南方航路
そのころ太平洋には、眼に見えない
妖しい力?
それは一体なんであろうか。
ひろびろとしたまっ青な海が、大きなうねりを見せてなんとなく怒ったような表情をしているのだ。
ときどき、水平線には、一条の煙がかすかにあらわれ、やがてその煙が大きく空にひろがっていくと、その煙の下から一つの船体があらわれる。
それは見る見るどんどんと形が大きくなり、やがてりっぱな
黄色の煙突、白い船室、まっ黒な
だが、
こんな噂もある。
太平洋に、やがて空前の大海戦がはじまるだろう。それは遅くとも、あと半年を待たないだろう。太平洋をはさんだたくさんの国々が、二つに分れ、そしてこの猛烈な戦闘が始まるのだ。そのとき悪くすると、遠く大西洋方面からも大艦隊が
太平洋が、ついにそのおだやかな名を失う日が来るのを嫌って、それで怒っているのかもしれない。
実をいえば、世界各国の汽船は、いまやいつ戦争が
ここに
ちょうど時刻は、午前零時三十分。
無電機械が、ところもせまくぎっちりと並んだこの部屋には、明るい電灯の光のもとに、二人の技士が起きていた。
一人は四十を越した
「おい
年をとった方は、
「空電ばかりになりました。ほかにもうなにも入りません」
と、丸尾とよばれた若い技士は、頭にかけた受話器をちょっと手でおさえて返事をした。
古谷局長は大きく
「ふむ、もう零時半だ。新聞電報も報時信号もうけとったし、今夜はもう電信をうつ用も起らないだろうから、器械の方にスイッチを切りかえて、君も寝ることにしたまえ」
器械というのは、
「じゃあ局長、警急受信機の方へ切りかえることにいたします」
「ああ、そうしたまえ。僕も、すこし
丸尾は、配電盤にむかって、一つ一つスイッチを切ったり入れたりしていった。
彼は、念には念を入れたつもりであった。さらに念を入れるため、古谷局長の
ところが丸尾が机のうえを片づけにかかっていると、急にけたたましく電鈴が鳴りだした。
スイッチを切りかえてから、ものの五分とたたない。
遭難船からのSOSだ!
局長は、電気にかかったように籐椅子からはね起きた。
「あっ、
局長は、そう叫んだかとおもうと、すぐにもう器械のところへ来ていた。
「おい、丸尾。録音はうまく出ているか、ちょっと調べてみたまえ」
局長の命令は、きびきびと急所をおさえる。丸尾は、はっと気がついて、さっそく録音盤の廻っているところをのぞいた。
「局長、だめです。盤はまわっていますが、録音の
「そうか」局長は眼をちらりとうごかすと、すぐ手をのばして受話機をとった。そしてそれを耳にあてた。
「うむ、聞えることは聞えているが、これはまたばかに弱いね」
そういって局長は、受話機をとると、
「おい、丸尾、すぐ方向を測りたまえ」
「はあ、方向を測ります」
ぼんやり立っていた丸尾は、ここでやっと
「どうだい、方向はとれたか」
「はい、とれました。ほぼ
「なに、南南東微東か」
局長は受話機を下において、急な
「さあ、すぐ船長に報告だ。電話をしたまえ」
丸尾は、交換台の接続を終ると、呼出信号を鳴らしつづけた。しかし船長室の受話機が取りあげられるまでには、かなりの時間がかかった。
「船長が出ました」
「おうそうか」
局長は紙片を手にとって、マイクに近づき、
「船長、ただ今SOSを受信いたしました。
「どこの汽船かね。そして船名はなんというのかね」
船長が、聞きかえした。
「それがどうもよくわかりません。“船名ハ||”とまでは、打ってきましたが、そのあとは
「ふーむ」と船長は
「ひょっとすると、どこかの軍艦かもしれない。さもなければ海賊船か。||で、その遭難の位置は、一体どこなのか」
「その位置は不明です。もっともSOSの電文のはじめに打ったのかもしれませんが、聞きのがしました。なにしろ電源がよわっているらしく、電信はたいへん微弱で、とうとう途中で聞えなくなってしまったのです」
「位置が分らんでは、救いにいけないじゃないか」
「はあ、そうです。そこでさっき、丸尾にSOSを発信している船の方向を
「ほう、それはいい。で方向は出たかね」
「南南東微東と出ました」と答えると、
船長は、ちょっと言葉をとめて考えこんでいたが、
「よろしい。では、これから針路をその南南東微東に向け、全速力で走ってみることにしよう。なお今後の信号に注意したまえ」
そこで船長の電話は切れた。
間もなく船が、ぐっと
いい気持で、睡っていた船員や
和島丸は位置を知らせるためどの窓も明るく点灯せられ、
遭難船の姿は、なかなか入らなかった。もうかれこれ一時間になるが、どこまで進んでも暗い海ばかりだ。
船長
それから
「どうした。なにか入ったかね」
「はい、今また、きれぎれの信号がはいりました。しかし今度は遭難地点をついに聞きとることができました。“本船ノ位置ハ、
「なに、北緯百六十五度、東経三十二度の附近だというのか? それじゃこの辺じゃないか」
と船長は、おもわず
和島丸は、その電文が真実なら、もう既に遭難地点に達しているのである。すると遭難船の姿を発見しなければならぬことになるが、さて探照灯を動かしてから見渡したところ、ボート
(どうも変だ!)佐伯船長は、小首をかしげた。
「おい局長、こんどは、信号の方向を測ってみなかったかね」
「はあ、測りました。方向は大体同じに出ましたが、前に測ったときほど
「そうか。じゃきっとそのへんに何かあるにちがいない。もっと念入りに探してみよう」
そういって船長は、甲板で働いている船員たちに、命令を出した。
「おい、見張員をあと五名ふやして、海面をよくしらべてみろ」
和島丸は、速力をおとした。そのかわり
だが、肝腎の遭難船の姿は、どこにも見えない。
遭難船の破片か、あるいは油とか、積んでいた荷物などが
佐伯船長をはじめ、船員たちが、すっかりいらだちの
「おーい、あれを見ろ。へんなものが浮いているぞ」
探照灯は、さっそくその方へむけられた。
なるほどへんなものが、波にゆられながら、ぷかぷか浮いている。
そのとき船員は、舳にかけつけていた。
「おい、ボートをおろして、あれを拾ってこい」
