秋の
初の空は一片の雲もなく
晴て、
佳い
景色である。
青年二人は日光の直射を松の大木の蔭によけて、山芝の上に寝転んで、一人は遠く相模灘を眺め、一人は読書している。場所は伊豆と相模の国境にある
某温泉である。
渓流の音が遠く聞ゆるけれど、二人の耳には入らない。
甲の心は
書中に奪われ、
乙は何事か深く
思考に沈んでいる。
暫時すると、
甲は
書籍を草の上に投げ出して、
伸をして、
大欠をして、
「
最早宿へ帰ろうか。」
「うん」と
応たぎり、
乙は見向きもしない。すると
甲は巻煙草を出して、
「オイ君、燐寸を借せ。」
「うん」と出してやる、そして自分も煙草を出して、
甲乙共、のどかに
喫煙いだした。
「君はどう思う、縁とは何ぞやと言われたら?」
と
思考に沈んでいた
乙が静かに問うた。
「
左様サね、僕は忘れて了った。
······何とか言ったッけ。」と
甲は
書籍を拾い上げて、
何気なく答える。
乙は
其を横目で見て、
「まさか水力電気論の
中には説明してあるまいよ。」
「無いとも限らん。」
「あるなら、その内捜して置いてくれ給え。」
「よろしい。」
甲乙は無言で煙草を喫っている。
甲は
書籍を
拈繰って
故意と何か捜している風を見せていたが、
「有ったよ。」
「ふん。」
「
真実に有ったよ。」
「教えてくれ給え。」
「実はやッと思い出したのだ。円とは
······何だッたけナ
······円とは無限に多数なる正多角形とか何とか言ッたッけ。」と、真面目である。
「馬鹿!」
「
何んで?」
「大馬鹿!」
「君よりは少しばかり
多智な積りでいたが。」
「僕の聞いたのは
其円じゃアないんだ。縁だ。」
「だから円だろう。」
「イヤこれは僕が悪かった、君に向って発すべき問ではなかったかも知れない。まア静かに聞き給え、僕の問うたのは
······」
「最も活動する自然力を支配する人間は最も冷静だから安心し給え。」
「
豪いよ。」
「勿論! そこで君のいう所のエンとは?」
「帰ろうじゃアないか。
帰宿って夕飯の時、ゆるゆる論ずる事にしよう。」
「サア帰ろう!」と
甲は水力電気論を
懐中に
押こんだ。
かくて仲善き
甲乙の
青年は、名ばかり公園の丘を下りて温泉宿へ帰る。日は西に傾いて
渓の東の山々は
目映ゆきばかり輝いている。まだ
炎熱いので
甲乙は閉口しながら
渓流に沿うた道を
上流の方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の
談話しているのを見た。見て行き過ぎると、
甲が、
「今あの店にいたのは大友君じゃアなかッたか?」
「僕も、そんな気がした。」
「後姿が似ていた、確かに大友だ。」
「大友なら宿は大東館だ」
「何故?」
「僕が大東館を撰んだのは大友君からはなしを聞いたのだもの。」
「それは面白い。」
「きっと面白い。」
と話しながら石の門を入ると、庭樹の間から見える縁先に十四五の
少女が立っていて、
甲乙の姿を見るや、
「神崎様! 朝田様! 一寸来て御覧なさいよ。面白い物がありますから。早く来て御覧なさいよ!」と叫ぶ。
「また蛇が蛙を呑むのじゃアありませんか。」と「水力電気論」を懐にして神崎乙彦が笑いながら庭樹を右に左に
避けて縁先の方へ廻る。
少女の
室の
隣室が二人の室なのである。朝田は玄関口へ廻る。
「ほら妙なものでしょう。」と少女の指さす方を見ても別に何も見当らない。神崎はきょろきょろしながら、
「春子さん、
何物も無いじアありませんか。」
「ほら其処に妙な物が。
······貴様お眼が悪いのねエ」
「どれです。」
「
百日紅の根に丸い石があるでしょう。」
「あれが
如何したのです。」
「妙でしょう。」
「何故でしょう。」といいながら新工学士神崎は石を拾って不思議そうに眺める。朝田はこの時既に座敷から廻って縁先に来た。
「オイ朝田、春子さんがこの石を妙だろうと言うが君は何と思う。」
「
頗る妙と思うねエ」
「ね朝田
様、妙でしょう。」と
少女はにこにこ。
「そうですとも、大いに妙です。神崎工学士、君は
昨夕酔払って春子
様を
つかまえてお得意の講義をしていたが忘れたか。」
