一
このもの
語の起った土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、
真中央に城の天守なお高く
聳え、森黒く、
濠蒼く、国境の山岳は
重畳として、湖を包み、海に沿い、橋と、坂と、辻の柳、
甍の浪の町を
抱いた、北陸の都である。
一年、激しい
旱魃のあった真夏の事。
······と言うとたちまち、天に
可恐しき入道雲
湧き、地に水論の修羅の
巷の流れたように聞えるけれど、決して、そんな、物騒な
沙汰ではない。
かかる折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、この土地に七日間の興行して、全市の湧くがごとき人気を博した。
極暑の、
旱というのに、たといいかなる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、
||諺に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、
大盥に満々と水を
湛え、
蝋燭に灯を点じたのをその中に立てて
目塗をすると、壁を
透して煙が
裡へ
漲っても、火気を呼ばないで安全だと言う。
······火をもって火を制するのだそうである。
ここに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるがごとき演劇は、あたかもこの
轍だ、と
称えて
可い。雲は
焚け、草は
萎み、水は
涸れ、人は
喘ぐ時、一座の劇はさながら
褥熱に対する氷のごとく、十万の市民に、一剤、清涼の気を
齎らして
剰余あった。
膚の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、
拳って座中の明星と
称えられた村井
紫玉が、
「まあ
······前刻の、あの、小さな
児は?」
公園の茶店に、一人
静に憩いながら、
緋塩瀬の
煙管筒の
結目を解掛けつつ、
偶と思った。
······ 髷も女優巻でなく、わざとつい通りの束髪で、薄化粧の
淡洒した
意気造。
形容に合せて、
煙草入も、好みで持った気組の
婀娜。
で、見た処は
芸妓の
内証歩行という風だから、まして女優の、忍びの出、と言っても
可い
風采。
また実際、紫玉はこの日は忍びであった。
演劇は
昨日楽になって、座の中には、直ぐに
次興行の隣国へ、早く
先乗をしたのが多い。が、地方としては、これまで
経歴ったそこかしこより、観光に
価値する名所が
夥い、と聞いて、中二日ばかりの
休暇を、紫玉はこの土地に居残った。そして、旅宿に二人附添った、玉野、玉江という女弟子も連れないで、一人で
密と、
······日盛もこうした身には苦にならず、
町中を見つつ
漫に来た。
惟うに、太平の世の国の
守が、隠れて民間に微行するのは、
政を聞く時より、どんなにか得意であろう。
落人のそれならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさえ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、その都度、ハッと隠れ忍んで、
微笑み微笑み通ると思え。
深張の
涼傘の影ながら、なお面影は透き、色香は
仄めく
······心地すれば、
誰憚るともなく
自然から
俯目に
俯向く。謙譲の
褄はずれは、
倨傲の襟より品を備えて、尋常な
姿容は調って、焼地に
焦りつく影も、水で描いたように涼しくも
清爽であった。
わずかに畳の
縁ばかりの、日影を選んで
辿るのも、人は目を

って、鯨に乗って人魚が通ると見たであろう。
······素足の白いのが、すらすらと
黒繻子の上を
辷れば、
溝の
流も清水の
音信。
で、
真先に志したのは、城の
櫓と境を接した、三つ二つ、全国に指を屈するという、景勝の公園であった。
二
公園の入口に、樹林を背戸に、
蓮池を庭に、柳、藤、桜、山吹など、
飛々に名に呼ばれた茶店がある。
紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋というのであった。が、
紅い
襷で、色白な娘が運んだ、
煎茶と
煙草盆を袖に控えて、さまで
嗜むともない、その、
伊達に持った煙草入を手にした時、
||「
······あれは女の
児だったかしら、それとも男の児だったろうかね。」
||と思い出したのはそれである。
|| で、
華奢造りの
黄金煙管で、余り
馴れない、ちと
覚束ない手つきして、青磁色の手つきの瀬戸火鉢を探りながら、
「
······帽子を
······被っていたとすれば、男の児だろうが、青い鉢巻だっけ。
······麦藁に巻いた
切だったろうか、それともリボンかしら。色は
判然覚えているけど、
······お待ちよ、
||とこうだから。
······」
取って着けたような
喫み方だから、見ると、ものものしいまでに、打傾いて一口吸って、
「
······年紀は、そうさね、
七歳か
六歳ぐらいな、色の白い上品な、
······男の児にしてはちと綺麗過ぎるから女の児
||だとリボンだね。
||青いリボン。
······幼稚くたって
緋と限りもしないわね。では、やっぱり女の児かしら。それにしては麦藁帽子
······もっともおさげに結ってれば
······だけど、そこまでは気が付かない。
······」
大通りは一筋だが、道に迷うのも一興で、そこともなく、裏小路へ紛れ込んで、低い土塀から
瓜、
茄子の
畠の
覗かれる、荒れ寂れた
邸町を一人で通って、まるっきり人に
行合わず。白熱した
日盛に、よくも羽が焦げないと思う、白い蝶々の、不意にスッと来て、
飜々と擦違うのを、
吃驚した顔をして見送って、そして
莞爾······したり
······そうした時は
象牙骨の扇でちょっと招いてみたり。
······土塀の
崩屋根を仰いで血のような
百日紅の咲満ちた枝を、
涼傘の
尖で
擽ぐる、と
堪らない。とぶるぶるゆさゆさと
行るのに、「御免なさい。」と言ってみたり。石垣の
草蒸に、棄ててある瓜の皮が、化けて脚が生えて、むくむくと動出しそうなのに、「あれ。」と
飛退いたり。取留めのないすさびも、この女の人気なれば、話せば逸話に伝えられよう。
低い山かと見た、
樹立の繁った高い公園の下へ出ると、坂の上り口に
社があった。
宮も大きく、境内も広かった。が、砂浜に鳥居を立てたようで、拝殿の
裏崕には
鬱々たるその公園の森を負いながら、
広前は一面、
真空なる太陽に、
礫の影一つなく、ただ
白紙を敷詰めた
光景なのが、
日射に、やや
黄んで、
渺として、どこから散ったか、百日紅の二三点。
······覗くと、静まり返った正面の
階の
傍に、
紅の手綱、朱の
鞍置いた、つくりものの白の
神馬が
寂寞として
一頭立つ。横に公園へ上る坂は、
見透しになっていたから、涼傘のままスッと鳥居から抜けると、紫玉の姿は色のまま鳥居の柱に映って通る。
