「火の玉」少尉
「うーん、またやって来たか」
と、
ここは帝都に近い××防衛飛行隊本部の将校集会所だった。
「ほう、大尉どの。誰がやって来たのでありますか」
一週間ほど前に、この飛行隊へ着任したばかりの戸川中尉が、電話帳を繰る手を休め、上官の方に声をかけた。
「うむ、例の『火の玉』少尉が、またやって来たのだ」
「えっ、『火の玉』少尉?」
といって、戸川中尉は眉を高くあげ、
「ああ六条のことですな。あの六条のやつは、こっちにいましたか」
戸川中尉は、少年のように眼をかがやかせ、入口の方をふりかえった。しかしそこには、誰の影も見えなかった。
そもそもこの「火の玉」少尉とよばれる六条
この二人は、無二の仲よし戦友だったけれど、二人の性格は全くあべこべだった。戸川中尉が飛行将校にもってこいの細心で沈着な武人であるのに対し、六条の方はその
「なんだ、貴様は。貴様みたいに、数値ばかり気にやんでいると、数値以上の勝利をあげることなんかできやせんぞ」
と六条壮介がからかえば、戸川は戸川で、
「
と、やりかえすのであった。しかしその実、この二人の将校は、互いに相手の長所を尊敬しあっていたのだ。
その不幸な事件というのは、或る日彼が、ソ連空軍の爆撃の跡を視察するため、崩れかかった家屋の前に立っていたとき、そこへ急カーヴを切り
片腕なくなったのでは、「火の玉」少尉は再び飛行機を操縦することができない。そこで第一線から後送ということになったが、「火の玉」少尉は誰がなんといってもきかない。そして
「あいつの云うことは、分っているのだ。ソ連軍の
と、田毎大尉は困りきった顔で、首を左右にふった。
「右腕がなくてもやれるというのですか」
戸川中尉は、この事件の前から六条少尉に分れて司令部へ出張していたので、以来彼は会わずじまいだった。
「そうだ。俺にはまだ左腕もあれば両脚もあるし、硬い歯の生えている口もあれば、太い
そういっているとき、受付の方角から、大きな
「しかたがない。おい当番兵。六条少尉をここへ案内してこい」
田毎大尉は、ついにそういった。
「大尉どの。自分もここに居てよろしくありますか」
「ああ、よろしい。ぜひそこにいて、『火の玉』少尉を
間もなく、当番兵につれられて、部屋へ入ってきた壮漢、見れば警防団服に身を固めていて、ちゃんと右手もついている。
新しい警防団員
「おう、そのいでたちは······」
と、
「はあ、きょうは大尉どのに、この姿を見ていささか意を安んじて頂こうと思って参りました」
「おお、これは戸川||戸川中尉どの。ずいぶん久しぶりでありましたな」
そういう壮漢は、やっぱり「火の玉」六条少尉以外の何人でもなかった。どうしたわけか、きょうは「火の玉」少尉、いつになく
「おお、貴様に会って、俺は嬉しいぞ」
と、戸川中尉は立ちあがって、六条少尉の方に手をさしのばした。そのとき中尉は、硬いひやりとしたものを
「戸川中尉どの。結果において自分の敗北でありましたよ。中尉どのにお目にかかれば、早速それを申すはずでしたが、きょうまでそれをいう機会がなかったのです」
「あはは、なにをいうか貴様」
「しかし戸川中尉どの。自分は右手を失って、見かけにおいては体力を
「ふふん、それは結構だ」
「火の玉」少尉は、そこで急に気がついて田毎大尉に敬礼をし、
「いや失敬いたしました。旧友に会ったものでありますからして、思わず大尉どのへの報告のほうが後になりまして······」
「いや、かまわない。が、報告とはどういうことか。まさか原隊復帰の許可が下りたというのでもなさそうだが」
「その原隊復帰のことで、大尉どのをかなりお苦しめしましたが、きょうはそのことではないのであります。これをごらん下さい。自分は警防団に入りました。原隊復帰が許されるまで、警防団で働くつもりであります」
「そうか、それはよかった」
と、田毎大尉ははじめて合点のいった顔である。
「それで部署は、どういうところか」
大尉としては、やはり元の部下の「火の玉」少尉の部署のことまで気にかかるのであった。
「はい、監視班です」
