これからわたくしの述べようとする身の上話を、ばかばかしいと思う人は、即座に、後を読むのをやめてもらいたい。そして、この本の頁を、ぱらぱらとめくって、他の先生の傑作小説を読むのがいいであろう。銀座の人ごみの中で、
さて、もうこの行のあたりを読んでいてくださる読者は、十中八九、真にわたくしの気持に理解のある粒よりの高級読者だけが残っておられることと思い、わたくしはそろそろ安心して本調子の話をすすめようと思うが、しかしまだ幾分ゆだんは出来ないぞ。
なんというばかばかしい話であろう||と、思う読者があるだろう。そういう読者よ。これから後を読むのをおよしなさい。君はきっと胸が悪くなるであろう。しかもなお、ばかばかしさが千倍万倍に増長していくのだから。この辺で、読むのをよすのが、お身のためであろうぞ。
さて、残りの読者諸兄姉よ、
さて、十中十までのわが愛読者諸兄姉よ(だが、まだゆだんはならない)。
とにかく、わたくしは、この一、二年この方、ふしぎな自分自身に気がついた。それは、わたくしの身体が、奇妙にも、誰にも見えなくなることがあるのだ。
一体こういう奇現象は、なにもわたくし一個人にかぎる現象でもなく、方々にこれと同じ現象をお持ち合わせの方があるのではないかと思う。彼等は、わたくしに
でも、他人さまのことは他人さまの御勝手ということにして置いて、わたくしは自分のことを
戦慄すべき思い出||などと書いたが、
だんだんと、
さて、わたくしは、電灯を
深夜の戸山ッ原!
それは知る人ぞ知るで、まことに静かな地帯である。地帯一帯を蔽う、くぬぎ林は、ハヤシの如くしずまりかえっているし、はき
そのときわたくしは、無人の境だとばかり思っていたこの戸山ッ原に、人がいるのを知って、びっくりした。それは、くぬぎ林の中から、急に人間が出て来たのである。人数は二人であった。一人は若い男で、他の一人は若い女であった。
二人は、何か早口で
そのままわたくしが前進すれば、必ず二人の男女にぶつかるしかない。相手は、あいかわらず一直線に近づいてくる。それを見て、わたくしは、こっちで道をさけようかと思った。しかしわたくしが道をさけるいわれは一向にないことに気がついた。相手は二人でたのしんでいるのである。われは一人で一向楽しんでいない。しからば恵まれたる彼等は、恵まれざるわれのために道をゆずるぐらいのことはしてもよいではないか。
そう思ったわたくしは目をつぶらんばかりにして前進した。
(あぶない!)
どすんと、わたしの身体は、若き男の方にぶつかった。
「あいたッ」
と、その若き男は叫んだ。そしてよろよろとうしろによろめいた。(倒れるか、気の毒に······)と思ったのは、わたくしの思いあやまりで、かの若き男は、ぐっと一足をついて体勢をたてなおした。
「おや、へんだな。||そして僕は伯父にいったんだ。僕はこれがうまくいかなければ······」
と、早口で喋るのは、その若き男であった。
「あら、どうしたの、今? あんた倒れそうになったじゃないの」
と、若き女がいった。
「ああ、なんだか身体が、あんな風になっちゃったんだよ。もういたくも何ともないよ。||それで僕は伯父に······」
「だけれど、へんね。まるで、目まいでも起こしたようだったわね」
「なあに大したことはないよ。僕、このごろすこし神経衰弱らしいのでね」
そういいながら、二人の若き男女は、
わたくしは草原へすわりこんだまま、しばし二人の後姿を見送っていた。
(なんという
だが、待てよ、どうも
わたくしは、とてもへんな気持で、またそのまま、くぬぎ林の中を歩いていった。月光は、
すると、わたくしは、また新しい一組の若き男女が、林の奥から、しずかな歩調でもって出てくるのを見つけた。
(なんと、二人連れの多い夜だろう)
と、わたくしは、最初
(ついでに、こいつ等にも、ぶつかってくれよう!)