······そこに
屋根囲した、
大なる石の
御手洗があって、青き
竜頭から
湛えた水は、且つすらすらと玉を乱して、
颯と
簾に
噴溢れる。その
手水鉢の
周囲に、ただ一人
······その稚児が居たのであった。
が、炎天、人影も絶えた折から、
父母の昼寝の夢を抜出した、神官の
児であろうと紫玉は
視た。ちらちら廻りつつ、廻りつつ、あちこちする。
······ と、御手洗は高く、稚児は小さいので、下を伝うてまわりを廻るのが、さながら、石に刻んだ形が、噴溢れる水の影に誘われて、すらすらと動くような。
······と視るうちに、稚児は伸上り、伸上っては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上っては、また空に手を伸ばす。
|| 紫玉はズッと寄った。稚児はもう涼傘の陰に入ったのである。
「ちょっと
······何をしているの。」
「水が欲しいの。」
と、あどけなく言った。
ああ、それがため足場を取っては、取替えては、手を伸ばす、が爪立っても、青い
巾を巻いた、その振分髪、まろが丈は
······筒井筒その
半にも届くまい。
三
その御手洗の高い縁に乗っている
柄杓を、取りたい、とまた稚児がそう言った。
紫玉は思わず
微笑んで、
「あら、こうすれば
仔細ないよ。」
と、半身を斜めにして、溢れかかる水の一筋を、玉の
雫に、
颯と散らして、赤く燃ゆるような唇に
請けた。ちょうど
渇いてもいたし、水の
潔い事を見たのは言うまでもない。
「ねえ、お前。」
稚児が仰いで、
熟と紫玉を
視て、
「手を
浄める水だもの。」
直接に
吻を
接るのは不作法だ、と
咎めたように聞えたのである。
劇壇の
女王は、
気色した。
「いやにお茶がってるよ、生意気な。」と、軽くその
頭を
掌で
叩き放しに、
衝と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、さてやがてこの茶屋に憩ったのであった。
|| 今思うと、手を触れた稚児の
頭も、女か、男か、不思議にその感覚が残らぬ。気は涼しかったが、暑さに、いくらか
茫としたものかも知れない。
「
娘さん、町から、この坂を上る処に、お宮がありますわね。」
「はい。」
「何と言う、お社です。」
「浦安神社でございますわ。」と、片手を畳に、娘は行儀正しく答えた。
「何神様が祭ってあります。」
「お父さん、お父さん。」と娘が、つい
傍に、
蓮池に向いて、(じんべ)という
膝ぎりの
帷子で、眼鏡の下に内職らしい網をすいている半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外して、コツンと水牛の柄を畳んで、台に乗せて、それから向直って、丁寧に辞儀をして、
「ええ、浦安様は、浦安かれとの、その御守護じゃそうにござりまして。水をばお
司りなされます、竜神と申すことでござります。これの、太夫様にお茶を替えて上げぬかい。」
紫玉は我知らず
衣紋が
締った。
······称えかたは
相応わぬにもせよ、
拙な山水画の
裡の隠者めいた老人までが、確か自分を知っている。
心着けば、正面神棚の下には、我が姿、
昨夜も
扮した、劇中
女主人公の王妃なる、玉の
鳳凰のごときが掲げてあった。
「そして、
······」
声も朗かに、且つ慎ましく、
「竜神だと、
女神ですか、
男神ですか。」
「さ、さ。」と老人は膝を刻んで、あたかもこの
問を待構えたように、
「その儀は、とかくに申しまするが、いかがか、いずれとも相分りませぬ。この公園のずッと奥に、
真暗な
巌窟の中に、一ヶ処清水の
湧く井戸がござります。古色の
夥しい青銅の竜が
蟠って、
井桁に
蓋をしておりまして、金網を張り、みだりに近づいてはなりませぬが、
霊沢金水と申して、これがためにこの市の名が起りましたと申します。これが奥の院と申す事で、ええ、
貴方様が御意の浦安神社は、その
前殿と申す事でござります。
御参詣を遊ばしましたか。」
「あ、いいえ。」と言ったが、すぐまた稚児の事が胸に浮んだ。それなり一時言葉が途絶える。
森々たる
日中の樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に
聳ゆる。茶店の横にも、見上るばかりの
槐榎の暗い影が
樅楓を薄く
交えて、
藍緑の
流に
群青の瀬のあるごとき、たらたら
上りの
径がある。滝かと思う
蝉時雨。光る雨、輝く
木の葉、この炎天の下蔭は、あたかも稲妻に
籠る穴に似て、もの
凄いまで
寂寞した。
木下闇、その
横径の
中途に、空屋かと思う、
廂の朽ちた、誰も居ない店がある
······ 四
鎖してはないものの、奥に人が居て住むかさえ疑わしい。それとも日が暮れると、白い首でも出てちとは客が寄ろうも知れぬ。店一杯に
雛壇のような台を置いて、いとど薄暗いのに、三方を黒布で張廻した、壇の
附元に、
流星の
髑髏、
乾びた
蛾に似たものを、点々並べたのは
的である。地方の盛場には時々見掛ける、吹矢の
機関とは一目
視て紫玉にも分った。
実は
||吹矢も、化ものと名のついたので、幽霊の
廂合の幕から
倒にぶら下がり、
見越入道は
誂えた穴からヌッと出る。雪女は
拵えの黒塀に
薄り立ち、
産女鳥は石地蔵と並んでしょんぼり
彳む。一ツ目小僧の豆腐買は、
流灌頂の野川の
縁を、
大笠を
俯向けて、
跣足でちょこちょこと巧みに
歩行くなど、仕掛ものになっている。
······いかがわしいが、
生霊と札の立った
就中小さな的に吹当てると、床板ががらりと
転覆って、
大松蕈を抱いた
緋の
褌のおかめが、とんぼ返りをして
莞爾と飛出す、途端に、四方へ
引張った綱が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで
一斉にがんがらん、どんどと鳴って、それで
市が栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたい
歩行く
波張が
切々に、
藪畳は
打倒れ、
飾の石地蔵は仰向けに反って、視た処、ものあわれなまで寂れていた。
||その軒の土間に、
背後むきに
蹲んだ
僧形のものがある。坊主であろう。墨染の麻の
法衣の
破れ破れな
形で、
鬱金ももう鼠に汚れた布に
||すぐ、分ったが、
||三味線を一
挺、
盲目の
琵琶背負に
背負っている、
漂泊う
門附の
類であろう。
何をか働く。人目を避けて、
蹲って、
虱を
捻るか、
瘡を
掻くか、弁当を使うとも、
掃溜を探した
干魚の骨を
舐るに過ぎまい。乞食のように薄汚い。
紫玉は
敗竄した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い
歎息を漏らした。且つあわれみ、且つ
可忌しがったのである。
灰吹に薄い
唾した。
この世盛りの、思い上れる、美しき女優は、樹の緑蝉の声も
滴るがごとき影に、
框も
自然から浮いて高い処に、色も
