エヽ講談の方の読物は、多く記録、其の
他古書
等、多少
拠のあるものでござりますが、浄瑠璃や落語人情噺に至っては、
作物が多いようでござります。段々種を探って見ると詰らぬもので、
彼の浄瑠璃で名高いお染久松のごときも、実説では久松が十五、お染が
三歳であったというから、
何うしても浮気の出来よう道理がござりませぬ。久松が十五の時、主人の娘お染を桂川の
辺で遊ばせて居る
中に、つい
過ってお染を川の中へ落したから御主人へ申訳がない、何うかして助けにゃならぬと思ったものか、久松も続いて飛込むと、
游泳を知らなかったからついそれ切りとなった。これを種にしてお染久松という
質店の浄瑠璃が出来ましたものでござります。又大阪の今宮という処に心中があった時に、
或狂言作者が
巧にこれを
綴り、標題を
何としたら
宜かろうかと色々に考えたが、何うしても工夫が附きませぬ、そこで
三好松洛の
許へ行って、
「なんとこれ迄に
拵えたが、
外題を何とつけたらよかろう」
「いやお前のように、そんなに
凝っちゃアいけませぬ、
寧そ手軽く『心中話たった今宮』と仕たらようござりましょう」
「成程」
と
直に右の
通の外題にして
演ると大層に当ったという話がある。その真似をして
林家正藏という怪談師が、
今戸に心中のあった時に『たった今戸心中噺』と標題を置き拵えた
怪談が
大して評が
好かったという事でござります。この闇夜の梅と題するお話は、戯作物などとは事違い、全く
私が聞きました事実談でござります。
えゝ、浅草に
三筋町と申す所がある。是も縁で、三筋町があるから、其の側に三味線堀というのがあるなどは誠におかしい、それゆえ
生駒というお
邸があるんだなんぞは、
後から拵えたものらしい。
下谷があるから上野があって、側に
仲町がありまして
上中下と
揃って
居る。縁というものは何う考えても不思議なもので、
腕尽にも
金尽にも及ばぬものだというが、これは左様かも知れませぬ、まア呉服屋などで、
不図地機の
好い、お値段も
恰好な
反物を見附けたから買おうと思って
懐中へ手を入れて見ると、
金子が少々足りないから、一旦立ち帰り、
金子の用意をして再び来ると、誠にお気の毒様でござりますが、
貴方がお帰りになると、直に入らしったお方が見せて呉れと
仰しゃいまして、
到頭其の方の方へ
縁附になりました。いやそれは残念な事をした、もうあゝいうのはありませぬか。へい、あれは二百反の
中二反だけ
別機であったのですから、もう
外にはござりませぬ。それでは仕方がない、縁がなかったのだろう。と諦めてしまうと、時
経ってから不意と田舎などから、自分が買いたいと思った品とそっくりな反物を貰う事などがある。又お
馴染の芸者でも、
生憎買おうと思った晩外にお約束でもあれば逢う事は出来ませぬ。又
金子を沢山
懐中に入れて芝居を観ようと思って行っても、爪も立たないほどの
大入で、
這入り
所がなければ観る事は出来ませぬ。だから縁の無い事は金尽にも力尽にもいかぬもので、ましてや夫婦の縁などと来ては
尚更重い事で、人間の了簡で自由に出来るものではござりませぬ。
えゝ浅草の三筋町
||俗に
桟町という所に、
御維新前まで甲州屋と申す
紙店がござりました。
主人は先年みまかりまして、お杉という後家が
家督を踏まえて
居る。お嬢さんは今年十七になって、名をお梅と云って、近所では評判の
別嬪でござります。番頭、手代、小僧、下女、下男等
数多召使い、何暗からず立派に暮して居りました。すると
子飼から
居る
粂之助というもの、今では立派な手代となり、誠に優しい
性質で、其の上
美男でござります。嬢さんも最早
妙齢ゆえ、
良い
聟があったらば取りたいものと、お
母さんは大事がって少しも側を離さないようにして置きましたが、どうも仕方がないもので、ある晩のことお母さんが不図目を覚まして見ると娘が居ない。
「はてな、
何処へ行ったか知らん、
手水に行ったならもう帰りそうなものだが」
と思ったが
何時まで経っても戻って来ない。
母「はてな嬢ももう年頃、外に何も苦労になる事はないが、店の手代の粂之助は子飼からの馴染ゆえ大層仲が
好いようだが、事によったら深い
贔屓にでもしていはせぬか知ら」
とお母さんが始めて気が付いたけれども、気の付きようが遅かったから、もう間に合いませぬ。これが馬鹿のお母さんなら
直に起き上って
紙燭でも
点し、から/\方々を開け散かして、「此の
娘は何うしたんだよ」なんて呶鳴って騒ぐんだが、
沈着いた方だから
其様な
蓮葉な真似はしない、いきなり
長羅宇の
煙管で
灰吹をポン/\と叩いた。深夜のことゆえピーンと響いたから、お嬢さんは
恟りいたし、そっと
抜足をして便所へ参り、ギーイ、バタンと便所から出たような音ばかりさせて、ポチャ/\/\と水をかけて手を洗い、何喰わぬ顔をして其の晩は寝てしまった。
翌朝になると、お母さんが直に
鳶頭を呼びにやって、右の話をいたし、
一時粂之助の
暇を取って貰いたいと云う。鳶頭も承知をして立帰った後で、
主婦「粂や、粂」
粂「へい」
主婦「あのお前のう、ちょいと
鳥越の鳶頭の処まで行ってくんな、用は
行きさえすれば解る
·········私がそういったから来ましたといえば解るんだよ」
粂「へい
畏りました」
何だか
理由は解らぬが、粂之助は直に
抱の鳶頭の処へやって来まして、
粂「へい
今日は」
鳶「いや、お
上んなさい、
宜いからまアお上んなさい、ずうっと二階へ、
梯子が危のうがすよ、おいお
民、粂どんに上げるんだから
好い茶を入れなよ、なに、何か茶うけがあるだろう、
羊羹があった筈だ、あれを切んなよ、チョッ不精な奴だな、
折の
葢の上で切れるもんか、
爼板を持って来なくっちゃアいかねえ、厚く切んなよ、薄っぺらに切ると旨くねえから、
己が持って来いてったら直に持って来な、
宜いか、話の
真最中はんまな時分に持って来ちゃアいけねえぜ」
トン/\/\と梯子を
上って、
鳶「へ、
今日は」
粂「
何んだかね鳶頭、お
内儀さんが、鳶頭の処へ
行きさえすれば解るから、行って来いと仰しゃいましたから参りました」
鳶「それは
何うもお忙がしい処をお呼び立て申して済みませんね、粂どん実は
斯ういう話だ、今朝ねお内儀さんから私へお人だ、何だろうと思って
直に出掛けてってお目にかゝると、奥の六畳へ通して長々と昔噺が始まったんだ、鳶頭お前がまだ年の
行かねえ時分から
当家へ
出入をするねと仰しゃるから、左様でござえます、
長え間色々お世話になりますんで、なに
其様な事は何うでも
宜いが、旦那が死んで今年で四年になるし、私も段々年を取るし、お梅ももう十七になる、来年は歳廻りが
良いから
何様な者でも聟を取ったらよかろうと話をすると、いつでも娘が
厭がる、
他人様から、斯ういう
