向うの小沢に
蛇が立って、
八幡長者の、おと娘、
よくも立ったり、巧んだり。
手には二本の
珠を持ち、
足には
黄金の靴を
穿き、
ああよべ、こうよべと云いながら、
山くれ野くれ行ったれば
············ 一
三浦の
大崩壊を、魔所だと云う。
葉山一帯の海岸を
屏風で
劃った、桜山の
裾が、見も
馴れぬ
獣のごとく、
洋へ躍込んだ、一方は長者園の浜で、
逗子から森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の
時分、
人死のあるのは、この辺ではここが多い。
一夏
激い暑さに、雲の峰も焼いた
霰のように小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になって
覆れそうな
日盛に、これから
湧いて出て人間になろうと思われる
裸体の男女が、
入交りに波に浮んでいると、
赫とただ金銀銅鉄、
真白に溶けた
霄の、どこに
亀裂が入ったか、
破鐘のようなる声して、
「泳ぐもの、帰れ。」と叫んだ。
この
呪詛のために、浮べる
輩はぶくりと沈んで、
四辺は
白泡となったと聞く。
また十七ばかり少年の、
肋膜炎を病んだ挙句が、保養にとて来ていたが、
可恐く
身体を気にして、自分で病理学まで研究して、0,
[#「,」は天地左右中央]などと調合する、
朝夕検温気で度を
料る、三度の食事も
度量衡で食べるのが、秋の暮方、誰も居ない浪打際を、生白い
痩脛の
高端折、
跣足でちょびちょび横
歩行きで、日課のごとき運動をしながら、つくづく不平らしく、海に向って、高慢な舌打して、
「ああ、退屈だ。」
と
呟くと、頭上の
崖の
胴中から、異声を放って、
「親孝行でもしろ
||」と
喚いた。
ために、その少年は
太く煩い附いたと云う。
そんなこんなで、そこが魔所だの風説は、近頃一層甚しくなって、知らずに
大崩壊へ
上るのを、土地の者が見着けると、百姓は
鍬を
杖支き、船頭は
舳に立って、下りろ、危い、と声を懸ける。
実際魔所でなくとも、大崩壊の絶頂は
薬研を
俯向けに伏せたようで、
跨ぐと
鐙の無いばかり。馬の背に立つ
巌、狭く鋭く、
踵から、
爪先から、ずかり
中窪に削った
断崖の、見下ろす
麓の白浪に、
揺落さるる
思がある。
さて一方は長者園の
渚へは、浦の波が、
静に
展いて、
忙しくしかも
長閑に、
鶏の
羽たたく音がするのに、ただ
切立ての
巌一枚、一方は太平洋の
大濤が、牛の
吼ゆるがごとき声して、
緩かにしかも
凄じく、うう、おお、と
呻って、三崎街道の外浜に大
畝りを打つのである。
右から左へ、わずかに瞳を動かすさえ、
杜若咲く八ツ橋と、月の武蔵野ほどに趣が激変して、浦には白帆の
鴎が舞い、沖を
黒煙の竜が
奔る。
これだけでも
眩くばかりなるに、
蹈む
足許は、岩のその
剣の刃を渡るよう。
取縋る松の枝の、海を分けて、
種々の波の調べの
懸るのも、人が縋れば根が揺れて、
攀上った
喘ぎも
留まぬに、汗を
冷うする風が絶えぬ。
さればとて、これがためにその景勝を
傷けてはならぬ。
大崩壊の
巌の
膚は、春は紫に、夏は緑、秋
紅に、冬は黄に、藤を編み、
蔦を
絡い、
鼓子花も咲き、
竜胆も咲き、尾花が
靡けば月も
射す。いで、
紺青の波を蹈んで、水天の間に糸のごとき大島山に飛ばんず姿。巨匠が
鑿を施した、青銅の
獅子の
俤あり。その美しき花の衣は、彼が威霊を
称えたる
牡丹花の
飾に似て、根に寄る潮の玉を砕くは、日に
黄金、月に白銀、あるいは怒り、あるいは殺す、
鋭き大自在の爪かと見ゆる。
二
修業中の小次郎法師が、諸国一見の
途次、相州三崎まわりをして、
秋谷の海岸を通った時の事である。
件の
大崩壊の海に突出でた、獅子王の腹を、太平洋の方から一町ばかり
前途に見渡す、街道
端の
||直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる
||江の島と富士とを、
簾に透かして描いたような、ちょっとした
葭簀張の茶店に休むと、
媼が口の長い
鉄葉の
湯沸から、渋茶を
注いで、
人皇何代の
御時かの箱根細工の木地盆に、
装溢れるばかりなのを差出した。
床几の
在処も狭いから、今注いだので、
引傾いた、湯沸の口を吹出す湯気は、むらむらと、法師の胸に
靡いたが、それさえ
颯と涼しい風で、冷い霧のかかるような、
法衣の袖は葭簀を擦って、外の小松へ飜る。
爽な心持に、道中の里程を書いた、名古屋扇も開くに及ばず、畳んだなり、肩をはずした振分けの小さな荷物の、白木綿の
繋ぎめを、
押遣って、
「千両、」とがぶりと呑み、
「ああ、
旨い、これは結構。」と
莞爾して、
「おいしいついでに、何と、それも
甘そうだね、二ツ三ツ取って下さい。」
「はいはい、この団子でござりますか。これは
貴方、田舎出来で、
沢山甘くはござりませぬが、そのかわり、皮も
餡子も、小米と小豆の
生一本でござります。」
と小さな
丸髷を、ほくほくもの、
折敷の上へ小綺麗に取ってくれる。
扇子だけ床几に置いて、渋茶茶碗を持ったまま、一ツ
撮もうとした時であった。
「ヒイ、ヒイヒイ!」と
唐突に奇声を放った、
濁声の
蜩一匹。
法師が入った口とは
対向い、大崩壊の方の床几のはずれに、竹柱に留まって
前刻から
||胸をはだけた、手織
縞の汚れた
単衣に、
弛んだ帯、煮染めたような
手拭をわがねた首から、
頸へかけて、耳を
蔽うまで髪の伸びた、色の黒い、
巌乗造りの、身の丈抜群なる
和郎一人。目の光の
晃々と
冴えたに似ず、あんぐりと口を開けて、厚い下唇を垂れたのが、別に見るものもない茶店の世帯を、きょろきょろと

していたのがあって
||お百姓に、船頭殿は稼ぎ時、土方人足も働き盛り、日脚の八ツさがりをその
体は、いずれ
界隈の
怠惰ものと見たばかり。小次郎法師は、別に心にも留めなかったが、不意の笑声に一驚を
吃して、和郎の顔と、折敷の団子を見
較べた。
「
串戯ではない、お
婆さん、お前は見懸けに寄らぬ
剽軽ものだね。」
「何でござりますえ。」
「いいえさ、この団子は、こりゃ泥か
埴土で
製えたのじゃないのかい。」
「滅相なことをおっしゃりまし。」
と
年寄は真顔になり、見上げ
皺を
沢山寄せて、
「何を貴方、勿体もない。
私もはい
法然様拝みますものでござります。
吝嗇坊の柿の種が、小判小粒になればと云うて、御出家に土の団子を差上げまして済むものでござりますかよ。」
真正直に言訳されて、小次郎法師はちと気の毒。
「何々、そう真に受けられては困ります。この涼しさに元気づいて、半分は
冗戯だが、旅をすれば色々の事がある。
駿州の阿部川
餅は、そっくり
正のものに木で
拵えたのを、盆にのせて、看板に出してあると云います。今これを食べようとするのを見てその人が、」
と
其方を見た、和郎はきょとんと
仰向いて、烏も
居らぬに何じゃやら、
頻に空を仰いでござる。
「
唐突に笑うから、ははあ、この団子も看板を取違えたのかと思ったんだよ。」
「ええ、ええ、いいえ、お前様、」
とこざっぱりした前かけの
膝を
拍き、近寄って声を
密め、
「これは、もし気ちがいでござりますよ。はい、」
と云って、独りで
媼は
頷いた。問わせたまわば、その
仔細の儀は承知の趣。
三
小次郎法師は、
掛茶屋の
庇から、
天へ
蝙蝠を吹出しそうに
仰向いた、
和郎の
面を
斜に見
遣って、
「そう、気違いかい。私はまた
唖ででもあろうかと思った、立派な若い人が気の毒な。」
「お前様ね、一ツは心柄でござりますよ。」
媼は、罪と
報を、且つ悟り且つあきらめたようなものいい。
「何か
憑物でもしたというのか、暮し向きの屈託とでもいう事か。」
と言い懸けて、渋茶にまた舌打しながら、円い茶の子を口の
端へ持って
行くと、さあらぬ
方を見ていながら天眼通でもある事か、
逸疾くぎろりと見附けて、
「やあ、石を
噛りゃあがる。」
小次郎再び
化転して、
「あんな事を云うよ、お婆さん。」
「悪い餓鬼じゃ。
嘉吉や、
主あ、もうあっちへ
行かっしゃいよ。」
その本体はかえって
差措き、砂地に
這った、
朦朧とした影に向って、
窘めるように言った。
潮は光るが、空は折から薄曇りである。
法師もこれあるがために暗いような、和郎の影法師を伏目に見て、
「一ツ分けてやりましょうかね。団子が欲しいのかも知れん、それだと思いが
可恐しい。ほんとうに石にでもなると大変。」
「
食気の
狂人ではござりませんに、御無用になさりまし。
石じゃ、と申しましたのは、これでもいくらか、不断の事を、覚えていると見えまして、
私がいつでもお客様に差上げますのを知っておりまして、今のように云うたのでござりましょ。
また
埴土の団子じゃ、とおっしゃってはなりません。このお前様。」
と、法師の脱いで立てかけた、
檜笠を両手に据えて、荷物の上へ直すついでに、目で教えたる
葭簀の外。
さっくと削った
荒造の仁王尊が、
引組む
状の
巌続き、海を踏んで
突立つ間に、
倒に生えかかった
竹藪を
一叢隔てて、同じ
巌の六枚
屏風、月には
蒼き
俤立とう
||ちらほらと松も見えて、いろいろの浪を
縅した、
鎧の袖を
※[#「さんずい+散」、125-12]に
翳す。
「あれを
貴下、お通りがかりに、
御覧じはなさりませんか。」
と
背向きになって小腰を
屈め、
姥は七輪の炭をがさがさと
火箸で直すと、
薬缶の尻が合点で、ちゃんと据わる。
「どの道貴下には御用はござりますまいなれど、
大崩壊の
突端と
睨み合いに、出張っておりますあの
巌を、」
と立直って指をさしたが、片手は据え腰を、えいさ、と抱きつつ、
「あれ、あれでござります。」
波が寄せて、あたかも風鈴が砕けた形に、ばらばらとその
巌端に
打かかる。
「あの、岩一枚、
子産石と申しまして、小さなのは
細螺、
碁石ぐらい、頃あいの
御供餅ほどのから、大きなのになりますと、一人では持切れませぬようなのまで、こっとり円い、ちっと、
平扁味のあります石が、どこからとなくころころと産れますでございます。
その平扁味な処が、
恰好よく乗りますから、二つかさねて、お持仏なり、神棚へなり、お祭りになりますと、子の無い方が、いや、もう、年子にお出来なさりますと、申しますので。
随分お望みなさる方が多うございますが、当節では、人がせせこましくなりました。お前様、
蓆戸の
圧えにも持って参れば、二人がかりで、沢庵石に
荷って帰りますのさえござりますに因って、今が今と申して、早急には見当りませぬ。
随分と御遠方、わざわざ拾いにござらして、力を落す方がござりますので、こうやって近間に店を出しておりますから、朝晩
汐時を見ては拾っておきまして、お客様には、お土産かたがた、毎度
婆々が
御愛嬌に進ぜるものでござりますから、つい人様が御存じで、葉山あたりから遊びにござります、書生さんなぞは、
(婆さん、子は要らんが、女親を一つ
寄越せ。)
なんて、おからかいなされまする。
それを見い見い知っていて、この嘉吉の
狂人が、いかな事、
私があげましたものを
召食ろうとするのを見て、石じゃ、と云うのでござりますよ。」
四
「それではお婆さん楽隠居だ。孫子がさぞ大勢あんなさろうね。」
と小次郎法師は、話を聞き聞き、子産石の
方を
覗きたれば、面白や浪の、云うことも上の空。
トお茶
注しましょうと出しかけた、
塗盆を膝に伏せて、ふと黙って、
姥は寂しそうに傾いたが、
「何のお前様、この年になりますまで、孫子の影も見はしませぬ。
爺殿と二人きりで、雨のさみしさ、
行燈の薄寒さに、心細う、
果敢ないにつけまして、
小児衆を欲しがるお方の、お心を察しますで、のう、子産石も一つ一つ、信心して進じます。
長い月日の事でござりますから、里の人達は
私等が事を、人に子だねを進ぜるで、二人が実を持たぬのじゃ、と云いますがの、今ではそれさえ本望で、せめてもの心ゆかしでござりますよ。」
とかごとがましい口ぶりだったが、柔和な顔に
顰みも見えず、温順に
莞爾して、
「
御新造様がおありなさりますれば、
御坊様にも一かさね、子産石を進ぜましょうに
······」
「とんでもない。この団子でも石になれば、それで村方
勧化でもしようけれど、あいにく三界に家なしです。
しかし今聞いたようでは、さぞお前さんがたは
寂しかろうね。」
「はい、はい、いえ、御坊様の前で申しましては、お
追従のようでござりますが、仏様は御方便、
難有いことでござります。こうやって
愛想気もない
婆々が
許でも、お休み下さりますお人たちに、お茶のお給仕をしておりますれば、何やかや
賑やかで、世間話で、ついうかうかと日を暮しますでござります。
ああ、もしもし、」
と街道へ、
「休まっしゃりまし。」と呼びかけた。
車輪のごとき
大さの、紅白
段々の夏の蝶、
河床は草にかくれて、清水のあとの土に輝く、山際に翼を廻すは、白の
脚絆、
草鞋穿、かすりの
単衣のまくり手に、その看板の
洋傘を、
手拭持つ手に
差翳した、
三十ばかりの女房で。
あんぺら帽子を
阿弥陀かぶり、
縞の
襯衣の
大膚脱、赤い
団扇を帯にさして、
手甲、
甲掛厳重に、荷をかついで続くは亭主。
店から呼んだ姥の声に、女房がちょっと会釈する時、
束髪の
鬢が
戦いで、
前を急ぐか、そのまま通る。
前帯をしゃんとした細腰を、
廂にぶらさがるようにして、
綻びた脇の下から、
狂人の嘉吉は、きょろりと一目。
ふらふらと
葭簀を離れて、早や六七間行過ぎた、女房のあとを、すたすたと
跣足の
砂路。
ほこりを黄色に、ばっと立てて、擦寄って、
附着いたが、女房のその
洋傘から
伸かかって
見越入道。
「イヒヒ、イヒヒヒ、」
「これ、
悪戯をするでないよ。」
と姥が
爪立って
窘めたのと、笑声が、ほとんど一所に小次郎法師の耳に入った。
あたかもその時、亭主驚いたか高調子に、
「傘や
洋傘の繕い!
