湯島の境内 (婦系図|戯曲|一齣)


その仮声使、料理屋の門 に立ち随意に仮色を使って帰る。

この間に早瀬主税 、お蔦 とともに仮色使と行逢 いつつ、登場。

仮色使の退場する時、早瀬お蔦と立留 る。
お蔦 貴方 ······貴方。
早瀬 ああ。(と驚いたように返事する。)
お蔦 いい、月だわね。
早瀬 そうかい。
お蔦 御覧なさいな、この景色を。
早瀬 ああ、成程。
お蔦 可厭 だ、はじめて気が付いたように、貴方、どうかしているんだわ。
早瀬 どうかもしていようよ。月は晴れても心は暗闇 だ。
お蔦 ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体 ですもの。······
早瀬 お蔦。(とあらたまる。)
お蔦 あい。
早瀬 済まないな、今更ながら。
お蔦 水臭い、貴方は。······初手 から覚悟じゃありませんか、ねえ。内証だって夫婦ですもの。私、苦労が楽 みよ。月も雪もありゃしません。(四辺 を
す)ちょいとお花見をして行 きましょうよ。······誰も居ない。腰を掛けて、よ。(と肩に軽く手を掛ける。)


お蔦 (並んで掛けて、嬉しそうに膝に手を置く)感心でしょう。私も素人になったわね。

時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。
お蔦 (肩を離す)でも不思議じゃありませんか。
早瀬 何、月夜がかい。
お蔦 まあ、いくら二人が内証だって、世帯を持てば、雨が漏っても月が射 すわ。月夜に不思議はないけれど、こうして一所におまいりに来た事なのよ。
早瀬 そうさな、不思議と云えば不思議だよ、世の中の事は分らないものだからな。
お蔦 急に雪でも降らなけりゃ可 い。
早瀬 (懸念して)え、なぜだ。
お蔦 だって、ついぞ一所に連れて出てくれた事が無かったじゃありませんか。珍しいんだもの。
早瀬 ············
お蔦 ねえ、貴方、私やっぱり、亡くなった親の情 が貴方に乗憑 ったんだろうとそう思いますわ。······こうして月夜になったけれど、今日お午 過ぎには暗く曇って、おつけ晴れて出られない身体 にはちょうど可 い空合いでしたから、貴方の留守に、お母 さんのお墓まいりをしたんですよ。······飯田町 へ行ってから、はじめてなんですもの。身がかたまって、生命 がけの願 が叶 って、容子 の可い男を持った、お蔦はあやかりものだって、そう云ってね、お母 さんがお墓の中から、貴方によろしく申しましたよ。邪険なようで、可愛がって、ほうり放しで、行届いて。
早瀬 お蔦。
お蔦 でも、偶 には一所に連れて出て下さいまし。夫婦 になると気抜 がして、意地も張 もなくなって、ただ附着 いていたがって、困った田舎嫁でございます。江戸は本郷も珍しくって見物がしたくってなりません。||そうお母 さんがことづけをしたわ。······何だかこの二三日、鬱込 んでいらっしゃるから、貴方の氏神様もおんなじ、天神様へおまいりをなさいまし、私も一所にッて、とても不可 ないと思って強請 ったら、こうして連れて来てくれたんですもの。草葉の蔭でもどんなに喜んでいるか知れませんよ。
