一
たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の
「お父さまは?」
庭で遊んでいた七つの長女が、お勝手口のバケツで足を洗いながら、無心に私にたずねます。この子は、母よりも父のほうをよけいに
「お寺へ。」
口から出まかせに、いい加減の返事をして、そうして、言ってしまってから、何だかとんでも無い不吉な事を言ったような気がして、
「お寺へ? 何しに?」
「お
「そう? 早く帰って来るかしら。」
「さあ、どうでしょうね。マサ子が、おとなしくしていたら、早くお帰りになるかも知れないわ。」
とは言ったが、しかし、あのご様子では、今夜も外泊にきまっています。
マサ子はお勝手にあがって、それから三畳間へ行き、三畳間の
「お母さま、マサ子のお豆に花が咲いているわ。」
と
「どれどれ、あら、ほんとう。いまに、お豆がたくさん
玄関のわきに、十
おちぶれ。わびしさ。いいえ、それはもう、いまの日本では、私たちに限った事でなく、
私の夫は、神田の、かなり有名な或る雑誌社に十年ちかく勤めていました。そうして八年前に私と、平凡な見合い結婚をして、もうその頃から既にそろそろ東京では貸家が少くなり、中央線に沿った郊外の、しかも畑の中の一軒家みたいな、この小さい貸家をやっと捜し当て、それから大戦争まで、ずっとここに住んでいたのです。
夫はからだが弱いので、召集からも徴用からものがれ、無事に毎日、雑誌社に通勤していたのですが、戦争がはげしくなって、私たちの住んでいるこの郊外の町に、飛行機の製作工場などがあるおかげで、家のすぐ近くにもひんぴんと爆弾が降って来て、とうとう或る夜、裏の
けれども、私たちが青森市に疎開して、四箇月も経たぬうちに、かえって青森市が空襲を受けて全焼し、私たちがたいへんな苦労をして青森市へ持ち運んだ荷物全部を焼失してしまい、それこそ着のみ着のままのみじめな姿で、青森市の焼け残った知合いの家へ行って、地獄の夢を見ている思いでただまごついて、十日ほどやっかいになっているうちに、日本の無条件降伏という事になり、私は夫のいる東京が恋いしくて、二人の子供を連れ、ほとんど
雑誌社は
よい夫、やさしい夫でした。お酒は、日本酒なら一合、ビイルなら一本やっとくらいのところで、煙草は吸いますが、それも配給の煙草で間に合う程度で、結婚してもう十年ちかくなるのに、その間いちども私をぶったり、また口汚くののしったりなさった事はありませんでした。たったいちど、夫のところへお客様がおいでになっていた時、いまのマサ子が三つくらいの頃でしたかしら、お客様のところへ
(変ったお方になってしまった。いったい、いつ頃から、あの事がはじまったのだろう。疎開先の青森から引き上げて来て、四箇月
どうせお帰りにならない夫の蒲団を、マサ子の蒲団と並べて敷いて、それから
二
「暑かったでしょう? はだかになったら? けさ、お盆の特配で、ビイルが二本配給になったの。ひやして置きましたけど、お飲みになりますか?」
夫はおどおどして気弱く笑い、
「そいつは、
と声さえかすれて、
「お母さんと一本ずつ飲みましょうか。」
見え透いた、
「お相手をしますわ。」
私の死んだ父が大酒家で、そのせいか私は、夫よりもお酒が強いくらいなのです。結婚したばかりの頃、夫と二人で新宿を歩いて、おでんやなどにはいり、お酒を飲んでも、夫はすぐ真赤になってだめになりますが、私は一向になんとも無く、ただすこし、どういうわけか耳鳴りみたいなものを感ずるだけでした。
三畳間で、子供たちは、ごはん、夫は、はだかで、そうして
「昼の酒は、酔うねえ。」
「あら、ほんとう、からだじゅう、まっかですわ。」
その時ちらと、私は、見ました。夫の
「マサ子も、お父さまとご一緒だと、パンパがおいしいようね。」
と冗談めかして言ってみましたが、何だかそれも夫への皮肉みたいに響いて、かえってへんに白々しくなり、私の苦しさも極度に達して来た時、突然、お隣りのラジオがフランスの国歌をはじめまして、夫はそれに耳を傾け、
「ああ、そうか、きょうは
とひとりごとのようにおっしゃって、
「七月十四日、この日はね、革命、······」
と言いかけて、ふっと言葉がとぎれて、見ると、夫は口をゆがめ、眼に涙が光って、泣きたいのをこらえている顔でした。それから、ほとんど涙声になって、
