ヒマラヤ
このふしぎな物語は旅客機ヤヨイ号が、ヒマラヤ山脈中に
このヤヨイ号には、ある特別な用事をおびて、ヨーロッパへわたる
世界地図をひろげてみるとわかるが、日本からヨーロッパへとぶには、どうしても、ヒマラヤ山脈にぶつかるのであった。ヤヨイ号は、
インドの上をとぶことができれば、
山脈中の
「ここから見ていると、地球全体が、雪におおわれているようですね」
道彦が、窓ガラスから外を見下して、かん心して言った。
「ああ、そうだね」
こたえたのは、木谷博士だった。博士は、部厚い本のページを開いて、しきりに読みつづけている。前の席の背中が、小さいたなになっていて、そのうえにフラスコがおいてある。フラスコの口から、かすかに
「写真で見た北極の氷原とは、だいぶんちがったけしきですね」
「それは、ちがうよ。北極の氷原は、こんなにでこぼこしていない。もっとも氷山はあるが、山脈の感じとはちがうよ。おおあそこに最高峰のエベレストの頭が見えるな」
「どれです。エベレストは······」
「ほら、あそこだ。あそこに灰色がかった雲があるが、あの雲から頭を出している」
と、いった博士は、どうしたのか、そこでまゆをひそめて、窓ガラスのところへ、ひたいをすりつけ、
「······あの雲は、いやな雲だなあ。ほう、風が出てきたらしい。雲がうずまいて、うごきだしたぞ」
と、しんぱいそうである。
「先生、すると、空はあれますか」
「うむ、
そばに、高度計がかかっていたが、その指針は、生きもののように、ぐるぐるうごきだした。さっきまでは高度八千のところを指していたのが、八千五百になり、九千になり、そしてまだその上になっていく。しゅうしゅうと、酸素が室内へおくられはじめた。おしよせる雲のうえに、うまく出られればいいが······。
しかし、ついにいやな運命がやってきた。
「先生、エンジンの音がへんですね。そう思いませんか」
ヤヨイ号には、四つの発動機がついて、さっきまでは、ゴーンゴーンとこころよい
雲は、いつしか機のまわりをとりかこんでいた。そして
「これはいかん。山にぶつからなければいいが······」
と、ひごろおちついた木谷博士が、しんぱいそうに席から腰をあげた。そのしゅんかん、機は、ものすごい音をたてた。そして人々は、あっという間に、てんじょうにほうりあげられた。
「
道彦の耳に、だれかの声がはいったが、彼は、その後のことをよくおぼえていない。
道彦が気がついたときは、彼は、くらやみの中にいた。ガソリンの、たまらない
「おお道彦か。気がついたらしいな。どうじゃ、気分は、どこか
くらやみの声は、
「あっ、先生、ぼくは、大丈夫です。しかし、からだがうごきません」
「そうか。お前のからだが冷えないように、ありったけの毛布でくるんであるんだ」
「ああ、そうですか。||飛行機は、ついらくしたんですね」
「うむ、山の
「みなさんは、どうしました」
「······む」
博士は、しばらくうなっていたが、
「かなり、ひどいけがをした。が、まあ、そのことに気をつかわないのがいい。とにかく、お前が大丈夫なら、こんな幸いなことがない。
博士は、やさしいうちに、道彦を力づけた。そして彼の口にぷーんといい匂いのする
「先生、夜が明けてきました」
博士は、横の座席で、これも毛布をうんとからだにまきつけ、だるまさんのようなかっこうになってねむっているようであった。
「先生、先生!」
道彦は、博士をよんだ。しかし博士は、それにこたえなかった。
道彦は、立ちあがって、博士をゆりおこしにかかった。だがそれはむだであった。博士は、こんこんとしてねむっていた。
「······もしや、先生は、死にかかっていられるのではないかしら。そうだとすると、だれかをよんで、なんとかして助けなくては······」