良い聟がありますと申込んでも厭がるもんだから、
他人が色々な事を云って困る、
妙齢の娘が聟を取るのを厭がるには、何か
理由があるんだろう、なにそれは店の手代に粂之助という
好い男があるから事に
依ったらあの好い男と
仔細でもありはしないか、と云いもしまいが、ひょっとして其様なことを云われた日には、世間の口にゃア戸が
閉てられねえ、ねえ鳶頭、と斯うお内儀さんがいうのだ、してみると何かお前さんとお嬢さまとあやしい
情交にでもなっているように
私の耳には聞えるんだ、
宜うがすかい、それから、誠に何うもそれは御心配なことでというと、お内儀さんの仰しゃるには、粂之助も小さい時分から長く勤めて居たから、
能く気心も知れて居るが、何分今
直に
何う
斯うという訳にも
往かず、
捨て置いて
失策でも出来るといけねえから、一と
先ず
谷中の
兄さんの方へ連れて行って、時節を待ったら宜かろう、其の
中にはまた出入をさせる事もあるじゃアねえか、と斯う仰しゃるのだ、うむ、それから、なんだ斯ういう事も云った、何分
宅の奉公人や何かの口がうるせえから、
一時そういう事にするんだが、
仮令他人が
何といおうと、私の為にはたった一人の娘だから、同じ取るなら娘の気に入った聟を取って、
初孫の顔を見たいと云うのが親の
情合じゃアねえか、娘が
強って
彼でなければならないといえば、私には気に入らんでも、娘の好いた聟を取って其の若夫婦に私は
死水を取って貰う気だが、鳶頭何うだろう、と仰しゃるのだ、お内儀さんの
思召では、一時お
前さんに暇を出して、世間でぐず/\いわねえようにしちまって、それから良い里を拵えて、ずうっと表向きお
前さんを聟にして、死水を取って貰おうてえお心持があるんだから、粂どん早まっちゃアいけねえよ、宜うがすか、お内儀さんには、色々
深え思召があるんだから、
私も大旦那のお
若え時分、まだ
糸鬢奴の時分から、甲州屋のお店へ出入りをしてえて、お
前さんとも古い馴染だが、今度来やアがった番頭ね、
彼奴が悪い奴なんだ、いろ/\胡麻を
摺りやアがって仕様がねえからお内儀さんも心配をしていらっしゃるんだが、ねえ粂どん」
粂「ヘエ、承知いたしました」
鳶「でね、
何にもいわず、少し兄の方に用事が出来ましたからお
暇を願います、長々
御厄介になりました、と
斯ういって
廉をいわずにお
暇を取っちまう方が
好い、いろ/\くど/\しく
詫なんぞを仕ちゃア
可けねえよ」
粂「ヘエ、
畏りました、何うも誠に面目次第もござりませぬ」
とおろ/\泣きながら、粂之助が帰りまして、
粂「ヘエ、只今」
内儀「あい粂か、
此方へお這入り、好いよ遠慮をしないでも
·········先刻、鳶頭が来たから
四方山の話をして置いたが、何うだい
能くお前の胸に落ち入ったかい、何も
是れという
越度の無いお前に暇を出すといったら、
如何にも
酷い主人のようにお思いかも知らないが、これはお前の為だよ、お前も小さい時分にいたから、何だか私も子のような心持がして誠に
可愛く思うが、何分世間の口が面倒だから暇を出すのだけれども、又縁があれば一旦
主従となったのだもの、出入の出来ないことは無いから、まあ/\気を長く、
兄さんの処におとなしくしているが好い、軽はずみな心を出して、こんな淋しいお寺なんぞにいられるものかって、ふいと
何処かへ姿を隠すような事でもあられると、どんなに案じられるか知れないから、ようく心を落着けて時節を待ってゝ呉れなくちゃア私が困るよ」
粂「ヘエ、有難うございます、誠に何うも面目次第もございませぬ」
内儀「さ、早く行くが好い、何時までも
此処にいると面倒だから、谷中のお寺へ行ったら能く兄さんのいう事を聴いて、身体を大事にして時節の来るのを待っていなよ」
粂「ヘエ有難う存じます」
と
袂から
手拭を取出し、涙を拭いながら店へ出て来ると、番頭は粂之助が
暇になって好い気味だと喜んで居る。
粂「えゝ、番頭さん、私は唯今お
暇になりまして谷中の兄の方へ参りますから、何分お店の事をよろしく願います」
番頭「左様じゃげな、
根から
些とも知らんかったが、何う云う
理由で粂之助がお暇になりますかと云うて、
私も色々言葉を尽してお詫をしたが、なか/\お聴き
容れがない、お前方が知った
事ちゃない、
此様に云われるで何うにも仕ようがないじゃて、
併し何うも気の毒な
事ちゃな、
根から、全体
商人はお前の性分に合わぬのじゃから、
却て谷中のお寺へ
行きなはった方が心が
沈着いて
宜いやろう」
粂「ヘエ有難う、何うも長々お世話さまでございました、お店の方も段々忙しくなりますから、人が
殖えなければならぬ処を少なくなるんですから、何分
宜しくお頼み申します、あの
定吉どんは
何処かへ
行きましたか」
番頭「いや今
其処に居ったッけ、定吉イ定吉」
定「おや粂どん、今お前さんを探しに表へ出ましたが、
貴方はお
暇になりましたてえから、何ういう
理由だろうと聞いても解らないんですが、本当に何うもお気の毒さまで」
粂「お前と私とは別段仲が
好かったから、お前に別れるのは誠に辛いけれども、
拠ない事があってお暇になったのだが、私が居なくなると番頭さんに無理な小言をいわれても、誰も詫びてくれるものがないから、お前も能く気を附けて叱られないように御奉公を大事にするんだよ」
定「ヘエ有難う、お前さんが
下るくらいなら私も下った方がようございます、幾ら私がいる気でも、
外の者は、みんな意地が悪くって居られませぬもの、
其ん中でも、
新次郎どんなどは、しんねりむっつりの嫌な人で、私が寝てえると焼芋の皮なんぞを
態と置いて、そうしてお内儀さんが朝
暖簾の
処から顔を出して、さ、
皆起きなよと仰しゃる時に新どんの意地悪が、あの昨晩定吉が寝ながら焼芋を食べましたなんて嘘ばかり
吐いて人を叱らせるんですもの、そうすると番頭さんが私の尻を
捲って、定規板でピシャ/\
撲るんですもの、痛くて
堪りゃアしませんや、
此間も
宿下りの時お
母さんにそういったんです、お内儀さんもお嬢さんも粂どんも
皆善い方だけれども、ほかの者は残らず意地が悪くって辛抱が出来ないてえと、そんな事をいうものじゃアない、それが身の
修行だから、我慢をしなくっちゃアいけないと云われますから、粂どんがおいでなさる間は辛抱が出来る、粂どんは大層私を可愛がっておくんなすって、何かおいしい物があると、お蔵の棚へ
内証で取っといておくんなすって、ちょいと出し物があるから蔵まで一緒に行っておくれって連れてって、さ、お食べってカステラ巻だの
何だのを食べさせて下すったり、お小遣をおくんなすったりして、本当に優しくして下さるよと
然ういったら、
母親が涙ぐんで、あゝ有難いことだ、そういうお方が
在らっしゃるのはお前が奉公の出来る
瑞相だから、何でもその方をしくじらないように
為なくっちゃア
