1
一度トーキーの撮影を見たいものだと、例の私立探偵帆村荘六が口癖のように云っていたものだから、その日||というと五月一日だったが||私は早く彼を誘いだしに小石川のアパートへ行った。
彼の仕事の性質から云って、正に白河夜船か或いは
私は直ぐさま、彼をトーキー撮影所へ誘った。二つ返辞で喜ぶかと思いの外、帆村はいやいやと首を振って、
「トーキーどころじゃないんだ。僕はとうとう昨夜徹夜をしてしまったのだよ」
「ほほう、また事件で引張り出されたね」
「そうじゃないんだ。うちで考えごとをしていたんだ。ちょっと上って呉れないか」
と、帆村は私の腕をとって引張りこんだ。
考えごと||徹夜の考えごとというのは何だろう。
「君に訊ねるが、君は『獏鸚』というものを知らんかね」
と、帆村がいきなり突拍子もない質問をした。
「バクオウ?||バクオウて何だい」
と、うっかり私の方が逆に質問してしまった。
彼は苦が笑いをして暫く私の顔を見詰めていたが、やがて乱雑に書籍や書類の散らばっている机の上から、小さい三角形の紙片を摘みあげると、私の前に差出した。
「なんだね、これは?」
と私はその小さい紙片を受取って、仔細に表と裏とを調べた。裏は白かったが、表の方には、次のような切れぎれの文字が
······0042······奇蹟的幸運により······獏鸚······
どうやらこれは、手紙かなにかの一端をひきちぎった断片らしかった。なるほど「獏鸚」という二字が見えるが、何のことだか見当がつかない。「一体これは何所で手に入れたのかネ」
「そんなことを
と帆村は
「これは或る密書の一部分なんだよ」と帆村は遠いところを見つめるような眼をして云った。
「そこには、たった三つの違った字句しか発見できない。昨夜一と晩考えつづけて、はじめの二つの字句は、まず意味を察することができたのだ」
密書を解いたと聞くと、私は急に興味を覚えた。
「まず数字の0042だが、これをよく見ると、この四桁の数字の前後が切れているところから見てまだ前後に他の数字があるかも知れないと想像できるのだ。僕は大胆にこれを
私は久振りに聞く友人の能弁に、ただ黙って
「もう一つの字句『奇蹟的幸運により』は一見平凡な文字だ」と帆村は続けた。「しかし僕は、この一見平凡な字句の裏に
帆村は机の上に
「ねえ帆村君」と私は自信もないのに[#「自信もないのに」は底本では「自身もないのに」]呼びかけた。「ほら昔のことだが、源三位頼政が退治をした
「ああ、君も今それを考えているのか」帆村は憐むような
「そうでもあるまい。最近ネス湖の怪物というのが新聞にも出たじゃないか」
「怪物の正体が確かめられないうちは、ネス湖の怪物もナンセンスだ。君は頭部が獏で、胴から下が
友人は真剣な顔付で私に詰めよった。私はすこし恐くなって目を
わが友人も、嫌な画を見られて失敗ったという表情をして、にやにや笑いだしながら、
「正にあの絵のとおりだとすると、実に滑稽じゃないか。しかしこの密書の断片は冗談じゃないんだよ。厳然として獏鸚なるものは存在するのだ。しかも、つい二三日前の日附でこの奇獣||だか奇鳥だか知らぬが||存在するのだ。ただいくら『奇蹟的幸運によった』としても、そんな獣類と鳥類の結婚は考えられない」
「手術なら、どうだ」
と私は不図思い出して云ってみた。
「なに手術? そりゃどんな名外科医があって
「目的だって? それは密書事件の状況から推して考え出せないこともなかろうと思うんだが······」
「そうだ」と帆村はいきなり椅子から立って部屋をぶらぶら歩きだした。「じゃ、君に、この密書に
それは私の最も望むところだった。
2
帆村はポケットに両手をつっこんでぶらぶら室内を散歩しながら、誰に話しかけるともなしに密書事件を次のように語りだした。
