ともかく、僕は僕の

僕は八つの時から十五の時まで
叔父の家はその土地の豪家で、山林
僕は野山を駆け暮らして、わが幸福なる七年を送った。叔父の家は丘のふもとにあり、近郊には樹林多く、川あり泉あり池あり、そしてほど遠からぬ所に
ところが十二の時と記憶する、徳二郎という下男がある日、僕に今夜おもしろい所につれてゆくが行かぬかと誘うた。
「どこだ。」と僕はたずねた。
「どこだと聞かっしゃるな、どこでもええじゃござんせんか、徳のつれてゆく所におもしろうない所はない」と徳二郎は微笑を帯びて言った。
この徳二郎という男はそのころ二十五歳ぐらい、屈強な若者で、
「しかし
ころは夏の
堤の上はそよ吹く風あれど、川づらはさざ波だに立たず、澄み渡る大空の影を映して水の
「坊様早く早く!」と僕を促しながら
僕の飛び乗るが早いか、小舟は入り江のほうへと下りはじめた。
入り江に近づくにつれて川幅次第に広く、月は川づらにその清光をひたし、左右の堤は次第に遠ざかり、顧みれば川上はすでに
広々した湖のようなこの入り江を横ぎる舟は僕らの小舟ばかり。徳二郎はいつもの朗らかな声に引きかえ、この夜は小声で歌いながら静かに
西は入り江の口、水狭くして深く、陸迫りて高く、ここを港にいかりをおろす船は数こそ少ないが形は大きく大概は西洋形の帆前船で、その積み荷はこの浜でできる食塩、そのほか土地の者で朝鮮貿易に従事する者の持ち船も少なからず、内海を行き来する和船もあり。両岸の人家低く高く、山に
入り江の奥より望めば
舟の進むにつれてこの小さな港の声が次第に聞こえだした。僕は今この港の光景を詳しく説くことはできないが、その夜僕の目に映って今日なおありありと思い浮かべることのできるだけを言うと、夏の夜の月明らかな晩であるから、船の者は甲板にいで、家の者は外にいで、海にのぞむ窓はことごとく開かれ、ともし火は風にそよげども水面は油のごとく、笛を吹く者あり、歌う者あり、三味線の音につれて笑いどよめく声は水に臨める青楼より起こるなど、いかにも楽しそうな花やかなありさまであったことで、しかし同時にこの花やかな一幅の
帆前船の暗い影の下をくぐり、徳二郎は舟を薄暗い石段のもとに着けた。
「お上がりなさい」と徳は僕を促した。堤の下で「お乗りなさい」と言ったぎり、彼は
もやいをつなぐや、徳二郎も続いて石段に上がり、先に立ってずんずん登って行く、そのあとから僕も無言でついて登った。石段はその幅半間より狭く、両側は高い壁である。石段を登りつめると、ある家の中庭らしい所へ出た。四方板べいで囲まれ、すみに用水おけが置いてある、板べいの一方は見越しに夏みかんの木らしく暗く茂ったのがその頂を出している、月の光はくっきりと地に印して
「徳さんかえ?」と顔をのぞいたのは若い女であった。
「待ったかね?」と徳二郎は女に言って、さらに僕のほうを顧み、
「坊様を連れて来たよ」と言い足した。
「坊様、お上がんなさいナ。早くお前さんも上がってください、ここでぐずぐずしているといけないから」と女は徳二郎を促したので、徳二郎は早くも
「坊様、暗うございますよ」と言ったぎり、女とともに登ってしまったから僕もしかたなしにそのあとについて暗い、狭い、急な
なんぞ知らん、この家は青楼の一で、今女に導かれてはいった座敷は海に臨んだ
「坊様、さアここへいらっしゃい」と女は言って、座ぶとんをてすりのもとに運び、夏だいだいそのほかのくだもの菓子などを僕にすすめた。そして次の間をあけると
徳二郎はふだんにないむずかしい顔をしていたが、女のさす杯を受けて一息にのみ干し、
「いよいよ
「あす、あさって、
「今さらどうと言ってしかたがないじゃアないか。」
「それはそうだけれど||考えてみると、死んだほうがなんぼ増しだか知れないと思って。」
「ハッハッヽヽヽヽ坊様、このねえさんが死ぬと言いますが、どうしましょうか。······オイオイ約束の坊様を連れて来たのだ、よく見てくれないか。」