可けない、その方の御機嫌を損ねるとお店にはいられないから、どんな無理なことを仰しゃってもいう事を聴くんだよといいました」
粂「早く
彼方へお出で、何時までも
此処にいると又叱られるから」
定「ヘエ、今行きます」
粂「
清助どんは何うしたえ」
定「今物置に
薪を積直して居ましたっけ」
粂「ちょいと清助どんにも
暇乞をして行こう」
定「じゃア私も一緒に行きましょう」
粂「清助どん、何うも長々お世話になりました」
清「おゝ粂どんか、今ね
己が聞いたんだ、おさきどんがの話に、今日急に粂どんがお
暇になったてえから、己ハアほんとうに
魂消ただ、何でもこれは番頭野郎の策略に
違えねえ、
彼奴は厭に意地が悪くって、何かお
前様を追出させるように
巧んだに違え
無えだ、本当にあのくれえ憎らしい野郎も無えもんだ、ちょいと何一つくれるんでもお
前さんと番頭とではこう違うだ、こんな物は
己ア
嫌えだ、お
前も嫌えかも知れねえが喰うなら喰ってくんろ、勿体ねえからってお
前さんは
旨え物をくれるだが、番頭野郎は自分がそれ程に好かねえもんでも惜しがってくれやアがるだ、
此間も
他処から法事の饅頭が来た時、お店へも出ると彼奴は酒呑だから
甘え物は嫌えだろう、それだのにさ、清助
汝がに饅頭をくれてやる、田舎者だから
此様な結構な物は食ったことは有るめえ、汝がのような奴に惜しいもんだけんど、汝がに食わすと、
斯う
吐しやがるだ、己も
余り腹が立ったから、何うかして
意趣返しをしてやろうと思って、
此間鹿角菜と
油揚のお
菜の時に、お椀の中へそっと
草鞋虫を入れて食わせてやっただ、そんな事は何うでも
好いが、お
前さんがお
暇になるなら
何んにも
楽みが
無えから
己も
下ろうか知ら、下らば
直に
故郷へ
帰るだよ、
己は信州
飯山の
在でごぜえますから、めったに来る事もあるめえが、善光寺へ参詣にでも来ることが有ったら是非寄って下せえまし、田舎の
事たから、何も外に御馳走の仕ようが
無えから、鹿でも
打って御馳走しべいから、何だか馴染の人に別れるのは
辛えもんだね、
何うかまア成るたけ煩らわねえように気い付けて、
好いかね」
粂「有難う」
娘のお梅に逢いたいは山々だが、お内儀さんのお言葉添えもあるから、その儘
暇を取って、これから谷中の長安寺へ参り、いまに
好い便りがあるだろうと待って居りました。
此方はお梅、あれきり何の便りもないが、もしや粂之助の了簡が変りはしないかと、娘心にいろ/\と思い計り、
耐え兼ねたものか、ある
夜二歩金で五十両ほどを
窃み出して懐中いたし、お
高祖頭巾を
被り、庭下駄を履いたなりで家を抜け出し、上野の
三橋の側まで来ると、
夜明しの茶飯屋が出ていたから、お梅はそれへ来て、
梅「御免なさいまし」
爺「ヘエおいでなさいまし、
此方へお掛けなさいまして」
梅「はい、あの谷中の方へは何う参ったら
宜しゅうございましょう」
爺「えゝ谷中は
何方までお出でなさるんですい」
梅「あの長安寺と申す寺でございますがね」
爺「えゝ
*仰願寺をくれろと仰しゃるんですか、えへゝ仰願寺なら
蝋燭屋へお
出なさらないじゃアございませぬよ」
*「小さき一種のろうそく江戸山谷の仰願寺にて用いはじめしより云う」
梅「いえあのお寺でございますがね」
爺「
何ですいお
螻の虫ですと」
梅「いゝえ長安寺というお寺へ参るのでございますが」
すると小暗い所にいた一人の男が口を出して、
男「えゝ、もし/\お嬢さん、その長安寺というのは
私が能く知ってますよ」
と云いながらずっと出た男の
姿を見ると、
紋羽の綿頭巾を
被り、
裾短な
筒袖を
着し、
白木の
二重廻りの
三尺を締め、
盲縞の股引腹掛と云う
風体。
男「まア御免なさい、
私アこんな
形姿をしてえますが、その長安寺の門番でげす」
梅「おや/\、それじゃア
貴方にお聞きをしたら分りましょうが、あの粂之助はやっぱり和尚様のお側に居りますか」
男「えゝ、粂之助さんは、おいででござえます、あなたは
何ぞ御用でもあるんでげすか」
梅「はい、あの、粂之助は
私どもに長らく勤めて居ったものですが、少し
理由がありまして
先達暇を出しましたが、それきり何の沙汰もございませんで、
余り案じられますから出て参りましたのでございます」
男「ヘエー左様でございますか、じゃアまア
私と一緒においでなさい、どうせ
彼方へ帰るんですからお連れ申しましょう、其の代りお嬢様に少しお
願えがあるんでげす、毎度私は和尚様から殺生をしてはならねえぞとやかましく云われるんでげすが、
嗜な道は
止められず、毎晩
斯うやって、
*どんどんへ来ては鰻の
穴釣をやってるんでげすが、どうぞお嬢さま私が
此処で釣をした事は和尚様に黙ってゝおくんなさい」
*「三橋の側にあった不忍池の水の落口」
梅「御不都合の事なら決して申しは致しませぬ」
男「おい
老爺さん」
爺「へい」
男「あのね、此のお嬢様は己の方へ来るお方だから、己が御案内をして
行くんだ、さ、喰った
代を
此処へ置くぜ」
爺「あなた、これは一分銀で、お釣はござりませぬが」
男「なに釣は要らねえ、お
前にやっちまわア」
爺「それは何うも有難う存じます、左様なら
夜が更けて居りますから、お気を附けあそばして」
男「なに
大丈夫だ、己が附いてるから」
と怪しの男がお梅を連れて、
不忍弁天の池の
辺までかゝって参りました。
えゝ
引続のお梅粂之助のお話。何ういう
理由か
女子の名を先に云って
男子の名を
後で呼ぶ。お花半七とか、お染久松とか、夕霧伊左衞門とかいうような訳で、実に
可笑しいものでござります。さて日本も
嘉永の五年あたりは、まだ世の中が
開けませぬから、
神信心に
凝るとか、
易占に見て貰うとかいうような人が多かったものでござります。丁度嘉永の六年に
亜米利加船が日本へ渡来をいたしてから、諸藩共に鎖国攘夷などという事を称え出し、そろ/\ごたつきはじめましたが、
町家では
些とも気が附かずに居ったことでござります。
彼の浅草三筋町の甲州屋の娘お梅が、粂之助の
後を慕って家出をいたす。
何程年が行かぬとは申しながら、実に無分別極まった訳でござります。左様な事とは
毫しも知らぬ粂之助が、丁度お梅が家出をした其の
翌朝のこと、兄の
玄道が谷中の青雲寺まで法要があって出かけた留守、竹箒を持って
頻りに庭を掃いていると、表からずっと這入って来た男は年頃三十二三ぐらいで、色の浅黒い鼻筋の通ったちょっと
青髯の生えた、
口許の締った、利口そうな顔附をして居ますけれども、
形姿を見ると
極不粋な
拵えで、
艾草縞の
単衣に紺の
一本独鈷の帯を締め、にこ/\笑いながら、
男「え、御免なさいまし」
粂「はい、お出でなさい」
男「えゝ、長安寺というのは
此方ですか」
粂「ヘエ、左様でございます」
男「あの此方に粂之助さんというお方がおいででござりますか」