「昭和十年四月二十四日の朝刊に、上野公園の動物園前の
と帆村は私の前にちょっと立ち停った。私が黙って肯くと、彼はまたのそのそと室内の散歩を始めながら、先を続けた。
「謎の密告者については、戸沢という警視庁きっての不良少年係の名刑事がずばりと断定を下した。それは
帆村とくると、彼は江東の辺の事情に土地の誰よりも精通していた。帝都の暗黒中心地といわれた浅草は、関東の大震災によって完全に潰滅し、それがこの江東地帯に移ったと彼は云う。その点新宿などは新興街で只賑やかなだけで、不良仲間からはてんで認められていないそうである||帆村は
「喫茶店ギロンでね、僕は恰好の団員が張りこんでいるのを、いち早く見つけてしまったのだよ。それはちょっと見るとダンサーのような洋装の少女だった。年齢の頃は二十二三と見たが、いい体をしているのだ。胸の
帆村はそこで急に黙ってしまった。コトコトと部屋を一周したけれど、まだ黙っているのであった。
「それからどうしたんだい?」と私は不満そうに話の続きを催促した。
「······イヤア失敗だ。こっちがつい固くなったものだから、女の手から西洋紙||つまりそれが密書だった||それを受取るのに暁団の作法を間違えてしまった。女は
と云って帆村は、まだ火もつけていない紙巻煙草をポツンポツンと

「どうだい、君の力で以上の話の中から、何か『獏鸚』らしきものを引張りだせるかい」
「ノン||」私は首を左右に振った。「BAKUOOのBAの字もありはしない」
「やっぱり駄目だね。なんという
「おい、帆村君。君は獏とか鸚鵡についても研究してみたかい」
「それはやってみたよ」と彼は不服そうに云った。「獏は哺乳類のうちの
「うん。それから······」
「それから?······獏は性
「もう沢山だ」と私は悲鳴をあげた。
「では鸚鵡は鳥類の
「わ、判ったよ。君の動物学についての
私は耳を抑えて立ち上った。私には鸚鵡の種類などを暗記する趣味はない。
「なアに、まだ三十五点くらいしか喋りはしないのに······」
「もう沢山だ。······しかし動物学の造詣で探偵学の試験は通らない。獏といえば夢を喰うことと鸚鵡といえば人語を真似ることだけ知っていれば、充分だよ」
「そうだ、君の云うとおりだ」と帆村は手を
「大いに、よろしい」
私は
3
桜の名所の玉川べりも、花はすっかり散って、葉桜が涼しい蔭を堤の上に落していた。そうだ、きょうからもう五月に入ったのだ。
帆村を案内しようという東京キネマの撮影所は、ちかごろトーキー用の防音大スタディオを建設したが、それが堤の上からよく見えた。
門を入ると、
「お連れさんは?」
「これは俺の大の親友だ。帆村という······」
「よろしゅうございます。······ところで貴方に御注意しときますがな、どうも余り深入りするとよくありませんぜ」
と門衛は改まった顔で意味深長なことをいった。
「なんだい、深入りなんて?」
「······」彼はこれでも判らないかというような顔をしたのち「あれですよ、三原玲子さんのことです。貴方の
「これこれ」
私は帆村の方をちらと見たが、彼はスタディオの巨大なる建物に
「三原玲子がどうかしたかい」
「この間、刑事がここへずかずかと入ってきましてね。あの娘を裸にして調べていったのですよ」
「そりゃ越権だナ。裸にするなんて······」
「尤も是非署へ引張ってゆくといったんですが、所長が今離せないからと頼みこんだのです。その代り、桐花カスミさんなどの女連が立ち合って裸の検査ですよ」
「ど、何うしたというんだ」
「よくは判りませんが、何か探すものがあったらしいのですよ。でも、まア三原さんの体からは発見されないで済んだようですが外に二人ほど男優とライト係とが
