけでもございません、少しばかり尋ねたい人がありまして」
「ははあ、なるほど」
炭問屋の主人は
那古へ行くならば
その話のうちで最も多く一座の興味を
羅漢様の首を盗む者のうちには、妙齢の乙女もある。血の気に燃え立つ青年もある。わが子を失うて、その悲しみに堪えやらぬ母親もある。最愛の妻を失うた夫、夫を失うた妻もある。そうして一旦盗んで来た首をひそかに供養して、更に新しい胴体をつけて、また元へ戻すと、生ける人ならばその思いが叶い、死んだものならばその魂が浮ぶ······という話が興に乗った時分には、もう日が暮れて風がようやく強く、船が著しく揺れ出したように思われるけれど、話の興に乗った一座の人々は、それをさのみ気にする様子もなく、
「それからまた、
酒樽の蔭から、若いのがこう言いました。
「芳浜の茂太郎は、今あすこにはおりませんよ、あんまり
と答えるものがありました。
日本寺の千二百羅漢に次いで、芳浜の茂太郎なるものが多少でも問題になることは、それが何かの意味で土地の名物でなければなりません。
「エ、芳浜の茂太郎が、清澄のお寺へ預けられたんですって?」
それにいちばん驚かされたらしいのが、芳浜の茂太郎なるものとは、縁もゆかりもなかりそうなお角であったことは意外です。
「とうとう清澄のお寺へ預けられてしまったというこってす」
「そうですか、それは惜しいことをしましたね」
心から力を落したようなお角の言いぶりでしたから、
「おかみさん、あなたもあの子を御存じなんでございますか」
「エエ、ちっとばかり······」
「左様ですか」
炭問屋の主人が改めてお角の
「その清澄のお寺とやらまでは、あれからまだよほどの道のりがあるんでございましょうか」
「そうですよ、遠いといったところが同じ房州のうちですから、
こんな話をしている時に、船が大きな音を立てて著しく揺れました。それは東南から
「エ、冷てえ」
薄暗い中に坐っていたものの幾人かが、ブルッと
それはいま砕け散った波のしぶきを多少ともにかぶったからのことで、その時に、はじめて海の風が穏かでないのみならず、天候もなんとなく険悪になっていたことを気のついた者もありました。左へ
「おい、船頭さん、大丈夫かい、なんだか天気が危なくなったぜ、風がひどく
船頭に向って駄目を押すものがありました。船の中にあっては船頭の
「ナニ、大したことはござんせんがね、これが
船頭はこう言って乗客の不安を抑えておいて、一方には
「やい、つかせてやれ、開いちゃ悪いぜ、まきり直して乗り落すようにしねえと
大きな声で怒鳴りました。
「おーい」

「あ、こいつは堪らねえ」
その
「上からも落ちて来たようだぜ」
果して水は、横から吹きかけるのみではありません。
真暗になった
「さあ、いけねえ」
乗合はそれぞれしっかりと、手近なものへ
「下へ降りておくんなさい、急いじゃ駄目だ、この綱へつかまって静かに、静かに」
船頭と
「どうも、あたしゃ、この
おどおどした声で不安を訴えるものがあると、また一方から、
「なあに、大したことがあるもんですか、どっちへ転んだって
存外おちついた声でそれをなだめるものもあります。
「ですけれどもねえ、内海だからといって風や波は、別段にやさしく吹いてくれるわけじゃありますまいからね。昔、
情けない声をして、太古の歴史までを引合いに出してくるから、
「ふ、ふ、ふ、あの時はあの通りの荒れだったといったってお前さん、あの時の荒れを見て来たわけじゃござんすまい、第一あの時代と今日とは、船が違いまさあ、船が······」
と言った時に、その船が前後左右からミシミシミシと
暫らくは、うんがの声を揚げる者がありませんでした。外はどのくらいの荒れかわからないが、今まで木の葉のように
そこで、「船が······」と言ったものから真先に口を
「船は違いましょうけれど、風は昔も今も変りませんからね」
今度は誰も返事をする者がありません。船は、やはりミシミシと音を立てながら、矢のように進んで行くらしい。
「いよいよという時は、なんだってじゃあありませんか、みんな、それぞれ持っているいちばん大切なものを一品ずつ海の中へ投げ込むと、それで風が静まるというじゃありませんか。身につけた大切なものを、わだつみの神様に捧げると、それで難船がのがれるというじゃありませんか。もし、そういうことになったら、私共あ、私共あ······」
その時に、甲板の上、ここから言えば天井の一角から、不意に
「風が変った、
船の上では船員が、挙げてこの恐ろしい突発的の暴風雨と戦っています。こう言って悲痛な叫びを立てた船頭の声は、山のような高波の下から聞えました。
ただ船の上にもとのままで残っているのは、帆柱一本だけのようなものです。けれども、こうなってみると、その帆柱一本が邪魔物です。その帆柱一本あるがために、よけいな風を受けて、船全体が帆柱に引きずり廻されているような形になります。ただ引きずり廻されるのみならず、それがために、ほとんど船が
船の底では、たかが内海だと言って気休めのようなことを言っていたが、上へ出て見れば、内も外もあったものではありません。
風はもとより、内と外とを境して吹くべきはずはないが、海もまた、内と外とを区別して怒っているものとも覚えません。いったい、どこをどう吹き廻され、或いは吹きつけられているのだか、ただ真暗な天空と、
「やい、外へ出ろ、外へ出ろ、
帆柱の下で躍り上って、
「おーい、おーい」
むくむくと、波風を潜って、一人、二人、三人、四人、船頭の許まで腹這いながら
この間に、帆柱からやや離れて
風下にそれを受けた、背の低いのが、それより五寸ほどの下をめがけて、かっしと打ち込む。両々この
やがて背の高いのが、斧を投げ捨てたと見ると、腰に差していた脇差を抜いて、はっしはっしと帆綱に向って打ち下ろすと、斧で打ち込んでおいた帆柱の切れ目が、メリメリと音を立てて柱は風下へ、さきに

こうして船の底へ下りて来た船頭の姿を見ると、真黒くなって
「おい、船頭さん、いったいどうなるんだね、ここはどこいらで、船はどっちへ走ってるんだね、大丈夫かね、間違いはないだろうね」
「皆さん、お気の毒だがね······」
「エ!」
「今日の
「エ!」
「もう船の上で、やるだけの事はやっちまいましたよ、積荷もすっかり海へ投げ込んでしまった、わっしどもも
「何だって? 洲崎沖を乗り落したんだって? それじゃあ、もう外へ出たんだな」
「うむ、もうちっとで外へ出ようとして、巴を捲いているんだ」
「南無阿弥陀仏」
中から一人、跳り上って念仏を唱えるものがありました。それを音頭として、つづいて題目を声高らかに唱え出すものがあります。
「まあまあ、皆さん、まだ脈はあるんだからお静かになせえまし、気を
「いいとも、いいとも、今もそのことで
「わたしゃあまた、ここに持っているこの金ののべの
「わしゃまた······」
「まあ待って下さい、皆さん、そんな物を
「それじゃ、どうすればいいんだ」
「この船でいちばん大切なものを、たった一つ投げ込めばそれでいいでさあ」
「エエ! この船でいちばん大切な、たった一つの物というのは、そりゃ何だ」
「それがなあ······お気の毒だがなあ······」
と言って船頭は
「
「エ、人身御供?」
「昔、日本武尊様が、この海で難儀をなすった時の話だ、
船頭がお角の
「だから、どうしようと言うの、だから、わたしをどうかしようと言うの」
お角の船頭を
「いや、お前さんをどうしようというわけじゃあございません、お前さんの量見に聞いてみてえんでございます」
「エ、わたしの量見ですって? わたしの量見を聞いてどうするの」
「この船の中で、女のお客はお前さんだけなんですね、今まで女一人のお客というのはなかったこの船に、今日に限ってお前さんが乗り込むとこの通りの
「それがどうしたの、それじゃあ、わたしが一人でこの暴風を起しでもしたように聞えるじゃないか」
「お前さんが暴風を起したんじゃないけれど、お前さんがいるために暴風が起ったようなものだ」
「何ですと、わたしが暴風を起したんじゃないけれど、わたしがいるために暴風が起ったようなものですって? 同じことじゃないか、それじゃあ、やっぱり、わたし一人がこの暴風を起したということになるんじゃないか、ばかばかしいにも程があったものさ」
外の
「船頭さん、お前、なんだかおかしなことを言い出したね」
お角に附添って来た庄さんという若い男も、
「いいや、おかしいことじゃねえのです、今日に限ってこんなことになるのは、こりゃあ
と船頭がここまで言い出すと、お角は
「おっと、待っておくれ、待っておくれ、
「それよりほかには、この
「············」
「ここで人身御供が上らなけりゃあ、みすみす三十何人の乗合が残らず
船頭はこう言って、乗合の者の頭の上をずらりと見渡したけれど、誰あってこれに返答する間もなく、お角は
「ふざけちゃいけないよ、やい、ふざけやがるない、こんな
「おかみさん、もうこうなりゃ、ジタバタしたって仕方がねえ」
船頭は
「おや、わたしを掴まえてどうしようというの」
お角は、船頭に掴まった二の腕を烈しく振りほどいて、血相を変えると、
「野郎、おかみさんをどうしようと言うんだ」
附添の若い男が、お角を
船頭に掴まった二の腕を烈しく振りほどいたお角は、そのまま荷物と人の頭とを跳り越えて外へ飛び出しました。
この時分、甲板へ飛び出すことの危険は、人身御供になることの危険と同じようなものであることはわかっているけれど、この女はそれを危ぶんでいるほどの余裕がなかったものらしくあります。
若い男を突き飛ばしておいた船頭は、腰に差していた斧を無意識に抜き取って、右の手に
乗合全体は総立ちになる途端に、大揺れに揺れた船が何かに触れて、

「わーっ、水、水、水が······」
そこで名状すべからざる混乱が起って、残らずの人が
尋常では腰の定まるべくもないこの場合の甲板の上を、転びもせずに、吹き荒れる雨風をうまく調子を取って、ひらりひらりと物につかまりながら走って来るのは、むかし取った
片手に斧を引提げて、こけつまろびつ、それを後ろから追いかける船頭とても、本来が決してさほどに、不人情でも、手前勝手でもあるわけではなく、ただ危険が
けれども、つづいて先を争うて甲板の上へハミ出した、二人のほかの乗合は無残なものでありました。出ると直ぐに大風に吹き飛ばされて、或る者は切り残された帆縄につかまって助けを呼び、或る者は船の垣根の板に必死にとりすがって海へさらわれることをさけ、
真先に、かの切り残された帆柱の切株にすがりついたお角は、
「さあ、こうしていれば、わたしゃこの船の船玉様さ、指でもさしてごらん、
こう言って
その翌日の朝は、風の
「清吉」
「はい」
「お前の眼でひとつこの遠眼鏡を見直してもらいたい、拙者の眼で見ては、どうも人の姿のように見える」
「お前様の眼で見て人間ならば、わたしの眼で見ても、やっぱり人間でございましょうよ」
と言って、清吉と呼ばれた若い男が、
「なるほど、人間でございますね、人間が一人、浜の上へ波で打ち上げられているようですね」
「もし、そうだとすれば、このままには捨てて置けない」
と言って、再び清吉の手から遠眼鏡を受取った巌の人は、駒井甚三郎でありました。前に甲府城の勤番支配であった駒井能登守、後にバッテーラで石川島から乗り出した駒井甚三郎であります。
あの時に、吉田寅次郎の二の舞だといって、横浜沖の外国船へ向けてバッテーラを漕ぎ出させて行ったはずの駒井甚三郎が、こうして房州の西端、洲崎の浜に立っていることは意外であります。
それで
「そうですね、行ってみましょうか」
清吉が鈍重な口調で、甚三郎の
「行こう」
「おともを致しましょう」
そうして二人は巌の上から駆け下りました。甚三郎は王子の火薬製造所にいた時以来の散髪と洋装で、清吉もまた
二人ともこうして砲台下を南へ下りて、海岸づたいに走り出しました。
「
「左様、平沙の浦には
「そうでしょうかね、もし、房州通いの船でも沈んだんじゃないでしょうか」
「或いはそうかも知れん」
遠見の番所の下から、洲崎の鼻をめぐって走ること五六町。
「ああ、やっぱり人だ」
「なるほど、人間ですね」
二人は、その見誤らなかったことを喜びもし、また悲しみもし、その浜辺に打上げられた人間のところをめがけて、飛ぶように
磯に打上げられている人間は、女でありました。もとよりそれは息が絶えておりました。着物も乱れておりました。肌もあらわでありました。けれども、
もし、昨夜の暴風雨が、この沖を通う船を砕いて、その乗合の一人であったこの女だけをここへ持って来たものとすれば、それは特別念入りの波でなければなりません。そうでなければ海とは全然違ったところから、何者かがこの女を
「女ですね、江戸あたりから来た女のようですね、ここいらに住んでいる女じゃありませんね」
鈍重な清吉もまた、それと気がつきました。
「うむ、昨晩、沖を通った船の客に相違ないが、しかし······それにしては無事であり過ぎる」
駒井甚三郎は、ずかずかと立寄って、横たわっている女の身体をじっとながめました。髪の毛はもうすっかり乱れていましたが、右手はずっと投げ出して、それを手枕のようにして、左の手は大きく開いているから、真白な胸から乳が、ほとんど
駒井甚三郎は腰を
「どうでしょう、まだ生き返る見込みがあるんでございましょうか」
清吉は気を揉んでいます。
「絶望というほどじゃない、生き返るとすれば不思議だなあ」
駒井甚三郎は、まだ女の乳の下に手を置いて、小首を
「不思議ですねえ」
清吉も同じように、首を傾げると、
「平沙の浦の海は、全くいたずら者だ」
駒井甚三郎は何の意味か、こう言って微笑しました。
「エ、いたずら者ですか」
清吉は、何の意味だがわからないなりに、
「うむ、平沙の浦の波はいたずら者とは聞いていたが、これはまたいっそう皮肉であるらしい」
「皮肉ですかね」
清吉には、まだよく呑込めません。
「そうだとも、あの暴風雨の中で、波の中の一組だけが別仕立てになって、ここまで特にこの女だけを持って来て、そーっと置いて帰ってしまったところなどは、皮肉でなくて何だろう。見給え、どこを見てもかすり傷一つもないよ、着物も形だけはひっかかっているし、帯も結んだ通りに結んでいる、水も大して呑んじゃいない」