道彦は、明かるくなった機内を見まわしたが、ふしぎにも、博士のほかにはだれもいなかった。
「みんな、どうしたのであろうか」
彼は、通路をあるいていった。通路の正面の
道彦はびっくりしたが、しいて気をおちつけ、雪のうえに下りた。すると、機から十メートルばかりへだったところに、テントが、
テントをめくって、その下を見る必要はない。道彦は、急に頭が、ふらふらとしてきたが、こんなことで、よわい気を出してはならないと思い、げんこをかためると、われとわがあたまをがーんとなぐりつけた。
(······生き残ったのは、先生と自分だけらしいようだ。いや、先生も、このままにしておけば死んでしまうぞ)
道彦はしっかりしなくてはならないと、自分の心をはげました。なんとかして、先生をたすけること、それから、この
太陽は山のはしからのぼって、雪山一たいをぎらぎらとてりつける。道彦は、かたい雪のうえを、いくたびかすべりそうになって、それでもやっとがけのふちまで、たどりついた。そして、谷の方を、おそるおそる見下ろしたのであった。
雪のほかに、何一つ見えない
それでも道彦は、のぞみをすてなかった。
すると、だしぬけに、彼のうしろで、声をかけた者があった。
「おい、お前さん。わしに、力を貸してくれないか」
そういった声は、聞きなれない外国語であった。
現われた
「えっ」
道彦は、おもいがけない外国語でよびかけられ、びっくりして、うしろをふりむいた。すると、そこには、いようななりをした大男が、ぬっと立っていた。
「君は、だれ?」
道彦は、といかえした。
毛のふかふかとしたながい毛皮でもあろうかと思うもので、頭の先から足の先までをつつみ、そして顔も、きらきら光る目だけを出したその大男であった。もし彼が、ことばをしゃべらなかったら、ゴリラとまちがえたかもしれない。
「わしか。わしは、氷の中から出てきた人間だ」
「氷の中から出てきた人間?」
「そうだ。あのおそろしい
その
これをむずかしくいうと、第四期の
「石器時代の人間だって、うそだろう。二十万年も前の人間が生きているはずはないよ」
「いや、ちゃんとこうして生きているから、たしかではないか。||それよりも、ききたいのは、お前は、どこの人間か」
「ぼくたちかい。ぼくたちは、日本人さ」
「日本人? きいたことがないなあ」
怪人は首をかしげた。
「あれは一体なんだ。大きな音をたてて、空から落ちたが、お前たちの国は、空の上にあるのか」
「日本は、やはりこの地球のうえにあるが、ずっと東の方だ」
と、道彦は、はるかに日本の方をさして、
「しかし、われわれは空をとぶことができるのだ」
「空をとぶのは、鳥だ。鳥にのって、空をとぶとは、おどろいた」
「鳥ではない。飛行機という器械だ。われわれ人間が発明した器械だ」
といってやったが、その怪人には、器械ということがなかなかのみこめなかった。そこで道彦も、怪人が、今日の科学の発達を知らない人間であることをさとったが、それでもまだ、二十万年前の人間だとは考えられなかったので、
「ねえ、ほんとうに、氷河期を知っているのなら、そのときのことを話してみたまえ」
というと、かの怪人は、うなずいて、
「あれは、まったくおそろしかったよ。大空から、月が下がってきたのだ。月が下がってきてだんだん大きくなった」
「月が大きくなるって、どんなこと」
「あの小さい月のことだよ。それがだんだん下におりてきて、大きい月よりも、ずっと大きくなったのさ」
「ちょっと待った。話をきいていると、それは火星のことじゃないの。火星には、月が二つあるが、われらの地球には、月が一つしかないじゃないか」
「あれっ、あんなことをいってらあ」
と、その怪人は、あきれたように道彦をながめ、