「バスチーユのね、牢獄を攻撃してね、民衆がね、あちらからもこちらからも立ち上って、それ以来、フランスの、春こうろうの花の宴が永遠に、永遠にだよ、永遠に失われる事になったのだけどね、でも、破壊しなければいけなかったんだ、永遠に新秩序の、新道徳の再建が出来ない事がわかっていながらも、それでも、破壊しなければいけなかったんだ、革命いまだ成らず、と
フランスの国歌は、なおつづき、夫は話しながら泣いてしまって、それから、てれくさそうに、無理にふふんと笑って見せて、
「こりゃ、どうも、お父さんは泣き
と言い、顔をそむけて立ち、お勝手へ行って水で顔を洗いながら、
「どうも、いかん。酔いすぎた。フランス革命で泣いちゃった。すこし寝るよ。」
とおっしゃって、六畳間へ行き、それっきりひっそりとなってしまいましたが、身をもんで忍び泣いているに違いございません。
夫は、革命のために泣いたのではありません。いいえ、でも、フランスに
女房のふところには
鬼が
あああ
とかいうような悲歎には、革命思想も破壊思想も、なんの
二夜くらいつづけて外泊すると、さすがに夫も、一夜は自分のうちに寝ます。夕食がすんでから夫は、子供たちと縁側で遊び、子供たちにさえ卑屈なおあいそみたいな事を言い、ことし生れた一ばん下の女の子をへたな手つきで抱き上げて、
「ふとっていまチねえ、べっぴんちゃんでチねえ。」
とほめて、私がつい何の気なしに、
「可愛いでしょう? 子供を見てると、ながいきしたいとお思いにならない?」
と言ったら、夫は急に妙な顔になって、
「うむ。」
と苦しそうな返事をなさったので、私は、はっとして、冷汗の出る思いでした。
うちで寝る時は、夫は、八時頃にもう、六畳間にご自分の蒲団とマサ子の蒲団を敷いて蚊帳を吊り、もすこしお父さまと遊んでいたいらしいマサ子の服を無理にぬがせてお寝巻に着換えさせてやって寝かせ、ご自分もおやすみになって電燈を消し、それっきりなのです。
私は隣りの四畳半に長男と次女を寝かせ、それから十一時頃まで針仕事をして、それから蚊帳を吊って長男と次女の間に「川」の字ではなく「小」の字になってやすみます。
ねむられないのです。隣室の夫も、ねむられない様子で、溜息が聞え、私も思わず溜息をつき、また、あのおさんの、
女房のふところには
鬼が
あああ
とかいう嘆きの歌が思い出され、夫が起きて私の部屋へやって来て、私はからだを固くしましたが、夫は、
「あの、睡眠剤が無かったかしら。」
「ございましたけど、あたし、ゆうべ飲んでしまいましたわ。ちっとも、ききませんでしたの。」
「飲みすぎるとかえってきかないんです。六錠くらいがちょうどいいんです。」
三
毎日、毎日、暑い日が続きました。私は、暑さと、それから心配のために、食べものが
「いっそ発狂しちゃったら、気が楽だ。」
と言いました。
「あたしも、そうよ。」
「正しいひとは、苦しい
「いいえ、鈍感なんですのよ、あたしなんかは。ただ、······」
「ただ?」
夫は、本当に狂ったひとのような、へんな目つきで私の顔を見ました。私は口ごもり、ああ、言えない、具体的な事は、おそろしくて、何も言えない。
「ただね、あなたがお苦しそうだと、あたしも苦しいの。」
「なんだ、つまらない。」
と、夫は、ほっとしたように
その時、ふっと私は、
その夜おそく、私は夫の
「いいのよ、いいのよ。なんとも思ってやしないわよ。」
と言って、倒れますと、夫はかすれた声で、
「エキスキュウズ、ミイ。」
と冗談めかして言って、起きて、床の上にあぐらをかき、
「ドンマイ、ドンマイ。」
夏の月が、その夜は満月でしたが、その月光が雨戸の破れ目から細い銀線になって四、五本、蚊帳の中にさし込んで来て、夫の
「でも、お痩せになりましたわ。」
私も、笑って、冗談めかしてそう言って、床の上に起き直りました。
「君だって、痩せたようだぜ。余計な心配をするから、そうなります。」
「いいえ、だからそう言ったじゃないの。なんとも思ってやしないわよ、って。いいのよ、あたしは
と言って私が笑うと、夫も月光を浴びた白い歯を見せて笑いました。私の小さい頃に死んだ私の里の祖父母は、よく夫婦
私がその時それを言ったら、夫はやはり笑いましたが、しかし、すぐにまじめな顔になって、
「大事にしているつもりなんだがね。風にも当てず、大事にしているつもりなんだ。君は、本当にいいひとなんだ。つまらない事を気にかけず、ちゃんとプライドを持って、落ちついていなさいよ。僕はいつでも、君の事ばかり思っているんだ。その点に