濡々と水際立つ、
紫陽花の花の姿を
撓わに置きつつ、
翡翠、
紅玉、真珠など、
指環を三つ四つ
嵌めた白い指をツト挙げて、
鬢の
後毛を掻いたついでに、
白金の
高彫の、翼に
金剛石を
鏤め、目には
血膸玉、
嘴と爪に
緑宝玉の
象嵌した、白く輝く
鸚鵡の
釵||何某の伯爵が心を籠めた
贈ものとて、人は知って、(伯爵)と
称うるその釵を抜いて、脚を返して、
喫掛けた火皿の
脂を
浚った。
······伊達の
煙管は、煙を吸うより、手すさみの
科が多い
慣習である。
三味線背負った乞食坊主が、
引掻くようにもぞもぞと肩を
揺ると、一眼ひたと
盲いた、
眇の青ぶくれの
面を向けて、こう、
引傾って、
熟と紫玉のその
状を視ると、肩を
抽いた
杖の
尖が、一度胸へ
引込んで、
前屈みに、よたりと立った。
杖を
径に突立て突立て、
辿々しく
下闇を
蠢いて下りて、城の
方へ去るかと思えば、のろく
後退をしながら、茶店に向って、
吻と、立直って一息
吐く。
紫玉の眉の
顰む時、五間ばかり軒を離れた、そこで早や、
此方へぐったりと
叩頭をする。
知らない
振して、目をそらして、紫玉が釵に
俯向いた。が、濃い
睫毛の重くなるまで、坊主の影は
近いたのである。
「太夫様。」
ハッと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、
目前の土間に、両膝を折っていた。
「
············」
「お願でござります。
······お慈悲じゃ、お慈悲、お慈悲。」
仮初に置いた
涼傘が、
襤褸法衣の袖に触れそうなので、
密と手元へ引いて、
「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の
父娘に目を
遣った。
立って声を掛けて追おうともせず、父も娘も
静に視ている。
五
しばらくすると、この
旱に水は
涸れたが、
碧緑の葉の深く繁れる中なる、
緋葉の滝と云うのに対して、紫玉は
蓮池の
汀を
歩行いていた。ここに別に滝の
四阿と称うるのがあって、八ツ橋を掛け、飛石を置いて、
枝折戸を
鎖さぬのである。
で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻りする事になる。紫玉はあの、吹矢の
径から公園へ入らないで、引返したので、
······涼傘を
投遣りに
翳しながら、袖を柔かに、手首をやや硬くして、あすこで抜いた
白金の
鸚鵡の
釵、その翼をちょっと
抓んで、きらりとぶら下げているのであるが。
仔細は
希有な、
······ 坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願というのが金でも米でもない。
施与には違いなけれど、変な事には「お
禁厭をして遣わされい。虫歯が
疚いて堪え難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い
状に
掌で抱えて、首を
引傾けた同じ方の一眼が白くどろんとして
潰れている。その目からも、ぶよぶよした唇からも、汚い
液が垂れそうな
塩梅。「お慈悲じゃ。」と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たりょうとても、かくまでの
苦悩はございますまいぞ、お
情じゃ、
禁厭うて遣わされ。」で、禁厭とは別儀でない。
||その紫玉が手にした
白金の釵を、歯のうろへ
挿入て欲しいのだと言う。
「太夫様お手ずから。
······竜と
蛞蝓ほど違いましても、
生あるうちは
私じゃとて、芸人の端くれ。太夫様の
御光明に照らされますだけでも、この
疚痛は忘られましょう。」と、はッはッと息を
吐く。
······ 既に、
何人であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言われたのでは、そのいわゆる禁厭の断り
悪さは、金銭の無心をされたのと同じ事
||但し手から手へ渡すも恐れる
······落して釵を貸そうとすると、「ああ、いや、太夫様、お手ずから。
······貴女様の
膚の
移香、脈の
響をお釵から伝え受けたいのでござります。貴方様の
御血脈、それが禁厭になりますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開いた中へ、紫玉は
止む事を得ず、手に持添えつつ、釵の脚を挿入れた。
喘ぐわ、
舐るわ!鼻息がむッと
掛る。
堪らず袖を巻いて唇を
蔽いながら、勢い釵とともに、やや白やかな手の伸びるのが、
雪白なる
鵞鳥の七宝の
瓔珞を掛けた風情なのを、
無性髯で、チュッパと
啜込むように、坊主は
犬蹲になって、
頤でうけて、どろりと
嘗め込む。
と、紫玉の手には、ずぶずぶと響いて、腐れた瓜を突刺す
気味合。
指環は緑紅の結晶したる玉のごとき
虹である。
眩しかったろう。坊主は開いた目も閉じて、

とした
顔色で、しっきりもなしに、だらだらと
涎を垂らす。「ああ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」
|| 不思議な
光景は、美しき女が、針の
尖で怪しき魔を操る、舞台における、神秘なる場面にも見えた。茶店の娘とその父は、感に堪えた
観客のごとく、
呼吸を殺して
固唾を飲んだ。
······「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと
抜衣紋。で、
両掌を仰向け、低く紫玉の雪の
爪先を頂く真似して、「かように
穢いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお
目触り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を
捻じるように杖で立って、
「お有難や、有難や。ああ、苦を忘れて
腑が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を
跨いで、
蹌踉状に振向いて、「あの、そのお釵に
······」
||「え。」と紫玉が鸚鵡を
視る時、「歯くさが着いてはおりませぬか。
恐縮や。
······えひひ。」とニヤリとして、
「ちゃっとお
拭きなされませい。」これがために、紫玉は手を掛けた
懐紙を、余儀なくちょっと
逡巡った。
同時に、あらぬ
方に
蒼と
面を背けた。
六
紫玉は待兼ねたように
懐紙を重ねて、伯爵、を清めながら、森の
径へ
行きましたか、坊主は、と
訊いた。父も娘も、へい、と言って、大方そうだろうと言う。
||もう影もなかったのである。
父娘はただ、紫玉の
挙動にのみ気を
奪られていたろう。
······この辺を
歩行く門附みたいなもの、とまた訊けば、父親がついぞ見掛けた事はない。娘が
跣足でいました、と言ったので、旅から紛込んだものか、それも分らぬ。