「ほう、監視班とは、なるほどこれはいいところへ配属されたものだ。『火の玉』少尉の監視
田毎大尉は本当のことをいった。
「そんなことはありません」
と六条は、言下に「火の玉」少尉らしい活溌な口調でうち消して、
「今日ほど、監視哨の仕事が重大であり、そして困難を伴っていたことは、未だかつてなかったのです。ソ連極東軍の重爆隊は、今夜にも翼をはって帝都の空を襲うかもしれない情勢であります。自分は今夜から、任務につく決心であります」
「ふーむ、任務につくといって、どうするのか」
「はい、気球に乗ることになっています」
「なに、気球に乗る。どんな気球に乗って、なにをするのか」
田毎大尉は、「火の玉」少尉が気球に乗るなどといいだしたので、少々おどろいた。
「はい、帝都は今夜から、
「夜、見えるか」
「はい、午前三時に月が出るのであります。それまではE式
「ふむ、それは御苦労なことだ。では、しっかり頼むぞ」
田毎大尉は、障害者となっても燃えるような戦闘精神が「火の玉」少尉の胸に宿っているのを知って、大いにうたれた。
その「火の玉」少尉は、田毎大尉と旧友戸川中尉との前を辞するときに、一段とかたちを
「でありますが、この六条は、一日も早く原隊復帰を許され、例の××軍トーチカ集団攻撃に、ぜひとも一番駈けをいたし、そこに
後を見送って、田毎大尉は戸川中尉と顔を見合し、
「やっぱり『火の玉』少尉だ。はじめは原隊復帰を
といって、愉快そうに笑った。
上昇
その「火の玉」少尉は、その夜の九時、帝都北東地区の○○陣地において、
はじめは、この気球の下のゴンドラに、六名の者が乗りこむことになっていたが、いよいよという時になって、ただひとり「火の玉」少尉だけが乗ることとなった。
「一体どうしたのか。まさか
と、彼は笑った。
「いや六条さん。班長さんはじめ幹部の連中が、いま手が放せなくなったのですよ。
警防団の庶務係の老人がいった。
「私は予定どおり乗りますよ。風が吹いていようが、敵機は来ようと思えば来るんだからね」
「いえ、風||風がはげしいからどうのこうのというのではなくて、なんでもこの○○陣地の裏手の
老人は首をぶるぶる
「怪しい人物、ははあ本当かな。臆病者には、
「六条さん、そんなことをいっているのを幹部に聞かれると、うるそうがすぜ」
「なにがうるさいものか。この事変下に怪しい奴の一人や二人うろついているのは当り前だよ。なにも班長までが騒ぎまわらなくともいいじゃないか。そんなことは気球に乗らない連中に頼んでおいて、自分たちは予定どおりのるのがいい。敵軍は、こっちにそんな騒ぎがあろうとなかろうと、お構いなしに空襲を仕かけてくるだろうからね」
「そりゃそうですが、さっきもこの気球のあたりを探していましたが、その憲兵さんの話を聞くと、先月横浜沖に
「キンチャコフだって、どっかで聞いたような名前だ。だが、キンチャコフはどこまでもキンチャコフで、監視哨はどこまでも監視哨なんだ。さあ、係員にそういって予定の時刻が来たから、早く気球の
「へえ、やっぱり六条さんは、一人で上へあがるのですか」
「さっきから幾度もそういっているじゃないか。係員にそういってくれ。ぐずぐずしているようなら勝手にこっちが綱を切ってとびあがるぞと、きびしく一本
「えっ、気球の綱を切る? あなた、いくら冗談でもそんな乱暴なことをいうものじゃありませんよ。気球の綱を切れば、地球の外へ吹き流されてしまうじゃありませんか」
「はっはっはっ。もういいから、早く係員に
「へえ、かしこまりました」
老人が向うへかけだしてゆくと、気球のところには六条壮介ひとりとなってしまった。風は相変らずひゅうひゅうと
六条の待っている係員は、一向姿をあらわさなかった。
「なにをしているんだろう」
と舌打して、彼は真暗な××陣地一帯をずーっと見まわした。すると、ときどき
「ふん、やっぱり本当なんだな。怪しい奴がしのびこんだというのは······」
だが、きびしい軍律の中で生活してきた「火の玉」少尉にとっては、たとえ傍に何事があろうと、気球が予定の時刻に上昇しないことについて