||洋傘張替繕い直し
······」
蝉の鳴く
音を貫いて、誰も通らぬ
四辺に響いた。
隙さず、この不気味な和郎を、女房から押隔てて、荷を
真中へ振込むと、
流眄に一
睨み、直ぐ、
急足になるあとから、和郎は、のそのそ
||大な影を引いて続く。
「
御覧じまし、あの通り困ったものでござります。」
法師も言葉なく見送るうち、沖から来るか、途絶えては、ずしりと崖を打つ音が、松風と行違いに、向うの山に三度ばかり浪の調べを通わすほどに、紅白
段々の
洋傘は、小さく
鞠のようになって、人の
頭が
入交ぜに、空へ突きながら
行くかと見えて、
一条道のそこまでは一軒の
苫屋もない、
彼方大崩壊の腰を、
点々。
五
「あれ、あの
大崩壊の崖の
前途へ、皆が見えなくなりました。
ちょうど、あれを出ました、下の浜でござります。
唯今の
狂人が、酒に酔って
打倒れておりましたのは
······はい、あれは嘉吉と申しまして、
私等秋谷在の、いけずな野郎でござりましての。
その飲んだくれます事、怠ける
工合、まともな人間から見ますれば、
真に正気の
沙汰ではござりませなんだが、それでもどうやら人並に、正月はめでたがり、盆は忙しがりまして、別に気が触れた
奴ではござりません。いつでも村の
御祭礼のように、遊ぶが
病気でござりましたが、この春頃に、何と発心をしましたか、自分が望みで、三浦三崎のさる
酒問屋へ、奉公をしたでござります。
つい夏の
取着きに、御主人のいいつけで、
清酒をの、お前様、
沢山でもござりませぬ。
三樽ばかり船に積んで、船頭殿が一人、嘉吉めが
上乗りで、この葉山の小売
店へ卸しに来たでござります。
葉山森戸などへ三崎の方から帰ります、この辺のお百姓や、漁師たち、顔を知ったものが、途中から、
乗けてくらっせえ、明いてる船じゃ、と
渡場でも船つきでもござりませぬ。海岸の岩の上や、
磯の松の根方から、おおいおおい、と
板東声で呼ばり立って、とうとう五人がとこ押込みましたは、以上七人になりました、よの。
どれもどれも、
碌でなしが、得手に帆じゃ。船は走る、口は
辷る、
凪はよし、大話しをし
草臥れ、嘉吉めは胴の
間の横木を枕に、
踏反返って、ぐうぐう
高鼾になったげにござります。
路に
灘はござりませぬが、樽の香が
芬々して、
鮹も浮きそうな凪の
好さ。せめて船にでも酔いたい、と一人が
串戯に言い出しますと、何と一樽
賭けまいか、飲むことは銘々が勝手次第、勝負の上から代銭を払えば
可い、面白い、
遣るべいじゃ。
煙管の吸口ででも結構に樽へ穴を開ける
徒が、大びらに呑口切って、お前様、お船頭、弁当箱の
空はなしか、といびつ
形の
切溜を、大海でざぶりとゆすいで、その皮づつみに、せせり残しの、醤油かすを指のさきで
嘗めながら、まわしのみの
煽っきり。
天下晴れて、財布の
紐を外すやら、胴巻を解くやらして、
賭博をはじめますと、お船頭が黙ってはおりませぬ。」
「
叱言を云って留めましたか。さすがは船頭、字で書いても船の
頭だね。」
と真顔で法師の言うのを聞いて、
姥は、いかさまな、その
年少で、出家でもしそうな人、とさも
憐んだ趣で、
「まあ、お人の
好い。なるほど船頭を字に書けば、船の頭でござりましょ。そりゃもう船の頭だけに、
極り処はちゃんと極って、間違いのない事をいたしました。」
「どうしたかね。」
「五人
徒が
賽の目に並んでおります、
真中へ割込んで、まず帆を下ろしたのでござります。」
と
莞爾して顔を見る。
いささかもその意を得ないで、
「なぜだろうかね。」
「この追手じゃ、帆があっては、丁と云う間に葉山へ着く。ふわふわと
海月泳ぎに、船を浮かせながらゆっくり遣るべい。
その事よ。四海波静かにて、波も動かぬ時津風、枝を鳴らさぬ
御代なれや、と勿体ない、祝言の
小謡を、
聞噛りに
謳う下から、勝負!とそれ、
銭の
取遣り。板子の下が地獄なら、上も
修羅道でござります。」
「船頭も同類かい、何の事じゃ、」
と法師は
新になみなみとある茶碗を大切そうに両手で持って、苦笑いをするのであった。
「それはお前様、あの
徒と申しますものは、
······まあ、海へ出て岸をば

して
御覧じまし。
巌の窪みはどこもかしこも、
賭博の
壺に、
鰒の
蓋。
蟹の穴でない処は、皆
意銭のあとでござります。珍しい事も、不思議な事もないけれど、その時のは、はい、嘉吉に取っては、あやかしが着きましたじゃ。のう、
便船しょう、便船しょう、と船を
渚へ引寄せては、
巌端から、松の下から、
飜然々々と乗りましたのは、魔がさしたのでござりましたよ。」
六
「魅入られたようになりまして、ぐっすり寝込みました嘉吉の奴。浪の音は耳
馴れても、
磯近へ
舳が廻って、松の風に揺り起され、肌寒うなって目を覚ましますと、そのお前様
······体裁。
山へ
上ったというではなし、たかだか船の中の車座、そんな事は平気な野郎も、酒樽の
三番叟、とうとうたらりたらりには肝を
潰して、(やい、
此奴等、)とはずみに
引傾がります船底へ、仁王立に
踏ごたえて、
喚いたそうにござります。
騒ぐな。
騒ぐまいてや、やい、嘉吉、こう見た処で、二
歩と一両、貴様に
貸のない顔はないけれど、主人のものじゃ。
引負をさせてまで、勘定を合わしょうなんど
因業な事は言わぬ。場銭を集めて一樽買ったら言分あるまい。代物さえ持って帰れば、どこへ売っても
仔細はない。
なるほど言われればその通り、言訳の出来ぬことはござりませぬわ、のう。
銭さえ払えば
可いとして、船頭やい、船はどうする、と嘉吉が云いますと、ばら銭を
掴った
拳を
向顱巻の上さ突出して、半だ半だ、何、船だ。船だ船だ、と夢中でおります。
嘉吉が、そこで、はい、
櫓を握って、ぎっちらこ。幽霊船の
歩に取られたような顔つきで、
漕出したげでござりますが、酒の
匂に我慢が出来ず
······ 御繁昌の
旦那から、一杯おみきを遣わされ、と
咽喉をごくごくさして、口を開けるで、さあ、飲まっせえ、と
注ぎにかかる、と
幾干か差引くか、と念を推したげで、のう、ここらは
確でござりました。
幡随院長兵衛じゃ、酒を振舞うて銭を取るか。しみったれたことを云うな、と勝った奴がいきります。
お
手渡で下される儀は、皆の衆も御面倒、これへ、と云うて、あか
柄杓を突出いて、どうどうと受けました。あの
大面が、お前様、片手で櫓を、はい、押しながら、その
馬柄杓のようなもので、片手で、ぐいぐいと
煽ったげな。
酒は一樽
打抜いたで、ちっとも
惜気はござりませぬ。海からでも湧出すように、大気になって、もう一つやらっせえ、丁だ、それ、心祝いに飲ますべい、代は要らぬ。
帰命頂礼、
賽ころ明神の
兀天窓、光る光る、と
追従云うて、あか柄杓へまた一杯、煽るほどに飲むほどに、
櫓拍子が乱になって、船はぐらぐら大揺れ小揺れじゃ、こりゃならぬ、賽が
据らぬ。
ええ、気に入らずば代って
漕げさ、と滅多押しに、それでも、
大崩壊の鼻を廻って、出島の中へ漕ぎ入れたでござります。
さあ、
内海の青畳、座敷へ入ったも
同じじゃ、と心が緩むと、嘉吉
奴が、酒代を渡してくれ、勝負が済むまで内金を受取ろう、と櫓を離した手に
銭を握ると、懐へでも入れることか、片手に、あか
柄杓を持ったなりで、チョボ一の中へ飛込みましたが。
はて、
河童野郎、
身投するより始末の悪さ。こうなっては、お前様、もう浮ぶ瀬はござりませぬ。
取られて取られて、とうとう、のう、御主人へ持って
行く、一樽のお代を
無にしました。処で、
自棄じゃ、賽の目が
十に見えて、わいらの頭が五十ある、浜がぐるぐる廻るわ廻るわ。さあ漕がば漕げ、殺さば殺せ、とまたふんぞった時分には、ものの一斗ぐらい嘉吉一人で飲んだであろ。七人のあたまさえ四斗樽、これがあらかた片附いて、浜へ樽を上げた時、重いつもりで両手をかけて、えい、と腰を切った拍子抜けに、向うへのめって、樽が、ばっちゃん、嘉吉がころり、どんとのめりましたきり、早や死んだも同然。
船はそれまで、ぐるりぐるりと長者園の浦を廻って、ちょうどあの、活動写真の難船見たよう、波風の音もせずに漂うていましたげな。
両膚脱の胸毛や、
大胡坐の脛の毛へ、夕風が
颯とかかって、
悚然として、
皆が少し正気づくと、一ツ星も見えまする。
大巌の崖が薄黒く、目の前へ
蔽被さって、
物凄うもなりましたので、
褌を
緊め直すやら、
膝小僧を合わせるやら、お船頭が、ほういほうい、と鳥のような懸声で、浜へ船をつけまして、正体のない嘉吉を
撲ぐる。と、むっくり起きたが、その酒樽の軽いのに、本性
違わず
気落がして、右の、倒れたものでござりますよ。はい。」
七
「
仰向様に、火のような息を吹いて、
身体から
染出します、酒が砂へ露を打つ。晩方の涼しさにも、蚊や蠅が寄って来る。
奴は、
打っても、叩いても、
起ることではござりませぬがの。
かかり
合は
免れぬ、と
小力のある男が、力を貸して、船頭まじりに、この
徒とて
確ではござりませなんだ。ひょろひょろしながら、あとのまず二
樽は、
荷って小売
店へ届けました。
嘉吉の始末でござります。それなり船の荷物にして、積んで帰れば片附きますが、
死骸ではない、酔ったもの、
醒めた時の挨拶が厄介じゃ、とお船頭は
遁を打って、帆を掛けて、海の
靄へと隠れました。
どの道訳を立ていでは、主人方へ帰られる身体ではござりませぬで、一まず、秋谷の
親許へ届ける相談にかかりましたが、またこのお荷物が、御覧の通りの大男。それに、はい、のめったきり、
捏でも動かぬに
困じ果てて、すっぱすっぱ
煙草を吹かすやら、お前様、
嚔をするやら、
向脛へ
集る蚊を
踵で
揉殺すやら、泥に酔った
大鮫のような嘉吉を、浪打際に
押取巻いて、小田原
評定。持て余しておりました処へ、ちょうど荷車を
曳きまして、藤沢から一日
路、この街道つづきの長者園の土手へ通りかかりましたのが
······」
茜色の
顱巻を、
白髪天窓にちょきり結び。結び目の
押立って、威勢の
可いのが、弁慶
蟹の、濡色あかき
鋏に似たのに、またその左の腕
片々、へし曲って脇腹へ、ぱツと
開け、ぐいと握る、指と
掌は動くけれども、
肱は
附着いてちっとも伸びず。
銅で鋳たような。
······その
仔細を尋ぬれば、心がらとは言いながら、
去る年、一
膳飯屋でぐでんになり、
冥途の宵を照らしますじゃ、と
碌でもない秀句を吐いて、
井桁の中に横
木瓜、田舎の
暗夜には通りものの
提灯を借りたので、
蠣殻道を照らしながら、安政の地震に出来た、古い処を、鼻唄で、
地が崩れそうなひょろひょろ
歩行き。
好い心持に眠気がさすと、邪魔な
灯を
肱にかけて、腕を
鍵形に両手を組み、ハテ怪しやな、
汝、
人魂か、
金精か、正体を
顕せろ! とトロンコの
据眼で、提灯を下目に
睨む、とぐたりとなった、並木の下。地虫のような
鼾を立てつつ、大崩壊に
差懸ると、海が変って、太平洋を
煽る風に、提灯の
蝋が倒れて、めらめらと燃えついた。沖の
漁火を袖に呼んで、胸毛がじりじりに仰天し、やあ、コン畜生、火の車め、まだ
疾え、と鬼と組んだ横倒れ、
転廻って
揉消して、
生命に別条はなかった。が、その時の
大火傷、享年六十有七歳にして、生まれもつかぬ
不具もの
||渾名を、てんぼう
蟹の
宰八と云う、秋谷在の名物
親仁。
「
······私が
爺殿でござります。」
と
姥は云って、
微笑んだ。
小次郎法師は、
寿くごとく、
一揖して、
「成程、
尉殿だね。」と祝儀する。
「いえ、もう気ままものの碌でなしでござりますが、お
庇さまで、至って元気がようござりますので、御懇意な近所へは、
進退が
厭じゃ、とのう、葉山を越して、日影から、
田越逗子の方へ、遠くまで、てんぼうの肩に
背負籠して、
栄螺や、とこぶし、もろ
鯵の開き、うるめ
鰯の目刺など持ちましては、
飲代にいたしますが、その時はお前様、村のもとの庄屋様、代々長者の
鶴谷喜十郎様、」
と丁寧に名のりを上げて、
「これが
私ども、お
主筋に当りましての。そのお
邸の御用で、東海道の藤沢まで、買物に行ったのでござりました。
一月に一度ぐらいは、
種々入用のものを、塩やら醤油やら、小さなものは
洋燈の心まで、
一車ずつ調えさっしゃります。
横浜は西洋臭し、三崎は品が落着かず、
界隈は間に合わせの
俄仕入れ、しけものが多うござりますので、どうしても
目量のある、ずッしりしたお堅いものは、昔からの藤沢に限りますので、おねだんも安し、徳用向きゆえ、御大家の買物はまた別で、」
と姥は糸を操るような話しぶり。心のどかに口をまわして、自分もまたお茶参った。
しばらく往来もなかったのである。
八
「
······おう、宰八か。お
爺、在所へ帰るだら、これさ
一個、
産神様へ届けてくんな。ちょうどはい、その荷車は
幸だ、と言わっしゃる。
見ると、お前様、嘉吉めが、今申したその
体でござりましょ。
同じ産神様
氏子夥間じゃ。承知なれど、
私はこれ、手がこの通り、思うように荷が着けられぬ。
御身たちあんばいよう直さっしゃい、荷の上へ
載せべい、と
爺どのが云いますとの。
何お
爺い、そのまま上へ積まっしゃい、と早や二人して、嘉吉めが
天窓と足を、引立てるではござりませぬか。
爺どのが、待たっしゃい、鶴谷様のお使いで、綿を
大いこと買うて来たが、醤油樽や石油缶の下積になっては悪かんべいと、上荷に積んであるもんだ。喜十郎旦那が
許で、ふっくりと入れさっしゃる綿の初穂へ、その酒浸しの
怪物さ、
押ころばしては相成んねえ、
柔々積方も直さっしゃい、と利かぬ手の
拳を握って、
一力味力みましけ。
七面倒な、こうすべい、と荒稼ぎの
気短徒じゃ。お前様、
上かがりの縄の先を、嘉吉が
胴中へ
結へ附けて、車の輪に障らぬまでに、横づけに縛りました。
賃銭の外じゃ、落しても大事ない。さらば急いで帰らっしゃれ。しゃんしゃんと手を
拍いて、
賭博に勝ったものも、負けたものも、飲んだ酒と差引いて、誰も損はござりませぬ。
可い機嫌のそそり節、尻まで
捲った
脛の向く方へ、ぞろぞろと散ったげにござります。
爺どのは、どっこいしょ、と横木に肩を入れ直いて、てんぼうの片手押しは、胸が力でござります。人通りが少いで、露にひろがりました浜昼顔の、ちらちらと咲いた上を、ぐいと
曳出して、それから、がたがた。
大崩まで葉山からは、だらだらの
爪先上り。後はなぞえに下り道。車がはずんで、ごろごろと、
私がこの茶店の前まで参った時じゃ、と
······申します。
やい、枕をくれ、枕をくれ、と嘉吉めが
喚くげな。
何
吐すぞい、この野郎、
贅沢べいこくなてえ、
狐店の白ッ首と間違えてけつかるそうな、とぶつぶつ
口叱言を申しましての、爺どのが振向きもせずに、ぐんぐん
曳いたと思わっしゃりまし。」
「何か、夢でも見たろうかね。」
「夢どころではござりますか、お前様、直ぐに
縊殺されそうな声を出して、苦しい、苦しい、鼻血が出るわ、目がまうわ、
天窓を上へ上げてくれ。やい、どうするだ、さあ、殺さば殺せ、
漕がば漕げ、とまだ夢中で、嘉吉めは船に居る気でおります、よの。
胴中の縄が
弛んで、天窓が
地へ擦れ擦れに、
倒になっておりますそうな。こりゃもっともじゃ、のう、たっての
苦悩。
酒が
上って、
醒めずにいたりゃ本望だんべい、
俺ら手が利かねえだに、もうちっとだ辛抱せろ、とぐらぐらと揺り出しますと、死ぬる、死ぬる、助け船引
[#「引」は小書き]と火を吹きそうに
喚いた、とのう。
この中ではござりませぬ、」
と姥は
葭簀の外を見て、
「
廂の蔭じゃったげにござります。浪が届きませぬばかり。低い三日月様を、
漆見たような高い
髷からはずさっせえまして、
真白なのを顔に当てて、
団扇が
衣服を掛けたげな、影の涼しい、姿の長い、
裾の薄
蒼い、
悚然とするほど美しらしいお人が一方。
すらすら道端へ出さっせての、
(
············)
爺どのを呼留めて、これは罪人か
||と問わしつけえよ。
食物も
代物も、新しい買物じゃ。縁起でもない事の。罪人を上積みにしてどうしべい、これこれでござる。と云うと、可哀相に苦しかろう、と団扇を取って、薄い羽のように、一文字に、横に口へ
啣えさしった。
その時は、爺どのの方へ
背を向けて、顔をこう
斜っかいに、」
と法師から
打背く、と
俤のその薄月の、
婦人の風情を
思遣ればか、
葦簀をはずれた日のかげりに、姥の
頸が白かった。
荷物の方へ、するすると膝を寄せて、
「そこで?」
「はい、両手を下げて、白いその両方の
掌を合わせて、がっくりとなった嘉吉の首を、四五本目の
輻の
辺で、上へ
支げて持たっせえた。おもみが
掛ったか、姿を絞って、肩が
細りしましたげなよ。」
九
「介抱しよう、お下ろしな、と言わっしゃる。
その位な荒療治で、寝汗一つ取れる奴か。
打棄っておかっせえ。面倒臭い、と
顱巻しめた頭を
掉って云うたれば、どこまで
行く、と聞かしっけえ。
途中さまざまの
隙ざえで、
爺どのもむかっぱらじゃ、秋谷鎮座の明神様、
俺等が
産神へ届け物だ、とずッきり
饒舌ると、
(受取りましょう、ここで
可いから。)
(お前様は?)