と、言ううちにも、紫玉はちょいちょい眉を
顰めた。抜いて持った
釵、
鬢摺れに髪に返そうとすると、や、するごとに、手の
撓うにさえ、得も言われない、異な、変な、悪臭い、
堪らない、
臭気がしたのであるから。
城は公園を出る方で、そこにも影がないとすると、吹矢の道を上ったに相違ない。で、後へ続くには堪えられぬ。
そこで滝の道を
訊いて
||ここへ来た。
|| 泉殿に
擬えた、
飛々の
亭のいずれかに、
邯鄲の石の
手水鉢、名品、と教えられたが、水の音より蝉の声。で、勝手に通抜けの出来る茶屋は、昼寝の半ばらしい。どの座敷も
寂寞して
人気勢もなかった。
御歯黒蜻蛉が、
鉄漿つけた
女房の、
微な夢の影らしく、ひらひらと一つ、葉ばかりの
燕子花を伝って飛ぶのが、このあたりの御殿女中の
逍遥した昔の幻を、寂しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思わせる。
すべて旧藩侯の庭園だ、と言うにつけても、
贈主なる貴公子の面影さえ浮ぶ、伯爵の
鸚鵡を何としょう。
霊廟の土の
瘧を落し、秘符の威徳の鬼を追うよう、たちどころに坊主の虫歯を
癒したはさることながら、
路々も
悪臭さの消えないばかりか、口中の臭気は、次第に持つ手を
伝って、袖にも移りそうに思われる。
紫玉は、樹の下に
涼傘を畳んで、滝を斜めに
視つつ、池の
縁に低くいた。
滝は、
旱にしかく骨なりといえども、
巌には
苔蒸し、壺は森を
被いで
蒼い。しかも
巌がくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音の
凄じく響くのは、
大樋を伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の
内濠に
灌ぐと聞く、戦国の
余残だそうである。
紫玉は釵を洗った。
······艶なる女優の心を得た池の
面は、
萌黄の薄絹のごとく波を伸べつつ
拭って、清めるばかりに見えたのに、取って黒髪に挿そうとすると、ちっと離したくらいでは、耳の
辺へも寄せられぬ。鼻を
衝いて、ツンと臭い。
「あ、」と声を立てたほどである。
雫を切ると、雫まで
芬と
臭う。たとえば貴重なる香水の
薫の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。
······二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、
果は指環の
緑碧紅黄の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が
蒸れ
掛るように思われたので。
······「ええ。」
紫玉はスッと立って、手のはずみで一
振振った。
「ぬしにおなりよ。」
白金の羽の散る
状に、ちらちらと映ると、釵は滝壺に
真蒼な水に沈んで
行く。
······あわれ、
呪われたる
仙禽よ。
卿は熱帯の
鬱林に放たれずして、山地の
碧潭に
謫されたのである。
······トこの奇異なる珍客を迎うるか、不可思議の
獲ものに競うか、
静なる池の
面に、眠れる
魚のごとく縦横に
横わった、樹の枝々の影は、
尾鰭を跳ねて、幾千ともなく、
一時に皆揺動いた。
これに
悚然とした
状に、一度すぼめた袖を、はらはらと翼のごとく
搏いたのは、紫玉が、
可厭しき
移香を払うとともに、高貴なる
鸚鵡を思い切った、安からぬ胸の波動で、なお且つ
飜々とふるいながら、
衝と
飛退くように、滝の下行く桟道の橋に
退いた。
石の
反橋である。
巌と石の、いずれにも
累れる
牡丹の花のごときを、左右に築き上げた、銘を
石橋と言う、反橋の石の
真中に立って、
吻と一息した紫玉は、この時、すらりと、脊も心も高かった。
七
明眸の左右に
樹立が分れて、
一条の大道、炎天の
下に
展けつつ、
日盛の町の大路が望まれて、
煉瓦造の避雷針、古い
白壁、寺の塔など
睫を
擽る中に、行交う人は点々と
蝙蝠のごとく、電車は光りながら
山椒魚の
這うのに似ている。
忘れもしない、限界のその突当りが、
昨夜まで、我あればこそ、
電燭のさながら水晶宮のごとく輝いた劇場であった。
ああ、
一翳の雲もないのに、緑紫
紅の旗の影が、ぱっと空を
蔽うまで、花やかに目に飜った、と見ると
颯と近づいて、眉に近い樹々の枝に色鳥の
種々の影に映った。
蓋し劇場に向って、高く
翳した手の指環の、玉の
矜の
幻影である。
紫玉は、瞳を返して、
華奢な指を、
俯向いて
視つつ
莞爾した。
そして、すらすらと石橋を
前方へ渡った。それから、森を通る、姿は
翠に青ずむまで、
静に落着いて見えたけれど、二ツ三ツ
重った不意の出来事に、心の騒いだのは争われない。
······涼傘を置忘れたもの。
······ 森を高く抜けると、三国
見霽しの一面の広場になる。
赫と射る日に、
手廂してこう
視むれば、松、桜、梅いろいろ樹の
状、枝の
振の、
各自名ある神仙の形を映すのみ。幸いに
可忌い坊主の影は、公園の一
木一草をも妨げず。また
······人の
往来うさえほとんどない。
一処、大池があって、朱塗の船の、
漣に、浮いた
汀に、盛装した
妙齢の派手な女が、
番の
鴛鴦の宿るように目に留った。
真白な顔が、揃ってこっちを向いたと思うと。
「あら、お嬢様。」
「お師匠さーん。」
一人がもう、空気草履の、
媚かしい
褄捌きで駆けて来る。目鼻は玉江。
······もう一人は玉野であった。
紫玉は故郷へ帰った気がした。
「不思議な処で、と言いたいわね。見ぶつかい。」
「ええ、観光団。」
「何を
悪戯をしているの、お前さんたち。」
と連立って寄る、汀に居た玉野の手には、
船首へ掛けつつ
棹があった。
舷は
藍、
萌黄の翼で、
頭にも尾にも
紅を塗った、
鷁首の船の屋形造。
玩具のようだが四五人は乗れるであろう。
「お嬢様。おめしなさいませんか。」
聞けば、向う岸の、むら萩に
庵の見える、
船主の料理屋にはもう交渉済で、二人は慰みに、これから
漕出そうとする処だった。
······お前さんに漕げるかい、と
覚束なさに念を押すと、浅くて棹が届くのだから
仔細ない。ただ、一ケ所底の知れない
深水の穴がある。
竜の口と
称えて、ここから下の滝の
伏樋に通ずるよし言伝える、
······危くはないけれど、そこだけは
除けたが
可かろう、と、
······こんな事には気軽な玉江が、つい駆出して
仕誼を言いに行ったのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
「あれ、あすこですわ。」と玉野が
指す、大池を
艮の
方へ寄る処に、板を浮かせて、小さな
御幣が立っていた。
真中の
築洲に鶴ケ島というのが見えて、
祠に竜神を
祠ると聞く。
······鷁首の船は、その島へ志すのであるから、滝の口は近寄らないで済むのであったが。
「乗ろうかね。」
と紫玉はもう
褄を巻くように、
爪尖を揃えながら、
