1
蒸し
暑い或る夜のこと、発明王
金博士は、
袖のながい白服に、大きなヘルメットをかぶって、
飾窓をのぞきこんでいた。
南京路の
雑沓は、今が
真盛りであった。
金博士の視線は、さっきから、飾窓の
小棚にのせられてある洋酒の群像に
釘づけになっている。いや、正しくいえば、その洋酒の
壜にぶら下げられた値段札の数字に釘づけになっていたという方がいいだろう。
「あはは
······」
博士がとつぜん声をあげた。これは決して博士が笑ったのではない。実は
大歎息をしたのである、あははと
······。およそ歎息というものは、
感極まってその窮極に達すればあたかも笑声のような音を発するものである。嘘だと思ったら、読者は御自分で
験してみられるがよろしかろう。
「あはは、あの味のわるいウィスキーが一壜五百
元とは、べら棒な値段じゃ。その昔、
重慶相場というのがあったがその上をいく
暴価じゃ。同じ五百元でも、こっちのペパミントがいい。こいつを、氷の中に叩きこんで、きゅっきゅっとやると、この殺人的暑さは嵐にあった
毒瓦斯の如く逃げてしまうことじゃろうが、それにしても五百元とは高い、今のわしの財政ではなあ」
金博士は、このごろアルコールに不自由をしている上に、金にも困っていると見え、さてこそ
極限歎息の
次第と
相成ったらしい。
丁度そのときであった。金博士の頭を目がけて、一匹の
近海蟹のようによく
肥えた
大蜘蛛が、長い糸をひいてするすると下りてきた。そして、もうすこしで、金博士のヘルメットにぶつかりそうになって、ようよう
下るのを停めた。おそるべき大蜘蛛だ。こんなやつに
頸のあたりを喰いつかれ、
生血をちゅっちゅっ吸われたら、いかな
頑固爺の金博士であろうと、ひとたまりもなかろうと思われた。
「もしもし金
博士、おなつかしゅうございますなあ」
とつぜん、その大蜘蛛が金博士に言葉をかけたのだった。
冗談じゃない
······。
「うん」
博士の
鼓膜に、その声が入ったのか、博士は
生返事をした。生返事をしただけで、彼はなおも飾窓の青いペパミントの値段札に全身の注意力を集めている。
「
博士は、いつに変らず
御壮健で、おめでとうございます。この前、金博士にお別れをしてから、もうかれこれ五六年になりますなあ」
その化け物のような大蜘蛛は、しきりに金博士をなつかしむのだった。これを横から眺めていると、博士も
亦、蜘蛛の化け物じゃないかという疑いが
湧いてくる。そういえば「
新青年」誌上にのっている金博士の顔は、蜘蛛の精じみた
風貌をもっているよ。
閑話休題、金博士は、ようやく注意力の二割がたを、蜘蛛の声に向けて
割いた。
「おう、そういうお前は
醤買石じゃな。お前はまだ生きていたんか」
醤買石といえば、あの有名なる
抗日遷都将軍の名である。すると醤買石も、ついに人間の皮を
被っては遷都する先がなくなって、遂に大蜘蛛に化けたのであるか。それとも、彼はオーストラリヤで戦車にのし
烏賊られて絶命し、
魂魄なおもこの地球に
停って大蜘蛛と化したのであるか。
「あれ、金
博士。醤はそう簡単に死にませんよ。しかしとにかく、博士にお目にかかりたいばかりに、部下もつれずに単身、きびしい
監視網をくぐって、ようやくここまで参りました。そしてとうとう博士に行き会いまして、こんな嬉しいことはございません。ふふふふ」
ふふふふは、醤の笑い声ではない。感激の泣き声である。泣き声がその極致に達すれば笑い声に似たる
||ああもうその解説はよろしいか。なるほど前にも
鳥渡書きましたなあ。
「泣くなよ、醤。お前は
小便小僧時代から泣きべそじゃったな。東に
楠の泣き男あり、西に醤買石ありで、ともに泣きの
一手で名をあげたものじゃ。で、わしに会いに来たというのでは、また何か大それた無心じゃろう」
金博士は、やっぱり
前跼みになって、飾窓の中をのぞきこみながら口を動かした。博士は、まさか頭の上に忍びよったる大蜘蛛と話をしているのだとは気がついていない様子に見えた。
「やあ、そのとおり、それが
図星でございますよ。
余||いや
小生はこのたびぜひとも
博士にお願いをして、
毒瓦斯をマスターいたしたいと決心しまして、そのことで
遥々南海の
孤島からやって参りました」
「毒瓦斯の研究か。そんなむずかしい金のかかるものは、お前の
柄じゃないぞ」
「いえ
博士、そう
仰有らないで、是非にお願いいたします。今こそ孤島に小さくなっていますが、
昔日の太陽を呼び戻すには、猛毒瓦斯を発明し、その力によってやるのでないと全く見込みなしとの結論に達し、博士にお
縋りに参りました。ぜひともこの醤を
哀れと
思召し
······その代り、お礼の方はうんときばり、博士のお好みのものなれば、ウィスキーであろうとペパミントであろうと
······」
「そうか。それは本当じゃな。男の言葉に
二言はないな
||というて相手がお前じゃ
仕様がないが
······」
といいながら、博士は飾窓から顔を放して腰を
真直にのばしたものだから、さっきから
垂れ下っていた大蜘蛛が
一揺れ揺れると、博士の顔へぴしゃと当った。さあたいへん、
危いかな博士の一命! 生かまたは死か?