駒井甚三郎は、女そのものを救おうとか、助けなければならんとかいう考えよりは、こうまで無事に持って来て、置いて行かれたことの不思議だか、いたずらだか、波に心あってでなければ、とうてい為し難い仕事のように思われることに好奇心を動かされて、ほとほと
この時分になって清吉も、漸く知恵が廻って来たらしく、
「そうですね、ほんとにわざっとしたようですね」
と言いました。
「ともかく、早くこれを番所まで連れて行って、手当をしようではないか」
「エエ、わたしが
清吉は女の手を取って引き起し、それを肩にかけました。
それから三日目の夕暮のことでした。駒井甚三郎は鳥銃を肩にして、
「清吉、燈火がついていないね」
けれども返事がありません。甚三郎の
部屋の中も、昔と違って、書籍や模型が雑然と散らかっているようなことはなく、眼にうつるものは床の間に二三挺の鉄砲と、
それでも、いま
甚三郎が蝋燭を片手に眺めているのは、その外の方の海でありました。内の海は穏かであるが、外の海は荒い。ことに、外房にかかる洲崎あたりの浪は、単に荒いのみならず、また
外の
こんな
「平沙の浦はいたずら者だ」と、おととい駒井甚三郎がそう言いました。
平沙の浦も、その皮肉なことにおいては相譲らないが、それは洲崎の海ほどに荒いことはなく、かえって一種の茶気を帯びていることが、愛嬌といえば愛嬌です。
平沙の浦がするいたずらのうちの第一は、舟を岸へ持って来ることです。ほかの海では、船を捲き込んだり、
このおてやわらかないたずらは、幸いに船と人命をいためることはありませんが、船と人をてこずらせることにおいては、いっそ一思いに打ち壊してしまうものより、遥かに以上であります。
平沙の浦の海へ入って見ると、下には恐ろしい暗礁が幾つもあって、海面は晴天の日にも、大きなうねりがのた打ち廻っている。漁師たちはそのうねりを「お見舞」と
そのいたずらな平沙の浦の海をながめていた駒井甚三郎は、ふいと気がついて、
「そうだそうだ、あの婦人はどうしたろう、今日はまだ見舞もしなかったが、清吉がいないとすれば、誰も看病の仕手は無いだろう、
と
「清吉は居らんな」
甚三郎は駄目を押しながら、その提灯を持って座敷へ上ると、そこは六畳の一間です。その六畳一間の燈火もない真暗な片隅に、一人の病人が寝ているのでした。
その病人の
「眠っておいでかな」
低い声で呼んでみました。
「はい」
微かに結んでいた夢を破られて、向き直ったのは女です。かのいたずらな平沙の浦の磯から拾って来た女であります。
「気分はよろしいか」
甚三郎は提灯を下へ置いて、蝋燭を丁寧に抜き取って、それを手近な燭台の上に立てながら、女の
「ええ、もうよろしうございます、もう大丈夫でございます」
はっきりした返事をして、女は駒井甚三郎の姿を見上げました。
「なるほど、その調子なら、もう心配はない」
甚三郎もまた、女の声と血色とを蝋燭の光で見比べるように、燭台をなお手近く引き出して来ると、
「もし、あなた様は······」
急に昂奮した女の言葉で驚かされました。
「ええ、なに?」
甚三郎が、
「まあ
女は床の上から起き直ろうとしますのを、
「まあまあ静かに。甲府の勤番の支配とやらの、それがどうしたの」
甚三郎は、女の昂奮をなだめようとします。
駒井甚三郎は、ここでこの女から、
「わたくしは、あの時から殿様のお姿を決して忘れは致しません」
女は何かに感激しているらしい声でこう言いましたから、甚三郎は、
「あの時とは?」
「それはあの、甲州へ参ります小仏峠の下の、駒木野のお関所で······」
「ははあ、なるほど」
ここにおいて駒井甚三郎は、さることもありけりと思い当りました。そうそう、初めて甲州入りの時、一人の女が
「拙者はトンとお見忘れをしていた。そなたは、あれから無事に、尋ねる人を探し当てましたか」
「はい、おかげさまで······かなり長い間、甲州におりました。その間も、よそながら殿様のお姿をお見かけ申しました。一度、お訪ね申し上げて、あの時のお礼を申し上げたいと思わないではありませんでしたが、何を言うにもこの通りの
「それを承ってみると、縁というものは不思議なものじゃ。拙者も今は、こんなふうに変っているが、そなたはまたどうして、あのような目に遭われた」
「それをお話し申し上げると長いのでございますが、この房州の芳浜というところまで、人を雇いに参ったのでございます、その途中、舟が
「しかし、よく助かったものじゃ、拙者も自分ながら不思議に堪えられない」
「今朝になりまして、清吉さんから、わたくしをお助け下された委細のお話をお聞きしまして、わたしは、ほんとうに神様に守られているんじゃないかと、
「ところで、その清吉が見えないが······何とかいうて出て行きましたか」
「いいえ、お
「はて······」
甚三郎は、いよいよ清吉のことが不安になってきました。
そうして、次の一本の蝋燭に火をうつして、それをまた提灯に入れ、
「淋しかろうが、そなたは一人で、暫らくここに留守している気で待っていてくれるように。拙者はこれから清吉を
「まあ、ほんとにあのお方はどちらへおいでになったのでしょう······いえ、もうわたしも起きられます、どうぞ、お心置きなく。どんなところにおりましても、淋しいなんぞと決して思いは致しません。歩けさえ致せば、わたしもお
「ちょっと、その辺の様子を見て、ことによると
「
甚三郎は病人のお角にあとを頼んで、提灯をつけて外へ立ち出でました。
駒井甚三郎が出て行ったあとのお角には、夢のように思われてなりません。
甲州城の勤番支配として、
あの
このお
駒井能登守様が、甲州城をお引上げになると、まもなく神尾の殿様も江戸へお引取りになった。神尾へはその前後に亘ってお角は始終出入りをしている。それで酔った時などに甲州話が出ると、神尾主膳は、きっと駒井能登守の
神尾主膳については、お角とても決して善良な人だとは信じていないけれど、あれでなかなか話せば話のわかる人だと思っている。あの人を箸にも棒にもかからぬように言うのは、それは、あの人を
何となれば、駒木野の関所以来、お角の眼にうつっている駒井能登守は、男ぶりといい、その情けある仕方といい、若くして人に長たるの器量といい、芝居の中で見る人のように見えるのであります。どこといって一点でも、難を入れるところのない殿様ぶりに見えるのであります。その学問や見識のことは、お角はまるきり見当がつかないけれども、あんな男らしい男ぶりの殿御を、前にも後にも見たことはないとまで思っているのでありました。
それを神尾主膳が、頭ごなしにするからその時は不服で、つい抗弁をしてみる気になると、神尾はいやみな笑い方をしながら、
「お前も存外
なんぞと言われると、お角もムキになって、
「人形食い結構、あんな方に好かれたら、ほんとにわたしは、三年連れ添う御亭主を
というようなことを言ったこともありました。
それは
お角は、それを思うと、なんだか嬉しいような心持になって、清吉の見えなくなったことよりは、早く甚三郎が帰って来てくれることのみが待たれるのであります。このままでお帰りを迎えては恐れ多いというような心から、床を起き直って、乱れた髪などを撫で上げました。二時間ほどして駒井甚三郎はかえって来ましたから、お角は、
「おわかりになりましたか」
「わからん」
甚三郎は、安からぬ色を深くしていました。
「まあ、どうなすったのでしょう」
「そなたを得たことも不思議だが、清吉を失ったことも不思議だ」
甚三郎がこう言った言葉のうちには、多少の絶望が含まれているようです。
「海の方へでも行ったのでしょうか」
「どのみち、海へ行ったのであろうけれど······」
「お怪我がなければようござんすね、この辺の海は荒いそうですから」
「今宵は、もう
これはおたがいの部屋に通ずる電気仕掛のベルでありました。駒井自身の工夫と設計にかかるものであることは申すまでもありますまい。これを押せばむこうのお居間の鈴が鳴るということが、お角にはなんだか魔術のように思われます。けれども、甚三郎はそれだけの注意を与えたきりで、この小屋とは棟を別にしている番所の内の、
もし明朝になっても、明日になっても、清吉の
いったん、捨てられた洲崎の遠見の番所は、まるで孤島の中にあるようなものです。前方は海で、陸続きは近寄る人もありません。
駒井甚三郎と、清吉とは、特にここをえらんで、たった二人きりで無人島同様の生活を好んで、ここに送っていたものと見えます。それがその共同生活の唯一人を失ったとすれば、あとに残るのは駒井甚三郎一人です。更にまた一人を加えたところで、その一人が枕も上らぬ病人であるなれば、その看病人も駒井甚三郎でなければなりません。
三千石の殿様に、自分の看病をさせることが
その翌日、早朝から駒井甚三郎は、またもこの番所を立ち出でました。けれども、お
お角は、それを聞いて気の毒がって泣きました。
その日から、ここにまた変った二人の生活が始まりました。二人というその一人の主は、変らぬ駒井甚三郎ですけれども、それを助けるは男でなくて女です。
「というても、そなたは江戸へ帰らねばならぬ人」
甚三郎に言われた時、
「いいえ、もう帰らなくってもよろしうございますよ」
お角は、きっぱりとこう言いました。ナゼこんなに、きっぱりと言い得るだろうかということが不思議でした。何かの当りがあればこそ、ああして房州へ出て来たのだから、その当りは途中の災難で外れたにしても、この女が江戸へ帰らなくてよいという理由はなかりそうです。江戸でなければこの女の仕事はありそうにもなし、またとにもかくにも、がんりきの百といったような男を江戸には残して来てあるはずです。
けれども、駒井甚三郎は、それをよいとも悪いとも言いませんでした。
お角の料理してくれた昼飯を食べてから、また海岸へ出かけて、どこで何をしていたのか、夕方になって帰って来ました。
そうして番小屋の炉の傍で、お角の給仕で夕飯を食べながら話をしました。清吉のことは、もう諦めてしまっているようです。その話のうちに、甲州話がありました。けれども、その甲州話も、政治向のことや勤番諸士の噂などは、おくびにも出ないで、甲州では魚を食べられないとか、富士の山がよく見えるとか、
それから、お角の身の上を
「それは面白い仕事であろう、拙者はまだ軽業というものを見たことがない」
「お恥かしうございます」
さすがのお角も、なんだか赤くなるように思いました。
話が済むと甚三郎は、さっさと立って自分の居間へ行ってしまいます。そうして夜おそくまで何かの研究に
お角も、かなりおそくまで、炉の傍に、ぼんやりとして燈火を見つめたり、火箸を取って灰へ文字を書いたりしていましたが、
「わたしゃ、あの殿様はわからない」
と
けれども、その翌朝は、早く起きて、水を汲んだり、御飯を炊いたり、掃除をしたり、いっぱしの女房気取りで、気持のよいほどの働きぶりであります。
朝の食事が終ると、甚三郎はまた海岸へ出て行きました。
夕飯の時は、またお角を相手にして、軽快に
「そう改まって給仕には及ばん、そなたもここで一緒に」
甚三郎は、
「人間の一芸一能は
「ねえ······殿様」
思わず膝を進ませると、
「殿様と言っちゃいかん、昔は殿様の端くれであったかも知れんが、今は船頭だ」
「では、何と申し上げたらよろしうございましょう」
「駒井とでも、甚三郎とでも勝手に」
「駒井様、駒井の殿様······なんだかきまりが悪うございますね。駒井様、そんなことを申し上げると口が曲りそうですけれど、わたしたちには、どうしても、あなた様の御了見がわかりません」
「わからんことはあるまい、浪人して
「どうして、あなた様ほどのお方が、これほどまでに
「自分が悪いからだ」
「殿様······また殿様と申し上げました、あなた様のようなお方に、お悪いことがおありなさるのですか」
「なければ殿様でおられるのだが、あるからかように落魄れたのだ」
「それは一体、どういう罪なんでございましょう、あんまり不思議で堪りませんから、それをお聞かせ下さいませ」
「それはな······」
駒井甚三郎は、お角の疑いに何をか
「隠すほどのこともあるまい、実はな、恥かしながら女だ、女で
「エ、まあ、女で······」
お角は眼を

お角は吃驚しましたけれども、甚三郎は驚きません。
「何でございましょう、今の音は」
「左様······」
甚三郎は、なお暫く耳を澄ましてから、
「やっぱり、いたずら者だろう」
と言いました。
「え、いたずら者とおっしゃるのは?」
「向うの松原に、小さな
こんなことを言いました。お角はさすがに女だから、それを聞いて、襟元が急に寒くなったように思い、
「そんなに
「全く、
「いやですね」
「だから、この界隈で、男女寄り合って話をしていると、必ずその三吉狐が邪魔に来る、それは
駒井甚三郎はこう言って笑いました。お角も、それに釣り込まれて笑いましたけれども、それは自分ながら笑っていいのだか、笑いごとではないのだか、全く見当がつかなくなりました。
そう言われてみると、今夜、この場合のみならず、この頃中のことが、すべてその三吉狐とやらの悪戯ではあるまいか。三千石の殿様が、こうして
「あれ!」
と言って甚三郎の傍へ身を寄せました。
それは確かに、縁の下を物が
その時に駒井甚三郎は、懐中へ手を入れると、革の袋に納めた六連発の短銃を取り出しました。
お角は、駒井甚三郎なる人が、砲術の学問と実際にかけては、世に
「わたし、なんだか怖くなりました」
こう言って、甚三郎の
そこで、縁の下がひっそりとしてしまいました。ミシミシと音を立ててお角の坐っていた下あたりに這い込んだらしい物の音が、急に静まり返って、兎の毛のさわる音も聞えなくなりました。
「逃げてしまいましたろうか」
「いや、逃げはせん、この下に隠れている」
お角が、おどおどしているのに、甚三郎は相変らず好奇心を以て見ているようです。
「いやですね、いやなお稲荷様に見込まれては、ほんとにいやですね」