早瀬 堪忍しな。嘘にも誉 められたり、嬉しがられたりしたのは、私は昨日 、一昨日 までだ、と思っているんだ。(嘆息す。)
お蔦 何だねえ、気の弱い。掏賊 の手伝いをしたッて、新聞に出されて、······自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜 しいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間から鬱 いでいるのはその事でしょう。可 いじゃありませんか。蹈 んだり蹴 たりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。ええ、私だって柳橋に居りゃ助けるわ。それが悪けりゃ世間様、勝手になさいな。またお役所の事なんか、お墓のお母 さんもそう云いました。蔦がどんな苦労でも楽 みにしますから、お世帯向は決 して御心配なさいますなって、······云ってましたよ。
早瀬 難有 い、俺 ら嬉しいぜ。
お蔦 女房に礼を云う人がありますか。ほんとうにどうかしているんだよ。
早瀬 馬鹿な。お前のお母 さんに礼を云うのよ。しかし世帯の事なんか、ちっとも心配しているんじゃない。
お蔦 じゃ何を鬱ぐんですよ。
早瀬 何という事はない、が、月を見な、時々雲も懸 るだろう。星ほどにも無い人間だ。ふっと暗闇 にもなろうじゃないか。······いや、家内安全の祈祷 は身勝手、御不沙汰 の御機嫌うかがいにおまいりしながら、愚痴 を云ってちゃ境内で相済まない。······さあ、そろそろ帰ろう。(立ちかける。)
お蔦 (引添いつつ)ああ、ちょっと、待って下さいな。
早瀬 何だ。
お蔦 あの、私は巳年 で、かねて、弁天様が信心なんです。······ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとの間 よ、待っていて下さいな。
早瀬 ああ、行くが可 い、ついで、と云っては失礼だが、お前不忍 まで行ってはどうだ。一所に行こうよ。
お蔦 まあ、珍しい。貴方の方で一所なんて、不思議だわね。(顔を見る)でも、悪い方へ不思議なんじゃないから私は嬉しい。ですがね、弁天様は一所は悪いの。それだしね、私貴方に内証 々々で、ちょっと買って来たいものがありますから。
早瀬 お心まかせになさるが可 い。
お蔦 いやに優しいわね。よしましょうか、私、······よそうかしら。
早瀬 なぜ、他 の事とは違う、信心ごとを止 しちゃ不可 ない。
お蔦 でも、貴方が寂しそうだもの。何だか災難でもかかるんじゃないかと思って、私気になって仕ようが無い。
早瀬 詰 らん事を。災難なんか張倒す。
お蔦 おお、出来 した、宿のおまえさん。
早瀬 お茶屋じゃない。場所がらを知らないかい。
お蔦 嬉しい、久しぶりで叱られた。だけれど、声に力がないねえ。(とまた案ずる。)
早瀬 早く行って来ないかよ。
お蔦 あいよ。そうそう、鬱陶 しいからって、貴方が脱いだ外套 をここに置きますよ。夜露がかかる、着た方が可 いわ。

