すべての草木が冬枯れはてた後園の片隅に、水仙が五つ六つ花をつけてゐる。
そのあるものは、
肥り
肉の球根がむつちりとした白い肌もあらはに、寒々と乾いた土の上に寝転んだまま、
牙彫りの彫物のやうな円みと厚ぽつたさとをもつて、曲りなりに高々と花茎と葉とを持ち上げてゐる。
白みを帯びた緑の、女の指のやうにしなやかに躍つてゐる葉のむらがりと、爪さきで軽く
弾いたら、
冴え切つた金属性の響でも立てさうな、金と銀との花の
盞。
その葉の
面に、盞の底に、寒さに
顫へる真冬の日かげと粉雪のかすかな溜息とが、溜つては消え、溜つては消えしてゐる。
水仙は低く息づいてゐる。金と銀との花の盞から静かにこぼれ落ちる金と銀との花の
芬香は、大気の動きにつれて、音もなくあたりに
浸み
透り、また揺曳する。ぼろぼろに乾いたそこらの土は、
土塊は、その香気のために絶えず
焚き籠められ、いぶし
浄められている。水仙は多くの美しい生命をもつものと同じやうに、荒つぽい、かたくなな土の中から生れいでながら、その母なる土を浄めないではおかないのだ。
すべての香気は、人の心に思慕と幻想とを
孕ませる。私は水仙の冷え冷えとした高い芬香に、行ひ澄ました若い尼僧の清らかな生涯を感じる。
蝋石のやうにつめたく、滑らかな肌をしたこの後園の尼僧は、生れつき環境の騒々しさを好まないところから、わざとすべての草木は枯れ落ち、太陽の光さへも涙ぐむこの頃の時季を選び、孤寒と静寂との草庵のなかに、独自の生涯を営み始める。ひとりぽつちといふものは、自分の生活をもつてゐる者にとつては、必ずしも悪い境遇ではない。草木の多くは太陽に酔ひ、また
碧空に酔ふが、時季が時季のこととて、今は太陽の盞も水つぽつくなり、大空の藍碧も
煤けきつてゐる。
清浄身の持主であるこの尼僧は、そんなものには見向きもしないで、その眼はひたすら純白な自らの姿を見つめ、そしてわれとわが清浄心のむせるやうな芬香に酔つゐいる。この清浄心の芬香こそは、持前の大きな球根の髄から盛り上げてくる水仙の生命そのものなのである。
どうかすると粉雪のちらつかうとする頃だけに、恋の媒介者である小蜂など、気まぐれにもここに訪れてこようとはしない。むかし、孟蜀にすぐれた術士があつた。この男は、画の道にかけてもかなり評判が高かつたので、ある時領主が召し出し、御殿の前庭の東隅で一つがひの野鵲の画を描かせたことがあつた。すると、どこからともなく色々の小鳥がその近くへ飛んできて、べちやくちやと
口喧しく騒ぎ立てた。それに驚いた領主は、さらにまたその頃花鳥画家として声名の高かつた
黄筌を召し出し、庭の西隅で同じやうに一つがひの野鵲を描かせたが、今度は別に何の不思議も起こらなかつた。領主はその理由を筌に訊ねた。
「おそれながら私の画は藝でございますが、あの男のは術の力でできあがってをりますので
······」
かういつて答へた黄筌の
面には、そんな小供
騙しのから騒ぎなどには頓着しない、真の藝術家にのみ見られる物静かな誇りがかがやいてゐたといふことだが、私は今水仙の純白な花びらに、小蜂の騒音などを少しも悦ばない、高い超越と潔癖とを見ることができる。
それだからといふではないが、水仙の子房は一粒の実をも結ばない。ちやうど尼僧が子を
孕まないのと同じやうに
······