「しようがないなあ。降りていって、一つうんと文句をいってやろうか」
と思っていると、ゴンドラが急にごとんと大きく
「おや、どうしたのかな」
そういっているうちに、ゴンドラはまた一つごとんと揺れて、また二三メートル上に飛びあがった。
「はてな、||」
そのとき少尉は、地上の信号灯の前に一つの人影が
「おお、やっと気球係の地上員がやって来たんだな。いくらなんでも、たった一人では、ちと無理だ」
そういっているとき、ゴンドラはまた大きくごとんと揺れ、とたんに彼の手はゴンドラの
彼が起き直ったとき、気球は風の中を、もうぐんぐん上昇していた。
地上からは、懐中電灯がいくつも、こっちに向って動いている。ところがその
十字火信号! ああそれは「
「なにが『要注意』なんだ!」
と、「火の玉」少尉は、小さくなりゆく地上の灯をみつめていた。
「要注意」の信号
「火の玉」少尉が、空中の異変に気がついたのは、それからしばらくして、風の中に××陣地のサイレンの響を聞き、それに続いて××陣地にありったけの照空灯が、彼の乗った気球の方に向けられたときだった。
それまでのところは、彼は地上員が
ところが、それから
「おかしいなあ。一体地上ではなにを騒いでいるのだろう」
彼の外に、誰も乗らないといっていたが、やはりまだ乗る者があったのではなかろうか。それで「要注意」などと騒いでいるのではなかろうか。
だが、それにしては、なぜ「出発待て」の信号を発しなかったのであろうか。「要注意」の信号は、どうも
いや、腑におちないのは、こうして××陣地ありったけの照空灯が、こっちの気球のあとを追駈けてくることだ。こっちの出発が、陣地の方に都合がわるければ、綱を引張ってこの気球を引きおろせばいいではないか。なぜそうやらないのであろうか。
さすがの「火の玉」少尉も、すこし不安な気持になって、照空灯の
そのうちに、彼ははじめてたいへんなことに気がついた。それは彼の乗っている気球の綱のことであった。綱が一本、ぷつんと短く切れて、照空灯の光の中にぶらぶらしていたのである。
「おや、あの綱は切れているぞ」
思わず彼は、声をあげて
「
彼はゴンドラの
「うん、こいつは
「火の玉」少尉の全身を、
「失敗った、失敗った、失敗った!」
彼はゴンドラの縁をつかんで、動物園の猿のようにゆすぶった。時刻がたつに従って、大きくなる
地上では、こんどは照空灯が、十文字にうごいて、「要注意」を知らす。
「要注意」も、今さら遅いという外ない。
そのとき彼は、ゴンドラの中に、無電器械がありはしないかと気がついたので、腰をかがめて、あたりをふりかえった。
「うむ、あるぞ。あれがそうらしい」
ゴンドラの中の、
しばらくすると、受話器の奥から、声がとびだした。
「ハア、××繋留気球第一号。こっちは××陣地です。ハア、××繋留第一号。こっちの声が聞えますか。只今○○飛行隊と連絡をとり、飛行機隊が追跡してくれることになりましたから、安心して下さい。ハア、××繋留気球第一号! こっちの声が聞えましたら、そっちから電波を出して下さい」
××陣地の通信員の声だ。
それを聞くと、六条は勇気百倍の思いがした。地上でも、この気球が繋留をはずれて空中に漂流しだしたことをちゃんと気づいているのだ。そして飛行隊が急遽出動して、この気球の救援に
六条は、左手をのばして、無電器械の送信器にスイッチを入れた。パイロット・ランプが明るくついた。真空管はキャビネットの中で光っている。彼は
「ハア、こっちは繋留気球第一号です。六条
といって、六条が傍の
思わざる怪影
「ああっ、||」
「だ、誰だ!」
味方か、敵か?
「火の玉」少尉がうしろへふりむくのと、彼の左手首のうえに、焼きつくような激しい痛味を覚えるのと、それが同時であった。
「あっ、な、なにをするッ」
といったが、手首は骨まで折れたかと思うようなひどい
「き、貴様、何者だ!」
怪漢は、白い歯をむきだすと、彼の背後から組みついた。ひどい
「
そういう相手の言葉は、ロシア語であった。
(ははあ、ソ連人だな!)
