或る
僕はカメラを頸にかけて、幅のひろい
朝靄のなかに、見上げるような高橋が、女の胸のようなゆるやかな曲線を描いて、眼界を区切っていた。組たてられた鉄橋のビームは、じっとりと水滴に濡れていた。橋を越えた
気象台の予報はうまくあたった。暁方にはかなり濃い靄がたちこめましょう||と、アナウンサーはいったが、そのとおりだ。
朝靄のなかから靴音がして、
レンズ・カバーをとって、
焦点硝子の上には、橋の向うから突然現れた一台の自動車がうつった。
眼をあげて、そこを通りゆく奇妙な荷物を積んだ自動車をもう一度
奇妙な黒い棺桶のような荷物をよく見れば、金色の厳重な錠前が
棺桶ではない。どうやら風変りな大鞄であるらしい。
婦人は蝋人形のように眉一つ動かさず、徐々に車を走らせて前を通り過ぎた。僕はカメラを頸につるしたまま、次第に遠ざかりゆくその奇異な車を飽かず見送った。
「お気に召しましたか。ねえ旦那」
「ああ、気に入ったね」
「||あれですよ『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』というのは||」
「え、ヒルミ夫人の冷蔵鞄?」
僕はハッとわれにかえった。いつの間にか入ってきた見知らぬ話相手の声に||
「おお君は一体誰だい」
僕はうしろにふりかえって、そこに立っている若い男を見つめた。
「私かネ、わたしはこの街にくっついている
といって彼は歯のない
「しかしヒルミ夫人の冷蔵鞄のことについては、この街中で誰よりもよく知っているこの私でさあ。香りの高いコーヒー一杯と、スイス製のチーズをつけたトーストと引換えに、私はあのヒルミ夫人の冷蔵鞄のなかに何が入っているかを話してあげてもいいんですがネ」
そういって、若い男はブルブル
或る高層建築の静かな食堂のうちで、コーヒーとチーズ・トーストとを懐しがる若い男の話||
「さっき御覧になったヒルミ夫人||あれは医学博士の称号をもっている婦人ですよ。専門は整形外科です。しかしそればかりではなく、あらゆる医学に
と、若い男はポツリポツリと語りだした。||
その三国一の花婿さまは、夫人より五つ下の二十五になる若い男だった。それは或る絹織物の出る北方の町に知られた金持の三男だといいふらされていた。誰もそれを信じている。ところがそれは真赤な
それは一昨年の冬二月のことだった。
或る下町で、物凄い斬込み騒ぎがあった。
双方ともに死傷十数名という激しいものだったが、その外に、運わるく
モニカの千太郎は顔面に三ヶ所と
ヒルミ夫人の届出でに、警察では愕いて駈けつけたが、厳重だといっても病院のことだから抜けだす道はいくらもある。まあ仕方がないということになった。
そのうちに、また元の古巣へたちまわるにちがいないから、そのときに逮捕できるだろうと、警察では案外落ちついていた。
ところがその
ヒルミ夫人が結婚生活に入ったのが、それから二ヶ月経った後のことだった。
万吉郎という五つも
いずくんぞ知らんというやつで、この万吉郎なるお婿さまこそ実はモニカの千太郎であったのである。
そういうといかにもこじつけ話のように聞えるであろう。いくら千太郎がお婿さまに化けても、顔馴染の警官や、元の仲間の者にあえば、ひとめでモニカの千太郎がうまく化けこんでいやがると気がつくと思うだろうが、なかなかそうはゆかない。今までは顔を見ただけでは全く千太郎と見わけのつかない万吉郎だった。つまり万吉郎なるお婿さまは、モニカの千太郎とは全く別な顔をもっていたのである。千太郎もいい男であつたが、万吉郎の顔は、さらにいい男ぶりであり、しかも顔形は全く別の種類に分類されてしかるべきものだった。
それにも
では、どういうところから、そういう不思議な顔形の違いが起ったのであろうか。その答は簡単である。ヒルミ夫人の特別研究室のうちで、千太郎の顔は新しく万吉郎の顔に修整されてしまったのである。それこそはヒルミ夫人の
「ワタクシハ
実に大胆なるヒルミ夫人の所説だった。というよりは、なんという強い自信であろうといった方がいいかもしれない。
