雨を含んだ風がさっと吹いて、
磯の香が満ちている
||今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の
累った
空合では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に
沁みるほどに薄寒い。
······ 木の葉をこぼれる
雫も冷い。
······糠雨がまだ降っていようも知れぬ。時々ぽつりと来るのは
||樹立は暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆
蟹になりそうに見えるまで、濡々と森の
梢を
潜って、直線に高い。その途中、処々夏草の茂りに
蔽われたのに、雲の影が映って暗い。
縦横に道は通ったが、段の下は、まだ苗代にならない
水溜りの田と、荒れた
畠だから
||農屋漁宿、なお言えば商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、海の音もおどろに寂しく響いている。よく言う事だが、
四辺が
渺として、底冷い
靄に包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、
逢魔が時になろうとする。
町屋の屋根に隠れつつ、
巽に
展けて海がある。その反対の、
山裾の
窪に当る、石段の左の端に、べたりと
附着いて、
溝鼠が
這上ったように、ぼろを
膚に、笠も
被らず、
一本杖の細いのに、しがみつくように
縋った。杖の
尖が、肩を
抽いて、頭の上へ突出ている、うしろ
向のその肩が、びくびくと、震え、震え、脊丈は三尺にも足りまい。
小児だか、
侏儒だか、小男だか。ただ船虫の影の
拡ったほどのものが、靄に沁み出て、一段、一段と這上る。
······ しょぼけ返って、
蠢くたびに、
啾々と陰気に
幽な音がする。腐れた肺が
呼吸に鳴るのか
||ぐしょ濡れで
裾から雫が垂れるから、骨を絞る
響であろう
||傘の古骨が風に
軋むように、啾々と不気味に聞こえる。
「しいッ、」
「やあ、」
しッ、しッ、しッ。
曳声を揚げて
······こっちは陽気だ。手頃な
丸太棒を
差荷いに、
漁夫の、半裸体の、がッしりした
壮佼が二人、
真中に一尾の大魚を釣るして来た。魚頭を
鈎縄で、尾はほとんど
地摺である。しかも、もりで撃った生々しい
裂傷の、肉のはぜて、
真向、
腮、
鰭の下から、たらたらと流るる
鮮血が、
雨路に滴って、草に赤い。
私は話の中のこの
魚を写出すのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。
大鮪か、
鮫、
鱶でないと、ちょっとその
巨大さと
凄じさが、真に迫らない気がする。
||ほかに
鮟鱇がある、それだと、ただその腹の膨れたのを
観るに過ぎぬ。実は
石投魚である。大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども、ここに担いだのは五尺に余った、重量、二十貫に満ちた、
逞しい人間ほどはあろう。荒海の
巌礁に
棲み、
鱗鋭く、
面顰んで、
鰭が硬い。と見ると
鯱に似て、彼が城の天守に金銀を
鎧った諸侯なるに対して、これは
赤合羽を
絡った下郎が、
蒼黒い魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。
かばかりの
大石投魚の、さて
価値といえば、両を出ない。七八十銭に過ぎないことを、あとで聞いてちと
鬱いだほどである。が、とにかく、これは問屋、市場へ運ぶのではなく、漁村なるわが町内の晩のお
菜に
||荒磯に横づけで、ぐわッぐわッと、
自棄に煙を吐く
艇から、
手鈎で
崖肋腹へ
引摺上げた中から、そのまま
跣足で、磯の
巌道を踏んで来たのであった。
まだ船底を踏占めるような、重い足取りで、
田畝添いの
脛を左右へ、草摺れに、だぶだぶと
大魚を
揺って、
「しいッ、」
「やあ、」
しっ、しっ、しっ。
この血だらけの魚の
現世の
状に似ず、梅雨の日暮の森に
掛って、
青瑪瑙を畳んで高い、石段下を、横に、
漁夫と魚で一列になった。
すぐここには見えない、木の鳥居は、海から吹抜けの風を
厭ってか、窪地でたちまち
氾濫れるらしい水場のせいか、
一条やや広い
畝を隔てた、町の裏通りを
||横に通った、正面と、
撞木に
打着った
真中に立っている。
御柱を低く
覗いて、映画か、芝居のまねきの旗の、
手拭の汚れたように、渋茶と、
藍と、あわれ
鰒、
小松魚ほどの元気もなく、
棹によれよれに見えるのも、もの寂しい。
前へ立った
漁夫の肩が、石段を一歩出て、
後のが脚を上げ、
真中の大魚の
鰓が、端を
攀じっているその変な小男の、段の高さとおなじ処へ、
生々と出て、
横面を
鰭の血で縫おうとした。
その時、小男が伸上るように、丸太棒の上から覗いて、
「
無慙や、そのざまよ。」
と云った、
眼がピカピカと光って、
「われも世を
呪えや。」
と、首を振ると、耳まで
被さった毛が、ぶるぶると動いて
······腥い。
しばらくすると、薄墨をもう
一刷した、
水田の際を、おっかな
吃驚、といった形で、
漁夫らが
屈腰に引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。
鰌が居たら
押えたそうに見える。丸太ぐるみ、どか落しで
遁げた、たった今。