「でも何だか。」
「あら、なぜですえ。」
「御幣まで立って警戒をした処があっちゃあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」
「いいえ、あの御幣は、そんなおどかしじゃありませんの。不断は何にもないんだそうですけれど、二三日前、誰だか雨乞だと言って立てたんだそうですの、この
旱ですから。」
八
岸をトンと
盪すと、屋形船は軽く出た。おや、房州で生れたかと思うほど、玉野は思ったより
巧に
棹をさす。大池は
静である。
舷の朱欄干に、指を組んで、
頬杖ついた、紫玉の
胡粉のような
肱の下に、萌黄に藍を交えた鳥の翼の揺るるのが、そこにばかり美しい波の立つ風情に見えつつ、船はするすると滑って、鶴ケ島をさして
滑かに浮いて
行く。
さまでの距離はないが、月夜には柳が煙るぐらいな
間で、島へは棹の数百ばかりはあろう。
玉野は
上手を
遣る。
さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした
静な水も、棹に掻かれてどこともなしに波紋が起った、そのせいであろう。あの底知らずの竜の口とか、
日射もそこばかりはものの
朦朧として
淀むあたりに、
||微との風もない折から、根なしに浮いた板ながら
真直に立っていた白い御幣が、スースーと少しずつ位置を
転えて、夢のように一寸二寸ずつ動きはじめた。
凝と、
······視るに連れて、次第に、緩く、柔かに、落着いて弧を描きつつ、その円い線の合する処で、またスースーと、一寸二寸ずつ動出すのが、何となく池を広く大きく押拡げて、船は遠く、御幣ははるかに、不思議に、段々
汀を隔るのが心細いようで、気も
浮かりと、紫玉は、
便少ない
心持がした。
「大丈夫かい、あすこは渦を巻いているようだがね。」
欄干に頬杖したまま、紫玉は御幣を
凝視めながら言った。
「
詰りませんわ、少し渦でも巻かなけりゃ、
余り静で、橋の上を這っているようですもの、」
とお
転婆の玉江が
洒落でもないらしく、
「玉野さん、船をあっちへ遣ってみないか?
······」
紫玉が
圧えて、
「
不可いよ。」
「いいえ、何ともありゃしませんわ。それだし、もしか、船に故障があったら、おーいと呼ぶか、手を
敲けば、すぐに誰か出て来るからって、女中がそう言っていたんですから。」とまた玉江が言う。
成程、島を越した向う岸の萩の根に、一人乗るほどの小船が見える。中洲の島で、
納涼ながら酒宴をする時、
母屋から料理を運ぶ
通船である。
玉野さえ興に乗ったらしく、
「お嬢様、船を少し廻しますわ。」
「だって、こんな池で
助船でも呼んでみたが
可い、飛んだお笑い草で末代までの恥辱じゃあないか、あれお
止しよ。」
と言うのに、
||逆について船がぐいと廻りかけると、ざぶりと波が立った。その響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな
浮木ほどになっていたのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の
面にぴたりとついたと思うと、
罔竜の
頭、
絵ける
鬼火のごとき
一条の脈が、竜の口からむくりと
湧いて、水を一文字に、射て
疾く、船に近づくと
斉しく、波はざッと鳴った。
女優の船頭は棹を落した。
あれあれ、その
波頭がたちまち船底を
噛むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺あとへ引いて、薄波を一
煽り、その形に煽るや否や、人の立つごとく、空へ
大なる
魚が飛んだ。
瞬間、島の
青柳に銀の影が、パッと
映して、魚は紫立ったる
鱗を、
冴えた
金色に輝やかしつつ
颯と
刎ねたのが、
飜然と宙を躍って、船の中へどうと落ちた。その時、水がドブンと鳴った。
舳と
艫へ、二人はアッと
飛退いた。紫玉は欄干に
縋って身を
転わす。
落ちつつ胴の
間で、
一刎、刎ねると、そのはずみに、船も動いた。
||見事な魚である。
「お嬢様!」
「
鯉、鯉、あら、鯉だ。
[#底本では「。」なし]」
と玉江が夢中で手を敲いた。
この
大なる鯉が、
尾鰭を
曳いた、波の
引返すのが棄てた棹を
攫った。棹はひとりでに底知れずの方へツラツラと流れて
行く。
九
「
······太夫様
······太夫様。」
偶と紫玉は、
宵闇の森の
下道で
真暗な大樹巨木の
梢を仰いだ。
······思い掛けず空から呼掛けたように聞えたのである。
「ちょっと
燈を、
······」
玉野がぶら下げた料理屋の
提灯を留めさせて、さし
交す枝を透かしつつ、
||何事と問う玉江に、
「誰だか呼んだように思うんだがねえ。」
と言う
······お師匠さんが、樹の上を
視ているから、
「まあ、そんな
処から。」
「そうだねえ。」
紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳をそらす時、
髷に手を
遣って、釵に指を触れた。
||指を触れた釵は
鸚鵡である。
「これが呼んだのかしら。」
と
微酔の目元を花やかに
莞爾すると、
「あら、お嬢様。」
「
可厭ですよ。」
と仰山に二人が
怯えた。女弟子の驚いたのなぞは構わないが、読者を
怯しては
不可い。滝壷へ投沈めた同じ
白金の釵が、その日のうちに再び紫玉の黒髪に戻った
仔細を言おう。
池で、船の中へ鯉が飛込むと、弟子たちが手を
拍つ、立騒ぐ声が響いて、最初は女中が小船で来た。
······島へ渡した細綱を手繰って、立ちながら操るのだが、
馴れたもので、あとを二押三押、屋形船が来ると、由を聞き、
魚を
視て、「まあ、」と目を

ったきり、
慌しく引返した。が、
間もあらせず、今度は
印半纏を
被た若いものに船を
操らせて、亭主らしい
年配な
法体したのが
漕ぎつけて、「これはこれは太夫様。」亭主も
逸早くそれを知っていて、
恭しく挨拶をした。浴衣の上だけれど、紋の着いた薄羽織を
引かけていたが、さて、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二尺三貫目は
掛りましょう。」とて、
······及び腰に
覗いて
魂消ている
若衆に目配せで
頷せて、「かような大魚、しかも出世魚と申す
鯉魚の、お船へ飛込みましたというは、
類稀な不思議な
祥瑞。おめでとう存じまする、皆、太夫様の御人徳。続きましては、手前預りまする池なり、所持の屋形船。
烏滸がましゅうござりますが、従って手前どもも、太夫様の福分、徳分、
未曾有の御人気の、はや幾分かおこぼれを頂戴いたしたも同じ儀で、かような心嬉しい事はござりませぬ。なおかくの通りの
旱魃、市内はもとより近郷隣国、ただ炎の中に
悶えまする時、
希有の大魚の躍りましたは、甘露、法雨やがて、
禽獣草木に到るまでも、雨に
蘇生りまする前表かとも存じまする。三宝の