2
······筆勢あまって
嚇し文句を
連ねてはみたが、ここで金博士が、
間髪を
容れず、顔にあたった
大蜘蛛を払いのけ、
きゃあとか
すうとかいってくれれば、作者も
張合があるのであるが、当の博士は、別に
愕きもなにもしない。
甚だ張合いのない次第であった。
愕くどころか、博士は、
矢庭に手をのばして、その大蜘蛛の
胴中をつかんだものである。
すると、ガラガラと、ラジオの雑音のようなものが聞えた。
金博士は、つかまえた大蜘蛛を口のところへ持って行き、声を一段と低くして、
「おい醤買石、今すぐわしは、お前の居る屋上へ上っていくから、すこし待って居てくれ。しかしお前も、こんどというこんどは
余程懲りたと見え、屋上から、蜘蛛に見まがうような
擬装のマイクと高声器をつり下げて、わしに話しかけるなんて、中々機械化してきたじゃないか、はははは」
「いや、ちとばかりソノ
······」
「しかし、この無細工な蜘蛛を屋上からこの人通りの多い通りに
吊り下ろすなんて、やっぱりお前は、
垢ぬけのしないこと
夥しい。この次からは、もっといい智慧を働かすがいい」
褒められたと思った醤は、とたんにぺちゃんこにやっつけられた。
さて、ここは屋上である。例の洋酒店のあるビルの屋上であった。
のっそりと、
非常梯子からあがってきたのが金博士であった。非常梯子の上り口に立って、うやうやしく
挙手の礼をして立っている二人の白いターバンに黒眼鏡に太い
髭の
印度人巡警! 脊の高い
瘠せた方が
醤買石で、脊が低く、ずんぐり肥っている方が、醤が特選して連れてきた前途有望な
瓦斯師長燻精であった。二人は、まるで
舷門から上って来た司令官を迎えるように、
極めて
厳たる礼をもって金博士に敬意を
表した。
博士は、
几帳面に礼をかえすどころか、いきなり醤の瘠せた肩をどんと叩いて、
「おい、ウィスキーにペパミントの約束、あれはまちがいないじゃろうな。一本が五百元もするぜ。お前そんなに金を持っとるか」
と、
無遠慮な問いを発した。
「や、それはもう大丈夫です。御承知のとおり、昔からイギリスと深い関係がありますものですから、武力こそ瘠せ細っていますが、黄金であろうとダイヤモンドであろうとウィスキーであろうと、そんなものは、うんとストックがあります」
「ほ、ん、と、ですか」
「もちろん本当です。
国破れて洋酒ありです。
尤も早いところストックにして置いたのですがね
······しかし
博士、毒瓦斯の方のことですが
······」
「うん、毒瓦斯なんて、
他愛もないものじゃ。ウィスキーになると、そうはいかん」
「いや
博士、ウィスキーなんて
浴びるほどあります。毒瓦斯の研究となると、そうはいかん」
「よろしい、バーター・システムで取引しよう。一体どんな毒瓦斯が
入用か。フォスゲン、ピクリンサン、ジフェニルクロルアルシン、イペリット、カーボンモノキサイド、どれが
欲しいかね」
下は
人工灯の海、上は
星月夜、そして屋上は
真暗だった。その真暗な屋上に立って、金博士は大きく両手をひろげる。
「そんなものは、どれも欲しくありません」
醤は人一倍大きな頭を左右に振る。
「ほう、これじゃ気に入らんのか」
「
博士。
余||いや私の欲しいものは、そんな
従来から知れている毒瓦斯ではありません。そんな毒瓦斯は、
吸着剤の
活性炭と中和剤の
曹達石灰とを通せば
遮られるし、ゴム
衣ゴム手袋ゴム靴で
結構避けられます。そういう防毒手段のわかっている毒瓦斯は、今じゃどこへ持っていって
撒いても、
効目がありません。もっとよく効く、目新らしいものがいいですなあ」
南京虫退治の
新剤を探しているようなことをいう。
博士は、別段困った顔もせずに
