上
都より一人の年若き教師下りきたりて
佐伯の子弟に語学教うることほとんど一年、秋の中ごろ来たりて夏の中ごろ去りぬ。夏の初め、彼は城下に住むことを
厭いて、半里
隔てし、
桂と呼ぶ港の岸に移りつ、ここより校舎に通いたり。かくて
海辺にとどまること
一月、一月の間に言葉かわすほどの人
識りしは片手にて数うるにも足らず。その
重なる一人は宿の
主人なり。ある
夕、雨降り風
起ちて
磯打つ波音もやや荒きに、
独りを好みて言葉すくなき教師もさすがにもの
淋しく、二階なる
一室を下りて主人夫婦が足投げだして
涼みいし縁先に来たりぬ。夫婦は
燈つけんともせず薄暗き中に
団扇もて
蚊やりつつ
語れり、教師を見て、珍らしやと
坐を
譲りつ。
夕闇の風、
軽ろく雨を吹けば一滴二滴、
面を払うを三人は心地よげに受けてよもやまの話に入りぬ。
その
後教師都に帰りてより
幾年の月日
経ち、ある冬の夜、
夜更けて一時を過ぎしに
独り小机に向かい手紙
認めぬ。そは
故郷なる旧友の
許へと書き送るなり。そのもの案じがおなる
蒼き色、この夜は
頬のあたりすこし赤らみておりおりいずこともなくみつむるまなざし、霧に包まれしある物を
定かに
視んと願うがごとし。
霧のうちには一人の
翁立ちたり。
教師は筆おきて読みかえしぬ。読みかえして目を
閉じたり。
眼、外に閉じ内に開けば現われしはまた翁なり。手紙のうちに
曰く「宿の主人は事もなげにこの翁が上を語りぬ。げに珍しからぬ人の身の上のみ、かかる翁を求めんには山の
蔭、水の
辺、国々には
沢なるべし。されどわれいかでこの翁を忘れえんや。余にはこの翁ただ何者をか秘めいて
誰一人開くこと
叶わぬ箱のごとき思いす。こは
余がいつもの怪しき
意の
作用なるべきか。さもあらばあれ、われこの翁を
懐う時は遠き笛の
音ききて
故郷恋うる旅人の
情、動きつ、または
想高き詩の一節読み
了わりて限りなき大空を
仰ぐがごとき心地す」と。
されど教師は翁が上を
委しく知れるにあらず。宿の
主人より聞きえしはそのあらましのみ。主人は何ゆえにこの翁の事をかくも聞きたださるるか、教師が
心解しかねたれど問わるるままに語れり。
「この港は
佐伯町にふさわしかるべし。見たまうごとく家という家いくばくありや、
人数は二十にも足らざるべく、
淋しさはいつも
今宵のごとし。されど
源叔父が家一軒ただこの磯に立ちしその
以前の寂しさを想いたまえ。彼が家の横なる松、今は幅広き
道路のかたわらに立ちて夏は涼しき蔭を旅人に借せど十余年の昔は沖より波寄せておりおりその
根方を洗いぬ。城下より来たりて源叔父の舟頼まんものは海に
突出し
巌に腰を掛けしことしばしばなり、今は火薬の力もて
危うき崖も裂かれたれど。
「
否、彼とてもいかで初めより
独り暮さんや。
「妻は美しかりし。名を
百合と呼び、
大入島の生まれなり。人の噂をなかば偽りとみるも、この事のみは
信なりと源叔父がある夜酒に呑まれて語りしを聞けば、彼の年二十八九のころ、春の
夜更けて
妙見の
燈も消えし時、ほとほとと戸たたく者あり。源起きいで誰れぞと問うに、島まで渡したまえというは女の声なり。
傾きし月の光にすかし見ればかねて見知りし大入島の
百合という小娘にぞありける。
「そのころ
渡船を
業となすもの多きうちにも、源が名は
浦々にまで聞こえし。そは心たしかに
侠気ある若者なりしがゆえのみならず、べつに深きゆえあり、げに君にも聞かしたきはそのころの源が声にぞありける。人々は彼が
櫓こぎつつ歌うを聴かんとて
撰びて彼が舟に乗りたり。されど言葉すくなきは今も昔も変わらず。
