「
||鱧あみだ
仏、はも仏と唱うれば、
鮒らく世界に生れ、
鯒へ鯒へと
請ぜられ
······仏と
雑魚して居べし。されば
······干鯛貝らいし、真経には、
蛸とくあのく
鱈||」
······時節柄を
弁えるがいい。
蕎麦は二銭さがっても、このせち辛さは、明日の糧を思って、
真面目にお念仏でも唱えるなら格別、「蛸とくあのく鱈。」などと愚にもつかない
駄洒落を
弄ぶ、と、こごとが出そうであるが、本篇に必要で、酢にするように切離せないのだから、しばらく御海容を願いたい。
「
······干鯛かいらいし
······ええと、蛸とくあのく鱈、三百三もんに買うて、
鰤菩薩に参らする
||ですか。とぼけていて、ちょっと
愛嬌のあるものです。ほんの一番だけ、あつきあい下さいませんか。」
こう、つれに誘われて、それからの話である。「蛸とくあのくたら。」しかり、これだけに対しても、三百三もんがほどの
価値をお認めになって、
口惜い事はあるまいと思う。
つれは、毛利
一樹、という
画工さんで、多分、
挿画家協会会員の中に、芳名が
列っていようと思う。私は、当日、
小作の
挿画のために、場所の実写を
誂えるのに同行して、
麻布我善坊から、
狸穴辺
||化けるのかと、すぐまたおなかまから苦情が出そうである。が、
憚りながらそうではない。我ながらちょっとしおらしいほどに思う。かつて少年の頃、師家の玄関番をしていた折から、美しいその令夫人のおともをして、某子爵家の、前記のあたりの別荘に、栗を拾いに来た。拾う栗だから申すまでもなく
毬のままのが多い。別荘番の貸してくれた鎌で、山がかりに出来た庭裏の、まあ、谷間で。御存じでもあろうが、あれは
爪先で
刺々を軽く
圧えて、
柄を
手許へ引いて
掻く。
······不器用でも、これは書生の方がうまかった。令夫人は、
駒下駄で圧えても転げるから、
褄をすんなりと、白い足袋はだし、それでも、がさがさと針を
揺り、歯を
剥いて
刎ねるから、憎らしい
······と足袋もとって、雪を
錬りものにしたような素足で、
裳をしなやかに、
毬栗を挟んでも、ただすんなりとして、露に褄もこぼれなかった。
||この
趣を写すのに、
画工さんに同行を願ったのである。これだと、どうも、そのまま浮世絵に任せたがよさそうに思われない事もない。が、そうすると、さもしいようだが、作者の方が飯にならぬ。そッとして置く。
もっとも三十年も以前の思出である。もとより別荘などは影もなくなった。が、狸穴、我善坊の辺だけに、引潮のあとの
海松に似て、樹林は土地の隅々に残っている。餅屋が構図を飲込んで、スケッチブックを懐に納めたから、ざっと用済みの処、そちこち日暮だ。
······大和田は程遠し、ちと
驕りになる
······見得を云うまい、これがいい、これがいい。長坂の
更科で。我が一樹も可なり
飲ける、二人で四五本傾けた。
時は
盂蘭盆にかかって、下町では草市が立っていよう。もののあわれどころより、雲を掻裂きたいほど蒸暑かったが、何年にも通った事のない、十番でも切ろうかと、曾我ではなけれど気が合って
歩行き出した。坂を下りて、一度ぐっと低くなる
窪地で、途中街燈の光が途絶えて、鯨が寝たような黒い道があった。鳥居坂の
崖下から、
日ヶ窪の辺らしい。
一所、板塀の曲角に、白い
蝙蝠が
拡ったように、
比羅が一枚
貼ってあった。一樹が立留まって、繁った
樫の陰に、表町の淡い
燈にすかしながら、その「
||干鯛かいらいし
||······蛸とくあのくたら
||」を言ったのである。
「
魚説法、というのです
||狂言があるんですね。時間もよし、この横へ入った処らしゅうございますから。」
すぐ角を曲るように、樹の枝も指せば、おぼろげな番組の末に
箭の標示がしてあった。古典な能の狂言も、社会に、
尖端の
簇を飛ばすらしい。けれども、五十歩にたりぬ向うの辻の柳も射ない。のみならず、矢竹の墨が、ほたほたと太く、
蓑の毛を羽にはいだような形を見ると、古俳諧にいわゆる
||狸を
威す
篠張の弓である。
これもまた
······面白い。
「おともしましょう、望む処です。」
気競って言うまで、私はいい心持に酔っていた。
「通りがかりのものです。
······臨時に見物をしたいと存じますのですが。」
「望む所でございます。」
と、式台正面を横に、
卓子を控えた、受附世話方の四十年配の男の、紋附の
帷子で、
舞袴を
穿いたのが、さも歓迎の意を表するらしく
気競って言った。これは私たちのように、
酒気があったのでは決してない。
切符は五十銭である。第一、順と見えて、六十を越えたろう、
白髪のお
媼さんが
下足を預るのに、二人分に、
洋杖と蝙蝠傘を添えて、これが無料で、
蝦蟇口を
捻った一樹の心づけに、手も触れない。
この世話方の、おん袴に対しても、
||(たかが半円だ、ご免を被って大きく出ておけ。)
||軽少過ぎる。
卓子を並べて、謡本少々と、扇子が並べてあったから、ほんの松の葉の寸志と見え、一樹が宝生雲の空色なのを譲りうけて、その一本を私に渡し、
「いかが。」
「これも望む処です。」
つい私は
莞爾した。
扇子店の真上の
鴨居に、当夜の番組が
大字で出ている。私が一わたり読み取ったのは、
唯今の塀下ではない、ここでの事である。合せて五番。中に能の仕舞もまじって、序からざっと覚えてはいるが
||狸の口上らしくなるから一々は記すまい。必要なのだけを言おう。
必要なのは
||魚説法
||に続く三番目に、
一、
茸、(くさびら。)