待ちかまえていた連中は、
ボートは矢のように、怪しい漂流物の方へ近づいた。そして苦もなくその浮かぶ筏を、ロップの先に結びつけた。
そしてボートは、再び本船へかえってきた。
船員は、また力をあわせ、ボートをひきあげるやら、その怪しい筏をひっぱりあげるやら、ひとしきり
「これは一体なんだろう。いいからこの函を開けてみろ!」
船長は、決然と命令をだした。函は
「おや、無電器械じゃないか」
と船員は
黒リボンの花輪
そのおどろくべき品物は、
佐伯船長が、つと手をのばして、油紙につつまれたものをもちあげたとき、待っていたように油紙はばらりととけ、その中からぽとんと下におちたものは一個の小さな花輪であった。
その花輪は、ちかごろ流行の、乾燥した花をあつめてつくってあるもので、色は多少あせていたが、それでも結構うつくしいので眼を楽しませたし、そのうえいつまでおいても、けっして
「ああ、花輪だ!」
と、船員たちは、その方に一せいに眼をむけたが、とたんに誰の顔も、さっと青くなった。
「なんだ、その花輪には、黒いリボンがむすんであるじゃないか。
黒いリボンは、お葬式のときにだけつかう
「ほう、まだなにか書いたものがつけてある」
佐伯船長は、函の底に、一枚のカードがおちているのをつまみあげた。
見ると、そとには妙な字体の英語でもって、
「コノ花輪ヲ、ヤガテ
と書いてある。なんというひどい文句だろう。これを読むと、お前の船にのっている者は、みんな海底に沈んでしまうぞという意味にとれる。
「け、けしからん」
見ていた船員たちは、
だが、さすがに佐伯船長は、怒るよりも前に、和島丸の危険を感づいた。
「おい、みんな。これは遭難の
船長のこえは、
さあたいへんである。船長の言葉が本当だとすると、もうすぐなにごとか災難がこの和島丸のうえにくるらしい。
「さあ、
「おい、こっちは機関室へいそぐんだ」
船員たちは、
「探照灯や室の外にもれる明かりを消せ。目標となるといけない」
船長は、つづいて第二の号令をかけた。
探照灯は消された。窓は、黒い
「あっ、今のは何だ」
船員が顔を見合わせたその瞬間、船底から
「ああっ、やられた。爆薬らしい」
船長はその震動でよろよろとよろめいたが、机にとびついて、やっと立ちなおった。そこへ一人の船員が、胸のあたりをまっ赤にそめて、とびこんできた。
「あっ船長。たいへんです。船底に魚雷らしいものが命中しました。大穴があきました。防水中ですが、うまくゆくかどうか。あと二三分で、本船は沈没いたします」
たいへんな報告であった。
灯火管制が、もう五分も早かったら、こんなことにならなかったかもしれないのだ。
佐伯船長は、首をあげて、ぐっとうなずいた。
「ボート、おろせ!」
悲壮な命令が下った。
青白い怪船
そういううちにも、和島丸の破られた船底からは、おびただしい海水が滝のようにながれこんで、船体は見る見る海面下にひきこまれてゆく。
「やあ、ひどく
船上には、ふたたび探照灯がついた。誰か分らないが、もう船が沈もうというのに、その探照灯をくるくるまわして、海面をさがしている者があった。
このような
海上は、まっ暗で、なにがなんだかわからない。救命ボートが
ごぼごぼどーんと、うしろではげしい音がしたが、これが和島丸の最後のこえのようなものだった。機関の中に海水がながれこんでその爆発となったものであろう。水柱が夜目にも、ぼーっとうすあかるく立って、ボート上の船員たちの胸をかきみだした。
なにゆえの無警告の撃沈であろう。
暗さは暗し、なに者の仕業だか、
「船長、ボートは全部無事です。第一、第二、第三、第四の順序にずっとならびました」
事務長が、暗がりのなかから報告した。さっきから、ボートのうえで
「そうか。では前進。針路は
えいえいのかけごえもいさましく、
「おい古谷局長」
船長が、無線局長をよんだ。
「はあ、ここに居ります」
古谷局長も、いまは一本のオールを握って、一生けんめいに
「本船の救難信号は、無電で出したろうね」
「はあ、最後まで
「どこからか応答はなかったかね」
「それが残念にも、一つもないので||」
「こっちの無電は、たしかに電波を出しているのだろうね」
「それは心配ありません。なにしろ打電している時間が短いものですからそれで返事が得られなかったものと思われます」
「ふーむ」
このうえは、救難信号をききつけたどこかの汽船が、一刻もはやくこの地点に助けに来てくれるのをまつより外はない。さっきまでは、こっちが遭難船を助けに急いだのに、今はその逆になって、こっちが助けを呼ぶ身となった。なんという逆転だろう。
「おい古谷局長」しばらくして、船長はふたたび局長をよんだ。
「はあ、ここに居ります」
「さっき本船から無電したとき、本船が
「はあ、それは本社宛の電報に、とりあえず報告しておきました。
「そうか。それはよかった」
船長の声が、暗闇の中に消えた。洋上は、すこし風が出てきた。
「さあ、元気を出して漕ぐんだ。あと二時間もすれば、夜が白むだろう」
事務長は、大きなこえで、一同に元気をつけた。そのときであった。
「あっ、船が! 大きな船が通る」
「えっ、大きな船が通るって、それはどこだ?」
「あそこだ。あそこといっても見えないかもしれないが、
「えっ、左舷前方か」
一同は、その方をふりかえった。なるほど暗い海上を、船体を青白く光らせた船の形のようなものが、すーうと通りすぎようとしている。
「あっ、あれか。かなり大きな船じゃないか。呼ぼうや」
「待て。うっかりしたことはするな。第一あの船を見ろ。無灯で通っているじゃないか。あれじゃないかなあ。和島丸へ魚雷をぶっぱなしたのは」
「ふん、そうかもしれない。すると、うっかり呼べないや」
佐伯船長も、おどろく眼で、その青白く光る怪船をじっと見つめていた。
ふしぎな船もあるものだ。まるで幽霊船が通っているとしか見えない。
「船長、
小銃で幽霊船を撃ってみるか。それもいいだろう。しかし万一あれが本当の幽霊船でなく、どこかの軍艦ででもあったとしたら、そのときはこっちはとんだ目にあわなければならない。