「島の
小女は心ありてかく
晩くも源が舟頼みしか、そは高きより見下ろしたまいし妙見様ならでは知る者なき秘密なるべし。舟とどめて互いに何をか語りしと問えど、酔うても言葉すくなき彼はただ
額に深き
二条の
皺寄せて笑うのみ、その笑いはどことなく悲しげなるぞうたてき。
「源が歌う声
冴えまさりつ。かくて若き夫婦の
幸しき月日は夢よりも淡く過ぎたり。
独子の
幸助七歳の時、妻ゆりは二度目の産重くしてついにみまかりぬ。城下の者にて幸助を引取り、ゆくゆくは
商人に仕立てやらんといいいでしがありしも、
可愛き妻には死別れ、さらに独子と離るるは忍びがたしとて辞しぬ。言葉すくなき彼はこのごろよりいよいよ言葉すくなくなりつ、笑うことも
稀に、
櫓こぐにも酒の勢いならでは歌わず、
醍醐の入江を夕月の光
砕きつつ
朗らかに歌う声さえ哀れをそめたり、こは聞くものの心にや、あらず、妻失いしことは元気よかりし彼が心をなかば砕き去りたり。雨のそぼ降る日など、
淋しき家に幸助一人をのこしおくは
不憫なりとて、客とともに舟に乗せゆけば、人々哀れがりぬ。されば
小供への
土産にと城下にて買いし菓子の袋開きてこの
孤児に分つ母親もすくなからざりし。父は見知らぬ風にて礼もいわぬが常なり、これも悲しさのあまりなるべしと心にとむる者なし。
「かくて
二年過ぎぬ。この港の工事なかばなりしころ
吾ら夫婦、島よりここに移りてこの家を建て今の業をはじめぬ。山の
端削りて
道路開かれ、源叔父が家の前には今の
車道でき、朝夕二度に汽船の笛鳴りつ、昔は網だに干さぬ
荒磯はたちまち今の
様と変わりぬ。されど源叔父が
渡船の業は昔のままなり。
浦人島人乗せて城下に
往来すること、前に変わらず、港開けて車道でき人通り
繁くなりて昔に比ぶればここも浮世の仲間入りせしを彼はうれしともはた悲しとも思わぬ様なりし。
「かくてまた
三年過ぎぬ。幸助十二歳の時、子供らと海に遊び、誤りて
溺れしを、見てありし子供ら、
畏れ逃げてこの事を人に告げざりき。夕暮になりて幸助の帰りこぬに心づき、驚きて吾らもともに捜せし時はいうまでもなく事遅れて、哀れの
骸は不思議にも源叔父が舟底に沈みいたり。
「彼はもはやけっしてうたわざりき、親しき人々にすら言葉かわすことを避くるようになりぬ。ものいわず、歌わず、笑わずして年月を送るうちにはいかなる人も世より忘れらるるものとみえたり。源叔父の舟こぐことは昔に変わらねど、浦人らは源叔父の舟に乗りながら源叔父の世にあることを忘れしようになりぬ。かく語る我身すらおりおり源叔父がかの丸き眼をなかば閉じ
櫓担いて帰りくるを見る時、源叔父はまだ生きてあるよなど思うことあり。彼はいかなる人ぞと問いたまいしは君が初めなり。
「さなり、呼びて酒
呑ませなばついには歌いもすべし。されどその歌の意
解しがたし。
否、彼はつぶやかず、
繰言ならべず、ただおりおり太き
嘆息するのみ。あわれとおぼさずや
||」
宿の
主人が教師に語りしはこれに過ぎざりし。教師は都に帰りて後も
源叔父がこと忘れず。燈下に坐りて雨の音きく
夜など、思いはしばしばこのあわれなる
翁が上に飛びぬ。思えらく、源叔父今はいかん、波の音ききつつ古き春の夜のこと思いて独り
炉のかたわらに丸き目ふさぎてやあらん、あるいは幸助がことのみ思いつづけてやおらんと。されど教師は知らざりき、かく想いやりし
幾年の後の冬の夜は翁の墓に
霙降りつつありしを。
年若き教師の、詩読む心にて記憶のページ
翻えしつつある間に、翁が上にはさらに悲しきこと起こりつ、すでにこの世の人ならざりしなり。かくて教師の詩はその最後の一
