怠惰屋の弟子入り
国木田独歩
亞弗利加洲にアルゼリヤといふ
國がある、凡そ
世界中此國の
人ほど
怠惰者はないので、それといふのも
畢竟は
熱帶地方のことゆえ
檸檬や、
橙の
花咲き亂れて
其得ならぬ
香四方に
立ちこめ、これに
觸れる
人は
自から
睡眠を
催ふすほどの、
だらりとした
心地の
好い
土地柄の
故でもあらう。
處が
此アルゼリヤ
國の
中でブリダアといふ
市府の
人は
分ても
怠惰ることが
好き、
道樂をして
日を
送ることが好きといふ次第である。
佛蘭西人が
未だアルゼリヤを
犯さない
數年前に此ブリダアの
市にラクダルといふ
人が
住んで
居たが、これは又た
大した
豪物で、ブリダアの人々から『
怠惰屋』といふ
綽名を
取つて
居た
漢、この
漢と
比て
見ると
流石のブリダアの
市人も
餘程の
勤勉の
民と
言はんければならない、
何にしろラクダルの
豪い
證據は『
怠惰屋』といふ
一個の
屋號を
作つて
了つたのでも
了解る、
綉工とか
珈琲屋とか、
香料問屋とか、それ/″\
所の
名物の
商業がある中に、ラクダルは
怠惰屋で
立つて居たのである。
抑も
此男は
父の
死だ
後、
市街外れに
在る
小さな
莊園を
承嗣だので、
此莊園こそ
怠惰屋の
店とも
謂つべく、
其白い
壁は
年古て
崩れ
落ち、
蔦葛思ふがまゝに
這纏ふた
門は
年中開つ
放しで
閉たことなく、
無花果や
芭蕉が
苔むす
泉のほとりに
生茂つて
居るのである。此莊園でラクダルはゴロリと
轉がつたまゝ
身動もろくに
爲ず、
手足をダラリ
伸したまゝ
一言も
口を
開かず、たゞ
茫乎と
日がな
一日、
年から
年中、
時を
送つて
居るのである。
赤蟻は
彼のモヂヤ/\した
髯の中を
草場かと
心得て
駈け
廻るといふ
行體。
腹が
空て
來ると、
手を
伸して
手の
屆く
處に
實て
居る
無花果か
芭蕉の
實を
捩つて
食ふ、若し
起上つて
捩らなければならぬなら
飢餓て
死だかも知れないが、
幸にして
一人では
食ひきれぬ
程の
實が
房々と
實つて
居るので
其憂もなく、
熟過[#ルビの「つえ」に「ママ」の注記]た
實がぼて/\と地に
落ちて
蟻の
餌となり、
小鳥の
群は
枝から
枝を
飛び
廻つて
思ひのまゝ
木實を
啄んでも
叱り
手がないといふ
次第であつた。
先づ
斯ういふ
風な
處からラクダルの
怠惰屋は
國内一般の
評判ものとなり、
人々は
何時この
漢を
仙人の
一人にして
了ひ、女は
此庄園の
傍を
通る時など
被面衣の下でコソ/\と
噂してゆく、男の
中には
脱帽して
通るものすらあつた。
けれど
小供こそ
眞の
審判官で、
小供の
眼にはたゞ
變物の
一人としか
見えない。
嬲物にして
慰さむに
丁度可い
男としか
見えない。であるから
學校の
歸途には
大勢が
其崩れ
落た
壁に
這いのぼつてワイ/\と
騒ぐ、
手を
拍つやら、
囃すやら、
甚だしきは
蜜柑の
皮を
投げつけなどして
揄揶うのである。けれども
何の
效果もない。
怠惰屋は
決して
起き
上らない、たゞ
一度、
草の
臥床の
中から
間の
拔けた
聲を
張上げて
『
見て
居ろ!
起きてゆくから!』
と
怒鳴つたことがある。
然し
遂に
起きあがらなかつた。
處が
或日のこと、やはり
學校の
歸途に
庄園の
壁の
上でラクダルを
揄揶つて
居た
少年の中に、
何と
思つたか
甚く
感心して
了ひ
自分も
是非怠惰屋にならうと
決心した
兒が
一人あつた。つまりラクダルに
全然歸依して
了つたのである。
大急ぎで
家に
歸へり、父に
向つて
最早學校には
行きたくない、
何卒怠惰屋にして
呉ろと
嘆願に
及んだ。
『
怠惰屋に? お
前が?』
と
親父さん
開いた
口が
塞がらない。
暫時く
我兒の
顏を
見つめて居たが『それはお
前、
本氣か。』
『
本氣だよ
親父さん! ラクダルさんのやうに
私も
怠惰屋になるのだ。』
親父といふは
煙管の
旋盤細工を
業として居る
者で、
鷄の
鳴く時から日の
晩るまで
旋盤の
前を
動いたことのない程の、ブリダア
市では
珍らしい
稼人であるから、
兒童の
言ふ
處を
承知する
筈もない。
『馬鹿を
言ふな! お前は
乃父のやうに
旋盤細工を
商業にするか、それとも
運が
可くばお
寺の
書役にでもなるのだ。
怠惰屋なぞになられて
堪るものか、
學校へ
行くのが
慊なら
櫻の
木の
皮を
剥すが
可いか、サア
如何だ
此大たわけめ!』
櫻の
皮を
剥されては
大變と、
兒童は
早速親父の
言ふ
通りになつて
其翌日から
平常の
如く
學校へ
行く
風で
家を
出た。けれども
決して
學校には
行かない。
市街の
中程に
大きな
市場がある、
兒童は
其處へ出かけて、山のやうに
貨物の
積である
中にふんぞり
返つて
人々の
立騒ぐのを
見て居る。金絲の
綉をした
上衣を
日に
煌かして