······いや、遁げたの候の。
······あか
褌にも恥じよかし。
「
大かい
魚ア石地蔵様に化けてはいねえか。」
と、石投魚はそのまま石投魚で
野倒れているのを、見定めながらそう云った。
一人は石段を
密と見上げて、
「
何も居ねえぞ。」
「おお、居ねえ、居めえよ、お
前。一つ
劫かしておいて消えたずら。いつまでも
顕われていそうな奴じゃあねえだ。」
「いまも言うた事だがや、この
魚を
狙ったにしては、
小い奴だな。」
「それよ、海から
己たちをつけて来たものではなさそうだ。出た
処勝負に石段の上に立ちおったで。」
「
己は、
魚の
腸から抜出した
怨霊ではねえかと思う。」
と
掴みかけた大魚
腮から、わが声に驚いたように手を
退けて言った。
「何しろ、水ものには違えねえだ。野山の狐
鼬なら、
面が白いか、黄色ずら。青蛙のような色で、
疣々が立って、はあ、
嘴が
尖って、もずくのように毛が下った。」
「そうだ、そうだ。それでやっと思いつけた。絵に
描いた
河童そっくりだ。」
と、なぜか急に
勢づいた。
絵そら事と俗には言う、が、絵はそら事でない事を、読者は、刻下に理解さるるであろう、と思う。
「畜生。今ごろは
風説にも聞かねえが、こんな処さ出おるかなあ。
||浜方へ飛ばねえでよかった。
||漁場へ
遁げりゃ、それ、なかまへ
饒舌る。加勢と来るだ。」
「それだ。」
「村の方へ走ったで、留守は、女子供だ。相談ぶつでもねえで、すぐ
引返して、しめた事よ。お
前らと、
己とで、河童に
劫されたでは、うつむけにも
仰向けにも、この顔さ立ちっこねえ処だったぞ、やあ。」
「そうだ、そうだ。いい事をした。
||畜生、もう一度出て見やがれ。あたまの皿ア
打挫いて、
欠片にバタをつけて一口だい。」
丸太棒を抜いて取り、引きそばめて、石段を
睨上げたのは言うまでもない。
「コワイ」
と、虫の声で、
青蚯蚓のような舌をぺろりと出した。怪しい小男は、段を昇切った古杉の幹から、青い
嘴ばかりを出して、
麓を
瞰下しながら、あけびを裂いたような口を開けて、またニタリと笑った。
その杉を、右の方へ、山道が
樹がくれに続いて、木の根、岩角、雑草が人の脊より高く
生乱れ、どくだみの香深く、
薊が
凄じく咲き、
野茨の花の白いのも、時ならぬ
黄昏の
仄明るさに、人の目を迷わして、行手を遮る趣がある。
梢に響く波の音、吹当つる浜風は、
葎を渦に廻わして東西を失わす。この坂、いかばかり遠く続くぞ。
谿深く、峰
遥ならんと思わせる。けれども、わずかに一町ばかり、はやく
絶崖の端へ出て、ここを
魚見岬とも言おう。町も海も一目に見渡さる、と、急に左へ折曲って、また石段が一個処ある。
小男の頭は、この絶崖際の草の
尖へ、あの、
蕈の笠のようになって、ヌイと出た。
麓では、二人の
漁夫が、横に寝た
大魚をそのまま棄てて、一人は
麦藁帽を取忘れ、一人の
向顱巻が
南瓜かぶりとなって、棒ばかり、影もぼんやりして、
畝に暗く沈んだのである。
||仔細は、魚が重くて上らない。魔ものが
圧えるかと、丸太で
空を切ってみた。もとより手ごたえがない。あのばけもの、口から腹に潜っていようも知れぬ。
腮が動く、目が光って来た、となると、擬勢は示すが、もう、魚の腹を
撲りつけるほどの勇気も失せた。おお、
姫神||明神は女体にまします
||夕餉の料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特な
言が一致して、裸体の白い娘でない、
御供を残して
皈ったのである。
蒼ざめた小男は、第二の石段の上へ出た。沼の
干たような、自然の丘を
繞らした、清らかな境内は、坂道の暗さに似ず、つらつらと濡れつつ
薄明い。
右斜めに、
鉾形の杉の大樹の、
森々と虚空に茂った中に
社がある。
||こっちから、もう謹慎の意を表する
状に、ついた杖を地から挙げ、胸へ片手をつけた。が、左の手は、ぶらんと落ちて、
草摺の
断れたような
襤褸の袖の中に、肩から、ぐなりとそげている。これにこそ、わけがあろう。
まず聞け。
||青苔に
沁む風は、坂に草を
吹靡くより、おのずから
静ではあるが、階段に、緑に、堂のあたりに散った
常盤木の落葉の乱れたのが、いま、そよとも動かない。
のみならず。
||すぐこの
階のもとへ、灯ともしの
翁一人、
立出づるが、その油差の上に差置く、燈心が、その燈心が、入相すぐる
夜嵐の、やがて、
颯と吹起るにさえ、そよりとも動かなかったのは不思議であろう。
啾々と近づき、啾々と進んで、杖をバタリと置いた。濡鼠の
袂を敷いて、
階の下に
両膝をついた。
目ばかり光って、
碧額の
金字を仰いだと思うと、
拍手のかわりに
||片手は利かない
||痩せた胸を三度打った。
「願いまっしゅ。
······お晩でしゅ。」
と、きゃきゃと
透る、しかし、あわれな声して、地に
頭を
摺りつけた。
「願いまっしゅ、お願い。お願い
||」
正面の額の蔭に、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりと
顕われると、ひらりと
舞下り、小男の頭の上をすっと飛んだ。
||この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に
点れたように灯影が映る時、
八十年にも近かろう、
皺びた
翁の、彫刻また絵画の面より、頬のやや円いのが、
萎々とした
禰宜いでたちで、
蚊脛を絞り、鹿革の古ぼけた大きな
