友人の友枝八郎は、ちょっと風変りな人物である。どんなに彼が風変りであるか、それを知るには、彼が私によく聞かせる夢の話を御紹介するのが
かれ友枝は、好んで夢の話をした。彼が見る夢は、たいへん奇妙でもあり、そして随分しっかりした内容をもっていて、あまり夢を見ることのない私などにとっては、美しくもあれば、ときにはまた薄気味わるく感ずることもあるのだ。(
1
或る日、一つの夢を見た。
「金色のハンドル!」
その部屋は十坪ほどのがらんとした客間だった。真ん中に赤い
この部屋はたいへん風変りな作りだった。それが乃公の気に入っていたわけだが、奥の方の壁に大きな鏡が
鏡の前で、さんざん
「お飲みものは如何さまで······」
それは若い男の声だった。
ふりかえってみると、いつの間にか
その女は、はじめ下を向いていたが、やがてオズオズと顔をあげて、乃公の方を睨むように見たのであった。
(
乃公はいきなり胸をつかれたように思って、はっと眼を
だが乃公は、ここで慌てるのは恥かしいと思った。
ひそひそと、若い男女は乃公の背後で
(あいつら、唯の仲じゃないぞ。もう行くところまで行っているに違いない!)
乃公はぐっとこみあげてくるものを、一生懸命に
乃公は慌てないで、じっと取り澄ましていた。(あいつら、なんのために、乃公に見せつけに来たのか?)乃公が気がつかないと思っているのだろうか。それならそれでいい。よおし、こっちもそのつもりで居てやろう。
乃公は
乃公はいつの間にか、鏡の真際に寄って立っていた。鏡をとおして二人の男女の様子を見ると、彼等は身体と身体を抱きあわんばかりにして、もつれ合っていた。女の方が挑もうという姿勢をする。と、若い男の方が、僅かに
鏡を見ると、自分の顔は
乃公は煙草の力を借りようと思ったので、ポケットに手を入れて、そっとシガレット・ケースを引張りだした。そして
(おや?)
乃公はちょっと
(······ピストル!)
乃公の握りしめているのは、一挺のブローニングの四角なピストルだったではないか。乃公はふらふらと
すると、そのときだった。鏡の中の乃公はそのピストルを持つ手を静かに腹の方から胸へ上げてゆくのであった。そんな筈ではなかったのだが、乃公の意志に反してじりじりと上ってゆくのであった。奇怪なことにも、鏡の中の乃公の手は、乃公の本当の手よりも先にじりじり上へ上ってゆくのだった。ずいぶん気味のわるい話であるが、鏡の中の自分の方が、お先へ運動を起してゆくのだった。乃公はじっとしているのがとても恐ろしくなった。鏡の前に立っている自分が、この
(······)
切り裂くような大戦慄が全身を走った。乃公は慌てて、鏡の中にうつる乃公のあとを追って、ピストルを持つ腕を胸の方にぐんぐんあげた。だから間もなく乃公は、鏡の中の乃公に追いついた。
(ああ、恐ろしかった!)
乃公は身体中びっしょり汗をかいた。
ピストルは、遂に胸の上いっぱいに持ち上がった。銃口がぴたりと左の肩にあたる。それから左の肩がじりじりと廻転してゆく。半眼を開いて、照準をじっと
「き、き、き、きっ······」
というような声をあげて、何も知らない二人は
「ち、畜生!」
憎い女だ、淫婦め!