この
「うーむ、こいつ······」
「火の玉」少尉にとっては、二重の
「日本人、はやくくたばれ!」
「うーむ」
と
「日本人、まだ死なぬか!」
「うーむ」
「火の玉」少尉の上半身は、
「こら、そう
と、怪ソ連人が、六条の身体を前に押しかえしたそのときのことだった。
「えい、やっ!」
ふりしぼるような叫びごえが、今の今まで死んだようになっていた、「火の玉」少尉の
「わわっ、||」
奇妙な悲鳴とともに、少尉の背後に組みついて勝ち誇っていた怪ソ連人の身体が、
このとき「火の玉」少尉がもし手を放したとすると、怪ソ連人の身体は、ゴンドラの
「どうだ、もう一度来るか」
少尉は、足を伸ばして怪人の頭を蹴とばした。だがかの怪人は、気絶でもしているのかなんの反抗も示さなかった。
その間にと思って、「火の玉」少尉は再びマイクをとりあげ、急ぎの報告を電波に
「ハア、こっちは××繋留気球第一号の六条です。電波はつづいて出ているでしょうな。このゴンドラの中に、ソ連人が一名忍びこんでいました。どうやらゴンドラの外からのぼってきたもののようです。今気絶していますが、あとでよく調べあげて、知らせます」
そういう少尉の声は、普段話をしているときとすこしも変っていなかった。これがどこへ飛ばされるとも分らない漂流気球の中に、心細くも生き残っている人の声とは、どうしてもうけとれなかった。
キンチャコフ
だが、この「火の玉」少尉の電信は、予期した応答が得られなかった。
変だなと思ってしらべてみると、マイクの
ちらりと地上へ目をやると、××陣地はもうマッチ箱の中に豆電球をつけたように小さくなっていた。高度はすでに三千メートル、方角がはっきりしないが、どうやら北の方へ押し流されている様子だ。
風はいよいよつよく、ゴンドラがひどく傾いているのが分った。
「火の玉」少尉は、マイクに
その怪しいソ連人は、依然として身体を逆さにしたまま叩きつけられたようになっていたが、彼の両眼は、うすく開いて、「火の玉」少尉の
そのうちに、怪人の一方の手がそろそろとうごきだして、
しずかに、再び彼の手首が現れたときには、
「火の玉」少尉は、そのときやっと気がついた。彼は、なにかゴンドラの中のものが動いたように思って、顔をあげてみると、この
「おいキンチャコフ。俺を撃つのはいいが、そんな無理な姿勢じゃ、命中しやしないよ」
「火の玉」少尉が、
「なに、どうしてこっちの名を······」
怪ソ連人は、相手の日本人がいきなりロシア語を
「おいキンチャコフ。貴様が××陣地で皆に追駈けられて、仕方なくここへとびこんだことは知っていたぞ」
「それがどうした。なにが仕方なくだ。わしはこの気球で
「そんなことは云わなくとも分っているぞ。貴様は、この気球でうまく脱れられるつもりなのか」
「脱れなきゃならないんだ」
「脱れるといっても、この気球は風のまにまに流れるだけなんだ。どこへ下りるか、それとも天へ上ったきりで下りられないか、分ったものじゃない」
「
と、キンチャコフが生意気な抗議を試みた。
「そこまで分っていれば、いいではないか。この気球が下におりるまで、貴様一人で風や雨と闘うつもりか、それとも貴様と俺と二人で闘った方がいいと思うか」
「火の玉」少尉は、話をうまいところへ
「ふん」
「それが分ったら、ピストルなんざポケットへ
「······」
「おい、お前は思いきりのわるい奴だな、キンチャコフ。そのピストルなんか
そういわれて、キンチャコフはつい
「ははあ、お前がキンチャコフか。だいぶん俺よりも年上らしいが······」
「火の玉」少尉は、どこまでも相手を呑んでかかった。
それから、この奇妙な日ソ組合せによる空中漂流がつづいた。
マイクロフォンの修理はできたけれど、これをつけても送信器は働かなかった。マイク以外に、故障ができたものらしく、専門家でない六条には、すぐさまその故障箇所を見つけることができなかった。
だから無電器械は、受信器だけが役に立った。