節を
欠きたり。
中
佐伯の子弟が語学の師を
桂港の波止場に送りし年も暮れて翌年一月の末、ある日源叔父は所用ありて昼前より城下に出でたり。
大空曇りて雪降らんとす。雪はこの地に
稀なり、その日の寒さ
推して知らる。
山村水廓の
民、河より海より小舟
泛かべて城下に用を便ずるが佐伯近在の
習慣なれば
番匠川の
河岸にはいつも
渡船集いて乗るもの下りるもの、浦人は歌い山人はののしり、いと
賑々しけれど今日は淋びしく、
河面には
漣たち灰色の雲の影落ちたり。
大通いずれもさび、
軒端暗く、
往来絶え、石多き
横町の道は
氷れり。城山の
麓にて
撞く鐘雲に響きて、屋根瓦の
苔白きこの町の
終より
終へともの哀しげなる音の漂う様は
魚住まぬ
湖水の
真中に石一個投げ入れたるごとし。
祭の日などには舞台据えらるべき
広辻あり、貧しき家の児ら
血色なき顔を
曝して
戯れす、
懐手して立てるもあり。ここに来かかりし
乞食あり。小供の一人、「
紀州紀州」と呼びしが振向きもせで行過ぎんとす。うち見には十五六と思わる、
蓬なす頭髪は
頸を
被い、顔の長きが上に頬肉こけたれば
頷の骨
尖れり。
眼の光
濁り
瞳動くこと遅くいずこともなくみつむるまなざし鈍し。
纒いしは
袷一枚、裾は短かく
襤褸下がり濡れしままわずかに
脛を隠せり。
腋よりは
蟋蟀の足めきたる
肱現われつ、わなわなと
戦慄いつつゆけり。この時またかなたより来かかりしは源叔父なり。二人は辻の真中にて
出遇いぬ。源叔父はその丸き
目
りて乞食を見たり。
「紀州」と呼びかけし翁の声は低けれども
太し。
若き乞食はその鈍き目を顔とともにあげて、石なんどを見るように源叔父が
眼を見たり。二人はしばし目と目見あわして立ちぬ。
源叔父は
袂をさぐりて竹の皮包取りだし握飯一つ
撮みて紀州の前に突きだせば、乞食は
懐より
椀をだしてこれを受けぬ。与えしものも言葉なく受けしものも言葉なく、互いに
嬉れしとも憐れとも思わぬようなり、紀州はそのまま行き過ぎて後振向きもせず、源叔父はその
後影角をめぐりて見えずなるまで
目送りつ、大空仰げば降るともなしに降りくるは雪の
二片三片なり、今一度乞食のゆきし
方を見て太き
嘆息せり。小供らは笑を忍びて
肱つつきあえど翁は知らず。
源叔父家に帰りしは夕暮なりし。彼が家の窓は道に向かえど開かれしことなく、さなきだに
闇きを燈つけず、
炉の前に坐り指太き両手を顔に当て、首を垂れて嘆息つきたり。炉には枯枝一
掴みくべあり。細き枝に
蝋燭の
焔ほどの火燃え移りてかわるがわる消えつ燃えつす。燃ゆる時は
一間のうちしばらく
明し。翁の影太く壁に映りて動き、
煤けし壁に浮かびいずるは
錦絵なり。幸助五六歳のころ妻の百合が里帰りして貰いきしその時
粘りつけしまま
十年余の月日
経ち今は
薄墨塗りしようなり、
今宵は風なく波音聞こえず。家を
繞りてさらさらと
私語くごとき物音を翁は耳そばだてて聴きぬ。こは
霙の音なり。源叔父はしばしこのさびしき
音を聞入りしが、
太息して
家内を見まわしぬ。
豆
洋燈つけて
戸外に
出れば寒さ骨に
沁むばかり、冬の夜寒むに櫓こぐをつらしとも思わぬ身ながら
粟だつを覚えき。山黒く海暗し。
火影及ぶかぎりは
雪片きらめきて
降つるが見ゆ。地は堅く氷れり。この時若き男二人もの語りつつ城下の
方より来しが、燈持ちて
門に立てる
翁を見て、源叔父よ今宵の寒さはいかにという。翁は、さなりとのみ答えて目は城下の方に向かえり。