お角は、座に堪えられないほど気味悪がっているのに、
「動けないのだ······」
と言って、甚三郎は膝の上にのせた短銃をながめているのであります。
「おや、小さな鉄砲。殿様は、いつのまにこんなものをお持ちになりました」
お角はその時、はじめて甚三郎の膝の上の短銃に気がついて、そうしてその可愛らしい
「いつでもこうして······」
甚三郎が、それを手に取り上げて一方に
「殿様、おうちになってはいけません」
「なぜ」
「でも、お稲荷様を鉄砲でおうちになっては、
「罰?」
「ええ、そんなにあらたかなお稲荷様を鉄砲でおうちになっては、この上の
「ばかなことを」
甚三郎はそれを一笑に附して、
「拙者も好んで
「いいえ、どうぞ、わたしに免じて助けて上げてくださいまし、わたしはお稲荷様を信心しておりますから」
「稲荷と狐とは、本来別物だ」
「別物でも、おんなじ物でも何でもかまいませんから、そうして置いて上げてくださいまし、そのお稲荷様が
「きつい信心じゃ」
駒井甚三郎は苦笑いして、また短銃を膝の上に置くと、そのとき縁の下で、うーんとうなる声が聞えました。
「おや、殿様、人間でございますよ、お稲荷様じゃございませんよ」
「不思議だなあ」
最初から心を静めて観察するの余裕を持っていた駒井甚三郎が、その物音や、気配を察して、人間と動物とを見誤るほどの未熟者ではないはずです。
科学者であるこの人は、狐に関する迷信の類は最初から
甚三郎が畳の上を踏み鳴らすとちょうど、仕掛物でもあるかのように、それといくらも隔たってはいないところの、
「御免なさい」
甚三郎もお角も
「お前は何だ」
あまりのことに甚三郎も拍子抜けがして、
「御免なさい、御免なさい」
と言って子供は、揚げ板の中から炉の傍へ上って来ました。
鼠色をした筒袖の
「お前さん、どうしたの」
最初は怖れていたお角も、
「助けて下さい」
子供はそこへ
「どこから逃げて来たの」
「清澄山から逃げて来ました」
「清澄山から?」
「ええ、清澄で坊さんに叱られて、縛られました。おばさん、あたいの手を、縛ってあるから解いて下さい」
「縛られてるの、お前さんは」
お角がなるほどと心得て、そこへちょこなんと
お角は一生懸命にその結び目を解いてやろうとして
「ずいぶん固く
お角はもどかしがって、ついにその縄の結び目へ歯を当てました。
「
甚三郎は見兼ねて好意を与えると、お角は首を振って、
「いいえ、結んだものですから解けそうなものですね、解けるものを切ってしまうのは嫌なものですから」
お角はしきりに縄の結び目へ歯を当てて、それを解こうとしましたが、いったいどんな結び方をしたものか知らん、ほんとに歯が立ちません。けれども、お角は
「おばさん、ずいぶん固く結えてあるでしょう、
子供は、ややませた口ぶりで、お角のすることの
「いま解いて上げるよ、結んだものだから解けなくちゃあならないんだから。切ってはなんだか
お角はしきりに縄に食いついて放そうともしません。
「岩入坊は縛るのが名人だからね、岩入に縛られちゃ往生さ」
子供は、こんなことを言いながら、お角のするようにさせておりました。
「あ、痛!」
あまり力を入れて、歯を食い折ったか、ただしは唇でも噛み切ったか、
「解けましたよ」
その時にお角は、クルクルと縄の一端を持ってほごしてしまいました。
子供の手を自由にしてやって、お角は元の座に戻り、紙をさがして口のあたりを拭きました。滲み出した血を、すっかり拭き取って平気な顔をしているから、大した怪我ではないでしょう。
「どうも有難う」
子供はそこで、お角と甚三郎の前へ両手を突いてお辞儀をします。
「清澄から、これまで一人で来たのか」
「エエ、一人で逃げて来ました」
そこで甚三郎は、じっとこの子供の顔を見つめました。清澄は
「何で、そんなに縛られるようなことをしでかしたのだ」
「
「悪戯? どんな悪戯を」
「ちょっとしたことなんです、ちょっと悪戯をしたんだけれども縛られてしまいました、縛られて、門前の大きな杉の木へつながれてしまいました、それを弁信さんに解いてもらいました、ぐずぐずしていると、岩入坊にまたひどい目に遭わされるから、早くお逃げって弁信さんがそう言ったもんだから、後ろ手に
「それはよくない、ナゼ逃げ出さないで、お師匠さんに
「駄目、駄目、あたいは、もう、あんなところは早く逃げ出したくって堪らなかったのよ、もう帰らないや」
「お前、お寺にいて坊さんになるのが嫌なのか」
「いいえ、あたいは清澄のお寺に預けられていたけれど、坊さんになるつもりじゃなかったの、お寺の方では、あたいを坊さんにするつもりであったかも知れないけれど、あたいは坊さんになる気なんぞはありゃしない」
一通りの白状ぶりを聞いても、そんなに大した
「そして、お前、これからどこへ行くつもりなのだ」
「あたいは、これから芳浜へ帰ろうと思うんだけれども、芳浜へは帰れないや、だから舟に乗ってどこかへ行ってしまいたいと思っているのよ」
「芳浜にお前の
「あたいの実家じゃない、お嬢さんの家があるんですよ」
「お嬢さん······主人の娘だな。清澄へ行く前、そこに
「あたいは、お嬢さんに可愛がられていたのよ、お嬢さんが、あんまり、あたいを可愛がるもんだから、それでみんなが、あたいをお嬢さんの傍へ寄せないようにしてしまったのですね、お嬢さんきっと、あたいに会いたがるに違いない」
子供はすずしい眼をして甚三郎の面を打仰ぎました。お嬢さんに可愛がられてる······それがなんとなく甚三郎の心を温かいものにして
「そのお嬢さんというのは幾つになる」
「今年、十八になるでしょうね」
と言って小首を
「そうか、近いうち、
「有難う。それでもね、お嬢さんにゃ会えませんよ」
「どうして」
「みんなが会わせないんだもの」
「なぜ会わせないのだ」
「あたいは、お嬢さんにだけは可愛がられるけれども、ほかの者にはみんな憎まれてるから」
「みんなの人が、なぜ、そんなにお前を憎むのだ」
「なぜだか、あたいにはわからないんだ、みんなの人が、あたいを憎んでお嬢様に会わせないように、清澄の山へ預けちまったんですからね」
「何かお前が悪いことをしたのだろう」
「いいえ、何も悪いことをしやしません、悪いことといえば、あたいが、あんまりお嬢様に可愛がられるから、それが悪いんでしょうよ。そのほかにはね······あたいは、虫を捕ることが好きなんですよ、虫を捕ることだの、鳥と遊ぶことだの、それから、笛を吹くことだの······」
その時まで黙って聞いていたお角が、あわて気味で口をはさみました。
「ちょっとお待ち。お話のうちだが、それではお前さんが、あの芳浜の茂太郎さんというんじゃないの」
「ええ、あたいがその茂太郎ですよ」
「そう、驚きましたね、わたしはまた、お前さんを頼むために、こうしてわざわざ房州までやって来たのですよ」
「おばさん、あたいを頼みに来たの」
少年は、やや眼を円くして、お角の
「ええ、お前さんを頼みに来たのよ、それがために途中で大難に遭って、こうしてお世話になっているの」
「そうですか」
「そうですかじゃない、ほんとに
お角ははずむけれども少年は、
「江戸から?」
と言って、前よりは少しく耳を傾けただけのことです。それもお角が無暗に、大難だとか生命がけだとかいうのに引きつけられたのではなく、江戸からと言った地名だけに引っかかったものとしか思われません。
「そうよ」
「江戸には、おばさん、山は無いんでしょう、だから蛇だって、そんなにいやしないでしょう、わたしを頼んで行ってどうするの」
「そりゃね······」
と言って、お角が少しばかり
「今まで、あたいを頼みに来るのは、
「それというのはね、まあ、聞いて下さいまし。この間の
盲法師の弁信はこう言って、その見えない眼から涙をポロポロとこぼして、口が
「弁信さん、そりゃ仕方がありませんよ、なにもお前さんが消したというわけじゃあるまいし」
「いいえ、いいえ、わたしが消したんですよ、決して、あの晩の
「だって弁信さん、お前がわざわざ消しに行ったわけじゃありますまい」
「いいえ、わたしの
「けれども、そりゃ仕方がありませんよ、善い心がけでしたことも、悪いめぐり合せになるのは運ですからね、なにもあの晩に限って
「いいえ、いいえ、善い心がけでしたことが、悪いめぐり合せになるということは、決してあるものではございません、それが悪いめぐり合せになるのは、徳が足りないからでございます、業が尽きないからでございます」
「そりゃいけませんよ、善いことをすれば、善いめぐり合せになるときまったものじゃなし、かえって善いことをして、悪いめぐり合せになる
「いいえ、そうじゃないのです、善い人の
こう言って、盲法師の弁信は泣きながら、
それとほぼ時は同じですけれども、ところは全然違った中仙道の
一昨夜の
その南条力と向き合って、これは枯草の上に両脚を投げ出しているのは、いつもこの男と影の形に添うように、離れたことのない

「その屋敷でござんすか、そりゃこの
がんりきの百は、いっぱしの
「なるほど」
南条力はいい気になって
ところが、このがんりき先生は一向、そんなことには頓着なく、
「さあ、焼けました、もう一つお上んなさいまし。南条の先生、こいつも焼けていますぜ、五十嵐の先生、もう一ついかがでございます」
と言って、木の枝をうまく渡して、焚火に
「碓氷峠の名物、碓氷の貞光の力餅というのがこれなんでございます」
得意げに餅を焼いて、二人にすすめ、
「何しろ源頼光の四天王となるくらいの豪傑ですから、碓氷の貞光という人も、こちとらと違って、子供の時分から親孝行だったてことでございますよ。親孝行で、そうして餅が好きだったと言いますがね、親孝行で餅が好きだからようございますよ、間違って酒が好きであってごろうじろ、トテも親孝行は勤まりませんや。どうも酒飲みにはあんまり親孝行はありませんね。
がんりきの百蔵は、無駄話を加えて力餅の説明をしながら、しきりにそれを焼いては例の片手を上手に扱って二人にすすめると、それをうまそうに食べてしまった南条は、
「がんりき、時間はどんなものだな」
「そうでござんすね、もうかれこれいい時分でございましょう」
三人が同時に
「いったい、横川の関所は
五十嵐が言いますと、
「やっぱり、明けの
「そうして今は
「一番鶏が鳴きました」
がんりきは何か落着かないことがあるらしく、
「間違いはございませんが、念のためですからこれから私が、もう一ぺん峠の宿を軽井沢まで走って見て参ります」
「御苦労だな」
こうして、がんりきの百は得意の早足で、峠の宿の方へ向いて行ってしまいました。そのあとで南条は、五十嵐にむかい、
「こんな仕事には
こんなことを言って笑っていると、五十嵐は、
「女によっては、あんなのを好くのがあるのか知らん、どこかに口当りのいいところがあるのだろう」
「当人の自慢するところによると、あの片一方の腕を落されたのも、女の遺恨から受けた向う
この時分に峠の宿で、また鶏が鳴きましたけれども、夜が明けたというわけではありません。
いわゆる、
このお関所を預かるものは
けれども、ここを通る参覲交代の大名のすべてを合せても、その余沢は、一加州侯のそれに及ぶものではないとのことであります。
それは大抵、五月と九月との両度に行われ、同勢は約千人もあったろうということで、金沢の城中から、鉄砲百挺、弓百挺、槍百筋を押立てて、ここまで練って来た一行が、鉄砲だけは関所を通すことが許されないから、坂本の宿の陣屋に鉄砲倉を立て、そこに預けておき、帰る時は、それを持ち出して国へ帰るということになっているのだそうです。関所でやかましいのは、鉄砲と、そうして女であることはここも他と変ることはなく、徳川幕府にとって頭痛の種であったこの二つの禁物のうちの一つは、そうして封じ込められて、関所を東へは一寸も動くことを許されないでいるが、東から来て西へ抜けようとする女は、まさか倉を立てて
その加州侯の潤わせぶりが、至って寛大で豊富であったから、その行列が宿々のものから喜ばれた持て方は非常のものでしたそうです。それで中仙道を、誰いうとなく加賀様街道と呼ぶようになったのは、名実共にさもありぬべきことと思われます。
これに反して、嫌われ者は、尾張と薩摩で、これはどうかして三年に一度ぐらい、この関所へかかることがあるが、金は使わないくせに威張り散らすという
そんなようなわけで、碓氷峠の関所、実は横川の関所は、毎日、明けの
「さあ、やって来たぞ」
「来た、来た」
南条と五十嵐とは、例の陣場ヶ原の焚火から立ち上って、ながめたのは関所の方角ではなくて、やはり熊野の社の鎮座する峠の宿の方面でありました。
なるほど、何物かがやって来る。耳を傾けると鈴の音が聞えるようです。
まもなくそこへ現われたのは、馬子に
峠を越ゆる馬は、一駄に三十六貫以上はつけられないのだから、荷物の重量としてはそんなに大したものとは思われないが、それに附添っている武士が三人あります。そうして馬の背の上に、梅鉢の紋らしいのが見えるところによって見れば、これは、やはりこの街道の神様である加州家に
それと見た南条力は、ズカズカとその馬をめがけて進んで行きました。無論、五十嵐甲子雄もそれに従いました。
これは、馬子も宰領も、すわやと驚かねばならぬ振舞です。この二人だからよいようなもの、そうでなければまさに山賊追剥の振舞であります。
「待ち兼ねていたわい」
南条力は低い声でこう言って馬の前に立ち塞がると、不思議なことに馬も人も更に驚く
「まず、上首尾」
と言った声は、前なる馬子の口から発せられました。落着いたもので、馬子風情の
けれど、馬子の口から出たことは間違いがありません。
その時に、馬に附添って来た三人の武士は、
ところで南条力は、右の一言を発しただけで、前にいた馬子の傍へ立寄ると、五十嵐甲子雄は二番目の馬子に近寄って、
「お役目御苦労」
と、やはり低い声で言いかけると、
「御苦労、御苦労」
と第二の馬子も、やはり馬子らしくない口調で
南条と五十嵐とは己れの衣類大小をことごとく脱ぎ捨てて、馬子はその簡単な馬子の衣裳を解いてしまうと、この両者は手早くそれを取換えて一着してしまいました。そうして