「変なことを[#「変なことを」は底本では「辺なことを」]云うなよ、はっはっはっ」
私は帆村の待っている方へ行って、彼を撮影場の方へ誘った。
「いまの三原レイ子とかいうのは、何うしたのだ」帆村はもうちゃんと聞いていた。
私はすっかり
厳重ないくつかの関所を通って、私達は漸くトーキースタディオに入ることができた。中へ入ると、一切の騒音は、厚いフェルトの壁に吸いとられて、耳ががあんとなったような感じがした。声を出してみると、ばさばさという音しか出ず、変な工合だった。ホールの真中には、銀座の四つ角のセットが立っていて、その前で現代劇の撮影が始まっていた。大勢の男女優が、いろいろの服装をして、シャツ一枚の撮影監督の指揮に従って、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしていた。||虫籠のようなマイクロホンが、まるで
「見給え、あれが桐花カスミだ」
と私は帆村に主役の女優を教えた。
帆村は一向気がないような顔をして、トーキー撮影場の天井ばかり見上げていた。
「それからついでに紹介するが、あすこでルージュを使っているのが、例の三原玲子さ」
「三原玲子?」帆村は初めて眼を天井から、群衆の方に移した。「おお、あの女が······」
帆村はなにに駭いたか、私の腕をしっかり握って目を
「おい出よう」
いま入ったばかりなのに、帆村は私を無理やりに引張って外へ連れ出した。
私はすくなからず不満だった。それを云うと、帆村は私を
「興奮してはいけないよ。あの三原玲子という女は、例の暁団の一味なんだ。何を隠そう、ギロンで僕に密書を渡そうとしたのは正しくあの女なんだ」
「何だって? 玲子が暁団員······」
何という意外なことだろう。人もあろうに玲子が暁団に関係しているとは。私はさっき門衛から聞き込んだことを思い合せた。こうなれば、早く帆村に知らせてやるほかない。
「僕は今暫く玲子に見られたくないのだ」と帆村は深刻な表情をして云った。「しかし彼女が例の女に違いないということをもっと確かめたい。どこかで写真を見せて呉れないかしら」
「さあ、||」
「とてものことに、動いているやつ||つまり活動写真で見たいね。試写室はどうだろう」
試写室というわけにも行くまい。私は考えて、彼をフィルムの編集室へ連れてゆくのが一番簡単であり、そして自由が利くと思った。||それを云うと、帆村は満足げに、大きく肯いた。
フィルム編集室は、スタディオからかなり離れたところにあった。そこに働いている連中とは前々からよく知り合っていた。
「桐花さんのフィルムを映してみせてくれないか、この人が見たいというので······」
というと、木戸という編集員が出てきて、
「じゃあ、いま撮影中だけれど『銀座に
帆村と私とは、狭い編集用の試写室の中に入って黒いカーテンを下ろした。
「スタディオが出来て、録音がとてもよくなりましたよ······」
木戸氏は映写函の中から、私たちに自慢をした。やがて小さいスクリーンに、ぶっつけるような音が起ると、現代劇「銀座に芽ぐむ」が字幕ぬきでいきなり映りだした。
帆村は私の隣りで熱心に画面を見ているようだったが、三原玲子はなかなか現われてこなかった。そして暫くすると口を私の耳のところに寄せて
「ちょっと可笑しいことがあるぜ。······桐花カスミの声は実物より
この質問には、実のところ私は、帆村の注意力の鋭いのに駭かされてしまった。
本当のことを云えば||これは会社の大秘密であるけれども······、桐花カスミの悪声について一つのカラクリが行われているのだった。トーキー時代が来ると、桐花カスミの如きはまさに映画界から転落すべき悪声家だった。しかし実を云えば彼女は某重役の