「まあ待て。決して撃つな」
船長は、はやる船員をおさえた。そのとき第二号のボートが船長ののっている第一号艇にちかづいて、しきりに信号灯をふっている。
「船長、第二号艇から信号です」
「おお、なんだ」
「無電技士の丸尾からの報告です。さっき彼は
「そうか。分かったと返事をしろ」
船長は大きく
「おい、小銃を持っているのは
「はい、貝谷です」
「よし貝谷。かまうことはないからあの船へ一発だけ小銃をうってみろ。
「はい、心得ました」
しばらくすると、どーんと銃声一発
船長はじっと怪船の方をみつめていたが、
「ははあ、そうか。幽霊船だと思ったが、弾丸があたって火花が出るようでは、やはり本物の鉄板を張った船なんだ。じゃあ、今にあの船は、騒ぎだすだろう。おいみんな、油断するな」
船長は声をはげましていった。だが、ボートから撃たれた怪船は、しーんとしずまりかえって、今や前方をすーっと通りすぎてゆく。
「これはへんだな」と、船長は小首をかしげた。船長の考えでは、小銃でうたれたのだからいくら寝坊でも甲板へとびあがってきて、こっちへむいて騒ぐだろうと思ったのに、それがすっかりあてはずれになった。彼は思いきって、次の決心をしなければならなかった。
「おい、貝谷居るか」
「はい、居りますよ。もっと撃ちますか」
「うん、撃て。私が号令をかけるごとに一発ずつ撃って見ろ。狙いどころは、さっきとおなじところだ」
「よし。ではいいか。一発撃て!」
どーんと、はげしい銃声だ。弾丸はかーんと船腹にあたってまたちかっと火花がでた。だが青白い怪船は、やはり林のようにしずかであった。
「もう一発だ。撃て!」
そうして三発の弾丸を
幽霊船か、そうでないか。||たしかに鉄板の張ってある船らしいが、誰も出てこないとはどうしたわけだ。
そのうちに、怪船は船足をはやめて、ボート隊から全く見えなくなってしまった。なんだか狐に鼻をつままれたようだ。
船長は無言で考えにふける。洋上に風はだんだん吹きつける。
四艘のボートの運命はどうなるのであろうか。
船腹が青白く光る無灯の怪汽船は、闇にまぎれてどこかへいってしまった。あとには、四隻の遭難ボートが、たがいに離れまいとして、闇の中に信号灯をふりながら洋上を
第一号艇には、佐伯船長がじっと考えこんでいた。
(一体どうしたというのであろう。難破船があるという無電によって、
どう考えてみても、そのわけが分らない。それは洋上で会った災難で、和島丸であろうと他の船であろうとどれでもよかったのだとすれば、なんという不運な出来ごとだろう。
船長が、とつおいつ、
「船長、風浪がはげしくなってきて、他のボートがだんだん離れてゆくようです。このままでは、ばらばらになるかもしれません」
「おおそうか」
船長は、はっと顔をあげて、洋上を見まわした。なるほど、他のボートについている信号灯が、たいへん小さくなったようだ。そしてその灯火が上下へはげしく揺れている。
「うむ、これはますます荒れてくるぞ。針路を
船長の言葉に従って、古谷局長はすぐに信号灯をふって他のボートへ信号をおくった。
その信号は、どうやらこうやら、他のボートへも通じたらしかった。
それを合図のように、洋上をふきまくる風は一層はげしさを加えた。どーんと、すごい物音とともに、潮がざざーっと頭のうえから滝のように落ちてくる。
「おい、手の
船長はぬかりなく命令をくだした。
生か死か。ボートの乗組員は、いまや全身の力を傾けて風浪と闘うのであった。
死んだような洋上
乗組員の死闘は、夜明までつづいた。
さすがの風浪も、乗組員のねばりづよさに敬意を表したものか、東の空が白むとともに、だんだんと勢いをよわめていった。そして夜が明けはなたれた頃には、風も
「おう、助かったぞ」
乗組員は、安心の色をうかべると、そのままごろりと横になった。
船長も、いつの間にか深い睡りにおちていた。が、彼は一時間もするとぱっと眼をさました。
「やっ、不覚にも睡ってしまった。こいつはいけない」
船長は眼をこすりながら、艇内を見まわした。誰も彼も死人のような顔をしている。
空は、うすぐもりだ。まだ天候回復とまではゆかない。だから油断は禁物である。
「そうだ。他のボートはどうしたろう」
船長は、眼をぱちぱちさせながら、洋上をぐるっと見わたした。だが求めるボートの影は、どこにも見えなかった。
「おい、古谷君起きろ!」
船長は、
局長は、びっくりして
「おい、とうとう他のボートとはぐれてしまったらしい、それとも君には見えるかね」
「えっ、他のボートが見えないのですか。
局長はおどろいたらしい。船長が望遠鏡をわたすと、彼はそれを眼にあてて、水平線をいくども見まわした。
「どうだ、見えるか」
局長は、それに対して返事もせず、その代りに望遠鏡を眼から放して、首を左右にふった。
「どこへいってしまったんだろうな」
船長は、ため息をついた。
「さあ、助かるには助かって、どこかに漂流しているんだとはおもいますが······」
局長はそういったが、しかしそれはなにも自信があっていったことではなかった。
ボートは西へ西へと流れていた。どうやら
「おい古谷君、無電装置を持ってこなかったかね」
と船長がきいた。
「はあ、持って来たことには来たんですけれど、駄目なんです。ゆうべ、ボートの中が
「ふうむ、そいつは惜しいことをした」
船長は眼を洋上にむけた。
そのうちどこからか、汽船が通りあわすかもしれない。だがそれは運次第であって、そんなものを期待していてはいけないのであった。
そのころ、乗組員たちが、ぼつぼつ起きてきた。
「ああ夢だったか。俺はまだ風浪と闘っている気がしていたが······」
風浪は
それは
「船長、
「うむ、二三日はこのまま漂流をつづける覚悟でいこう。そのうちに、なにかいいことが向こうからやってくるだろう」
船長は、たいへん
「おーい、水を呑ませてくれ。
船員の一人が、くるしそうなこえをあげた。
「船長、水を呑ませていいですか」
