石清虚
國木田獨歩
雲飛といふ人は
盆石を非常に
愛翫した
奇人で、人々から
石狂者と言はれて居たが、人が何と言はうと一
切頓着せず、
珍しい石の
搜索にのみ日を送つて居た。
或日近所の
川に
漁に出かけて
彼處の
淵此所の
瀬と
網を
投つて
廻はるうち、ふと網に
掛つたものがある、
引いて見たが
容易に
上らないので川に
入つて
探り
試みると
一抱もありさうな
石である。例の
奇癖は
斯いふ
場合にも
直ぐ
現はれ、若しや
珍石ではあるまいかと、
抱きかゝへて
陸に
上げて見ると、
果して! 四
面玲瓏、
峯秀で
溪幽に、
亦と類なき
奇石であつたので、
雲飛先生涙の出るほど
嬉しがり、
早速家に
持ち
歸つて、
紫檀の
臺を
造え之を
安置した。
靈なる
哉この石、
天の
雨降んとするや、
白雲油然として
孔々より
湧出で
溪を
越え
峯を
摩する其
趣は、
恰度窓に
倚つて
遙かに
自然の
大景を
眺むると
少も
異らないのである。
權勢家某といふが居て
此靈妙を
傳へ
聞き、一
見を
求に
來た、
雲飛は
大得意でこれを
座に
通して石を見せると、
某も大に
感服して
眺て居たが
急に
僕に
命じて石を
擔がせ、
馬に
策つて
難有うとも
何とも言はず
去つてしまつた。
雲飛は
足ずりして
口惜がつたが
如何することも
出來ない。
さて
某は
僕を
從へ
我家をさして
歸る
途すがら
曩に
雲飛が石を
拾つた川と
同流に
懸つて居る
橋まで來ると、
僕は
少し
肩を
休める
積りで石を
欄干にもたせて
吻と
一息、
思はず手が
滑つて石は
水煙を
立て
河底に
沈んで
了つた。
言ふまでもなく
馬を
打つ
策は
僕の
頭上に
霰の如く
落ちて來た。
早速金で
傭はれた
其邊の
舟子共幾人は
魚の如く
水底を
潛つて手に
觸れる石といふ石は
悉く
岸に
拾ひ
上られた。見る間に
何十
個といふヘボ石の
行列が出來た。けれども
靈妙なる石は
遂に
影をも見せないので
流石の
權勢家も
一先搜索を中止し、
懸賞といふことにして
家に
歸つた。懸賞百兩と
聞て其日から河にどぶん/\
飛込む者が日に
幾十人さながらの
水泳場を
現出したが
何人も百兩にあり
着くものは
無つた。
雲飛は石を
奪はれて
落膽し、其後は
家に
閉籠つて外出しなかつたが、
石が
河に
落て
行衞不明になつたことを
傳へ
聞き、
或朝早く家を出で石の
落ちた
跡を
弔ふべく
橋上に
立て下を見ると、
河水清徹、
例の石がちやんと
目の
下に
横はつて居たので其まゝ
飛び
込み、石を
懷て
濡鼠のやうになつて
逃るが
如く
家に
歸つて來た。
最早〆たものと、今度は
客間に石を
置かず、
居間の
床に
安置して何人にも
祕して、只だ
獨り
樂んで居た。
すると
一日一人の
老叟が
何所からともなく
訪ねて來て
祕藏の石を見せて
呉れろといふ、イヤその石は
最早他人に
奪られて
了つて
久しい以前から無いと
謝絶つた。
老叟は
笑つて
客間にちやんと
据えてあるではないかといふので、それでは
客間に
來て
御覽なさい
決して有りはしないからと
案内して内に
入つて見ると、こは
如何に、
居間に
隱して置いた石が
何時の
間にか客間の
床に
据てあつた。
雲飛は
驚愕して
文句が
出ない。
老叟は
靜かに石を
撫でゝ、『
我家の石が
久く
行方知ずに居たが先づ/\
此處にあつたので
安堵しました、それでは
戴いて
歸ることに
致しましよう。』
雲飛は
驚いて『
飛んだことを言はるゝ、これは
拙者永年祕藏して居るので、
生命にかけて
大事にして居るのです』
老叟は
笑つて『さう言はるゝには
何か
證據でも
有のかね、
貴君の
物といふ
歴とした