燧打袋を腰に提げ、燈心を一束、片手に油差を持添え、
揉烏帽子を頂いた、耳、ぼんの
窪のはずれに、燈心はその
十筋
七筋の抜毛かと思う
白髪を
覗かせたが、あしなかの音をぴたりぴたりと寄って、半ば朽崩れた欄干の、
擬宝珠を背に控えたが。
屈むが膝を抱く。
||その時、段の隅に、油差に添えて燈心をさし置いたのである。
||「
和郎はの。」
「三里離れた処でしゅ。
||国境の、水溜りのものでございまっしゅ。」
「ほ、ほ、
印旛沼、手賀沼の一族でそうろよな、様子を見ればの。」
「赤沼の若いもの、三郎でっしゅ。」
「河童衆、ようござった。さて、あれで見れば、石段を
上らしゃるが、いこう大儀そうにあった、若いにの。
······和郎たち、空を飛ぶ心得があろうものを。」
「
神職様、おおせでっしゅ。
||自動車に
轢かれたほど、
身体に
怪我はあるでしゅが、梅雨空を泳ぐなら、
鳶烏に負けんでしゅ。お鳥居より式台へ
掛らずに、樹の上から飛込んでは、お姫様に、失礼でっしゅ、と存じてでっしゅ。」
「ほ、ほう、しんびょう。」
ほくほくと
頷いた。
「きものも、灰塚の森の中で、
古案山子を
剥いだでしゅ。」
「しんびょう、しんびょう
······奇特なや、
忰。
······何、それで大怪我じゃと
||何としたの。」
「それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。」
「この老ぼれには何も
叶わぬ。いずれ、姫神への願いじゃろ。お取次を申そうじゃが、忰、趣は
||お薬かの。」
「薬でないでしゅ。
||敵打がしたいのでっしゅ。」
「ほ、ほ、そか、そか。敵打。
······はて、そりゃ、しかし、若いに似合わず、流行におくれたの。敵打は近頃はやらぬがの。」
「そでないでっしゅ。仕返しでっしゅ、
喧嘩の仕返しがしたいのでっしゅ。」
「喧嘩をしたかの。喧嘩とや。」
「この左の手を折られたでしゅ。」
とわなわなと身震いする。濡れた肩を絞って、
雫の垂るのが、
蓴菜に似た血のかたまりの、いまも流るるようである。
尖った
嘴は、
疣立って、なお
蒼い。
「いたましげなや
||何としてなあ。
対手はどこの何ものじゃの。」
「畜生!人間。」
「
静に
||」
ごぼりと
咳いて、
「
御前じゃ。」
しゅッと、河童は身を縮めた。
「日の今日、
午頃、久しぶりのお天気に、おらら沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の
竃巌へ。
||神職様、
小鮒、
鰌に腹がくちい、貝も
小蟹も欲しゅう思わんでございましゅから、白い浪の打ちかえす
磯端を、八
葉の
蓮華に気取り、
背後の
屏風巌を、
舟後光に真似て、円座して
······翁様、御存じでございましょ。あれは
||近郷での、かくれ里。めった、人の目につかんでしゅから、山根の潮の差引きに、隠れたり、出たりして、
凸凹凸凹凸凹と、
累って敷く
礁を削り廻しに、漁師が、天然の
生簀、
生船がまえにして、
魚を貯えて置くでしゅが、
鯛も
鰈も、梅雨じけで見えんでしゅ。
······掬い残りの
小こい
鰯子が、チ、チ、チ、(笑う。)
······青い
鰭の行列で、
巌竃の
簀の中を、きらきらきらきら、
日南ぼっこ。ニコニコとそれを見い、見い、身のぬらめきに、
手唾して、
······漁師が網を
繕うでしゅ
······あの真似をして遊んでいたでしゅ。
||処へ、土地ところには
聞馴れぬ、すずしい澄んだ
女子の声が、男に交って、崖上の
岨道から、
巌角を、踏んず、
縋りつ、
桂井とかいてあるでしゅ、
印半纏。」
「おお、そか、この町の
旅籠じゃよ。」
「ええ、その番頭めが案内でしゅ。
円髷の年増と、その亭主らしい、
長面の夏帽子。自動車の運転手が、こつこつと一所に来たでしゅ。が、その年増を
||おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした
別嬪の娘
||ちくと、そのおばさん、が、おばしアん、と云うか、と聞こえる
······清い、甘い、情のある、その声が
堪らんでしゅ。」
「はて、異な声の。」
「おららが真似るようではないでしゅ。」
「ほ、ほ、そか、そか。」
と、余念なさそうに
頷いた
||風はいま吹きつけたが
||その不思議に乱れぬ、ひからびた燈心とともに、
白髪も浮世離れして、
翁さびた風情である。
「翁様、娘は中肉にむっちりと、
膚つきが
得う言われぬのが、びちゃびちゃと潮へ入った。
褄をくるりと。」
「
危やの。おぬしの前でや。」
「その
脛の白さ、
常夏の花の影がからみ、磯風に揺れ揺れするでしゅが
||年増も入れば、夏帽子も。番頭も半纏の
裙をからげたでしゅ。
巌根づたいに、
鰒、鰒、
栄螺、栄螺。
······小鰯の色の綺麗さ。紫式部といったかたの好きだったというももっともで
······お
紫と云うがほんとうに紫
······などというでしゅ、その娘が、その声で。
······淡い
膏も、
白粉も、娘の匂いそのままで、
膚ざわりのただ
粗い、岩に脱いだ白足袋の
裡に潜って、
熟と覗いていたでしゅが。一波上るわ、
足許へ。あれと
裳を、脛がよれる、裳が揚る、
紅い帆が、白百合の船にはらんで、青々と引く波に走るのを見ては、何とも、かとも、翁様。」
「ちと聞苦しゅう覚えるぞ。」
「口へ出して言わぬばかり、人間も、赤沼の三郎もかわりはないでしゅ。翁様