「ねエ朝田様! その時、神崎様が
巻煙草の灰を掌にのせて、この灰が貴女には妙と見えませんかと聞くから、私は何でもないというと、だから貴女は駄目だ、
凡そ宇宙の物、森羅万象、妙ならざるはなく、石も木もこの灰とても面白からざるはなし、それを
左様思わないのは科学の神に帰依しないのだからだ、とか何とか、
難事しい事をべらべら
何時までも言うんですもの。私、眠くなって
了ったわ、だからアーメンと言ったら、
貴下怒っちゃったじゃアありませんか。ねエ朝田
様。」
「そうですとも、だからその石は頗る妙、大いに面白しと言うんですねエ。」
「神崎様、昨夕の
敵打ちよ!」
「たしかに打たれました。けれど春子様、朝田は何時も
静粛で酒も何にも呑まないで、少しも理窟を申しませんからお互に
幸福ですよ。」
「
否、お二人とも随分理窟ばかり言うわ。毎晩毎晩、酔っては討論会を初めますわ!」
甲乙は
噴飯して、申し合したように
湯衣に着かえて
浴場に逃げだして
了った。
少女は神崎の捨てた石を拾って、
百日紅の樹に倚りかかって、西の山の端に沈む夕日を眺めながら小声で唱歌をうたっている。
又た
少女の
室では父と
思しき品格よき四十二三の紳士が、この宿の若主人を相手に囲碁に夢中で、石事件の騒ぎなどは一切知らないでパチパチやって
御座る。そして神崎、朝田の二人が
浴室へ行くと間もなく十八九の愛嬌のある娘が囲碁の
室に来て、
「
家兄さん、小田原の
姉様が参りました。」と
淑かに通ずる。これを聞いて若主人は顔を上げて、やや不安の色で。
「よろしい、今ゆく。」
「急用なら中止しましょう」と紳士は一寸手を休める。
「
何に
関いません、急用という程の事じゃアないんです。」と若主人は直ぐ盤を見つめて、石を下しつつ、
「今の妹の姉にお正というのがいたのを御存じでしょう。」
「そうでした、覚えています。可愛らしい
佳い娘さんでした。」と紳士も打ちながら答える。
「そのお
正がこの春国府津へ
嫁いたのです。」
「それはお目出度い。」
「ところが余りお目出度くないんでしてな。」
「それは又?」
「どういうものか折合が善くありませんで。」
「それは善くない。」
「それで今日来たのも、又何か持上ったのでしょう。」
「それでは早く行く方が
可い。
······」
「なに、どうせ二晩三晩は
宿泊のですから急がないでも
可いのです。」と平気で盤に向っているので、
紳士もその気になり
何時かお
正の問題は忘れて了っている。
浴室では神崎、朝田の二人が、今夜の討論会は大友が加わるので一倍、春子さんを驚かすだろうと語り合って楽しんで居る。
箱根細工の店では大友が種々の
談話の末、やっとお正の事に及んで
「それじゃア
此二月に嫁入したのだね、随分遅い方だね。」
「まア遅いほうでしょうね。
貴下は何時ごろお
正さんを御存知で御座います?」
「
左様サ、お正さんが二十位の時だろう、四年前の事だ、だからお
正さんは二十四の春
嫁いたというものだ。」
「全く
左様で御座います。」と
女主人は言って、急に声をひそめて、「
処が可哀そうに余り面白く行かないとか
大ぶん
紛糾があるようで御座います。お正さんは二十四でも
未だ若い盛で御座いますが、旦那は五十
幾歳とかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。」
大友は心に頗る驚いたが別に顔色も変ず、「それは気の毒だ」と言いさま直ぐ起ち上って、「大きにお邪魔をした」とばかり、店を出た。
大友の心にはこの二三年
前来、どうか此世に於て今一度、お正さんに会いたいものだという一念が
蟠っていたのである、この女のことを思うと、悲しい、懐しい
情感に堪え得ないことがある。そして
此情想に耽る時は人間の浅間しサから我知らず脱れ出ずるような心持になる。あたかも野辺にさすらいて秋の月のさやかに照るをしみじみと眺め入る心持と或は似通えるか。さりとて矢も楯もたまらずお正の許に飛んで行くような激越の情は起らないのであった。
ただ会いたい。この世で今一度会いたい。縁あらば、せめて一度此世で会いたい。とのみ大友は思いつづけていた。