||鷺、玄庵
||の曲である。
道の事はよくは知らない。しかし鷺の姿は、近ごろ狂言の
流に影は映らぬと聞いている。古い隠居か。むかしものの
物好で、
稽古を積んだ巧者が居て、その人たち、言わば素人の催しであろうも知れない。狸穴近所には
相応しい。が、私のいうのは流儀の事ではない。曲である。
この、茸
|| 慌しいまでに、一樹が狂言を見ようとしたのも、
他のどの番組でもなく、ただこれあるがためであろう、と思う
仔細がある。あたかも一樹が、扇子のせめを切りながら、片手の指のさきで軽く乳のあたりと思う胸をさすって、返す指で、左の目を
圧えたのを見るにつけても。
······ 一樹を知ったほどのもので、
画工さんの、この癖を認めないものはなかろう。ちょいと内証で、人に知らせないように
遣る、この
早業は、しかしながら、礼拝と、愛撫と、謙譲と、しかも
自恃をかね、色を沈静にし、目を清澄にして、胸に、一種深き人格を秘したる、珠玉を
偲ばせる
表顕であった。
こういううちにも、舞台
||舞台は二階らしい。
||一間四面の堂の施主が、
売僧の魚説法を憤って、
「
||おのれ何としょうぞ
||」
「
||打たば打たしめ、
棒鱈か
太刀魚でおうちあれ
||」
「
||おのれ、また
打擲をせいでおこうか
||」
「
||ああ、いかな、かながしらも
堪るものではない
||」
「
||ええ、苦々しいやつかな
||」
「
||いり
海老のような顔をして、
赤目張るの
||」
「
||さてさて憎いやつの
||」
相当の役者と見える。声が玄関までよく通って、その間に見物の
笑声が、どッと響いた。
「さあ、こちらへどうぞ、」
「
憚り様。」
階子段は広い。
||先へ立つ世話方の、あとに続く一樹、と並んで、私の上りかかる処を、あがり口で世話方が片膝をついて、留まって、「ほんの仮舞台、諸事不行届きでありまして。」
挨拶するのに、段を
覗込んだ。その頭と、下から出かかった頭が二つ
······妙に並んだ形が、早や横正面に舞台の松と、橋がかりの一二三の松が、人波をすかして、揺れるように近々と見えるので
······ややその松の中へ、次の番組の茸が土を
擡げたようで、余程おかしい。
······いや、
高砂の浦の想われるのに対しては、むしろ、むくむくとした松露であろう。
その景色の上を、追込まれの坊主が、
鰭のごとく、キチキチと
法衣の
袖を
煽って、
「
||こちゃただ
飛魚といたそう
||」
「
||まだそのつれを言うか
||」
「
||飛魚しょう、飛魚しょう
||」
と揚幕へ宙を飛んだ
||さらりと落す、幕の
隙に、古畳と
破障子が
顕われて、消えた。
······思え、講釈だと、水戸黄門が竜神の
白頭、
床几にかかり、
奸賊紋太夫を抜打に切って棄てる場所に
······伏屋の建具の見えたのは、どうやら
寂びた貸席か、出来合の倶楽部などを仮に使った興行らしい。
見た処、大広間、六七十畳、舞台を二十畳ばかりとして、見物は一杯とまではない、が
賑であった。
この暑さに、五つ紋の羽織も脱がない、行儀の正しいのもあれば、浴衣で腕まくりをしたのも居る。
||裾模様の貴婦人、ドレスの令嬢も見えたが、近所居まわりの長屋連らしいのも少くない。
印半纏さえも入れごみで、席に
劃はなかったのである。
で、
階子の欄干際を縫って、案内した世話方が、
「あすこが透いております。
······どうぞ。」
と云った。脇正面、橋がかりの松の前に、肩膝を透いて、
毛氈の
緋が流れる。色紙、短冊でも並びそうな、おさらいや場末の
寄席気分とは、さすが
品の違った座をすすめてくれたが、裾模様、背広連が、多くその席を占めて、切髪の後室も二人ばかり、白襟で控えて、
金泥、銀地の舞扇まで開いている。
われら式、
······いや、もうここで結構と、すぐその欄干に
附着いた板敷へ席を取ると、
更紗の
座蒲団を、両人に当てがって、
「
涼い事はこの辺が一等でして。」
と世話方は階子を下りた。が、ひどく蒸暑い。
「御免を被って。」
「さあ、脱ぎましょう。」
と、こくめいに畳んで持った、
手拭で汗を
拭いた一樹が、羽織を脱いで
引くるめた。
······羽織は、まだしも、世の中一般に、頭に
被るものと
極った
麦藁の、安値なのではあるが夏帽子を、居かわり立直る客が
蹴散らし、
踏挫ぎそうにする
······ また幕間で、人の
起居は忙しくなるし、あいにく
通筋の板敷に席を取ったのだから
堪らない。膝の上にのせれば、
跨ぐ。敷居に置けば、蹴る、脇へずらせば踏もうとする。
「ちょッ。」
一樹の
囁く処によれば、こうした能狂言の客の不作法さは、場所にはよろうが、芝居にも、映画場にも、場末の寄席にも比較しようがないほどで。男も女も、立てば、
座ったものを
下人と心得る、すなわち
頤の下に人間はない気なのだそうである。
中にも、こども服のノーテイ少女、モダン仕立ノーテイ少年の、
跋扈跳梁は
夥多しい。
······ おなじ少年が、しばらくの間に、一度は膝を
跨ぎ、一度は脇腹を小突き、三度目には腰を蹴つけた。目まぐろしく
湯呑所へ通ったのである。
一樹が、あの、指を胸につけ、その指で、左の目をおさえたと思うと、
「
毬栗は果報ものですよ。」
私を見て
苦笑しながら、羽織でくるくると夏帽子を包んで、みしと言わせて、尻にかって、投膝に組んで
掌をそらした。
「がきに踏まれるよりこの方がさばさばします。」
何としても、これは
画工さんのせいではない
||桶屋、鋳掛屋でもしたろうか?