声の俳優||そして三原玲子は、会社の秘密の役を演じ、桐花カスミを助けていたのであった。それは何という奇異な役柄であったろう。そんなわけで、三原玲子の存在は、一般ファンには殆んど知られていなかったのである。||そのことを手短かに帆村に語ってやると、
「姿なき女優||はて、どこかで聴いた様な言葉だが······」
と
4
桐花カスミは、ミス銀座といわれる美人売り子に、三原玲子の方は不良の情婦で、裏町の小さいカフェに女給をしているというしがない役割で、一人の大学生をめぐって物語が伸びてゆくという中々いいところで、試写映画はぷつんと切れてしまった······。
「如何です。もう一本かけましょうか」
木戸氏がにこにこして函から出てきた。私は帆村の顔を見た。||彼はじっと考えこんだ眼の焦点を急に合せ乍ら、
「······今の映画の終りの方に、変なところがありましたね。カフェの場、三原玲子さんなどの女給連総出で花見がえりらしい酔っぱらいをがやがや送って出るところで、画面がいきなり飛んで不連続になるところがありましたよ」
と云い出した。
「そうですか」と木戸氏は
木戸氏は函の中に入って、フィルムの入った丸い缶を持ちだした。そして手馴れた調子でぴらぴらとフィルムを伸ばしては窓の方に
「ああ判りましたよ」木戸氏は、急に手を停めて云った。
「数日前、誰かフィルムの一節を切取って行った奴がいるのです、そしてそのまま後を接いで置いたものだから、あんな風に不連続なのです。これに私も気がついたものだから、別にして置いたのですが、誰かが間違えて編集ズミのフィルムへ接いでしまったというわけです」
「フィルム切取りですって?」と帆村は体を乗り出して、
「そんなにいい場面が映っていたのですか」
「そんなんじゃないんです。酔っぱらいをがやがや云って女給が送りだすところですから、何のいいところがありましょう」
「
「ええ、可怪しいと云えば、可怪しくないこともないのですが······」
「なんですって?」
「木戸君、この人は探偵趣味があってね、そういう変なことを面白がるのだよ、訳を話してやり給え」
と、私が説明してやると、木戸は、それなれば||と云って非常に真面目くさった顔で、フィルム切取り異変について語りだした。
||このフィルムは四月二十九日の撮影にかかるものであるが(二十九日というと、玲子が刑事に取調べられた日ではないか!)すっかり現像がこの編集部へ廻って来たのが、三十一日の朝だった。そこで彼はそれを映写機にかけて、台本と較べながら、音画校正をやったのであった。ところが例の「カフェの送り出し」のところで、玲子の云う
監督は電話をかけてきて、(その場面は、物語の筋と直接関係のない個所だから、その儘で差支えない)と返事してきた。そしてフィルムは、あとで給仕が持って来たのであった。監督はそれでいいとして、尚も旅行中の脚本係長に相談するつもりで、その儘別にしてあったところ、今朝気がついて見ると、あのようにフィルムの一節が切り取られてあった。
「私の合点がゆかないことはですね」と木戸は言葉尻に力を入て、「不思議にもフィルムの切取られた箇所と、台辞の間違っている箇所が一致しているのです。偶然の暗合にしてはあまりに合いすぎるので、これは誰かの故意の切取りと見ました。監督にも云って置きましたから、今日は後ほど、台辞の当人である三原玲子氏にも訊いてみることになっています······如何です、不思議でしょう」
「············」帆村は余程感動したらしく、無言で
私は、わが三原玲子が、たった半日の間に不思議な噂の中に浮きつ沈みつするようになったことを恐ろしく思った。果して彼女は「暁団」の団員であろうか。そして一体何のために、台辞を間違えたり、それからそのフィルムを盗まれたりするのだろう。それが何か錨健次の非業な最期や、暁団対黄血社の闘争に関係があるのだろうか。奇怪といえば奇怪であった。彼女に