何ぞその心根の哀しさや。会い
度くば
幾度にても
逢る、又た逢える筈の情縁あらば
如斯な哀しい
情緒は起らぬものである。別れたる、離れたる親子、兄弟、夫婦、朋友、恋人の
仲間の、逢いたき
情とは
全然で
異っている、「縁あらばこの世で今一度会いたい」との願いの深い哀しみは常に大友の心に潜んでいたのである。
或夜大友は二三の友と会食して酒のやや廻った時、斯ういう事を言ったことがある「僕の知っている女でお正さんというのがあるが、
容貌は十人並で、ただ愛嬌のある女というに
過ないけれど、如何にも柔和な、どちらかと言えば今少しはハキハキしてもと思わるる程の性分で
何処までも正直な、
同情の深そうな娘である。肉づきまでが
ふっくりして、温かそうに思われたが、若し、僕に
女房を世話してくれる者があるなら
彼様のが欲しいものだ」
それならば大友はお正さんに恋い焦がれていたかというと、
全然、
左様でない。ただ大友がその時、一寸
左様思っただけである。
四年前、やはり秋の初であった。大友がこの温泉場に来て大東館に宿ったのは。
避暑の客が大方帰ったので居残りの者は我儘放題、女中の手も
すいたので
或夕、大友は宿の娘のお
正を占領して飲んでいたが、初めは戯談の
ほれたはれた問題が、次第に本物になって、大友は遂にその時から三年前の失恋談をはじめた。女中なら「御馳走様」位でお
止になるところが、お正は本気で聞いている、大友は無論真剣に話している。
「それほどまでに二人が艱難辛苦してやッと結婚して、一緒になったかと思うと間もなく、ポカンと僕を捨てて逃げ出して了ったのです」
「まア
痛いこと! それで
貴下はどうなさいました。」とお正の眼は
最早潤んでいる。
「女に捨てられる男は意気地なしだとの、今では、人の噂も
理会りますが、その時の僕は
左まで世に
すれていなかったのです。ただ夢中です、身も世もあられぬ
悲嘆さを堪え忍びながら
如何にもして
前の通りに
為たいと、恥も外聞もかまわず、出来るだけのことをしたものです。」
「それで駄目なんですか。」
「無論です。」
「まア、」とお
正は眼に涙を一ぱい含ませている。
「僕が夢中になるだけ、
先方は
益々冷て
了う。
終いには僕を見るもイヤだという風になったのです。」そして大友は種々と
詳細い
談話をして、自分がどれほどその女から侮辱せられたかを語った。そして彼自身も今更想い起して感慨に堪えぬ
様であった。
「さぞ憎らしかッたでしょうねエ、」
「
否、憎らしいとその時思うことが出来るなら
左まで苦しくは無いのです。ただ
悲嘆かったのです。」
お
正の両頬には
何時しか涙が静かに流れている。
「今は如何なに思っておいでです」とお
正は声をふるわして聞いた。
「今ですか、今でも憎いとは思っていません。けれどもね、お
正さん僕が若し
彼様な不幸に会わなかったら、今の僕では無かったろうと思うと、残念で堪らないのです。今日が日まで三年ばかりで大事の月日が、
殆ど煙のように
過って了いました。僕の心は壊れて了ったのですからねエ」と大友は眼を瞬たいた。お
正は
はんけちを眼にあてて
頭を垂れて了った。
「まア
可いサ、酒でも飲みましょう」と大友は
酌を促がして、黙って飲んでいると、隣室に
居る川村という
富豪の
子息が、酔った勢いで、散歩に出かけようと誘うので、大友はお
正を連れ、川村は女中三人ばかりを引率して宿を出た。川村の組は勝手に
ふざけ散らして先へ行く、大友とお
正は相並んで静かに歩む、
夜は冷々として既に膚寒く覚ゆる程の季節ゆえ、
渓流に沿う町は
ひっそりとして客らしき者の影さえ見えず、月は冴えに冴えて岩に激する流れは雪のようである。
大友とお
正は
何時か寄添うて歩みながらも言葉一ツ交さないでいたが、川村の連中が遠く離れて森の彼方で声がする頃になると、
「
真実に
貴下はお可哀そうですねエ」と、突然お
正は
頭を垂れたまま言った。
「お
正さん、お正さん?」
「ハイ」とお
正は顔を上げた。
雙眼涙を含める蒼ざめた顔を月はまともに照らす。
「僕はね、若し
彼女がお
正さんのように