證據が有るなら
承はり
度いものですなア』
雲飛は
返事に
困つて居ると
老叟の曰く『
拙者は
故から此石とは
馴染なので、この石の事なら
詳細く
知て居るのじや、
抑も此石には九十二の
竅がある、其中の
巨な
孔の中には
五の
堂宇がある、
貴君は之れを知つて居らるゝか』
言はれて
雲飛は
仔細に
孔中を
見ると果して小さな
堂宇があつて、
粟粒ほどの大さで、
一寸見た
位では
決して
氣が
附ぬほどのものである、又た
孔竅の
數を
計算するとこれ亦た九十二ある。そこで
内心非常に
驚いたけれど
尚も石を
老叟に
渡すことは
惜いので
色々と
言ひ
爭ふた。
老叟は
笑つて『
先づ
左樣言はるゝならそれでもよし、イザお
暇を
仕ましよう、
大にお
邪魔で
御座つた』と
客間を出たので
雲飛も
喜び
門まで
送り出て、内に
還つて見ると
石が無い。こいつ
彼の
老爺が
盜んだと
急に
追かけて行くと老人
悠々として
歩いて居るので
直ぐ
追着くことが出來た。其
袂を
捉へて『
餘りじやアありませんか、
何卒返却して
戴きたいもんです』と
泣聲になつて
訴へた。
『これは
異なことを
言はるゝものじや、あんな
大な
石が
如何して
袂へ
入る
筈がない』と
老人に言はれて見ると、
袖は
輕く
風に
飄へり、手には一本の
長い
杖を
持ばかり、
小石一つ持て居ないのである。ここに於て
雲飛は
初て
此老叟決て
唯物でないと
氣が
着き、
無理やりに
曳張て
家へ
連れ
歸り、
跪いて
石を
求めた。
乃で叟の
言ふには『
如何です、石は
矢張り
貴君の物かね、それとも
拙者のものかね。』
『イヤ
全たく
貴君の物で
御座ます、けれども
何卒か
枉て
私に
賜りたう
御座ます』
『それで事は
解つた、
室を見なさい、石は在るから。』
言はれて
内室に
入つて見ると
成程石は
何時の
間にか
紫檀の
臺に
還つて居たので
益々畏敬の
念を
高め、
恭しく老叟を
仰ぎ見ると、老叟『
天下の
寶といふものは
總てこれを
愛惜するものに
與へるのが
當然じや、
此石も
自ら
能く其
主人を
選んだので
拙者も
喜しく
思ふ、然し此石の出やうが
少し
早すぎる、出やうが
早いと
魔劫が
未だ
除れないから
何時かはこれを
持て居るものに
禍するものじや、
一先拙者が
持歸つて三年
經て
後貴君に
差上げることに
仕たいものぢや、それとも
今これを此處に
留め
置ば
貴君の三年の
壽命を
縮るが
可か、それでも今
直ぐに
欲う御座るかな。』
雲飛は三年の
壽命位は
何でもないと
答へたので老叟、二本の
指で一の
竅に
觸たと思ふと石は
恰も
泥のやうになり、手に
隨つて
閉ぢ、
遂に
三個の
竅を
閉いで
了つて、さて言ふには、『これで
可し、
殘の
竅の
數が
貴君の壽命だ、
最早これでお
暇と
致さう』と
飄然老叟は
立去て
了つた。
留めて
留まらず、
姓名を
聞ても
言ずに。
其後石は
安然[#「然」に「ママ」の注記]に雲飛の
内室に
祕藏されて其
清秀の
態を
變ず、
靈妙の
氣を
失はずして
幾年か
過た。
或年
雲飛用事ありて外出したひまに、
小偸人が
入つて石を
竊んで
了つた。雲飛は
所謂る
掌中の
珠を
奪はれ殆ど
死なうとまでした、
諸所に人を
出して
搜さしたが
踪跡が
全で
知ない、其中二三年
經ち或日
途中でふと
盆石を賣て居る者に
出遇た。
近いて
視ると
例の石を
持て居るので大に
驚き其
男を
曳ずつて
役場に出て
盜難の
次第を
訴へた。
竅の
數と
孔中の
堂宇の二
證據で、石は
雲飛のものといふに
定り、石賣は或人より二十兩出して
買た
品といふことも
判然して
無罪となり、
兎も
角も石は