医学博士ヒルミ夫人のいうところに
ヒルミ夫人が、なぜモニカの千太郎の
当事者を除いては、誰もこの大秘密を知る者はない。もちろん警察でも、まさか千太郎が顔をすっかり変えて、ヒルミ夫人の花婿に納まっているとは気がつかなかった。そこでこの奇妙な新婦新郎は、誰も知らない秘密に
ヒルミ夫人の生活様式は、同棲生活を機会として、全く一変してしまった。彼女は
「||いくら何でも、これでは生命が続かないよ」
と、いまは心臆した若き新郎が、ひそかに
不良少年として、なにごとにもあれ知らぬこととてはなく、常人としては耐えがたい訓練を経てきた千太郎||ではない万吉郎であったけれど、その広汎なる知識をもってしても遂に想像できなかったほどの超人的女性の
「あなた。きょうはまるで元気がないのネ。どうかしたの」
と、薄ものを身にまとったヒルミ夫人は鏡の前で髪を
「どうしたって、お前||」
と、万吉郎は天井に煙草の煙をふきあげながら、かすれた声で応えた。
「まあ、||」
夫人は鏡面ごしに、このところひどく黄いろく
「ハハア、分りました」と、ヒルミ夫人は胸を張り鼻をツンと上にのばしていった。それはヒルミ夫人が診察するとき必ず出す癖であった。「男性て、ほんとにか細くできている者ネ。でもあたしがそれに気がついたからには、もう大丈夫よ。すっかり安心していていいわ。当分毎日注射をしてあげましょう」
ヒルミ夫人が確信をもっていったとおり、萎びたる万吉郎は注射のおかげでメキメキと元気を恢復していった。そして三
「治療にかけちゃ、うちのかかあは、なかなか大したもんだ」と、万吉郎は鼻の下を人さし指でグイとこすった。「いやそれよりもかかあのあの口ぶりを真似ていうと、現代の医学は実に跳躍的進歩をとげた||というべきであろうかナ、うふん。とにかくこうなると、俺は現代の医学というものにもっと深い関心を持たなくちゃならんて」
そんなことがあってから後、万吉郎はヒルミ夫人に対し積極的にいろいろの治療をねだったのである。
ヒルミ夫人にとっては、万吉郎は世界の至宝であったから、少々無理なことでも喜んで聞き入れた。しかし新しい治療をするについては、面倒でも、しっかりした臨床実験の上に立つことが必要であった。そのためにヒルミ夫人は朝早くから夜遅くまで、手術着に身をかため、熱心に入院患者を切ったり縫ったりした。
ヒルミ夫人の評判は、いよいよ高くなった。博士は結婚せられてたいへん仕事に熱心を加えたという賞讃の声が方々から聞えた。全くヒルミ夫人は、その昔、田内新整形外科術をマスターするために見せた
不愍がられる値打はあったであろうヒルミ夫人の立場であったけれど、その狂愛の対象たる万吉郎にとって、それは必ずしも極楽に座している想いではありかねた。
早くいえば、不良少年あがりの万吉郎にとっては、ヒルミ夫人一人を守っていることに
もちろんヒルミ夫人は、その卓越した治療手腕をもって万吉郎の体力を、かのスーパー
万吉郎は、なんとかしてヒルミ夫人の身体から抜けだしたいと思った。といって完全に抜けだしてしまったのでは、こんどは生活の上に大きな脅威をうける。もう彼は、地道にコツコツ働いて、月給五十円也というような小額のサラリーマン生活をする気はなかった。ヒルミ夫人のもとにいて、懐手をしながら三度三度の食事にも事かかず、シーズンごとに新しい背広を作りかえ、そしてちょっと街へ出ても半夜に百円ちかい小遣銭をまきちらすような今の生活を捨てる気は全然なかった。経済状態はそのようにして置いて、只身体だけをヒルミ夫人のもとから解放したいと思っていたのである。
そんな贅沢な願望が、うまく達せられるものであろうか?
だが万吉郎も、ただの燕ではなかった。もとを洗えば、不良仲間での智慧袋であり、参謀頭でもあった。
万吉郎は、この
どす黒い河の水が、バチャンバチャンと石垣を洗っていた。発動機船が、泥をつんだ大きな
万吉郎は宿題をゆるゆると考えるために、人気のない川添いの砂利置場に腰を下ろした。
なにかこう素晴らしい思いつきというものはないか?