肯き、
「わしのところには、どんなものでもあるよ。今お前のいった防毒面をどんどん通して、今までの防毒面じゃ役に立たない毒瓦斯があるがこれはどうじゃ」
「それはいいですなあ。しかしそれは○○○、○○○○○じゃないのですか」
「ほう、それを知っているか。この種のものはドイツと○○だけが持っているので、従来の防毒面ではまるで防ぐ力がない」
「しかし
博士、それも駄目ですよ。なぜといって、他の国には無いかもしれないが、ドイツなどには、その
超毒瓦斯を防ぐ仕掛をちゃんと持っている。そういう防ぐ手段のあるものは全然駄目です。私は、全然防ぐ用意のない毒瓦斯が欲しいのです。博士、ぜひお力をお貸しねがいたい」
醤は、熱心を
面にあらわしていった。
「ほうほう、だいぶん熱心じゃが、それもあるにはある。しかしこれを教えるには、大分
高価につくが、いいかね。まずウィスキーならダース
入の
函単位でないと取引が出来ないが
······」
「ダース函でも何でも提供しますとも」
「ほい、お前にも似合わん、えらく気が大きいじゃないかい」
「
博士、わしの
報復成るかどうかという
瀬戸際なんです。あに真剣にならざるを
得んやです」
「そうか。なら、よろしい。ちょっとここに出してみようか」
「あ、待ってください。それはあぶない。ここで出されたんでは、私が死んでしまうじゃないですか。そればかりは遠慮します」
「なにをうろたえとるか。出すといっても、本当の毒瓦斯を出すとはいっておらん。こういう毒瓦斯があるという話をしようかという意味でいったのじゃ」
「ああ、そうでしたか。やれやれ安心しました。とにかく
博士と来たら、
興が乗れば、敵と味方との区別なんかもう
滅茶苦茶で、科学の力を
残酷に発揮せられますからなあ。これまでに私は、博士のそのやり方で、ずいぶんにがい体験を
経て来たもんです」
「醤よ、科学は残酷なものじゃよ。わしはそう思っとる。だから人間は出来るだけ早く科学を征服しなければならないのじゃ。ドイツに於ては
||」
「博士、ドイツの話はもう沢山です。それで私のお願いは、ここに立っている
腹心の部下で、新たに毒瓦斯発明官に任じました燻精を一週間だけお預けいたしますから、その期間にこの男に対し、新毒瓦斯研究の方針とか企画とか設備とか経費とか、ありとあらゆることを吹きこんでいただきたい。私は、この男の帰還を待って、
早速全世界
覆滅の毒瓦斯を発明する鬼と
化して、全力をあげ全財産を
抛げうって発明官と一緒にやるつもりです」
醤は、満天の星を吸いこもうとするのではないかと思われるような大口をあいて、芝居気たっぷりに、途方もない重大決意を
喚き散らしたのであった。
「ええ加減にしろ。
大言よりは、ウィスキーじゃ。ペパミントじゃ」
金博士が、醤に負けないような大きな声を出し、
怒った
蟷螂のような
恰好で、
拳固で天をつきあげた。
3
博士の例の地下研究所の一室において、白い
実験衣を着た金博士と発明官
燻精とが向きあっていた。
二人は、手に手に
盃を持っている。
実験台の上には、いろんな形をした洋酒の壜が、所も狭く並んでいる。
博士は盃を唇のところへ持って行き、黄色い液体を一口ぐっとのんで、後はしばらく唇と舌とをぴちゃぴちゃいわせた。
「
······ふーん、どうもおかしい。燻精、お前のんでみろ」
「はい」
燻精が盃を唇のところへ持っていった。
「はい、のみました。実にこたえられない、いい酒ですなあ」
「そうかね。わしには、それほどに感じないが
······」
「
博士、それは先生のお身体の
工合ですよ。どこかどうかしていられるのです。
糖分が出ているとか、熱があるとかでしょう。私には、十分うまいですよ。やっぱりイギリス製のウィスキーだけありますねえ。これは