この時、三方に離れて遠見の役をつとめていた三人の武士は、急に立寄って来て、また馬の左右に附添いました。
以前に馬子であった二人だけは、その馬の前にも立たず後にも従わず、東へ向いて行く一行を見送って立っているのであります。そうして馬の足音も、全く闇の中に消えてしまった時分に、二人は元の峠の宿の方へ引返してしまったから、そのあとの陣場ヶ原には、焚火の燃えさしだけが物わびしく
その翌日、妙義神社の額堂の下で、なにくわぬ
縁台に腰をかけて、
「
と甘酒屋の
「へえへえ、なかなか大したものでございます」
老爺は自分のものでも
「甲源一刀流祖
筆太に記された文字を、がんりきの百は声を立てて読むと、
「秩父の逸見先生の御門弟中で御奉納になったのでございますが、当国では真庭の樋口先生、隣国では秩父小沢口の逸見先生、ここらあたりは、剣道の竜虎でございます」
それを聞いて、がんりきの百も何かしら勇み出して、
「知ってるよ、
「左様でございますか、お客様も甲州のお方でございますか、甲州はまことに結構なところだそうでございますね」
「あんまり結構なところでもねえのだが、爺さんよ、こうして、さっきからこの額面をながめているうちに、どうも気になってならねえことがあるんだが······」
「何でございます」
「ほかでもねえが、
「あれでございますか、あれはね······」
「あんまり味のねえやり方をしたもんだね、書き直すんなら書き直すんで、もっと穏かな仕方がありそうなもんじゃねえか、頭から無茶に
しきりに腹を立てて見ている額面には、なるほど、初筆から三番目あたりの門弟の人の名の上に、無惨に白紙が貼りつけてあるのであります。
「あれはお客様、なんでございますよ、どなたもみんな、あれを御覧になると、そうおっしゃいますんでございますが、皆さん御承知の上で、ああいうことになすったんでございますから仕方がありませんので」
「エ、みんな承知の上だって? 承知の上でああして貼りつぶしちゃったのかい」
「ええ、左様でございます、あの下に、机竜之助相馬宗芳というお方のお名前が、ちゃんと書いてあるんでございます」
「何だって? 机竜之助······」
がんりきの百は
「剣道の方のお方が、ここへおいでになってあれを御覧になると、どなたもみんな惜しい惜しいとおっしゃらない方はございません、なかには涙をこぼすほど惜しがって、この下を立去れないでいらっしゃるお方もございます」
「うーん、なるほど」
がんりきは何に感心したか、面の色を変えて
「惜しいお方ですけれども、剣が悪剣だそうですから、どうも仕方がございません」
「悪剣というのは、そりゃ何のことなんだい」
がんりきは投げ出すような荒っぽい口調で、老爺を驚かせました。
「どういうわけですか、皆さんがそうおっしゃいます、それがために逸見先生の道場から破門を受けて、その見せしめのために、ああしてお名前の上へ、べったりと紙を貼られておしまいになってから、もうかなり長いことでございます」
「なるほど、そりゃありそうなことだ」
「けれどもまた、その御門弟衆のうちでも、惜しい惜しいとおっしゃるお方がございます。他国からこのお山へ御参詣になった立派な武芸者のお方で、この額を御覧になり、ああ、机竜之助は今どこにいるだろう、あの男に会ってみたい······と十人が十人まで、申し合わせたようにそうおっしゃって、あの額を残り惜しそうに御覧になるのが不思議でございますから、私がその
「ふむ、そりゃそうだろう」
「もとの起りからそれを申し上げると、ずいぶん長くなりますんですが······」
それでも老爺は、その長きを
麓から登って来るのは、越後の国から出た角兵衛獅子の一行であります。その親方が、てれんてんつくの太鼓を
しちや、かたばち、
小桶 でもてこい、
すってんてれつく庄助さん
なんばん食っても辛 くもねえ
この思いがけない賑やかな一行の乗込みで、せっかくの話の出鼻をすっかり折られた老爺は、すってんてれつく庄助さん
なんばん食っても
「角兵衛、まったったあい||」
ほかにお客というのはないんだから、この角兵衛獅子の見かけた旦那というのは、おれのことだろう。そこでがんりきの百は、どうしても御祝儀を気張らないわけにはゆかなくなりました。
「兄貴に負けずにしっかりやんなよ」
と言って、がんりきは例の左手で懐ろから財布を引き出すと、その中から掴み出した一握りを、鶏の雛に餌を撒くような手つきで、バラッと投げ散らしました。
がんりきの百は、角兵衛獅子を相手に
この一行は角兵衛獅子のような嗚物入りの一行とは違って、よく
大尽風を吹かしていたがんりきの百が、ふとこの五人の同勢の登って来たのを見ると、
「おいおい角兵衛さん、もうそのくらいでいいよ、御苦労御苦労」
ここへ来た五人の強力の同勢は、さあらぬ
先に立った強力の一人を、よく気をつけて見れば只者ではないようです。そのはず、この男こそ、碓氷峠の陣場ヶ原で一昨夕、焚火をしてなにものをか待っていた南条力でありました。すでにこの男が南条力でありとすれば、その次にいるのが五十嵐甲子雄であることは申すまでもありますまい。そのほかの三人は、あの陣場ヶ原のひきつぎの時に、三方に立って遠見の役をつとめていた三人の武士。それが都合五人ともに、いつのまにか申し合せたように
やがて五人の強力は、一杯ずつの甘酒に
「
と言って幾らかの
額堂を出たがんりきを先登に、南条らの一行は白雲山妙義の山路へ分け入ったが、
がんりきを初め南条の一行が、山へ向けてここを去ってしまい、角兵衛獅子の一座もほどなく町の方へ引返してしまい、それから
「どっこいしょ」
杖について来た金剛杖でもない手頃の棒をわきに置いて、
それと向き合った一方のは、前のに比べると年配であります。これはまあ
この二人は甘酒に咽喉をうるおしながら、期せずして頭の上の、例の大きな額面に眼が留まりました。
「ははあ、甲源一刀流、秩父の
と言ったのは、足を曲げていた方の道中師です。
「なるほど、逸見先生の
前のは言い方が横柄で、後のは幾分か
「うむ、比留間与助、知ってる、桜井なにがし、あれも名前は聞いている、それから三番目······のはどうしたんだ、
その口調にこそ相異はあれ、たった今、がんりきの百がしきりに憤慨したのと同じ動機に出でているので、心ある人ならば、誰もその無下な仕方を不快に思わないものはないはずです。
「左様でございますな、何とか仕方がありそうなものでございますな、せっかくの結構な額が、あれのためにだいなしになってしまいますでございますね······おやおや、お待ち下さいましよ」
年配の方の道中師が、やはり、それをながめているうちに
「何だ、どうかしたのか」
「その次に記されておいでになるのは、ありゃ何とございます、宇津木······宇津木と書いてあるんじゃございませんか」
「そうそう、宇津木と書いてある、宇津木文之丞······」
「わかりました、わかりました、思いがけないところで、思いがけない人にぶっつかりましたよ、いやどうも、なんだか怖ろしい因縁がついて廻っているようでございますよ、驚きました」
こう言って、例の白紙に貼りつぶされた無名の剣客の名前を、呪われたもののような眼付でながめ入るのが変でしたから、横柄な方の道中師が、
「貴様、
「先生、この白紙をかぶせられているお方の名前を、私はちゃんと読みました、紙の上から、ちゃあんと見透しました、千里眼ですよ、失礼ながら先生にはそれがお出来になりますまい」
「何を言ってるんだ、そんなことがわかるものか」
ここに二人の道中師という、その年配の方のは七兵衛であります。そうして横柄な方のは、もと新徴組にいた浪士の一人で、香取流の棒を使うに妙を得た水戸の人、山崎譲であります。
七兵衛と山崎譲とが、こうして組んで歩くことは、がんりきの百が南条力の手先になっていることよりは、むしろ奇妙な縁と言わなければなりません。
それがいつのまに妥協が出来たのだろう、こうして主従のような、
思うに、七兵衛とがんりきとは、甲府の神尾主膳の屋敷の焼跡を見て、その足で木曾街道を一気に京都までのしたはずであります。山崎譲はその以前、同じく甲府の神尾方へ立寄って、それから道を
「先生、あなたも少々お
「なに、貴様にわかって、拙者にわからんことがあるものか」
と言って、改めて甲源一刀流の開祖、逸見太四郎義利の文字から読みはじめて、門弟席の第一、比留間、桜井、その次の白紙の主を、紙背に
「ははあ、なるほど」
小膝を
「それごらんなさいまし」
七兵衛は得意の微笑を浮べると、山崎の
「あれだ、あの男だ、そうか、なるほど······いやあの男には、拙者も重なる縁がある、大津から
山崎譲は額面の上を仰ぎながら、感慨に堪えないような言葉で、こう言いました。
「おや、そうでございましたか。実はあの時分、私共も、あの方を尋ねて富士川口から甲州入りをしていたんでございますが······とうとうお目にかかることができませんでした」
七兵衛はこう言って、何の気もなしに縁台の薄べりへ手を置いた時に、何か手先にさわるものがありました。
指の先へ触ったものを、なにげなく眼の前へ
「おや」
物珍しそうに、それをじっと見込みました。
「先生、先生」
「何だ」
「や、こいつはいい物が手に入りましたぜ」
「いい物とは何だ」
「これでございます、こんないい物が手に入るというのは、天の助けでございますな、お喜び下さい」
「何のことだか、拙者にはわからん」
と言って山崎譲が、七兵衛の手に
「おいおい、お
七兵衛は山崎譲にその合鍵の輪を渡して、自分は甘酒屋の親爺を呼びました。
「はいはい」
「もうちっと先に、これこれのお客が、お前さんのところへ見えなかったかい。これこれではわかるまいが、ちょっと小いきな男で、片腕が一本無えんだ······身なりは、これこれ」
「ええ、ええ、間違いございません、確かにおいでになりました、たった今でございます、
「そうだろう、そうなくっちゃならねえのだ······先生、そいつはがんりきの奴の道具でございます、あいつ、何かに
「なるほど、そうしてみるとよい
「爺さん、それからどうしたい。その片腕の男は、角兵衛に散財をして、それからどっちの方へ出て行きました」
「エエ、なんでございます、多分、お山を御見物でございましょう。お帰りにお寄りになるとおっしゃったから、
「そうしてその男は、一人っきりだったかね、それとも連れがあったかね」
「左様でございます、おいでになった時はお一人でしたが、お出かけになる時は、どうもあれはお連れでございましょうか、それとも別々なんでございましょうか、よくわかりませんが、強力が五人ほど一緒に連れ立って参りました」
「それだ」
山崎譲が、その時に足を踏み鳴らしました。
「どうやら、先生のおっしゃった通りの筋書でございますな」
「そうだろう、どのみち、それよりほかにはないんだ」
「それでは、出かけようじゃございませんか」
七兵衛から
「まあまあ、待て」
甲源一刀流の額面を仰いで、何をか一思案の
七兵衛が
「ちょっ、どう見ても
と舌打ちをしました。
「全く、あいつは、小癪にさわる奴でございますよ。そもそも、私共が、あいつと知合いになったのは、東海道の

七兵衛は
「そのことを言っているのじゃねえ······七兵衛、ちょっとその手拭を貸してくれ。爺さん、この手桶を、こっちへ出してくれねえか」
「へえへえ」
甘酒屋の
「旦那、何をなさるんでございます」
甘酒屋の親爺が仰天すると、梯子を一段だけ踏み残して上りつめていた山崎譲は、背伸びをして、その甲源一刀流の大額の、門弟席の初筆から三番目の張紙の上へ、グジャグジャに濡れていた手拭を叩きつけたから、
「先生、ナ、ナニをなさるんで」
七兵衛もまた、甘酒屋の老爺と同じように
「この男をこうしておくのが癪にさわるんだ、
濡らしておいた張紙をメリメリと引きめくると、その下に隠れていたまだ新しい木地の上に、ありありと現われたのはなるほど、机竜之助相馬なにがしの文字であります。
その前後のことでありました、
聞いてみると、それはこんなわけです。昨夜、加州家の宰領の附いた
取調べてみると、たしかに加州家の荷物で、北国筋からかなり長い旅路を送られて来たことも確かです。ただ問題になるのは、そののせられて来た荷物です。或いは金箱をかなり多く、何万というほどの
その評定半ばのところへ、上方から飛脚が飛んで来て、はじめてこの事件の性質がわかりました。それは火薬ではなく金。その金額は二万両。それはこういうわけです。
これより先、水戸の家老、武田耕雲斎が大将となって、正党の士千三百人を率いて京都に
さて、この二万両の金と、ほかに重要な荷物の多少が、ここからどこへ運ばれて何に使用されるのか······問題はそれで、同心や捕方が四方に飛んだのもその探索のためであります。
その晩、夜通しで、信濃と
前なるは七兵衛で、後のは山崎譲であります。棒を取っては腕に覚えの山崎譲も、足においてはとうてい七兵衛の敵ではありません。一夜に五十里の山路を、平地のように飛ぶ七兵衛が先に立っての案内ぶりは、子供のあんよを気遣っているようなものです。峠の上で、
「七兵衛、一休みやらんことには、もう歩けぬわい」
山崎が弱い
「もう少しお降りなさいまし、いいところを見つけて焚火を致しましょう」
「先生、まだ私にはよくわかりませんがなあ、その五人の
七兵衛からこう言って尋ねかけられた時に、山崎は
「うむ、もっともな不審だ、お前から尋ねられなくても話そうと思っていたところだ。その五人の強力というのは、
それを聞いて七兵衛が、しきりに感心して、
「なるほど、そりゃちっと、こちとらのやる仕事より大きいや、甲府の城を乗取って、お膝元を横目に見ながら、天下をひっくり返そうというんだから、出来ても出来なくっても、仕掛けが小さくはございませんな。よろしうございます、向うがその
相生町の老女の家の一間で、
いつも元気で快活なお松が、このごろ、しおれているのが眼に立つほどで、今も着物を畳みながら、眼にいっぱいの涙をたたえております。