「うん、水は一番大切なものだ。とにかく今朝は、小さいニュームのコップに一杯ずつ呑むことにしよう。あとは夕方まではいけない」
「えっ、あとは夕方までいけないのですか」
たった一杯の水が、どのくらい遭難の船員たちを元気づけたかしれなかった。
次に海水にびしょびしょに
「おい、そこにあるのは缶詰じゃないか」
「おおそうだ。俺は手近にあった缶詰を
わずか十個に足りない缶詰だったけれど、遭難ボートにとっては、意外な御馳走であった。
「おい、三つばかり、すぐあけようじゃないか」
「待て、船長に
船長は、さっきから黙って、その方を見ていたので、部下にいわれるまえに口をひらいた。
「あけるのは、一個だけでたくさんだ。このうえ幾日かかって救助されるかわからないのだから、できるだけ食料を
「たった一個ですか。それじゃ、皆の口に一口ずつも入らない」
船員は不平らしくいって、
船長は、どうしても一個しか、缶詰をあけることをゆるさなかった。太平洋の遭難船で、半年以上も漂流していた例さえあるんだ。うまくいっても、一ヶ月や二ヶ月は漂流する覚悟でやらないと、計算がちがってくる。なにしろボートのうえには、二十四名の者が、ぎっしりのりこんでいるのだった。
「水だ、飯よりも水が呑みたい。船長、もう一杯水を呑ませてください」
「うん、いずれ呑ませてやる。もうすこし辛抱せい」
船長は、子供にいいきかせるようにいった。だが、実のところ、太陽の直射熱はいよいよはげしくなって、誰の
「おーい、みんな。ボートのうえに
船長は命令をくだした。
部下は、それをきくと、元気になったように見えた。手持ぶさたのうえに、がっかりしていたところへ、ともかくも船長からやるべき仕事をあたえられたからであった。
よせ
やがてボートのうえに、この日蔽いは張られて、
「もうすこし
「だめだよ、どっちへいっていいかわからないのに、帆を作ったって
そんなことをいいあうのも、日蔽いのおかげで、船員たちが元気になった証拠であった。
それは正午に近いころだった。
貝谷という船内で一番元気な男が、とつぜん大声でわめいた。
「おい、ボートだ! あそこにボートが浮いている」
「えっ、ボートか」
「和島丸のボートだろうか。どこだ、どこに見える」
貝谷は、小手をかざして、東の方を指さした。
今までなぜ気がつかなかったと思うくらい、手近かなところに
「おーい、和島丸のボート」
「おーい、一号艇はここにいるぞ」
一号艇の乗組員たちは、こえをかぎりに
「へんだな、応答をしないじゃないか。こっちの呼んでいるのに気がつかないのかしらん」
そのとき、佐伯船長がいった。彼は望遠鏡を眼にあてていた。
「なるほど、これはおかしい。ボートのうえには
「えっ、二号艇ですか。本当に人影がないのですか。どうしたんでしょう」
「おかしいね」と船長はいって首をふった。
そして望遠鏡を眼から外すと、一同をぐるっと見わたした。
「おい櫂をとれ。あの二号艇のところへ
果して二号艇には誰もいなかったであろうか。
そこには佐伯船長以下が予期しなかったような怪事が待ちうけているともしらず、一号艇はひさしぶりに擢をそろえて洋上を勇しく漕ぎだしたのであった。
いたましき遺書
二号艇は、波間にゆらゆら
そのうえに、人影はさらにない。櫂さえ見えないのだ。
せっかく身ぢかに発見した
「さあ漕げ、もうすこしだ。お一、二」
船長は船員たちに力をつける。
ボートは、海面を矢のように滑ってゆく。
船長は、ボートのうえに望遠鏡をはなさない。その傍にいる無電局長の古谷が気がついたときは、望遠鏡を握る佐伯船長の腕が、なぜかぶるぶると
「船長、ボートの中になにが見えます?」
「うむ」
佐伯船長は、望遠鏡を眼からひき離すように下ろして、ほっと
「船長、なにが見えましたか」
局長にさいそくされて、船長は、いまはもう仕方がないとあきらめたように、
「おう、皆よく聞け。わしは望遠鏡をとって、あそこに漂流する二号艇ボートを
船長は、わざとまわりくどいいい方をしているようであった。
「で、なにが二号艇内に見えるのですか。船長、はやくいってください」
「血だ、血だ! 二号艇のなかは、血だらけなんだ」
「えっ!」
船員たちはおどろきのあまり、思わず櫂の手をゆるめた。ボートは、ぐぐっと傾き、いまにもひっくりかえりそうになった。
「おう、しっかり漕げ、日本の船乗が、こんなことぐらいで腰をぬかしてどうするのか。さあ、はやく二号艇へ漕ぎよせろ」
船長は、
一号艇は、また矢のように海面を走りだした。漕ぎ手たちは、おどろきをおさえて、ひたむきに漕いだ。
「櫂やすめ」||船長の号令がかかった。
漕ぎ手たちは、はじめて左右をふりかえった。二号艇は、もう手をのばせば
「あっ。ひでえことになっていらあ」
「おお、これは一体どうしたというわけだろう?」
「あ、あんなところに
二号艇のなかのことを、どのように書きつづればいいであろうか。あまりの
とにかく艇内は、血しぶきで顔をそむけたいほどの惨状を
「なんということだろう、この光景は?」
おちつき船長として有名な佐伯も、この思いがけない僚艇の惨状に、顔の色をうしなった。
謎の
「これは、遭難して漂流中、仲間同志で喧嘩したのじゃありませんか。そこで、ジャック・ナイフでたがいに渡りあって、こんなことになった!」
船員の一人が、このひどい光景に説明をこころみた。もっともな考え方であった。
だが船長は、すぐそれに反対した。
「いや、ちがう。それはちがうだろう」
「でも、そうとしか考えられませんね」
「たしかにそれはちがう。第一、われわれの仲間がこんなひどい殺人合戦をやるとは考えられない。第二に、もしそんなことがあったとしても、
船長は、さすがに眼のつけどころがちがっていた。
どんな喧嘩のたねがあったにしろ、わずか一夜のうちに、二十名以上もあった二号艇の乗組員が一人も見えなくなり、人骨と千切れた手足だけをのこすばかりとなったとは考えられない。
船長は、自分の胸のうちを冷たい刃物がさしつらぬいてゆくように感じたのだった。