(ああ、明神様の
侍女よ。)と言わっしゃった。
月に浪が
懸りますように、さらさらと、風が吹きますと、揺れながらこの
葦簀の蔭が、格子
縞のように御袖へ映って、雪の
膚まで透通って、
四辺には影もない。中空を見ますれば、
白鷺の飛ぶような雲が見えて、ざっと一浪打ちました。
爺どのは
悚然として、はい、はい、と
柔順になって、縄を解くと、ずりこけての、嘉吉のあの図体が、どたりと荷車から。
貴女は
擡げた手を下へ、地の上へ着けるように、嘉吉の頭を下ろさっせえた。
足をばたばたの、手によいよい、
輻も
蹴はずしそうに
悶きますわの。
(ああ、お前はもう
可いから。)邪魔もののようにおっしゃったで、爺どのは心外じゃ
······ 何の、心外がらずともの、いけずな
親仁でござりますがの、ほほ、ほほ。」
「いや、いや、私が聞いただけでも、何か、こうわざと
邪慳に取扱ったようで、
対手がその
酔漢を
労るというだけに、黙ってはおられません。何だか
寝覚が悪いようだね。」
「ええ、
串戯にも、
氏神様の
知己じゃと言わっしゃりましたけに、嘉吉を荷車に縛りましたのは、明神様の
同一孫児を、
継子扱いにしましたようで、
貴女へも聞えが悪うござりますので。
綿の
上積[#ルビの「うわづみ」は底本では「うわずみ」]一件から荷に
奴を縛ったは、
爺どのが自分したことではない事を、言訳がましく
饒舌りますと、(可いから、お前はあっちへ、)と、こうじゃとの。
(
可かあねえだ。もの、
理合を言わねえ事にゃ、ハイ気が済みましねえ。お前様も明神様お
知己なら聞かっしゃい。
老耆の
手ぼう
爺に、若いものの
酔漢の
介抱が
何、出来べい。神様も分らねえ、こんな、くだま野郎を労ってやらっしゃる御慈悲い深い
思召で、何でこれ、
私等婆様の中に、
小児一人授けちゃくれさっしゃらぬ。それも可い、無い子だねなら
断念めべいが、
提灯で
火傷をするのを、何で、黙って見てござった。
私が
手ぼうでせえなくば、おなじ車に
結えるちゅうて、こう、けんどんに、
倒にゃ縛らねえだ。初対面のお前様見さっしゃる目に、えら
俺が非道なようで、寝覚が悪い、)と
顱巻を
掉立てますと、のう。
(早く、お帰り、)と、継穂がないわの。
(いんにゃ、理を言わねえじゃ、)とまだ早や一概に
捏ねようとしましたら
······(おいでよ、)と、お前様ね。
団扇で顔を隠さしったなり。
背後へ雪のような手を
伸して、荷車ごと
爺どのを、
推遣るようにさっせえた。お手の指が白々と、こう
輻の上で、糸車に、はい、綿屑がかかったげに、月の光で動いたらばの、ぐるぐるぐると輪が廻って、
爺どのの
背へ、荷車が、
乗被さるではござりませぬか。」
「おおおお、」
と、法師は目を

って
固唾を呑む。
「
吃驚亀の子、空へ何と、爺どのは手を泳がせて、自分の
曳いた荷車に、がらがら
背後から押出されて、わい、というたぎり、
一呼吸に村の
取着き、あれから、この街道が
鍋づる
形に曲ります、明神様、森の石段まで、ひとりでに駆出しましたげな。
もっとも見さっしゃります通り、道はなぞえに、
向へ低くはなりますが、下り坂と云う程ではなし、その
疾いこと。一なだれに
辷ったようで、やっと石段の下で、うむ、とこたえて踏留まりますと、はずみのついた車めは、がたがたと石ころの上を空廻りして、躍ったげにござります。
見上げる空の森は暗し、爺どのは、身震いをしたと申しますがの。」
十
「利かぬ気の
親仁じゃ、お前様、月夜の遠見に、
纏ったものの形は、
葦簀張の柱の根を
圧えて置きます、お前様の
背後の、その
石
か、
私が立掛けて置いて帰ります、この
床几の影ばかり。
大崩壊まで見通しになって、
貴女の姿は、
蜘蛛巣ほども見えませぬ。それをの、透かし透かし、山際に
附着いて、薄墨引いた草の上を、
跫音を盗んで
引返しましたげな。
嘉吉をどう始末さっしゃるか、それを見届けよう、という、
爺どの
了簡でござります。
荷車はの、明神様石段の前を
行けば、御存じの三崎街道、横へ切れる
畦道が在所の入口でござりますで、そこへ引込んだものでござります。人気も
穏なり、積んだものを見たばかりで、鶴谷様御用、と札の建ったも
同一じゃで、誰も手の
障え
人はござりませぬで。
爺どのは、
這うようにして、
身体を隠して引返したと言いましけ。よう姿が隠さりょう、光った
天窓と、
顱巻の
茜色が月夜に消えるか。
主ゃそこで早や、
貴女の術で、
活きながら
鋏の
紅い月影の
蟹になった、とあとで村の衆にひやかされて、ええ、
措けやい、気味の悪い、と目をぱちくり、泡を吹いたでござりますよ。
笑うてやらっしゃりませ。いけ年を
仕って、貴女が、
去ね、とおっしゃったを
止せば
可いことでござります。」
法師はかくと聞いて眉を
顰め、
「笑い事ではない。何かお
爺様に異状でもありましたか。」
「お目こぼしでござります、」
と姥は謹んだ、
顔色して、
「爺どのはお
庇と何事もござりませんで、今日も鶴谷様の野良へ手伝いに参っております。」
「じゃ、その嘉吉と云うのばかりが、変な目に逢ったんだね。」
「それも心がらでござります。はじめはお前様、
貴女が御親切に、勿体ない
······お手ずから
薫の高い、水晶を
噛みますような、涼しいお薬を下さって、水ごと残しておきました、
······この手
桶から、」
······ と姥は見返る。捧げた心か、
葦簀に挟んで、
常夏の花のあるが
下に、日影涼しい手桶が
一個、輪の上に、
||大方その時以来であろう
||注連を張ったが、まだ新しい。
「水も
汲んで、くくめておやり遊ばした。嘉吉の我に返った処で、心得違いをしたために、主人の
許へ帰れずば、これを
代に言訳して、と結構な御宝を。
······ それがお前様、
真緑の、光のある、美しい、珠じゃったげにございます。
爺どのが、潜り込んだ草の中から、その蟹の目を
密と出して、見た時じゃったと申します。
こう、貴女がお持ちなさりました指の
尖へ、ほんのりと
蒼く映って、白いお手の透いた処は、
大な蛍をお
撮みなさりましたようじゃげな。
貴女のお
身体に
附属ていてこそじゃが、やがて、はい、その光は、嘉吉が
賽ころを振る
掌の中へ、消えましたとの。
それから、抜かっしゃりましたものらしい、少し
俯向いて、ええ、やっぱり、顔へは団扇を当てたまんまで、お
髪の黒い、前の方へ、軽く
簪をお
挿なされて、お草履か、
雪駄かの、それなりに、はい、すらすらと、月と一所に
女浪のように
歩行かっしゃる。
これでまた爺どのは
悚然としたげな。のう、いかな事でも、明神様の
知己じゃ言わしったは
串戯で、大方は、葉山あたりの
誰方のか御別荘から、お忍びの方と思わしっけがの。
今
行かっしゃるのは
反対に秋谷の方じゃ。
······はてな、と思うと、変った事は、そればかりではござりませぬよ。
嘉吉の
奴がの、あろう事か、慈悲を垂れりゃ、何とやら。珠は
掴む、酒の上じゃ、はじめはただ、御恩返しじゃの、お名前を聞きたいの、ただ一目お顔の、とこだわりましけ。柳に受けて
歩行かっしゃるで、
機織場の
姉やが
許へ、夜さり、
畦道を通う時の高声の唄のような、真似もならぬ大口利いて、
果は増長この上なし、袖を引いて、手を廻して、
背後から抱きつきおる。
爺どのは冷汗
掻いたげな。や、それでも召ものの
裾に、
草鞋が
引かかりましたように、するすると嘉吉に抱かれて、前ざまに
行かっしゃったそうながの、お前様、飛んでもない、」
「
怪しからん事を
||またしたもんです。」
と小次郎法師は苦り切る。
十一
姥は分別あり顔に、
「一目見たら、その御
容子だけでなりと、分りそうなものでござります。
貴女が神にせよ、また人間にしました処で、嘉吉づれが口を利かれます御方ではござりませぬ。そうでなくとも、そんな御恩を
被ったでござりますもの。拝むにも、後姿でのうては罰の当ります処、悪党なら、お前様、発心のしどころを。
根が悪徒ではござりませぬ、取締りのない、ただぼうと、
一夜酒が沸いたような
奴殿じゃ。
薄も、
蘆も、
女郎花も、
見境はござりませぬ。
髪が長けりゃ女じゃ、と合点して、さかりのついた犬同然、珠を頂いた御恩なぞも、新屋の
姉えに、
藪の前で、
牡丹餅半分分けてもろうた
了簡じゃで、のう、
食物も下されば、お
情も下さりょうぐらいに思うて、こびりついたでござります。
弁天様の御姿にも、蠅がたかれば、お
鬱陶しい。
通りがかりにただ見ては、草がくれの路と云うても、
旱に枯れた、岩の裂目とより見えませぬが、」
姥は腰を掛けたまま。さて、乗出すほどの距離でもなかった
||「
直きその、向う手を分け上りますのが、山一ツ秋谷在へ近道でござりまして、
馬車こそ通いませぬけれども、
私などは夜さり店を
了いますると、お菓子、水菓子、
商物だけを風呂敷包、ト
背負いまして、片手に
薬缶を提げたなりで、夕焼にお前様、影をのびのび長々と、曲った腰も、楽々小屋へ帰りますがの。
貴女はそこへ。
······お裾が
靡いた。
これは不思議、と爺どのが、肩を半分乗出す時じゃ、お姿が波を離れて、山の腹へすらりと高うなったと思うと、はて、何を嘉吉がしくさりましたか。
屹と振向かっしゃりました様子じゃっけ、お顔の団扇が
飜然と
飜って、
斜に浴びせて、嘉吉の横顔へびしりと来たげな。
きゃっ!と云うと
刎返って、道ならものの小半町、膝と
踵で、抜いた腰を
引摺るように、その癖、
怪飛んで
遁げて来る。
爺どのは爺どので、息を詰めた汗の処へ、今のきゃあ!で
転倒して、わっ、と云うて山の根から飛出す処へ、胸を
頭突に来るように、ドンと嘉吉が
打附ったので、両方へ間を置いて、この街道の
真中へ、何と、お前様、見られた図ではござりますか。
二人とも尻餅じゃ。
(ど、どうした野郎、)と小腹も立つ、爺どのが
恐怖紛れに、がならっしゃると、早や、変でござりましたげな、きょろん、とした
眼の見据えて、
私が爺の宰八の顔をじろり。
(ば、ば、ば、)
(ええ!)