粂「ヘエ、粂之助は
私でございますが
···」
男「ア左様でげすか、是は何うも
···左様ならちょいと表まで顔を貸してお貰い申したいもので」
粂「ヘエ
·········あの
生憎兄が居ませぬで、何うも
家を
空にして出る訳には参りませぬから、
若し
何ぞ御用がおあんなさるなら
庫裏の方へお
上んなすって」
男「左様でげすか、じゃア御免なせえまし」
粂「さ、
何卒此方へ」
男「へい」
紺足袋の
塵埃を払って上へ
昇る。粂之助は渋茶と共に
有合の
乾菓子か何かをそれへ出す。
男「いえ、もうお構いなせえますな、へい有難う、え、
貴方にはお初にお目にかゝりますが、
私は
千駄木の植木屋
九兵衞という者でございまして」
粂「へえへえ」
九「実ア其の、
昨夜、お嬢
様が
突然に
私ん処へおいでなすったんで」
粂「え、嬢さんと仰しゃるのは
···············」
九「へえ
鳥越桟町の甲州屋のお嬢さんで」
粂「へえー、何ういう
理由で貴方の処へお嬢
様が
······」
九「いや、これは解りますめえ、
斯ういう理由なんでげす、あのお嬢さんが
二歳の時に、
私の
母親がお乳を上げたんで、まア
外に誰も相談相手が無いからって、訪ねておいでなすったから、母親もびっくりして、まアお嬢さん、今時分何ういう
理由で入らしったてえと、犬に吠えられたり何かして、命からがら
漸うの事でお前の
処へ来た理由は、誠に
乳母や面目ないが、長らく
宅に勤めて居た手代の粂之助というものと、人知れず
懇を通じて夫婦約束をした、処がお
母さんが世間の口がうるさいから
一時斯うはするものゝ、
後には必ず添わせてやると仰しゃって、粂之助に
暇を出して
了った
後で、
外から聟を取れと仰しゃる、それじゃアどうも粂之助に義理が済まないから、私は斯うやって駈出したんだと仰しゃるんです、そうすると
私の母親は
胆をつぶしてね、
素ッ
堅気だから、なか/\
合点しねえ、それはお嬢
様飛んでもない事で、お店の奉公人や何かと
私通をするようなお嬢様なら、私の処へは置きませぬ、
只った今出てお
出なせえというから、
私が仲裁をして、まアお
母ア待ちねえ、そうお
前のように
頑固なことばかりいっちゃアしょうがねえ、折角頼りに思っておいでなすったお前まで、そんな邪険な事を云ったら娘心の一筋に思い詰め、
此家から又駈出して途中
散途で、
何様な軽はずみな心を出して、
間違えがねえとも限らねえ、まア/\己のいう通りにして居ねえといって、それからお嬢様を
此方へ呼んでお
母はあんな事を云いますが、お
前さんは
何処までも粂之助
様と添いたいという了簡があるなれば、
私がまア何うにでもしてお世話を致しましょう、貴方はお
宅を勘当されても、粂之助様と添遂げるという程の御決心がありますかてえと、
屹度遂げます、一旦粂之助も私と夫婦約束をしたのですもの、
確に私を見捨てないという事もいいましたし、又そんな不実な人ではありませぬ、じゃア
宜うがすが、何処か
行く所がありますかと云うと、何処も
目的がねえ、こう云うから
私も困って、兎も角粂さんに逢ってからの事に仕ましょうといって、
今日わざ/\お
前さんの
所へ訪ねて来たんですが、お前さんも矢っ張お嬢様と何処までも添い遂げるという御了簡があるんですか、ないんですか、一応貴方の胸を聴きに来たんでげす」
粂「それは何うも
怪しからぬ事です、あの時お
内儀様が色々と御真実に仰しゃって下すったから、
私は
斯うやって何処へも
行かずに辛抱をして居ますのに、お嬢
様に聟を取れと仰しゃるような、そんな御了簡違いのお方なら、私は何処までもお嬢様を連れて逃げまして、
何様な真似をしたって屹度添い遂げます」
九「それで
私も安心をしたが、お前さん
何処か知ってる所がありますか」
粂「
私は別に懇意な
家もありませぬ」
九「そりゃア困るね、
何所かありませぬか」
粂「ヘエ、何も」
九「何も無いたって困るねえ、じゃまア
斯うしよう、
下総の
都賀崎と云う所に
金藏という者がある、
私とは少し親類
合の者だから、これへ手紙を附けて上げるから、当人に逢って、
能く相談をして
世帯を持たせて貰いなさるが
宜い、
併し
彼方へ
行くだけの路銀と世帯を持つだけの用意はありやすか」
粂「金と云っては別にございませぬが、兄が
此間私にしまって置けと預けた金がございます、それは本堂
再建のため、世話人
衆のお骨折で、八十両程集りましたのでございます」
九「イヤ八十両ありゃア結構だ、三十両一ト
資本と云うが、
何様な事をしても五十両なければ十分てえ訳には
往かねえが、其の上に
尚三十両も余計な
資金があれば、立派にそれで取附けますが、其の金をお前
様取れますか」
粂「へえ、
用箪笥の
抽斗に這入っていますから
直に取れます、そうして
後にお宅へ出ますが
何方です」
九「あの千駄木へお出でなさると右側に下駄屋があります、それへ附いて広い横町を右へ曲ると
棚村というお坊主の別荘がある、其のうしろへ往って植木屋の九兵衞といえば
直に知れます」
粂「じゃア、今晩兄が帰ったら
直に出ます」
九「今晩といってもなるたけ早い方が
宜うがすよ」
粂「ヘエ日暮までにはどんな事をしても
屹度参ります」
九「じゃア其の
積で何分お頼み申します」
粂「ヘイ宜しゅうございます」
九「左様なら」
プイと表へ出て
了う。其の跡で粂之助が、無分別にも
不図悪心を起し、
己が預りの金子八十両を
窃み出し、
此方へ出て見ると今の男が証拠に置いて行ったものか、
予て見覚えあるお梅の
金巾着が
其処に
抛り出してあった、取上げて見ると中に金子が三両ばかり這入っている。
粂「はてな、是はあの人が置いて行ったのか知ら、ア、そう/\、これを置いて
行くからは
此ん中へ八十両の
金子を入れて来いという謎かも知れない」
と右の
*女夫巾着の中へ
金子を入れ、
確かり懐に仕舞って、そろ/\出かけようかと思っている処へ兄の玄道が帰って参り、それより入替り立代り客が来るので、何分出る事が出来ませぬ。
*「せなかあわせにくッついている巾著」
お話は二つに分れまして鳥越桟町の甲州屋方では大騒ぎ、
昨夜娘のお梅が家出をいたした切りかいくれ行方が解りませぬから、
家内中の心配大方ならず、お
鬮を取るやら、
卜筮に
占てもらうやら、大変な騒ぎをして居る処へ、不忍弁天の池に、十六七の娘の死体が打込んであるという噂を聞込んで来て、知らせた者があるから、
母親は仰天して取るものも
取あえず来て見ると、お梅に相違ないから早々人を
以て御検視を願い、段々死体を調べて見ると、
縊り殺して池の中へ投込んだものらしく、
殊には持出した五十両の
金子が懐にないから、おおかた
物取であろうと、事が極って検視済の上死骸を引取り、
漸く日暮方に死骸を棺桶へ収めることになった。処へ
鳶頭が来まして、