利益、四方の大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝いに、この
鯉魚を
肴に、祝うて一献、心ばかりの粗酒を差上げとう存じまする。まず風情はなくとも、あの島影にお船を
繋ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋の方へ移しましょう。」で、辞退も会釈もさせず、
紋着の
法然頭は、もう屋形船の方へ腰を据えた。
若衆に取寄せさせた、調度を控えて、島の柳に
纜った頃は、そうでもない、
汀の
人立を遮るためと、用意の紫の幕を垂れた。「神慮の鯉魚、
等閑にはいたしますまい。略儀ながら
不束な田舎料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直って
真魚箸を構えた。
||釵は鯉の腹を光って出た。
||竜宮へ往来した釵の玉の
鸚鵡である。
「太夫様
||太夫様。」
ものを言おうも知れない。
|| とばかりで、二声聞いたように思っただけで、何の
気勢もしない。
風も
囁かず、公園の
暗夜は寂しかった。
「太夫様。」
「太夫様。」
うっかり釵を、またおさえて、
「
可厭だ、今度はお前さんたちかい。」
十
||水のすぐれ覚ゆるは、
西天竺の
白鷺池、
じんじょうきょゆうにすみわたる、
昆明池の水の色、
行末久しく
清むとかや。
「お待ち。」
紫玉は耳を
澄した。道の露芝、曲水の汀にして、さらさらと音する
流の底に、聞きも知らぬ三味線の、沈んだ、陰気な調子に合せて、
微に唄う声がする。
「
||坊さんではないかしら
······」
紫玉は胸が
轟いた。
あの
漂泊の芸人は、鯉魚の神秘を
視た紫玉の身には、もはや、うみ汁のごとく、
唾、
涎の臭い乞食坊主のみではなかったのである。
「
······あの、三味線は、」
夜陰のこんな場所で、もしや、と思う時、
掻消えるように音が
留んで、ひたひたと小石を
潜って響く水は、忍ぶ
跫音のように聞える。
紫玉は立留まった。
再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、
||日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿ことごとしや、
何処にて舞いて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、
一歳百日の
旱の候いけるに、
賀茂川、
桂川、
水瀬切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候いけるに、
|| 聞くものは耳を澄まして袖を合せたのである。
||有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、
仁王経を講じ奉らば、八大竜王も
慈現納受たれ給うべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を
請じ、仁王経を講ぜられしかども、その
験もなかりけり。また
或人申しけるは、容顔美麗なる
白拍子を、百人めして、
|| 「御坊様。」
今は疑うべき心も
失せて、御坊様、と呼びつつ、紫玉が暗中を
透して、声する
方に、
縋るように寄ると思うと、
「
燈を消せ。」
と、
蕭びたが力ある声して言った。
「
提灯を
······」
「は、」と、返事と息を、はッはッとはずませながら、一度
消損ねて、
慌しげに吹消した。玉野の手は震えていた。
||百人の白拍子をして舞わせられしに、九十九人舞いたりしに、その験もなかりけり。
静一人舞いたりとても、竜神
示現あるべきか。
内侍所に召されて、
禄おもきものにて候にと申したりければ、とても
人数なれば、ただ舞わせよと仰せ下されければ、静が舞いたりけるに、しんむしょうの曲という白拍子を、
|| 燈を消すと、あたりがかえって
朦朧と、薄く鼠色に
仄めく向うに、石の
反橋の欄干に、
僧形の墨の
法衣、灰色になって、
蹲るか、と視れば欄干に
胡坐掻いて唄う。
橋は心覚えのある石橋の
巌組である。気が着けば、あの、かくれ滝の音は遠くどうどうと鳴って、風のごとくに響くが、
掠れるほどの糸の
音も乱れず、唇を合すばかりの唄も遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って、坊主頭を、がく、と
俯向けて唄うので、
頸を
抽いた
転軫に
掛る手つきは、鬼が角を
弾くと言わば
厳めしい、むしろ黒猫が居て顔を洗うというのに適する。
||なから舞いたりしに、
御輿の
岳、
愛宕山の
方より黒雲にわかに
出来て、
洛中にかかると見えければ、
|| と唄う。
······紫玉は腰を折って地に低く居て、弟子は、その
背後に
蹲んだ。
||八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、さてこそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を
給りけると、承り候。
|| 時に唄を
留めて黙った。
「太夫様。」
余り尋常な、ものいいだったが、
「は、」と、
呼吸をひいて答えた紫玉の、
身動ぎに、帯がキと擦れて鳴ったほど、深く身に響いて聞いたのである。
「
癩坊主が、ねだり言を
肯うて、千金の釵を棄てられた。その
心操に感じて、
些細ながら、礼心に
密と内証の事を申す。
貴女、雨乞をなさるが
可い。
||天の時、地の利、人の和、まさしく時節じゃ。
||ここの大池の中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。
······袴、
練衣、
烏帽子、
狩衣、
白拍子の姿が
可かろう。衆人めぐり見る中へ、その姿をあの島の柳の上へ高く
顕し、大空へ向って拝をされい。
祭文にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を
遣り、
雷を放ち、雨を
漲らすは、明午を過ぎて
申の上刻に
分豪も相違ない。国境の山、赤く、黄に、
峰岳を重ねて
爛れた奥に、白蓮の花、玉の
掌ほどに白く
聳えたのは、
四時に雪を頂いて幾万年の
白山じゃ。貴女、時を計って、その
鸚鵡の釵を抜いて、山の
其方に向って
翳すを合図に、雲は竜のごとく
湧いて出よう。
||なおその上に、
可いか、名を挙げられい。
······」
||賢人の釣を垂れしは、
厳陵瀬の河の水。
月影ながらもる夏は、
山田の
筧の水とかや。
||······ 十一
翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒くなって人が湧いた。
煉瓦を
羽蟻で包んだような
凄じい群集である。
かりに、鎌倉殿としておこう。この
······県に
成上の豪族、色好みの男爵で、
面構も
風采も
巨頭公によう似たのが、