(
怪物!)と云うかと思うと、ひょいと立って、またばたばたと
十足ばかり、駆戻って、うつむけに突んのめったげにござりまして、のう。
爺どのは二度
吃驚、
起ちかけた膝がまたがっくりと
地面へ崩れて、ほっと太い
呼吸さついた。かっとなって浪の音も聞えませぬ。それでいて
||寂然として、海ばかり動きます耳に響いて、秋谷へ近路のその山づたい。鈴虫が
音を立てると、露が
溢れますような、
佳い声で、そして
物凄う、
(ここはどこの細道じゃ、
細道じゃ。
天神さんの細道じゃ、
細道じゃ。
少し通して下さんせ、下さんせ。)
とあわれに寂しく、貴女の声で聞えました。
その声が遠くなります、山の上を、薄綿で包みますように、雲が白くかかりますと、音が先へ、
颯あ
||とたよりない雨が、海の方へ降って来て、お声は山のうらかけて、遠くなって
行きますげな。
前刻見た
兎の毛の雲じゃ、一雨来ようと思うた癖に、こりゃ心ない、荷が濡れよう、と爺どのは駆けて戻って、がッたり車を
曳出しながら、村はずれの小店からまず声をかけて、嘉吉めを見せにやります。
何か、その唄のお声が、のう、十年五十年も昔聞いたようにもあれば、こう云う耳にも、響くと云います。
遠慮すると見えまして、余り
委しい事は申しませぬが、嘉吉はそれから、あの通り気が変になりました。
さあ、
界隈は評判で、
小児どもが誰云うとなく、いつの間やら、その唄を
······」
十二
(ここはどこの細道じゃ、
細道じゃ。
秋谷
邸の細道じゃ、
細道じゃ。
少し通して下さんせ、
下さんせ。
誰方が見えても通しません、
通しません。)
「あの、こう唄うのではござりませんか。
当節は、もう学校で、かあかあ
鴉が鳴く事の、池の
鯉が
麩を食う事の、と間違いのないお前様、ちゃんと理の詰んだ歌を教えさっしゃるに、それを皆が唄わいで、今申した
|| とあわれな、寂しい、細い声で、口々に、
小児同士、顔さえ見れば唄い連れるでござりますが、近頃は久しい間、打絶えて聞いたこともござりませぬ
||この唄を爺どのがその晩聞かしった、という話
以来、
||誰云うとなく
流行りますので。
それも、のう元唄は、
(天神様の細道じゃ、
少し通して下さんせ、
御用のない人通しません、)
確か、こうでござりましょう。それを、
(秋谷邸の細道じゃ、
誰方が見えても通しません、
通しません。)
とひとりでに唄います、の。まだそればかりではござりません。
小児たちが日の暮方、そこらを遊びますのに、
厭な真似を、まあ、どうでござりましょう。
てんでんが
芋※[#「くさかんむり/更」、153-3]の葉を
捩ぎりまして、目の玉二つ、口一つ、穴を三つ開けたのを、ぬっぺりと、こう顔へ
被ったものでござります。
大いのから小さいのから、その
蒼白い筋のある、細ら長い、狐とも狸とも、
姑獲鳥、とも異体の知れぬ、中にも虫喰のござります葉の
汚点は、
癩か、
痘痕の幽霊。
面を並べて、ひょろひょろと
蔭日向、
藪の前だの、
谷戸口だの、山の根なんぞを練りながら今の唄を唄いますのが、三人と、五人ずつ、一組や二組ではござりませんで。
悪戯が
蒿じて、この節では、
唐黍の毛の
尻尾を下げたり、あけびを口に
啣えたり、
茄子提灯で
闇路を
辿って、日が暮れるまでうろつきますわの。
気になるのは小石を合せて、手ん手に四ツ竹を鳴らすように、カイカイカチカチと拍子を取って、唄が段々身に染みますに、
皆が
家へ
散際には、一人がカチカチ石を鳴らして、
と申しますと、
と一人がカチカチ、五ツ、六ツ、九ツ、八ツと数えまして
······ と云うのを合図に、
と
哄と
囃して、消えるように、残らず居なくなるのでござりますが。
何とも
厭な心持で、うそ寂しい、ちょうど盆のお
精霊様が絶えずそこらを
歩行かっしゃりますようで、気の
滅入りますことと云うては、穴倉へ引入れられそうでござります。
活溌な唱歌を唄え。あれは何だ、と学校でも先生様が叱らしゃりますそうなが、それで
留めますほどならばの、学校へ
行く生徒に、
蜻蛉釣るものも
居りませねば、木登りをする小僧もない
筈||一向に留みませぬよ。
内は内で親たちが、厳しく
叱言も申します。気の強いのは、おのれ、
凸助······いや、鼻ぴっしゃり、
芋※[#「くさかんむり/更」、154-12]の葉の
凹吉め、細道で
引捉まえて、
張撲って
懲そう、と通りものを待構えて、こう透かして見ますがの、背の高いのから順よく並んで、
同一ような芋※
[#「くさかんむり/更」、154-13]の葉を
被っているけに、
衣ものの
縞柄も気のせいか、
逢魔が時に
茫として、庄屋様の白壁に映して見ても、どれが孫やら、
忰やら、
小女童やら分りませぬ。
おなじように、
憑物がして、魔に使われているようで、手もつけられず、親たちがうろうろしますの。村方一同寄ると
障ると、立膝に腕組するやら、
平胡坐で
頬杖つくやら、変じゃ、
希有じゃ、何でもただ事であるまい、と薄気味を悪がります。
中でも、ほッと
溜息ついて、気に掛けさっしゃったのが、鶴谷喜十郎様。」
と丁寧に、また
名告って、
姥は
四辺を見たのである。
十三
さて十年の
馴染のように、擦寄って声を
密め、
「
童唄を聞かっしゃりまし
||(秋谷
邸の細道じゃ、誰方が見えても通しません)
||と、の、それ、」
小次郎法師の
頷くのを、合点させたり、と
熟と見て、
姥はやがて
打頷き、
「
······でござりましょう。まず、この秋谷で、邸と申しますれば
||そりゃ土蔵、
白壁造、
瓦屋根は、御方一軒ではござりませぬが、
太閤様は秀吉公、黄門様は水戸様でのう、邸は鶴谷に帰したもの。
ところで、一軒は御本宅、こりゃ村の草分でござりますが、もう一軒
||喜十郎様が隠居所にお建てなされた、御別荘がござりましての。
お金は十分、通い廊下に藤の花を
咲しょうと、西洋窓に
鸚鵡を飼おうと、見本は
直き近い処にござりまして、
思召通りじゃけれど、昔
気質の堅い
御仁、我等式百姓に、別荘づくりは
相応わしからぬ、とついこのさきの
立石在に、昔からの大庄屋が土台ごと売物に出しました、瓦ばかりも小千両、大黒柱が二抱え。平家ながら天井が、高い処に
照々して
間数十ばかりもござりますのを、
牛車に積んで来て、
背後に
大な森をひかえて、
黒塗の門も立木の奥深う、
巨寺のようにお建てなされて、東京の御修業さきから、御子息の喜太郎様が帰らっしゃりましたのに世を譲って、御夫婦一まず御隠居が済みましけ。
去年の夏でござりますがの、喜太郎様が東京で御
贔屓にならしった、さる御大家の嬢様じゃが、夏休みに、ぶらぶら
病の保養がしたい、と言わっしゃる。
海辺は
賑かでも、馬車が通って
埃が立つ。閑静な処をお望み、間数は多し
誂え向き、隠居所を三間ばかり、腰元も二人ぐらい附く
筈と、御子息から相談を
打たっしゃると、隠居と言えば世を避けたも同様、また本宅へ居直るも
億劫なり、
年寄と一所では若い御婦人の気が
詰ろう。若いものは若い同士、本家の方へお連れ申して、土用正月、
歌留多でも取って遊ぶが
可い、嫁もさぞ喜ぼう、と
難有いは、親でのう。
そこで、そのお嬢様に御本家の部屋を、幾つか分けて、貸すことになりましけ。ある晩、
腕車でお乗込み、天上ぬけに
美い、と評判ばかりで、
私等ついぞお姿も見ませなんだが、下男下女どもにも口留めして、
秘さしったも道理じゃよ。
その嬢様は落っこちそうなお腹じゃげな。」
「むむ、
孕んでいたかい。そりゃ
怪しからん、その息子というのが
馴染ではないのかね。」
「御推量でございます、そこじゃ、お前様。見えて半月とも
経ちませぬに、
豪い騒動が起ったのは、喜太郎様の嫁御がまた臨月じゃ。
御本家に飼殺しの
親爺仁右衛門、
渾名も
苦虫、むずかしい顔をして、御隠居殿へ出向いて、まじりまじり、
煙草を
捻って言うことには、(ハイ、これ、昔から言うことだ。二人
一斉に産をしては、後か、
前か、いずれ一人、
相孕の
怪我がござるで、分別のうてはなりませぬ、)との。
喜十郎様、凶年にもない腕組をさっせえて、(
善悪はともかく、内の嫁が可愛いにつけ、
余所の娘の臨月を、出て
行けとは無慈悲で言われぬ。ただし
廂を貸したものに、
母屋を明渡して嫁を隠居所へ引取る段は、先祖の
位牌へ申訳がない。
私等が本宅へ立帰って、その嬢様にはこの隠居所を貸すとしよう)
||御夫婦、黒門を出さしったのが、また世に立たっしゃる前表かの。
鶴谷は再度、御隠居の代になりました。」
「息子さんは
不埒が分って勘当かい。」
「聞かっせえまし、喜太郎様は亡くなりましたよ。
前後へ黒門から
葬礼が五つ出ました。」
「五つ!」
「ええ、ええ、お前様。」
「誰と誰と、ね?」
「はじめがその
出養生の嬢様じゃ。これが産後でおいとしゅうならしった。大騒ぎのすぐあと、七日目に嫁御がお産じゃ。
汐時が二つはずれて、朝六つから夜の四つ時まで、苦しみ通しの難産でのう。
村中は火事場の騒ぎ、御本宅は
寂として、御経の声やら、
咳やら
······」
十四
「占者が
卦を立てて、こりゃ
死霊の
祟がある。この鬼に負けてはならぬぞ。この方から
逆寄せして、別宅のその
産屋へ、
守刀を
真先に露払いで乗込めさ、と
古袴の
股立ちを取って、
突立上りますのに
勢づいて、お産婦を
褥のまま、四隅と両方、六人の手で
密と
舁いて、釣台へ。
お先立ちがその易者殿、
御幣を、ト襟へさしたものでござります。
筮竹の長袋を
前半じゃ、小刀のように挟んで、
馬乗提灯の古びたのに算木を
顕しましたので、黒雲の
蔽かぶさった、蒸暑い
畦を
照し、大手を
掉って参ります。
嫁入道具に附いて来た、
藍貝柄の
長刀を、
柄払いして、仁右衛門親仁が担ぎました。
真中へ、お産婦の釣台を。そのわきへ、喜太郎様が、
帽子かぶりで、
蒼くなって附添った、
背後へ持明院の坊様が
緋の衣じゃ。あとから下男下女どもがぞろぞろと
従きました。
取揚婆[#「婆」は底本では「姿」]さんは
前へ早や駆抜けて、黒門のお部屋へ産所の用意。
途中、何とも
希有な通りものでござりまして、あの蛍がまたむらむらと、蠅がなぶるように御病人の寝姿に
集りますと、おなじ煩うても、美しい人の心かして、夢中で、こう
小児のように、手で取っちゃ見さしっけ。
上へ手を上げさっしゃるのも、御容体を聞くにつけ、空をつかんで
悶えさっしゃるようで、目も当てられぬ。
それでも祟りに負けるなと、言うて、一生懸命、
仰向かしった枕をこぼれて、さまで
瘠せも見えぬ白い頬へかかる髪の先を、しっかり白歯で
噛ましったが、お
馴染じゃ、
私が
藪の下で
待つけて、
御新造様しっかりなさりまし、と釣台に
縋ったれば、アイと、細い声で云うて
莞爾と笑わしった。橋を渡って向うへ通る、
暗の晩の、
榛の木の下あたり、蛍の数の宙へいかいことちらちらして、
常夏の花の
俤立つのが、
貴方の顔のあたりじゃ、と目を
瞑って、おめでたを祈りましたに
······」
声も寂しゅう、
「お寺の鐘が聞えました。」
「
南無阿弥陀仏、」
「お可哀相に、
初産で、その晩、のう。
厭な事でござります。黒門へ着かしって、産所へ据えよう、としますとの、それ、出養生の嬢様の、お産の床と
同一じゃ。(ああ、青い
顱巻をした方が、寝てでござんす、ちっと
傍へ)と
······まあ、難産の嫁御がそう言わしっけ。
其奴に、負けるな、
押潰せ、と構わず
褥を据えましたが、夜露を受けたが悪かったか、もうお医者でも間に合わず。
(あなたも。
······口惜い、)と
恍惚して、枕にひしと
喰つかしって、うむと云うが最期で、の、身二ツになりはならしったが、産声も聞えず、両方ともそれなりけり。
余りの事に、
取逆上せさしったものと見えまして、喜太郎様はその明方、裏の井戸へ身を投げてしまわしった。
井戸
替もしたなれど、不気味じゃで、誰も、はい、その水を飲みたがりませぬ処から、
井桁も早や、
青芒にかくれましたよ。
七日に一度、十日に一度、仁右衛門親仁や、
私がとこの宰八
||少いものは
初から恐ろしがって
寄つきませぬで
||年役に出かけては、雨戸を明けたり、引窓を繰ったり、日も入れ、風も通したなれど、この間のその、のう、嘉吉が気が違いました一件の時から、いい年をしたものまで、黒門を向うの奥へ、
木下闇を
覗きますと、足が
縮んで、一寸も前へ出はいたしませぬ。
簪の蒼い光った
珠も、大方蛍であろう、などと、ひそひそ
風説をします処へ、
芋※[#「くさかんむり/更」、160-11]の葉に目口のある、小さいのがふらふら
歩行いて、そのお前様、
(秋谷邸の細道じゃ、
誰方が見えても
······)
[#底本では4字下げ] でござりましょう。
人足が絶えるとなれば、草が生えるばっかりじゃ。ハテ黒門の別宅は是非に及ばぬ。秋谷邸の本家だけは、人足が絶やしとうないものを、どうした時節か知らぬけれど、鶴谷の寿命が来たのか、と喜十郎様は、かさねがさねおつむりが
真白で。おふくろ様も
好いお方、おいとしい事でござります。
おお、おお、つい長話になりまして、そちこち刻限、ああ、
可厭な芋※
[#「くさかんむり/更」、160-11]の葉が、唄うて
歩行く時分になりました。」
と姥は
四辺を

した。浪の色が蒼くなった。
寂然として、
果は目を
瞑って聞入った旅僧は、夢ならぬ顔を上げて、
葭簀から街道の
前後を
視めたが、日脚を仰ぐまでもない。
「身に染む話に
聞惚れて、人通りがもう影法師じゃ。世の中には
種々な事がある。お婆さん、お
庇で
沢山学問をした、
難有う、どれ
······」
十五
「そして、御坊様は、これからどこまで
行かっしゃりますよ。」
包を引寄せる旅僧に連れて、
姥も腰を上げて尋ねると、
「鎌倉は通越して、藤沢まで今日の内に出ようという考えだったが、もう、これじゃ葉山で
灯が
点こう。
おお
[#「 おお」は底本では「おお」]、そう言や、森戸の松の中に、ちらちらと
灯が見える。」
「よう御存じでござりますの。」
「まだ俗の
中に知っています。そこで鎌倉を見物にも及ばず、東海道の本筋へ出ようという考えじゃったが、早や遅い。
修業が足りんで、樹下、石上、野宿も辛し、」
と
打微笑み、
「鎌倉まで
行きましょうよ。」
「それはそれは、御不都合な、つい話に実が
入りまして、まあ、とんだ
御足を留めましてござります。」
「いや、どういたして、
忝い。私は尊いお説教を聴問したような心持じゃ。
何、嘘ではありません。
見なさる通り、
行脚とは言いながら、気散じの旅の面白さ。蝶々
蜻蛉の
道連には墨染の
法衣の袖の、発心の涙が乾いて、おのずから
果敢ない浮世の露も忘れる。
いつとなく、仏の
御名を唱えるのにも遠ざかって、
前刻も、お前ね。
実はここに来しなであった。秋谷明神と云う、その森の中の石段の下を通って、
日向の麦
畠へ
差懸ると、この辺には余り見懸けぬ、十八九の色白な娘が一人、めりんす
友染の
襷懸け、
手拭を
冠って畑に出ている。
歩行きながら振返って、何か、ここらにおもしろい事もないか、と
徒口半分、
檜笠の下から
頤を出して尋ねるとね。
はい、浪打際に
子産石と云うのがござんす。これこれでここの名所、と
土地自慢も、優しく教えて、石段から
真直ぐに、
畑中を切って出て見なさんせ、と指さしをしてくれました。
いかに石が名所でも、男ばかりで
児が出来るか。何と、
姉や、と麦にかくれる島田を
覗いて、
天狗わらいに
冴えて来ました、面目もない
不了簡。
嘉吉とかを聞くにつけても、よく気が違わずに済んだ事、とお話中に
悚気としたよ。
黒門の別荘とやらの、話を聞くと引入れられて、気が沈んで、しんみりと真心から念仏の声が出ました。
途中すがらもその若い人たちを的に仏名を唱えましょう。木賃の枕に目を
瞑ったら、なお
歴然、とその人たちの、姿も見えるような気がするから、いっそよく念仏が申されようと考える。
