師走三日
師走の三日といえば、一年のうちに、僅か一日しかない日であるのに、虎松にとってはこれほど苦痛な日は、ほかに無かったのであった。そのわけは、旗本の
その年も、まちがいなく師走に入って、三日という日が来た。その頃、この江戸には夜な夜な不可解なる
「おう、虎松か、よう参ったのう。それ、近こう近こう」
頭に
「毎年大儀じゃのう。さて、今年の報告にはなにか確実な手懸りの話でも出るかと、楽しみにいたし居ったぞ。さあ、どうじゃどうじゃ」
虎松は一旦あげた面を、へへッとまた畳とすれすれに下げた。
「まことに以て面目次第も御座りませぬが、
「なに、この一年も無駄骨だったと申すか······」
と、帯刀は暗然として腕を
高松半之丞というのは、帯刀から云えば、
お妙の父帯刀は、どっちかというと半之丞のような柔弱な人物を好いてはいなかった。しかし亡友の遺児であってみれば捨てて置くことは世間が
「虎松。||」
と帯刀は言葉を改めて呼んだ。
「へえ、||」
「半之丞が
「へえ。||丁度満五年でござりますな」
「もう五年と相成るか」と帯刀は
「ははッ。それでは捜索打切······」
「そうじゃ。われわれは充分出来るかぎりの捜索を行ったのじゃ。誰に聞かれても、われわれに手落はないわ」
「
といったが、虎松は
「これにてそちも身が軽くなったことじゃろう。この上は御用専心に致せ。||おお、そうじゃ。聞けばこの程より怪しき辻斬がしきりと出没して被害多しとのこと。町方与力同心など
「遺憾ながら、私めにはまだ相分りませぬ」
「うん。これからはもう身軽いそちの身体じゃ。早く
早く赴いて、早く引捕えい······か||と虎松は帯刀の邸を出る途端に、その言葉が舌の上に乗ってきた。早く赴いて、早く引捕えられるものなら、帯刀自身で出馬してもらいたいものであると思った。それにしても、あの狸親爺め、よく五年で捜索打切を声明したものではある。······
「うん、こいつは読めた。||」
そういった虎松の脳裏には、帯刀の娘お妙と千田権四郎との花嫁花婿姿がポーッと浮びあがった。あれが両人を晴れて
疑問の殺人鬼
五ヶ年の間、帯刀の遠謀で保留されていたお妙の婿取りは、果して間もなく盛大にとり行われた。虎松も招ばれて
「オヤ、誰だッ||」
誰も居ないと思った虎松の背後を、スーッと人の通りぬける気配がした。彼は
「······」
そこに予期した人影が、不思議にも見当らなかった。ただ||それから一町ほど先で、カチリと金属の
「な、なんだろう||今のは?」
通り魔か? 通りすぎた気配だけあって、姿のない怪人! 生命の満足に残ったのが虎松にとって大きな
「やあ、そこへ行くなあ親分じゃございませんか」
虎松はギョッとして暗闇に立ち止ったが、
「ほう、三太か。······いま時分何の用だ」
「へえ、これはよいところでお目に懸りやした。実はお
「そんなに暴れるのか」
「伺いますと、正に
「ほほう、十四、五人もナ?」
「さようで。||しかも切られたのが、手先の中でも
「ふうーん」と虎松は
「今どこまで追ってるんだ」
「
「ほう、湯島といやあ、これァまた後戻りだわ。······さあ、一緒について来い、三太!」
「合点でござんす」
虎松は暗闇の中をかきわけるようにして
湯島まで行ってみると、殺人鬼は
「これァいよいよもって後戻りだわ」
と虎松は呟いた。
「むざむざと十四、五人も切らせるたァ、それは切らせる方に手落ちがあるのだ。よォし、これから行って、拙者の腕を見せてくれる!」
「いや、それでは拙者も連れていってくれ」
「ならぬならぬ。魔物退治は是非とも拙者にお委せあれ」
というようなわけで、いつまで経っても衆議がまとまらない。すると中で一人がずいと進み出て、
「静まれ、静まれ」と両手を高く挙げて一同を制し「さように
と、一座をズーッと身廻わす。一同はワイワイとどよめいた。(早くそれを云え)と催促が懸る。
「では申そう」と憎々しいまでに
「名案じゃ」「名案、名案!」と、たちまち一せいに拍手があって、若侍は半分は好意的に、あと半分はいま
「なに、いと容易なことじゃ。今夜の御饗応がわりに、直ちに駆けつけて、殺人鬼を打ち取って参り、諸兄の友誼に酬いるで厶ろう。お妙||も楽しみにして、ちょっと待っていやれ」
呪いの凶刃
遅い月がヌーッと頭を出して、ほのかに明るい弓町の通りを、風のようにあっちへ抜けこっちへ現れている一つの黒装束!