今日も兵馬の留守中、用ありげに来た二人の客があります。その一人は、甲府からついて来たあのいやらしい金助という男で、あれがこの間、兵馬をはじめて吉原へ連れて行った男であります。あの男が来るたびに兵馬さんは落着かなくなって、その
もう一人の来客は、たしか刀屋であると言っていたが、もしや兵馬さんが御所持の腰の物を、あの刀屋にお払い下げになるつもりではあるまいか······そんならばほんとうに一大事。
それを思うと、覚えず涙が眼の中にいっぱいになって、幾度も着物を畳み直しているうちに、ふとその
お松は、はっとして、その手紙を手に取り上げて見ると女文字です。ひろげて見ると、
その時に、廊下で人の足音がします。
「お帰りなさいませ」
そこへ帰って来たのは兵馬であります。お松は
「そうしておいて下さい」
「あの、兵馬様、今日はお留守中に、お客様が二人おいでになりました」
「来客が二人、そうしてそれは誰と誰?」
「一人は、いつもの金助さんでございますが、もう一人は、久松町辺の刀屋だとか申しておりました」
「ははあ、刀屋が来ましたか。それから、金助は何と言いました」
「あの方は何とも申しません、ただ、わたしに向って、このごろはさだめてお淋しうございましょうと、笑いながら言いましただけでございます」
こう言ってお松は、伏目になりました。
「ははあ······何を言うのかあいつの言うことは、取留まったものではない」
兵馬はやはり、淋しき笑いに
「兵馬様」
そのときお松は、
「何でござる」
「あなた様は、このごろ、どちらの方へ多くお出かけになりまする」
「何を改まって、そのようなことをおたずねなさる」
「いいえ、わたくしは、それをお伺い致さねばならないほど、このごろは、ほんとに気が弱くなってしまいました」
「そなたの言うことが、わしにはよくわかりませぬ。
「それならよろしうござんすけれど、わたくしのこのごろお見受け申すあなた様は、前のあなた様とは別のお方のようでございます、それが悲しうございます」
「ナニ、
「ええ、ええ、失礼ながら、これまでのあなた様は、どんな艱難にお逢いになっても、お心の底には強いところが
と言ってお松は、涙をこぼしました。
その晩はお松は、こし
懐ろへ入れて来たあの女文字の手紙を取り出して読み返してみると、舌たるいような言葉で、ぜひぜひ今宵のおいでをお待ち申し上げますというような文言であります。女の名は
その遊女も憎らしいけれど、兵馬さんほどの人が、どうしてまたそんな狐のような女に、
「へえ、それはもうお買戻しになりまする節は、手前共にございまする間は、いつでも仰せに従いまする、また他の品とお取替えになりまする場合にも、せいぜい勉強致しまして、お使いを下さいますれば、早速お伺い申し上げまする」
と言っているのは、刀屋の番頭らしくあります。
それを耳にした時も、お松は胸を打たれました。それでは、大切のお腰の物をお放しなさる気になったのか、それほどお
といって、あの人が、みすみす武士の魂という腰の物までも手放そうとなさる今の場合、そのお力にもなれない自分の身の意気地のないことが思われてなりません。お松はそこで、もうお君を見舞に行くほどの勇気もなくなって、さあ、なんとかして、たった今あの刀屋を帰さないようにして上げる手段はないものかと、また自分の部屋へ取って返したけれども、もう所持品にしても、さして金目のあるものはなく、ただ
翌朝になってみるとお松は、また兵馬に対して、どうやら済まない心持になりました。
それで、廊下を通りがけに兵馬の部屋を訪れてみると、もうその時に兵馬はそこにおりませんでした。お松は、せっかく、しおらしい心に返ったのが、またむらむらと抑えきれない不快の心に襲われて、足早にそこを立去ろうとするところへ、なにげない
「お早うございます」
「おや、お前は金助さんではないか」
「はい、その金助でございます」
お松も、
「金助さん、宇津木さんはおりませんよ、何か御用なら、わたしが承っておきましょう」
「左様でございますね、別に御用ってほどのこともねえでございますがね、それではこれでお
「あの、金助さん、お前さんに御用がなければ、わたくしの方にお聞き申したいことがあるのですけれど、ちょっとあちらまで来て下さいませんか」
「へえ、お松様、あなた様から何か私に御用があるとおっしゃるんですか、よろしうございます、そうおっしゃられるといやと申し上げるわけにも参りませんな、お邪魔を致しましょう」
金助は恩にきせるような言い方をして、お松のあとに従って、長い廊下の奥へ行く途中で、
「なるほど、結構なお邸でございますな、ははあ、こちらの障子が霞でございますな、
金助は相変らず歯の浮くような
その時分、お君はムク犬を連れて、奥庭を歩いておりました。
いつぞやのように
「ムクや、お前とここで
こう言ってお君は、手にしていた扇子を
「おお、よく持って来てくれました、お前はほんとによい犬だ、わたしのムク犬や、もう一度、投げるから取っておいで、いいかい、今度は、下へ落ちないうちに受けるのですよ」
開いてあったその扇子を、ピタリと締めて、お君はそれを空中高く投げ上げました。
「さあ、下へ落ちないうちに」
中空高く上った扇子が、トンボのように舞って落ちて来ると、それは早くもムクの大きな口の中に啣えられました。
「上手上手、まだお前、いろいろの芸当が出来るんだね、
お君はムク犬の口から、扇子を
「忘れるといえば、わたし、三味線の手を忘れてしまやしないか知ら。間の山節は、わたしよりほかに歌える人はないんだから、あれをわたしが忘れてしまうと、あとを継ぐ人がない、それではお母さんに済まない」
お君はこう言ってその扇子を取り直すと、
「大丈夫、わたしは決して忘れやしない」
淋しく笑って、池のほとりへ出ました。
「ムクや」
左へ廻って附いているムク犬を、
「お前、
お君に、こう言って歎願されても、こればかりはムク犬も返答に困るらしくありました。
「いけないかい、こればかりはお前にもできないだろうね、そうでしょう、殿様はこの国にいらっしゃらないのだからね、海を越えて西洋というところへおいでになってしまったのだから、いくらお前が賢い犬でも、トテモ西洋までは行けやしないからね、これは、頼んだわたしの方が悪いのさ、わたしの方に無理があるんだから仕方がない」
お君は、こんなことを言いながら、池のまわりを歩いて行きましたが、
「けれどもね、無理のない言いつけなら、お前きいてくれるでしょう、わたしの頼みが間違っていなければ、お前は頼んだ通りによくしてくれるでしょう。そんならお前、友さんの
ムク犬は、もとよりこの疑問に答うべくもありません。
今まで忠実に主人を見守っていたムク犬が今度は、それと違って垣根の
お君はその時に身のうちに
「ああ、悪かった、わたしは、また気がゆるんでしまいました。誰も見ていなかったかしら。ムクや、お前こっちへおいで、わたしは内へ入りますから」
正気に返ったお君は、

それから暫らくたって、両国橋を
「占めしめ、万事こう来なくっちゃならねえ、
何か嬉しくてたまらないことがあるらしく、しきりに
「ところで、
こう言ってニタリと笑いました。この先生こそは、相生町の老女の家の兵馬を訪ねて来て、兵馬が出たあとをお松に見つかって呼び込まれて、何か兵馬の近頃の身の上について、お松に
しかし、この先生のことだから、甲に向って喋ることと、乙に向って喋ることの間に、味をつけないで喋る気遣いはありません。そうしてその間に何かうまい汁がありとすれば、その
ただ、そのくらいならばいいけれども、今様の鈴木主水を一組こしらえたというような言葉は、どうも聞捨てがならない。兵馬と
それよりもなお危険なのは、この男がこれから、染井の化物屋敷へ行くと言ったことであります。染井の化物屋敷とは、つまり神尾主膳らの隠れ家をいうものです。神尾の許へ行くからには、どうせ
「占めた」
と言って嬉しがりはじめたのは、やっぱりその辺に何か売り込むことが出来て、それを
そうであるとすれば、その隙見は何を見たのだ。刻限から言っても、ムク犬が奥庭で、急にお君の傍を離れたことから言っても、我に返ったお君が、あわてて家の中へ隠れたのから見ても、この男は、はからずあの際、お君の姿を認めたものに違いない。そんならば確かに一大事です。甲府にいる時に、お君はたしかに神尾が一旦は思いをかけた女である、それをこの男が神尾へ売り込むとすれば、今でも神尾の好奇心を
それを知っているから金助は、また
こうして有頂天になって橋の半ばまで来た金助が、急に何かにおどかされたように、よろよろとよろけると、踏み留まることができず、
「御免よ、御免よ」
金助が、ばったりと倒れて、暫く起き上れないでいる時、それを左に
「この野郎、御免で済むと思うか」
ようやく起き上った金助は、目を怒らして小男を
「御免、おいらは草鞋の紐を結んでいたところなんだ、そこへお前が来て、よろよろとよろけたから、危ねえ! と思って左へよけたんだ、左へよけた途端にお前が前へのめったんだから、おいらに罪はねえようなものなんだが、それでも時と場合だから、おいらの方からあやまってやらあ」
こう言って竹の笠を
「おやおや、時と場合だから、貴様の方からあやまってやるんだって? ばかにするな、このちんちくりん」
金助は打ってかかろうとして拳を固めると、宇治山田の米友は一足後へさがって、そのまるい眼をクルクルとさせ、
「時と場合だろうじゃねえか、おいらはこうして
こう言って感心にも宇治山田の米友は、相手にしないで行き過ぎようとします。これは米友としては出来過ぎですけれども、金助は血迷っていて、この米友の
「おいおい、待て待てこの野郎、背はちんちくりんだが、どこまで人を食った野郎だか知れねえ、いよいよ癪にさわる言い草だ、待て」
金助は米友の筒袖を引張って、引留めました。
「そんなに引張らなくってもいいや、逃げも隠れもしやしねえよ、何か言い草があるなら、うんとこさと言いねえな」
かかる場合に、決してわるびれる米友ではありません。
「言わなくってどうする、今の言い草をもう一ぺん言ってみろ、本来なら貴様が突き倒されてしまうところを、危ねえ! と思ったから左へよけて、貴様の身体は無事だったが、こっちがそのハズミを食って身代りに倒れたとは何の言い草だ、左へよけて身体の無事であった方は無事でよかろうけれど、身代りに倒された方こそいい
金助はこう言いながら、グイグイと米友の着物を引張りました。
「おい、あんまり引張るなよ、
米友は仕方がなしに引き寄せられていると金助は、いよいよ怒り出して、
「この野郎、いやに落着いていやがら。いったい、人を転がしといて、身代りに倒れたで済むか、この野郎」
「だって仕方がねえじゃねえか、おいらが倒れなけりゃあお前が倒れるんだ、お前が倒れたからおいらは倒れないで済んだんだ、幾度いったって同じ理窟じゃねえか、いいかげんにしといた方がお前の為めになるよ」
この時に金助は、火のようになって、
「この野郎、もう承知ができねえ」
拳を上げてポカリと
「おやおや、お前、おいらを
金助の打ち下ろした拳を、米友はしっかりと受け止めました。
「こんな
拳を取られながら金助は、歯噛みをしていきり立っています。
「ジョ、ジョーダンを言っちゃいけねえ、理窟はおいらの方にあるんだ」
米友は金助の拳を、なおしっかりと握って、口の利き方が少し
「放せ、野郎、放せというに」
金助はしきりにもがくけれども、米友に
「放さねえ」
米友も漸く、虫のいどころが悪くなってきたようです。
「放さなけりゃ、こうしてくれるぞ」
金助は左の手に持ち替えていた折を、
「野郎!」
額の
それを、どう見て取ったのか、いい気になった金助はかさにかかって、
「何だい、貴様の
この時分、あたりへようやく人だかりがしました。人だかりがしたから、金助は、いよいよ得意げに毒舌を
「野郎!」
米友は歯をギリギリと噛み鳴らしました。けれども、まだ、自分からは打ってかからない米友は、何か思う仔細があるのか、ただしは誰人かに新しく
「何とか言えよ、このちんちくりん」
右の
「野郎!」
ここに至って米友の堪忍袋の緒はプツリと切れました。片手に携えていた杖を橋の上にさしおくと、のしかかって来た金助を頭の上にひっかぶりました。米友の頭の上で泳ぐ金助を、意地も我慢も一時に破裂した米友は、そのまま橋の欄干近くへ持って行くと見るまに、眼よりも高く差し上げて、ドブンと大川の真中へ
金助を川へ抛り込んだ米友は、物凄い
神尾主膳の隠れている例の染井の化物屋敷は、依然として化物屋敷であります。
真中の
それから離れの方には、例のお絹が別に一廓を構えて、若い女中を一人使って、ほとんど母屋とは往来をしないで
今日は神尾主膳が、朝から酒につかりながら、座敷の壁へ大きな一枚板を立てかけて、酔眼を開いてそれを見据えていると、傍に、よく肥った
「殿様、うまくひとつ書いてやっておくんなさいましよ、
「ふーん」
神尾は鼻であしらいながら、筆立の中から木軸の大筆を取って、ズブリと
「無駄を言うな」
「だって、後見がうまくなけりゃ太夫が引立たねえや。さあさあ、殿様の曲芸、

「馬鹿」
神尾は
「うまい!」
大奴が
「気が散るからだまってろ」
と言って、今度は息を抜かずに筆をふるって、縦横に書き上げたたて看板の文字は、「江戸の花 女軽業」の七文字であります。
「太夫、御苦労」
大奴は
書いてしまった七文字を神尾は、また
「殿様、殿様、ドチラにいらっしゃるんでございます」
それは聞いたことのある女の声。
「おや、
入って来たのは、女軽業の親方のお角でありました。
「いよう、これはこれは両国橋の太夫さん」
福兄と言われた大奴は、細い目をしてお角を迎えました。
「殿様、御機嫌よろしう」
お角は神尾の前へ手を突いて、頭を下げました。
「頼まれ物が出来上ったぞ」
神尾も御機嫌がよく、お角の
「まあ、お書き下さいましたか、これはこれは、なんというお見事なお筆でございましょう、生きているようでございますね」
お角も看板の文字を見て、心から嬉しそうであります。
「生きているとも」
神尾もまた自分ながら、書き上げた看板の文字に得意でいます。
「太夫元、
「奢りますとも、何なりとお望みに任せて」