聞かしておくれの、お婆さん、お前は善智識、と云うても
可い、私は夜通しでも構わんが。
あんまり身を入れて話をする
||聞く
||していたので、邪魔になっては、という遠慮か、四五人こっちを
覗いては、
素通をしたのがあります。
近在の人と見える。風呂敷包を腰につけて、草履
穿きで裾をからげた、杖を
突張った、
白髪の婆さんの、お前さんとは
知己と見えるのが、向うから声をかけたっけ。お前さんが話に夢中で、気が着かなんだものだから、そのままほくほく
去ってしまった。
私も
聞惚れていた処、話の腰を折られては、と知らぬ顔で居たっけよ。
大層お店の邪魔をしました、実に済まぬ。」
と扇を膝に、両手で横に
支きながら、丁寧に会釈する。
姥はあらためて
右瞻左瞻たが、
「お上人様、御殊勝にござります、御殊勝にござります。
難有や、」
と浅からず
渇仰して、
「本家が村一番の大長者じゃと云えば、申憎い事ながら、どこを宿ともお定めない、御見懸け申した御坊様じゃ。推しても行って
回向をしょう。ああもしょう、こうもしてやろう、と
斎布施をお目当で
······」
とずっきり云った。
「こりゃ
仰有りそうな処、御自分の
越度をお明かしなさりまして、路々念仏申してやろう、と
前途をお急ぎなさります飾りの無いお前様。
道中、お
髪の伸びたのさえ、かえって貴う拝まれまする。どうぞ、その御回向を黒門の別宅で、近々として進ぜて下さりませぬか。
······ もし、鶴谷でもどのくらい喜びますか分りませぬ。」
十六
鶴谷が下男、苦虫の
仁右衛門親仁。角のある
人魂めかして、ぶらりと風呂敷包を提げながら、小川べりの草の上。
「なあよ、宰八、」
「やあ、」
と続いた、
手ぼう蟹は、
夥間の穴の上を
冷飯草履、両足をしゃちこばらせて、舞鶴の紋の白い、
萌黄の、これも
大包。夜具を入れたのを
引背負ったは、民が
塗炭に
苦んだ、戦国時代の
駆落めく。
「何か、お前が
出会した
||黒門に
逗留してござらしゃる
少え人が、
手鞠を拾ったちゅうはどこらだっけえ。」
「
直きだ、そうれ、お
前が
行く先に、猫柳がこんもりあんべい。」
「おお、」
「その
根際だあ。帽子のふちも、ぐったり、と
草臥れた形での、そこに、」
と云った人声に、葉裏から蛍が飛んだ。が、三ツ五ツ星に紛れて、山際薄く、
流が白い。
この川は音もなく、霞のように、どんよりと青田の村を
這うのである。
「ここだよ。ちょうど、」
と宰八はちょっと立留まる。
前途に黒門の森を見てあれば、秋谷の夜はここよりぞ暗くなる、と前途に近く、人の
足許が
朦朧と、早やその影が押寄せて、土手の低い草の上へ、襲いかかる風情だから、一人が留まれば皆留まった。
宰八の
背後から、もう一人。
杖を突いて続いた紳士は、村の学校の訓導である。
「
見馴れねえ旅の書生さんじゃ、下ろした荷物に、
寝そべりかかって、腕を曲げての、足をお
前、草の上へ横投げに投出して、ソレそこいら、
白鷺の
鶏冠のように、
川面へほんのり白く、すいすいと出て咲いていら、昼間見ると桃色の優しい花だ、はて、
蓬でなしよ。」
「
石竹だっぺい。」
「
撫子の一種です、
常夏の花と言うんだ。」
と訓導は姿勢を正して、
杖を一つ、くるりと廻わすと、ドブン。
「ええ!驚かなくても
宜しい。今のは蛙だ。」
「その蛙
······いんねさ、常夏け。その花を摘んでどうするだか、一束手ぶしに持ったがね。別にハイそれを
視めるでもねえだ。美しい目水晶ぱちくりと、川上の空さ
碧く光っとる星い向いて、相談
打つような形だね。
草鞋がけじゃで、近辺の人ではねえ。道さ迷ったら教えて進ぜべい、と
私もう内へ帰って、婆様と、お客に売った渋茶の
出殻で、茶漬え
掻食うばかりだもんで、のっそりその人の背中へ立って見ていると、しばらく
経ってよ。
むっくりと起返った、と思うとの。
······(
爺様、あれあれ、)」
その時、宰八川面へ乗出して、
母衣を
倒に水に映した。
「(
手毬が、手毬が流れる、流れてくる、拾ってくれ、礼をする。)
見ると、成程、泡も立てずに、夕焼が残ったような尾を
曳いて、その常夏を束にした、
真丸いのが浮いて来るだ。
(
銭金はさて
措かっせえ、だが、足を濡らすは、厭な
事だ。)と云う間も
無え。
突然ざぶりと、
少え人は
衣服の
裾を
掴んだなりで、川の中へ飛込んだっけ。
押問答に、小半時かかればとって、直ぐに突ん流れるような
疾え水脚では、コレ、無えものを、そこは他国の衆で分らねえ。稲妻を
掴えそうな慌て方で、ざぶざぶ
真中で
追かける、人の
煽りで、水が動いて、手毬は一つくるりと廻った。岸の方へ寄るでねえかね。
(えら!気の疾え先生だ。さまで欲しけりゃ算段のうして、柳の枝を
折ぺっしょっても引寄せて取ってやるだ、見さっせえ、旅の空で、召ものがびしょ濡れだ。)と
叱言を言いながら、岸へ来たのを拾おう、と
私、えいやっと
蹲んだが。
こんな川でも、
動揺みにゃ浪を打つわ、濡れずば
栄螺も取れねえ道理よ。
私が手を
伸すとの、また水に持って
行かれて、手毬はやっぱり、川の中で、その人が取らしっけがな。
······ここだあ仁右衛門、先生様も聞かっせえ。」
と夜具風呂敷の
黄母衣越に、
茜色のその
顱巻を
捻向けて、
「
厭な事は、
······手毬を拾うと、その下に、猫が一匹居たではねえかね。」
十七
訓導は苦笑いして、
「
可い加減な事を云う、
狂気の嘉吉以来だ。お前は悪く変なものに
知己のように話をするが、
水潜りをするなんて、猫化けの怪談にも、ついに聞いた事はないじゃないか。」
「お前様もね、
当前だあこれ、空を飛ぼうが、泳ごうが、
活きた猫なら秋谷中
私ら
知己だ。何も
厭な事はねえけんど、水ひたしの毛がよれよれ、前足のつけ根なぞは、あか
膚よ。げっそり骨の出た
死骸でねえかね。」
訓導は
打棄るように、
「何だい、死骸か。」
「何だ死骸か、言わっしゃるが、死骸だけに厭なこんだ。
金壺眼を
塞がねえ。その人が
毬を取ると、三毛の
斑が、ぶよ、ぶよ、一度、ぷくりと腹を出いて、目がぎょろりと光ッたけ。そこら鼠色の
汚え泡だらけになって、どんみりと流れたわ、水とハイ
摺々での
||その方は岸へ上って、腰までずぶ濡れの
衣を絞るとって、帽子を脱いで
仰向けにして、その中さ、入れさしった、
傍で見ると、紫もありゃ黄色い糸もかがってある、五
色の
||手毬は、さまで濡れてはいねえだっけよ。」
「なあよ、宰八、」
「
何だえ。」
仁右衛門は沈んだ声で、
「その手毬はどうしたよ。」
「今でもその学生が持ってるかね。」
背後から、訓導がまた聞き挟む。
「
忽然として消え
失せただ。夢に拾った
金子のようだね。へ、へ、へ、」
とおかしな笑い方。
「ふん、」
と苦虫は苦ったなりで、てくてくと
歩行き出す。
「嘘を
吐け、またはじめた。大方、お前が目の前で、しゃぼん
球のように、ぱっと消えてでもなくなったろう、不思議さな。」
「違えます、違えますとも!」
仁右衛門の後を打ちながら、
「その人が、
(
爺様、この里では、今時分手毬をつくか。)
(
何でね?)
(
小児たちが、優しい声、
懐しい節で唄うている。
ここはどこの細道じゃ、
秋谷邸の細道じゃ
······)
一件ものをの、優しい声、懐しい声じゃ云うて、手毬を突くか、と問わっしゃるだ。
とんでもねえ、あれはお前様、
芋※[#「くさかんむり/更」、169-14]の葉が、と言おうとしたが、待ちろ、芸もねえ、村方の内証を
饒舌って、恥
掻くは
知慧でねえと、
(
何お
前様、学校で体操するだ。おたま
杓子で球をすくって、ひるてんの
飛っこをすればちゅッて、手毬なんか突きっこねえ、)と、先生様の前だけんど、
私一ツ威張ったよ。」
「何だ、
見ともない、ひるてんの飛びっことは。テニスだよ、テニスと言えば
可い。」
「かね
······私また西洋の
雀躍か、と思ったけ、まあ、
可え。」
「ちっとも
可かあない、」
と訓導は
唾をする。
「それにしても、奥床しい、誰が突いた毬だろう、と若え方問わっしゃるだが。
のっけから見当はつかねえ、けんど、
主が
袂から滝のように水が出るのを見るにつけても、何とかハイ勘考せねばなんねえで、その手毬を持って見た、」
と
黄母衣を一つ
揺上げて、
「濡れちゃいねえが、ヒヤリとしたでね、
可い
塩梅よ、
引込んだのは
手棒の方、」
へへ、とまた独りで
可笑がり、
「こっちの手で、ハイ海へ落ちさっしゃるお日様と、黒門の森に
掛ったお月様の
真中へ、
高くこう透かして見っけ。
しゃぼん
球ではねえよ。
真円な手毬の、影も、草に映ったでね。」
「それがまたどうして消えた、馬鹿な!」
と
勢込む、つき反らした
杖の
尖が、ストンと蟹の穴へ
狭ったので、厭な顔をした訓導は、抜きざまに一足飛ぶ。
「まあ、聞かっせえ。
玉味噌の鑑定とは、ちくと物が違うでな、幾ら
私が
捻くっても、どこのものだか当りは着かねえ。
(霞のような小川の波に、
常夏の影がさして、遠くに
······(細道)が聞える処へ、手毬が浮いて
······三年五年、旅から旅を
歩行いたが、またこんな嬉しい里は見ない、)
と、ずぶ
濡の
衣を垂れる
雫さえ、
身体から玉がこぼれでもするほどに若え方は喜ばっしゃる。」
十八
「
||(この上誰か、この手毬の持主に逢えるとなれば、爺さん、私は本望だ、野山に
起臥して旅をするのもそのためだ。)
と、話さっしゃるでの。村を
賞められたが憎くねえだし、またそれまでに思わっしゃるものを、ただわかりましねえで
放擲しては、何か
私、気が済まねえ。
そこで、草原へ
蹲み込んで、
信にはなさりますめえけんど、と嘉吉に
蒼い
珠授けさしった
······」
しばらく黙って、
「の、事を話したらばの。先生様の前だけんど、嘘を
吐け、と
天窓からけなさっしゃりそうな
少え方が、
(おお、その珠と見えたのも、大方星ほどの手毬だろう。)と、あのまた
碧い星を
視めて云うだ。けちりんも疑わねえ。
(なら、まだ話します事がござります、)とついでに黒門の
空邸の話をするとの。
(川はその邸の、庭か背戸を通って流れはしないか。)
と乗出しけよ。
······(流れは見さっしゃる通りだ)
······」
今もおなじような風情である。
||薄りと
廂を包む
小家の、紫の
煙の中も
繞れば、低く裏山の根にかかった、
一刷灰色の
靄の間も通る。青田の
高低、
麓の
凸凹に従うて、
柔かにのんどりした、この
一巻の布は、朝霞には白地の
手拭、夕焼には
茜の襟、
襷になり帯になり、
果は
薄の
裳になって、今もある通り、村はずれの
谷戸口を、明神の下あたりから次第に
子産石の浜に消えて、どこへ
灌ぐということもない。口につけると塩気があるから、
海潮がさすのであろう。その
川裾のたよりなく草に隠れるにつけて、明神の
手水洗にかけた献燈の発句には、これを霞川、と書いてあるが、俗に呼んで湯川と云う。
霞に紛れ、靄に交って、ほのぼのと白く、いつも水気の立つ処から、言い習わしたものらしい。
あの、
薄煙、あの、靄の、一際夕暮を染めたかなたこなたは、
遠方の松の
梢も、近間なる柳の根も、いずれもこの水の
淀んだ処で。
畑一つ
前途を仕切って、縦に幅広く水気が立って、小高い
礎を
朦朧と上に浮かしたのは、森の
下闇で、靄が
余所よりも
判然と濃くかかったせいで、鶴谷が別宅のその黒門の
一構。
三人は、
彼処をさして
辿るのである。
ここに
渠等が伝う岸は、一間ばかりの川幅であるが、鶴谷の本宅の
辺では、およそ三間に拡がって、川裾は早やその辺からびしょびしょと草に隠れる。
ここへは、
流をさかのぼって来るので、間には橋一つ渡らねばならぬ。
橋は明神の前へ、三崎街道に一つ、村の中に一つ。今しがた渠等が渡って、ここから見えるその村の橋も、鶴谷の手で欄干はついているが、
細流の水静かなれば、
偏に風情を添えたよう。青い山から靄の麓へ
架け渡したようにも見え、低い
堤防の、
茅屋から茅屋の軒へ、
階子を
横えたようにも見え、とある大家の、
物好に、長く渡した廻廊かとも
視められる。
灯もやや、ちらちらと青田に透く。川下の
其方は、
藁屋続きに、海が映って空も
明い。
||水上の奥になるほど、樹の枝に、
茅葺の屋根が
掛って、
蓑虫が
塒したような小家がちの、それも三つが二つ、やがて一つ、窓の
明も
射さず、水を離れた
夕炊の煙ばかり、細く沖で
救を呼ぶ白旗のように、風のまにまに
打靡く。海の方は、暮が遅くて
灯が
疾く、山の裾は、暮が早くて、
燈が遅いそうな。
まだそれも、鳴子引けば
遠近に
便があろう。家と家とが
間を隔て、岸を
措いても相望むのに、黒門の別邸は、かけ離れた森の中に、ただ
孤家の、四方へ
大なる
蜘蛛のごとく脚を拡げて、どこまでもその暗い影を
畝らせる。
月は、その上にかかっているのに。
······ 先達の仁右衛門は、早やその
樹立の、
余波の夜に肩を入れた。が、見た目のさしわたしに似ない、帯がたるんだ、ゆるやかな川
添の道は、本宅から約八丁というのである。
宰八が
言続いで、
「
······(外廻りを流れて来るし、何もハイ空家から手毬を落す
筈はねえ。そんでも猫の死骸なら、あすこへ持って行って
打棄った奴があるかも知んねえ、草ぼうぼうだでのう、)と
私、話をしただがね。」
十九
「それからその
少え方は、(どうだろう、その黒門の空家というのを、
一室借りるわけには行くまいか、自炊を
遣って、しばらく旅の
草臥を休めたい、)と相談
打ったが。
ねえ、先生様。
お
前様、今の
住居は、隣の
嚊々が
小児い産んで、ぎゃあぎゃあ
煩え、どこか貸す処があるめえか、言わるるで、そん当時黒門さどうだちゅったら、あれは、と二の足を
蹈ましっけな。」
と横ざまに
浴せかけると、訓導は不意打ながら、さしったりで、
杖を小脇に
引抱き、
「学校へ通うのに足場が悪くって、道が遠くって仕様がないから
留めたんだ。」
「朝寝さっしゃるせいだっぺい。」
仁右衛門が重い口で。
訓導は教うるごとく、
「第一水が悪い。あの、また
真蒼な、草の汁のようなものが飲めるものかい。」
「そうかね
||はあ、まず何にしろだ。こっちから頼めばとって、昼間掃除に行くのさえ、
厭がります空屋敷じゃ。そこが望み、と
仰有るに、お
住居下さればその部屋一ツだけも、屋根の草が無うなって、立腐れが保つこんだで、こっちは願ったり、
叶ったり、本家の
旦那もさぞ喜びましょうが、
尋常体の
家でねえ。あの黒門を
潜らっしゃるなら、覚悟して行かっせえ、
可うがすか、と念を入れると、
(いやその位の覚悟はいつでもしている。)
と落着いたもんだてえば。
はてな、この度胸だら
盗賊でも大将株だ、と
私、油断はねえ、一分別しただがね、仁右衛門よ、」
「おおよ。」
「
前刻、着たっきりで、手毬を拾いに川ん中さ飛込んだ時だ。旅空かけて
衣服をどうするだ、と
私頼まれ
効もなかったけえ、気の毒さもあり、急がずば何とかで濡れめえものを夕立だ、と
我鳴った時よ。
(着物は一枚ありますから
······)
と見得でねえわ、見得でねえね。
極りの悪そうに、人の心を無にしねえで言訳をするように言わしっけが、こいつを
睨んで、はあ、そこへ
私が
押惚れただ。
殊勝な、優しい、
最愛い人だ。これなら世話をしても
仔細あんめえ。第一、あの色白な
仁体じゃ
······化······仁右衛門よ。」
「
何い、」
「暗くなったの、」
「彼これ、
酉刻じゃ。」
「は、
南無阿弥陀仏、黒門前は
真暗だんべい。」
「大丈夫、月が
射すよ。」
と訓導は空を見て、
「お前、その手毬の行方はどうしたんだい。」
「そこだてね、まあ聞かっせえ、客人が、その
最愛らしい
容子じゃ
······化、」
とまた言い掛けたが、
青芒が川のへりに、雑木
一叢、畑の前を背
屈み通る
真中あたり、野末の
靄を一
呼吸に吸込んだかと、宰八