お蔦 (拍手 うつ。)
天神様、天神様。
早瀬 何だ、ぶしつけな。
お蔦 (それには答えず)やどをお頼み申上げます。
早瀬 (ほろりと泣く。)
お蔦 (行 きかけつつ)貴方、見ていて下さいな、石段を下りるまで、私一人じゃ可恐 いんですもの。
早瀬 それ見ろ、弱虫。人の事を云う癖に。何だ、下谷 上野の一人あるきが出来ない娘じゃないじゃないか。
お蔦 そりゃ褄 を取ってりゃ、鬼が来ても可 いけれども、今じゃ按摩 も可恐 いんだもの。
早瀬 可 し、大きな目を開 いて見ていてやる。大丈夫だ、早く行 きなよ。
お蔦 あい。

早瀬見送る。||お蔦行 く。||
······························
······························

このうたいっぱいに、お蔦急ぎあしに引返す。
早瀬、腕を拱 きものおもいに沈む。
早瀬、腕を
お蔦 (うしろより)貴方、今帰ってよ。兄さん。
早瀬 ああ。
お蔦 私は······こっちよ。
早瀬 おお早かったな。
お蔦 いいえ、お待遠さま。······私、何だか、案じられて気が急 いて、貴方、ちょっと顔を見せて頂戴(背ける顔を目にして縋 る)ああ(嬉しそうに)久しぶりで逢ったようよ。(さし覗 く)どうしたの。やはり屈託そうな顔をして。||こうやって一所に来たのは嬉しいけれど、しつけない事して、||天神様のお傍 はよし、ここを離れて途中でまた、魔がさすと不可 ません。急いで電車で帰りましょう。
早瀬 お前、せいせい云って、ちと休むが可 い。
お蔦 もう沢山。
早瀬 おまいりをして来たかい。
お蔦 ええ、仲町 の角から、(軽く合掌す)手を合せて。
早瀬 何と云ってさ。
お蔦 まあ、そんな事。
早瀬 聞きたいんだよ。
お蔦 ええ、話すわ。貴方に御両親はありません、その御両親とも、お主とも思います。貴方の大事なお師匠さま、真砂町 の先生、奥様、お二方を第一に、御機嫌よう、お達者なよう。そして、可愛いお嬢さんが、決 して決して河野 なんかと御縁組なさいませんよう。
早瀬 それから。
お蔦 それから?
早瀬 それから、······
お蔦 だって、あとは分ってるじゃありませんかね。ほほほほ。
早瀬 (ともに寂しく笑う)ははは、で、何を買って来たんだい、買いものは。
お蔦 (無邪気に莞爾々々 しつつ)いいもの、······でも、お前さんには気に入らないもの、それでも、気に入らせないじゃおかないもの、嬉しいもの、憎いもの、ちょっと極 りの悪いもの。
早瀬 何だよ、何だよ。
お蔦 ああ、悪かった。······坊やはお土産を待っていたんだよ。そんなら、何か買って上げりゃ可 かった。······堪忍おしよ。いい児 だねえ。
早瀬 可 いから、何を買ったんだよ。
お蔦 見せましょうか、叱らない?
早瀬 ············
お蔦 叱ったって、もう買ったんだから構わない、(風呂敷より紙づつみを出す)髷形 よ、円髷 の。仲町に評判な内があるんですわ。
早瀬 髷形を、お蔦。(思わずそのつつみに手を掛く)俺 の位牌 でも買や可 いのに。
お蔦 まあ、お位牌はちゃんと飾って、貴方のおふた親に、お気に入らないかも知れないけれど、私ゃ、私ばかりは嫁の気で、届かぬながら、朝晩おもりをしていますわ。
早瀬 樹から落ちた俺の身体 だ。······優しい嫁の孝行で、はじめて戒名が出来たくらいだ。俺は勘当されたッて。······何をお前、両親がお前に不足があるものか。||位牌と云うのは俺の位牌だ。||
お蔦 ええ。
早瀬 お蔦、もう俺ゃ死んだ気になって、お前に話したい事がある。
お蔦 (聞くと斉 しく慌 しく両手にて両方の耳を蔽 う。)
早瀬 ちょっと、もう一度掛けてくれ。
お蔦 (ものも言わず、頭をふる。)
早瀬 よ。(と胸に手を当て、おそうとして、火に触れたるがごとく、ツト手を引く)死ぬ気になって、と聞いたばかりで、動悸 はどうだ、震えている。稲妻を浴びせたように······可哀相 に······チョッいっそ二人で巡礼でも。······いやいや先生に誓った上は。||ええ、俺は困った。どうしよう。(倒るるがごとくベンチにうつむく。)
お蔦 (見て、優しく擦寄る)聞かして下さい、聞かして下さい、私ゃ心配で身体 がすくむ。(と忙 しく)早く聞かして下さいな。(と静 に云う。)
早瀬 俺が死んだと思って聞けよ。
お蔦 可厭 。(烈 しく再び耳を圧 う)何を聞くのか知らないけれど、貴下 この二三日の様子じゃ、雷様より私は可恐 いよ。
早瀬 (肩に手を置く)やあ、ほんとに、わなわな震えて。
お蔦 ええ、たとい弱くッて震えても、貴方の身替りに死ねとでも云うんなら、喜んで聞いてあげます。貴方が死んだつもりだなんて、私ゃ死ぬまで聞きませんよ。
早瀬 おお、お前も殺さん、俺も死なない、が聞いてくれ。
お蔦 そんなら、······でも、可恐 いから、目を瞑 いで。
早瀬 お蔦。
お蔦 ············
早瀬 俺とこれッきり別れるんだ。
お蔦 ええ。
早瀬 思切って別れてくれ。
お蔦 早瀬さん。
早瀬 ············
お蔦 串戯 じゃ、||貴方、なさそうねえ。
早瀬 洒落 や串戯で、こ、こんな事が。俺は夢になれと思っている。