鳶「ヘエ唯今、あの
何でげす、八丁堀さんと、それから一番遠いのが
麻布の御親類でげすが、それ/″\
皆子分を出してお知らせ申しました」
番頭「あ、それはどうも大きに御苦労/\」
鳶「何だなア、定さん、男の癖におい/\泣くのは止しねえ、お
内儀様は女でこそあれ、あゝいう御気象だから、涙一滴
澪さぬで我慢をしていらっしゃるのだ、それだのにお前が早桶の側へ行って、おい/\泣くもんだから
不可えよ」
定「泣くなってそれは無理でございます、何だか此の早桶の側へ来ると哀しくなるんですもの、お嬢
様は別段に可愛がって呉れましたから、私は哀しくなるのです」
鳶「まア泣いちゃア不可ねえ、えゝお内儀様唯今」
内儀「あい、鳶頭大きに色々お
骨折で、何も
彼もお前のお蔭で
行届きました」
鳶「どう致しまして、
就きまして麻布
様の方へお嬢
様が家出をなすった事を知らせにやりまして、
金太がようやく
先方へ着いたくらいの時に、又
斯ういう変事が出来ましたから、
追かけて人を出し、これ/\でおなくなりになったてえ事をお知らせ申しましたら、大層にお驚きなすったそうでげす」
内儀「そうであったろう、もう麻布のが一番
彼を可愛がってくれたから、誠に有難う、万事お前のお蔭で行届きました、が斯うなるのも
皆な因縁事と諦めて居ますから、私は哀しくも何ともありませぬよ」
鳶「いえ、
何うも御気象な事で、まアどうもお嬢
様がお小さい時分、確か
七歳のお祝の時、
私がお供を致しまして、鎮守様から浅草の観音様へ
参りましたが、いまだに能く覚えております、往来の者が
皆振返って見て、まアどうも玉子を
剥いたような綺麗なお嬢
様だ、可愛らしいお
児だって誰でも誉めねえものは
無えくれえでげしたが、
幼少せい時分からのお馴染ゆえ、此の頃になってお嬢
様が高慢なことを仰しゃいましても、あなた
其様な事をいったッていけませぬ、わたしの膝の上で小便をした事がありますぜてえと、あら鳶頭幼少せい時分の事をいっちゃア厭だよなんて、
真紅におなりでしたが、何とも申そうようはござえませぬ」
内儀「はい、お前も久しい馴染ゆえお線香でも上げてやっておくれ」
鳶「へえ、有難う
·········えゝ番頭さん、誠に何うも飛んでもねえ事で」
番頭「いや鳶頭大きに御苦労であった、まア
此方へ来なさい、何うもお内儀さんの
思召を考えて見るとお気の毒で何うもならぬ、ならぬが
当家のお嬢
様を殺したのは誰じゃという事は大概お前も感付いておるじゃろうな」
鳶「いゝえ、
些とも知りやせぬよ、何だか物取だろうってえ評判なんで」
番「いゝや物取ではない、何でも是は粂之助の
仕業に相違ないという
私の
考だ」
鳶「ハ、飛んでもねえ事をいいますね、
其様なお
前さん
······ナなんぼ粂どんが憎いたって、
無暗に
人殺に落したりなんかして、どうしてお
前さん粂どんは其様な悪い事をするような人じゃアねえ」
番「いやそれはいかぬ、お
内儀はん
斯ういう最中で
争論をしては済みまへんが、
一寸これに
就いておはなしがあるんでおす、
一昨夜私が一寸用場へ参りまして用を
達してから、手を洗うていると、ほんのりと
星光で人影が見えるで、はてナと思うて斯う
透して見ておると、垣根の外へ廻って来たのが粂之助でおす、するとお嬢
様がこっちゃから声を掛けて粂之助やないかというと、はい
私でございますと
低声でいいましたわい、まア粂之助よう来ておくれた、はい
漸うの事で忍んで参りました、お前に逢いとうて逢いとうてどうもならぬであった、
私も逢いとうてならぬから、漸うの思いで参りました、
私もそう長う寺に辛抱しては居られまへぬ、あんたはんも
私のような者でも本当に思うて
下はるなら、
寧そ手に手を取って
此所を逃げまひょう、そうしてあんたと二人で夫婦になって、
深山の奥なりと
行んで暮したいが、それに就いても
切て
金子の五六十両も持ってお出でやというと、おゝ
左様か、そんなら
屹度明日の晩持って
行ぬという事を確かに聞いた」
鳶「へえ、それから」
番「どうも変やと思うていると、あんたお嬢
様が莫大のお金を
持って逃げやはった、それ故何うも
私の思うには粂之助がお嬢
様を殺して
金子を取って、其の死骸を池ン中へ
投り込んだに違いないと
斯う考えるのでおす」
鳶「おう、おう番頭さん、詰らねえ事を云っちゃアいけねえぜ、お
前は
全体粂どんを憎むから
然う思うんだが、まアよく考えて見ねえ、粂どんが人殺をするような人だか何だか、ソヽ
其様な解らねえ事をいったって仕様がねえじゃアねえか」
番「イヤ
真実の事だ、証拠があるぜ」
鳶「
証、な何が証拠だ」
番「定吉い、ちょっと
此処へ来い、えゝめろ/\泣くな」
定「何です
番頭さん、泣くなたってお嬢様が死んで哀しくって
堪らないから、泣くんです」
番「えゝい、
汝がお嬢様を殺したもおんなじ
事た」
定「あゝいう無理な事ばかりいうんだもの、どういう
理由で」
番「
汝は
一昨日の
夜この店で帯を締め直す時に落した手紙は、お嬢
様に頼まれて粂之助の処へ届けようとしたのじゃないか」
定「あら
·········仕様がないな、
彼所に持っているのだもの、道理で無いと思った」
番「
此様なものをお嬢様から頼まれるのが悪いのだ」
定「頼まれるのが悪いたって
·········仕様がないナ
·········その頼まれたのはなんでございます
·········仕様がないな
·········あの
······それはお嬢
様が、定や、ちょいとお出でてえから、はいてってお居間へ行ったんです、
然うするとお前
何所へ
行くんだと仰しゃるから、
私は谷中の方へ参るんですといったら、そんならお前これを粂どんに届けてお呉れって、お手紙を私の懐へ入れたから持って行ったんです」
番「ウム、持って行って何うした」
定「何うしたって
······しようがないな」
番「
汝は
度々粂之助の
処へ寄るから悪いのじゃ」
定「ナニ寄る気でもないんですが、近いから、あのお寺の前を通ると
曲角のお寺だもんですから、よく門の
所なんぞを
箒いてゝ、
久振だ、お寄りなてえから、ヘイてんで
旧は
朋輩だから寄りますね」
番「道理で
毎も
使が長いのや」
定「ナニ別に長い訳もないんですが、今お
葬式が来てお饅頭を貰った、それをお前に上げるから、お待ちてえから待ってたんです」
番「えゝい、
喰い物の事ばかり云うて
居る。
汝が取次をするから此の様な間違が
出来たのや、サ是を御覧、此の手紙が何よりの証拠や、
私はお前に逢いとうて逢いとうてならぬから、家出をしてお前の
処へ
行く、
何卒末長く見捨てずに置いておくれと書いてあるやないか、是が何よりの証拠や」
鳶「証拠だッて、そんな事は
私ア知りやアしねえ」
番「知りやせぬと云うてまアよく考えて見なはれ、
当家のお