「よろしい、所望がある」
福兄が改まってむきになると、
「福、貴様がでしゃばるところじゃないぞ、貴様は墨のすり賃に、二百も貰って引込めばいいんだ」
神尾が福兄をたしなめると、福兄は納まらず、
「いけやせん」
「福兄さんには殿様に内密で、わたしが、たくさんお礼を致しますから、もう少し待って下さいね、今が大事の時なんですから。その代り今度のが当りさえすれば、ほんとうに福兄さんを福々にして上げますからね」
「うまく言ってやがらあ。けれども、そう話がわかりゃそれでもいいんだ」
福兄はそれで、どうやら納まりかけた時に、神尾主膳が、
「お角、今に始まったことではないが、お前の腕の凄いのには恐れ入った」
改まったような言いがかりだから、お角も用心して、
「殿様、改まって何をおっしゃるのでございます」
「しらを切っちゃいかん、お前が今度の房州行きなんぞは運もよかったが、腕の凄さは、いよいよ格別なものだ」
「神尾の殿様、そんな気味の悪いことをおっしゃっておどかしちゃいけません、こう見えても気が小さいんですからね」
「あんまり気が小さいから、少しはオドかして、大きくしてやらぬことにはしまつがつかん」
「何をおっしゃるんですか、わたしには一向わかりません」
「お前にはわかるまいが、こっちには、すっかり種が上っているんだ、房州へ行って命拾いをして来た上に、金箱を
主膳が福兄を顧みると、福兄は一も二もなく
「そうですとも、そうですとも、ありゃ実際、不埒千万ですよ、あれはただじゃ置けませんよ」
「福兄さんまでが殿様に御加勢なんですか、金箱とおっしゃったって、まだ分らないじゃありませんか、まだ乗るか
お角は
「その手は食わん、金箱というのは、
「エ!」
神尾からこう言われて、さすがのお角もギョッとしたようです。
「それは違います、それは違います」
お角は、あわててそれを打消すと、神尾が意地悪く、
「福、お角は違うと言ってるが、お前はどう思う」
「違いませんな」
福兄は得たりと引取って、
「では、福兄さん、お前さん、何をごらんなすったの」
「さあ、拙者が、じかに見たというわけじゃねえのだが、両国の、とある船宿の二階で、さしむかいの影法師を、ちらりと
「え、そりゃお安くないんですね、両国橋の女軽業の何とやらのお角さんといえば、多分この辺にいるお婆さんのことでしょうけれど、今時こんなお婆さんを相手にする茶人があるというのは、頼もしいことですね」
「実際、頼もしいんだから驚きまさあね。しかし、お婆さんはかわいそうですよ、年増盛りのハチ切れそうなのを捉まえて、お婆さんはかわいそうだね」
「まあ、ようござんす、どのみち
「そりゃ花ですともさ。ですけれども、花もあんまり、こってりと咲かれると、よその花ながら
「うむ」
「殿様も福兄さんも、なんだか奥歯にはさまるような言い方をなさるから、わたしゃ、どうも痛くない腹を探られているようで
「ところが、どうもハッキリとは言えねえんだ、ともかく、船から上ると飛びつくように嬉しがって、お手を取って御案内申し上げ、それから後が、船宿のさしむかいという御寸法になったまでは
「人違いもその辺になると御愛嬌ですよ、その色男の
「それそれ、それがわかれば動きは取らせねえのだが、夕方のことではあったし、厳重に覆面はしていたし、さっぱり当りがつかなかったというのが、こっちの弱味だ。それでも、年の頃は三十前後の品格のある武士で、
「おやおや、それは大変なことになりましたね、そうしてその御身分のあるお方のお相手というのが、やっぱり両国の女軽業の古狸なんですか」
「大地を打つ
「ほんとうに有難い仕合せですね。そうしてなんですか神尾の殿様、あなた様は、いったいその身分のあるお武家様がどなたでいらっしゃるか、見当をつけておいであそばすでございましょうね」
と言ってお角は、そっと神尾主膳の
「そりゃ拙者にもわからん、その若いのを
「では全く、殿様は御存じないんでございますね」
「知っていれば、ただは置かんよ」
「御存じないのが、あたりまえですよ、そんなことがあろうはずがございませんもの。もしありましたら、大びらに御披露して、ずいぶん皆様を羨ましがらせて上げるんですけれども」
お角はこう言って笑いましたけれども、なお神尾の腹の底を読もうとするらしい。しかし、神尾はそれ以上は何も知っておらぬようです。その時にまた廊下で
「殿様、殿様、神尾の殿様、金助でございます」
金助というのは多分、両国橋の上で、宇治山田の米友のために大川の真中へ
お角は金助と入違いにこの部屋を
「御免下さいまし」
と小声に言って、土蔵の戸前に手をかけました。重い扉をズシズシと押し開いて、薄暗い土蔵の中へ足を踏み入れ、
「いらっしゃいますか」
これも小声でおとのうてみましたけれど返事がありません。気味悪そうにお角は、蔵の中へ二足三足と足を入れて、二階へのぼる梯子段の下まで来て、
「お銀様」
はじめて人の名を呼んで、二階を見上げました。けれどもやはり返事はありません。
「御免下さいまし」
再び案内の言葉を述べて、その梯子段を
「いらっしゃいますか」
はじめて二階の一間を
六枚折りの古色を帯びた金屏風が立てめぐらされたその
そこで、お角はまた遠慮をしいしい、畳を踏んで六枚折りの中を覗きました。なるほど、そこに
「おや、どこへお出かけになったのでしょう」
お角はいぶかしそうに
お銀様はいったい、どこへ出て行ったのだろう、それがお角には疑問でした。この人は決して外へは出ない人であった。自分が知れる限りにおいては、この土蔵の中を天地として、あの
それで、
お角は、机の傍へ寄って見ましたけれど、ドチラを見ても、四角な文字や、優しい文字、とてもお角の眼にも歯にも合わないものばかりです。気象の勝ったお角は、なんだか自分が当てつけられるように感じて、書物を二三冊、あちらこちらにひっくり返すと、ふと、思いがけない絵の本が一つ現われました。
それは極彩色の絵の本で、さまざまの男や女が遊び戯れている、
お角はそれを見ると
「それごらん、お銀様だって、ただの女じゃありませんか」
「おや?」
と言って、さすがのお角がゾッとするほど驚かされました。
それは、絵巻のうちの美しい奥方の一人の
「おお怖い」
その次を展げると、水々しい町家の女房ぶりした女の面が、今度は細い筆の先で、無数の点を打ちつけて、盆の中に黒豆を
あまりのことに
「あんまり、これでは
お角は、この悪戯がお銀様の
いったい、お角はかなり人を食った女で、男も女も、あんまり眼中には置いていない方だが、どうもお銀様という人にばかりは、一目も二目も置かなければ近寄れないような心持で、これまでいるのが不思議でした。
あの呪われた、お銀様の顔が怖ろしいというわけではなく、どうもお銀様の傍へ寄ると、お角は何かに圧えつけられるようで、ほかの男や女のように、
お銀様の応対は、いつも懐中に
お角はその絵本を見ると、お銀様の
離れにいるお絹は、このごろでは、ずっと以前のように切髪に被布の姿で、行い澄ましておりました。
「また、あの女が来たようだから、お前、御苦労だが様子を見て来ておくれ」
と召使の女中に言いつけて出してやりました。そのあとへ、
「
庭先から入り込んで来たのは、前に福兄と言った
「おや、福村さん」
と言って、お絹は愛想よく迎えました。お角に言わせればこの人は福兄で、ここへ来ては福村さんになる。前の時は奴風で、ここではもう若党に早変りしているのが、化物屋敷の化物屋敷たる
若党の福村は座敷へ入って、しきりにお絹と話をしていたが、暫くして、
「これから大将のお
と言って、
お絹は、それを見送っていましたが、やがてハタと障子を締めきって、
「面白くもない」
つんと机に向き直って頬杖をつき、すこぶる不機嫌の
お絹の前で、お角の腕の凄いことを吹聴するのは、つまりお絹の腕のないことをあてこすりに来たとひがまれても仕方がない。イキとハリとになっているのを、福兄が知らないはずはなかろうと思われます。女軽業にしろ、見世物にしろ、女の腕一つで、一旗揚げようというのはともかくエライことでないことはない。そうして切って廻して屋敷へまで吹聴に来られるのを、指を
「忘れた、忘れた、
一旦出て行った福村が後戻りして来たから、何かと思うと煙草入を忘れているのです。なるほど、火鉢の下に転がっているのは、ほんものか
福村は
「済みませんが突き出しておくんなさい、でもその印伝はほんものだから安くねえんだ、ほんものだということで両国橋の太夫元が、おれにくれたんだ、だから、おいらにとってお安くねえ
「持っておいで」
お絹はゲジゲジでも
「おや御新造、いやに荒っぽいんですね」
福村は抛り出された煙草入を、わざと丁寧に拾い上げておしいただく真似をして腰へさし、トットと行ってしまいました。
その晩のことでありました、吉原の
兵馬はこの
兵馬はワザとやり過ごして様子をうかがうと、この覆面の武家の後ろ姿に
兵馬は、あまり不思議だから、非常中の非常手段ではあったが、ワザと近寄ってその武家にカチッと、自分から
武士として鞘当てを受けたのは、果し状をつけられたようなものであるにかかわらず、その武家は知らぬ顔に、人混みに紛れて逃げ去ろうとするのは
到底このままには見過ごし難いから、あとをつけると、
それを見ると兵馬も、同じように駕籠を傭おうと思ったけれど
この駕籠は、竜泉寺方面から下谷を経て、本郷台へ上ります。
本郷も江戸のうちと言われた、かねやすの店どころではなく、加州家も、追分も、駒込も、いっこう頓着なしに進んで行くこの駕籠は、果してどこまで行ってどこへ留まるのだか、ほとほと兵馬にも見当がつかなくなりました。
しかしながら、駕籠は、なおずんずんと進んで行くうちに、左右は物淋しい
とあるお寺の門の前へ来て、はじめて駕籠がハタと留まりました。兵馬も足をとどめて物蔭から遠見にしていると、駕籠賃も
「お待ち下さい」
「エ!」
兵馬に呼びかけられて、覆面の武家は
「お待ち下さい」
と言ってわざと、覆面の刀の
「どなたでございますな」
覆面の武家は、非常なるきょうふに打たれたようですけれども、その言葉は丁寧で、そうして物優しくありましたから、兵馬はかえって自分の挙動の、あまりになめげであることを恥かしく思うようになりました。そのはずです、兵馬に他の目的があればこそ、我から進んでこんな無礼な振舞をしてみようとはするものの、これらの仕打ちは一種の不良少年か、
「お見忘れでござるか、先刻、大門にて
兵馬は心苦しくも、こうして
「あれは人違いでござりまする、
こう言われて、兵馬はまたも取りつく島がありません。こっちから無礼を加えた上に、ここまでついて来て、なお執念深く喧嘩を売りかけようというのだから、もう
「お人違いとあらばぜひもござらぬが、御姓名が承りたい、いずれの御家中でおいでなさるか、それも承りたい」
こう言って突込むと、
「それはお許し下されたい、このままにてお見逃し下されたい」
「いいや、それは相成らぬ」
あまりに兵馬が
利腕を取った時に兵馬も、これはと驚きました。手先を押えられた覆面は、それを振り放そうとしましたけれども、その力がありません。
「どうぞ、お許し下さいませ、このままお見のがし下さいませ」
その声は、
「そなたは御婦人でござるな」
「はい」
もう争うても無益と観念したらしく、覆面の武家は、女としての神妙な白状ぶりであります。
「御婦人の身で、何故にかように男装して、真夜中の道を歩かれまする」
兵馬から尋常に尋ねられて、女はさしてわるびれずに、
「これには深い仔細がござりまする、夫が放蕩者ゆえに、こうして姿を変えて吉原へ入り込み、よそながら夫の身持を見守るためでござりまする」
「ああ、左様でござるか」
兵馬はそれで、いちおう納得しました。
「して、お屋敷は?」
と次に念を押した時に女は、
「それは······」
と言って口籠りました。
「
「御親切に有難うございますが、屋敷には、ちと
その時に、向うの屋敷道に小さく
「御免下さいませ、あの提灯は、あれは」
と言って、
そうしているうちに提灯が、庚申塚の前へ通りかかります。
お供が提灯を持って先に立ち、真中に立派な羽織袴の武士、それにつづいて若党と見ゆる
「あ、悪いな、提灯が消えちまった」
ちょうど、時も時、その庚申塚の前まで来た時に提灯が消えてしまいました。これは別段に風があったというわけでもなく、また物につまずいたというわけでもなく、長い時間とぼされていた
「立つは蝋燭、立たぬは年期、同じ流れの身だけれど······かね」
「もう、提灯は
それは主人の声であるらしい。
「それでも、無提灯で帰るのは景気が悪いですからね、景気をつけて参りましょうよ」
提灯持ちは、火打道具をさぐっているものらしい。
「よせよせ、提灯で足許を見られるような、兄さんとは兄さんが違うんだぞ」
りきみかえっているのは、若党の肥った男であるらしい。
それをやり過ごした兵馬と男装の女とは、庚申塚の蔭から出て来ました。
「どうも不思議だ、今のあの武家は、たしかにあれは神尾主膳に違いない」
兵馬はこう言って、闇に消えて行く三人の後ろ影を見つめて追いかけました。
それからいくらも経たない後、両国の見世物小屋の屋根から高く釣り下げられた
「山神奇童 清澄の茂太郎」
とあります。その見世物小屋というのは、過ぐる時代に、珍らしい印度人の
「安房の国、清澄の茂太郎は、幼い時に父母に別れ、土地の庄屋に引取られ、いろいろと憂き艱難、朝 は山、夕べは磯、木を運んだり汐 を汲んだり、まめまめしく働くうちに、庄屋のお嬢さんに可愛がられ、お嬢さんの頼みで、鋸山は保田山日本寺の、千二百羅漢様の、御首を盗んだばっかりで、お嬢さんと引分けられ、清澄山へと預けられ、そこで修行をするうちに、空を飛ぶ鳥や地に這 う虫、山に棲 む獣と仲良しになり、茂太郎が西といえば西、東と言えば東、前へと言えば前、後ろへと言えば後ろ、泣けといえば泣きもする、笑えといえば笑いもする、芳浜の小島に、生えている美竹 を、笛にこしらえ吹き鳴らす、その笛の音を聞く時は、往 く鳥は翼を納め、鳴く虫は音をしのび、荒い獣も首 を低 れて、茂太郎の傍へと慕い寄る······真紅島田 の十八娘、茂太郎のために願かけて、可愛の可愛のこの美竹」