やや行き過ぎて若者の一人、いつもながら源叔父の今宵の様はいかに、若き女あの顔を見なばそのまま気絶やせんと
囁けば相手は、
明朝あの松が枝に翁の足のさがれるを
見出さんもしれずという、二人は身の毛のよだつを覚えて振向けば翁が門にはもはや
燈火見えざりき。
夜は
更けたり。雪は霙と変わり霙は雪となり降りつ止みつす。
灘山の
端を月はなれて雲の海に光を包めば、古城市はさながら乾ける
墓原のごとし。山々の
麓には村あり、村々の奥には墓あり、墓はこの時
覚め、人はこの時眠り、夢の世界にて故人
相まみえ泣きつ笑いつす。影のごとき人今しも広辻を横ぎりて小橋の上をゆけり。橋の
袂に眠りし犬
頭をあげてその後影を見たれど
吠えず。あわれこの人墓よりや脱け
出でし。
誰に遇い
誰れと語らんとてかくはさまよう。彼は紀州なり。
源叔父の
独子幸助海に
溺れて
失せし同じ年の秋、一人の女乞食
日向の
方より迷いきて佐伯の町に足をとどめぬ。
伴いしは
八歳ばかりの
男子なり。母はこの子を連れて家々の門に立てば、貰い物多く、ここの人の
慈悲深きは他国にて見ざりしほどなれば、子のために行末よしやと思いはかりけん、次の年の春、母は子を残していずれにか影を隠したり。
太宰府訪でし人帰りきての話に、かの女乞食に
肖たるが
襤褸着し、
力士に伴いて鳥居のわきに
袖乞いするを見しという。人々皆な思いあたる節なりといえり。町の者母の
無情を憎み残されし子をいや増してあわれがりぬ。かくて母の
計あたりしとみえし。あらず、村々には寺あれど人々の
慈悲には限あり。
不憫なりとは語りあえど、まじめに引取りて末永く育てんというものなく、時には庭先の掃除など命じ人らしく扱うものありしかど、永くは続かず。初めは
童母を慕いて泣きぬ、人人物与えて慰めたり。童は母を思わずなりぬ、人人の
慈悲は童をして母を忘れしめたるのみ。物忘れする子なりともいい、白痴なりともいい、不潔なりともいい、
盗すともいう、口実はさまざまなれどこの童を乞食の
境に落としつくし人情の世界のそとに葬りし結果はひとつなりき。
戯れにいろは教うればいろはを覚え、戯れに
読本教うればその一節二節を暗誦し、小供らの歌聞きてまた歌い、笑い語り戯れて、世の常の子と変わらざりき。げに変わらずみえたり。生国を
紀州なりと童のいうがままに「紀州」と呼びなされて、はては佐伯町附属の品物のように取扱われつ、
街に遊ぶ子はこの童とともに育ちぬ。かくて彼が心は人々の知らぬ間に亡び、人々は彼と朝日照り
炊煙棚引き親子あり夫婦あり
兄弟あり
朋友あり涙ある世界に同居せりと思える
間、彼はいつしか
無人の島にその淋しき巣を移しここにその心を葬りたり。
彼に物与えても礼言わずなりぬ。笑わずなりぬ。彼の
怒りしを見んは
難く彼の泣くを見んはたやすからず、彼は恨みも喜びもせず。ただ動き、ただ歩み、ただ食らう。食らう時かたわらよりうまきやと問えばアクセントなき言葉にてうましと答うその声は地の底にて響くがごとし。戯れに棒振りあげて彼の頭上に
翳せば、笑うごとき
面持してゆるやかに歩みを運ぶ
様は主人に叱られし犬の尾振りつつ逃ぐるに似て異なり、彼はけっして
媚を人にささげず。世の常の乞食見て憐れと思う心もて彼を憐れというは至らず。浮世の波に漂うて
溺るる人を憐れとみる眼には彼を見出さんこと
難かるべし、彼は波の底を
這うものなれば。
紀州が小橋をかなたに渡りてより間もなく広辻に来かかりてあたりを見廻すものあり。手には小さき
舷燈提げたり。舷燈の光
射す口をかなたこなたと
転らすごとに、薄く積みし雪の上を末広がりし火影走りて雪は美しく