唐突に、
「はッくしょ!」
胴震いで、
立縮み、
「風がねえで、えら
太い蜘蛛の巣だ。仁右衛門、お
前、はあ、先へ立って、よく何ともねえ。」
「巣、巣どころか、
己あ樹の枝から
這いかかった、土蜘蛛を
引掴んだ。」
「ひゃあ、」
「七日風が吹かねえと、世界中の人を吸殺すものだちゅっけ、半日蒸すと、早やこれだ。」
と
握占めた
掌を、自分で
捻開けるようにして開いたが、恐る恐る
透して見ると、
「何ぢゃ、蟹か。」
水へ、ザブン。
背後で
水車のごとく
杖を振廻していた訓導が、
「
長蛇を逸すか、」
と元気づいて、高らかに、
「たちまち見る大蛇の路に当って
横わるを、剣を抜いて
斬らんと欲すれば
老松の影!」
「ええ、
静にしてくらっせえ、
······もう近えだ。」
と仁右衛門は
真面目に留める。
「おい、手毬はどうして消えたんだな、
焦ったい。」
「それだがね、
疾え話が、御仁体じゃ。化物が、の、それ、たとい顔を
嘗めればとって、
天窓から
塩とは言うめえ、と考えたで、そこで、はい、黒門へ案内しただ。仁右衛門も知っての通り
||今日はまた
||内の婆々殿が
肝入で、坊様を
泊めたでの、
······御本家からこうやって夜具を
背負って、
私が出向くのは二度目だがな。」
二十
「その書生さんの時も、本宅の旦那様、大喜びで、御酒は
食らぬか。晩の物だけ
重詰にして、夜さりまた
掻餅でも焼いてお茶受けに、お茶も土瓶で持って
行け。
言わっしゃったで、一風呂敷と夜具包みを
引背負って出向いたがよ。
へい、お客様
前刻は。
······本宅でも
宜しく申してでござりました。お手廻りのものや、何やかや、いずれ明日お届け申します。
一餉ほんのお弁当がわり。お茶と、それから
臥らっしゃるものばかり。どうぞハイ
緩り休まっしゃりましと、口上言うたが、着物は
既に浴衣に着換えて、
燭台の
傍へ
······こりゃな、仁右衛門や
私が時々見廻りに
行く時、
皆閉切ってあって、昼でも暗えから要害に置いてあった。
······先に案内をした時に、彼これ日が暮れたで、取り
敢ず
点して置いたもんだね。そのお
前様、
蝋燭火の
傍に、首い
傾げて、腕組みして坐ってござるで、気になるだ。
(どうかさっせえましたか。)と尋ねるとの。
ここだ!」
と
唐突に
屹と云う。
「ええ何か、」と訓導は
一足退く。
宰八は委細構わず。
「手毬の消えたちゅうがよ。(ここに
確に置いたのが見えなくなった、)と若え方が言わっしゃるけ。
そうら、始まったぞ、と
私一ツ腰をがっくりとやったが、縁側へつかまったあ
||どんな風に、
失くなったか、はあ、聞いたらばの。
三ツばかり、どうん、どうん、と屋根へ
打附ったものがあった
······大な石でも落ちたようで、
吃驚して天井を見上げると、あすこから、と言わしっけ。仁右衛門、それ、の、西の鉢前の十畳敷の隅ッこ。あの大掃除の検査の時さ、お
巡査様が
階子さして、天井裏へ
瓦斯を
点けて
這込まっしゃる拍子に、
洋刀の
鐺が
上って
倒になった
刀が抜けたで、下に居た
饂飩屋の
大面をちょん切って、鼻柱怪我ァした、一枚外れている処だ。
どんと
倒落しに飛んで下りたは三毛猫だあ。川の死骸と同じ毛色じゃ、(これは、と思うと縁へ出て)
······と客人の若え方が言わっしゃったで、
私は思わず
傍へ
退いたが。
庭へ下りて、草
茫々の中へ隠れたのを、急いで障子の外へ出て見ている内に、床の間に据えて置いた、その手毬がさ。はい、
忽然と消えちゅうは、
······ここの事だね。」
「消えたか、落したか分るもんか。」
「はあ、分らねえから、変でがしょ、」
「何もちっとも変じゃない。いやしくも学校のある土地に不思議と云う事は無いのだから。」
「でも、お
前様、その猫がね、」
「それも猫だか、
鼬だか、それとも鼠だが
[#「だが」はママ]、知れたもんじゃない。森の中だもの、
兎だって居るかも知れんさ。」
「そのお前様、知れねえについてでがさ。」
「だから、今夜行って、僕が正体を見届けてやろうと云うんだ。」
「はい、どうぞ、願えますだ。今までにも村方で、はあ、そんな事を言って出向いたものがの、なあ、仁右衛門。」
無言なり。
「
前方へ行って目をまわしっけ、」
「馬鹿、」
と
憤然とした調子で
呟く。
きかぬ気の宰八、
紅の
鋏を
押立て、
「お前様もまた、馬鹿だの、仁右衛門だの、坊様だの、人大勢の時に、よく今夜来さしった。今まではハイついぞ行って見ようとも言わねえだっけが。」
「
当前です、学校の用を欠いて、そんな
他愛もない事にかかり合っていられるもんかい。休暇になったから運動かたがた来て見たんだ。」
「へ、お前様なんざ、畳が
刎ねるばかりでも、投飛ばされる御連中だ。」
「何を、」
「
私なんざ
臆病でも、その位の事にゃ
馴れたでの、船へ乗った気で
押こらえるだ。どうしてどうして、まだ、お前
······」
「宰八よ、」
と陰気な声する。
「おお、」
「ぬしゃまた何も向う
面になって、おかしなもののお味方をするにゃ当るめえでねえか。それでのうてせえ、おりゃ重いもので
押伏せられそうな心持だ。」
と
溜息をして云った。浮世を
鎖したような黒門の
礎を、
靄がさそうて、向うから押し拡がった、
下闇の草に踏みかかり、
茂の中へ吸い込まれるや、否や、仁右衛門が、
「わっ、」
と叫んだ。
二十一
「はじめの夜は、ただその
手毬が
失せましただけで、別に変った
事件も無かったでございますか。」
と、小次郎法師の
旅僧は
法衣の袖を
掻合せる。
障子を開けて縁の
端近に差向いに坐ったのは、
少い人、すなわち黒門の客である。
障子も
普通よりは幅が広く、見上げるような天井に、血の
足痕もさて着いてはおらぬが、
雨垂が
伝ったら
墨汁が降りそうな古びよう。
巨寺の壁に見るような、
雨漏の
痕の
画像は、
煤色の壁に吹きさらされた、袖のひだが、浮出たごとく、
浸附いて、どうやら
饅頭の形した笠を
被っているらしい。顔ぞと見る目鼻はないが、その笠は
鴨居の上になって、空から畳を
瞰下ろすような、
惟うに漏る雨の余り
侘しさに、笠欲ししと念じた、壁の心が
露れたものであろう
||抜群にこの
魍魎が
偉大いから、それがこの広座敷の
主人のようで、月影がぱらぱらと
鱗のごとく
樹の
間を落ちた、広縁の敷居際に相対した旅僧の姿などは、
硝子障子に
嵌込んだ、
歌留多の絵かと疑わるる。
「ええ、」
と黒門の年若な
逗留客は、火のない
煙草盆の、
遥に上の方で、
燧灯を
摺って、
静に
吸いつけた煙草の火が、その色の白い頬に映って、長い眉を黒く見せるほど
室の内は薄暗い。
||差置かれたのは
行燈である。
「まだその以前でした。話すと大勢が気にしますから、実は宰八と云う、爺さん
······」
「ああ、
手ぼうの
······でございますな。」
「そうです。あの
親仁にも
謂わないでいたんですが、猫と一所に手毬の亡くなりますちつと、前です。」
この
古館のまずここへ坐りましたが、爺さんは本家へ、と云って参りました。
黄昏にただ私一人で、これから女中が来て、湯を案内する、
上って来ます、
膳が出る。床を取る、寝る、と段取の
極りました
旅籠屋でも、旅は
住心の落着かない、全く仮の宿です
······のに、本家でもここを貸しますのを、承知する事か、しない事か。便りに思う爺さんだって、旅他国で
畔道の一面識。自分が望んでではありますが、家と云えば、この畳を敷いた
||八幡不知。
第一要害がまるで
解りません。
真中へ立ってあっちこっち
瞻しただけで、今入って来た出口さえ分らなくなりましたほどです。
大袈裟に言えば、それこそ、さあ、と云う時、
遁路の無い位で。夏だけに、物の色はまだ分りましたが、日は暮れるし、
貴僧、黒門までは
可い天気だったものを、急に大粒な雨!と
吃驚しますように、屋根へ
掛りますのが、この
蔽かぶさった、
欅の葉の落ちますのです。それと知りつつ幾たびも気になっては、縁側から顔を出して植込の空を透かしては見い見いしました、」
と肩を落して、仰ぎ
様に、
廂はずれの空を
覗いた。
「やっぱり晴れた空なんです
······今夜のように。」
「しますると
······」
旅僧は先祖が富士を見た
状に、首あげて天井の高きを仰ぎ、
「この、時々ぱらぱらと来ますのは、
木の葉でございますかな。」
「御覧なさい、星が降りそうですから、」
「成程。その癖音のしますたびに、ひやひやと身うちへ
応えますで、道理こそ、一雨かかったと思いましたが。」
「お冷えなさるようなら、
貴僧、閉めましょう。」
「いいえ、蚊を
疵にして五百両、夏の夜はこれが千金にも代えられません、かえって陽気の方がお
宜しい。」
と顔を見て、
「しかし、いかにもその時はお
寂しかったでございましょう。」
「実際、
貴僧、
遥々と国を隔てた事を思い染みました。この
果に故郷がある、と昼間三崎街道を通りつつ、考えなかったでもありませんが、場所と時刻だけに、また格別、古里が遠かったんです。」
「失礼ながら、
御生国は、」
「
豊前の
小倉で、
······葉越と言います。」
葉越は姓で、
渠が名は明である。
「ああ、御遠方じゃ、」
と
更めて顔を見る目も、法師は我ながら遥々と海を
視める思いがした。旅の
窶が何となく、袖を圧して、その
単衣の
縞柄にも
顕れていたのであった。
「そして
貴僧は、」
「これは
申後れました、
私は信州松本の在、至って山家ものでございます。」
「それじゃ、二人で、海山のお物語が出来ますね。」
と、明は優しく、人
懐つこい。
二十二
「不思議な御縁で、何とも心嬉しく存じますが、なかなかお話相手にはなりません。ただ
承りまするだけで、それがしかし何より
私には結構でございます。」
と僧は
慇懃である。
明は少し
俯向いた。
瘠せた
顋に襟狭く、
「そのお話と云いますのが、実に取留めのない事で、
貴僧の前では申すのもお恥かしい。」
「決して、さような事はございません。茶店の婆さんはこの邸に
憑物の
||ええ、ただ聞きましたばかりでも、成程、浮ばれそうもない、
少い仏たちの
回向も頼む。ついては
貴下のお話も出ましてな。何か御覚悟がおありなさるそうで、
熟と辛抱をしてはござるが、怪しい事が重なるかして、お顔の色も、日ごとに悪い。
と申せば、庭先の柿の広葉が映るせいで、それで
蒼白く見えるんだから、気にするな、とおっしゃるが、お
身体も弱そうゆえに、
老寄夫婦で一層のこと気にかかる。
昼の内は宰八なり、誰か、時々お伺いはいたしますが、この頃は
気怯れがして、それさえ
不沙汰がちじゃに因って、私によくお見舞い申してくれ、と云う、くれぐれもその
託でございました。が何か、最初の内、
貴方が
御逗留というのに元気づいて、血気な村の若い者が、三人五人、夜食の惣菜ものの持寄り、一升徳利なんぞ提げて、お話
対手、
夜伽はまだ
穏な内、やがて、刃物切物、鉄砲持参、手覚えのあるのは、
係羂に鼠の
天麩羅を仕掛けて、ぐびぐび飲みながら、夜更けに植込みを狙うなんという事がありますそうで?
|| 婆さんが話しました。」
「私は酒はいけず、対手は出来ませんから、皆さんの車座を、よく蚊帳の中から見ては寝ました。一時は随分
賑でした。
まあ、
入かわり
立かわり、十日ばかり続いて、三人四人ずつ参りましたが、この頃は、ばったり来なくなりましたんです。」
「と申す事でございますな。ええ、時にその入り
交り立ち交りにつけて、何か怪しい、」
と言いかけて
偶と見返った、次の
室と隔ての
襖は、二枚だけ山のように、
行燈の左右に峰を分けて、
隣国までは灯が届かぬ。
心も置かれ、後髪も引かれた
状に、僧は首に気を入れて、ぐっと硬くなって、向直って、
「その怪しいものの方でも、手をかえ、品をかえ、
怯かす。
||何かその
······畳がひとりでに持上りますそうでありますが、まったくでございますかな。」
熟と
視て聞くと、また
俯向いて、
「ですから、お話しも
極りが悪い、取留めのない事だと申すんです。」
「ははあ、」
と胸を引いて、僧は
寛いだ
状に打笑い、
「あるいはそうであろうかにも思いましたよ。では、ただ村のものが
可い加減な百物語。その実、
嘘説なのでございますので?」
「いいえ、それは事実です。畳は
上りますとも。
貴僧、今にも動くかも分りません。」
「ええ!や、それは、」
と思わず、膝を
辷らした手で、はたはたと
圧えると、爪も立ちそうにない
上床の固い事。
「これが、動くでございますか。」
「ですから、取留めのない事ではありませんか。」
と
静に云うと、黙って、ややあって
瞬して、
「さよう、余り取留めなくもないようでございます。すると、坐っているものはいかがな儀に相成りましょうか。」
「騒がないで、
熟としていさえすれば、何事もありません。動くと申して、別に
倒に立って、裏返しになるというんじゃないのですから、」
「いかにも、まともにそれじゃ、人間が縁の下へ投込まれる事になりますものな。」
「そうですとも。そうなった日には、足の裏を
膠で
附着けておかねばなりません。
何ともないから、お騒ぎなさるなと云っても、村の人が
肯かないで、畳のこの合せ目が、」
と手を
支いて、ずっと
掌を
辷らしながら、
「はじめに、長い三角だの、小さな四角に、
縁を開けて、きしきしと合ったり、がらがらと離れたり、しかし、その
疾い事は、稲妻のように見えます。
そうするともう、わっと言って、飛ぶやら
刎ねるやら、やあ!と
踏張って両方の
握拳で押えつける者もあれば、いきなり三宝
火箸でも火吹竹でも宙で振廻す人もある
||まあ一人や二人は、きっとそれだけで縁から飛出して
遁げて
行きます。」
二十三
「どたん、ばたん、
豪い騒ぎ。その立騒ぐのに連れて、むくむくむくむく、と畳を、
貴僧、四隅から持上げますが、二隅ずつ、どん、どん、順に十畳敷を
一時に十ウ、下から握拳を突出すようです。それ毛だらけだ、わあ女の腕だなんて言いますが、何、その畳の隅が裏返るように目まぐるしく
飜るんです。
もうそうなると、気の
上った
各自が、自分の手足で、茶碗を
蹴飛ばす、
徳利を踏倒す、
海嘯だ、と
喚きましょう。
その立廻りで、何かの拍子にゃ怪我もします、踏切ったくらいでも、ものがものですから、片足切られたほどに思って、それがために寝ついたのもあるんだそうで。漁師だとか言いましたっけ。一人、わざわざ山越えで浜の方から来たんだって、
怪物に負けない
禁厭だ、と

の針を
顱鉄がわりに、
手拭に畳込んで、うしろ
顱巻なんぞして、非常な
勢だったんですが、
猪口の
欠の踏抜きで、
痛が
甚い、お
祟だ、と人に
負さって帰りました。
その立廻りですもの。
灯が危いから
傍へ
退いて、私はそのたびに
洋燈を
圧え圧えしたんですがね。
坐ってる人が、ほんとに
転覆るほど、
根太から揺れるのでない証拠には、私が気を着けています
洋燈は、躍りはためくその畳の上でも、
静として、ちっとも動きはせんのです。
しかしまた洋燈ばかりが、笠から始めて、ぐるぐると廻った事がありました。やがて
貴僧、
風車のように舞う、その癖、場所は変らないので、あれあれと云う内に火が
真丸になる、と見ている内、白くなって、それに
蒼味がさして、
茫として、
熟と
据る、その
厭な光ったら。
映る手なんざ、水へ
突込んでるように、
畝ったこの筋までが蒼白く透通って、
各自の顔は、
皆その熟した
真桑瓜に目鼻がついたように黄色くなったのを、見合せて、
呼吸を詰める、とふわふわと浮いて出て、その晩の座がしらという、一番強がった男の膝へ、ふッと乗ったことがあるんですね。
わッと云うから、騒いじゃ怪我をしますよ、と私が暗い中で声を掛けたのに、
猫化だ
遣つけろ、と誰だか一人、庭へ飛出して
遁げながら
喚いた者がある。畜生、と怒鳴って、貴僧、危いの何のじゃない!