船員たちは、急にだまりこんでしまった。見れば見るほど、眼をそむけたいような惨状である。あの親しかった仲間の誰かれは、一体どうなったのであろうか。なにごとかはわからないが、この二号艇の乗組員たちをみな殺しにした不吉な死の影は、いつまた一号艇のうえにおちてくるか分らないのだ。
古谷局長は、さっきからだまりこくって、二号艇の
「はて||」
局長は、
「うむ、やっぱりそうだった」
局長の眼が光った。彼は佐伯船長の方をむいて叫んだ。
「船長、これを見てください。この手首は、なにか手紙らしいものをしっかと握っています」
「おおそうか。こっちへよこせ」
船長は、局長と二人がかりで、その手首がつかんでいる手紙のようなものをひき離した。それはたしかに手紙だった。手帳を破ってそのうえに
「おお、これは丸尾が書いたものだ」
船長が、びっくりしたようにいった。
「うむ、これはたいへんなことが書いてある。||“「幽霊船』ニチカヨルナ。ワレラハ”ちえっ残念! そのあとが破れていて分らない。次の行になって“ハ、人間ヨリモ恐ロシイ”で、またあとが切れている」
幽霊船に近よるな、
「さあ、どういう意味だかよくわからないが、||」と船長はいって、「とにかく、幽霊船に近よるな、人間よりも恐ろしい奴がいるぞ、注意しろ||と、こういうわけなんだろう。丸尾は、われわれを助けようがために、こんな身体になるまで頑張ったんだ。なんて勇しい男だろう」
船長は、おもわず感嘆のこえを放ったが、それは他の二十三名の乗組員だれもの想いでもあった。
それはそれでいいとして、その次に、この二十四人の生残りの船員たちをひどく
幽霊船だから、人間より恐ろしい奴というのは、幽霊のことなのであろうか。いやいや、幽霊などというものはこの世にないと聞いている。第一幽霊が無電などをうつであろうか。だがこの奇怪きわまる光景をながめていると、おしまいにはこれを超人的な幽霊の仕業とでもしなければ、説明がつかなかった。
幽霊船現わる
無電技士丸尾の遺書は、あまりに簡単であったため、二号艇に乗組んでいた二十何名かの船員の
だが、まったく遺書がない場合よりも、はるかによかった。すなわち「幽霊船」にしてやられたらしいこと、そこには「人間よりおそろしい」何者かがいるらしいことが、おぼろげながら分ったからである。
丸尾の遺書が知れわたると、一号艇の人たちは、破れかかった二号艇の中を、あらためて見なおした。それは惨状のうちにもなにかもっと彼等に役立つことが、ありはしないかとおもったからであった。
「おれは、だんぜんこの仇うちをしなければ
そういって、腰のジャック・ナイフを握りしめる船員もあった。
「おいおい、あれを見ろ。あのとおり、腕をひき
「うん、まるでフォークをつきこんで、ひき裂いたようだなあ」
「ああ、猛獣の爪にひき裂かれたようではないか」
船長は、彼等の会話をきいて、ともに涙をのんだ。
二号艇には
古谷局長と、貝谷という射撃のうまい船員と、そのほか六名の船員がのりこんだ。こうして二手にわかれて、また海を
二号艇へのりこんだ古谷局長は、一同をさしずして、艇内の血を洗ったり、僚友の
「どうも、あの雲が気になるね」
などと、いっているうちに、入道雲がくずれだした。それは特別に灰色がかった大きい奴で、下の方が煙のようなものの中に隠れていた。
「おい、
「おう、入道雲の中で光ったね。うむ、風が出てきたぞ。これはまたやられるか」
なにしろ助けを呼ぶにも、どこにも一隻の船影さえ見えないのである。櫂を握るにもあてはなし、風浪のまにまに漂ってゆくより外に仕方がない身の上であった。そこへ一時的の雷雨にしろ、
そうこうしているうちに、海は白い波頭を見せて荒れてきた。ぽつり、ぽつりとおちてくる大粒の雨!
やがてあたりは
「おい離れるな」
「おう、
二艘のボートは、たがいに必死のこえで叫びあう。どこが海だか空だか分らない。そのときだった。
「あっ、幽霊船が通る!」
「えっ、幽霊船!」
灰色の壁のような雨脚の中に、一隻の巨船が音もなく滑ってゆく。二三百メートルの近くであった。まさしく幽霊船だ!
逃がすな幽霊船
幽霊船にゆきあうのは、これで幾度目であろうか。たしか和島丸が撃沈せられて、一同が四艘のボートに乗じて海上へのがれたとき、この幽霊船がとおった。それからこれで二度目である。
はじめのときは、幽霊船に一発弾丸をおくってみただけで、そのままなにもしなかった。だが、きょうは幽霊船を別な目でみる!
なぜといって、
「うぬ、幽霊船め、こんどは只じゃ通さないぞ。そうだ、そうだ。乗組員の敵だ。
二艘のボートからは、乗組員たちが
「船長、私をあの幽霊船へやってください。私は仲間が、どうして殺されたかをよく調べてくるつもりです。きっと秘密は、あの船の中にあるのです」
「わしもやってくだせえよ。船長さん。丸尾はいい青年で、わしに親切にしてくれた。ここでわしは丸尾のために仇をうたなくちゃ、生きながらえているのがつらい」
あっちからもこっちからも、船長のところへ幽霊船探険を志願するものがたくさん出てきて、佐伯船長もどうしてよいやらすくなからず困った。彼等は、幽霊船の出てくる前には、
「よし、みんなのいうことは、よくわかった。では、あの幽霊船へ探険隊をやることにする」
二
「いまから命令を出す。古谷局長を隊長とし、二号艇の全員は探険隊として、直ちに出発! 一号艇は、予備隊としてしばらく海上から幽霊船の様子を見ていることにする」
それをきいて、悦ぶ者と、不満の舌うちをする者。
「これ、さわいでいる場合ではない。ぐずぐずしているうちに幽霊船が遠くへいってしまうぞ。おい、二号艇、すぐ出発だ!」
決死の探険隊
「おい、なんでもいいから、護身用になる
古谷無電局長は、探険隊長を命ぜられて、たいへんなはりきり方だ。彼は可愛がっていた丸尾技士のためにも、すすんでこの探険隊に加わりたいところだったのだ。
「さあ、用意はできたね。では探険隊出発!
古谷局長の指揮のもとに、ボートは大雨の中を矢のように波頭をつらぬいてすすむ。そのとき幽霊船はと見れば、嵐の中にまるで降りとめられたようにじっとうごかない。巨象が
「おい、しっかり漕げ!