英帝国盛んなりし時代の
生一本ですよ。間違いなしです」
「相当にうるさいね、君は」
「いや、
酔払ったんです。これもこの酒の
芳醇なる
故です。そこで先生、酒の実験はこのくらいにして、お約束ですから、かねがねお願いしてありました毒瓦斯研究の指導を
早速お始めいただきたいのですが
······」
「ふん、毒瓦斯研究の件か」
博士は何となく
不機嫌に、盃をがちゃんと台の上に置いて、
「では醤との契約に基き、
正しく履行するであろう。神経瓦斯について講義をする」
「あ、その神経瓦斯というものなら、既にドイツ軍がエベンエマエル
要塞戦に使ったということを聞いています。それはもう
陳腐な毒瓦斯で
······」
「ドイツ軍が使ったという話のある神経瓦斯は、
一時性の神経麻痺瓦斯だ。それを
嗅いだベルギー兵は、
恍惚となって、しばらく何も彼もわからなくなった。もちろん、機関銃の
引金を引くことも忘れて、とろんとしておった。気がついたときには、
傍にドイツ兵がいたというのだ。これは一時性の神経瓦斯だ。一時性では効力がうすい。これに対してわしが考えたのは、
持久性の神経瓦斯だ。これをちょっと嗅ぐと、まず短くても一年間は麻痺している。人によっては三年も五年もつづく。そうなると、その患者はもはや常人として責任ある任務をまかせて置けなくなる。どうだ、すごいだろう」
博士は、ようやく機嫌をとりかえした。
「それは、生理学からいうと、どんな作用をするのですか」
「つまり、脳細胞を電気分解し、その
歪みを持続させるのじゃな」
「はあはあ、脳細胞を電解して歪みを持続させる
······、それはおそろしいことだ。しかし電解させるというのなら、それは
怪力線の一種ではありませんか。毒瓦斯とはいえないでしょう」
燻精師長は、さすがに醤の信任があついだけに、するどく博士に
突込む。
「怪力線の如きものでは、ぴりぴりちかちかと来て、相手に知れるから、よろしくない。もっと
緩慢なる麻痺性のものでないといけぬ。わしの作った神経瓦斯は、全然当人に
自覚がないような性質のものだ。
臭気はない、色もなくて透明だ、もちろん味もない、
刺戟もない。もちろん
極く緩慢な麻痺作用を起すものだから、はじめから刺戟を殺してあるのだ。しかもその後いつまでたっても当人は、瓦斯中毒になっているという自覚が起らないのだ。つまり
常人と殆んど変りない精神状態におかれてあって、しかも脳の或る部分が日と共に完全麻痺に
陥る。そうなると、たとえば、にこにこ笑って人と話をしていながら、手に握ったナイフで相手の心臓の
真上をぐさりと刺すといったようなことを、一向
昂奮もせず
周章てもせず、平気でやる。まあ、そういう最も常人らしい狂人に変質させるのが、わしのいう持久性神経瓦斯の効果じゃ。どうじゃな。君もそういう方向のものを考えてみてはどうかな」
「す、すばらしいですなあ」
燻精師長は、盃を置いて、金博士に抱きついた。
「よせやい、気持のわるい」
と、金博士は燻精を突き放し、
「さあ、もうそれだけのヒントを与えてやれば、お前は醤のところへ帰って、
早速発明研究を始めていいじゃろう。さあさあ、とくとく醤の陣営へ戻れ」
「はい。では、引揚げましょう。
永々と
御配慮ありがとうございました」
「いやなに、たった十分間の講義だけじゃ。しかしあのウィスキーにペパミント百四十函は、授業料としては
至極やすいものじゃ」
「あれだけの
夥しい洋酒を
捧げても、まだ先生の方が
御損をなさいますか」
「それはそうじゃ。
甚だわしの方が損じゃ。帰ったら醤に、そういっていたと伝えてくれ。しかし神聖なるバーター・システムの