それに追い
「ま、待てえ||。殺人鬼!」
抜き放った大刀を、サッと横に払ったが、怪人はすかさず飛び下って、白刃だけが空しく虚空を流れる||。
「
と、なおも勢いこんで切り込んでゆく。
すると、その死闘の場より、ものの半町ほども
「もし、半之丞さまでは御座りませぬか。||ああ、もし、半之丞さま。虎松で
と、死闘の場を
「もし、半之丞さま。虎松はどんなにか若様をお探し申して居りやした。もし、半之丞さま、どうなすったのでござりまするか」
虎松は思いがけない半之丞に巡りあって、殺人鬼と権四郎の果し合いなど問題ではなくなった。半之丞は一向手応えがない、黙として、風のように抜けてゆく。と、それと同じように、黒装束の殺人鬼もヒラリヒラリと大通を向うへ走りゆく。
「権四郎、覚悟しろ!」
と、軒下なる半之丞と思われる人物は始めて口を開いて、呪わしい言葉を街上の勇士に
「うわーッ。うーむ||」
と、
「思い知ったか、権四郎!」
と軒端の半之丞は、遠くから呪いの言葉を吐いた。虎松はこの場の不可解な情景に立ち
「大願成就だ。||ここらで引揚げよう」
と云った半之丞が、何気なく背後をふりかえって、そこで虎松とバッタリ顔を合わせて、ギョッとした。
「おお、虎松。||お前に教えとくが、この後こんな場に必ず出てはならぬぞ。忘れるなッ」
そういい置くと、半之丞は軒端を出てバラバラと走りだした。すると街上の殺人鬼も何に
「ま、待てッ!」
と虎松が
「
そういい残して半之丞はドンドン駆け出していった。そのうちに二つの黒影がもつれ合って一つになると見えたが、そのまま次第に夜の闇の中に消えて見えずなった。
虎松は、それでも後を追い駆けたが、それが無駄であることに気がつくには、余り多くの時間を要しなかった。
「||解せぬ。······」
と首をふりながら、元の大通りへ帰ってくると、そこには何時押しよせたか、十人あまりの人だかり······。
「あまりにも美事な太刀傷じゃ。人間業ではないのう」
「やはり天狗の仕業じゃ。それに刃向ったは権四郎の不運!」
「そうじゃ、権四郎の不運じゃ。吾々の知ったことではないわ」
ことの済んだ後で、云い訳をしているのは、酔も何も醒めはてた権四郎の同輩たちだった。前額から切りつけられて、後頭部まで真直な太刀痕が通っているという物凄い切られ様をした権四郎の死骸の上に、同輩の一人がソッと羽織を被せてやった。
くろがね天狗
くろがね天狗!