もちろん誰も手をあげる者はいない。えいやえいやと、また
「そこだ。しっかり漕げ。貝谷、銃を構えていろ。||そこでこのボートを幽霊船の船尾にぶらさがっている
やがてボートはぐんぐんと幽霊船の下に近づいていった。見上げるような巨船だ。すっかり
なにしろ
「えい!」いくど目であったかしらぬが、とうとう古谷局長は、身をおどらせて船と船との間を飛んだ。綱梯子は大きく揺れているが、局長の身体はそのうえに乗っている。
「おい、はやく漕ぎよせろ。局長を見殺しにしちゃ、おれたちの顔にかかわる」
「ほら、いまだ。とびうつれ」
なぜか船尾から、綱梯子が三条も垂れていた。二号艇の勇士たちは、つぎつぎに蛙のように、この綱梯子にとびついた。貝谷も銃を背に斜めに負うたまま、ひらりと局長のとなりの梯子にとびつき、そのままたったっと
「おい貝谷、油断をするな」
早くもそれをみとめて、古谷局長が声をかけた。局長は
「見えた、
「局長、甲板に人骨が散らばっています。あそこです。おや、こっちにも。······ち、畜生、どうするか覚えていろ!」と貝谷が叫んだ。
「なるほど、こいつは凄い。幽霊というやつが、こんなに荒っぽいものだと知ったのは、こんどが始めてだ」
船内の怪光
嵐の勢いがおとろえ、雨はだいぶん小やみになった。怪船の舷側に、鈴なりになっている二号艇の面々は、もう突撃命令がくだるかと、めいめいにナイフや棒切を握って、身体をかたくしている。
「さあ、突撃用意!」古谷局長が、いよいよ号令をかけた。
「船内捜索のときは、必ず二人以上組んでゆけ。一人きりで入っていっちゃ駄目だぞ。まずおれたちは
そういい捨てるようにして、局長は舷側を身軽くとび越え、甲板のうえに躍りあがった。つづいて、銃を持った貝谷が、甲板上の人となる。残りの艇員たちは、場所をさらに上にうつして、舷側越しに、両人の行動をじっと注視する。そのとき、また空が暗くなって、白い雨がどっと降ってきた。甲板を
「突進だ」古谷局長は、貝谷をうながすと、
「やっぱり誰もいないですね」貝谷は雨に叩かれている船橋をじっとみまわした。
「局長、どうもさっきから気になっているんだが、妙なものがありますぜ。あれをごらんなさい」貝谷は、船橋のうえを気味わるそうに指した。
「雨に洗われて、うすくしか見えませんが、血の固まりを叩きつけたようなものが、点々としているのではないですか」
「そうです。もしここが陸上なら、いやジャングルなら、猛獣の足跡とでもいうところでしょうな」
「ふん、冗談じゃないよ。ここは海の上じゃないか」
といったが、古谷局長も貝谷の指した妙な血の
「局長、舷側のところで、みんなが局長の信号を待っていますぜ」
「ああ、そうか。じゃあ、いよいよ船内を探してみることにしよう」
そういって局長は、待っている一同の方へ手をあげて、
「おい貝谷。船室の方へいってみよう」二人は船室の方へ下りていったが、どの室の扉も壊れたり、または開いていて、室内はたとえようもなく乱れている。
「一体ここの船客たちは、どうしたんだろうね」
「幽霊に喰い殺されちまったんですよ」
「そうかなあ、それにしてはあまりに惨状がひどすぎるよ。ふん、ひょっとすると、この汽船の中に、恐ろしい流行病がはやりだして、全員みんなそれに
「えっ、流行病ですって」貝谷の顔色はさっと変った。
「そうだ、そうかもしれない。たとえば、ペストとか、或いはまた、まだ人間が知らないような細菌がこの船内にとびこんでさ、薬もなにも役に立たないから、皆死んでしまったというのはどうだ」
「しかし局長、人骨だけ残っていて、満足な人体が残っていないのはどういうわけですかな」
そういっているうちに、二人は船橋へ通ずる階段のところへ出た。そのとき下の
「あっ、あんなところに、なにかキラキラ光っているものがある!」
と、貝谷が局長の腕をぐっと引寄せた。
解けた
幽霊船の中に潜んでいた謎は、一体なんであったろうか。船艙のくらがりの中から聞えるごとごとという怪音、それにつづいてキラキラと光った物!
銃をもった貝谷は、隊長古谷局長の腕をとらえ、
「局長、あれをごらんなさい。光る物は二つならんでいます。あれは動物の眼ですよ」
「どこだい。よく見えないが······」
といっているとき、うおーっという
「局長、一発撃たせてください。そうしないと、こっちがやられてしまいます」
「じゃあ、······」
局長の言葉半ばにして、だーんと銃声がひびいた。貝谷がとうとう狙いをさだめて撃ったのである。闇の中に、たしかに
「どうしたんだろうなあ、貝谷」
「局長。うまく仕とめたんです。そばへいってみましょう」
局長と貝谷とは残りすくない貴重なマッチをすって、そばに近づいた。そこには大きな愕きが、二人を待っていた。
「あっ、
船艙の隅に、小牛ほどもあろうという大きな黒豹が、見事に額を撃ちぬかれて、ぐたりと長くのびていた。
「ああ、もうすこしで、こいつに喰われてしまうところだった」
「貝谷。お前の腕前には、感心したよ。いや、感心したばかりではない。危いところで生命を助けてもらったことを感謝するぞ。だが||」
と、いって、局長は大きな呼吸をして、
「おい貝谷。これで幽霊船の秘密が解けたではないか」
「えっ、幽霊船の秘密だといいますと······」
「ほら、甲板だの
「ああ、なるほど。猛獣だから、人間の肉をすっかり綺麗に喰べつくし、骨だけ残していたというわけですか。そうかもしれませんねえ」
といったが、雨の甲板や船橋のうえについていた大きな丸味のある
「ねえ局長。船内をあらしまわって人間を喰った黒豹というのは、いま撃ちとめたこの一頭だけでしょうか」
「さあ、どうだか」と局長はいったが、「どうも一頭だけとは考えられないね。なにしろ、あのとおり人骨が散らばっているところをみても、この一頭だけの仕業だとは考えられないよ」
「じゃあ、外の奴を警戒しなければなりませんね」
「そうだ、どっかその辺に潜んでいる奴があるかもしれない」
そういっているとき、甲板の方とおもわれる見当で、とつぜん、うわーっと誰かの悲鳴!
「あっ、誰かが······」
「うむ、猛獣が出たのかもしれない。すぐいってやろう。貝谷、続け!」
古谷局長は、短剣を手に、船艙から甲板へ通じる階段をまっしぐらに駈けあがる。
心細い
甲板へ出てみると、そこには想像した以上の、たいへんな光景が展開していた。古谷局長のつれてきた二号艇の連中が、
「あっ、局長。いますいます、猛獣が五六頭います」
「えっ、どこにいる?」
と、いっているところへ、うおーっと一声呻り声をあげて近づいてきた一頭のライオン。
「あっ、危い!」という間もなく、ライオンは局長と貝谷の上をとびこえて、檣の下へ||。
そこには、さっきから五六頭のライオンが入りみだれて、檣にのぼっている和島丸の船員をしきりに狙っている。
「うーむ、これは困った。銃一挺では、どうすることもできない」
と、古谷局長は
「でも局長。あと弾丸は五発ありますから、弾丸のあるだけ撃ってみましょう」