内儀様はこないに諦めの
宜えお方やから、涙一滴
澪さぬが、鳶頭が仲へ這入って口を利き、もう甲州屋の
家へは足踏をさせぬと云い切って引取ったのやないか、それじゃのに、又
此処へ粂之助が忍んで来て、お嬢
様を誘い出すような事になったのは、大方鳶頭も
内々知って
居るのではないか、粂之助と
共謀になってお嬢様を誘い出し、
金額を半分ぐらい取ったのではないかアと思われても是非がないやないか」
云うと
怒ったの怒らないの、もと正直な人だから、額へ青筋を出して、
鳶「何を
吐しやアがるんでえ、
撲り付けるぞ、コレ頭を
禿らかしやアがって馬鹿も休み休み云え、粂どんが人を殺して金を取る様な人か人でねえか
大概解りそうなもんだ、
手前の心に識別ウするから
其様事を
吐すんだ、己が半分取ったたア何だ、撲り付けるぞ」
番「
打たいでも
宜え、
私は理の当然をいうのや、お嬢
様を殺して
金子を取ったという訳じゃないが、
然う思われても是非がないと云うのや」
鳶「何が是非がないんだ、
撲倒すぞ」
清「まア/\少し待っておくれ」
と云いながら台所より出て来たは清助というお
飯炊。
清「鳶頭まア/\
貴方は正直な方だから、こんな事を云われたら、
嘸はア
胆が
焦れて
堪るめえが、己が一と通りいわねばなんねえ事があるだアから、少し待ったが
宜え
||コレ番頭さん、
此処へ出ろ」
番「何じゃ、
汝が出る幕じゃアない、汝は
飯炊だから台所に
引込んで、飯の
焦ぬように気を附けて
居れ、
此様な事に口出しをせぬでも
宜いわ」
清「成程己は
僅なお給金を戴いて飯炊をしてえるからッて、飯せえ焦がさねえようにしていれば
宜えというもんじゃアあんめえ、
当家へ泥坊が
這入ってお
内儀様を
斬殺しても、己が飯炊だからって、
何にも構わずに
竈の
前にぶっ
坐ってゝ宜えと思わしゃるか、
汝が曲った心に識別するから
然ういう間違った事をいうだ、コレよく
考えて見ろよ、汝は粂どんを憎むから、少しのことを
廉に取って粂どんが
嬢様を殺したなんてえが、
何処までも汝がそんな事を頑張って殺したといわば、
己ア
合点しねえだ、粂どんが庭へ来てお嬢様と相談して、
明日の晩連れて逃げようてえ約束をしたのを見たと云わば、何故早く其の事をお内儀様へ知らせねえだ、粂どんがコソ/\でお嬢様を誘い出しに来やしたから、油断をしねえが
宜うがすとちょっと知らせればそれで
宜えだ、然うすれば
直ぐにお嬢様を
他家へ預けるとか、
左もなければお内儀様が気イ附けて奉公人も皆起きて
居らば、何うしたって嬢様が逃げ出す
気遣はねえだ、逃げなけりゃア殺されることもねえだ、それを知って居ながら黙ってゝ、嬢様が逃出してから殺されゝば、汝が殺したも同じ
事だぞ、まだぐず/\何か云やアがると
打っ殺して
己も死んじまうだ」
内儀「コレ/\清助静かにしないか、番頭
様に向ってそんな事をいっては済まないじゃないか、鳶頭、お前も
嘸腹が立つだろうが、
何卒我慢をしておくれ、
悉皆私が呑込んでいるから、私は決して粂之助の
仕業とは思わないけれども、大方粂之助も此の事を知らずに谷中に居るに違いない、お前が行って
斯う/\と知らせたら、粂之助も定めて
恟りするだろうと思うから、お願いだが、お前ちょいと此の事を粂之助へ知らせてお呉れでないか」
鳶「え、
往きますとも、半分取ったろうなんて、飛んでもねえ
濡衣を着せられたんですもの、
直に行って来ます、少し
提灯をお貸しなすって」
ずうっと
腹立紛に飛びだして谷中の長安寺へやって来ました。
鳶「え、御免なせえ、御免なせえ」
粂「はい
······おや/\鳶頭」
鳶「や、粂どん
······まア
宜かった、はあ
···お
前に怪しい事があれば
何所かへ逃げちまうんだが、ちゃんと
此処に居てくれたんでまア宜かった、あゝ
有難え」
粂「あの
兄さん、何だか鳥越の鳶頭がおいでなさいましたよ」
玄「いやア、鳶頭、まあ
何卒此方へ誠に
何うも御無沙汰をして済まぬ、ちょっとお礼かた/″\お訪ね申さんければならぬのじゃが、何分にも
寺用に取紛れて存じながら大きに御無沙汰を
······」
鳶「そう長ったらしく云ってられちゃア困る、大騒動が出来たんだ、まア御挨拶は
後にしておくんなせえ、おゝ粂どん、お嬢様が
昨夜家出をした事を知ってるかい」
粂「いゝえ
············」
鳶「いゝえって震えたぜ、え、おい、お嬢様が殺されちまったんだよ」
粂「えっ、お嬢様が
······」
鳶「死骸が弁天の池から今朝上がって、御検視を願うの
何のって大騒ぎをしたんだ」
粂「へえー
······じゃア千駄木の植木屋の九兵衞さんというのは何です、全体まア何ういう
理由なんです」
鳶「何ういう理由の何のって、大変な騒ぎなんで、まア和尚
様お
聴になって下せえまし、お嬢様は粂どんに逢いてえ一心から、
莫大の
金子を
持て家出をしたから、大方泥坊に
躡けられて途中で
遣るの遣らねえのといったもんだから、殺されたに
違えねえんで、それを店の番頭野郎がこう
吐すんだ、
何んでも粂どんがお嬢様を誘い出して、途中で殺して金子を取ったに違えねえ、鳶頭も粂どんと
共謀になって、其の金を二十五両ぐらい取ったろう、こう吐すんだ、
私は腹が立って堪らねえから、
余程殴りつけてやろうとは思ったけれども、お
前さん何うもね、お
内儀様が御愁傷の中だから、そんな乱暴狼籍の
[#「狼籍の」はママ]真似をしちゃア済まねえと思って、
耐えていたが、粂どんが
何にも知らずに
斯うやっているから本当に宜かった、
何卒直に行っておくんなせえ」
玄「いや、それは重々
御道理な訳じゃ、
此方にも
不行跡がある
事ちゃから
然う云う御疑念が懸っても仕方がない、仕方がないが、然う云う場合になると、粂之助は
頓と口の利けぬ奴じゃで、
私も一緒に参りましょう」
鳶「そりゃア
有難え、なるたけ大勢の方がようがす、じゃア
直に行っておくんなせえ」
これから提灯を
点けて寺を出かけ、三人揃って甲州屋の裏口から這入って来ました。
内儀「さア、
何卒此方へ、/\」
鳶「え、お
内儀様、谷中の長安寺の和尚様も入らっしゃいましたよ」
内儀「おや/\それは何うもまア何うぞ此方へ」
玄「はい、御免を
······唯今鳶頭から不慮の事を承りまして、何とも御愁傷の段察し入ります」
鳶「まア、
其様な長ったらしい
悔は
後にしておくんなせえ、さ、粂どん
此方へ這入んなよ」
粂「ヘエ
······えゝ、お
内儀様お嬢様が飛んだ事にお成りあそばしまして、
嘸御愁傷でござりましょう」
是迄は涙一滴
澪さぬでいたが、今しも粂之助の顔を見ると、
堪えかねて袖を顔へ
押宛て、わっとばかりにそれへ泣倒れました。
内儀「粂や、何うも飛んだ事になりましたよ、私はね、くれ/″\もそう云っていたのだよ、決して出ちゃアならない、今に私が