閃めき、辻を囲める家々の暗き軒下を丸き
火影飛びぬ。この時
本町の
方より
突如と現われしは巡査なり。ずかずかと歩み寄りて何者ぞと声かけ、
燈をかかげてこなたの顔を照らしぬ。丸き目、深き
皺、太き鼻、
逞ましき
舟子なり。
「源叔父ならずや」、巡査は
呆れし
様なり。
「さなり」、
嗄れし声にて答う。
「夜
更けて何者をか捜す」
「紀州を見たまわざりしか」
「紀州に何の用ありてか」
「
今夜はあまりに寒ければ家に伴わんと思いはべり」
「されど彼の寝床は犬も知らざるべし、みずから風ひかぬがよし」
情ある巡査は行きさりぬ。
源叔父は
嘆息つきつつ小橋の上まで来しが、火影落ちしところに足跡あり。今踏みしようなり。紀州ならで誰かこの雪を
跣足のまま歩まんや。
翁は小走りに足跡向きし
方へと
馳せぬ。
下
源叔父が紀州をその家に引取りたりということ知れわたり、伝えききし人初めは
真とせず次に呆れ
終は笑わぬものなかりき。この二人が差向いにて
夕餉につく
様こそ見たけれなど滑稽芝居見まほしき心にて
嘲る者もありき。近ごろはあるかなきかに思われし源叔父またもや人の
噂にのぼるようになりつ。
雪の夜より
七日余り経ちぬ。夕日影あざやかに照り四国地遠く波の上に浮かびて見ゆ。鶴見崎のあたり
真帆片帆白し。川口の
洲には千鳥飛べり。源叔父は五人の客乗せて
纜解かんとす、三人の若者駈けきたりて乗りこめば舟には人満ちたり。島にかえる娘二人は
姉妹らしく、頭に
手拭かぶり手に小さき包み持ちぬ。残り五人は浦人なり、後れて乗りこみし若者二人のほかの
三人は
老夫婦と
連の
小児なり。人々は町のことのみ語りあえり。芝居のことを若者の一人語りいでし時、このたびのは
衣裳も格別に美しき
由島にはいまだ見物せしものすくなけれど噂のみはいと高しと姉なる娘いう。
否さまでならず、ただ去年のものにはすこしく
優れりとうち消すようにいうは
老婦なり。
俳優のうちに
久米五郎とて
稀なる美男まじれりちょう噂島の娘らが間に高しとききぬ、いかにと若者
姉妹に向かっていえば二人は顔赤らめ、
老婦は大声に笑いぬ。源叔父は
櫓こぎつつ
眼を遠き
方にのみ
注ぎて、ここにも浮世の笑声高きを
空耳に聞き、一言も
雑えず。
「紀州を家に伴えりと聞きぬ、
信にや」若者の一人、何をか思い
出て問う。
「さなり」翁は見向きもせで答えぬ。
「乞食の子を家に入れしは何ゆえぞ
解しがたしと怪しむものすくなからず、独りはあまりに淋しければにや」
「さなり」
「紀州ならずとも、ともに住むほどの子島にも浦にも求めんにはかならずあるべきに」
「げにしかり」と
老婦口を入れて源叔父の顔を見上げぬ。源叔父はもの案じ顔にてしばし答えず。西の山
懐より真直に立ちのぼる煙の末の夕日に輝きて
真青なるをみつめしようなり。
「紀州は親も兄弟も家もなき
童なり、我は妻も子もなき
翁なり。我彼の父とならば、彼我の子となりなん、ともに幸いならずや」
独語のようにいうを人々心のうちにて驚きぬ、この翁がかく滑らかに語りいでしを今まで聞きしことなければ。
「げに月日経つことの早さよ、源叔父。ゆり殿が赤児
抱きて磯辺に立てるを
視しは、われには
昨日のようなる心地す」
老婦は嘆息つきて、
「幸助殿今無事ならば
何歳ぞ」と問う。
「紀州よりは二ツ三ツ上なるべし」さりげなく答えぬ。
「紀州の
歳ほど
推しがたきはあらず、
垢にて歳も
埋れはてしと
覚ゆ、十にやはた十八にや」
人々の笑う声しばし止まざりき。
「われもよくは知らず、十六七とかいえり。
生の母ならで
定に知るものあらんや、哀れとおぼさずや」翁は