わたくしの邪心は、
その結果は、びっくりしたのは、わたくしの方であった。
なぜなれば、かの両人は、
「あら、およしなさいよ、松島さん」
「あれッ、ひどいよ、君ちゃん。君の方が、ぶつかっておいて······」
と、互いに相手がぶつかったと信じ合い、とうの昔に、両人の間をすりぬけて、そのうしろに立っているわたくしの存在には、一向に気がつかない様子だった。
これには、わたくしも、
(おやッ、これはへんだぞ!)
と、思わずつぶやいたことである。
「あれえ、誰かいるわよ」
「さあ、誰もいやしないよ」
「あら、誰もいないのね。いま、へんだぞとかなんとかいったように思ったけれど······」
両人は、わたくしの方に顔を向けたまま、そんな風に話しあった。しかもわたくしのいることについて、全然気がつかないようであった。
そこでわたくしは、
(へんだ。前の二人も、今の両人も、どうやらわたくしのいるのに気がつかないようだ。そんなことがあっていいかしら)
わたくしは、だんだん気がへんになってきた。胸はどきどきとおどってきた。気が変になりそうになった。
わるいと思い、おそろしいとも思ったけれど、わたくしは、つづいて第三の一組に対しても、ためしをやってみた。その結果も、また実にかなしむべきものであった。誰も、わたくしの存在に気がつかないのである。わたくしの身体が、彼等に見えないのである。こんな悲しむべき、かつ又恐ろしきことが、またとあるであろうか。
それからわたくしは、戸山ッ原の草のうえに、一時間あまりも転がって、ひとりで
その翌朝、元来
「やあ、今ごろ起きたのか。ばかにゆっくりだね」
と、わたくしは声をかけられた。
わたくしは、その途端に、はっと思った。声をかけてくれたのは、同じアパートの住人にして
「······」
「なんだい、その顔は。鼠が鏡餅の下敷きになったような当惑顔をしているじゃないか」
藤田師は、例によって
その結果、わたくしは、初めて、大安心をすることができた。わたくしの後には誰もいなかった。廊下は、奥の方まで
「やあ、藤田さん。ゆうべは、だいぶん
と、わたくしは、初めて笑いごえを立てた。
「うふ、ゆうべだけじゃないよ。このごろは、
藤田師の笑い声は、わたくしにとって、千両万両の値打があった。わたくしの身体は、たしかに見えるのである。その証明が、この藤田師によって、りっぱに立ったのである。わたくしは、天にものぼらんばかりの巨大なる
この悦び、この安心!
だが、わたくしにとって、解けぬ謎は、あの夜の戸山ッ原の怪事件であった。なぜ、あの夜に限り、わたくしの姿が、あの人々には見えなかったのであろう。
わたくしは、そのことを、仲のいいわたくしの友達で、白石君というのに話をした。但し、わたくし自身の身の上話をしないで、第三者の話のような角度でもって語ったのだった。
すると、その白石君は、ふふんと鼻で笑い、
「それは、分っているさ、別にその人(実はわたくしのこと)の身体が見えなかったわけじゃないのさ」
「えっ?」
「つまり、あんなところで密会している若い男女にとって、向うから突き当ってくるその人は、不気味な恐ろしい人物と見えたので、そこで触らぬ神に
「ふーん、なるほど。そうだったか。はははは」
「なにがおかしいんだ。へんな男だ」
白石君は
ところが、そのよろこびは、ものの五日とつづかなかった。或る夜、また新宿からの帰途、例の戸山ッ原にさしかかったとき、全く同じような目にあった。つまり、わたくしの姿が、またもや全然認められないのであった。
恐しい病気の再発に似たわたくしの悲しみだった。白石君の言は、たった三日たらず、わたくしをよろこばせてくれたに過ぎないのであった。わたくしは、再び暗黒の
相手の
わたくしは、そのような
さりながら、いつまでたっても未解決のそのままで、じっとしているわけにもいかないので、わたくしは、藤田師を