柔和い人であったら、こんな不幸な男にはならなかったと思います。」
「そんな事は、」とお正はうつむいた、そして二人は人家から離れた、
礫の多い凸凹道を、静かに歩んでいる。
「
否、僕は
真実に
左様思います、
何故彼女がお
正さんと同じ人で無かったかと思います。」
お
正は、そっと大友の顔を見上げた。大友は月影に霞む流れの末を見つめていた。
それから二人は
暫時く無言で歩いていると先へ行った川村の連中が、がやがやと騒ぎながら帰って来たので、一緒に連れ立って宿に帰った。其後三四日大友は滞留していたけれどお
正には最早、
彼の事に就いては一言も言わず、お給仕ごとに楽しく四方山の話をして、大友は帰京したのである。
爾来、四年、大友の恋の傷は癒え、恋人の姿は彼の心から消え去せて了ったけれども、お
正には
如何かして今一度、縁あらば会いたいものだと願っていたのである。
そして来て見ると、兼ねて期したる事とは言え、さてお
正は既にいないので、大いに失望した上に、お
正の身の上の不幸を箱根細工の店で聞かされたので、不快に堪えず、流れを
泝って
渓の奥まで一人で散歩して見たが少しも面白くない、気は
塞ぐ一方であるから、宿に帰って、少し夕飯には時刻が早いが、酒を命じた。
大友は、「用があるなら呼ぶから。」と女中をしりぞけて独酌で種々の事を考えながら淋しく飲んでいると宿の娘が「これをお客様が」と差出したのは
封紙のない手紙である、大友は不審に思い、開き見ると、
前略我等両人当所に於て君を待つこと久しとは申兼候え共、本日御投宿と聞いて愉快に堪えず、女中に命じて膳部を
弊室に御運搬の上、大いに語り度く願い候
神崎
朝田
大友様
とあるので、驚いた。何時ごろから来ているのだと聞くと、娘は一週間ばかり前からという。直ぐ次の返事を書いて持たしてやった。
お手紙を見て
驚喜仕候、両君の
室は隣室の客を驚かす恐れあり、小生の室は御覧の如く独立の離島に候間、
徹宵快談するもさまたげず、是非
此方へ御出向き下され度く
待ち上候
すると二人がやって来た。
「君は何処を
遍歴って
此処へ来た?」と朝田が座に着くや着かぬに聞く、
「イヤ、何処も遍歴らない、東京から直きに来た。」
「そこでこの夏は?」
「東京に居た。」
「何をして?」
「遊んで。」
「そいつは下らなかったな」
「全くサ、そして君等は
如何だ。」
「伊豆の温泉めぐりを
為た。」
「面白ろい事が有ったか。」
「随分有った。然し
同伴者が同伴者だからね。」と神崎の方を向く。神崎はただ「フフン」と笑ったばかり、盃をあげて、ちょっと中の模様を見て、ぐびり飲んだ。朝田もお構いなく、
「現に今日も、
斯うだ、僕が縁とは何ぞやとの問に何と答えたものだろうと聞くと、先生、この円と心得て」と畳の上に指先で
○を書き、
「円の定義を平気な顔で暗誦したものだ、君、
斯ういう先生と約一ヶ月半も僕は膳を並べて酒を呑んだのだから堪らない。」
「それはお互いサ」と神崎少しも驚かない。
「然し相かわらず議論は激しかったろう」と大友はにこにこして問うた。
「やったとも」と朝田、
「朝田の愚論は僕も少々聞き飽きた」と神崎の一言に朝田は「フフン」と笑ったばかり。これだから二人が喧嘩を
為ないで一ヶ月以上も旅行が出来たのだと大友は思った。
三人とも愉快に談じ酒も相当に利いて十一時に及ぶと、朝田、神崎は自室に引上げた、大友は頭を冷す積りで外に出た。月は中天に昇っている。恰度前年お
正と共に散歩した晩と同じである。然し前年の場所へ行くは却って思出の種と避けて
渓の上へのぼりながら、途々「縁」に
就て朝田が説いた処を考えた、「縁」は実に「哀」であると沁み沁み感じた。
そして
構造の大きな農家らしき家の前に来ると、庭先で「左様なら」と挨拶して
此方へ来る女がある、その声が
如何にもお
正に似ているように思われ、つい立ちどまって
居ると、往来へ出て月の光を
正面に
向けた顔は確かにお
正である。
「お
正さん」大友は思わず叫んだ。
「大友さんでしょう、」と意外にもお
正は平気で傍へ来たので、
「貴女は僕が来て居るのを知っていたのですか」と驚いて問うた。