といやにあらたまったみたいな、興ざめた事を言い出すので、私はひどく
「でも、あなた、お変りになったわよ。」
と顔を伏せて小声で言いました。
(私は、あなたに、いっそ思われていないほうが、あなたにきらわれ、憎まれていたほうが、かえって気持がさっぱりしてたすかるのです。私の事をそれほど思って下さりながら、他のひとを抱きしめているあなたの姿が、私を地獄につき落してしまうのです。
男のひとは、妻をいつも思っている事が道徳的だと感ちがいしているのではないでしょうか。他にすきなひとが出来ても、おのれの妻を忘れないというのは、いい事だ、良心的だ、男はつねにそのようでなければならない、とでも思い込んでいるのではないでしょうか。そうして、他のひとを愛しはじめると、妻の前で
夫は、力無い声で笑い、
「変るもんか。変りやしないさ。ただもうこの頃は暑いんだ。暑くてかなわない。夏は、どうも、エキスキュウズ、ミイだ。」
とりつくしまも無いので、私も、少し笑い、
「にくいひと。」
と言って、夫をぶつ
でも、私は、それだけでも夫に甘えて、話をして笑い合う事が出来たのがうれしく、胸のしこりも、少し溶けたような気持で、その夜は、久しぶりに朝まで寝ぐるしい思いをせずにとろとろと眠れました。
これからは、何でもこの調子で、軽く夫に甘えて、冗談を言い、ごまかしだって何だってかまわない、正しい態度で無くったってかまわない、そんな、道徳なんてどうだっていい、ただ少しでも、しばらくでも、気持の楽な生き方をしたい、一時間でも二時間でもたのしかったらそれでいいのだ、という考えに変って、夫をつねったりして、家の中に高い笑い声もしばしば起るようになった矢先、
「頭がいたくてね、
そのひとから逃げたくなって、旅に出るのかしら、とふと私は考えました。
「お
と私は笑いながら、(ああ、悲しいひとたちは、よく笑う)そう言いますと、
「強盗に申し上げたらいいさ、あたしの亭主は気違いですよ、って。ピストル強盗も、気違いには、かなわないだろう。」
旅に反対する理由もありませんでしたので、私は夫のよそゆきの
私は青白くなった気持で、
「無いわ。どうしたのでしょう。
「売ったんだ。」
夫は泣きべそに似た笑い顔をつくって、そう言いました。
私は、ぎょっとしましたが、しいて平気を
「まあ、素早い。」
「そこが、ピストル強盗よりも
その女のひとのために、
「それじゃ、何を着ていらっしゃるの?」
「
朝に言い出し、お昼にはもう出発ということになりました。一刻も早く、家から出て行きたい様子でしたが、炎天つづきの東京にめずらしくその日、
「さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら。」
と
玄関の前の
「そうなんでしょうね。」
私もぼんやり答えました。
それが、夫と交した最後の夫婦らしい親しい会話でございました。
雨がやんで、夫は逃げるようにそそくさと出かけ、それから三日後に、あの諏訪湖心中の記事が新聞に小さく出ました。
それから、諏訪の宿から出した夫の手紙も私は、受取りました。
「自分がこの女の人と死ぬのは、恋のためではない。自分は、ジャーナリストである。ジャーナリストは、人に革命やら破壊やらをそそのかして置きながら、いつも自分はするりとそこから逃げて汗などを拭いている。実に奇怪な生き物である。現代の悪魔である。自分はその自己嫌悪に
などと、本当につまらない馬鹿げた事が、その手紙に書かれていました。男の人って、死ぬる
夫のお友達の方から
革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命家を、私は信用いたしません。夫はどうしてその女のひとを、もっと公然とたのしく愛して、妻の私までたのしくなるように愛してやる事が出来なかったのでしょう。地獄の思いの恋などは、ご当人の苦しさも格別でしょうが、だいいち、はためいわくです。
気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。自分の妻に対する気持一つ変える事が出来ず、革命の十字架もすさまじいと、三人の子供を連れて、夫の死骸を引取りに諏訪へ行く汽車の中で、悲しみとか怒りとかいう思いよりも、