貝谷は、もう覚悟をきめていた。
「待て! 五発の弾丸を撃ったあとを考えると、そう簡単に撃つわけにいかないぞ。弾丸がなくなれば、われわれもまた、この汽船の乗組員と同じ運命に
猛獣は、ものすごい声をあげて
貝谷は、積みあげたロップの蔭から、猛獣の動静をじっと見守っている。
その後で、古谷局長は、しきりに智慧をしぼっていたようであったが、「そうだ、いいことがある!」と叫んで、貝谷の肩を叩いた。
「とにかく、このままでは、猛獣の
「なんですって、局長。あなたひとりで船内へ入っては危い!」
「だが、こうなっては、自分の身の危険など考えてはいられない。隊員全体の生命が危いのだから······。後を頼むぞ」というや、局長は走り去った。
それからのち、僅か二十分ぐらいの間のことだったが、貝谷は、二日三日もたったように思った。ところが、正味二十分たって、局長は息せききって、貝谷の待っているところへかえってきた。
「あっ、局長。どうでした」貝谷は、あいかわらず、猛獣への監視をおこたらず、その方へ顔をむけたままの姿勢でたずねた。
「うむ、あったぞ。このとおりだ」局長は、うれしそうに、貝谷の鼻のさきへ、三挺のピストルと二挺の銃とをさしだした。
「まだ銃はある。弾丸もうんとある。さあこれで、あの猛獣どもを追っ払うのだ」
局長は、さっきとは別人のように元気になっていた。
そこで局長と貝谷とは、一、二、三の号令とともに、積みあげたロップに銃をのせて、勢いよく撃ちだした。だだーん、どどーん。ものすごい銃声だ。そしてたいへんいい当りだ。そうでもあろう。相手は大勢、当らないのがおかしいくらいだ。
船内
こうして、四五頭のライオンと豹とが、またたく間に、
「ありがとう、ありがとう」
「そんな挨拶はあとだ。さあ早くこの銃を持て。そしてもう一度船内へひっかえして、持てるだけ、銃だの
一行は
「さあ、いよいよ猛獣狩といくか」
「待て待て。皆がいくまでのこともなかろう。ここからこっち半分は猛獣狩にいくとして、あとの半分は船内捜索をやるから、俺についてこい」
局長は貝谷を副長と決め、あと三人ばかりの船員を指名し、さっきに引続いて、船内を探すことになった。古谷局長の胸中には、前からたえず気になっていることがあったのである。それは、和島丸が航行中、受取ったあの怪しい無電のことである。
この幽霊船が、果してあの無電をうったのであるか。また魚雷も、この幽霊船の仕業であるか。もしそうだとしたら、なぜ和島丸は撃沈されなければならなかったか。更に幽霊船との関係も明らかにされなければならなかった。それとともに、死んだものと思われる無電技士丸尾の先途も見届けたいものであると思っていた。これ等のことがはっきりしないうちは、幽霊船の謎を十分解いたとはいえないのだ。和島丸の遭難事件の原因をたしかに突きとめたとはいえないのである。古谷局長と貝谷とは、まず無電室へはいってみた。ここにも人影はなし、室内には器械がひっくりかえり、書類がとびちっている。
「この部屋も、ずいぶん、ひどいですねえ」と、貝谷は
「うんひどすぎる」局長は、ちらばっている書類をしきりに拾いだした。
「なにを探しているんですか」
「無電を打ったその記録書を探しているのさ。はたして例のSOS信号をうったのが、この幽霊船か、どうかをしらべておく必要があるのだ」
古谷局長は、まもなく数十枚の貴重な記録書を拾いあげた。
「これだけ集ったが、SOS信号のものは一枚もない。そればかりか、この汽船は、今日でもう二十日間も一本の無電も打っていないのだ」
「二十日間も、一本の無電も打っていないというと······」
「つまり、無電技士がこの部屋からいなくなってからこっち、もう二十日になるのだ。すると、この汽船内に大事件が突発してから二十日間は経ったという勘定になる」
「無電技士も、やっぱり猛獣に喰われてしまったというわけですかね」
古谷局長は、顔こそ知らないが、自分と同じ職にあったこの汽船の無電技士の哀れにも恐ろしい運命に対して、深く同情した。
「局長、あれをごらんなさい。赤い豆電灯が
「どれ、どこだ」
と、局長はびっくりして貝谷の指す方をみた。壊れて床に倒れている器械の配電盤の上に、赤い監視灯が
「おやッ、この汽船には、まだ誰か生きている者があるんだな」
意外な生存者
古谷局長は、貝谷をうながし、扉をうちやぶって船内へはいった。船内は、暗かった。
「おい、中にはいっている奴、こっちへ出てこい!」
古谷局長は、英語でどなった。
中からは、返事がなかった。
「出てこなければ、撃つぞ。||もうあきらめて、降参しろ!」
局長は、もう一度、どなった。しかし、中からは、だれもでてくるものがなかった。
「おかしいじゃないか、貝谷」と、局長は、貝谷をかえりみていった。
「そうですなあ」と、貝谷は思案をしていたが、
「じゃあ、私がどなってみましょう」そういって貝谷は、
「こら、いのちが惜しければ、出てこいというんだ。出てこなければ、鉄砲をぶっぱなすぞ!」
「おいおい貝谷。日本語が、外国人にわかるものか」
「いや、私は大きな声を出すときには、日本語でなくちゃあ、だめなんです」
そういっているとき、
「ほら、出てきやがった!」
と局長以下の隊員は、銃をかまえた。怪しい奴なら、ただ一発のもとに撃ちとめるつもりだ。
「おお古谷局長!」暗がりからとびだしてきた相手は、意外にも、日本語で叫んだ。
「だ、だれだッ」
「丸尾です!」
「えっ、丸尾?」
ぼろぼろのズボンをはいて現れた人間。それはやつれ
「おお、丸尾だ。丸尾の幽霊だ。お前は、浮かばれないと見えるな」と、貝谷は叫んだ。
「幽霊? ばかをいうな。おれは、ちゃんと生きているぞ。生きている丸尾だ」
「ははあ、幽霊ではなかったかな、なるほど」
貝谷は、丸尾の身体を、気味わるげにさわってみて、感心したり、よろこんだり。
「丸尾、よく生きていた。わしは、漂流していると無人のボートの中でお前の片手を拾ったんだ。その手は、お前の書いた手紙を握っていた。だから、お前は、てっきり死んでしまったものと思って、あきらめていた。本当に、よく生きていたね。一体、これはどうしたのか」
「いや、これには、たいへんな話があるのです。しかし、猛獣は、どうしました。ライオンだの豹だのが、この船には、たくさんいるのです」
「それはもう皆、やっつけてしまった」
「えっ、やっつけてしまった。本当ですか。じゃ安心していいですね。ああ、よかった」
と丸尾は胸をとんとんと叩いた。
「猛獣狩は、もうすんだから、心配なしだ。それよりも、お前の方の話というのは······」
「ああ、そのことです。和島丸の同僚が、三名、いるのです。それから、この汽船ボルク号の生き残り船員が七八名いますが、こいつらは、かなり重態です」
「ほう、ボルク号。この汽船は、ボルク号というのか。どこの船か」
「ノールウェイ船です」
「うん、話をききたいけれど、それより前に、和島丸の仲間をよんできてやれ。心配しているだろう。私もよく顔をみたい。一体だれが生きのこっているのか」