「も少し上の方へのぼりながらお話しましょうか。」とお正は小声にて言う。
「貴女さえかまわなければ。」
「私はちっとも、かまいませんの。」
それではと前年の如く寄添うて、
渓をのぼる。
「
真実に妙な御縁なのですよ、私は今日、身の上に
就て兄に相談があるので、
突然に参りますと、妹が小声で大友さんが
来宿てるというのでしょう、
······」
「それじゃア貴女は僕より一汽車後で来たのだ。」
「そうなの。それで今夜はごたごたして居るから明日お目にかかる積りでいましたの。」
さて大友はお
正に会ったけれど、そして忘れ得ぬ前年の
夜と
全然く同じな景色に包まれて同じように寄添うて歩きながらも、別に言うべき事がない。却ってお正は種々の事を話しかける。
「貴下いつかの晩も
此様でしたね。」
「貴下
彼晩のことを憶えていらっして?」
「憶えていますとも。」
「私はね、何もかも
全然憶えていて、貴下の
被仰った事も皆な覚えていますの。」
「僕もそうです。そして今一度貴女に会いたいとばかり思っていました。今度も実はその積りで来たのです。無論
何家へ
嫁いていて会える筈は無かろうとは思いましたが、それでも若しかと思いましてね
······」
「私も今一度で
可いから是非お目にかかりたいと思いつづけては、
彼晩の事を思い出して何度泣いたか知れません、
······ほんとにお嫁になど行かないで兄さんや姉さんを手伝った方が
如何なに
可かったか今では
真実に後悔していますのよ。」
大友は初めてお正が自分を恋していたのを知った、そして自分がお正に会いたいと思うのと、お正が自分に会いたいと願うのとは意味が違うと感じた。自分はお正の恋人であるがお正は自分の恋人でない、ただ自分の恋に深い同情を寄せて泣いてくれた柔しサを恋したのだ。そして自分は恋を恋する人に過ぎないと知った。実に大友はお正の恋を知ると同時に自分のお正に対する情の意味を初めて自覚したのである。
暫時無言で二人は歩いていたが、大友は
斯く感じると、言い難き
哀情が胸を衝いて来る。
「然しね、お正さん、貴女も一旦嫁いだからには惑わないで一生を送った方が
可しいと僕は思います。
凡て女の惑いからいろんな混雑や
悲嘆が出て来るものです。現に僕の事でも
彼女が惑うたからでしょう
······」
お正はうつ向いたまま無言。
「それで今夜は運よくお互に会うことが出来ましたが、
最早二度とは会えませんから言います、貴女も身体も大切にして幾久しく無事でお暮しになるように
······」
お正は袖を眼に当て、
「何故会えないのでしょうか。」
「会えないものと思った方が
可いだろうと思います。」
「それでは貴下は最早会いたいとは思っては下さらないのですか。」
「決して
其様ことはありません。僕はこれまで
彼女に会いたいなど夢にも思わなくなりましたが、貴女には会いたいと思っていましたから
······」
「それではお目にかかる事が出来る縁を待ちましょうね。」
「ほんとうに、そうです。貴女も今言ったように、くよくよ
為ないで、身体を大事にお暮しなさい。」
「
難有う御座います。」
夜の更くるを恐れて二人は後へ返し、
渓流に渡せる小橋の袂まで帰って来ると、橋の向うから
男女の連れが来る。そして橋の中程ですれちがった。男は三十五六の若紳士、女は
庇髪の二十二三としか見えざる若づくり、大友は一目見て非常に驚いた。
足早に橋を渡って、
「お正さんお正さん。
彼れです。
彼の女です!」
「まア、彼の人ですか!」とお正も
吃驚して見送る。
「
如何して又、こんな処で会ったろう。
彼女も
必定僕と気が
着いたに違いない。お正さん僕は明日朝
出発ますよ。」
「まア
如何して?」
「若し
彼女が大東館にでも宿泊っていたら、僕と白昼
出会わすかも知れない、僕は見るのも嫌です。往来で会うかも知れません
如斯な狭い所ですから。」
「会っても知らん顔していれば
可いじゃア
御座いませんか。」
「不愉快です。殊に今度貴女に会った場合、猶不快です。」
翌朝
早大友は大東館を立った。大友ばかりでなく神崎や朝田も一緒である。見送り人の中にはお正も春子さんもいた。