ちらと鏡の中に、自分の顔を盗みみると、歯を
「どーン」
あ、やった。
「······う、ううーン」
電気に
「人を殺した。とうとう乃公は、人殺しを実演してしまったのだ!」
乃公は、床の上に倒れている女の方へ近づいた。眠ったように女は動かない。見ると衣服の胸の上に、大きな赤い穴が明いて、そこから鮮血が
「ああ、乃公は人を殺してしまった······」
乃公は
「うん、そうだった。いま、乃公は人殺しの夢を見ているんだ。······さあ、あんまり
||そうこうしているうちに、乃公はそれから先の記憶を失ってしまった。女を殺した場面は以上のところまでしか覚えていない。
2
どうも夢の話だというのに、あまり詳しく話をしすぎたようで、さぞ退屈だったろうと思う。要は、
乃公の夢は、以上の話だけで仕舞いではない。これからいよいよ、夢のミステリーについてお話したいと思うんだ。これから喋るところのものは、ぜひ聞いて貰いたいと思うのだよ。
さてそれから幾日経ってのことか忘れたがね、乃公はまたもう一つの夢を見たのだ。
||長い廊下をふらふらと歩いている······というところで気がついたのだ。
||相変らず長い廊下だ。天井も壁も黄色でね、······
「ああ、いつかこの廊下へ来たことがある!」乃公はすぐ気がついた。それに気がつくと、いけないことに、途端にもう一つのことに気がついたのだった。
「······ああ、乃公は夢を見ているんだ、いま夢を見ているんだな」
と||。
||乃公は努めて、なるべくこの前のときと同じ歩きぶりで、その廊下を歩いていった。忠実に同じような歩きぶりを示さないと、折角の夢が破れるといけないと思ったから······。
やっぱりドーアを見ていった。左側の五つ目のところに、金色のハンドルがついているのを発見した。
「これだな」
乃公はにやりと笑った。
||その金色のハンドルを廻して、室内へ入りこんだ。もちろん部屋の中も、前回等に見たと全く同じことさ。室の中央に赤い
「ふ、ふ、ふ。ふっ。」
乃公はおかしくなって笑い出したくなるのを、じっと
(役者などいう職業も、毎日同じ道具立で、同じことを
そんなことを思ったりした。
||乃公は例によって、いつの間にか大鏡の前に立っていた。そこに映る自分の姿をみると、例のとおり
「どうぞお飲みものを······」
と、男の声がうしろでして、振りかえってみるとちゃんと例の立派な顔の若い男が立っていた。その傍には、下を
||それから乃公は、順序に随って、卓子のとこへ帰って来た。そして洋酒の壜をあけて、盃へなみなみと注いだ。それをきっかけのようにして、背後で男女のひそひそと早口で語る声が聞えてきた。
||そこで乃公は、大いに憤慨した気持になって、洋盃の酒をぐっと一息にあおる。がちゃんと盃を卓子の上に叩きつけるようにして立ち上るや、ふらふらと大鏡の方へ歩いてゆく······。
そこで乃公は、すこし薄気味が悪くなってきた、この前のひどく恐ろしかった印象が、まざまざと思いだされてきたからであった。あれから実にぞっとするようなことが起った。それは人殺しの場面を指して云うのではない。それよりもずっと前、この鏡の前に立って、自分の姿を映してみていると、自分の映った姿の方が、自分より先に動いているという。この眼にはっきりと映った異様なるあの有様······。
「あれだけは、実に恐ろしい」
乃公の身体は小きざみに震えてきた。おそるおそる一挙一動を鏡にうつして見るのだった。
||ポケットの中から、シガレット・ケースならぬピストルを取り出す······。
おお、それからだ!
||ピストルを握る手を、じりじりと胸の方へ上げてゆく。······じりじりと上げてゆく。
「はてな、······今日はよく合っているぞ」
乃公は期待した異常が今日は認められないのに、ほっと息を吐いた。しかしいつ急にありありと、二つの像が分裂をはじめないとも限らない······。
「ああ、大丈夫だ」
乃公は嬉しさと安心のあまり、声をあげようとしたほどだった。正しく異常はなかった。その途中わざと腕を上下へ動かしてみたが、実物と像とは、シンクロナイズしたトーキーのように、すこしも喰いちがいなく、同じ動作を同じ瞬間にくりかえしたのだった。
(この前のあの恐ろしい分離現象は、自分の心の迷いだったかしら!)