行く
大買人もあれば、
重さうな荷物を
脊負てゆく
人足もある、
香料の
妙なる
薫が
折り/\
生温い風につれて
鼻を打つ、
兒童は
極樂へでも
行つた氣になつて、
茫然と日の
晩るまで
斯うして
居た。
次の
日も
次の
日も、
此兒の
影は
學校に
見えない。
四五日も
經つと
此事が
忽ち
親父の
耳に
入つた。
親父は
眞赤になつて
怒つた、店にあるだけの
櫻の木の皮を
剥せ(な脱カ)ければ
承知しないと
力味で
見たが、さて
一向に
效果がない。
少年は平氣で
『
私は
是非怠惰屋になるのだ、
是非なるのだ』と
言張つて
聽かない。
櫻の
皮を
剥くどころか、
家の
隅の
方へ
すつこんで
了つて
茫然して居る。
色々と
折檻もして
見たが
無駄なので
親父も
持餘し、
遂にお
寺樣と
相談した
結極が
斯いふ
親子の
問答になつた。
『お
前が
若し
怠惰屋の
第一等にならうと
眞實に
思ふならラクダルさんの
處へ
連て
行かう。じやが
先づラクダルさんに
試驗をして
貰はなければならぬ、其上でお前に
怠惰屋になるだけの
眞實の
力倆があると
定れば、
更ためてお前を
彼の人の
弟子にして
貰ふ、
如何だ、これは?』と親父は
眞面目に
言つた。
『
是非さうして
下さい。』と
兒は二つ
返事。
其處で
其翌日は
愈
怠惰屋の
弟子入と、
親父は
息子の
衣裝を
作らへ
頭も
奇麗に
刈てやつて、ラクダルの
莊園へと
出かけて
行つた。
門は
例の
通り
開つ
放しだから
敲く
世話も
入ず、
二人はずん/\と
内へ
入つて
見たが
草木が
縱横に
茂つて
居るのでラクダルの
居所も
一寸知れなかつた。
彼方此方と
搜す中、
漸とのことで大きな
無花果の
樹蔭に
臥こんで
居るのを
見つけ
出し、
親父は
恭々しく
近寄つて
丁寧にお
辭儀をして
言ふのには
『
實は
今日お
願があつてお
邪魔に
出ました。これは
手前の
愚息で
御座います、
是非貴樣のお
弟子になりたいと
本人の
望ですから
連て
參りましたが、
一つ
試驗をして
見て
下さいませんか。
其上で
若し
物になりさうだツたら
何卒怠惰屋の
弟子といふことに
願ひたいものです。さうなると
私の
方でも
出來るだけのお
禮は致します積りで
······』
ラクダルは
無言のまゝ
手眞似で
其處へ
坐らした。
親父は
當前に
坐る、
愚息はゴロリ
臥ころんで
足を
蹈伸す、この
臥轉び
方が
第一上出來であつた。
三人は
其まゝ
一言も
發しない。
恰度日盛で
太陽は
燦然と
煌き、
暑は
暑し、
園の
中は
森として
靜まり
返つて
居る。たゞ
折々聞るものは
豌豆の
莢が
熱い日に
彈けて
豆の
飛ぶ
音か、
草間の
泉の
私語やうな音、それでなくば
食ひ
飽た
鳥が
繁茂の
中で
物疎さうに
羽搏をする
羽音ばかり。
熟過た
無花果がぼたりと落ちる。
其中腹が
空て
來たと
見えてラクダルは
面倒臭さうに手を
伸して
無花果を
採て
口に
入れた。
然し
少年は
見向きもしないし
手も
伸さないばかりか、
木實が
身體の
傍に
落ちてすら
頭もあげなかつた。ラクダルは
此の
樣をぢろり
横目で
見たが、
默つて
居た。
斯ういふ
風で一
時間たち二
時間經つた。
氣の
毒千萬なのは
親父さんで、
退屈で/\
堪らない。しかしこれも
我兒ゆゑと
感念したか
如何だか
知んが辛棒して
其まゝ
坐つて
居た。
身動もせず
熟として兩足を
組で
坐つて
居ると、
園を
吹渡る
生温くい
風と、半分
焦た芭蕉の實や
眞黄色に
熟した
柑橙の
香にあてられて、
身も
融ゆくばかりになつて
來たのである。
やゝ
暫くすると大きな無花果の
實が
少年の
頬の上に
落ちた。
見るからして
菫の
色つやゝかに
蜜のやうな
香がして
如何にも
甘味さうである。
少年がこれを口に
入るのは
指一本動かすほどのこともない、
然し
左も
疲れ
果て
居る
樣で
身動もしない、
無花果は
頬の
上にのつたまゝである。
暫くは
其まゝで
居たが
遂に
辛棒しきれなくなり、
少年[#「少年」は底本では「小年」]は
眄目に
父を見て、
鈍い
聲で
『
父さん
||父さん、これを
口へ入れて
下さいよう。』
これを
聞くや
否や、ラクダルは
手に
持て
居た
無花果を
力任かせに
投げて
怫然と
親父の
方に
振り
向き
『
此兒を
私の
弟子にするといふのですか
貴樣は?
途方もないこと、
此兒が
私の
師匠だ、
私が
此兒に
習いたい
位だ!』
そして
卒然起上がつて
少年の前に
跪き
頭を
大地に
着けて
『謹で
崇め
奉る、
怠惰の
神様!』
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#···]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。