······静かに
||それどころか!
······震災
前には、十六七で、
渠は博徒の小僧であった。
||家、いやその長屋は、
妻恋坂下||明神の崖うらの穴路地で、二階に
一室の
古屋だったが、物干ばかりが新しく
突立っていたという。
|| これを聞いて、かねて、知っていたせいであろう。おかしな事には、いま私たちが
寄凭るばかりにしている、この欄干が、まわりにぐるりと板敷を取って、
階子壇を長方形の大穴に抜いて、押廻わして、しかも新しく切立っているので、はじめから、たとえば毛利一樹氏、自叙伝中の妻恋坂下の物見に似たように思われてならなかったのである。
「
||これはこのあたりのものでござる
||」
藍の
長上下、黄の
熨斗目、小刀をたしなみ、
持扇で、舞台で名のった
||脊の低い、肩の四角な、堅くなったか、
癇のせいか、首のやや
傾いだアドである。
「
||某が屋敷に、当年はじめて、何とも知れぬくさびらが生えた
||ひたもの取って捨つれども、
夜の間には生え生え、幾たび取ってもまたもとのごとく生ゆる、かような不思議なことはござらぬ
||」
鷺玄庵、シテの出る前に、この話の必要上、一樹
||本名、
幹次郎さんの、その妻恋坂の時分の事を言わねばならぬ。はじめ、別して酔った時は、幾度も
画工さんが話したから、私たちはほとんどその言葉通りといってもいいほど覚えている。が、名を知られ、売れッこになってからは、
気振りにも出さず、事の一端に触れるのをさえ避けるようになった。苦心談、立志談は、往々にして、その反対の意味の、自己
吹聴と、陰性の自讃、卑下高慢になるのに気附いたのである。談中
||主なるものは、
茸で、
渠が番組の茸を
遁げて、
比羅の、
蛸のとあのくたらを説いたのでも、ほぼ不断の態度が知れよう。
但し、以下の
一齣は、かつて、一樹、幹次郎が話したのを、ほとんどそのままである。
「
||その年の残暑の激しさといってはありませんでした。内中皆
裸体です。六畳に三畳、二階が六畳という浅間ですから、開放しで皆見えますが、近所が近所だから、そんな事は平気なものです。
||色気も
娑婆気も沢山な
奴等が、たかが暑いくらいで、そんな
状をするのではありません。実はまるで衣類がない。
||これが寒中だと、とうの昔凍え死んで、こんな口を利くものは、貴方がたの前に消えてしまっていたんでしょうね。
男はまだしも、
婦もそれです。ご
新姐||いま時、妙な呼び方で。
······主人が
医師の出来損いですから、出来損いでも奥さん。
······さしあたってな
小博打が
的だったのですから、
三下の
潜りでも、姉さん。
||話のついでですが、裸の中の大男の尻の黄色なのが主人で、汚れた
畚褌をしていたのです、褌が畚じゃ、
姉ごとは行きません。それにした処で、
姉さんとでも云うべき処を、ご新姐
||と皆が呼びましたのは。
|| 万世橋向うの
||町の
裏店に、もと洋服のさい取を
萎して、あざとい碁会所をやっていた
||金六、ちゃら金という、
野幇間のような
兀のちょいちょい顔を出すのが、ご新姐、ご新姐という、それがつい、口癖になったんですが。
||膝股をかくすものを、腰から
釣したように、乳を包んだだけで。
······あとはただ
真白な
······冷い
······のです。冷い、と
極めたのは妙ですけれども、飢えて
空腹くっているんだから、夏でも火気はありますまい。
死ぎわに熱でも出なければ
||しかし、若いから、そんなに
痩せ細ったほどではありません。中肉で、脚のすらりと、
小股のしまった、
瓜ざね顔で、鼻筋の通った、目の
大い、無口で、それで、ものいいのきっぱりした、少し言葉尻の上る、声に歯ぎれの
嶮のある、しかし、気の優しい、私より四つ五つ年上で
||ただうつくしいというより
仇っぽい
婦人だったんです。何しろその体裁ですから、すなおな髪を
引詰めて
櫛巻でいましたが、生際が薄青いくらい、襟脚が透通って、
日南では消えそうに、おくれ毛ばかり
艶々として、涙でしょう、濡れている。悲惨な事には、水ばかり飲むものだから、
身籠ったようにかえってふくれて、下腹のゆいめなぞは、乳の下を
縊ったようでしたよ。
空腹にこたえがないと、つよく
紐をしめますから、男だって。
······ お雪さん
||と言いました。その大切な乳をかくす古手拭は、
膚に合った綺麗好きで、腰のも一所に、ただ洗いただ洗いするんですから、
油旱の炎熱で、銀粉のようににじむ汗に、ちらちらと
紗のように
靡きました。これなら干ぼしになったら、すぐ羽にかわって欄間を飛ぶだろうと思ったほどです。いいえ、天人なぞと、そんな
贅沢な。裏長屋ですもの、くさばかげろうの幽霊です。
その手拭が、娘時分に、踊のお
温習に配ったのが、
古行李の底かなにかに残っていたのだから、あわれですね。
千葉だそうです。千葉の町の大きな料理屋、
万翠楼の姉娘が、今の主人の、その頃医学生だったのと間違って。
······ただ、それだけではないらしい。学生の癖に、悪く、商売人じみた、はなを引く、
賭碁を打つ。それじゃ退学にならずにいません。佐原の出で、なまじ故郷が近いだけに、外聞かたがた東京へ
遁出した。姉娘があとを追って遁げて来て
||料理屋の方は、もっとも継母だと聞きましたが
||帰れ、と云うのを、男が離さない。女も情を立てて帰らないから、両方とも、親から勘当になったんですね、親類義絶
||つまるところ。