老夫婦が連れし
七歳ばかりの孫とも思わるる
児を見かえりつついえり。その声さえ震えるに、人々気の毒がりて笑うことを止めつ。
「げに親子の情二人が間に
発らば源叔父が
行末楽しかるべし。紀州とても人の子なり、源叔父の帰り遅しと
門に待つようなりなば涙流すものは源叔父のみかは」
夫なる
老人の
取繕いげにいうも真意なきにあらず。
「さなり、げにその時はうれしかるべし」と
答えし源叔父が言葉には喜び
充ちたり。
「紀州連れてこのたびの芝居見る心はなきか」かくいいし若者は源叔父
嘲らんとにはあらで、島の娘の笑い顔見たきなり。
姉妹は源叔父に
気兼ねして
微笑しのみ。
老婦は
舷たたき、そはきわめておもしろからんと笑いぬ。
「
阿波十郎兵衛など見せて我子泣かすも
益なからん」源叔父は真顔にていう。
「我子とは
誰ぞ」
老婦は素知らぬ顔にて問いつ、
「幸助殿はかしこにて
溺れしと聞きしに」振り向いて
妙見の山影黒きあたりを
指しぬ、人々皆かなたを見たり。
「我子とは紀州のことなり」源叔父はしばしこぐ手を止めて
彦岳の
方を見やり、顔赤らめていい放ちぬ。怒りとも悲しみとも恥ともはた喜びともいいわけがたき
情胸を
衝きつ。足を
舷端にかけ
櫓に力加えしとみるや、声高らかに歌いいでぬ。
海も山も絶えて久しくこの声を聞かざりき。うたう翁も久しくこの声を聞かざりき。
夕凪の
海面をわたりてこの声の脈ゆるやかに波紋を描きつつ消えゆくとぞみえし。波紋は
渚を打てり。
山彦はかすかに
応えせり。翁は久しくこの応えをきかざりき。三十年前の我、長き眠りより
醒めて山のかなたより今の我を呼ぶならずや。
老夫婦は声も節も昔のごとしと
賛め、年若き四人は噂に
違わざりけりと聴きほれぬ。源叔父は七人の客わが舟にあるを忘れはてたり。
娘二人を島に揚げし後は若者ら寒しとて
毛布被り足を縮めて
臥しぬ。
老夫婦は孫に菓子与えなどし、家の事どもひそひそと語りあえり。浦に着きしころは日落ちて夕煙村を
罩め浦を包みつ。
帰舟は客なかりき。
醍醐の入江の口を
出る時
彦岳嵐身に

み、
顧みれば
大白の光
漣に
砕け、こなたには
大入島の火影
早きらめきそめぬ。静かに櫓こぐ翁の影黒く水に映れり。
舳軽く浮かべば舟底たたく水音、あわれ何をか
囁く。人の眠
催す
様なるこの水音を源叔父は聞くともなく聞きてさまざまの楽しきことのみ思いつづけ、悲しきこと、気がかりのこと、胸に浮かぶ時は櫓握る手に力入れて頭振りたり。物を追いやるようなり。
家には待つものあり、彼は
炉の前に坐りて
居眠りてやおらん、乞食せし時に比べて我家のうちの楽しさ
煖かさに心
溶け、思うこともなく
燈火うち見やりてやおらん、わが帰るを待たで
夕餉おえしか、櫓こぐ
術教うべしといいし時、うれしげにうなずきぬ、言葉すくなく絶えずもの思わしげなるはこれまでの
慣いなるべし、月日経たば肉づきて頬赤らむ時もあらん、されどされど。源叔父は
頭を振りぬ。
否々彼も人の子なり、我子なり、吾に習いて巧みにうたい出る彼が声こそ聞かまほしけれ、
少女一人乗せて月夜に舟こぐこともあらば彼も人の子なりその少女ふたたび見たき
情起こさでやむべき、われにその
情見ぬく眼ありかならずよそには見じ。
波止場に入りし時、翁は夢みるごときまなざしして
問屋の
燈火、影長く水にゆらぐを見たり。舟
繋ぎおわれば
臥席巻きて
腋に抱き櫓を肩にして岸に
上りぬ。日暮れて間もなきに問屋三軒皆な戸ざして人影絶え人声なし。源叔父は眼閉じて歩み我家の前に来たりし時、丸き眼

りてあたりを見廻わしぬ。