そんな風に思ったが、いやそんなに深く考えることはいらなかったのだ。なにしろ夢の中の出来ごとではないか。いろいろと理窟に合わないこともできる筈である。原っぱの真中にいて、机がほしいと思えば、奇術のように、ぽっかりと机が飛びだしてくることも、夢の中だから、あったとて別に不思議はないのだ。
||銃口を左の肩にあてがい、狙いを定めて、静かに肩を左に廻してゆく。男と女とは、小声ながら、呼吸をはずませて云い争っている。若い女の、なんというか
「そこだっ、||こん畜生!」
乃公はピストルの引金をひいた。
どーン。
「きゃーッ。······」
魂切る悲鳴が、部屋をひき裂かんばかりに起った。
||見れば女は、片手で肩のあたりを抑えどうと絨毯の上に倒れたが、もう一方の腕をしきりに動かして、手あたりしだい掻き

「どうしたんだろう?」
乃公は不審に思って、射殺した筈の女の方へ近づいた。女はまだ死にきってはいなかった。しかし見る見る気力が衰えてゆくのがはっきりと判った。肩先にあてていた真赤な血の
「いやに深刻な最後を演じたもんだ」
乃公はあざ笑いながら、近よって女の腰を蹴った。女は睡っているように、動かなかった。それから乃公は頭の方へ廻って、女の顔を覗きこんだ。
「おや?」
例の昔
「人違い······だっ」
乃公はハッと胸を
「
なんというひどい人違いをしたものだ。昔の愛人だとばかり思ったが、それが大違いで、その死体の女は、紛れもなく兄弟同様に親しくしている或る友人の妻君だったではないか!
「し、しまった!」
乃公は思わず歯を喰いしばった。どうしてこれに気がつかなかったことであろう。その妻君を射殺してしまうなんて、人殺しという罪も恐ろしいには違いないが、それよりもかの親しい友人に、なんといって謝ったらばいいだろうか。
その妻君は、実に感心な女なのだった。その連れあいというのが、乃公とは随分と親しい仲ではあったが、この頃だいぶん妙な噂を耳にするのであった。彼はなんでも、非常な高利で金を貸しつけて金を殖やしているそうだったし、たった一人、自宅で待っている妻君のところへもごく稀にしか帰って来なかった。妻君は心配のあまり、よく乃公のところへ来ては、いろいろ自分の到らないせいであろうからよくとりなしてくれるように、などといって、いつまでも畳の上にうっぷして泣いているという風だった。こんな人のよい、そして物やさしい女はないだろうと思った。それを一向知らないような顔付きで、うっちゃらかしておくその友人の気がしれなかった。
そんなわけだから、乃公はたいへんその妻君に同情して、機会あるたびに彼女を
「その問題の妻君を、乃公は手にかけて殺してしまったのだ。ああ、どうしよう」
友人に会わす顔がない。殺した妻君には、さらに相済まない。それとともに、この事件によって、友人の妻君と乃公との間の潔白は、どうしたって証明することが出来なくなったのである。乃公は妻君の死体の傍に
「······ああ、なんたる莫迦だろう。乃公はいま夢をみて泣いているぞ」
ふと、どこかで、自分が自分に云ってきかせる声が聞えた。なあんだ、ああこれは夢だったのだ。
入口ががたりと開いて、どやどやと一隊の人が
「
警官の服を着ている一隊は、乃公に飛びかかって腕をねじあげた。乃公はいよいよこれから死刑になるのだなと思いながら、いと神妙に手錠をかけられたのであった。それから先は、さっぱり記憶がない。
以上の二つの夢を聞いて、君はどう思うか。なんと不思議な話ではないか。あまりにはっきりしすぎている夢だとは思わないか。
3
静かな冬の朝だった。
陽は高い塀に
真白の壁に囲まれた真四角の室の中で、友人の友枝八郎は、また私に例の夢の話のつづきをするのであった。
どうも
このまえ君に、夢の中で同じような人殺しを二度くりかえしてやったことを話したと思うけれど、どこまで話したのかも、第一忘れてしまった。二度目の分は、たしか乃公が刑務所の未決に
それについてだが、乃公は滑稽な取違えをしていながら、それに気がつかないで、真面目くさって君に話をしたように覚えているがそうではなかったかね。実を云えばあの話をしているときには、君という人が夢でない方の現実の世界の人だとばかり思っていたのだ。しかしこうやって、例の殺人事件にかかわり、この刑務所の一室に相対しているところを見ると、君もまたあの夢の方の国に住んでいる人だということが判った。いままでどうしてそれに気がつかなかったろう。