||処ででしゅ、この
吸盤用意の
水掻で、お尻を
密と
撫でようものと
······」
「ああ、約束は免れぬ。和郎たちは、一族一門、代々それがために皆怪我をするのじゃよ。」
「違うでしゅ、それでした怪我ならば、自業自得で
怨恨はないでしゅ。
······蛙手に、底を泳ぎ寄って、口をぱくりと、」
「その口でか、その口じゃの。」
「ヒ、ヒ、ヒ、空ざまに、波の上の
女郎花、
桔梗の帯を見ますと、や、
背負守の扉を透いて、道中、道すがら
参詣した、中山の法華経寺か、かねて御守護の
雑司ヶ
谷か、
真紅な
柘榴が輝いて燃えて、
鬼子母神の
御影が見えたでしゅで、
蛸遁げで、岩を吸い、吸い、色を変じて磯へ上った。
沖がやがて曇ったでしゅ。あら、気味の悪い、浪がかかったかしら。
······別嬪の娘の畜生め、などとぬかすでしゅ。
······白足袋をつまんで。
|| 磯浜へ上って来て、
巌の根松の日蔭に
集り、ビイル、
煎餅の
飲食するのは、
羨しくも何ともないでしゅ。娘の白い
頤の少しばかり動くのを、
甘味そうに、
屏風巌に
附着いて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って
反るでしゅ。見つけられまい、と
背後をすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人が揃って立つでしゅから、ひょいと
岨路へ飛ぼうとする処を、
||まて、まて、まて
|| と娘の声でしゅ。
見惚れて
顱が
顕われたか、
罷了と、慌てて
足許の穴へ隠れたでしゅわ。
間の悪さは、
馬蛤貝のちょうど
隠家。
||塩を入れると飛上るんですってねと、娘の目が、穴の上へ、ふたになって、
熟と
覗く。河童だい、あかんべい、とやった処が、でしゅ
······覗いた瞳の美しさ、その
麗さは、月宮殿の池ほどござり、
睫が柳の
小波に、岸を縫って、
靡くでしゅが。
||ただ
一雫の露となって、
逆に落ちて吸わりょうと、
蕩然とすると、痛い、
疼い、痛い、疼いッ。肩のつけもとを
棒切で、砂越しに
突挫いた。」
「その怪我じゃ。」
「神職様。
||塩で釣出せぬ
馬蛤のかわりに、太い
洋杖でかッぽじった、杖は夏帽の奴の持ものでしゅが、下手人は旅籠屋の番頭め、
這奴、女ばらへ、お歯向きに、金歯を見せて
不埒を働く。」
「ほ、ほ、そか、そか。
||かわいや
忰、忰が
怨は番頭じゃ。」
「違うでしゅ、翁様。
||思わず、きゅうと息を引き、馬蛤の穴を
刎飛んで、
田打蟹が、ぼろぼろ打つでしゅ、泡ほどの砂の
沫を
被って転がって
遁げる時、
口惜しさに、奴の
穿いた、
奢った長靴、丹精に磨いた自慢の
向脛へ、この
唾をかッと吐掛けたれば、この
一呪詛によって、あの、ご秘蔵の長靴は、穴が明いて腐るでしゅから、奴に取っては、リョウマチを煩らうより、きとこたえる。仕返しは沢山でしゅ。
||怨の的は、神職様
||娘ども、夏帽子、その女房の三人でしゅが。」
「一通りは聞いた、ほ、そか、そか。
······無理も道理も、
老の一存にはならぬ事じゃ。いずれはお姫様に申上ぎょうが、こなた道理には外れたようじゃ、無理でのうもなかりそうに思われる、そのしかえし。お聞済みになろうか。むずかしいの。」
「御鎮守の姫様、おきき済みになりませぬと、目の前の
仇を
視ながら仕返しが出来んのでしゅ、出来んのでしゅが、わア、」
とたちまち声を上げて泣いたが、河童はすぐに泣くものか、知らず、
駄々子がものねだりする
状であった。
「忰、忰
······まだ早い
······泣くな。」
と翁は、白く笑った。
「大慈大悲は
仏菩薩にこそおわすれ、この年老いた気の弱りに、毎度御意見は申すなれども、姫神、
任侠の御気風ましまし、ともあれ、先んじて、お袖に
縋ったものの願い事を、お聞届けの模様がある。一たび取次いでおましょうぞ
||えいとな。
······ や、や、や、横扉から、はや、お縁へ。
······これは、また、お軽々しい。」
廻廊の縁の角あたり、雲低き柳の
帳に立って、
朧に神々しい姿の、翁の声に、つと
打向いたまえるは、
細面ただ白玉の鼻筋通り、水晶を刻んで、威のある
眦。額髪、眉のかかりは、紫の薄い
袖頭巾にほのめいた、が、匂はさげ髪の背に余る。
||紅地金襴のさげ帯して、紫の袖長く、
衣紋に優しく引合わせたまえる、手かさねの両の袖口に、塗骨の扇つつましく持添えて、床板の朽目の
青芒に、
裳の
紅うすく燃えつつ、すらすらと
莟なす白い素足で渡って。
||神か、あらずや、人か、
巫女か。
「
||その話の人たちを見ようと思う、翁、里人の深切に、すきな柳を欄干さきへ植えてたもったは嬉しいが、町の桂井館は葉のしげりで隠れて見えぬ。
||広前の、そちらへ、参ろう。」
はらりと、やや
蓮葉に
白脛のこぼるるさえ、道きよめの雪の影を散らして、
膚を守護する位が備わり、包ましやかなお
面より、一層世の
塵に遠ざかって、好色の河童の
痴けた目にも、女の肉とは映るまい。
姫のその姿が、正面の格子に、銀色の染まるばかり、
艶々と映った時、
山鴉の
嘴太が
||二羽、小刻みに縁を走って、片足ずつ
駒下駄を、
嘴でコトンと壇の上に揃えたが、鴉がなった
沓かも知れない、同時に
真黒な羽が消えたのであるから。
足が浮いて、ちらちらと高く上ったのは
||白い蝶が、トタンにその塗下駄の底を
潜って舞上ったので。
||見ると、姫はその蝶に軽く乗ったように宙を下り立った。