「我子よ今帰りしぞ」と呼び櫓置くべきところに櫓置きて内に入りぬ。
家内暗し。
「こはいかに、わが子よ今帰りぬ、早く
燈点けずや」
寂として
応えなし。
「紀州紀州」
竈馬のふつづかに
喞くあるのみ。
翁は
狼狽てて
懐中よりまっち取りだし、
一摺りすれば一間のうちにわかに
明くなりつ、人らしきもの見えず、しばししてまた暗し。
陰森の気
床下より起こりて翁が懐に入りぬ。手早く
豆洋燈に火を移しあたりを見廻わすまなざし
鈍く、耳そばだてて「我子よ」と呼びし声
嗄れて呼吸も迫りぬと
覚し。
炉には灰白く冷え夕餉たべしあとだになし。家内捜すまでもなく、ただ一間のうちを翁はゆるやかに見廻わしぬ。
煤けし壁の四隅は光届きかねつ心ありて見れば、人あるに似たり。源叔父は顔を両手に埋め深き
嘆息せり。この時もしやと思うこと胸を
衝きしに、つと
起てば大粒の涙流れて煩をつたうを拭わんとはせず、柱に掛けし
舷燈に火を移していそがわしく家を出で、城下の方指して走りぬ。
蟹田なる
鍛冶の
夜業の火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州この前を通らざりしかと問えば、気つかざりしと
槌持てる若者の一人答えて
訝しげなる顔す。こは夜業を妨げぬと
笑面作りつ、また急ぎゆけり。右は
畑、左は
堤の上を一列に老松並ぶ真直の道をなかば来たりし時、行先をゆくものあり。急ぎて
燈火さし向くるに後姿紀州にまぎれなし。彼は両手を懐にし、身を前に屈めて歩めり。
「紀州ならずや」呼びかけてその肩に手を掛けつ、
「独りいずこに行かんとはする」怒り、はた喜び、はた悲しみ、はた限りなき失望をただこの一言に包みしようなり。紀州は源叔父が顔見て驚きし様もなく、道ゆく人を門に立ちて心なく見やるごとき様にてうち守りぬ。翁は
呆れてしばし言葉なし。
「寒からずや、早く帰れ我子」いいつつ紀州の手取りて連れ帰りぬ。みちみち源叔父は、わが帰りの遅かりしゆえ淋しさに堪えざりしか、
夕餉は戸棚に
調えおきしものをなどいいいい行けり。紀州は一言もいわず、
生憎に嘆息もらすは翁なり。
家に帰るや、炉に火を盛に
燃きてそのわきに紀州を坐らせ、戸棚より
膳取り出だして
自身は食らわず紀州にのみたべさす。紀州は翁のいうがままに翁のものまで食いつくしぬ。その間源叔父はおりおり紀州の顔見ては眼閉じ嘆息せり。たべおわりなば火にあたれといいて、うまかりしかと問う紀州は眠気なる
眼にて翁が顔を見てかすかにうなずきしのみ。源叔父はこの
様見るや、眠くば寝よと
優しくいい、みずから床敷きて
布団かけてやりなどす。紀州の
寝し後、翁は一人炉の前に坐り、眼を閉じて動かず。炉の火燃えつきんとすれども柴くべず、五十年の永き年月を潮風にのみ
晒せし顔には赤き焔の影おぼつかなく
漂えり。頬を
連いてきらめくものは涙なるかも。屋根を渡る風の音す、
門に立てる松の
梢を
嘯きて過ぎぬ。
翌朝早く起きいでて源叔父は紀州に朝飯たべさせ
自分は頭重く口
渇きて堪えがたしと水のみ飲みて何も食わざりき。しばししてこの熱を見よと紀州の手取りて我
額に触れしめ、すこし
風邪ひきしようなりと、ついに床のべてうち
臥しぬ。源叔父の
疾みて
臥するは稀なることなり。
「
明日は
癒えん、ここに来たれ、物語して聞かすべし」しいてうちえみ、紀州を
枕辺に坐らせて、といきつくづくいろいろの物語して聞かしぬ。そなたは
鱶ちょう恐ろしき魚見しことなからんなど七ツ八ツの児に語るがごとし。ややありて。
「母親恋しくは思わずや」紀州の顔見つつ問いぬ。この問を紀州の