乃公はどうも話が下手で弱るんだ。いいかね、もう一度云うとこうだ。君に例の夢の中の殺人事件について話をした。ところが乃公は殺人罪で刑務所に入れられてしまったのだ。その刑務所へ君はしばしば訪ねてくれたではないか。すると殺人事件のあった世の中と君の住んでいる世の中とは、全く同じ世の中だったことが証明できるじゃないか。乃公は君に夢の国の殺人事件の話をした。しかも君は、乃公から云わせれば夢の国の人だったのだ。乃公にとっては、あの事件は夢の中の出来ごとだけれど、君にとっては、君が住んでいる世の中の出来ごとだったんだ。しかし、乃公はいま、夢の国の中で話をしているのだよ。······そんなことを先から先へ考えてゆくと、頭の悪い乃公には、いつも何方が何方だかわからなくなるのだ。あとは誰かの判断に
或るとき乃公は、さっきも云ったように、刑務所の未決に繋がれている自分自身を見出したのだ。その原因が例の大鏡のある部屋の殺人事件に関係していると知って、乃公は、
「まあ、何という長ったらしい夢を見ることだろう?」
と
後で聞いた話だけれど、そのとき乃公は、もう少しで精神病院へ強制的に
ところでその後だんだん調べられたが、その係官の中に杉浦予審判事というたいへん親切そうな
「お前はその二つの夢を、本当の夢だと思っているか。そして、よしんばそれが夢だとしても、その二つの夢の間に、或る不審が存在するということに気がつかないのか」
と、かの杉浦予審判事は、改まった口調で言いだしたのさ。乃公は面倒くさいから、黙っていた。すると彼は
「お前は、はじめの夢で、かつての愛人を射殺し、二度目の夢では友人の妻君を殺したという。もしお前の云うとおり夢は同じことを二度以上見るというならば、その被害者が両度とも同じである筈ではないか。それが違っているのは不思議だとは思わないか」
というのだ。乃公は反対した。夢は自由である。登場人物など自由奔放に変り得るものだと言ってやった。
すると彼はまた訊ねるのだった。
「お前が最初の愛人を殺したときの光景はたいへん夢幻的に美しく、かつまた単純なものだった。しかるに二度目に友人の妻君を殺したときの光景は、あまりに現実的色彩が強すぎるではないか。この点の相違を考えるとき、なにかそこに或る
と、ひどく真面目な顔をして云うのだった。乃公はこれを聞いた直後、こいつはいいことを云うと思った。たしかに乃公は二度目の夢の中での殺人に、かなり真実に迫るものを感じたから。だが、すこし長く考えていると、判事は
「お前は黙っとるが、少しは僕の云うことが判るらしいね」とひとりぎめをして杉浦氏はまた
「いいかね、まだまだ不審なことを並べてみるよ。第一、あの部屋を何と思う。実に変な部屋ではないか。奥に入ると、髪床にあるような大きな鏡が壁を
という。||なあに、夢の中のことだ、単純で印象的なのは当り前だと云ってやりたかったよ、乃公は。
「どうだ、いちいちお前の胸に思いあたることばかりだろう」と予審判事はいよいよ得意であった。
「それからまだあとに、実に大きな
この話を聞いたときばかりは、
「それだから、先刻から云っているのだ。トリックの道具立がちゃんとその部屋に出来ていたのだ。鏡に映っていると思ったのは、実は大きな硝子板の向うに、もう一つ同じ形に作った部屋が見えていたのだ。同じ配列で、裏向きにしておけばよかったのだ。人間だってそうだ。こっちと向うとに二人ずつの男女が居て、鏡にうつっているように見せかけたのだよ。いや向うの部屋には、もう一人男がいた。そいつは先にも云ったが、お前と同じ扮装をしていたのだ。何しろお前は気がおかしかったから、別人の男女をさえ、同じ顔をしているように感ちがいしたのだ。そんな場合には、常人を
||ああ、それでは、なぜ彼は私に、そんなことをさせたんだろう、と乃公は思わず叫んでしまった。
「それは判っている。それは第二の夢の場面にお前をひっぱり出し、そして友人の妻君というのを本当に殺させたかったのだ。精神薄弱者たるお前に、再度おなじ夢を見たと思わせ、前回のとおりの射撃をやらせたのだ。そのときお前がとりだしたピストルはちゃんと実弾が入っていたのだよ。そして二度目の夢の場面には、例の硝子板の向うの部屋は使わなかった。それは向うの部屋を暗室にすることによって、硝子板を鏡と同じ作用をさせたのだ。そんなトリックはよく、博覧会などの見世物で、やってみせるトリックで、誰でも知っている。お前は心にもなく、一人の女を殺してしまったのだ」