「君は知らないのだろうか。わしは、この地球に、二つの月があったことを、ちゃんと知っている。今話しているのは、その小さい月がなくなって、大きい月だけがのこるという話さ」
怪人はじつにへんなことをいいだした。
おそろしき
「信じられないなあ。地球に月が二つあって、その一つがなくなったなんて」
と、道彦は、いいかえした。
「だって、月が一つなくなったればこそ、地球の上が氷でもって
ふしぎな話であった。そんなことがあっていいものか。
怪人は、ことばをついで、
「その小さい月が、だんだん下に下りてきてよ、とうとうしまいには、海の水にたたかれるようになったのさ。わしも、それは見たがね。すごい
「え、ほんとうかね」
「知らない者には、そのものすごさが、わからないよ。そして下がってきた月は、浪に洗われるんだ。そして、そんなことがくりかえされているうちに、小さい月は、浪のため、けずりとられ、こなごなの灰となって、空中にとびちった。その灰がたいへんな量だ。空は、その灰のためまっ赤になり、やがてだんだんまっ黒になっていった」
怪人は、空を見あげながら、そのときを思い出してか、おそろしさに肩をふるわせ、
「······はじめは、赤く見えていた太陽も、だんだん空中にひろがるものすごい月のかけらの
怪人は、両手で、われとわが胸をしめつけた。
「······われら一部のモリアン族は、はやくも先を見とおし、さっきもいったように
道彦の眼は、いつしか熱心にかがやいて、怪人の顔を見つめていた。二十万年前の人類が、どうして今、生きているかふしぎでならないけれど、この怪人の
「さっき、氷から出てきたといったが、氷の中に
道彦がたずねた。
「そうだ。そんなに用心していたが、だんだんと、寒さが上から下にさがってきて、
「まさかねえ」
「君は、わしのいうことを信用しないと見える。じゃあ、わしが氷に閉じこめられていたところへあんないしてやろう。そこには、まだわしのからだのかっこうがついているくぼんだ氷があるから、それを見ればほんとうにするだろう。さあ、行ってみよう」
道彦はまさかと思ったが、怪人が、あまり熱心にすすめるものだから、一しょにいくことにした。怪人は先に立って、たくみに氷の
「ほら、もう、ここからだって、見えるのだ。あの
「どこ?」
「ほら、この指の先を見たまえ」
道彦は、怪人の指す方を見た。どこだかよくわからない。岩かどをにぎっている指先が
(あっ、あぶない!)
と、道彦は、
「おい、どうした。道彦!」
彼の名をよぶものがある。
はっと思って、道彦は眼をあいた。すると、そばに、木谷博士の顔が、にこにこと、彼をのぞきこんでいた。
「お前が、あまりうなされているものだからなあ。なにか夢を見ていたね」
夢? 気がつくと、飛行機は、エンジンの音もすこぶる快調に、おだやかに飛んでいるではないか。
「先生、これは
「何号? ヤヨイ号じゃないか」
「ああ、やっぱりヤヨイ号か。||ああ、よかった」
「なにが、よかったって」
博士にきかれて、やむなく道彦は、ヤヨイ号の
すると博士は、笑いながらうなずいて、
「ああ、そうか。ヤヨイ号は、ぶじに雲をぬけて、ヒマラヤ山脈は、もうはるかうしろになってしまったよ。それから、お前が、氷河期の夢を見たのは、ヒマラヤの雪山を見て、現に今もあそこに残っている氷河のことを思いだしたからだろう。それから氷河期はなぜ来たかというその怪人の話は、この前、わしがお前に話してやった最近の学説そっくりじゃないか。あはははは」
博士は、おかしくてたまらないというように、腹をおさえて笑った。
「そうだ、あの怪人は、わしは氷河期時代の人間だなどとみょうなことをいったっけ。あそこで、これは夢だなと、気がついてよかったはずだったのに」
道彦もおかしくなって、げらげらと笑いだしたが、その笑いはなかなかとまらなかった。