首尾よく雲飛の手に
還つた。
今度は石を
錦に
裹んで
藏に
納め
容易には
外に出さず、時々出して
賞で
樂む時は先づ
香を
燒て
室を
清める
程にして居た。ところが
權官に某といふ
無法者が居て、雲飛の石のことを
聞き、
是非に百兩で
買ひたいものだと
申込んだ。
何がさて萬金
尚ほ
易じと
愛惜して居る石のことゆゑ、雲飛は一言のもとに之を
謝絶して
了つた。某は心中
深く
立腹して、
他の事にかこつけて雲飛を
中傷し
遂に
捕へて
獄に
投じたそして人を以て
竊に
雲飛の
妻に、
實は石が
慾いばかりといふ
内意を
傳へさした。雲飛の
妻は
早速子と
相談し石を
某權官に
獻じたところ、雲飛は
間もなく
獄を出された。
獄から
歸つて見ると石がない、
雲飛は妻を
罵り
子を
毆ち、
怒に
怒り、
狂ひに
狂ひ、
遂に
自殺しようとして
何度も
妻子に
發見されては自殺することも
出來ず、
懊惱煩悶して居ると、一夜、
夢に
一個の
風采堂々たる
丈夫が
現れて、自分は
石清虚といふものである、
決して
心配なさるな、君と
別れて居るのは一年
許のことで、明年八月二日、
朝早く
海岱門に
詣で
見給へ、二十錢の
代價で
再び
君の
傍に
還て來ること
受合だと言ふ。其
言葉の一々を雲飛は心に
銘し、やゝ
氣を
取直して
時節の
來るのを
待て
居た。
そこで
彼の
權官は
首尾よく
天下の
名石を
奪ひ
得てこれを
案頭に
置て
日々眺めて居たけれども、
噂に
聞きし
靈妙の
働は少しも見せず、雲の
湧などいふ
不思議を
示さないので、
何時しか石のことは
打忘れ、
室の
片隅に
放擲して置いた。
其
翌年になり權官は
或罪を以て
職を
剥れて
了い、
尋で
死亡したので、
僕が
竊かに石を
偸み出して
賣りに
出たのが恰も八月二日の朝であつた。
此日雲飛は
待ちに
待つた日が
來たので
夜の
明方に
海岱門に
詣で見ると、
果して一人の
怪しげな男が
名石を
擔いで
路傍に立て居るのを見た。
代を
聞くと
果して二十錢だといふ、
喜んで
買ひ
取り、石は又もや雲飛の手に
還つた。
其後雲飛は
壮健にして八十九歳に
達した。我が
死期來れりと自分で
葬儀の
仕度などを
整へ
又た
子に
遺言して石を
棺に
收むることを
命じた。
果して
間もなく
死んだので子は
遺言通り石を
墓中に
收めて
葬つた。
半年ばかり
經と
何者とも知れず、
墓を
發いて石を
盜み
去たものがある。子は
手掛がないので
追ふことも出來ず其まゝにして二三日
經た。一日
僕を
從へて
往來を
歩いて居ると
忽ち
向から二人の男、
額から
汗を
水の如く
流し、
空中に
飛び
上り
飛び
上りして
走りながら、
大聲で『
雲飛先生、雲飛先生! さう
追駈て
下いますな、
僅か四兩の
金で石を賣りたいばかりに仕たことですから』と、
恰も
空中人あるごとくに
叫び
來るのに
出遇つた。
矢庭に
引捕へて
官に
訴へると二の
句もなく
伏罪したので、石の
在所も
判明した。
官吏は
直ぐ石を
取寄せて一見すると、これ亦た
忽ち
慾心を
起し、これは
官に
没收するぞと
嚴かに
言ひ
渡した。
其處で
廷丁は石を
庫に入んものと
抱き
上て二三歩
歩くや手は
滑つて石は
地に
墮ち、
碎けて
數十
片になつて
了つた。
雲飛の
子は
許可を得て其
片々を
一々拾つて家に
持歸り、
再び
亡父の
墓に
收めたといふことである。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#···]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。