「お
床几、お床几。」
と翁が呼ぶと、
栗鼠よ、栗鼠よ、古栗鼠の小栗鼠が、樹の根の、
黒檀のごとくに
光沢あって、木目は、蘭を浮彫にしたようなのを、前脚で抱えて、ひょんと出た。
袖近く、あわれや、片手の甲の上に、額を押伏せた赤沼の小さな主は、その目を上ぐるとひとしく、我を忘れて叫んだ。
「ああ、見えましゅ
······あの向う丘の、二階の角の
室に、三人が、うせおるでしゅ。」
姫の紫の
褄下に、
山懐の夏草は、
淵のごとく暗く沈み、
野茨乱れて白きのみ。沖の船の
燈が二つ三つ、星に似て、ただ町の屋根は音のない波を連ねた中に、森の雲に包まれつつ、その旅館
||桂井の二階の欄干が、あたかも大船の甲板のように、浮いている。
が、鬼神の瞳に引寄せられて、
社の境内なる足許に、
切立の石段は、
疾くその
舷に昇る
梯子かとばかり、
遠近の
法規が乱れて、赤沼の三郎が、角の室という八畳の縁近に、
鬢の
房りした束髪と、薄手な年増の
円髷と、男の
貸広袖を着た
棒縞さえ、
靄を分けて、はっきりと描かれた。
「あの、三人は?」
「はあ、されば、その事。」
と、翁が
手庇して傾いた。
社の神木の
梢を
鎖した、黒雲の中に、怪しや、冴えたる女の声して、
「お爺さん
||お取次。
······ぽう、ぽっぽ。」
木菟の女性である。
「皆、東京の下町です。円髷は踊の師匠。若いのは、おなじ、師匠なかま、
姉分のものの娘です。男は、円髷の亭主です。ぽっぽう。おはやし方の笛吹きです。」
「や、や、千里眼。」
翁が仰ぐと、
「あら、そんなでもありませんわ。ぽっぽ。」
と空でいった。河童の一肩、
聳えつつ、
「芸人でしゅか、士農工商の道を外れた、ろくでなしめら。」
「三郎さん、でもね、ちょっと上手だって言いますよ、ぽう、ぽっぽ。」
翁ははじめて、気だるげに、横にかぶりを振って、
「芸一通りさえ、なかなかのものじゃ。達者というも得難いに、人間の癖にして、上手などとは行過ぎじゃぞよ。」
「お姫様、トッピキピイ、あんな奴はトッピキピイでしゅ。」
と河童は
水掻のある片手で、鼻の下を、べろべろと
擦っていった。
「おおよそ御合点と見うけたてまつる。赤沼の三郎、仕返しは、どの様に望むかの。まさかに、
生命を
奪ろうとは思うまい。厳しゅうて笛吹は
眇、女どもは片耳
殺ぐか、鼻を削るか、
蹇、
跛どころかの
||軽うて、
気絶······やがて、息を吹返さすかの。」
「えい、
神職様。
馬蛤の穴にかくれた小さなものを
虐げました。うってがえしに、あの、ご
覧じ、石段下を一杯に倒れた血みどろの
大魚を、雲の中から、ずどどどど!だしぬけに、あの三人の座敷へ投込んで頂きたいでしゅ。気絶しようが、のめろうが、鼻かけ、
歯かけ、
大な
賽の目の出次第が、本望でしゅ。」
「ほ、ほ、大魚を降らし、賽に投げるか。おもしろかろ。
忰、思いつきは至極じゃが、折から当お社もお人ずくなじゃ。あの魚は、かさも、重さも、破れた釣鐘ほどあって、のう、手頃には参らぬ。」
と云った。神に使うる翁の、この
譬喩の
言を聞かれよ。筆者は、大石投魚を
顕わすのに苦心した。が、こんな適切な形容は、凡慮には及ばなかった。
お天守の杉から、再び女の声で
······「そんな重いもの持運ぶまでもありませんわ。ぽう、ぽっぽ
||あの三人は町へ遊びに出掛ける処なんです。少しばかり
誘をかけますとね、ぽう、ぽっぽ
||お社
近まで参りましょう。石段下へ引寄せておいて、石投魚の亡者を飛上らせるだけでも用はたりましょうと存じますのよ。ぽう、ぽっぽ
||あれ、ね、娘は髪のもつれを
撫つけております、
頸の白うございますこと。次の
室の姿見へ、年増が代って坐りました。
||感心、娘が、こん度は
円髷、
||あの手がらの水色は涼しい。ぽう、ぽっぽ
||髷の
鬢を撫でつけますよ。女同士のああした処は、しおらしいものですわね。
酷いめに逢うのも知らないで。
······ぽう、ぽっぽ
||可哀相ですけど。
······もう縁側へ出ましたよ。男が先に、気取って
洋杖なんかもって
||あれでしょう。三郎さんを突いたのは
||帰途は杖にして
縋ろうと思って、ぽう、ぽっぽ。
······いま、すぐ、玄関へ出ますわ、ごらんなさいまし。」
真暗な杉に
籠って、長い耳の左右に動くのを、黒髪で
捌いた、女顔の
木菟の、
紅い
嘴で笑うのが、見えるようで
凄じい。その顔が月に化けたのではない。ごらんなさいましという、言葉が道をつけて、
隧道を
覗かす
状に、
遥にその真正面へ、ぱっと電燈の光のやや薄赤い、桂井館の大式台が
顕れた。
向う歯の金歯が光って、
印半纏の番頭が、
沓脱の
傍にたって、長靴を磨いているのが見える。いや、磨いているのではない。それに、客のではない。
捻り廻して
鬱いだ
顔色は、
愍然や、河童のぬめりで腐って、ポカンと穴があいたらしい。まだ宵だというに、番頭のそうした処は、旅館の閑散をも表示する
······背後に雑木山を控えた、鍵の手
形の総二階に、あかりの
点いたのは、三人の客が、出掛けに障子を閉めた、その角座敷ばかりである。
下廊下を、元気よく玄関へ出ると、女連の手は早い、二人で
歩行板を
衝と渡って、自分たちで下駄を揃えたから、番頭は
吃驚して、長靴を
掴んだなりで、金歯を
剥出しに、世辞笑いで、お
叩頭をした。
女中が二人出て送る。その玄関の
燈を背に、芝草と、植込の小松の中の敷石を、三人が道なりに少し
畝って
伝って、