「ハア、××繋留気球第一号!」
といつまでもこっちを呼んでいるのが聞えたが、その声は、だんだんと強さを減少していく。それはいよいよ××陣地から遠く
無電は、しきりに救援の飛行隊が出動したことを報じていた。
たしかに、それに違いなかった。午前二時ちかくだったであろうか、赤青の
「おいキンチャコフ。俺も振るから、貴様もこの懐中電灯をもって、こういう具合に振れ。いいか」
六条は、キンチャコフにも信号をさせて、二人のうちのどっちかが偵察機に認められればいいと思ったのである。
キンチャコフは、あまり気がすすんでいなかったようであるが、それでも協力して懐中電灯を輪のように振った。
「おお、あそこを飛んでいるんだから、もう見えてもよさそうなものだが······」
と、「火の玉」少尉は、上を指した。
「うまいぞ。たしかにこっちへやってくる」
「すこし変だよ。あれじゃ高度が高すぎて、気球の上を通りすぎてしまいそうだ」
キンチャコフが、なかなか
「通りすぎられて、たまるものかい。おい、今だ。信号灯をもっと振れ」
二人は、懸命に懐中電灯をうち振ったつもりであった。
だが、この飛行機は、ついにキンチャコフのいったとおり気球の上方、約五百メートル近いところを飛び過ぎ、やがてだんだん遠くなってしまった。
「畜生、とうとう行かれてしまった」
「どうも無理だよ。こんな小さな
キンチャコフは、得意らしく喋りたてた。「火の玉」少尉は、キンチャコフが、ソ連仕立のかなり優秀なスパイであることを見破った。そうなると、これからさらに一層、油断はならないわけだ。
やがて午前三時をすこし廻って、月が出た。それから一時間半ほどたつと、東の天が白くなった。
前夜以来、しきりに呼びつづけていた××陣地からの無電が、急に小さな音響になってしまった。そして間もなく、なんにも聞えなくなった。
それっきり救援の飛行機も、こっちへ追駈けてこなくなった。
ただ涯しなく拡がった
鋭い牙
「ねえ、六条。気球が上昇をストップしたようだぞ」
寒そうに身体を
「ふん、なんだか動きもしなくなったようではないか」
六条が
気球は、ぴーんと
「これじゃ天井にくっついた風船みたいで、一向面白くない」
キンチャコフが
「おい、貴様は無電の知識をもっとらんのかね」
六条がたずねた。
「さあ、さっぱり駄目だねえ」
と、キンチャコフは気のなさそうな返事をした。キンチャコフの方が、六条よりも死生を
「おおっ、気球が下りだしたぞ。ああ、ありがたい。温くなるだろう。ふん、あの辺の雲の中へとびこむな」
キンチャコフがはしゃぎだした。
六条は、とうとう無電器械のことをあきらめてしまった。空中漂流以来、戦友戸川のことを思い出し、こっちもこんどは一つ
(やっぱり、自分の
彼ははじめて悟りに達したような気がした。と同時に、今までの妙な
「ほう、なるほど下るわ下るわ。いよいよ墜落の第一歩か」
「あまり
と、キンチャコフがいって、
「へんなことをいうと、きっとそのとおりになるという法則がある。ちと
「なあに、今のうちにこれでも喰っておけ。そうすれば元気になるだろう」
六条は、
ただ困ったのが水だ。水は、ゆうべ庶務の老人が持ちこんでくれたが、一人一日分しか入れてない。
携帯口糧は口の中で一杯になった。水を上から注ぎこまなければ、とても
「おう、雲だ。いよいよ下るぞ」
ほんの僅かの間に、気球は密雲の中に包まれてしまった。見る見るうちに、服はびっしょり水玉をつけ、やがてそのうえを川のように流れおちる。二人の頭のうえからも、小さい滝がじゃあじゃあと落ちてくる。
密雲が下にある間や、その密雲の中をくぐりぬけている間は、そうでもなかったけれど、気球が密雲をすりぬけて、それを上に仰ぐようになったとたんに、
「ああ、海だ」
「おお海だ。どこの海だろうか」
「この色は、日本海だ」
六条のいったことは、間違いでなかった。
「日本海なら、船がたくさん通るだろう。墜落しても大丈夫助かる」