お蔦 ほんとうなのねえ。
早瀬 俺があやまる、頭を下げるよ。
お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。······私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。
ツンとしてそがいになる。
早瀬 お蔦、お蔦、俺は決して薄情じゃない。
お蔦 ええ、薄情とは思いません。
早瀬 誓ってお前を厭 きはしない。
お蔦 ええ、厭かれて堪 るもんですか。
早瀬 こっちを向いて、まあ、聞きなよ。他 に何も鬱 ぐ事はない、この二三日、顔を色を怪 まれる、屈託はこの事だ。今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目を覚 せば俺より前に、台所 でおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管 を支 いて、考えると見ればお菜 の献立、味噌漉 で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯 して、合せる手を見るにつけ、咽喉 を切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。先刻 も先刻、今も今、優しいこと、嬉しいこと、可愛いことを聞くにつけ、云おう云おうと胸を衝くのは、罪も報いも無いものを背後 からだまし打 に、岩か玄翁 でその身体 を打砕くような思いがして、俺は冷汗に血が交った。な、こんな思 をするんだもの、よくせきな事だと断念 めて、きれると承知をしてくんな。······お前に、そんなに拗 ねられては、俺は活 きてる空はない。
お蔦 ですから、死ねとおっしゃいよ。切れろ、別れろ、と云うから可厭 なの。死ねなら、あい、と云いますわ。私ゃ生命 は惜 くはない。
早瀬 さあ、その生命に、俺の生命を、二つ合せても足りないほどな、大事な方を知っているか。お前が神仏 を念ずるにも、まず第一に拝むと云った、その言葉が嘘でなければ、言わずとも分るだろう。そのお方のいいつけなんだ。
お蔦 (消ゆるがごとく崩折 れる)ええ、それじゃ、貴方の心でなく、別れろ、とおっしゃるのは、真砂町の先生の。(と茫然 とす。)
早瀬 己 は死ぬにも死なれない。(身を悶 ゆ。)
お蔦 (はっと泣いて、早瀬に縋 る。)

この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながら徐 にベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬の袂 を控う。
お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでしょうか。
早瀬 実は柏家 の奥座敷で、胸に匕首 を刺されるような、御意見を被 った。小芳 さんも、蒼 くなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれ死 をしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色 ばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、······小芳さんの生命 を懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者の真 を御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男に焦 れて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体 ない、意地で先生に楯 を突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!||死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、······お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返 して出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、傍 で聞く俺が極 りの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、||四の五の云うな、一も二もない||俺を棄てるか、婦 を棄てるか、さあ、どうだ||と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際 、俺は何とも、他 に言うべき言葉を知らん。
お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、確 に誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は······それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分 けてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど······やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 ············
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれに且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸に縋 って、顔を見合わす。)