「はい、
「ほう、そうか。よくいってやれ。そして、あとでゆっくり、話をきこう」
と、古谷局長がいえば、丸尾は、大ごえをあげながら、元の暗がりへ、とびこんでいった。
かたく閉された船内からは、幽霊が出てくるか、それとも猛獣がとびだしてくるかと思われたのに、その予想をうらぎって、思いがけなくも、丸尾たち生存者を発見して、古谷局長以下は、たいへんなよろこびかただった。
早速、貝谷を上甲板へやって、海上に監視をつづけている佐伯船長にしらせることにした。貝谷は、銃をひっかついで、上甲板へ、かけのぼった。
「おい、おーい」貝谷は、ボートをよんだ。
「おーい、どうした?」ボートからは、待っていましたとばかり、直ちに
「すばらしい発見だ。和島丸の船員が、このボルク号の中にいた。
ボートの中でも、よほどおどろいたものと見え、両手をあげてよろこびの万歳であった。これから、しばらくは、貝谷とボートとの間に、しきりに信号が交換された。そして佐伯船長の乗ったボートは、ボルク号の方に、漕ぎよせてきた。
「奇蹟だ。信ずべからざる奇蹟だ」佐伯船長は、つぶやきながら、タラップをのぼって来た。
「おお、丸尾か。よく生きていたのう。おう、矢島も川崎も藤原も、よくまあ無事でいたなあ」
そこで、船長と生残りの船員とは、ひしと抱きあって、よろこびの涙を流したのであった。
「船長、丸尾の話によって、なにもかも、すっかり分りましたぜ」
「なにもかもというと、この幽霊船のことかね」
「船のことはもちろん、例の怪しいSOSの無電信号のことまで、大体分りました」
「ほほう、あのことまで、分ったか」
「丸尾、船長に、今の話をもう一度報告しなさい」
「はい」と、丸尾は船長の前に、姿勢を正して、語りはじめたのであった。
「まず、私たちの冒険から、申し上げなければなりません。私たちのボートは、暗夜を漂流中、この幽霊船の横に、吸いつけられてしまったのです。ちょっとおどろきましたが、なにしろこのとおりのりっぱな船体をもっているので、恐ろしさもわすれて、私たち六七人で、タラップ伝いに甲板へ上りました。ところが、どこからともなく、異様な
と、丸尾はちょっと言葉を切って、身を
「······木谷が野獣にやっつけられたとき、私たちは、わずかの
丸尾の額から、汗が、ぽたぽたと頬をつたわって、流れた。
「私は、通風筒の
「ああ、なるほど。君がとびだしてきたのは、機関室の入口だったね」と、古谷局長がいった。
「そうです。あそこは、機関室へ通ずる廊下の出口だったのです。機関室へとびこんでみると、私は、そこに思いがけない、このボルク号の生残りの船員を七名、発見しました。彼等は、負傷と空腹とで、いずれもひどく弱っていました。そうでしょう。彼等は、この機関室へもぐりこんだばかりに、野獣に喰われる生命を助かったのです。しかし、その代り、食料品を取りにいくことも出来ず、もし出れば、すぐさま眼を光らせ鼻をうごめかせている獣に飛びつかれるものですから、やむを得ず、ここに
「三週間。そうだろう。その位になるはずだ。無電日記を見て、私は知っている」
と、古谷局長は、いった。
「一体、どうしてこのボルク号の中に、猛獣があばれだしたのかね」
船長は、不審でたまらないという顔で、丸尾にたずねた。
新船長
丸尾は話をつづける。
「そのことです。私は、ボルク号の船員にたずねて、はじめて事情を知ったのです。この汽船は、ノールウェイに国籍があるのですが、アフリカで、たくさんの猛獣を仕入れ、これから南米に寄港して、本国にかえるところだったんだそうです。アフリカと南米では、かなりたくさんの金属材料や食料品をつむことになっていたそうですが、これらは、どうやら、ドイツへ入るものだと知れていました。ところで、この船に、イギリスのスパイと思われる一組の客が乗っていたのです。船が、南米へ向う途中、そのスパイどもは、下級船員に金をやって、猛獣の檻をやぶらせたのです。はじめは、一さわがせやるだけのつもりのところ、その結果、とんでもないことが起りました。猛獣は、人間の血を味わうと、たいへんに、いきり立ったのです。そして、檻の中におとなしくしていた猛獣たちも、ついには檻を破って一しょにあばれだしたのです。全く手がつけられなくなりました。殊に、猛獣対人間の最初の戦闘において、かなり腕ぷしのつよい連中がやられ、高級船員も相当たおれ、それからボートを出して船を捨てて逃げだすなど、たいへんなさわぎになったそうです。しかも運わるく、そこへ台風がやってくるし、さんざんの目にあって、ついにこの汽船の中には、機関室に
「なるほど、そうかね。聞けば聞くほど、たいへんな事情だなあ」
「ボルク号の船員をいたわっているところへ、どこからはいこんできたのか、矢島がはじめに、機関室へ
「そうであろう」と船長は、同情の眼で、丸尾たちを見まもって、
「ところで、あのSOSの
「ああ、あれですか。あれは、どうもよくわからないのです」
と、丸尾は、首をふった。するとそのとき、古谷局長が、
「船長、あれについて、私は一つの考えをもっているのですが······」
「そうかね、どういう考えか」
「あれは、わが和島丸を雷撃した怪潜水艦がつかった
「それは
「その怪潜水艦は、ボルク号を狙っていたのだと、私は想像しています」
「え、ボルク号を······」
「そうです。ボルク号が、その附近を通りかかるのを狙っていたところ、その前にボルク号は、あの猛獣さわぎをひきおこしたわけです。そしてボルク号の機関は停るわ、折からの台風に
古谷局長は、なかなか面白い説をはいた。
「なるほどねえ、それはなかなか名説だ。いや、全く、古谷君のいうとおりかもしれない。すると、われわれは、とんだ貧乏くじを背負いこんだわけだね」
船長は、一同の顔を、ぐるっと見まわした。そのとき貝谷が、口を出した。
「船長。その怪潜水艦というのは、どこの国の潜水艦なんでしょうか」
「さあ、わからないね」
「イギリスの潜水艦じゃないですかな。アメリカを参戦させようというので、わざと南太平洋などで、あばれてみせたのではないでしょうか」
「それは、なんとも、いえない」と船長は自重して唇をとじた。
「私は、どこかで、その潜水艦をみつけてやりたい。そして、大いに
「貝谷。お前は、その潜水艦に、ついにめぐりあえないかもしれない」
「え、なぜですか、古谷局長」
「私は、この船をしらべているうちに、こういう考えが出た。それは、かの怪潜水艦はわれわれの和島丸を沈没させた前後に、かの潜水艦も沈没したのだと想像している」
「局長。君はなかなか想像力がつよい。しかしまさかね」
「いや、船長、このボルク号の艦首は、ひどく
「なるほど。たしかに一つの答案になっているねえ」と、佐伯船長は、微笑した。
「さあ、そこで、われわれは、このボルク号の
佐伯船長は、いつの間にか、ボルク号の船長として、生残りの船員にきびきびした命令を下しはじめたのであった。