「木戸さん、三原さんの間違えたという台辞は今お判りでしょうか」と帆村が突然口を開いた。
木戸は肯くと、室を出ていったが、間もなく一冊の仮綴の台本を持ってきた。その表紙には「銀座に芽ぐむ」と大書せられてあった。
「ここですよ||」
彼が拡げたところを見ると、ガリ版の文字が赤鉛筆で消されていた。その文句は、玲子役の女給ナオミの台辞として、
「······まっすぐに帰るのよ。またどっかへ脱線しちゃいけないわよ。もしそうだったら、こんどうんと
と与えられているのに、トーキーで彼女が実際に喋った台辞の方は、「あらまそーお、マダム居ないの、
というのであった。なるほど、これでは前後の台辞の続き工合がすこし変であった。
「これは面白い······」と帆村は手帖に書きとめて、
「······アラマソーオ、マダムイナイノ、ダマシタノネ、ソトハサムイワ、マサニ、オオサム······。これは面白いぞ」
としきりに面白がって、同じ文句を読みかえすのであった。
「帆村君、どうして台辞なんか間違えたんだろう」
「なあにこれは一種の暗号だよ。······『獏鸚』以上の隠し文句なんだ」帆村がそう云ったとき、俄かに入口の方にがやがやと人声がして、誰かこっちへ跫音も荒く、近づいて来る者があった。······。私は扉の方へ、振りかえった。
と、そこへ扉を排して現れたのは、私もかねて顔見知りの警視庁の戸沢刑事だった。
「これは······」と戸沢名刑事は帆村の方を呆れ顔で眺めてから、ぶっつけるように云った。
「帆村君、えらいことが起ったよ」
「えらいことって何です。戸沢さん」と帆村もちょっと突然の戸沢刑事の来訪に駭きの色を見せた。
「江東のアイス王、田代金兵衛が失踪したんだよ、今日解ったんだがね」
「あッ、あの田代がですか」
「ほんとに
「旅行でもないんでしょうネ」
「どうして、旅行じゃない。表の締りもないしさ、居間も寝室も、それから地下道への入口も開いていて、彼が其処に居なければならない家の中の様子だのに、姿が見えない」
「例の地下にある田代自慢の巨人金庫は如何です」
「ほう、君も巨人金庫のことを知っているんだね」と戸沢刑事はにやりと笑い、「金庫は外見異常なしだ。あの複雑なダイヤルの上にも鉄扉にも、怪しい指紋は残っていない。内部を見たいのだが、暗号が見当らないので弱ってしまう」
「ああ、暗号ですか」と帆村は何気なく聞きかえした。
「あいつは黄血社と暁団とで狙っていたものだ。黄血社はあの金庫の真上にあたる地上に家を建てて、地下道を掘ろうと考えている。······今度とうとう尻尾をつかんでやったがね。しかし金兵衛の失踪は、前の番頭である錨健次殺しと共に、暁団の演出に違いないと思うんだ。······本庁ではいま暁団を追いまわしているんだが、敏捷な奴で、団長の江戸昌をはじめ団員どもがすっかり何処かへ行ってしまった。こんなことは前代未聞さ。不良少年係でそろと、俺はもう威張っていられなくなったよ······」名刑事は白髪のだいぶん目立つ五分刈の頭を抑えて、淋しい顔をした。
「そうですか。では田代老人の金庫を廻って、暁団と黄血社の死にもの狂いの闘争が始まったんですね」
「で、貴方の此処へお出になった御用は······」と帆村は訊ねた。
「俺かい。俺は暁団の一味として、三原玲子を捕えにやって来たんだが······」
「三原玲子がどうかしましたか」
「先刻まで居ったそうだが、どこかへ隠れてしまったよ。はっはっ、なっちゃいない、全く」
名刑事は
「······私が探し出しましょう、戸沢さん」
帆村は決然として云い出した。