一枚、畚褌の上へ
引張らせると、脊は高し、幅はあり、
風采堂々たるものですから、まやかし病院の代診なぞには持って来いで、あちこち雇われもしたそうですが、
脉を引く前に、顔の
真中を見るのだから、身が持てないで、その目下の始末で。
······ 変に物干ばかり新しい、妻恋坂下へ落ちこぼれたのも、洋服の
月賦払の
滞なぞから
引かかりの
知己で。
||町の、右の、ちゃら金のすすめなり、後見なり、ご新姐の
仇な処をおとりにして、碁会所を看板に、
骨牌賭博の
小宿という、もくろみだったらしいのですが、碁盤の
櫓をあげる前に、長屋の城は落ちました。どの道落ちる城ですが、その没落をはやめたのは、
慾にあせって、怪しい
企をしたからなんです。
質の出入れ
||この質では、ご新姐の蹴出し
······縮緬のなぞはもう
疾くにない、青地のめりんす、と短刀
一口。数珠一
聯。千葉を遁げる時からたしなんだ、いざという時の
二品を添えて、何ですか、三題話のようですが、
凄いでしょう。
······事実なんです。貞操の
徴と、女の生命とを預けるんだ。
||(何とかじゃ築地へ
帰られねえ。)
||何の事だかわかりませんがね、そういって番頭を
威かせ、と言いつかった通り、私が(一樹、幹次郎、自分をいう。)
使に行ったんです。
冷汗を流して、談判の結果が三分、科学的に数理で
顕せば、七十と五銭ですよ。
お雪さんの身になったらどうでしょう。じか肌と、自殺を質に入れたんですから。自殺を質に入れたのでは、死ぬよりもつらいでしょう。
|| ||当時、そういった様子でしてね。質の使、
笊でお
菜漬の買ものだの、
······これは酒よりは
香が利きます。
||はかり炭、
粉米のばら銭買の使いに廻らせる。
||わずかの縁に
縋ってころげ込んだ苦学の小僧、(再び、一樹、幹次郎自分をいう。)には、よくは、様子は分らなかったんですが、
||ちゃら金の方へ、
鴨がかかった。
||そこで、心得のある、ここの
主人をはじめ、いつもころがり込んでいる、なかまが二人、一人は検定試験を十年来落第の中老の才子で、近頃はただ
一攫千金の投機を
狙っています。一人は、今は小使を志願しても間に合わない、慢性の政治狂と、
三個を、紳士、旦那、博士に仕立てて、さくら、というものに使って、鴨を
剥いで、骨までたたこうという
企謀です。
前々から、ちゃら金が、ちょいちょい来ては、昼間の
廻燈籠のように、二階だの、
濡縁だの、薄羽織と、
兀頭をちらちらさして、ひそひそと相談をしていましたっけ。
当日は、小僧に一包み衣類を
背負わして
||損料です。
黒絽の五つ紋に、おなじく鉄無地のべんべらもの、くたぶれた帯などですが、足袋まで身なりが出来ました。そうは
資本が続かないからと、政治家は、セルの着流しです。そのかわり、この方は山高帽子で
||おやおや忘れた
||鉄無地の旦那に
被せる帽子を。
······そこで、小僧のを脱がせて、鳥打帽です。
||覚えていますが、その時、ちゃら金が、ご新姐に、手づくりのお惣菜、
麁末なもの、と重詰の
豆府滓、
······卯の花を
煎ったのに、
繊の
生姜で小気転を利かせ、酢にした
鰯で気前を見せたのを一重。
||きらずだ、
繋ぐ、
見得がいいぞ、
吉左右! とか言って、腹が
空いているんですから、五つ紋も、仙台
平も、手づかみの、がつがつ
喰。
······ で、それ以来
||事件の起りました、とりわけ暑い日になりますまで、ほとんど誰も腹に
堪るものは食わなかったのです。
||······つもっても知れましょうが、講談本にも、探偵ものにも、映画にも、名の出ないほどの悪徒なんですから、その、へまさ加減。一つ穴のお
螻どもが、反対に鴨にくわれて、でんぐりかえしを打ったんですね。
······夜になって、炎天の
鼠のような、目も口も開かない、どろどろで帰って来た、三人のさくらの半間さを、ちゃら金が、いや怒るの怒らないの。
······儲けるどころか、
対手方に大分の
借が出来た、さあどうする。
······で、損料
······立処に損料を
引剥ぐ。中にも落第の投機家なぞは、どぶつで汗ッかき、おまけに
脚気を煩っていたんだから、このしみばかりでも
痛事ですね。その時です、
······洗いざらい、お雪さんの、蹴出しと、数珠と、短刀の
人身御供は
|| まだその上に、
無慙なのは、
四歳になる男の
児があったんですが、口癖に
||おなかがすいた
||おなかがすいた
||と唱歌のように
唱うんです。
(
||かなしいなあ
||)
お雪さんは、その、きっぱりした響く声で。
······どうかすると、雨が降過ぎても、
(
||かなしいなあ
||)
と云う一つ癖があったんです。尻上りに、うら悲しい
······やむ事を得ません、得ませんけれども、悪い癖です。心得なければ
不可ませんね。
幼い時聞いて、
前後うろ覚えですが、私の故郷の昔話に、(
椿ばけ
||ばたり。)農家のひとり子で、生れて口をきくと、(椿ばけ
||ばたり。)と
唖の一声ではないけれども、いくら叱っても治らない。弓が上手で、のちにお城に、もののけがあって、国の
守が
可恐い
変化に悩まされた時、自から進んで出て、奥庭の大椿に向っていきなり矢を
番えた。(椿ばけ
||ばたり。)と切って放すと、枝も葉も
萎々となって、ばたり。で、国のやみが
明くなった
||そんな意味だったと思います。言葉は気をつけなければ