口実をつくって、旅に出ようかとも考えた。だが永くてもせいぜい二、三ヶ月のことであった。一生の永きに比べると、そんな短い期間の解放がなにになろう。
発狂したことにして、病院に入ったことにしてはどうであろう。しかし病院をしらべられるとすぐお尻がわれる。
ではヒルミ夫人を巧みに殺害してはどうであろうか。いや人殺しなんて、およそ万吉郎の趣味にあわないことだった。怪しまれでもして、本当に刑務所に送られてしまえば、そんな大きな犠牲はない。
それでは誰かすこぶるの好男子をさがしだして、不倫を
万吉郎は無意識に砂利場の
すると突然意外な事件が降って湧いた。万吉郎の前に、河のなかへ落ちこんだ高い石垣がある。その石垣の向うから、不意に人間の首がヌッと現れたのである。
「||よせやい。なんだって俺に石を擲げるんだ。いい気持に、昼寝をしていたのに」
万吉郎は
石垣の下からヌッと現れたその顔||それはひと目でそれと分る若衆の顔だった。石垣の下には、人一人がゴロリと横になれる狭いスペースがあるのであろう。
石垣をのぼってきた男に、煙草を与えなどして、万吉郎は彼を自分の横に座らせた。
「旦那、なんか腹のふくれるものは持ってないかい」
チョコレートではどうであろう。
棒チョコレートを
「うん、これはいい。どうしてそんなことに気がつかなかったろう。ああなんと跳躍的進歩をとげた大医学よ。||」
万吉郎は悦びのあまり、男の手をとってひき起し砂利場の上で共に抱きあって狂喜乱舞したとは、
「さあ君、僕と一緒にくるんだ。君のために素晴らしい儲け話を教えてやる。それに女も有るんだ。水のたれるような
男は大口をあけて
万吉郎のビッグ・アイデアとはどんなことであったろう?
さすがに利発なヒルミ夫人だった。
彼女は早くも、若い夫万吉郎の
と云って、万吉郎もすでに知りつくしているように、ヒルミ夫人はいかに若い夫が仇しごとをしようとも、彼を離別するなどとは思いもよらぬことだった。いかなる手段に訴えても、恋しい夫万吉郎を自分の傍にひきとめて置かねばならないと思った。もし万吉郎が、自分のそばを一日でも離れていったときには、自分はきっと気が変になってしまうであろう。
そんな風に、可憐なるヒルミ夫人は若き夫万吉郎のことを思いつめていたのである。
臨床実験のことも、病院の経営のことも、いまや彼女の
だから、たまたま万吉郎が外出するときなど、他人には到底みせられないような大騒ぎが起った。ここには明細にかきかねるが、とにかくヒルミ夫人は万吉郎の身体に
そんなことが、万吉郎の心をヒルミ夫人からずんずん放していった。それはそうなるのが当然すぎるほど当然のことだったけれどまたたしかに人間の情けの世界の悲劇でもあった。
「あなた、よくまああたしのところへ帰ってきて下すって」
夫が帰ってくると、ヒルミ夫人はひと目も
そうしたヒルミ夫人の貞節が、万吉郎に響いたのであろうか、ヒルミ夫人の観察によればこの頃夫の万吉郎は、すっかり人が違ったようにすべての行為に関し純真さと熱情とをとりかえしていた。ときにいつもの口調で怒鳴りつけられることもあったが後で
或る日のこと、ヒルミ夫人はただひとりで研究室にいた。彼女はその日、なんとはなく疲れを覚えるので、長椅子の上に豊満なる肢体をのせて、ジッと目をとじていた。前にはよくこうして睡眠をとったものである。夫人は久しぶりにしばらくここで睡ってみたいと思った。
ところがいざ目を閉じてみると、どうしたものか、逆に頭が
「||神経衰弱かもしれない」
ヒルミ夫人は微かに頭痛のする額をソッとおさえた。
睡れなくなった夫人は、それでもジッと横になっていた。眼だけパッチリ明いて、動かぬ自分の姿態をながめていると、まるでそこに他人の屍体が転がっているように思えてくる。
ヒルミ夫人は、なんだかますます妙な気持になって来た。脳髄だけが、頭蓋骨のなかからポイととびだしてきそうな気がした。その脳髄にはいろいろな事象が、まるで急廻転する万華鏡のように現れては消え、消えてはまた変って現れるのであった。その目まぐるしいフラッシュ集のなかにヒルミ夫人は
「ああア、もしや本当にそうなのではなかろうか。いやそんなことがあってたまるものではない。||」
ヒルミ夫人は、その恐ろしき幻影を瞬時も早くかき消そうと焦せったが、しかもその幻影ははなはだ意地わるく、だんだんと濃く浮びあがってくるのであった。そのはてには、二人の万吉郎は夫人の方を指してカラカラと笑いころげるのであった。
なんという恐ろしい幻影だろう。
愛する夫が、一人ならず二人もあっていいだろうか。あの水々しい頭髪、秀でた額、
夫人は急にブルブルと寒む気を感じた。
だが夫人の明徹な脳髄は、一方に於て恐れ