すると、藤田師は御自分の
「ふうむ、君の人相を仔細に見たのは今が初めてであるが、君の人相は天下の
「なんだね、その奇相というのは······」
わたくしは、いささか気味がわるくなって、問いかえした。すると藤田師は、平生のぐうたら態度に似合わず、きちんと膝に手を置いて、
「むかしわれ等の先輩の一人は、
「おい、
「つまり君の人相だ。実に千万億人に一人有るか無しの奇相である。それによると、君はわれわれが今見ている現実世界の住人ではない」
「えっ、なんだって、少しもわけがわからない」
「わからないことはない。君は、
「超宇宙人種? いよいよわからなくなった。超宇宙人種かもしれないが、現にこうしてりっぱな日本人として、君の目の前にいる」
と、威張ってみたものの、そのときわたくしは、はっと胸をつかれたように思ったのである。それは例のことを思い出したからであった。戸山ッ原の夜の散歩人に、わたくしの姿が見えなかったらしいあの夜の記憶が、戦慄とともに
藤田師は、それに構わず、先を
「これを分り易くいえば、わが眼に今見えている君は、君の実体を或るところから、すぱりと斬ったその切り口に過ぎない。たとえば、ここに一本の大根がある。その大根を、胴中からすぱりと切り、その
「どうもよくわからん」
「
「うん、三次元の世界だ」
「しかるに今、二次元の世界があったと仮定しろ。それは縦と横とがあるきりで、高さがない。まるで静かな水面のような世界だ。平面の世界だ」
「うん、二次元の世界か」
「今、水面へ、さっきの話の大根をしずかに漬けていったとしよう。はじめは、大根の尻ッ尾が水面に触れる。そのとき二次元の世界では、大根は一つの小さな点だとしか見えない」
「ふふん」
「ところが、大根を、ずんずん水の中におろしていくと、水面に切られている部分は、だんだん大きい白円に拡がっていく。二次元の世界では、点がだんだん大きい白円に生長していくのが見えるのだ。そしてついに、大根の葉っぱのところが水面で切られると、今まで白円と思っていたものが、急に一変して、多数の青い帯が散乱しているように見える。その青い帯が、たえず動き、そして形が変るのだ。そして大根の葉っぱの一番上のところが、水面をとおりすぎて下におちると、とたんに二次元の世界には、なんにもなくなる」
「ふふん、奇妙なことだ」
「はじめ白い点から始まり、やがて大きい白い円盤となり、やがてそれが青い帯の散乱となり、ついにぱっと消えてしまうまで||二次元の世界の生物には、それは一種の幽霊的現象として映ずるが、われわれ三次元の世界の者をして云わしむれば、それは要するに、一本の大根が、静かなる水面に交わり、しずかに下に下っていったに過ぎないのだ。だが二次元の世界の生物には、われわれが認識しているような大根の形をついに想像出来ないのだ。二次元の者には、三次元の物を認識する能力がないのだ」
「ふーん、君はなかなか科学者だ」
「そうだ、人相見の術は、科学なのである。そこで君のことに帰るが、わしの観相によると、君は三次元の生物ではなく、四次元の生物であると出ているのだ。そんなばかばかしいことがあってたまるものかと思うが、そう出ているんだから、よういわん。わしは、きょうかぎり、人相見をよそうと思う。インチキ極まる術だ」
わたくしは、
爾来、私は、隠者のような生活をしている。今も私の身体は、ときどき人間たちの眼に見えなくなるようである。不意に人に突き当られて
近頃しらべてみたところ、わたくしの父母は
そういう人は、よく注意をしていなければならない。往来やその他で、人にどすんと突き当られたときは、一応この疑いを持って(自分の姿が、今、相手に見えなかったのではないか、自分は四次元の生物の切断面(?)ではないか)と、反省してみる要があろう。