不可ませんね。
食不足で、ひくひく煩っていた男の
児が七転八倒します。私は方々の
医師へ駆附けた。が、一人も来ません。お雪さんが、抱いたり、
擦ったり、半狂乱でいる処へ、右の、ばらりざんと敗北した落武者が
這込んで来た始末で
······その悲惨さといったらありません。
食あたりだ。
医師のお父さんが、診察をしたばかりで、
薮だからどうにも出来ない。あくる朝なくなりました。きらずに煮込んだ
剥身は、小指を食切るほどの
勢で、私も二つ三つおすそわけに預るし、皆も食べたんですから、看板の

のせいです。幾月ぶりかの、お魚だから、大人は、坊やに譲ったんです。その癖、出がけには、坊や、晩には玉子だぞ。お土産は電車だ、と云って出たんですのに。
|| お雪さんは、歌磨の絵の
海女のような姿で、
鮑||いや小石を、そッと拾っては、鬼門をよけた
雨落の下へ、積み積みしていたんですね。
(
||かなしいなあ
||)
めそめそ泣くような
質ではないので、石も、日も、少しずつ積りました。
||さあ、その残暑の、朝から、
旱りつけます中へ、
端書が来ましてね。
||落目もこうなると、めったに手紙なんぞ
覗いた事のないのに、至急、と朱がきのしてあったのを覚えています。ご新姐あてに、千葉から荷が着いている。お届けをしようか、受取りにおいで下さるか、という両国辺の運送問屋から来たのでした。
品物といえば釘の折でも、
屑屋へ売るのに
欲い処。
······返事を出す端書が買えないんですから、配達をさせるなぞは思いもよらず
······急いで取りに行く。この
使の小僧ですが、二日ばかりというもの、かたまったものは、
漬菜の切れはし、黒豆一粒入っていません。ほんとうのひもじさは、話では言切れない、あなた方の腹がすいたは、都合によってすかせるのです。いいえ、何も喧嘩をするのじゃありません、おわかりにならんと思いますから、よしますが。
もっとも、その前日も、
金子無心の使に、芝の
巴町附近
辺まで遣られましてね。出来ッこはありません。勿論、往復とも
徒歩なんですから、
帰途によろよろ目が
眩んで、ちょうど、一つ橋を出ようとした時でした。
午砲!
||あの音で腰を抜いたんです。土を
引掻いて起上がる始末で、人間もこうなると浅間しい。
······行暮れた旅人が灯をたよるように、山賊の
棲でも、いかさま碁会所でも、
気障な奴でも、路地が曲りくねっていても、何となく
便る気が出て。
||町のちゃら金の店を覗くと、出窓の処に、忠臣蔵の雪の夜討の炭部屋の
立盤子を飾って、碁盤が二三台。客は居ません。ちゃら金が、碁盤の前で、何だか古い帳面を繰っておりましたっけ。(や、お入り。)金歯で呼込んで、家内が留守で
蕎麦を取る処だ、といって、一つ食わしてくれました。もり蕎麦は、滝の荒行ほど、どっしりと身にこたえましたが、そのかわり、ご新姐
||お雪さんに、(おい、ごく
内証だぜ。)と云って、手紙を
托けたんです。
菫色の横封筒
······いや、どうも、その癖、言う事は古い。(いい加減に
常盤御前が身のためだ。)とこうです。どの道そんな蕎麦だから、伸び過ぎていて、ひどく
中毒って、
松住町辺をうなりながら歩くうちに、どこかへ落してしまいましたが。
||今度は、どこで倒れるだろう。さあ使いに行く。着るものは
|| 私の田舎の叔母が一枚送ってくれた
単衣を、病人に着せてあるのを
剥ぐんです。その臭さというものは。
······とにかく妻恋坂下の穴を出ました。
こんなにしていて、どうなるだろう。
櫓のような物干を見ると、ああ、いつの間にか、そこにも片隅に、小石が積んであるんです。何ですか、明神様の森の空が、雲で
真暗なようでした。
鰻屋の神田川
||今にもその頃にも、まるで
知己はありませんが、あすこの前を向うへ抜けて、大通りを
突切ろうとすると、あの黒い雲が、聖堂の森の方へと
馳ると思うと、頭の上にかぶさって、上野へ
旋風を
捲きながら、灰を流すように降って来ました。ひょろひょろの小僧は、叩きつけられたように、向う側の絵草紙屋の
軒前へ駆込んだんです。濡れるのを
厭いはしません。吹倒されるのが
可恐かったので、柱へつかまった。
一軒隣に、焼芋屋がありましてね。またこの路地裏の道具屋が、私の、東京ではじめて
草鞋を脱いだ場所で、泊めてもらった。しかもその日、晩飯を食わせられる時、道具屋が、めじの刺身を
一臠箸で挟んで、鼻のさきへぶらさげて、東京じゃ、これが一皿、じゃあない、一臠、
若干金につく。
······お前たちの二日分の
祭礼の小遣いより高い、と云って聞かせました。
||その時以来、腹のくちい、という味を知らなかったのです。しかし、ぼんやり
突立っては、よくこの店を
覗いたものです。
||横なぐりに吹込みますから、古風な店で、半分
蔀をおろしました。暗くなる
······薄暗い中に、
颯と風に
煽られて、
媚めかしい
婦の
裙が燃えるのかと思う、あからさまな、
真白な大きな腹が、
蒼ざめた顔して、宙に
倒にぶら下りました。
······御存じかも知れません、
芳年の月百姿の中の、
安達ヶ原、縦絵
二枚続の
孤家で、店さきには遠慮をする
筈、別の絵を
上被りに伏せ込んで、窓の柱に掛けてあったのが、
暴風雨で帯を引裂いたようにめくれたんですね。ああ、吹込むしぶきに、肩も
踵も、わなわな震えている。
······ 雨はかぶりましたし、裸のご新姐の身の上を思って
······」