「||そうだった。そういう一つの特殊な場合が有り得る。しかもそう考えることは、今日ではもう常識範囲ではないか」
夫人はそこで
恐ろしいことだ。恐ろしいアイデアだ。恐ろしい
夫人をして、恐ろしい係蹄だと叫ばしめたものは何だったか。||それは愛する夫万吉郎が果して
およそこの世に、顔も姿も、何から何までそっくり同じ人間が二人とあろう筈がない||と、確かにその昔には云えた。しかし今日において、それと同じことが確かに云えるだろうか、同じことが信ぜられるだろうか。いやいや、今日においては||すくなくともヒルミ夫人の田内新整形外科術が大なる成功をおさめてから以来においては、そういうことは全く信じられなくなったのだ。
丁度
ヒルミ夫人の新外科術が信頼すべきものであることはヒルミ夫人自身が一番よく知っていた。しかもこの場合、夫人自身が創生したその信頼すべき手術学のために、夫人が生命をかけている愛の偶像を、自らの手によって破壊しさらねばならぬとは、なんたる皮肉な出来事であろうか。
わが
夫人は自らの作りあげた
ヒルミ夫人の
夫人は長椅子の上にガバと伏し、両肩をうちふるわせ、幼童のように声をたてて、激しく
そのことあって以来、ヒルミ夫人の頬が
ひとりで部屋のうちに籠っていれば、

それにも拘らず
しかもその際ヒルミ夫人は、その温容なマスクの下から、夫万吉郎の容姿や挙動について、
しかし夫は、なかなか
煩悶は
そしてとうとう最後には、もう紙一重でヒルミ夫人の脳が狂うか否かというところまで押しつめられた。
夫人は、灯もない夕暮の自室に、
「あ、||」
夫人は暗闇のなかに、一声うめいた。
天来のアイデアが、キラリと夫人の脳裏に
「あ、救われるかもしれない」
リトマス試験紙が、青から赤に変るように、夫人の蒼白い頬に、俄かに赤い血がかッとのぼってきた。
「||素晴らしい着想だわ」
夫人は床をコンと蹴ると、
いつも空腹なヒルミ夫人の冷蔵鞄が、腹一杯にふくれたのは、それから二時間とたたない後のことだった。
その冷蔵鞄というのは、いつもヒルミ夫人の特別研究室に置いてあったものだった。それは最新式の携帯用冷蔵庫であった。夫人は時折、この鞄のなかに、動物試験につかった犬や兎の解剖屍体を入れて外を下げてあるいたものである。
しかし今日という今日は、犬や兎の屍体はすっかり取り出されて、汚物入れのなかに移されてしまった。ひとまず鞄のなかは、綺麗に洗い清められ、そしてそのあとにバラバラの人間の手や足や胴や、そして首までもが、鞄のなかにギュウギュウ詰めこまれた。その寸断された人体こそは誰あろう、他ならぬヒルミ夫人の生命をかけた愛すべき夫、万吉郎の身体であったのである。
ヒルミ夫人は、夫万吉郎の身体を、生ながら寸断して、この冷蔵鞄のなかに入れてしまったのである。
では、ヒルミ夫人は、愛する夫を遂に殺害してしまったのであろうか。
いや、そう考えてしまうのはまだ早くはないか。
とにかくこうして、ヒルミ夫人は愛する夫の身体を冷蔵鞄のなかに片づけてしまったのである。それからというものはヒルミ夫人は、その冷蔵鞄を必ず身辺に置いて暮すようになった。
ちょっと部屋を出て廊下を歩くようなときでも、また用があって街へ出てゆくようなときでも、その冷蔵鞄はいつもヒルミ夫人のお伴をしていた。
これで夫人は、愛する夫を完全に自分のものにすることができたと思っていた。もう夫は、街へ散歩にゆくこともなくもちろん他の女に盗まれる心配もなくなったわけである。
夫人は歓喜のあまり、その日の感想を、日記帳のなかに書き綴った。それは夫人が生れてはじめてものした日記であった。その感想文は次のようなまことに短いものであったけれど||
「×年×月×日。雨。」
気圧七五〇ミリ。室温一九度七。湿度八五。
遂に
この世に只ひとり熱愛する夫を、特別研究室に連れこんで電気メスでもって、すっかり解体してしまった。夫は最後まで、今自分が解体されるなどとは思っていなかったようだ。
妾の激しく知りたいと思っていたことは、夫として傍に起き伏している一個の男性が、果たして
なぜなれば、その男性の身体は常日頃、妾がかねて確めて置いた夫の特徴を
妾は思わず、子供のように万歳を叫んだ。愛する夫は、今や完全に妾のものである。今日という今日までの、あの地獄絵巻にあるような苦悩は、嵐の去ったあとの日本晴れのように、跡かたなく吹きとんでしまったのだ。なぜもっと早く、そのビッグ・アイデアに気がつかなかったのだろう。
始めの考えでは、妾は剖検を終えたあとで、夫の躰を再び組み直して
恋しい夫のバラバラの肢体は、そのまま冷蔵鞄のなかに詰めこんでしまった。夫の手足を組み立てて甦らせることは暫く見合わすことに決めた。何故?