石造の門にかかげた、石ぼやの門燈に、影を黒く、段を降りて砂道へ出た。が、すぐ町から小半町
引込んだ坂で、一方は畑になり、一方は宿の
囲の石垣が長く続くばかりで、人通りもなく、そうして
仄暗い。
ト、町へたらたら下りの坂道を、つかつかと
······わずかに白い門燈を離れたと思うと、どう並んだか、三人の右の片手三本が、ひょいと空へ、揃って、踊り構えの、さす手に上った。同時である。おなじように腰を捻った。下駄が浮くと、引く手が合って、おなじく三本の手が左へ、さっと流れたのがはじまりで、一列なのが、廻って、くるくると
巴に
附着いて、開いて、くるりと輪に踊る。花やかな娘の笑声が、夜の底に響いて、また、くるりと廻って、手が流れて、
褄が
飜る。足腰が、
水馬の
刎ねるように、ツイツイツイと刎ねるように坂くだりに
行く。
······いや、それがまた早い。娘の帯の、銀の露の秋草に、円髷の帯の、
浅葱に染めた色絵の蛍が、
飛交って、
茄子畑へ綺麗にうつり、すいと消え、ぱっと咲いた。
「酔っとるでしゅ、あの笛吹。女どもも二三杯。」と河童が舌打して言った。
「よい、よい、遠くなり、近くなり、あの
破鐘を持扱う雑作に及ばぬ。お山の
草叢から、黄腹、赤背の
山鱗どもを、
綯交ぜに、三筋の処を走らせ、あの踊りの足許へ、茄子畑から、にょっにょっと、蹴出す
白脛へ
搦ましょう。」この時の白髪は動いた。
「
爺い。」
「はあ。」と烏帽子が
伏る。
姫は
床几に端然と、
「男が、口のなかで拍子を取るが
······」
翁は耳を傾け、
皺手を当てて聞いた。
「拍子ではござりませぬ、ぶつぶつと唄のようで。」
「さすが、
商売人。
||あれに笛は吹くまいよ、何と唄うえ。」
「分りましたわ。」と、森で受けた。
「
······諏訪||の海
||水底、照らす、小玉石
||手には取れども袖は
濡さじ
······おーもーしーろーお
神楽らしいんでございますの。お、も、しーろし、かしらも、白し、富士の山、
麓の霞
||峰の白雪。」
「それでは、お富士様、お諏訪様がた、お目かけられものかも知れない
||お待ち
······あれ、気の
疾い。」
紫の袖が解けると、
扇子が、柳の膝に、
丁と当った。
びくりとして、三つ、ひらめく舌を縮めた。風のごとく駆下りた、ほとんど魚の
死骸の
鰭のあたりから、ずるずると石段を
這返して、揃って、姫を空に仰いだ、
一所の鎌首は、
如意に似て、ずるずると尾が長い。
二階のその角座敷では、三人、顔を見合わせて、ただ
呆れ果ててぞいたりける風情がある。
これは、さもありそうな事で、一座の
立女形たるべき娘さえ、十五十六ではない、
二十を三つ四つも越しているのに。
||円髷は四十
近で、笛吹きのごときは五十にとどく、というのが、手を揃え、足を挙げ、腰を振って、大道で踊ったのであるから。
||もっと深入した事は、見たまえ、ほっとした
草臥れた
態で、
真中に三方から取巻いた
食卓の上には、茶道具の左右に、真新しい、
擂粉木、および
杓子となんいう、世の
宝貝の中に、最も興がった
剽軽ものが揃って乗っていて、これに目鼻のつかないのが
可訝いくらい。ついでに
婦二人の顔が杓子と擂粉木にならないのが不思議なほど、変な
外出の夜であった。
「どうしたっていうんでしょう。」
と、娘が擂粉木の沈黙を破って、
「誰か、見ていやしなかったかしら、
可厭だ、私。」
と
頤を削ったようにいうと、年増は杓子で
俯向いて、寂しそうに、それでも、目もとには、まだ
笑の
隈が残って消えずに、
「誰が見るものかね。踊よりか、町で買った、擂粉木とこの
杓もじをさ、お前さんと私とで、持って
歩行いた方がよっぽどおかしい。」
「だって、おばさん
||どこかの山の神様のお祭に踊る時には、まじめな道具だって、おじさんが言うんじゃないの。
······御幣とおんなじ事だって。
······だから私
||まじめに町の中を持ったんだけれど、考えると
||変だわね。」
「いや、まじめだよ。この擂粉木と
杓子の恩を忘れてどうする。おかめひょっとこのように
滑稽もの扱いにするのは不届き千万さ。」
さて、笛吹
||は、これも町で買った
楊弓仕立の竹に、雀が針がねを
伝って、
嘴の鈴を、チン、カラカラカラカラカラ、チン、カラカラと飛ぶ
玩弄品を、膝について、鼻の下の伸びた顔でいる。
······いや、愚に返った事は
||もし踊があれなりに続いて、下り坂を
発奮むと、町の
真中へ舞出して、漁師町の棟を飛んで、海へころげて落ちたろう。
馬鹿気ただけで、
狂人ではないから、
生命に別条はなく鎮静した。
||ところで、とぼけきった興は尽きず、
神巫の鈴から思いついて、古びた玩弄品屋の店で、ありあわせたこの雀を買ったのがはじまりで、笛吹はかつて、麻布辺の大資産家で、郷土民俗の趣味と、研究と、地鎮祭をかねて、
飛騨、三河、
信濃の国々の谷谷谷深く相
交叉する、山また山の
僻村から招いた、山民一行の祭に参じた。桜、
菖蒲、山の
雉子の花踊。赤鬼、青鬼、白鬼の、面も三尺に余るのが、
斧鉞の曲舞する。
浄め砂置いた広庭の壇場には、
幣をひきゆい、
注連かけわたし、
来ります神の道は、(
千道、
百綱、道七つ。)とも言えば、(
綾を織り、
錦を敷きて招じる。)と謡うほどだから、奥山人が、代々に伝えた紙細工に、
巧を凝らして、千道百綱を
虹のように。
飾の鳥には、雉子、
山鶏、秋草、もみじを切出したのを、
三重、
七重に
||たなびかせた、その
真中に、丸太
薪を
堆く烈々と