とキンチャコフは、俄かに喜色をうかべていったが、なに思ったか、ポケットから例のピストルを出して六条につきつけた。
「なにをするんだ、キンチャコフ」
「いや、
「それはどういうことか。早くぬかせ」
「日本の
と、キンチャコフはピストルの引金にしっかと指をかける。
「火の玉」少尉は、別に
「そんなものを握っているよりは、下を船が通りやしないかどうかが、生命びろいのためにはその方が
「ふん、うかうかそんな手にのるもんかい。飛び道具の方が勝にきまってらあ」
キンチャコフは、本性を
(うるさい奴だ)
と思ったが、六条は別にピストルがこっちを向いているのを気にするようでもなく、ゴンドラの中から朝霧のかかった海面をじっと
キンチャコフの方が、かえってふうっと
不連続線という
ところが、どこにひそんでいたのか、不連続線という悪戯者が漂流気球の正面にぶつかったからたまらない。
「おう、気球がまた上りだしたぞ」
「あっ、ちがいない。おお六条。あの黒い雲を見ろ」
「思いきって、ここで
「なにを。下りるのはいやだ。わしは泳げないんだからな」
「俺が助けてやろう」
「いやだといったらいやだ。このピストルが眼にはいらないのか」
キンチャコフはピストルをふりまわした。
「うーぬ、貴様。さっきからピストルをかまえて、それで俺を
「なにを、来るか日本人。来てみろ、一発のもとに赤い花が胸から咲きでるだろう」
「
といったのと、
「うーむ、やったな」
六条は、突然右
「畜生、やりやがったな」
「火の玉」少尉は重傷に屈せず、
「あっ、
と、キンチャコフがゴンドラの外に手を伸そうとしたとき、踏みこんだ「火の玉」少尉は、腹立ちまぎれに右手でぴしりとキンチャコフの脳天をなぐりつけた。その右手は、ただの手ではなかった。鋼鉄製の
「火の玉」少尉は、相手がうごかなくなったのを見ると、そのまま自分も
「うーむ」
彼はぐっと歯を喰いしばった。そして胸のあたりをさすっていたが、やがて
それが「火の玉」少尉の、これまで連続していた記憶の切れ目であったのである。
そのころ、人事
それからどの位経ったか、よく分らない。キンチャコフの方が先に気がついたらしく、そのころ六条は、
「うーむ、よく眠った」
これが意識を回復した六条がいった最初の言葉だった。
それからまたあと三時間ばかり、彼は
その次に目覚めたとき、彼は本当に気がついたのであった。ゴンドラの中には飛びちった血の
握りしめて、眼の前へもってきて開くと、それは固形ウィスキーであった。ああ天の助けだなと、そのとき彼は思ったことであった。
彼は、
「キンチャコフ!」
とよんだ。
「······」
キンチャコフの腕が、六条の腕の方につつーっと
それから一日二日たったと思うころ、六条もキンチャコフも、相変らずゴンドラの底に寝たままではあるけれど、どうやら口だけ
「おい、キンチャ。もうどの辺を漂流しているかなあ」
「この気球は、最初北へいって、その翌日は西へ流れた。そしてもう四、五日にはなるだろう。すると、これはどうも
「そんなになるかなあ。よし今日はなんとかして腕の力で起きあがる練習をして、一度ゴンドラの外をのぞいてみたいものだ。俺は、太平洋の真中あたりへ出ているような気がするが」
そしてまた、二人は
どれだけ眠ったか、飛行機の爆音がするので、二人は目が
そのうちに、サイレンらしいものが鳴るのが聞えた。
「気のせいか、××陣地のサイレンと同じ音色だが······」
「なにをいうんだ。あれはザバイカル管区の
それから暫くして、二人はいきなり激しい衝撃をうけ、あっと思う間もなくゴンドラから放り出された。とたんに二人とも気を失ってしまったのは無理ではなかった。気球が
その翌日、「火の玉」少尉は病院のベッドで目を覚ました。おやと思って目をあげると、そこに田毎大尉や戸川中尉の顔があったので、びっくりした。それからの歓喜は、ここに
キンチャコフは、不運にも、ゴンドラが地上に激突したとき、当りどころが悪くて