(
||語ってここを言う時、その胸を撫でて、目を押える、ことをする。)
「まぶたを
溢れて、鼻柱をつたう大粒の涙が、唇へ甘く濡れました。甘い涙。
||いささか
気障ですが、うれしい悲しいを通り越した、辛い涙、渋い涙、鉛の涙、男女の
思迫った、そんな味は覚えがない、ひもじい時の、芋の涙、豆の涙、
餡ぱんの涙、
金鍔の涙。ここで甘い涙と申しますのは。
||結膜炎だか、のぼせ目だか、何しろ弱り目に
祟り目でしょう。左の目が
真紅になって、渋くって、辛くって困りました時、お雪さんが、乳を絞って、つぎ込んでくれたのです。
(
||かなしいなあ
||)
走りはしません、ぽたぽたぐらい。
一人児だから、時々飲んでいたんですが、食が少いから
涸れがちなんです。私を
仰向けにして、横合から胸をはだけて、
······まだ
袷、お雪さんの肌には
微かに
紅の
気のちらついた、春の末でした。目をはずすまいとするから、弱腰を
捻って、
髷も
鬢もひいやりと額にかかり
······白い半身が逆になって見えましょう。
······今時
······今時
······そんな古風な、療治を、
禁厭を、するものがあるか、とおっしゃいますか。ええ、おっしゃい。そんな事は、まだその頃ありました、精盛薬館、
一二を、掛売で談ずるだけの、余裕があっていう事です。
このありさまは、ちょっと物議になりました。
主人の留守で。二階から覗いた投機家が、容易ならぬ沙汰をしたんですが、若い燕だか、小僧の蜂だか、そんな
詮議は、飯を食ったあとにしようと、徹底した空腹です。
それ以来、涙が甘い。いまそのこぼれるにつけても、さかさに釣られた
孤家の女の乳首が目に入って来そうで、従って、ご新姐の身の上に、いつか、おなじ事でもありそうでならなかった。
||予感というものはあるものでしょうか。
その日の
中に、果しておなじような事が起ったんです。
||それは受取った荷物
······荷は
籠で、
茸です。
初茸です。そのために事が起ったんです。
通り雨ですから、すぐに、
赫と、まぶしいほどに日が照ります。甘い涙の
飴を
嘗めた
勢で、あれから秋葉ヶ原をよろよろと、佐久間町の
河岸通り、みくら橋、左衛門橋。
||とあの辺から両側には
仕済した店の深い問屋が続きますね。その中に
||今思うと船宿でしょう。天井に網を揃えて掛けてあるのが見えました。故郷の市場の雑貨店で、これを扱うものがあって、私の
祖父||地方の狂言師が食うにこまって、手内職にすいた出来上がりのこの網を、
使で持って行ったのを思い出して
||もう国に帰ろうか
||また涙が出る。とその涙が甘いのです。餅か、団子か、お雪さんが待っていよう。
(一銭五厘です。端書代が立替えになっておりますが。)
(つい、あの、持って来ません。)
(
些細な事ですが、店のきまりはきまりですからな。)
年の
少い手代は、そっぽうを向く。小僧は、げらげらと笑っている。
(貸して下さい。)
(お貸し申さないとは申しませんが。)
(このしるしを置いて行きます。貸して下さい。)
私は汗じみた手拭を、
懐中から
||空腹をしめていたかどうかはお察し下さい
||懐中から出すと、手代が一代の逸話として、よい経験を得たように、しかし、
汚らしそうに、
撮んで
拡げました。
(よう!)と
反りかえった掛声をして、
(みどり屋、ゆき。
||荷は千葉と。
||ああ、万翠楼だ。
······医師と
遁げた、この
別嬪さんの使ですかい、きみは。
······ぼくは店用で行って知ってるよ。
······果報ものだね、きみは。
······可愛がってくれるだろう。雪白肌の
透綾娘は、ちょっと浮気ものだというぜ。)
と言やあがった
······ その透綾娘は、手拭の
肌襦袢から透通った、肩を落して、裏の三畳、濡縁の柱によっかかったのが、その姿ですから、くくりつけられでもしたように見えて、ぬの一重の膝の上に、
小児の絵入雑誌を拡げた、あの赤い絵の具が、腹から血ではないかと、ぞっとしたほど、さし
俯向いて、顔を両手でおさえていました。
||やっと小僧が帰った時です。
||(来たか、荷物は。)
と二階から、力のない、鼻の
詰った
大な声。
(初茸ですわ。)
と、きっぱりと、投上げるように、ご新姐が返事をすると、
(あああ、
銭にはならずか
||食おう。)
と、また途方もない声をして、
階子段一杯に、
大な男が、
褌を
真正面に
顕われる。続いて、足早に
刻んで下りたのは、政治狂の黒い
猿股です。ぎしぎしと音がして、青黄色に膨れた、投機家が、豚を一匹、まるで吸った
蛭のように、ずどうんと腰で
摺り、欄干に、よれよれの
兵児帯をしめつけたのを力綱に
縋って、ぶら下がるように
楫を取って下りて来る。
脚気がむくみ上って、もう歩けない。
小児のつかった、おかわを二階に上げてあるんで、そのわきに
西瓜の皮が転がって、
蒼蠅が
集っているのを
視た時ほど、
情ない思いをした事は余りありません。その二階で、三人、何をしているかというと、はなをひくか、あの、泥石の紙の盤で、碁を打っていたんですがね。
欠けた瀬戸火鉢は一つある。けれども、煮ようたって
醤油なんか思いもよらない。焼くのに、炭の
粉もないんです。政治狂が便所わきの
雨樋の朽ちた奴を
······一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く