燻べ、
大釜に湯を沸かせ、湯玉の
霰にたばしる中を、
前後に行違い、右左に飛廻って、
松明の火に、鬼も、人も、
神巫も、
禰宜も、美女も、裸も、虎の皮も、
紅の
袴も、燃えたり、消えたり、その、ひゅうら、ひゅ、ひゅうら、ひゅ、諏訪の海、
水底照らす小玉石、を唄いながら、黒雲に
飛行する、その目覚しさは
······なぞと、町を
歩行きながら、ちと手真似で話して、その神楽の中に、青いおかめ、黒いひょっとこの、
扮装したのが、こてこてと飯粒をつけた
大杓子、べたりと味噌を塗った
太擂粉木で、踊り踊り、不意を襲って、あれ、きゃア、ワッと言う
隙あらばこそ、見物、いや、参詣の紳士はもとより、
装を凝らした貴婦人令嬢の顔へ、ヌッと突出し、べたり、ぐしゃッ、どろり、と塗る
······と話す頃は、円髷が
腹筋を横によるやら、娘が拝むようにのめって
俯向いて笑うやら。ちょっとまた踊が
憑いた形になると、興に乗じて、あの番頭を
噴出させなくっては
······女中をからかおう。
······で、あろう事か、荒物屋で、古新聞で包んでよこそう、というものを、そのままで結構よ。第一色気ざかりが
露出しに受取ったから、荒物屋のかみさんが、おかしがって笑うより、
禁厭にでもするのか、と気味の悪そうな顔をしたのを、また嬉しがって、
寂寥たる夜店のあたりを一廻り。横町を
田畝へ抜けて
||はじめから志した
||山の森の明神の、あの石段の下へ着いたまでは、馬にも、
猪にも乗った
勢だった。
そこに
······何を見たと思う。
||通合わせた自動車に、消えて乗って、わずかに三分。
······ 宿へ
遁返った時は、顔も白澄むほど、女二人、杓子と擂粉木を出来得る限り、
掻合わせた袖の下へ。
||あら、まあ、笛吹は分別で、チン、カラカラカラ、チン。わざと、チンカラカラカラと雀を鳴らして、これで出迎えた女中だちの目を
逸らさせたほどなのであった。
「いわば、お儀式用の宝ものといっていいね、時ならない
食卓に乗ったって、何も気味の悪いことはないよ。」
「気味の悪いことはないったって、一体変ね、帰る
途でも言ったけれど、行がけに
先刻、宿を出ると、いきなり踊出したのは誰なんでしょう。」
「そりゃ私だろう。掛引のない処。お前にも話した事があるほどだし、その時の祭の踊を実地に見たのは、私だから。」
「ですが、こればかりはお前さんのせいともいえませんわ。
······話を聞いていますだけに、何だか私だったかも知れない気がする。」
「あら、おばさん、私のようよ、いきなりひとりでに、すっと手の上ったのは。」
「まさか、巻込まれたのなら知らないこと
||お婿さんをとるのに、間違ったら、高島田に
結おうという娘の癖に。」
「おじさん、ひどい、間違ったら高島田じゃありません、やむを得ず
洋髪なのよ。」
「おとなしくふっくりしてる癖に、時々ああいう口を利くんですからね。
||吃驚させられる事があるんです。
||いつかも修善寺の
温泉宿で、あすこに廊下の橋がかりに川水を引入れた
流の瀬があるでしょう。
巌組にこしらえた、小さな滝が落ちるのを、池の鯉が揃って、競って昇るんですわね。水をすらすらと上るのは割合やさしいようですけれど、流れが
煽って、こう、
颯とせく、落口の
巌角を
刎ね越すのは
苦艱らしい
······しばらく見ていると、だんだんにみんな上った、一つ残ったのが、ああもう少し、もう一息という処で滝壺へ返って落ちるんです。そこよ、しっかりッてこの
娘||口へ出したうちはまだしも、しまいには目を据えて、
熟と
視たと思うと、湯上りの浴衣のままで、あの高々と取った欄干を、あッという間もなく、
跣足で、跣足で
跨いで
||お帳場でそういいましたよ。随分おてんばさんで、二階の屋根づたいに隣の間へ、ばア
||それよりか
瓦の
廂から、藤棚越しに下座敷を
覗いた娘さんもあるけれど、あの欄干を跨いだのは、いつの昔、開業以来、はじめてですって。
······この
娘。
······御当人、それで巌飛びに飛移って、その鯉をいきなりつかむと、滝の上へ泳がせたじゃありませんか。」
「説明に及ばず。私も一所に見ていたよ。
吃驚した。時々放れ業をやる。それだから、縁遠いんだね。たとえばさ、真のおじきにした処で、いやしくも男の前だ。あれでは跨いだんじゃない、飛んだんだ。いや、足を宙へ上げたんだ。
||」
「知らない、おじさん。」
「もっとも、一所に道を
歩行いていて、左とか右とか、私と説が違って、さて自分が勝つと
||銀座の人込の中で、どうです、それ見たか、と白い
······」
「
多謝。」
「
逞しい。」
「取消し。」
「腕を、拳固がまえの
握拳で、二の腕の見えるまで、ぬっと象の鼻のように私の目のさきへ
突出した事があるんだからね。」
「まだ、踊ってるようだわね、話がさ。」
「私も、おばさん、いきなり踊出したのは、やっぱり私のように思われてならないのよ。」
「いや、ものに誘われて、何でも、これは、言合わせたように、前後甲乙、さっぱりと三人
同時だ。」
「
可厭ねえ、気味の悪い。」
「ね、おばさん、日の暮方に、お酒の前。
······ここから門のすぐ向うの
茄子畠を見ていたら、影法師のような小さなお
媼さんが、杖に
縋ってどこからか出て来て、畑の
真中へぼんやり立って、その杖で、何だか九字でも切るような様子をしたじゃアありませんか。思出すわ。
······鋤鍬じゃなかったんですもの。あの、持ってたもの
撞木じゃありません?