誓いの手前、こっちでもぬかりなく
按配しておいたと、あの醤めにいってくれ。さあ、引取るがよろしかろう」
「はいはい承知いたしました」
燻精には、何やら腑におちかねる点もあったが、今が
引揚の
潮時だと思ったので、博士をいい
加減にあしらった。着換えをすますと彼は博士の前に出て
恭々しく三拝九拝の礼を捧げ、
踵をかえして、部屋を
出でんとすれば、何思ったか金博士は、急にうしろから
呼び
留めた。
「ああ、お帰りはこちらだ。この狭い廊下をずっといって、やがて突当ると、自動式の昇降機がある。それに乗って一階へ出なさい。すると
至極交通に便なところへ出る」
と博士は、壁の
釦を押し、壁に仕掛けてあった秘密の
潜り戸を開いて、指した。
「ああそれはどうも。こっちに通路があるとは、全く
存知ませんでした」
「こっちは特別の客だけしか通さないんだ。
暫く誰も通さなかったから、顔に
蜘蛛の巣がかかるかもしれない。手で払いのけながら、そろそろ歩いていきたまえ」
「いや、御親切に、ありがとう」
「どういたしまして。はい、さようなら」
潜り戸を入った燻精師長のうしろで、ぱたんと
扉のしまる音がした。と同時に、博士が扉の向うで、さめざめと
啜り泣くような声を聞いたと思ったが
······。
4
南国の孤島において、
醤委員長は、あいかわらずの
裸身で、事務を
執っていた。例の太い
附け
髭はもう見えない。
そこへ燻精が戻ってきた。
「おお帰ってきたか。して、金博士から、すばらしいネタを引き出したか」
「はい、
持久性の
神経瓦斯······」
「
叱ッ。これ、声が高い!」
醤は、手の舞い足の踏むところを知らずといった喜び方であった。彼は、燻精の手をとらんばかりにして、彼を
砂地の上に立つ
古城へ連れていった。
「さあ、ここが毒瓦斯発明院だ。看板も、
余が
直々筆をふるって書いておいた」
なるほど、あちこち
崩れている城門に、毒瓦斯発明院の立て看板が
懸っていた。
「発明場は、すっかり用意をしておいたつもりじゃ。余
自ら案内をしよう」
衛兵の敬礼をうけつつ、御両人は城内に入った。
「敵空軍の目をのがれるため、外観は出来るだけ
荒れ
果てたままにしておいた。しかし、あの煙突だけは、仕方なく建てた」
太い煙突が古城の上にぬっと首をつきだしている。
「あれは何ですか、あの煙突は」
「
試作の毒瓦斯が空高く飛び去るためだ」
「毒瓦斯は元来空気より重きをよしとするのでありまするぞ。煙突から飛び立つような軽い毒瓦斯てぇのはありません」
「いや、その重い毒瓦斯の逃げ路も作っておいた。向うに見える太い
鉄管は、
海面すれすれまで下りている。重い毒瓦斯は、あの方へ
排気するんだ。風下はベンガル
湾だ。
海亀とインド
鰐とが、ちかごろ身体の調子がへんだわいといいだすかもしれんが
······」
醤が毒瓦斯発明院に対して肩の入れ方は、非常なものだった。燻精は、彼の信頼に十分
報いることが出来ようと自信たっぷりだった。
発明院長に燻精が
就任して、百三十五名の発明官が、その下に仕事を始めることになった。まず設備を作るのに、三ヶ月かかった。それから燻精の講義が三ヶ月つづいた。
燻精の講義は全くすばらしかった。ときどき
傍聴に来る
醤買石は、その都度、
頤の先をつねって
恐悦した。
「ふふふ、洋酒百四十函が、こんなにすばらしい
効目があろうとは、すこし気の毒だったなあ」
燻精の指導ぶりは、目のさめるようであった。
原動機は廻転し、ベルトはふるえ、
軸は油をなめまわし、
攪拌機はかきまわし、
加熱炉は赤く
焔え、
湯気は白く噴き出し、えらい騒ぎが毎日のように続いた。
そうなると、醤は落ちついていられなくなって、毎日のようにここに足を運んだ。