※[#「火+發」、189-13]と
明くなって
旧の
通洋燈が見えると、その膝に乗られた男が
||こりゃ何です、
可い加減な年配でした
||かつて水兵をした事があるとか云って、かねて用意をしたものらしい、ドギドギする
小刀を、
火屋の中から縦に突刺してるじゃありませんか。」
「大変で、はあ、はあ、」
「ト思うと一
呼吸に、油壺をかけて
突壊したもんだから、流れるような石油で、どうも、後二日ばかり弱りました。
その時は幸に、当人、手に
疵をつけただけ、
勢で壊したから、火はそれなり、ばったり消えて、何の事もありませんでしたが、もしやの時と、
皆が心掛けておきました、
蝋燭を
点けて、跡始末に
掛ると、さあ、
可訝いのは、今の、怪我で取落した
小刀が影も見えないではありませんか。
驚きました。これにゃ、
皆が
貴僧、
茶釜の中へ紛れ込んで
祟るとか俗に言う、あの
蜥蜴の
尻尾の切れたのが、行方知れずになったより
余程厭な紛失もの。襟へ入っていはしないか、むずむずするの、
褌へささっちゃおらんか、ひやりとするの、
袂か、
裾か、と立つ、坐る、帯を解きます。
前にも一度、大掃除の検査に、
階子をさして天井へ上った、
警官さんの
洋剣が、何かの拍子に
倒になって、
鍔元が緩んでいたか、すっと
抜出したために、下に居たものが一人、切られた事がある座敷だそうで。
外のものとは違う。
切物は危い、よく探さっしゃい、針を使ってさえ始める時と
了う時には、ちゃんと数を合わせるものだ。それでもよく紛失するが、畳の目にこぼれた針は、奈落へ落ちて地獄の山の草に生える。で、餓鬼が突刺される。その供養のために、毎年六月の一日は、
氷室の
朔日と云って、
少い娘が娘同士、自分で
小鍋立ての
飯ごとをして、客にも呼ばれ、呼びもしたものだに、あのギラギラした
小刀が、縁の下か、天井か、
承塵の途中か、
在所が知れぬ、とあっては済まぬ。これだけは
夜一夜さがせ、と中に居た、酒のみの年寄が苦り切ったので、総立ちになりました。
これは、私だって気味が悪かったんです。」
僧はただ目で
応え、目で
頷く。
二十四
「
洋燈の火でさえ、大概
度胆を抜かれたのが、頼みに思った豪傑は負傷するし、今の話でまた変な気になる時分が、夜も深々と更けたでしょう。
どんな事で、どこから
抛り投げまいものでもない。何か、
対手の方も
斟酌をするか、それとも誰も殺すほどの罪もないか、命に別条はまず無かろうが、怪我は今までにも随分ある。
さあ、捜す、となると、五人の
天窓へ
燭台が一ツです。
蝋の継ぎ足しはあるにして、
一時に燃すと
翌方までの
便がないので、手分けをするわけには
行きません。
もうそうなりますとね、一人じゃ先へ立つのも
厭がりますから、そこで私が案内する、と
背後からぞろぞろ。その晩は、鶴谷の
檀那寺の
納所だ、という悟った禅坊さんが一人。
変化出でよ、
一喝で、という宵の内の意気組で居たんです。ちっとお差合いですね、」
「いえ、宗旨違いでございます、」
と
吃驚したように
莞爾する。
「坊さんまじりその
人数で。これが向うの曲角から、突当りのはばかりへ、
廻縁になっています。ぐるりとその両側、雨戸を開けて、
沓脱のまわり、縁の下を
覗いて、念のため引返して、また
便所の中まで探したが、光るものは
火屋の
欠も落ちてはいません。
じゃあ次の
室を
······」
と振返って、その
大なる
襖を指した。
「と
皆が云うから、私は留めました。
ここを借りて、
一室だけでも広過ぎるから、来てからまだ一度も次の
室は
覗いて見ない。こういう時開けては
不可ません。廊下から、
厠までは、宵から通った人もある。
転倒している最中、どんな拍子で我知らず持って立って、落して来ないとも限らんから、念のため捜したものの、誰も開けない次の
室へ行ってるようでは、何かが
秘したんだろうから、よし有ったにした処で、
先方にもしその気があれば、怪我もさせよう、傷もつけよう。さて無い、となると、やっぱり気が済まんのは
同一道理。押入も
覗け、棚も見ろ、天井も捜せ、根太板をはがせ、となっては、何十人でかかった処で、とてもこの構えうち隅々まで
隈なく見尽される訳のものではない。人足の通った、ありそうな処だけで切上げたが
可いでしょう
|| それもそうか、いよいよ魔隠しに隠したものなら、山だか川だか、知れたものではない。
まあ、人間
業で
叶わん事に、
断念めは着きましたが、
危険な事には変わりはないので。いつ
切尖が降って来ようも知れません。ちっとでも
楯になるものをと、
皆が
同一心です。言合わせたように順々に
······前へ御免を
被りますつもりで、私が釣っておいた蚊帳へ、総勢六人で、小さくなって
屈みました。
変におしおきでも待ってるようでなお不気味でした。そうか、と云って、
夜夜中、外へ
遁出すことは思いも寄らず、で、がたがた震える、
突伏す、一人で寝てしまったのがあります、これが一番可いのです。
坊様は口の
裏で、
頻にぶつぶつと念じています。
その舌の
縺れたような、
便のない声を、蚊の
唸る中に聞きながら、私がうとうとしかけました時でした。
密と一人が
揺ぶり起して、
(聞えますか、)
と言います。
(ココだ、ココだ、と云う声が、)と、耳へ口をつけて
囁くんです。それから、それへ段々、また耳移しに。
(
失物はココにある、というお知らせだろう、)
(どうか、)と言う、ひそひそ
相談。
耳を澄ますと、蚊帳越の障子のようでもあり、廊下の雨戸のようでもあり、次の間と隔ての
襖際······また柱の根かとも思われて、カタカタ、カタカタと響く
||あの
茶立虫とも聞えれば、壁の中で
蝙蝠が鳴くようでもあるし、縁の下で、
蟇が、コトコトと云うとも考えられる。それが
貴僧、気の持ちようで、ココ、ココ、ココヨとも、ココト、とも云うようなんです。
自分のだけに、手を
繃帯した水兵の方が、一番に蚊帳を出ました。
返す気で、
在所をおっしゃるからは
仔細はない、と坊さんがまた
這出して、畳に擦附けるように、耳を澄ます。と水兵の方は、
真中で耳を傾けて、腕組をして立ってなすったっけ。見当がついたと見えて、目で知らせ合って、
上下で
頷いて、その、
貴僧の
背後になってます、」
「え!」
と肩越に
淵を
差覗くがごとく、座をずらして見返りながら、
「成程。」
「北へ四枚目の隅の障子を開けますとね。溝へ柄を、その柱へ、
切尖を立掛けてあったろうではありませんか。」
二十五
「それッきり、危うございますから、刃物は
一切厳禁にしたんです。
遊びに来て下さるも
可し、
夜伽とおっしゃるも
難有し、ついでに
狐狸の
類なら、退治しようも至極ごもっともだけれども、刀、
小刀、出刃庖丁、刃物と言わず、
槍、鉄砲、
||およそそういうものは断りました。
私も長い旅行です。随分どんな処でも
歩行き廻ります考えで。いざ、と言や、投出して手を
支くまでも、短刀を
一口持っています
||母の
記念で、峠を越えます日の暮なんぞ、随分それがために気丈夫なんですが、
謹のために
桐油に包んで、風呂敷の結び目へ、しっかり封をつけておくのですが、」
「やはり、おのずから、その、抜出すでございますか。」
「いいえ、これには別条ありません。
盗人でも封印のついたものは切らんと言います。もっとも、
怪物退治に持って見えます刃物だって、自分で抜かなければ別条はないように思われますね。それに
貴僧、
騒動の
起居に、一番気がかりなのは
洋燈ですから、宰八爺さんにそう云って、こうやって
行燈に取替えました。」
「で、行燈は何事も、」
「これだって
上ります。」
「あの上りますか。宙へ?」
時に、明の、行燈のその皿あたりへ、仕切って、うつむけに伏せた手が白かった。
「すう、とこう、畳を離れて、」
「ははあ、」
とばかり、僧は明の手のかげで、
燈が暗くなりはしないか、と
危んだ
目色である。
「それも手をかけて、
圧えたり、据えようとしますと、そのはずみに、油をこぼしたり、台ごとひっくりかえしたりします。
障らないで、
熟と
柔順くしてさえいれば、元の通りに
据直って、
夜が明けます。一度なんざ行燈が天井へ
附着きました。」
「天
······井へ、」
「下に蚊帳が釣ってありますから、私も存じながら、寝ていたのを慌てて起上って、蚊帳越にふらふら釣り下った、行燈の台を押えようと、うっかり手をかけると、誰か取って引上げるように
鴨居を越して天井裏へするりと入ると、裏へちゃんと乗っかりました。もう
堆い、鼠の塚か、と思う
煤のかたまりも見えれば、
遥に屋根裏へ組上げた、柱の形も見える。
可訝いな、屋根裏が見えるくらいじゃ、天井の板がどこか外れた
筈だが、とふと気がつくと、桟が
弛んでさえおりますまい。
板を抜けたものか知らん、余り変だ、と
貴僧。
ここで心が定まりますと、何の事もない。
行燈は蚊帳の外の、宵から置いた処にちゃんとあって、薄ぼんやり紙が白けたのは、もう雨戸の外が明方であったんです。」
「その晩は、お一人で、」
「一人です、しかも一昨晩。」
「一昨晩?」
と、思わずまたぎょっとする。
「で、何でございますか、その
夜伽連は、もうそれ以来懲りて来なくなったんでございますかな。」
「お待ち下さい、トあの、
西瓜で騒いだ夜は、たしかその後でしたっけ。
何、こりゃ
詰らない事ですけれども、弱ったには弱りましたよ。
······ 確か三人づれで、若い
衆が見えました。やっぱり酒を御持参で。大分お支度があったと見えて、するめの足を
噛りながら、
冷酒を茶碗で
煽るようなんじゃありません。
竹の皮包みから、この陽気じゃ
魚の宵越しは出来ん、と云って、
焼蒲鉾なんか出して。
旨うございましたよ、私もお相伴しましたっけ、」
と悠々と迫らぬ調子で、
「宵には何事もありませんでした。
可い
塩梅な
酔心地で、
四方山の話をしながら、
螽一ツ飛んじゃ来ない。そう言や一体蚊も
居らんが、大方その
怪物が
餌食にするだろう。それにしちゃ
吝な
食物だ
||何々、海の中でも親方となるとかえって小さい物を
餌にする。
鯨を見ろ、しこ
鰯だ、なぞと大口を利いて元気でしたが、やがて酒はお
積りになる、夜が更けたんです。
ここでお茶と云う処だけれど、茶じゃ理に落ちて魔物が
憑け込む。
酔醒にいいもの、と縁側から転がし出したのは西瓜です。聞くと、途中で畑
盗人をして来たんだそうで
||それじゃかえって、憑込もうではありませんか。」
二十六
「手並を見ろ、狐でも狸でも、この通りだ、と刃物の禁断は承知ですから、
小刀を持っちゃおりません、拳固で、
貴僧。
小相撲ぐらい
恰幅のある、節くれだった若い衆でしたが
······」
場所がまた悪かった。
||「前夜、ココココ、と云って
小刀を出してくれたと
同一処、敷居から掛けて柱へその
西瓜を
極めて置いて、
大上段です。
ポカリ
遣った。途端に何とも、
凄まじい、石油缶が二三十
打つかったような音が台所の方で聞えたんです。
唐突ですから、宵に手ぐすねを引いた連中も、はあ、と
引呼吸に魂を
引攫れた拍子に
||飛びました。その
貴僧、西瓜が、ストンと若い衆の胸へ
刎上ったでしょう。
仰向に
引くりかえると、また騒動。
それ、肩を越した、ええ、足へ乗っかる。わああ!裾へ
纏わる、火の玉じゃ。座頭の
天窓よ、入道首よ、いや女の生首だって、
可い加減な事ばかり。夕顔の花なら知らず、西瓜が何、女の首に見えるもんです。
追掛けるのか、逃廻るのか、どたばた跳飛ぶ内、ドンドンドンドンと天井を下から上へ打抜くと、がらがらと
棟木が外れる、戸障子が鳴響く、地震だ、と
突伏したが、それなり
寂として、
静になって、風の音もしなくなりました。
ト屋根に生えた草の、葉と葉が
入交って見え透くばかりに、月が一ツ出ています。
||今の西瓜が光るのでした。
森は
押被さっておりますし、
行燈はもとよりその立廻りで
打倒れた。何か私どもは深い狭い谷底に
居窘まって、
千仞の崖の上に月が落ちたのを
視めるようです。そう言えば、
欅の枝に
這いかかって、こう、月の上へ蛇のように
垂かかったのが、
蔦の葉か、と思うと、屋根一面に瓜畑になって、鳴子縄が引いてあるような気もします。
したたかな、
天狗め、とのぼせ
上って、宵に蚊いぶしに
遣った、杉ッ葉の燃残りを取って、一人、その月へ投げつけたものがありました。
もろいの、何の、ぼろぼろと朽木のようにその満月が崩れると、葉末の露と一つになって、棟の
勾配を
辷り落ちて、消えたは
可いが、ぽたりぽたり
雫がし出した。
頸と言わず、肩と言わず、降りかかって来ましたが、手を当てる、とべとりとして粘る。
嗅いでみると、いや、
貴僧、悪甘い匂と言ったら。
夜深しに汗ばんで、
蒸々して、
咽喉の乾いた処へ、その匂い。
血腥いより
堪りかねて、縁側を開けて、私が一番に庭へ出ると、
皆も
跣足で飛下りた。
驚いたのは、もう夜が明けていたことです。山の
巓の方は
蒼くなって、
麓へ
靄が白んでいました。
不思議な処へ、思いがけない景色を見て、
和蘭陀へ流された、と云うのがあるし、堪らない、まず
行燈をつけ直せ、と怒鳴ったのが居る。
屋根のその辺だ、と思う、西瓜のあとには、烏が居て、コトコトと
嘴を鳴らし、
短夜の明けた広縁には、ぞろぞろ
夥しい、
褐色の黒いのと、松虫鈴虫のようなのが、うようよして、ざっと障子へ
駆上って消えましたが、西瓜の
核が
化ったんですって。
連中は、ふらふら
[#「ふらふら」は底本では「ふろふら」]と二日酔いのような
工合で、ぼんやり黒門を出て、川べりに帰りました。
橋の処で、
杭にかかって、ぶかぶか浮いた
真蒼な西瓜を見て、それから夢中で、
遁げたそうです。
昼過ぎに、宰八が来て、その話。
私はその時分までぐっすり寝ました。
この時おかしかったのは、爺さんが、目覚しに茶を一つ入れてやるべいって、小まめに世話をして、
佳い色に煮花が出来ましたが、あいにく西瓜も盗んで来ない。何かないか、と考えて、有る
||台所に糖味噌が、こりゃ私に、と云って一々運ぶも面倒だから、と手の着いたのじゃあるが、
桶ごと持って来て、時々爺さんが何かを
突込んでおいてくれるんでした。
一人だから食べ切れないで、
直きつき過ぎる、と云って、世話もなし、
茄子を
蔕ごと
生のもので漬けてありました。
可い
漬り加減だろう、とそれに気が着いて、台所へ出ましたっけ。
(お客様あ、)
(何だい。)
(
昨夜凄じい音がしたと言わしっけね、何にも
落こちたものはねえね。)
って言いながら、やがて小鉢へ、丸ごと五つばかり出して来ました。
薄お納戸の
好い色で。」
二十七
「青葉の影の
射す処、白瀬戸の小鉢も結構な青磁の菓子器に
装ったようで、志の美しさ。
箸を取ると、その
重った
茄子が、あの、薄皮の腹のあたりで、グッ、グッ。
一ツ音を出すと、また一つグッ、もう一つのもググ、ググと声を立てるんですものね。
変な顔をして、宰八が、
(お客様、聞えるかね。)
(ああ鳴くとも。)
(ちんじちょうようだ、
此奴、)
と
爺様が
鉈豆のような指の
尖で、ちょいと押すと、その
圧されたのがグググ、手をかえるとまた
他のがググ。
心あって鳴くようで、何だか上になった、あの
蔕の取手まで、小さな
角らしく
押立ったんです。
また飛出さない内に、と思って、私は一ツ
噛ったですよ。」
「
召食ったか。」
と、僧は
怪訝顔で、
「それは、お
豪い。」
「何聞く方の耳が鳴るんでしょうから、何事もありません、
茄子の鳴くわけは無いのですから。
それでも爺さんは
苦切って、
少い時にゃ、随分
悪物食をしたものだで、葬い料で酒ェ買って、犬の
死骸なら今でも食うが、
茄子の鳴くのは厭だ、と言います。
もっとも変なことは変ですが、同じ気味の悪い中でも、
対手が茄子だけに、こりゃおかしくって
可かったですよ。」
「
茄子ならば、でございますが、ものは
茄子でも、
対手は別にございましょう。」
明は
俯向いて
莞爾した、別に意味のない
笑だった。
「で、そりゃ昼間の事でございますな。」
「昨日の
午後でした。」
「昼間からは容易でない。」
と半ば
呟くがごとくに云って、
「では、昨夜あたりはさぞ
······」
と聞く方が眉を
顰める。
「ええ、
酷うございました、どうせ、夜が寝られはしないんですから、」
「それでお
窶れなさるのじゃ、
貴下、お顔の色がとんだ悪い!