誰いうとなく、こんな文句が看板に山神奇童とあるから、それは山男の出来損ないのようなものであろうと、誰も最初はそう思っておりましたが、見に来たものは、まず誰でもその意外なのに驚かされないわけにはゆきません。清澄の茂太郎なるものは、まことに
「まあ、
まずこの美少年の美を愛するものは、婦人の客でありました。
「物は磨いてみなけりゃわかりません、あの子が、あんなに綺麗になろうとは、わたしも思ってはいなかった」
お角もこう言って、茂太郎の美しくなったことに眼を見開きました。だから、仲間の女芸人たちが、茂太郎を可愛がることは尋常ではありません。美少年の茂太郎は、楽屋でも可愛がられるが、婦人のお客からも可愛がられます。物好きな婦人客は、わざわざこの美少年を、近所の茶屋に招いて親しく
「まあ、綺麗な子、可愛いのね」
そうして、盃と御祝儀を与えて帰されることも度々ありました。茂太郎は、こんな意味において、日に日に婦人の
両国附近のある酒問屋の後家さんが、ことに茂太郎を
茂太郎が唯一の友というのは、長さ一丈五尺ばかりある一頭の蛇です。
順番になると茂太郎は、この蛇を連れて舞台へ現われて、芳浜の小島の
「お休みなさい」
蛇の持ち上げた鎌首を撫でると、蛇は
茂太郎はありきたりの蛇使いではありません。この子は、子供の時分から蛇に好かれる子でありました。人のいやがる蛇を集めて
ある日のこと、表通りは押返されないほど賑やかだが、人通りもない湿っぽい路次のところから、この軽業小屋の楽屋へ首を出した一人の
「こんにちは」
舞台では盛んに三味線、太鼓の音や、お客の拍手がパチパチと聞えているのに、ここでは案内を頼んでも、出て来る人がありません。
「こんにちは」
二度目に言ってもまだ返事がないから、盲法師は気兼ねをしながら中へ入って来ました。
「おいおい、ここへ入って来ちゃいけねえ、按摩さん、勘違えしちゃいけねえよ」
通りかかった楽屋番が注意を与えると、盲法師は、
「はいはい、あの、こちら様に、清澄の茂太郎がおりますんでございましょうか。おりますんならば、逢いたくってやって参ったものでございますから、お会わせなすって下さるわけには参りますまいか」
「何ですって、茂太郎さんに会いたいんだって? お前さん、何の御用でおいでなすったんだい」
「へえ、別に用というわけでもございませんが、人さんのおっしゃるには、両国のこれこれのところで、清澄の茂太郎が今、大変な評判になっているということでございますから、こうやって会いに参りました」
盲法師は、竹の杖に両手を置いてこういうと、楽屋番は不機嫌な
「そりゃ、茂太郎さんはこちらにいるにはいるんですが、忙がしいから、そうお目にかかれますまいよ」
「そうでございますか、そんなに忙がしいんでは無理にと申すわけには参りませんね。わたくしもね、こちらへ来ては、まだ一度も会わないものでござんすからね、評判を聞くと、どうも会ってみたくて堪らなくなりましたんで、それでこうやって尋ねて参りました、ちょっとでもよいから会って行きたいんですが、そうも参りませんでしょうかね」
「せっかくだが、今日は駄目だよ、また出直しておいでなさいまし」
「それでは、また出直して来ることに致しましょう、茂ちゃんに、そうおっしゃって下さい、弁信が尋ねて来たとおっしゃって下されば直ぐわかります。私もね、あの子が山を逃げると間もなく、山を出てこうやってこの土地へ参りました、ただいまのところでは法恩寺の長屋に厄介になっておりますんですが、ことによると近いうち、
背に負っている琵琶を重そうに、楽屋番の前に頭を下げたのは、例の清澄寺にいた盲法師の弁信でありました。
「ようござんす、そう言いましょう。おっと危ない危ない、突き当ると
楽屋番は出て行く弁信を、後ろから気をつけてやりましたけれど、そのあとで、
「いやに
ぶつぶつ言って、中へ引込んでしまったが、弁信から
清澄の茂太郎が両国へ現われるのと前後して、盲法師の弁信も江戸へ現われました。
ところもあまり遠からぬ法恩寺の長屋に
「祇園精舎 の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹 の花の色、盛者必衰 の理 をあらはす······」
もとよりそれは本格の平家でありましたけれど、どうかすると、しかるべき身分の人が、
「珍らしいな、いま平家を語るものは江戸に十人と有るか無いかだが、その平家を語って、門付けをして歩くのは珍らしい」
と言って珍らしがり、わざわざ自分の屋敷へまで
この頃、両国で茂太郎の評判が高いのを聞き、もしやと思って今日は出がけに、この軽業小屋を訪ねてみましたけれど、楽屋番はすげなく断わってしまいました。すげなく断わられても、大して
で、どこをどう歩いて来たか、その夜になって、もう琵琶を袋へ納めて背中へ廻し、家路に帰ろうとする
「もし、ちょいと」
河岸の柳の蔭から呼ぶものがありました。呼ばれる前に立ってしまった弁信は、
「はい、どなたか私をお呼びになりましたか」
そう言って例の
「ちょいと」
柳の蔭で、声ばかりが聞えます。その声は若い女の声であります。
「お呼びになったのは私のことでございますか、何ぞ私に御用でございますか」
「そんなに四角張らなくってもいいじゃありませんか、遊んでいらっしゃいな」
「エ、私に遊んで行けと言うんでございますか、あなた様のお宅はドチラでございますか」
「何を言ってるんです、こちらへいらっしゃいよ」
「あの、琵琶を御所望でございましょうな」
「琵琶? そんなものは知りませんよ、そんなことはどうだっていいじゃありませんか」
「いいえ、よくはございません、わたくしは琵琶弾きなんでございますよ、眼が不自由なもんでございますからね、それで、琵琶を弾いて、人様からお恵みを受けているような身の上でございます、琵琶も私のは平家でございますから、薩摩や
弁信はこう言って、あらかじめ申しわけをすると、柳の蔭にいた女は笑いこけるように、
「滅多にこんな正直なお方にはぶっつからないのよ。お前さん、もうお帰りのようだが、ドチラへお帰りになるの」
「エエ、私でございますか、私はこれから本所へ帰るんでございますよ、本所の法恩寺の長屋に住んでいる、弁信というものでござんすからね」
「まあ、本所へ帰るの、それじゃ、わたしも少し早いけれど、一緒に帰りましょう」
ずっと前に、宇治山田の米友が、この通りで、同じような女の声で呼び留められたことを御存じの方もございましょう。
柳の蔭から出て来たのは、お蝶と言ったその時の女でございます。
お蝶は、決して醜い女ではありません。もう二十二三になるでしょうか、背がスラリとして色も白く、
「わたしも、本所の
「はい、有難うございます」
お蝶は弁信の案内者になりました。弁信は異議なくその好意を受けて、二人は打連れて淋しい河岸を歩いて行きます。
「弁信さん、あなたは法恩寺様の長屋に、ひとりでいらっしゃるんですか」
「エエ、たった一人でおります、ひとりぼっちでございます」
「御飯の世話なんぞは、誰がしてくれるんです」
「みんな自分でやるんでございます、これから帰ってお茶漬を食べて、それから床を
「眼が不自由で、よくそんなことができますね」
「でも、近所の人様が可愛がって下さる上に、私は御方便に
「それでも、病気の時だとか、洗い洗濯だとかいうことはお困りでしょう、悪くなければ、わたしが時々行って、お世話をして上げるけれども」
「悪いどころじゃあございません、どうかいつでもおいでなすって下さいまし、お
「それでは明日の朝参りましょう」
「どうぞおいで下さいまし。失礼でございますが、あなたのお家は、本所のどちらでございましたかね」
「わたしのところは本所の
「そうでしたか、鐘撞堂新道というのは、わたしのところからそんなに遠い所ではございませんね」
「エ、近いんですよ」
「わたしは、房州の者でございましてね、ほんのツイ近頃この江戸へ参ったものですから、よく案内がわかりませんでございます、それに友達といっても一人も無いんでございますよ。でもね、人様が大へん私を親切にして下さるものですから、そんなに淋しいとは思いませんよ。それに私は、どなたでも人様が好きなんです、何でもいいから人様のためになるようなことばかりして、一生を送って行きたいと思ってるんですよ。そりゃ、出来やしませんよ、なにしろ人間がこの通りでございますし、その上に
「まあ、お前さんはなんという感心な人でしょうね、わたしなんぞも、早くそんな心がけになればいいんですけれど」
「世間のことは、なかなか思うようにはならないものでございますよ。そうして、あなたは鐘撞堂で、何を御商売になすっておいでなさいますね」
弁信はこう言って、お蝶にたずねました。
女は、その返答には困りました。
「そんなことは何だっていいじゃありませんか。それでもね、わたしはお前さんのような人は大好きなのよ」
ともかくも、ちょっと道ばたで行逢った人にしては、あまりになれなれしい物の言い方でありました。しかし、弁信は少しもその相手方を疑うようなことはありません。
「あ、鐘が鳴りましたね、あれは上野の鐘ですね」
弁信がたちどまって、鐘の音に耳を傾けるようでしたが、お蝶にはそれが聞えません。
「あなた、何を言ってるんです、鐘も何も聞えやしないじゃありませんか、上野の鐘がここまで聞えるものですか」
「いいえ、あれは上野の鐘です、ほかの鐘とは
弁信は取合わないで、鐘の音を数えていたが、
「ああ、九ツです、もう九ツになりましたね」
「そうでしょう、もうかれこれ、そんな時分でしょうよ」
それで二人はまた歩き出しました。左は土手、右は
「どうも御苦労さまでございます、私は本所の法恩寺前の長屋に住んでおりまして、弁信と申しまする琵琶弾きでございます、おそくなりましてまことに相済みませんでございます」
こう言って、先方から何も言われない先に弁信は丁寧に名乗って、お辞儀をしてその前を通り過ぎました。お蝶はその馬鹿丁寧をおかしいと思いながらも、
「弁信さん、お前さんは、なんだってあんな馬鹿丁寧に辻番へ挨拶をするんです、第一、番人がいやしないじゃありませんか」
わざとこう言って試してみると、
「いいえ、そんなことはございません、二人おいでになりましたよ、一人の方は番所の中に、一人の方は、たしか棒を持って、私たちを
弁信に
「まあ、なんてお前さんは勘がいいんでしょう」
お蝶は舌を巻いて、暗いところから弁信の
こうして二人は、郡代屋敷のところまで来てしまいました。その時に、盲法師の弁信が、
「あ、あ、あ、あぶない」
杖を以て、前へ出ようとするお蝶を、弁信はあわてて支えました。
「どうしたの」
「いけません、いけません」
弁信は必死に杖を以てお蝶を支えて、一歩も進ませないようにしながら、
「どうしたんですよ」
「誰かいます、行ってはいけません、行くと殺されます」
「エ!」
お蝶は弁信の傍へ、固くなって立ちすくみました。
土手の蔭に、蛇がからみ合っているように、二つの人影が一つになって、よれつ、もつれているのを弁信はむろん見ることができません。お蝶もそれを知るには、まだあまりに遠い距離でありました。
しかしながら、土手の蔭の二つの人影は、からみ合って、そうして、おのおの炎のような息を吐いていることはたしかです。
「お前の歳は幾つだ」
炎のような息を吐きながら、一つの影が上から押しかぶせるように言いました。
「どうぞ御免下さい」
抱きすくめられているのは、やっぱり女の声でありました。
「うむ、歳は幾つだ、それを言え」
大蛇が羊を抱き締めたように、ぐるぐると巻いた、その炎の舌のあるじは、まさに男です。
「十九でございます」
女は息も
「十九······名は何というのだ」
「藤と申します」
「なんで、この夜更けに
「御信心に参りました」
「どこへ行った」
「杉の森の稲荷様へ願がけに参りました」
「何の願がけに」
「それは、兄が病気でございますから」
「その兄は幾つになる」
「あの······
「この夜更けに、
「エ······」
「このごろのような物騒な夜道に、しかもこの淋しい柳原の土手を若い女、たった一人で出かけたのを、お前の親たちは承知か」
「いいえ、誰にも
「そうして、お前は死ぬほどにその男が恋しいのか」
「何をおっしゃるんでございます、どうぞ、お助け下さいまし、ここをお放し下さいまし」
「本当のことを言え」
「それが本当でございます、決して嘘を申し上げるような者ではございません」
「嘘だ、お前は
「いいえ、左様なものではございません」
「淫奔者に違いない」
「あ、何をなさるんでございます、あなたはほんとうに、わたしを殺して||」
女は
「苦しいか」
「く、苦しうございます」
「さあ、もっと苦しがれ」
「死にます、あ、あ、息が絶えてしまいます、死んでしまいます」
「締め殺してくれようか」
「あ、苦しい、苦しい」
「その苦しみを、お前の心中立てする男に、見せてやりたいわい」
「もう、お助け下さい、もうお手向いしませんから、どうぞ命をお助け下さい、この上、あなたは、ほんとうに、わたくしを殺しておしまいなさるんですか、あ、刀を、刀をお抜きになって、それでわたしを殺しておしまいなさるのですか、ああ、いけません、わたくしは、まだほんとうに、殺されたくはございません、生きて、生きていたいのでございます、生きて一目あの人に······生きていなければならないのでございます、もうお手向い致しませんから、その代り、わたくしの命だけはお助け下さいまし、どうなってもようございますから、命だけはお助け下さいまし、あ、あ、あれ||人殺し······」
女はついに悲鳴をあげました。その悲鳴は
石のように立ち尽していた弁信が、その恐怖から
「弁信さん」
お蝶もこの時に、ようやく口を
「弁信さん、お前、何を見ていたの」
「わたしゃ、何も見えやしません、ただ、だまって聞いていました」
「何を聞いていました」
「あすこで人が殺されたのを聞いておりました、女の人がなぶり殺しに殺されるのを、だまって聞いておりました」
「何ですって、女の人が殺された?