||なぜ私は、その女を殺さねばならなかったのですか、と乃公は怒鳴るようにして聞きかえしたものだ。すると、
「それは調べて判った。その女を殺すべく
||いえ、それは違います。あの男は、そんな悪い人間ではありません、といってやった。
「いや、もうすっかり種はあがっているのだ。お前が弁解してやっても効果がない。お前の友人という男は憎むべき奴だ。彼は事業に失敗して大金が入用だったのだ。その妻君には莫大な保険が懸けてあった。自分の手で殺したのでは駄目だから、お前を利用して殺させようとしたのだ。妻君をあの部屋に誘いだすことも、いい加減な口実をつかってやったことらしい。妻君は案内されてあの部屋に入り、発狂しているとでもいいふらしてあったお前の姿を見させたものらしい。そしてお前に射殺されてしまったのだ。||とにかくお前がここへ来て急に頭の調子が直ってくれてよかったよ」
乃公は聞いているうちに、あまりに巧みな話の筋に、もうちょっとでひっかかるところであった。そんな手数のかかることがあってたまるものか。判事さんの邪推だと思ったのだ。
||おかしいですよ予審判事さん。どうして彼は私をうまく使いこなしたのです。
「そりゃ判っているじゃないか。お前は夢というものをどう考えているか、などということについて、いつもその友人にくどくどと話をして聞かせる病があったというじゃないか。それですっかり利用されちまったのだ」
というのだよ、君。乃公は憐れむよ、予審判事さんの苦労性をね。君は乃公のことを利用して、自分は手を下さずして君の妻君を殺させたといっているのだからね。随分失礼な人じゃないか。これがまあ幸いにも、夢の中での出来ごとなのだから忍べるが、本当の世の空間に起ったことだったら、そいつは助からない話じゃないか。
しかし予審判事さんは、あくまで執拗なんだ、困ったね。
「お前は夢の中の話だというが、それは間違いだよ。それでも夢だと思っているのだったら、その思い違いであることを証明してやろう······」
と云うのさ。||じゃ、どうするんです! と聞いてやったら、乃公のことを鏡の前へ連れていってね、
「どうだ、この鏡にうつっているお前の顔は、お前の夢の中の顔か、それとも現実の世におけるお前の顔か」
と訊ねるじゃないか。見ると、乃公の顔は青白くて、弱々しくまず丸顔だ。夢で見るあの勇ましい顔とは全然違っている。
「これは現実の顔ですよ」
と乃公は答えちまった。すると予審判事は、それ見ろというような顔をして云った。
「それは可笑しいじゃないか。お前はいま夢の中に居るのだと先刻から云っているじゃないか。それが現実の顔だとは、こいつは可笑しい。そうだろう。いいかい、よく考えて、よく覚えていなくちゃ駄目だよ。お前が有ると信じている夢の国なんて、始めからありはしないのだ。空間は常に一つだ。だのにお前は空間が二つもあって、別な顔をしているようにいうが、
||乃公は呀ッと
||と危いところで欺されようとして助かったよ。ねえ君、お互はやっぱり、いま夢の世の中に居るんだよ。······
そのとき入口の鉄扉がぎいーっと開いた。そして私の予期したとおり手錠をもった看守長に続いて、
「ああ、話の途中でしょうが······」と看守長が声をかけた。「もう刑の執行の時刻になりましたので、友枝さんは御退室をねがいたい」
友人はぎくりとして、椅子から立った。そして一行の方を
「君、恐れちゃいけないよ。誰がなんといっても、いまお互の立っている空間は夢の中なんだ。これから君は絞首台に登るのだろうけれど。それで生命を本当に失うんだなんて誤解してはいけないよ。結局、夢の中で死刑になるところを見ているわけなんだからね。恐れることなんか、少しもありはしない。······では、あまり気もちがわるかったら、早く夢から覚めたまえ。君は間もなく温かいベッドの上で眼を覚ますことだろう。隣りの部屋では、君の子供さんたちが、もう受信機のスイッチをひねってラジオ体操の音楽を鳴らしているのが聞えてくるだろうよ。あまり恐ろしい夢のことなんか、ベッドの上で考え続けていないように。早く飛び起きて、会社への出勤に遅れないようにしたまえ。では、乃公は失敬するよ······」といって友人は私の監房を出ていった。
そうだ、そうだ。私はやっぱり夢を見ているのだ。死刑台なんか······なんでもないぞ!