······握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿しましたっけ。古新聞で火をつけて、金網をかけました。処で、火気は当るまいが、
溢出ようが、皆
引掴んで頬張る気だから、二十ばかり
初茸を一所に載せた。残らず、
薄樺色の笠を
逆に、白い軸を立てて、
真中ごろのが、じいじい音を立てると、
······青い
錆が茸の声のように浮いて動く。
(塩はどうした。)
(ござんせん。)
(
魚断、
菜断、
穀断と、
茶断、
塩断······こうなりゃ
鯱立ちだ。)
と、
主人が、どたりと寝て、両脚を大の字に開くと、
(あああ、待ちたまえ、
逆になった方が、いくらか
空腹さが
凌げるかも知れんぞ。経験じゃ。)
と政治狂が、柱へ、うんと
搦んで、尻を立てた。
(ぼくは、はや、この方が楽で、もう遣っとるが。)
と、水浸しの丸太のような、脚気の足を、
襖の
破れ桟に、ぶくぶくと掛けている。
(幹もやれよ。)
と
主人が、尻で
尺蠖虫をして、足をまた
突張って、
(成程、気がかわっていい、茸は焼けろ、こっちはやけだ。)
その挙げた足を、どしんと、お雪さんの肩に乗せて、柔かな
細頸をしめた時です。
(ああ、ひもじいを
逆にすれば、おなかが、くちいんだわね。)
と
真俯向けに、頬を畳に、足が、空で一つに、ひたりとついて、白鳥が目を眠ったようです。
ハッと思うと、私も、つい、脚を天井に向けました。
||その目の前で、
(男は意気地がない、ぐるぐる廻らなくっちゃあ。)
名工のひき刀が線を青く刻んだ、小さな雪の
菩薩が一体、くるくると二度、三度、六地蔵のように廻る
······濃い
睫毛がチチと瞬いて、
耳朶と、
咽喉に、薄紅梅の血が
潮した。
(初茸と一所に焼けてしまえばいい。)
脚気は
喘いで、白い舌を
舐めずり、政治狂は、目が黄色に光り、
主人はけらけらと笑った。皆逆立ちです。そして、お雪さんの言葉に
激まされたように、ぐたぐたと肩腰をゆすって、
逆に、のたうちました。
ひとりでに、頭のてっぺんへ流れる涙の
中に、網の初茸が、同じように、むくむくと、笠軸を動かすと、私はその下に、燃える火を思った。
皆、
咄嗟の間、ですが、その、廻っている乳が、ふわふわと浮いて、滑らかに白く、一列に並んだように思う
······(心配しないでね。)
と
莞爾していった、お雪さんの
言が、
逆だから、(お
遁げ、
危い。)と、いうように聞えて、その白い菩薩の列の、一番
框へ近いのに
||導かれるように、自分の頭と足が
摺って出ると、我知らず声を立てて、わッと泣きながら
遁出したんです。
路地口の石壇を飛上り、雲の峰が立った空へ、桟橋のような、妻恋坂の土に突立った、この時ばかり、なぜか超然として
||博徒なかまの小僧でない。
||ひとり気が
昂ると一所に、足をなぐように、腰をついて倒れました。」
天地震動、
瓦落ち、石崩れ、壁落つる、血煙の
裡に、一樹が我に返った時は、もう屋根の中へ屋根がめり込んだ、目の下に、その物干が
挫げた三徳のごとくになって
||あの辺も火は
疾かった
||燃え上っていたそうである。
これ
||十二年九月一日の大地震であった。
「それがし、
九識の窓の前、妙乗の床のほとりに、
瑜伽の法水を
湛え
||」
時に、舞台においては、シテなにがし。
||山の草、
朽樹などにこそ、あるべき茸が、人の
住う屋敷に、所嫌わず
生出づるを忌み悩み、ここに、法力の
験なる山伏に、
祈祷を頼もうと、橋がかりに向って呼掛けた。これに応じて、山伏が、まず揚幕の
裡にて謡ったのである。が、鷺玄庵と聞いただけでも、思いも寄らない、若く
艶のある、しかも取沈めた声であった。
幕
||揚る。
||「
||三密の月を澄ます所に、
案内申さんとは、
誰そ。」
すらすらと歩を移し、露を払った
篠懸や、
兜巾の
装は、弁慶よりも、
判官に、むしろ新中納言が山伏に
出立った
凄味があって、且つ色白に美しい。一二の松も影を
籠めて、
袴は霧に乗るように、三密の声は朗らかに且つ陰々として、月清く、風白し。
化鳥の調の
冴えがある。
「ああ、婦人だ。
······鷺流ですか。」
私がひそかに聞いたのに、
「さあ。」
一言いったきり、一樹が
熟と
凝視めて、見る見る顔の色がかわるとともに、二度ばかり続け様に、胸を
撫でて目をおさえた。
先を急ぐ。
······狂言はただあら筋を言おう。舞台には茸の数が十三出る。が、実はこの怪異を
祈伏せようと、三山の法力を用い、秘密の
印を結んで、いら高の数珠を
揉めば揉むほど、
夥多しく一面に生えて、次第に数を増すのである。
茸は
立衆、いずれも、見徳、
嘯吹、
上髭、思い思いの面を
被り、
括袴、
脚絆、腰帯、
水衣に包まれ、揃って、笠を被る。塗笠、
檜笠、竹子笠、
菅の笠。松茸、椎茸、とび茸、おぼろ編笠、名の知れぬ、
菌ども。笠の形を、見物は、心のままに
擬らえ候え。
「
||あれあれ、」
女山伏の、優しい声して、
「思いなしか、茸の軸に、目、鼻、手、足のようなものが見ゆる。」
と言う。
詞につれて、如法の茸どもの、目を
剥き、舌を吐いて
嘲けるのが、憎く毒々しいまで、山伏は
凛とした
中にもかよわく見えた。
いくち、しめじ、
合羽、坊主、熊茸、
猪茸、
虚無僧茸、のんべろ茸、生える、
殖える。蒸上り、
抽出る。
······地蔵が化けて月のむら雨に
托鉢をめさるるごとく、影