「君が探す?」と刑事は帆村を見て、「そうか、頼むよ。······だが、江戸昌も死にもの狂いだ。気をつけたがいい」
5
「······あらまそーお、マダム居ないの。騙したのね。外は寒いわ、正に。おお寒む······」
帆村は、決戦の演ぜられているという江東を余所に、自宅の机の前に座って、三原玲子が間違えて喋ったという例の台辞を、
そういう信念のもとに、帆村は世間のニュースを耳に留めようともせず、
そのうちにも、暁団の捜査が続けられたが、彼等は天井裏から退散した鼠のように、何処へ
そうなると得意なのは黄血社の連中だった。
ダムダム珍は、例の巣窟に党員中の智恵者を集めて、
「一体何処へ隠れてしまったのだろう?」
巨人金庫の前に詰めていた特別警備隊も、二日、三日と経つと、すこし気がゆるんできた。そして空しく巨億の財産を
そのとき、わが友人帆村は、幽霊のようになって、その穴倉の中に入ってきた。||警備員はそれを見るなり皮肉な挨拶をするのであった。
帆村は黙々として、ポケットからノートを出した。右手をダイヤルに伸べ、左手で電気釦を押しながら、私の差しだす懐中電灯の明りの下で、彼の誘き出した第一、第二等々の解読文字を一つ一つ丹念に試みていった。||しかし今日もまた
「いよいよ二三日うちにこの金庫を焼き切ることにしたそうだ······」
と、そんな噂が耳に入った。その噂だけが今日の皮肉な土産だった。
家にかえると、帆村は黙々として、また白紙のうえに、鉛筆で文字を模様のように書き続けるのだった。
「どうしたい。ちと
と私は彼に
「もうすこしで解けるのだが······。これを見給え」
帆村は次のような紙片を私に見せた。
ムサオオニサ」マワイ」ムサワトソネノタシ」マダノイナイ」ムダマオオソ」マラア」
「これは例の文句を逆さに書いたのだよ。そして、或る間隔をとって、ムとマとが入れ違いになっているところに注意してみたまえ。答はこれしかないと思うのだ、ムとマのところで金庫のダイヤルの廻転方向を右と左とに変えるのだ。だからムとマとが、丁度頃合いの間隔を保って互に入れ違いになっているのだ」「ほほう」私は帆村の熱心さに駭かされた。
「だが
帆村は紙を

「ねえ、君」と私は恐る恐る声をかけた。「そのマダムが何とかしたという文句もいいが、例の『獏鸚』の方はどうしたのかネ」
「うん『獏鸚』か。あれならもう判っている······」
「ナニ『獏鸚』が判ったって、そいつは素敵だ。早く話したまえ」
私は飛び上らんばかりに悦んだ。怪物「獏鸚」とは、そも何者ぞ!
「だが、玲子の台辞が解けない前には云えないのだ。間違っているかも知れんからね」
「連絡があるのなら、いいじゃないか。早く云って訊かせ給え」
「連絡? それはあるさ」と帆村は遠くの方を眺めるような
そのとき帆村の顔面に、痙攣のようなものがつつーっと走ったのを認めた。彼は急に手の指をわなわな慄わせて口へ持ってゆきながら、頓狂に叫んだ······。
「僕は莫迦だった。ど、どうして其処に気がつかなかったろう!」
「其処とは、どこだ」と私は慌てて、ついそんな愚しいことを訊きかえさずにいられなかった。
「うん、いまに判る。さあ、これを見ていたまえ」
帆村の顔は流石に朱のように紅潮した。彼は鉛筆をとりあげると、白紙をひきよせた。
「アラマソオオ、マダムイナイノ、ダマシタノネ、ソトハサムイワ、マサニ、オオサム······」
と一度例の文句を片仮名で書いた。
それから別の紙をとりあげて、また鉛筆を走らせたが、意外にもそれは日本式のローマ字だった。
ARAMASOO-MADAMUINAINO-DAMASITANO
NESOTOWASAMUIWA-MASANI-00SAMU