宜いようにするから、お前心配おしでないよといって置くのに、親の言葉に背いて家出をしたものだから、
忽ち親の
罰があたって、あゝいう訳になったんだから、私はもう
皆これまでの約束ごとと諦めていたが、お前の顔を見たら何うにも我慢が出来なくなって声を出しましたが、もと/\お前の為に家出をしてこんな
死様をしたのだからお前
何卒お線香の一本も上げて回向をしてやっておくれ」
粂「ヘエ、何とも申そう様はございませぬ、誠に何うも重々
私が悪いのでございます」
内儀「いゝえ、お前ばかりが悪い訳じゃアないよ」
鳶「おゝ番頭
様ちょいと
此処へ来ねえ」
番「あい、何じゃ」
鳶「おゝ粂どんはちゃんと此処にいるよ、え、おう、人を殺して金を取ったような訳なら、プイと
何処かへ逃げちまわア、己が寺へ知らせに
行くまで
あっけらけんと居られるか、さ、何うだ、これでもまだ
手前は己を
疑ってやアがるか」
番「まアあんたは、粂之助を贔屓にしておるで、そう思いなはるのじゃ、これ粂之助ちょっと
此処へ来い、
汝はまだ年は十九で、虫も殺さぬような顔附をして居るが太い
奴ちゃ、
体よくお嬢様を誘い出して、不忍弁天の池の
縁の淋しい処でお嬢様を殺して、金を取って、死骸を池の中へ
投り込んだに違いあるまい、さ、どうだ、
真直に云うてしまえ」
斯う云われるともと人が
善いから、
余り腹が立って口が利かれない、いきなり立って番頭の胸倉へ武者振りつこうとする途端に、ポンと
堕ちたのは九兵衞が置忘れて帰った
女夫巾著、番頭は早くも
之を拾い取って高く差上げ、
番「こ、是じゃ、お
内儀はん、是はお嬢
様が不断持って居やはりました巾着でがしょう」
云いながら振ると、中からドサリと落ちた
塊は五十両ではなくて八十両。
えゝ引続いてお聴きに入れまする、お梅粂之助は互に若い身そらで心得違をいたしたるより、其の身の大難を
醸しました。
扨彼の梅には四徳を具すというが
然うかも知れませぬ、若木を好まんで
老木の方を好む、又梅の成熟するを
貞たり、とか申して
女子の
節操あるを貞女というも同じ意味で、春は花咲き、夏は実を結び、秋は
木の葉が落ちて枯木のようになったかと思うと、又自然に芽が出て来るは、誠に妙なものでございまして、人も天然自然に此の物を見る、あゝ
好い景色だとか、綺麗な色だとか、
五色ばかりではなく
木の葉の黄ばんだのも面白く、又
染だらけになったのも面白い、これは唯其の人の好みによって色々になるのでございます。「心をぞわりなきものと思いぬる見る物からや恋しかるべき」で見る物も恋しく、心と云うものは別に形は無いが、善を見れば善に感じ、悪に出逢えば悪に染まる、されば
己の好む所の
境界が悪いと其の身を
果すような事もあるのでございます。
粂之助は奉公中主人の娘お梅に想われたのが、因果の
始りでござりまして、自分も済まない事と観念を致したから、兄玄道の側へ参り、小さくなって、
温順しく時節到来を待って居ました、所へ千駄木の植木屋九兵衞というものが参り、
九「昨晩お嬢
様がお
出になりましたから、
私が
何処へでもお逃し申すようにするゆえ、
金子の才覚をして来い」
と云うので、
態とお梅の巾着の中に三両ばかり入れた儘置いて帰った。是が九兵衞の
企みのある処でござります。
此方はまだ年が若いから、何の気も附かず、是は全くお梅から届けたものと心得て、
前後の思慮も浅く、其の巾着の内へ、本堂
再建の普請金八十両というものを盗み出して押込み、これを懐へ入れて置いたのが、立上る
機勢にドサリと落ちたから番頭はこゝぞと思って右の巾着を
主婦の前へ突付けたり、
鳶頭にも見せたりして
居丈高になり、
番「さ、粂之助、此の巾着が出る上は貴様がお嬢
様を殺したに相違あるまい」
と責めつけたから、座中の人々互に顔と顔を見合せ、鳶頭も甲州屋の家内も実に驚いて、「よもや粂之助がお梅を殺して五十両という
金子を取りはすまい」とは思うが、
金子が出た。見ると五十両ではなくして八十両の包み
金、
表書には「本堂
再建普請金、世話人
萬屋源兵衞預る」と書いてあったから、誰より驚いたのは玄道和尚で、ぶる/\震えながら、
玄「ま、これ粂之助、ま、此の
金子は何うした」
粂「はい/\申し訳がございませぬ」
玄「これはまア
······番頭さん、鳶頭、又御当家の御家内様まで、粂之助がお嬢様を殺して
金子を取ったろうという御疑念をお掛けなさるは
御道理の次第でござる、なれども、此の儀に
就いては
私より少々粂之助へ
申聞けたい事がござれど、少しく他聞を
憚りまする故、
何所か離れたお居間はござりますまいか、余り人様のお
出のない所を拝借いたしたいもので」
内儀「はい/\、あの鳶頭、奥の六畳へ連れて行ったらよかろう、離れてゝ
彼所が一番
静でもあり人が行かないから」
鳶「
宜いかね、大丈夫かえ和尚
様」
玄「いえ、決して逃しは致しませぬから、御安心なすって
······さア来い」
と粂之助の手を
執って引立てる。粂之助は和尚の
従者で来たのだから今日は
*耳こじりを差して居る、兄玄道に引立てられ、
拠なく奥の離座敷へ来るといきなり肩を突かれたからパッタリ畳の処へ伏しました。玄道和尚は開き直って、
*「みじかいわきざし」
玄「これ粂、手前はまア呆れ返った奴じゃ、これ手前はな、御両親が
相果てからと云うものは、
私の手許に置いて丹精をしてやったのじゃないか
······女子の手もない寺へ引取り、十一の
歳から私が丹精をして、
読書から行儀作法に至るまで一通りは仕込んでやったが、何をいうにも借財だらけの寺へ住職をしたのが
過りで、なか/\
然う
何時までも手前一人に貢いでやる訳にも
往かぬから、不自由を
堪えて御当家へ願い、住みこませると、長の
歳月御丹精を戴いた御主人様の大恩を忘れ、奉公人の身の上でありながら、御主人様の令嬢と不義いたずらをするとは、何と云う心得違の事じゃ、それで手前は武士の
胤と云われるか、私も手前も、
土井大炊頭の家来
早川三左衞門の胤じゃないかい、私は子供の時分は
清之進と云うたが、どの人相見に
観せても、剣難の相があると云うたに
依って九歳の
折に出家を
遂げ、谷中
南泉寺の弟子になって玄道、
剃髪をしてから、もう長い間の事じゃ、其の
後嘉永の
始に
各藩にて
種々の議論が起り、えろうやかましい世の中になった、其の折父早川三左衞門殿には正義を主張して、それはいかぬ、
然ういう道理は無いと云うて殿へ
御諫言を申上げたる処、重役の為に憎まれて遂には追放仰付けられた、お父様にはそれを
口惜しゅう
思召てか、
邸を出てから切腹をして
相果られた、続いて母様もお
逝去になる時の御遺言に、お前の弟粂之助はまだ
頑是もない
小児、
外に頼る者もないに依って
何卒お前、丹精をして成人させて呉れとのお頼み、そこで私が寺へ引取って、十一から三ヶ年も貴様の面倒を見てやったが、今もいう通り何分