「おい燻精。まだ例の神経瓦斯は出来ないか。出来たら、余に早く見せてくれ」
「醤委員長よ。今度こそすばらしいものが出来ますぞ。
瓦斯密度が一・六〇〇〇四です。理想的な密度です。おどろいたでしょう」
「一・六〇〇〇四? よくわからないねえ」
「精密なること、金博士の製品を
凌駕しています。かかる精密なる毒瓦斯は
······」
「精密よりも、効目の方が大切だぞ」
「いや、この精密度なくして、あの忍耐力のつよい敵兵を
斃すことは出来ん。あ、また霊感が
湧いた。おおそうか、この毒瓦斯に
芳香をつけるのだ。
鰻のかば焼のような芳香をつけるのだ。
無臭瓦斯よりもこの方がいい。敵は鼻をくんくんならして、この瓦斯を
余計に吸い込むだろう。ああなんというすばらしい着想点だろう! 鰻のかば焼の
外に焼き鳥の匂い、天ぷらの匂い、それからライスカレーの匂い
等々、およそ敵兵のすきな
香を、この毒瓦斯につけてやろう。なんと醤委員長、すばらしい発明ではないですか」
「なるほど、積極的吸入性のある毒瓦斯じゃな」
醤は、にやりと笑って、燻精院長の手をしっかと握った。
この新製毒瓦斯が、予定の数量だけ出来上ったのは、その年の夏だった。
醤は燻を
帯同し、その毒瓦斯をもって、
突如戦線に現れた。
そして朝から時間割を決め、午前七時には鰻の匂いのする神経瓦斯を、午前九時には
水蜜桃の匂いのする神経瓦斯を、午前十一時には、ライスカレーの匂いのする神経瓦斯をと、用意周到な順序で次々に
瓦斯弾を、敵軍戦線へ向けて撃ちだしたのであった。
その結果は、どうであったか。
醤買石は、生命からがら、
怒濤のような敵の
重囲を切りぬけて、ビルマ・ルートへ逃げこむという騒ぎを演じた。
燻精の作った新製の毒瓦斯は、
悉く無力であった。いや、うまそうな匂いをもって、
反って敵兵をふるい立たしめるという
反効果があったくらいであった。燻精は、その戦場において捕虜となり、やがて病院に入れられた。
この
顛末を聞いて、からからと笑ったのは
余人ならぬ金博士であった。
彼は
唐箋をのべて、醤買石
宛に手紙を書いた。
“
謹呈。どうだ、持久性神経瓦斯の効目は。燻精は、わしのところから出ていくとき、特設の通路内で無味無臭無色無反応の持久性神経瓦斯を吸って戻ったのだ。だから、そちらの陣営に帰りついたころから彼はそろそろ、脳細胞の或る個所が変になりはじめたはずだ。彼の発明製造した毒瓦斯なんか、どうして信用がおけようぞ。おい醤よ、これに
懲りて、今後を
慎めよ”
なるほど、そうだったか。
肝腎の毒瓦斯発明院長の燻精が、金博士のところを
辞去するとき、瓦斯通路を歩かされ、すっかり瓦斯患者とされてしまったのを、当人はもちろん醤も気がつかなかったのだ。
この手紙を受け取った醤は、たいへん口惜しがって、豆のような涙をぽろぽろ机の上におとしながら、博士に向って抗議文を書いた。その
要旨は、
“金博士よ。バーター・システムの取引を承知しておきながら、かの燻精を変質させて送りかえすとは、
片手落ちも
甚だしい。われに
確乎たる決意あり。しっかり説明文をよこされよ”
すると、金博士が折りかえし返事して曰く、
“醤よ。身から出た
錆という
諺を知らぬか。燻精を変質させて送りかえしたのは、お前がわしに、表のレッテルとはちがう変質インチキ
酒を贈ってよこしたからだ。つまり変質に対する変質の
応酬である。わしは、バーター・システムの約を忠実に果したつもりである。
質的のバーター・システムをね。あのインチキ・ウィスキーは悉く
黄浦江へ流してしまったよ。以後お前とは
絶交じゃ”
と、博士は手紙の
端に黒々と
句読点をうったのであった。