朧に、のほのほと並んだ時は、陰気が、
緋の
毛氈の座を圧して、金銀のひらめく
扇子の、秋草の、露も砂子も暗かった。
女性の山伏は、いやが上に美しい。
ああ、窓に稲妻がさす。胸がとどろく。
たちまち、この時、鬼頭巾に武悪の面して、極めて毒悪にして、邪相なる大茸が、傘を半開きに
翳し、みしと
面をかくして
顕われた。しばらくして、この傘を大開きに開く、鼻を
嘯き、
息吹きを放ち、毒を嘯いて、「取て
噛もう、取て噛もう。」と躍りかかる。取着き
引着き、十三の茸は、アドを、なやまし、
嬲り嬲り、山伏もともに追込むのが
定であるのに。
||「あれへ、毒々しい半びらきの
菌が出た、あれが開いたらばさぞ
夥多しい事であろう。」
山伏の
言につれ、
件の
毒茸が、二の松を押す時である。
幕の
裙から、ひょろりと出たものがある。
切禿で、白い袖を着た、色白の、丸顔の、あれは、いくつぐらいだろう、
這うのだから二つ三つと思う弱々しい女の子で、かさかさと
衣ものの膝ずれがする。
菌の領した
山家である。舞台は、山伏の気が
籠って、
寂としている。ト、今まで、誰一人ほとんど
跫音を立てなかった処へ、屋根は熱し、天井は蒸して、吹込む風もないのに、かさかさと聞こえるので、
九十九折の山路へ、一人、
篠、熊笹を分けて、
嬰子の
這出したほど、思いも掛けねば無気味である。
ああ、山伏を見て、口で、ニヤリと笑う。
悚然とした。
「鷺流?」
這う子は早い。
谿河の水に枕なぞ流るるように、ちょろちょろと出て、山伏の
裙に
絡わると、あたかも毒茸が傘の
轆轤を
弾いて、驚破す、取て
噛もう、とあるべき処を、
||「焼き食おう!」
と、山伏の、いうと
斉しく、手のしないで、数珠を
振って、ぴしりと打って、不意に
魂消て、傘なりに、毒茸は膝をついた。
返す手で、
「焼きくおう。焼きくおう。」
鼻筋鋭く、頬は
白澄む、黒髪は
兜巾に乱れて、
生競った茸の、のほのほと並んだのに、
打振うその数珠は、空に
赤棟蛇の飛ぶがごとく
閃いた。が、いきなり居すくまった茸の一つを、山伏は
諸手に掛けて、すとんと、笠を下に、
逆に立てた。二つ、三つ、四つ。
|| 多くは子方だったらしい。恐れて、
魅せられたのであろう。
長上下は、脇座にとぼんとして、ただ首の横ざまに傾きまさるのみである。
「一樹さん。」
真蒼になって、
身体のぶるぶると震う一樹の袖を取った、私の手を、その
帷子が、落葉、いや、茸のような触感で
衝いた。
あの世話方の顔と
重って、五六人、揚幕から。切戸口にも、楽屋の
頭が
覗いたが、ただ目鼻のある茸になって、いかんともなし得ない。その二三秒時よ。稲妻の瞬く間よ。
見物席の少年が二三人、足袋を空に、
逆になると、膝までの
裙を
飜して
仰向にされた少女がある。マッシュルームの類であろう。大人は、立構えをし、
遁身になって、声を詰めた。
私も立とうとした。あの舞台の下は火になりはしないか。地震、と欄干につかまって、目を返す、森を隔てて、
煉瓦の
建もの、教会らしい
尖塔の雲端に、稲妻が蛇のように縦にはしる。
静寂、深山に似たる時、這う子が火のつくように、山伏の
裙を取って泣出した。
トウン
||と、足拍子を踏むと、膝を敷き、落した肩を左から
片膚脱いだ、淡紅の薄い
肌襦袢に膚が透く。眉をひらき、瞳を澄まして、向直って、
「幹次郎さん。」
「覚悟があります。」
つれに対すると、客に会釈と、一度に、左右へ
言を切って、一樹、幹次郎は、すっと出て、一尺ばかり舞台の端に、女の
褄に片膝を乗掛けた。そうして、一度
押戴くがごとくにして、ハタと両手をついた。
「かなしいな。
······あれから、今もひもじいわ。」
寂しく
微笑むと、
掻いはだけて、雪なす胸に、ほとんど
玲瓏たる乳が玉を
欺く。
「御覧なさい
||不義の子の罰で、五つになっても足腰が立ちません。」
「うむ、
起て。
······お起ち、私が起たせる。」
と、かッきと、腕にその泣く子を取って、一樹が腰を引立てたのを、
添抱きに胸へ抱いた。
「この豆府娘。」
と
嘲りながら、さもいとしさに堪えざるごとく言う下に、
「若いお父さんに骨をお貰い。母さんが血をあげる。」
俯向いて、我と我が口にその乳首を含むと、ぎんと
白妙の
生命を絞った。ことこと、ひちゃひちゃ、骨なし子の血を吸う音が、舞台から響いた。が、子の口と、母の胸は、見る見る紅玉の
柘榴がこぼれた。
颯と色が薄く澄むと
||横に倒れよう
||とする、反らした指に
||茸は残らず這込んで消えた
||塗笠を拾ったが、
「お客さん
||これは人間ではありません。
||紅茸です。」
といって、顔をかくして、倒れた。顔はかくれて、両手は十ウの
爪紅は、世に散る
卍の白い
痙攣を起した、お雪は乳首を
噛切ったのである。
一昨年の事である。この子は、母の乳が、肉と血を与えた。いま一樹の手に、ふっくりと、且つ健かに育っている。
不思議に、一人だけ
生命を助かった女が、震災の、あの
劫火に追われ追われ、縁あって、玄庵というのに助けられた。その
妾であるか、娘分であるかはどうでもいい。老人だから、楽屋で急病が起って、踊の
手練が、見真似の舞台を勤めたというので、よくおわかりになろうと思う。何、何、なぜ、それほどの
容色で、酒場へ出なかった。とおっしゃるか? それは困る、どうも弱ったな。一樹でも分るまい。なくなった、みどり屋のお雪さんに
······お聞き下さい。
昭和五(一九三○)年九月