悚然とする。あれが魔法で、私たちは、誘い込まれたんじゃないんでしょうかね。」
「大丈夫、いなかでは遣る事さ。ものなりのいいように、
生れ生れ
茄子のまじないだよ。」
「でも、畑のまた下道には、古い
穀倉があるし、狐か、狸か。」
「そんな事は決してない。考えているうちに、私にはよく分った。雨続きだし、石段が
辷るだの、お前さんたち、蛇が
可恐いのといって、失礼した。
||今夜も心ばかりお鳥居の下まで行った
||毎朝
拍手は打つが、まだお山へ上らぬ。あの高い森の上に、
千木のお屋根が拝される
······ここの鎮守様の思召しに相違ない。
||五月雨の
徒然に、踊を見よう。
||さあ、その気で、
更めて、ここで
真面目に踊り直そう。神様にお目にかけるほどの本芸は、お互にうぬぼれぬ。杓子舞、擂粉木踊だ。二人は、わざとそれをお持ち、真面目だよ、さ、さ、さ。可いかい。」
笛吹は、こまかい
薩摩の
紺絣の
単衣に、かりものの
扱帯をしめていたのが、
博多を取って、きちんと貝の口にしめ直し、横縁の障子を開いて、
御社に。
||一座
退って、女二人も、慎み深く、手をつかえて、ぬかずいた。
栗鼠が
仰向けにひっくりかえった。
あの、チン、カラ、カラカラカラカラ、笛吹の手の雀は雀、杓子は、しゃ、しゃ、杓子と、す、す、す、擂粉木を、さしたり、引いたり、廻り踊る。ま、ま、真顔を見さいな。笑わずにいられるか。
泡を吐き、舌を
噛み、ぶつぶつ小じれに
焦れていた、赤沼の三郎が、うっかりしたように、思わず、にやりとした。
姫は、赤地錦の帯脇に、おなじ袋の緒をしめて、
守刀と見参らせたは、あらず、一管の玉の笛を、すっとぬいて、丹花の唇、斜めに
氷柱を含んで、涼しく、気高く、歌口を
|| 木菟が、ぽう、と鳴く。
社の格子が
颯と開くと、白兎が一羽、太鼓を、抱くようにして、腹をゆすって笑いながら、
撥音を低く、かすめて打った。
河童の片手が、ひょいと上って、また、ひょいと上って、ひょこひょこと足で拍子を取る。
見返りたまい、
「三人を堪忍してやりゃ。」
「あ、あ、あ、姫君。踊って喧嘩はなりませぬ。うう、うふふ、蛇も踊るや。
||藪の穴から狐も
覗いて
||あはは、
石投魚も、ぬさりと立った。」
わっと、けたたましく絶叫して、石段の
麓を、右往左往に、人数は五六十、飛んだろう。
赤沼の三郎は、手をついた
||もうこうまいる、姫神様。
······「
愛想のなさよ。
撫子も、百合も、あるけれど、活きた花を手折ろうより、この一折持っていきゃ。」
取らしょうと、笛の
御手に持添えて、濃い紫の女扇を、袖すれにこそたまわりけれ。
片手なぞ、今は何するものぞ。
「おんたまものの光は身に添い、
案山子のつづれも
錦の
直垂。」
翁が
傍に、手を挙げた。
「石段に及ばぬ、飛んでござれ。」
「はあ、いまさらにお恥かしい。大海
蒼溟に
館を造る、
跋難佗竜王、
娑伽羅竜王、
摩那斯竜王。竜神、竜女も、色には迷う
験し候。外海小湖に泥土の鬼畜、
怯弱の微輩。
馬蛤の穴へ落ちたりとも、空を
翔けるは、まだ自在。これとても、御恩の姫君。事おわして、お召とあれば、水はもとより、自在のわっぱ。電火、地火、
劫火、敵火、爆火、手一つでも消しますでしゅ、ごめん。」
とばかり、ひょうと飛んだ。
ひょう、ひょう。
翁が、ふたふたと手を
拍いて、笑い、笑い、
「漁師町は行水時よの。さらでもの、あの
手負が、白い
脛で落ちると
愍然じゃ。見送ってやれの
||鴉、鴉。」
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
雲は低く
灰汁を
漲らして、
蒼穹の奥、黒く流るる処、げに
直顕せる飛行機の、一万里の荒海、八千里の
曠野の
五月闇を、
一閃し、
掠め去って、飛ぶに似て、似ぬものよ。
北をさすを、北から吹く、逆らう風はものともせねど、海洋の
濤のみだれに、雨一しきり、どっと降れば、
上下に
飛かわり、
翔交って、
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
ひょう、
ひょう。
························昭和六(一九三一)年九月