妾はゆくりなくも、愕くべき第二のビッグ・アイデアを思いついたからだ。恐らく妾は今後二十年を経るまでは、夫万吉郎のバラバラ肢体を組立てはしないだろう。二十年経つまでは、夫の肢体を冷蔵庫のなかに入れたまま保存するつもりだ。なぜだろう?
今から二十年経てば、妾はもう五十歳の老婆になる。整形外科術の偉力でもって、見かけは花嫁のように水々しくとも気力の衰えは隠すことができないであろう。そしてもし夫万吉郎を今日甦らせて置けば、二十年後には四十五歳の老爺と化すであろうから、同じように精力の甚だしい衰弱を
夫はなるべく若々しいのがいい。ことに妾自身の気力が衰える頃になって、
愛する夫万吉郎は、今から二十年間、この冷蔵鞄のなかに凍らせて置こう。
妾が五十歳になったときに、丁度その半分の年齢にあたる二十五歳の万吉郎を再生させるのだ。
そして尚それまでに、妾は十分に研究をつんで、男の心をしっかり捕えて放さないと云う医学的手段を考究して置くつもりだ。なにごとも二十年あれば、たっぷりであろう。
おおわが愛する夫よ。では安らかに、これから二十年を冷蔵鞄のなかに睡れ!
「これで私の話はおしまいなんです。どうです、お気に召しましたか、さっき靄のなかの街頭に御覧になった『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』の解説は||」
そういって若い男は、広い額にたれさがる長髪をかきあげ、冷えたコーヒーをうまそうにゴクリゴクリと飲み干した。
僕はそれには応えないで、黙って黄いろい壁をみつめていた。
「||お気に召さないんですか。これほどの面白い話を||」
若い男は、バター・ナイフを強く握って、猫のように身構えた。
僕はわざと軽く鼻の先で笑った。
「面白くないこともないが、もっと話してくれりゃ素敵に面白いだろうに」
「だって話はこれだけですよ。これが私の知っている全部です」
「嘘をつきたまえ。まだ重大な話が残っている」
「なんですって」
「僕から質問をしようかネ。それはネ、この話の語り手はなぜこうも詳しく秘事を知っているのだろうかということだ。彼はまるでプライベイトの室に、ヒルミ夫人と二人でいたような話っぷりだからネ。一体君は誰なんだ。それを名乗って貰いたいんだよ」
「······」
こんどは若い男の方が、黙ってしまった。
「ねえ、こういう話はどうだろう。||万吉郎はヒルミ夫人から
そこまでいうと、若い男は何思ったものか突然腰をあげ、僕が待てといったのに、聞えぬふりして素早く外へ出ていった。
ひとりぽっちになった僕は、話相手をうしなって、所在なさに窓から首を出して、はるかの下界を眺めやった。その内にビルディングの入口から今の若い男が飛び出してくるだろうから、もう一度彼を見てやろうと思って待っていたが不思議なことにいつまで経っても彼の男の姿は現れなかった。
ただ僕は、地上はるかの十字路を、どこへ行くのか、例の黒い棺をつんだヒルミ夫人の冷蔵鞄が今しも徐々に通りすぎてゆくのを認めたのであった。