お蔦 見納めかねえ||それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子 がある、······下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取ると斉 しく)手切れかい、失礼な、(と擲 たんとして、腕の萎 えたる状 )あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形 の包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄 って行きたいけれど、それでは拗 ねるに当るから。
早瀬 で、お前はどうする。
お蔦 私より貴方は······そうね、お源坊が実体 に働きますから、当分我慢が出来ましょう。私······もう、やがて、船の胡瓜 も出るし、お前さんの好きなお香々 をおいしくして食べさせて誉 められようと思ったけれど、······ああ何も言うのも愚痴 らしい。あの、それよりか、お前さんは私にばかり我ままを云う癖に、遠慮深くって女中にも用はいいつけ得ないんだもの。······これからはね、思うように用をさして、不自由をなさいますな。······寝冷 をしては不可 ませんよ。私、山百合を買って来て、早く咲くのを見ようと思って、莟 を吹いて、ふくらましていたんですよ、水を遣 って下さいな······それから。
早瀬 (うつむいて頷 いてのみいる、堪 りかねて)俺も世帯を持っちゃいないよ。お前にわかれて、何の洒落 に。
お蔦 まあ、どうして。
早瀬 それでなくッてさえ、掏賊 の同類だ、あいずりだと、新聞で囃 されて、そこらに、のめのめ居られるものか。長屋は藻 ぬけて、静岡へ駈落 だ。少し考えた事もあるし、当分引込 んでいようと思う。
お蔦 遠いわねえ。静岡ッて箱根のもッと先ですか。貴方がここに待っていて、石段を下りたばかりでさえ、気が急 いてならなかったに、またいつ、お目にかかれるやら。(と膝にうつむく。)
早瀬 お蔦、お前は、それだから案じられる。忘れても一人でなんぞ、江戸の土を離れるな。静岡は箱根より遠いかは心細い。······ああ、親はなし、兄弟はなし、伯父叔母というものもなし、俺ばっかりをたよりにしたのに、せめて、従兄妹 が一人ありゃ、俺は、こんな思いはしやしない!······よう、お蔦、そしてお前は当分どうするつもりだ。
お蔦 (顔を上ぐ)貴方こそ、水がわり、たべものに気をつけて下さいよ。私の事はそんなに案じないが可 うござんす。小児 の時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返 しなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、お酌 さんの桃割 なんか、お世辞にも誉 められました。めの字のかみさんが幸い髪結 をしていますから、八丁堀へ世話になって、梳手 に使ってもらいますわ。
早瀬 すき手にかい。
お蔦 ええ、修業をして。······貴方よりさきへ死ぬまで、人さんの髪を結 ましょう。私は尼になった気で、(風呂敷を髪に姉 さんかぶりす)円髷 に結 って見せたかったけれど、いっそこの方が似合うでしょう。
早瀬 (そのかぶりものを、引手繰 ってつつと立つ)さあ、一所に帰ろう。
お蔦 (外套を羽織らせながら)あの······今夜は内へ帰っても可 いの。
早瀬 よく、肯分 けた、お蔦、それじゃ、すぐに、とぼとぼと八丁堀へ行く気だったか。
お蔦 ええ、そうよ。······じゃ、もう一度、雀に餌 が遣れるのね、よく馴染 んで、
子窓 の中まで来て、可愛いッたらないんですもの。······これまで別れるのは辛かったわ。

早瀬 何も言わん。さあ、せめて、かえりに、好きな我儘 を云っておくれ。
お蔦 (猶予 いつつ)手を曳 いて。

この間に早瀬手を取る、お蔦振返る早瀬もともに、ふりかえり伏拝む。
さて行 かんとして、お蔦衝 と一方に身を離す。
さて
早瀬 どこへ行く。
お蔦 一人々々両側へ、別れたあとの心持を、しみじみ思って歩行 いてみますわ。
早瀬 (頷 く。舞台を左右へ。)
お蔦 でも、もう我慢がし切れなくなって、私もしか倒れたら、駈 けつけて下さいよ。
早瀬 (頷く。)
お蔦 切通しを帰るんだわね、おもいを切って通すんでなく、身体 を裂いて分れるような。
早瀬 (頷く。)
お蔦しおしおと行 きかかり、胸のいたみをおさえて立留 る、早瀬ハッと向合う。両方おもてを見合わす。

幕外へ。

男は足早に、女は静 に。
||幕||
大正三(一九一四)年十月