解しかねしようなれば。
「永く我家にいよ、我をそなたの父と思え、
||」
なおいい
続がんとして苦しげに息す。
「
明後日の夜は芝居見に連れゆくべし。
外題は
阿波十郎兵衛なる
由ききぬ。そなたに見せなば親恋しと思う心かならず起こらん、そのときわれを父と思え、そなたの父はわれなり」
かくて源叔父は昔見し芝居の筋を語りいで、
巡礼謡をかすかなる声にてうたい聞かせつ、あわれと思わずやといいてみずから泣きぬ。紀州には何事も解しかぬ
様なり。
「よしよし、話のみにては解しがたし、目に見なばそなたもかならず泣かん」いいおわりて苦しげなる息、ほと
吐きたり。語り疲れてしばしまどろみぬ。目さめて枕辺を見しに紀州あらざりき。紀州よ我子よと呼びつつ走りゆくほどに顔のなかばを朱に染めし女
乞食いずこよりか現われて紀州は我子なりといいしが見るうちに年若き眼に変わりぬ。
ゆりならずや幸助をいかにせしぞ、わが眠りし間に幸助いずれにか逃げ
亡せたり、来たれ来たれ来たれともに捜せよ、見よ幸助は
芥溜のなかより大根の
切片掘りだすぞと大声あげて泣けば、
後ろより我子よというは母なり。母は舞台見ずやと
指さしたまう。舞台には
蝋燭の光
眼を射るばかり輝きたり。母が眼のふち赤らめて泣きたまうを
訝しく思いつ、
自分は菓子のみ食いてついに母の膝に小さき頭
載せそのまま眠入りぬ。母親ゆり起こしたまう心地して夢破れたり。源叔父は
頭をあげて、
「我子よ今恐ろしき夢みたり」いいつつ枕辺を見たり。紀州いざりき。
「わが子よ」
嗄がれし声にて呼びぬ。答なし。窓を吹く風の音
怪しく鳴りぬ。夢なるか
現なるか。
翁は
布団翻のけ、つと
起ちあがりて、紀州よ我子よと呼びし時、
目眩みてそのまま布団の上に倒れつ、
千尋の底に落入りて波わが頭上に砕けしように覚えぬ。
その日源叔父は布団
被りしまま起出でず、何も食わず、頭を布団の外にすらいださざりき。朝より吹きそめし風しだいに荒らく磯打つ浪の音すごし。今日は浦人も城下に出でず、城下より
嶋へ渡る者もなければ
渡舟頼みに来る者もなし。夜に入りて波ますます狂い波止場の崩れしかと怪しまるる音せり。
朝まだき、東の空ようやく白みしころ、人々皆起きいでて
合羽を着、
灯燈つけ舷燈
携えなどして波止場に集まりぬ。波止場は事なかりき。風落ちたれど波なお高く沖は
雷の
轟くようなる音し磯打つ波砕けて
飛沫雨のごとし。人々荒跡を見廻るうち小舟一
艘岩の上に打上げられてなかば砕けしまま残れるを見出しぬ。
「
誰の舟ぞ」
問屋の
主人らしき男問う。
「源叔父の舟にまぎれなし」若者の一人答えぬ。人々顔見あわして言葉なし。
「
誰れにてもよし源叔父呼びきたらずや」
「われ行かん」若者は舷燈を地に置きて走りゆきぬ。十歩の先すでに見るべし。道に差出でし松が
枝より怪しき物さがれり。
胆太き若者はずかずかと寄りて眼定めて見たり。
縊れるは源叔父なりき。
桂港にほど近き山ふところに小さき墓地ありて東に向かいぬ。源叔父の妻ゆり
独子幸助の墓みなこの処にあり。「池田源太郎之墓」と書きし墓標またここに建てられぬ。幸助を中にして三つの墓並び、冬の夜は
霙降ることもあれど、都なる年若き教師は源叔父今もなお一人
淋しく磯辺に暮し
妻子の事思いて泣きつつありとひとえに哀れがりぬ。
紀州は同じく紀州なり、町のものよりは
佐伯附属の品とし
視らるること前のごとく、墓より脱け出でし人のようにこの古城市の
夜半にさまようこと前のごとし。ある人彼に向かいて、源叔父は縊れて死にたりと告げしに、彼はただその人の顔をうちまもりしのみ。