不如意じゃに依って御当家へ願うたのも、然ういう柔弱な身体じゃから、
商人に仕ようと思うた私の
心尽も水の泡となり、それのみならず誠に
愧入ったのは此の八十両の
金子じゃ、知っての通りの貧乏寺じゃが幸いにも
檀家の者にも用いられ、本堂が大破に及んだ、
再建をせにゃなるまい、
私が世話人に成ってやる奮発せいと、萬屋も心配をして呉れて、これ見ろ、まア是だけの金子を集めて、是を
資本に
追々と再建に取掛るつもりでわざ/\源兵衞さんが
一昨日持って来たに依って、
直手前に仕舞って置けと云うて渡した其の金子を手前が
盗出して
此所へ持って来るとは何ういう了簡じゃ、
此金がなければ片時も己はあの寺に
居られぬという事も、手前
能う知って
居るじゃないか、憎い奴じゃ、同じ早川の家に生れても、私は総領の身の上でありながら出家となり、又手前の兄
三次郎と云う者は、何ういう因縁か、十一二歳の頃からして
盗心があって、
一寸重役の
家へ遊びに行っても、銀の煙管じゃとか、紙入じゃとか、風呂敷とか、手拭とか云うものを盗んで
袂へ入れて来るじゃ、そこでお
父様も呆れてしまい、
此奴が跡目相続をすべき奴じゃけれども仕方がないと云うて、十九の時に勘当をされた、丁度三人の
同胞でありながら、私は出家になり、弟は泥坊根性があり、手前は又
主家の娘と不義をして
暇を出されるのみならず、兄の身に取っては大切の
金子まで取るという奴じゃから、何う人さんから云われても一言の申訳はあるまい、憎い奴じゃ、兄の自滅をするという事を
悉しく知って居ながら、
斯ういう不都合をするとは云おう様ない
人非人め」
と腹立紛れに粂之助の
領上を取って引倒して実の弟を思うあまりの
強意見、
涙道に
泪を浮べ、身を震わせながら粂之助を畳へこすり附ける。粂之助は身の
言分が立ちませぬから、
粂「申訳を致します
······もも申訳を
······何卒お放しなすって下さいまし」
玄「さ、何う言分をする」
粂「へい申訳は此の通りでござります」
と自分の差して来た小短い脇差を取って抜くより早く
喉へ突立てにかゝった。玄道は
胆を潰して其の手を
抑え、
玄「こ、これ待てッ」
粂「いゝえ、お留め下さるな、申訳が有りませぬから、
私は自害をいたして申訳をいたします」
玄「自害をしたってそれで済むと思うか」
頻りに争うておる処へ、ガラリと縁側の障子を開けて這入って来た男を見ると、
紋羽の綿頭巾を
鼻被にして、
結城の
藍微塵に
単衣を重ねて着まして、盲縞の腹掛という
扮装、小意気な
装でずっと這入って、
男「ま、ま、お待ちなせえ、おう詰らねえ事をするない、
手前は死なねえでも
宜いや」
粂「ヘエー」
と顔を見ると今日朝の
中に来た、千駄木の植木屋の九兵衞だから
恟りして、
粂「おや、貴方は千駄木の植木屋さんで
······」
九「ウム、植木屋の九兵衞だ、お
前はまア死なねえでも
宜い
······え、和尚さん
私は、千駄木の植木屋の九兵衞と云って、此の粂之助を
騙しに行った悪党でごぜえます」
玄「何じゃ
······悪党とは」
九「ヘエ誠に面目次第もござえませぬ、お
前さんの為には現在の弟でありながら、十九の時に
邸を出て
了いやした、それゆえ粂の顔を知らねえもんだから
騙しに行ったんです、
兄さん大層まア年が寄って、お顔を見忘れちまいましたよ」
玄「なに誰じゃ」
九「誰でもねえ、お
前さんの弟の三次郎です」
玄「おゝ、弟の三次郎、成程
然う云えば、
何所か見覚えのある顔だ、それが何うして
此所へ出て来た」
九「まア聞いてくだせえ、
私が上野の三橋側の
夜明しの茶飯屋のところで、立派な
身形の
新造が谷中長安寺への道を聞いてるんで、てっきり駈落ものと
睨んで横合から飛び出し、私もね、お前さんが其の長安寺の和尚さんとも知らず、粂之助が私の弟ということも知らねえもんだから、旨い
金蔓に有附いたと実ア其の娘を
駆して
[#「駆して」はママ]引張出し、穴の稲荷の脇で娘を殺し、巾着ぐるみ有金を
引浚い、死骸は弁天の池ン中へ
投り込んだのは私の仕業だ、そればかりでなく、娘を殺す
前に、段々様子を聞くと、
宅に奉公をして居た粂之助と云う者は、
暇が出て当時では谷中仲門前の長安寺と云う寺に居るんだと聞いたから、もう一仕事しようと思って粂の
処へ出かけ、旨く
騙して
金子を持って逃げておいでなさいと云ったのは、私の
入智慧、本堂再建の普請金八十両を盗ませたのも皆この三次郎の作略でごぜえます」
玄「ふむー、
此奴······えらい奴じゃな」
三「でね、まア
然ういう
理由なんだから、鳶頭と番頭や何か残らず
此所へ呼んでおくんなせえ」
玄「粂、早う呼んで来い」
粂「
誰方も早く来て下さいましよ」
と呶鳴ったから、何事かと思って鳶頭も番頭も皆揃って来ました、ずらりと大勢ならべて置いて、右の
一伍一什を三次郎が話した時には、鳶頭も番頭も驚いて
暫くは口も利けぬくらいでありました。
三「さ、何うぞ
私に縄を掛けて引く処へ引いてお呉んなせえ、決して粂之助の
科じゃアねえ、
私が
人殺をしたんですから
······其の代りどうか
兄さん粂を可愛がってやってお呉んなさい、又粂も
宜いか、もう四十を越してる兄さんだ、
能く大事にして上げてくれ、よ、お前
幾歳になる、なに十九歳だ、うむ
然うか、いや鳶頭、誠に何とも云いようがごぜえませぬ、お
前さんは粂を贔屓にしてお呉んなすって、やれこれ云って下すったのは、
私からも厚くお礼を申します、実ア今日
此処へ忍び込んで
間が
好かったら、此のどさくさ紛れに、もう一仕事する
積で来た処が、まア
斯ういう訳になりましたから
何卒私へ縄を掛けて突出してお呉んなせえ
······やい番頭、さ、己を縛れ」
番「なに
此奴······汝が泥坊か、此のお庭へ
何所から這入った」
三「何所からだって
這入るが、さ縛れ、其の代り己が
喰い込めば、もう娑婆ア見る事ア出来ねえから、此の番頭
手前も一緒に抱いて
行くから
然う思え」
番「そりゃアえらい
事ちゃな」
是れから捨て置けませぬから、甲州屋の家内は
家から
縄付を出すのも厭だと心配をして
果しがない。そこで三次郎が到頭自訴いたして、何うしても
斬首の刑に行わるべきであったのが、何ういう事か三宅へ遠島を
仰付けられましたが、大層
改悛の効が
顕われ、
後お
赦になって、此の三次郎は兄玄道の徒弟となり、
修行の功を積んで長安寺の
後住を勤めました。此の者は
穴釣三次と云って、其の頃下谷では名高い泥坊でござりました。又粂之助は遂に甲州屋へ貰われまして、甲州屋の跡目を相続いたし、其の
後浅草仲町の富田屋という
古着商から嫁を貰いましたが、此の嫁も誠に心懸けの良い婦人でござりまして、母に孝行を尽したという末お目出度いお話でござります。