「さあ、いいかネ。これを逆に綴ってみるよ」NESOTOWASAMUIWA-MASANI-00SAMU
UMASOOINASAMAWI UMASAWOTOSENONATI
SAMADONIANIUMA DAMOOSAMARA
「さあ出て来たぞ。傍線をしたなかでUMAというのは『右廻し』ということ、SAMAというのは『左廻し』ということだ。そのつもりで、これを日本文字に直してみよう」SAMADONIANIUMA DAMOOSAMARA
右廻し||ソオイナ
左廻し||イ
右廻し||サヲトセノナチ
左廻し||ドニアニ
右廻し||ダモオ
左廻し||ラ
「どうだい! 判ったじゃないか。これがあの巨人金庫の鍵なんだ!」左廻し||イ
右廻し||サヲトセノナチ
左廻し||ドニアニ
右廻し||ダモオ
左廻し||ラ
私は
「さあ行こうぜ。早いところ、巨人金庫の腹の中を拝見しなけりゃならない!」
私たちは、大急ぎで外へ出た。
(どうしてあれで解読されたのかい)と私は不審な点を訊ねた。しかし帆村は(金庫が開くまでは云えないよ)と頑張った。その代り別の質問をして、私の興味をあおった。
「おい君、あの巨人金庫の中に、何が入ってると思うかね」
「そりゃ判っているよ。もちろん江東のアイス王の一億何がしという目も
「目も眩むような財宝? そんなものはもう入ってないさ。江戸昌が暁団を総動員して、すっかり持っていったよ」
「じゃ、何が入っているんだろう?······金兵衛の屍体かな?」
「そうかも知れない」
× × ×
巨人金庫の口は、遂に開いた。
帆村の解読した暗号は一字も間違いがなかったのである。
金庫の中には財宝は一つも残っていなかった。そして中には、実に私たちの予想だにしないものが入っていた。何?
それは
「この大爆発を
「これが江戸昌の恐るべき智恵なんだよ。彼は財宝だけでは
帆村は私を促して外へ出た。
外には鮮かな若葉が、涼しい樹蔭をベンチの上に造っていた。もうすっかり初夏らしい陽気だった。ベンチの上で、帆村は
「ところで帆村君、『獏鸚』はどうしたんだネ。一向出て来んじゃないか」
「はッはッ、『獏鸚』は出てこないさ」彼は愉快そうに笑いながら、「その前にあの暗号解読のことを話して置こう。僕がきっとここだというところまで解いて、それで駄目だったのは、あの『あらまそーお』云々を仮名文字のまま
「なるほどね」と私は感心した。
「そこで何故これに気がついたかというと、暗号の源は、例の三原玲子の間違えて吹きこんだ台辞であるという点だ。暗号といえば文字ばかりと思っていたのが大間違いで、言葉の暗号も考えなくちゃいけないと気がついたのさ。ことに今の場合は立派に台辞なんだからネ。······三原玲子は、あの貴重な暗号を江戸昌からリレーされて、その保管に任じたのだよ。江戸昌が二十三日の夜錨健次を殺したのも暗号を手に入れたいためだったが、既に転向している健次は知らないと突張ったのだ。そこで秘密
「なんだ、『獏鸚』というのはトーキーに暗号を喰わせることだったのか」
「あとからトーキーのフィルムを盗んだのももちろん玲子さ。あの一節を盗んで置かないと、簡単に暗号が判ってしまうからだ。何故って、あのトーキーフィルムを逆廻しさえすれば、僕のやったような面倒なことをやらなくても、自然に解読文が言葉に出てくるからだ。僕の手に入ろうとした密書の方には(獏鸚したから安心しろ)というような報告が認められてあったのだろう。たとえばだね······」
そういって彼は次のような文字を、紙の上にすらすらと書いた。
100429急追せられたるも、奇跡的幸運により、
暗号文は本日完全に獏鸚せり。 玲子
巨億の財宝や暁団や江東のアイス王のことはどうなったかいまだに手懸りがない。暗号文は本日完全に獏鸚せり。 玲子