「嚇しじゃありません、かわいそうに、ぐっと抱き締められて、その上に刀で幾度も
「ほんとに、そんな気味の悪いことを言うのはよして下さい、そうでなくってさえ、わたしはお前さんに留められてから、何だか
「どうしてまた、私は、あの人を助けて上げられなかったのでしょう」
「あの人だなんて、誰のことなんですよ、誰もいやしないじゃありませんか」
「あ、そうでしたか、お蝶さん、お前さんにはあの声が聞えませんでしたね」
「わたしにゃ、なんにも聞えやしませんよ」
「なぜ、私はあの時に、大きな声をして呼んで上げなかったんだろう、あの人が、あんなに
「ほんとに何を言ってるんでしょうね、弁信さん、お前さんの言うことが、まだわたしにはサッパリわからない」
「私も私で、いよいよ自分の心持がわからなくなってしまいました、ただ、ああして虐まれて若い女の人がなぶり殺しに遭っているのを、遠くに離れて聞きながら、私はそれを助けて上げようとしないで、何かの力ですくめられて、その音を聞いている間、私もかえっていい心持のようになって、しまいまでだまってそれを聞いていた自分の心持が、自分でわかりません」
「なんだか、私はぞくぞくと凄くなってきましたよ、弁信さん、お前さんのその
「ああ、わたしもどうしていいか、わからない、今までわたしは、こんな心持になったことはありませんから」
「早く帰りましょうよ、早く本所へ帰ってしまいましょうよ」
この時に行手の方で、
「今、人殺しと言ったなあ、たしかにここいらだぜ、おいらの
こう言って駈けて来る人は一人だが、その後ろに附添って、真黒い大きな犬が一頭。
「ムク、ここいらだぜ」
その声こそは
「人殺しと言ったのは、ここいらなんだ、だからおかしいと思ったんだ」
彼は今、どこにいるのか知らん。先日も両国橋の上へ姿を現わしたところを以て見れば、やはりあの

「ああ、いた、いた」
米友は闇の中に
「女だ!」
米友が叫びました。
「若い女だ、あだっぽい女だ」
提灯を突きつけている辻番が驚く。
「まあ、かわいそうに」
お蝶は、さすがに眼をそむけてしまいます。
「
「左様、ほかには疵らしいものはないようだ、確かに突いて抉ったものだが、刃物は槍か、刀か」
「無論、槍傷ではない刀傷だ、してみると試し斬りではなく、遺恨だろう」
「左様、恋の恨みでこうなったものらしい」
「して、女の
「左様、しかるべき町家の娘だな。おい姉さん、お前さん、ちょっとこの着物を見てくれないか」
辻番は提灯を振向けて、眼をそむけて
「ちょっと見てくれ、着物の
「どうしたらいいでしょう、わたしは怖くって······」
お蝶は慄えながら、それでも再び屍骸の傍へ寄って来て、
「京お召でございます、
お蝶はようやく着物の縞目だけを見て、こう言いました。
「なるほど」
辻番の一人は、矢立と紙を出して、お蝶の
「帯は茶の
「それから?」
「羽織は
「なるほど、そうして髪は島田、
二人の辻番は、改めて米友、弁信、お蝶三人の者を
「三人のなかで、誰がいちばん先にこの死骸を見つけなすった。いやまあ、
そこへ、また一人の辻番が、
「エライことが出来たなあ」
菰を女の屍骸へうちかけて、
「好い女だなあ、恋の恨みだろうか。いったい、ここでやっつけたのか、殺してここへ持って来たのか」
菰をかぶせてしまうのを惜しそうに、その屍骸を見比べていると、
「エエ、それは殺してここへ運んで参ったのではございません、あの土手の上で、なぶり殺しにして置いて逃げました、殺した人は男には違いありませんけれども、決して恋の恨みではございません、殺したくって、殺したくって、
突然にこう言い出したのは、人数の後ろに超然として、見えない眼をみはっていた弁信であります。
「エ、お前はそれを見ていたのかい」
辻番もその他の者も驚きました。弁信の言い分があまりに突然であったから、辻番らは
「
「鐘撞堂新道、相模屋方、友造」
米友はこう言って名乗りました。
「お前はこの夜更けに何用があって、こんなところへ通りかかった」
「エエ、それは、人を迎えに来て······」
米友が少々
「わたしの帰りが遅いから、それでこの人が迎えに来てくれたのでございます」
そこで検視の役人は、お蝶と弁信をしりめにかけ、
「お前たちはまた何しに、こんな夜更けにここへ通りかかったのだ」
「エエ、それは······」
お蝶も、その返事に少し口籠ったが、そこは米友よりも
「この人のお帰りを送って参りましたものでございます、ごらんの通り、この人は眼が不自由なものでございますから」
「お前はどこのものだ」
検視の役人は改めて、盲法師の弁信に問いかけます。弁信は例の通り泣きそうな
「私は本所の法恩寺の長屋におりまする弁信と申して、こうして毎夜毎夜琵琶を弾いて市中を歩いている者でございます、琵琶は平家の真似事を致すんでございます、生れは房州の者でございまして、ついこのごろ、江戸へ出て参ったんでございますから、地理も不案内でございまして······」
「よろしい」
なお弁信が何事か言おうとするのを、役人は打切って、米友の方に向い、
「友造とやら、もう一度、お前がこの死人を見つけ出した
「それは、前に申し上げた通りなんだ、人殺し||という声が聞えたから、それで飛んで来て見ると、この通りなんだ、そのほかには何もいっこう知らねえ」
「それで、その人殺しという声のした時に、怪しい者の逃げて行く影をみとめたということもないのか」
「
米友が頭を左右に振って、
「その人は、確かに向うへ逃げました、この人をなぶり殺しにしておいて、そっと忍び足で両国の方へ||矢の倉というんでございますね、あちらの方へ逃げてしまいました」
「ナニ、矢の倉の方へ逃げた? それをお前は見たのか、お前は
検視の役人は、容易ならぬ眼つきで弁信をながめました。附添いの者は、やはり
「はい、ごらんの通り盲人でございますから、勘がよろしうございますから、それがわかりましたのでございます。こうして抱き締めて、苦しがっているところを刀を抜いて、一突きに突いて、なぶり殺しにしていたところが、私には、はっきりとわかりました」
「ナニ、お前は、いよいよ不思議なことを言う盲人だ」
検視の役人は米友の訊問を打捨てて、弁信の
「私にも、あの時の心持が自分ながら不思議でなりませぬ、ナゼ、それと知ってあの時に、大きな声をして、あの人を驚かしてやらなかったのか、その心持がどうしてもわかりませんのでございます」
「いよいよ以て、お前は不思議なことをいう盲人だ、お前のその勘で見たことを、
「ヘエ、申し上げましょう、お笑いになってはいけません、私の勘のいいことは、初めての人様はみんな本当になさらないことが多いんですから、どうぞ笑わないでお聞き下さいまし。それはこんなわけでございます、殺されたその女の方は、この近処の稲荷様へ願がけに参ったものらしうございますね、その帰りをあの悪者が待ち受けていたものでございます、そうして通りかかったところを柳の蔭から出て、ぐっとこうして
弁信が順を
「あっつ、ムクがいねえ、ムクがどこかへ行ってしまった」
いまさらに気がついて、再び地団駄を踏みました。
その翌朝になって、弁信、お蝶、米友の三人ともに、役所から許されて帰ることになりました。
一旦、
「どうも、わからねえ」
その
「わからねえ、わからねえ」
やがて
「やあ、ムク、ここにいたのか」
「ムク、
米友はムク犬の頭を撫でてやりました。ムク犬は米友に従って薬師堂の裏手へ廻ると、そこで米友がピタリと足を留め、
「なるほど、この
板塀の上から枝を出した百日紅の樹を、しきりに
「だが、やっぱり、わからねえことは、わからねえ」
米友は、百日紅の枝を仰ぎながら、ここまで来ても、やっぱり思案に暮れて、いよいよその
実際、このごろ中は、米友の頭では解釈しきれないことが起っているに相違ないのです。それで米友はこのごろ中、毎晩のように、夜中になると
「ちぇッ、また出し抜かれたな」
という表情で、或る時は町家の軒下をくぐり、或る時は屋根の上を躍り越えたりして、深夜の市中を走ります。たしかに、何者かを
「ちぇッ」
舌を鳴らして額の
昨夜||むしろ今暁のことは例外でありました。今まで、そうして深夜に物を追蒐けて出ても、その当の目的とするものを何もつかまえては帰らなかったように、自分も、夜番にも、辻番にも、
しかし、それは、鐘撞堂新道の相模屋の雇人であるということで、お蝶の巧妙な証明も役に立って無事に釈放されて、今になって帰っては来たものの、昨夜、家を飛び出した時の要領は、依然としてその要領を得ないで帰っては、
その時に、板塀の中で
長屋の裏庭の井戸ばたで、水を汲んで
「ふーん」
それを節穴から覗いた米友は、やっぱり
手拭で面を拭いてしまった竜之助は、その手拭を腰にはさんで、
「ふーン、ばかにしてやがる」
米友がその後ろ姿に冷笑を浴びせている間に、竜之助は縁側まで行くと、そこへ
「あいつは幽霊じゃねえのか知ら、どうもわからねえ」
そんな、やつやつしい姿で縁側のところまで辿りついた竜之助は、そこへ両刀をそっとさしおいて、日当りのよいところの縁側へ腰をかけました。だから、ちょうど、米友の覗いている節穴からは正面にその姿を見ることができます。その
「おや?」
この時に、また米友を驚かせたものがあります。それは、今まで自分の身の
ムクが近寄ると、竜之助がその手を伸べて頭のあたりを探って撫でてやると、ムクは、ちゃんと両足を揃えて、竜之助の傍へ
竜之助は何か言って犬の頭へ手を置いて、犬と一緒に仲よく日向ぼっこをしている
これは米友にとっては、非常なる驚異でありました。ムクは、そうやすやすと一面識の人に
米友は何か知らん、胸騒ぎがしました。じっとしていられないほどに
「誰だ、いたずらをするのは」
「おいらだ、おいらだ」
米友は
「ムク」
そのあとで、
「お前は家へ帰れ」
そう言ってから、いま竜之助があけて入った障子を細目にあけて、
「おい先生、どうしてるんだ、寝てしまったのかい」
それでも返事がないからズカズカと上って行きました。それで枕屏風の上から中を覗き込んで、
「おい先生、お前、
その言葉は、米友としても
「どこへも行かない」
「冗談いっちゃいけない、今度という今度こそは、すっかり
「そんなことがあるものか」
「ねえとは言わせねえ。驚いちゃったよ、その身体でお前が毎晩、辻斬に出るというんだから。初めは、どうも本気になれなかったんだが、昨夜という昨夜は驚かされちまった」
「誰がそんなことを言った」
「誰が||
「友造、お前の了見というのは、そりゃどういう了見なのだ」
「どういう了見だってお前、無暗に人殺しをする奴は、そのままには置けねえじゃねえか」
「そのままに置けなければどうするのだ」
「ちぇッ」
米友は舌打ちをして、足を二つ三つ踏み鳴らしてから、
「
この時も、その持っていた手槍で、
「友造、友造どん」
「何だ」
「お前は先年、甲府にいたことがあるだろうな」
「何を言ってるんだ、甲州へ行っていたことはあるよ」
「その時な」
「うん」
「ある晩のことだ」
「なるほど」
「正月のことだったろうな、寒い晩だ、それに怖ろしく霧の深かった晩なのだ、その晩に甲府の城下に、破牢のあったのを知ってるだろうな、牢破りの」
「知ってる、知ってる、それがどうしたんだ」
「その晩に、お前は甲府の町を、その手槍を担いで一文字に飛び歩いていたろう」
「それに違えねえ」
「その時だ||その時に、お前は命拾いをしているのを忘れやすまいな」
「命拾い? 命拾い?」
米友は、そう言われて仔細らしく小首を傾けたが、ハタと自分の
「うむ、あれか」
「友造どん、あの時から、わしはお前を知っている」
こう言われた時に、米友が再び躍り上って、
「この野郎!」
と
「やい、起きてくれ、起きてくれ、ももんじいを煮て酒を飲ませるから、起きてくれ」
机竜之助は
ももんじいと酒とで、米友が誘惑を試みようとしても、起きる
「友造どん、甲府でやった辻斬も、このごろ出歩いてやる辻斬も、みんな拙者の
「冗談じゃない」
米友は眼を円くして、
「恩に
と言いながら、米友は枕屏風の上から、そろそろと竜之助の
「おっと、危ない」
竜之助は寝ていながら、その片手を伸べて、枕許の刀を押えました。
「おい、先生」
「何だ」
「起きてくれ」
米友は蒲団の上から、寝ている竜之助をゆすぶりました。
「聞きてえことがあるんだから起きてくれ、
米友はこう言って、竜之助の枕許で腕組みをしました。
「済まない、友造どん、お前にはなんとも済まないことだが、筋が立つの立たぬのというたちの仕事ではないので、拙者というものは、もう
竜之助は寝返りも打たないで、
「うーむ」
枕許に腕を組んでいた宇治山田の米友が、それを聞いて深い息をして
「友造どん、お前の槍の手筋はどこで習ったか知らないが、まるで格外れで、それで、ちゃんと格に合っているところが妙だわい。拙者の如きは、これでも幼少より正式に剣を学んだのじゃ、先祖以来の剣道の家に生れて、父と言い、師と言い、由緒の正しいものだ。拙者だけは破格だ、師に就いたけれども師がない、型を出でたけれども型が無い、一生を剣に呪われたものかも知れぬ、生涯、真の
竜之助は平然として、こんなことを言い出したが、今日はその述懐に、多少の感慨があるようです。