劇興行のはじめから他に手を貸さないで紫玉を
贔屓した、既に
昨夜もある処で一所になる約束があった。その
間の時間を、紫玉は微行したのである。が、思いも掛けない出来事のために、大分の
隙入をしたものの、船に飛んだ鯉は、そのよしを言づけて初穂というのを、氷詰めにして、紫玉から鎌倉殿へ
使を走らせたほどなのであった。
|| 車の通ずる処までは、もう自動車が来て待っていて、やがて、相会すると、ある時間までは附添って差支えない女弟子の口から、
真先に予言者の不思議が漏れた。
一議に及ばぬ。
その
夜のうちに、池の島へ
足代を組んで、朝は早や法壇が調った。無論、略式である。
県社の神官に、故実の詳しいのがあって、神燈を調え、
供饌を捧げた。
島には鎌倉殿の
定紋ついた
帷幕を
引繞らして、威儀を正した
夥多の神官が詰めた。紫玉は、さきほどからここに控えたのである。
あの、底知れずの水に浮いた御幣は、やがて壇に登るべき
立女形に対して
目触りだ、と逸早く
取退けさせ、
樹立さしいでて蔭ある水に、例の
鷁首の船を
泛べて、半ば紫の幕を絞った
裡には、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、勲位の人々が、杯を置いて
籠った。
||雨乞に参ずるのに、杯をめぐらすという故実は聞かぬが、しかし事実である。
伶人の奏楽一順して、ヒュウと
簫の
音の虚空に響く時、柳の葉にちらちらと
緋の
袴がかかった。
群集は波を
揉んで
動揺を打った。
あれに
真白な足が、と疑う、緋の袴は一段、
階に
劃られて、
二条の
紅の霞を
曳きつつ、上紫に下
萌黄なる、蝶鳥の
刺繍の
狩衣は、緑に透き、葉に
靡いて、柳の中を、するすると、容顔美麗なる白拍子。紫玉は、色ある月の風情して、一千の花の
燈の影、百を数うる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
花火の中から、天女が
斜に流れて出ても、群集はこの時くらい驚異の念は起すまい。
烏帽子もともにこの装束は、織ものの模範、美術の
表品、源平時代の参考として、かつて博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いずれ
什物であった。
さて、遺憾ながら、この晴の舞台において、紫玉のために記すべき
振事は更にない。
渠は学校出の女優である。
が、姿は天より
天降った
妙に
艶なる乙女のごとく、国を囲める、その赤く黄に
爛れたる
峰岳を貫いて、高く柳の間に
懸った。
紫玉は
恭しく三たび
虚空を拝した。
時に、
宮奴の
装した
白丁の下男が一人、露店の
飴屋が張りそうな、渋の
大傘を畳んで肩にかついだのが、法壇の根に
顕れた。
||これは
怪しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を
害って、どうやら
華魁の道中じみたし、雨乞にはちと行過ぎたもののようだった。が、何、降るものと
極れば、雨具の用意をするのは賢い。
······加うるに、紫玉が
被いだ装束は、貴重なる
宝物であるから、
驚破と言わばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であった。
||さればこそ、このくらい、注意の役に立ったのはあるまい。
|| あわれ、身のおき処がなくなって、紫玉の
裾が法壇に崩れた時、「
状を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込め。」
||わッと群集の騒いだ時、
······堪らぬ、と飛上って、紫玉を
圧えて、
生命を取留めたのもこの下男で、同時に狩衣を
剥ぎ、緋の袴の紐を
引解いたのも
||鎌倉殿のためには
敏捷な、忠義な
奴で
||この下男である。
雨はもとより、風どころか、
余の人出に、大池には
蜻蛉も飛ばなかった。
十二
時を見、程を計って、紫玉は始め、実は法壇に立って、数万の群集を
足許に低き波のごとく
見下しつつ、
昨日通った坂にさえ蟻の伝うに似て
押覆す
人数を望みつつ、
徐に雪の
頤に結んだ紫の
纓を解いて、
結目を胸に、烏帽子を背に掛けた。
それから伯爵の釵を抜いて、意気込んで一振り振ると、
······黒髪の
颯と
捌けたのが烏帽子の金に裏透いて、さながら
金屏風に名誉の絵師の、松風を墨で流したようで、雲も竜もそこから湧くか、と
視められた。
||これだけは工夫した女優の所作で、手には
白金が
匕首のごとく輝いて、
凄艶比類なき風情であった。
さてその
鸚鵡を空に
翳した。
紫玉の

った
瞳には、
確に天際の
僻辺に、美女の
掌に似た、白山は、白く清く映ったのである。
毛筋ほどの雲も見えぬ。
雨乞の雨は、いずれも後刻の事にして、そのまま壇を
降ったらば無事だったろう。ところが、遠雷の音でも聞かすか、暗転にならなければ、舞台に
馴れた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、
目前鯉魚の神異を見た、怪しき僧の暗示と
讖言を信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の袖のように白山の眉に飜るであろうと信じて、しばしを待つ
間を、法壇を二廻り三廻り緋の袴して輪に
歩行いた。が、これは鎮守の
神巫に似て、しかもなんば、という足どりで、少なからず威厳を損じた。
群集の思わんほども
憚られて、
腋の下に
衝と冷き汗を覚えたのこそ、天人の
五衰のはじめとも言おう。
気をかえて
屹となって、もの忘れした
後見に
烈しくきっかけを渡す
状に、紫玉は虚空に向って伯爵の鸚鵡を投げた。が、あの
玩具の竹蜻蛉のように、
晃々と高く舞った。
「
大神楽!」
と
喚いたのが第一番の半畳で。
一人口火を切ったから堪らない。練馬大根と言う、おかめと喚く。雲の
内侍と呼ぶ、雨しょぼを踊れ、と怒鳴る。水の輪の拡がり、嵐の狂うごとく、聞くも堪えない
讒謗罵詈は
雷のごとく
哄と沸く。
鎌倉殿は、船中において
嚇怒した。
愛寵せる女優のために群集の無礼を憤ったのかと思うと、
||そうではない。この、好色の豪族は、
疾く雨乞の
験なしと見て取ると、日の
昨の、短夜もはや半ばなりし
紗の
蚊帳の
裡を想い出した。
······ 雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。
「
漕げ。」
紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。
一度、駆下りようとした紫玉の
緋裳は、この船の激しく襲ったために、一度引留められたものである。
「
············」
と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、
白丁に豆烏帽子で
傘を担いだ
宮奴は、島のなる幕の下を
這って、ヌイと