「さっきから見ているのよ、なるほどよく似ていると思って感心しているのよ。」と女は言って、笑いを含んでじっと僕の顔を見ている。
「だれに似ているのだ。」と僕は驚いてたずねた。
「わたしの弟にですよ、坊様を弟に似ているなどともったいない事だけれど、そら、これをごらんなさい。」と女は帯の間から一枚の写真を出して僕に見せた。
「坊様、このねえさんがその写真を徳に見せましたから、これは
「サア、なんでもごちそうしますとも、坊様、何がようございますか」と女は優しく言って、にっこり笑った。
「なんにもいらない」と僕は言って横を向いた。
「それじゃ、舟へ乗りましょう、わたしと舟へ乗りましょう、え、そうしましょう。」と言って先に立って出て行くから、僕も言うままに、女のあとについて
先の石段をおりるや、若き女はまず僕を乗らして後、もやいを解いてひらりと飛び乗り、さも軽々と
岸を離れて見上げると、徳二郎はてすりによって見おろしていた、そして内よりは
「気をつけないとあぶないぞ!」と、徳二郎は上から言った。
「大丈夫!」と女は下から答えて「すぐ帰るから待っていておくれ。」
舟はしばらく大船小船六七
「坊様、あなたはおいくつ?」とたずねた。
「十二。」
「わたしの弟の写真も十二の時のですよ、今は十六······、そうだ、十六だけれど、十二の時に別れたぎり会わないのだから、今でも坊様と同じような気がするのですよ。」と言って僕の顔をじっと見ていたが、たちまち涙ぐんだ。月の光を受けて、その顔はなおさら青ざめて見えた。
「死んだの?」
「いいえ、死んだのならかえってあきらめがつきますが、別れたぎり、どうなったのか
僕は陸のほうを見ながら黙ってこの話を聞いていた。家々のともし火は水に映ってきらきらとゆらいでいる。
たちまち小舟を飛ばして近づいて来た者がある、徳二郎であった。
「酒を持って来た!」と徳は大声で二三
「うれしいのねえ、今、坊様に弟のことを話して泣いていたの」と女の言ううち、徳二郎の小舟はそばに来た。
「ハッハッヽヽヽヽ[#「ヽヽヽヽ」は底本では「ヽヽヽ」]おおかたそんなことだろうと酒を持って来たのだ、飲みな飲みな、わしが歌ってやる!」と徳二郎はすでに酔っているらしい。女は徳二郎の渡した大コップに、なみなみと酒をついで息もつかずに飲んだ。
「も一ツ」と今度は徳二郎がついでやったのを、女はまたもや
「サアそれでよい、これからわしが歌って聞かせる。」
「イイエ徳さん、わたしは思い切って泣きたい、ここならだれも見ていないし、聞こえもしないから泣かしてくださいな、思い切って泣かしてくださいな。」
「ハッハッヽヽヽヽそんなら泣きナ、坊様と二人で聞くから」と徳二郎は僕を見て笑った。
女は突っ伏して大泣きに泣いた、さすがに声は立て得ないから背を波打たして苦しそうであった。徳二郎は急にまじめな顔をしてこのありさまを見ていたが、たちまち顔をそむけ、山のほうを見て黙っている、僕はしばらくして、
「徳、もう帰ろう」と言うや、女は急に頭を上げて、
「ごめんなさいよ、ほんとに坊様は、わたしの泣くのを見ていてもつまりません。······わたし、坊様が来てくださったので弟に会ったような気がいたしました。坊様もお達者で、早く大きくなって偉いかたになるのですよ」とおろおろ声で言って「徳さんほんとにあまりおそくなるとお

女は僕らの舟を送って三四丁も来たが、徳二郎にしかられてこぐ手を止めた、そのうちに二
「わたしの事を忘れんでいてくださいましナ」とくり返して言った。
その後十七年の今日まで、僕はこの夜の光景をはっきりと覚えていて、忘れようとしても忘るることができないのである。今もなお、哀れな女の顔が目のさきにちらつく。そしてその夜、うすいかすみのように僕の心を包んだ一片の
その後徳二郎は僕の
流れの女は朝鮮に流れ渡って後、さらにいずこの果てに漂泊してそのはかない