そう呼ばれるようになった稀代の殺人鬼は、その後も臆面もなく、毎夜のように江戸のあちらこちらに出没した。
切りかけて、いまだ太刀を引いて逃げおおせた者がなかった。というのは、切りかけたが最後、
「手前手練の早業にてサッと切り込んだので
「確かに手応えはあったが、ガーンという音と共に、太刀持つ拙者の手がピーンと
いよいよ本物のくろがね天狗だとの評判が高くなった。
遂に、種ヶ島の短銃を担ぎだすもの、それから
ドドーン。ドドーン。
くろがね天狗めがけて、
「くろがね天狗の正体は、そも何者ぞや」
||と、町奉行与力同心は云うに及ばず、
「とにかく権四郎が悪い。あれは恋敵の高松半之丞に違いない。半之丞の
「うん、なるほど。そういえばなァ」
というので、半之丞説が
「半之丞さまでは御座りませぬ。その証人と申すは、斯く申す虎松で······」
と、聞くに
「帯刀一家を処断して、くろがね天狗の怒りを緩和してはいかがで厶るか」
という者があるかと思えば、
「半之丞をまず見つけて、口達者なものに吾等の同情を伝え、よく話合うことにしては?」
などと説くものもあった。
くろがね天狗||。
このくろがね天狗の正体を知る者は、天下に唯一人、半之丞自身があるだけだった。
だが彼は、密かに姿を変え、しばしば
「おお、人が斬りたい。······」
と、日暮れになると、彼は高尾山中の岩窟からノッソリ姿を現わし、
「おうい、くろがね天狗よ、洞から出て参れ」
そういって半之丞は右手をあげて額の前で怪しく振った。すると彼は一種の自己催眠に陥り、異常なる精神集中状態に入るのだった。
「くろがね天狗、出てこい!」
そういって命令すると、精神が電波のように空間を走って、洞の中に安置されている
「さあ、出発だ!」
半之丞は機械人間の
死闘
やがて二刻ちかくたって、半之丞とくろがね天狗の現れたのは、江戸の東を流るる大川に架けられた両国橋の
「ちぇッ。今夜もあぶれるか」
半之丞は舌打をした。
「人間の匂いさえしない。······」
といったが、横網寄りの商家の屋根の上から、チョコンと出ている一つの首には気がつかなかった。それこそは岡引虎松の辛棒づよい偵察姿勢だとは知る由もなかった。彼は怪人の正体がどう考えても解けない口惜しさに、かろうじて辛棒づよい偵察をつづけているわけだった。
「おおッ||」と半之丞は、電気に觸れたように
「おお珍らしや、向うから来るは確かに人影、占めた!」
半之丞は大きく
「来る、来る。······逃ねばよいが······」
実は悪魔に
「近頃、くろがね天狗の手練が、大いに落ちたようだ」
という噂も、実はこの半之丞代行の
柳原の方から橋をコトコトと渡りはじめた珍らしき行人、||それは近づくままに、いたく半之丞を愕かした。
「ほう。······女人だ!」それは紛れもなく、お
「女人ではなァ。······」と首を傾けたが、「なに女人大いに結構。これも憎き女の片割れじゃ。一刀のもとに切り捨ててやるまでのこと······」
お高祖頭巾の女は、もう間近になった。半之丞はツツーと柳の大木の陰から飛びだした。
「待たれい。||」と一声。
その声のもとに逃げだすかと思った女は、逃げるどころか、
「おおッ、||」
と危く身を避け、慌てて強引に大刀を横に払ったが、惜しや空を切り、その弾みで身体の中心を失った。
「し、
「
「思い知ったか、夫の敵!」
女人はヒステリックな声で叫んだ。一命を投げだしたお妙の必死の刃は、もともと手練の欠けた半之丞を美事に刺し貫いたのだった。
(うぬ。······お妙だったか······)半之丞は地面に
「卑怯者、観念しや。······」もう
「く、くろがね天狗!」と半之丞は絞るような声で
「た、助けてくれッ。逃げよう!」
その精神が通じたのか、いままで軒端に石のように動かなかった機械人間が、このときゴクンと揺れると、サッと半之丞の方に走りよった。
「おお、怪物!」
お妙が思わず二、三歩退く
「ま、待てッ、卑怯者!」
お妙は死力を尽して追いかけた。しかし機械人間は、お妙の五倍もの快速で逸走したのであった。見る見るうちに、半之丞を背負った機械人間の姿は家並の陰に消えてしまった。そして後に、お妙の激しい
それっきり、くろがね天狗は江戸市中に出没しなくなった。
岡引虎松は唖然として其の夜の決闘を屋根の上から眺めつくしたが、漸く探索上に一道の光明を見出した。そして足跡を絶ったくろがね天狗の行方を探し求めて、町の隅々から山また山を