面を出した。
すぐに
此奴が法壇へ飛上った、その
疾さ。
紫玉がもはや、と思い切って池に飛ぼうとする処を、
圧えて、そして
剥いだ。
女の身としてあらりょうか。
あの、雪を
束ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あわれな
状は、月を祭る供物に似て、非ず、
旱魃の鬼一口の
犠牲である。
ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわっと泣いた。
赤ら顔の大入道の、首抜きの浴衣の尻を、七のずまで引めくったのが、苦り切ったる顔して、つかつかと、
階を踏んで上った、
金方か何ぞであろう、芝居もので。
肩をむずと取ると、
「何だ、
状は。小町や
静じゃあるめえし、増長しやがるからだ。」
手の裏かえす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日に裂けかかる氷のような
練絹の、紫玉のふくよかな胸を、
酒焼の胸に
引掴み、
毛脛に挟んで、
「立たねえかい。」
十三
「
口惜しい!」
紫玉は
舷に
縋って身を震わす。
||真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる
睡蓮のごとく
漾いつつ。
「口惜しいねえ。」
車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に
歩行みもならず、
||金方の計らいで、
||万松亭という
汀なる料理店に、とにかく
引籠る事にした。紫玉はただ
引被いで打伏した。が、金方は油断せず。弟子たちにも旨を含めた。で、次場所の興行かくては面白かるまいと、やけ酒を
煽っていたが、酔倒れて、それは寝た。
料理店の、あの亭主は、心
優いもので、
起居にいたわりつ、慰めつ、で、これも注意はしたらしいが、深更のしかも夏の
夜の
戸鎖浅ければ、
伊達巻の
跣足で忍んで出る
隙は多かった。
生命の
惜からぬ身には、操るまでの造作も要らぬ。小さな
通船は、胸の悩みに、身もだえするままに
揺動いて、
萎れつつ、乱れつつ、根を絶えた小船の花の面影は、昼の空とは世をかえて、
皓々として
雫する月の露吸う力もない。
「ええ、口惜しい。」
乱れがみを

りつつ、手で、砕けよ、とハタと舷を打つと
······時の
間に
痩せた指は細くなって、右の手の四つの指環は明星に
擬えた
金剛石のをはじめ、
紅玉も、
緑宝玉も、スルリと抜けて、きらきらと、
薄紅に、浅緑に皆水に落ちた。
どうでもなれ、左を試みに振ると、青玉も黄玉も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、
······竜の口は、水の輪に舞う処である。
ここに残るは、名なればそれを
誇として、指にも髪にも飾らなかった、紫の玉ただ一つ。
||紫玉は、中高な顔に、深く月影に透かして
差覗いて、
千尋の
淵の
水底に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干と、あれ、森の
梢の
白鷺の影さえ宿る、
櫓と、窓と、
楼と、美しい
住家を
視た。
「ぬしにもなって、この、この田舎のものども。」
縋る波に力あり、しかと引いて水を
掴んで、池に
倒に身を投じた。
爪尖の沈むのが、釵の
鸚鵡の白く羽うつがごとく、月光に
微に光った。
「御坊様、貴方は?」
「ああ、山国の
門附芸人、誇れば、魔法つかいと言いたいが、いかな、さまでの事もない。
昨日から御目に掛けた、あれは手品じゃ。」
坊主は、欄干に
擬う
苔蒸した
井桁に、
破法衣の腰を掛けて、
活けるがごとく爛々として
眼の輝く青銅の竜の
蟠れる、
角の枝に、
肱を安らかに笑みつつ言った。
「私に、何のお
怨みで?
······」
と息せくと、
眇の、ふやけた
目珠ぐるみ、片頬を
掌でさし
蔽うて、
「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆえに、恥入るか、もの
嫉みをして、前芸をちょっと
遣った。
······さて時に承わるが太夫、
貴女はそれだけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞をせよ、と言わば、すぐに
優伎の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな。」
紫玉は
巌に
俯向いた。
「それで通るか、いや、さて、都は気が広い。
||われらの手品はどうじゃろう。」
「ええ、」
と仰いで顔を
視た時、紫玉はゾッと身に
沁みた、腐れた坊主に不思議な恋を知ったのである。
「貴方なら、貴方なら
||なぜ、さすろうておいで遊ばす。」
坊主は両手で顔を
圧えた。
「面目ない、われら、ここに、高い貴い処に恋人がおわしてな、雲霧を隔てても、その
御足許は動かれぬ。や!」
と、
慌しく身を
退ると、
呆れ顔してハッと手を拡げて立った。
髪黒く、色雪のごとく、
厳しく正しく
艶に気高き
貴女の、繕わぬ姿したのが、すらりと入った。月を
頸に掛けつと見えたは、
真白な
涼傘であった。
膝と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、白やかなる
手尖を軽く、彼が肩に置いて、
「私を
打ったね。
||雨と水の世話をしに出ていた時、
······」
装は違った、が、幻の目にも、面影は、浦安の宮、石の
手水鉢の稚児に、寸分のかわりはない。
「姫様、
貴女は。」
と坊主が言った。
「白山へ帰る。」
ああ、その剣ケ峰の雪の池には、竜女の姫神おわします。
「お馬。」
と坊主が呼ぶと、スッと畳んで、
貴女が地に落した涼傘は、
身震をしてむくと起きた。手まさぐりたまえる緋の
総は、たちまち
紅の手綱に
捌けて、朱の
鞍置いた白の
神馬。
ずっと
騎すのを、
轡頭を
曳いて、トトトト
||と坊主が出たが、
「
纏頭をするぞ。それ、
錦を着て
行け。」
かなぐり脱いだ
法衣を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添い、
紺碧なる
巌の
聳つ
崕を、
翡翠の
階子を乗るように、
貴女は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、
渺茫たる
広野の中をタタタタと
蹄の
音響。
蹄を流れて雲が
漲る。
······ 身を投じた紫玉の助かっていたのは、
霊沢金水の、巌窟の奥である。うしろは五十万坪と
称うる練兵場。
紫玉が、ただ沈んだ
水底と思ったのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であった。
|| 雨を得た市民が、白身に
破法衣した女優の芸の徳に対する新たなる
渇仰の
光景が見せたい。
大正九(一九二〇)年一月