······ 茶店の婆さんが申したも、その事でございます。
唯今お話を伺いました。そんなこんなで村の者も
行かなくなり、爺様も夜は恐がって参りませんから、貴下の
御容子が分らないに因って、家つきの仏を
回向かたがた、お見舞申してはくれまいか、と云うに就いて、推参したのでございますが、いや、何とも驚きました。
いずれ御厄介に相成らねばなりませんが、
私もどうか唯今のその茄子の鳴くぐらいな処で、御容赦が願いたい。
どこと云って
三界宿なし、一泊御報謝に預る気で参ったわけで。なかなか家つきの幽霊、
祟、
物怪を済度しようなどという道徳思いも寄らず。実は入道
名さえ持ちません。手前勝手、申訳のないお詫びに剃ったような坊主。念仏さえ
碌に真心からは唱えられんでございまして、
御祈祷僧などと思われましては、第一、貴下の前へもお恥かしゅうございますが、いかがでございましょう。お宿を願いましても差支えはないでございましょうか。いくらか覚悟はして参りましたが、
目のあたりお話を伺いましては、ちと二の足でございますが。」
「一人でも客がありますと、それだけ鶴谷では喜びますそうです。持主の本宅が喜びますものを、誰に御遠慮が
入りますものですか。私もお
連があって、どんなに嬉しいか知れません。」
「そりゃ、鶴谷殿はじめ、貴下の思召しはさように
難有うございましても、別にその
······ええ、まず、持主が鶴谷としますと、この空屋敷の御支配でございますな、
||その何とも異様な、あの、その、」
「それは私も御同然です。人の住むのが気に入らないので荒れるのだろうと思いますが。
そこなんです、
貴僧。
逆いさえしませんければ、畳も
行燈も何事もないのですもの。戸障子に不意に火が附いてそこいらめらめら燃えあがる事がありましても、慌てて消す処は破れ、水を掛けた処は濡れますが、それなりの処は、後で見ますと濡れた様子もないのですから。
座敷だっていくらもあります、貴僧、」
とふと心づいたように、
「御一所でお
煩ければ、隣のお座敷へいらっしゃい。何か正体を見届けようなぞと云っては
不可ませんが、鶴谷が許したお客僧が、何も御遠慮には及びません。
ただすらりと開かないで、何かが
圧えてでもいるようでしたら、お見合せなさいまし。
逆うと悪いんですから。」
二十八
「なかなか、逆らいますどころではございません、座敷好みなんぞして
可いものでございますか。
あの
襖を振向いて
熟と
視ろ、とおっしゃったって、容易にゃそちらも向けません次第で、御覧の通り、早や固くなっております。
お話につけて申しますが、実は手前もこの黒門を
潜りました時は、草に
支えて、しばらく足が出ませんでございました。
それと申すが、まず庭口と思う処で、キリキリトーンと、余程その
大轆轤の、
刎釣瓶を
汲上げますような音がいたす。
もっとも
曰くづきの
邸ながら、
貴下お一方はまずともかくもいらっしゃる。人が住めば水も要ろうで、何も釣瓶の音が不思議と云うでは、道理上、こりゃ無いのでありまするが、婆さんに聞きました
心積り、学生の方が自炊をしてお
在と云えば、土瓶か
徳利に汲んで事は足りる、と何となく思ってでもおりましたせいか、そのどうも水を汲む音が、
馴れた
女中衆でありそうに思われました。
ト台所の方を、どうやら
嫋娜とした、脊の高い御婦人が、
黄昏に忙しい
裾捌きで通られたような、ものの
気勢もございます。
何となく
賑かな様子が、七輪に、晩のお
菜でもふつふつ煮えていようという、豆腐屋さ
||ん、と町方ならば呼ぶ声のしそうな様子で。
さては婆さんに試されたか、と
一旦は存じましたが、こう笠を傾けて遠くから
覗込みました、勝手口の戸からかけて、棟へ、高く
烏瓜の一杯にからんだ
工合が、何様、何ヶ月も
閉切らしい。
ござったかな、と思いながら、
擽ったいような御門内の草を、
密と
蹈んで入りますと、春さきはさぞ
綺麗でございましょう。一面に
紫雲英が生えた、その葉の中へ伝わって、
断々ながら、
一条、
蒼ずんだ明るい色のものが、
這ったように浮いたように落ちています。上へさした森の枝を、月が漏る影に相違は無さそうなが、何となく婦人の黒髪、その、丈長く、
足許に光るようで。
変に
跨ぎ心地が悪うございますから、
避けて通ろうといたしますと、右の薄光りの影の先を、ころころと何か転げる、たちまち顔が
露れたようでございましたっけ、
熟く見ると、
兎なんで。
ところでその蛇のような光る影も、
向かわって、また
私の
出途へ映りましたが、兎はくるくると寝転びながら、草の上を見附けの式台の方へ参る。
これが
反対だと、
旧の
潜門へ押出されます処でございました。強いて入りますほどの度胸はないので。
式台前で、私はまず
挨拶をいたしたでございます。
主もおわさば
聞し召せ、かくの通りの青道心。何を頼みに
得脱成仏の
回向いたそう。何を力に、退散の
呪詛を申そう。
御姿を見せたまわば
偏に礼拝を
仕る。世にかくれます神ならば、念仏の外他言はいたさぬ。平に一夜、
御住居の
筵一枚を貸したまわれ
······」
||旅僧はその時、
南無仏と唱えながら、
漣のごとき杉の木目の式台に立向い、かく誓って合掌して、やがて笠を脱いで
一揖したのであった。
||「それから、婆さんに聞きました通り、壊れ壊れの竹垣について手探りに木戸を押しますと、直ぐに
開きましたから、
頻に
前刻の、あの、えへん!えへん!
咳をしながら
||酷くなっておりますな
||芝生を伝わって、
夥しい
白粉の花の中を、これへ。お縁側からお邪魔をしたしました。
あの白粉の花は見事です。ちらちら
紅色のが交って、咲いていますが、それにさえ、
貴方、
法衣の袖の
障るのは、と
身体をすぼめて来ましたが、今も
移香がして、
憚多い。
もと花畑であったのが荒れましたろうか。中に一本、見上げるような丈のびた山百合の白いのが、うつむいて咲いていました。いや、それにもまた
慄然としたほどでございますから。
何事がございましょうとも、自力を頼んで、どうのこうの、と申すようなことは夢にも考えておりません。
しかし
貴下は、唯今うけたまわりましたような
可怖い
只中に、よく御辛抱なさいます、実に大胆でおいでなさる。」
「私くらい
臆病なものはありません。
······臆病で仕方がないから、なるがまかせに、抵抗しないで、自由になっているのです。」
「さあ、そこでございます。それを伺いたいのが何より
目的で参りましたが、何か、その御研究でもなさりたい
思召で。」
「どういたしまして、私の方が研究をされていても、こちらで研究なんぞ思いも寄らんのです。」
「それでは、外に、」
「ええ、望み
||と申しますと、まだ
我があります。実は願事があって、ここにこうして、
参籠、通夜をしておりますようなものです。」
二十九
「それが
貴僧、
前刻お話をしかけました、あの
手毬の事なんです。」
「ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。」
「いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。」
と、うっとりと云った目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は
一膝進めたのである。
「大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を
歩行きますのも、
詮ずる処、ある意味の手毬唄を
······」
「手毬唄を。
······いかがな次第でございます。」
「夢とも、
現とも、幻とも
······目に見えるようで、口には
謂えぬ
||そして、優しい、
懐しい、あわれな、情のある、愛の
籠った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、
悚然とする、胸を
掻
るような、あの、
恍惚となるような、まあ例えて言えば、
芳しい清らかな乳を含みながら、生れない
前に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の
||唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、
憧憬れて、それを聞きたいと思いますんです。」
この数分時の
言の
中に、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫の
音、
木の葉の
囁きまで、稲妻のごとく胸の
裡に繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、
颯と
金字紺泥に瞳に描いて試みたが、それかと思うのは更に分らぬ。
「して、その唄は、
貴下お聞きになったことがございましょうか。」
「
小児の時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心覚えた最後の記憶に留めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。
年を取るに従うて、まるで
貴僧、物語で見る切ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。
東京のある学校を
卒業ますのを
待かねて、故郷へ帰って、心当りの人に尋ねましたが、誰のを聞いても、どんなに尋ねても、それと思うのが分らんのです。
第一、母親の姉ですが、私の学資の世話をしてくれます、叔母がそれを知りません。
ト夢のように心着いたのは、
同一町に三人あった、
同一年ごろの娘です。
(産んだその子が男の
児なら、
京へ
上ぼせて狂言させて、
寺へ上ぼせて
手習させて、
寺の和尚が、
道楽和尚で、
高い縁から突落されて、
笄落し
小枕落し、)
と、よく私を遊ばせながら、母も
少かった、その娘たちと、毬も突き、
追羽子もした事を
現のように思出しましたから、それを捜せば、きっと誰か知っているだろう、と気の着いた
夜半には、むっくりと起きて、嬉しさに
雀躍をしたんですが、
貴僧、その
中の一人は、まだ母の存命の内に、
雛祭の夜なくなりました。それは私も知っている
|| 一人は行方が知れない、と言います
······ やっと一人、これは、県の学校の校長さんの処へ縁づいているという。まず
可し、と早速訪ねて参りましたが、町はずれの侍町、
小流があって板塀続きの、邸ごとに、むかし植えた紅梅が沢山あります。まだその
古樹がちらほら残って、
真盛りの、
朧月夜の事でした。
今
貴僧がここへいらっしゃる玄関前で、
紫雲英の草を
潜る兎を見たとおっしゃいました、」
「いや、肝心のお話の
中へ、お交ぜ下すっては困ります。そうは見えましたものの、まさかかような処へ。あるいはその
······猫であったかも知れません。」
「
背後が直ぐ山ですから、ちょいちょい見えますそうです、兎でしょう。
が、似た事のありますものです
||その時は
小狗でした。鈴がついておりましたっけ。
白垢の
真白なのが、ころころと
仰向けに手をじゃれながら
足許を転がって
行きます。夢のようにそのあとへついて、やがて門札を見ると指した家で。
まさか
奥様に、とも言えませんから、主人に逢って、
||意中を話しますと
||(
夜中何事です。人を馬鹿にした。奥は病気だからお目には
懸れません。)
と云って
厭な顔をしました。夫人が評判の美人だけに、校長さんは大した嫉妬深いという事で。」
三十
「叔母がつくづく意見をしました。(はじめから
彼家へ
行くと聞いたら
遣るのじゃなかった
||黙っておいでだから何にも知らずに悪い事をしたよ。さきじゃ
幼馴染だと思います、手毬唄を聞くなぞ、となおよくない、そんな事が世間へ通るかい、)とこうです。
母親の友達を尋ねるに、色気の嫌疑はおかしい、と聞いて見ると、
何、女の
児はませています、それに
紅い
手絡で、美しい髪なぞ結って、
容づくっているから
可い姉さんだ、と
幼心に思ったのが、二つ違い、一つ上、亡くなったのが二つ上で、その奥さんは一ツ上のだそうで、行方の知れないのは、分らないそうでした。
事が面倒になりましてね、その夫人の親里から、叔母の家へ
使が来て、娘御は何も唄なんか御存じないそうで、ええ、世間体がございますから以来は、と苦り切って帰りました。
勿論病気でも何でもなかったそうです。
一月ばかり
経って、細かに、いろいろと手毬唄、子守唄、
童唄なんぞ、百幾つというもの、綺麗に美しく、
細々とかいた、文が来ました。
しまいへ、
紅で、
||嫁入りの
果敢なさを唄いしが唄の中にも沢山におわしまし候
|| と、だけ記してありました。
······ 唯今も大切にして持ってはいますが、勿論、その中に、私の望みの、母の声のはありません。
さあ、もう一人
······行方の知れない方ですが
······ またこれが
貴僧、家を越したとか、遠国へ行ったとかいうのなら、いくらか手懸りもあるし、何の不思議もないのですが、俗に申します、神がくしに逢ったんで、叔母はじめ固くそう信じております。
名は
菖蒲と言いました。
一体その娘の家は、
母娘二人、どっちの乳母か、
媼さんが一人、と
母子だけのしもた屋で、しかし立派な
住居でした。その
母親というのは、私は
小児心に、ただ歯を染めていたのと、鼻筋の通った、こう面長な、そして帯の
結目を長く、
下襲か、
蹴出しか、
褄をぞろりと着崩して、日の暮方には、時々薄暗い
門に立って、町から見えます、山の方を
視めては
悄然彳んでいたのだけ
幽に覚えているんですが、人の
妾だとも云うし、本妻だとも云う、どこかの藩候の
落胤だとも云って、ちっとも素性が分りません。
娘は、別に
異ったこともありませんが、
容色は三人の
中で一番
佳かった
||そう思うと、今でも
目前に見えますが。
その娘です、
余所へは遊びに来ましたけれど、誰も友達を、自分の内へ連れて行った事はありませんでした。
寄合って、
遊事を。これからおもしろくなろうという時、不意に
母さんがお呼びだ、とその媼さんが出て来て
引張って帰ることが度々で、急に居なくなる、跡の寂しさと云ったらありません。
||先の内は、自分でもいやいや
引立てられるようにして帰り帰りしたものですが、一ツは人の
許へ自分は来て、我が
家へ誰も呼ばない、という遠慮か、妙な時ふと立っちゃ、
独で帰ってしまうことがいくらもあったんです。
ですから何だかその娘ばかりは、思うように遊べない、勝手に誘われない、自由にはならない処から、遠いが花の香とか云います。余計に私なんざ
懐くって、(
菖ちゃんお遊びな)が言えないから、合図の石をかちかち叩いては、その家の前を通ったもんでした。
それが
一晩、真夜中に、十畳の座敷を閉め切ったままで、どこかへ姿をかくしたそうで。
丑年の事だから、と私が唄を聞きたさに、尋ねた時分
······今から何年前だろう、と叔母が指を折りましたっけ
······多年になりますが。」
三十一
「故郷では、未婚の女が、丑年の丑の日に、
衣を清め、身を清め
······」
唾をのんで聞いた客僧が、
「成程、」
と腕組みして、
「精進潔斎。」
「そんな大した、」
と言消したが、また
打頷き
「どうせ娘の子のする事です。そうまでも
行きますまいが、髪を洗って、湯に入って、そしてその
洗髪を
櫛巻きに結んで、
笄なしに、
紅ばかり薄くつけるのだそうです。
それから、十畳敷を
閉込んで、床の間をうしろに、どこか、壁へ向いて、そこへ
婦の魂を据える、鏡です。
丑童子、
斑の
御神、と、一心に念じて、
傍目も
触らないで、
瞻めていると、その丑の年丑の月丑の日の
······丑時になると、その鏡に、
······前世から定まった縁の人の姿が見える、という伝説があります。
娘は、誰も勝手を知らない、その家で、その
丑待を
独でして、何かに誘われてふらふらと出たんですって。
······それっきりになっているんですもの。
手のつけようがありますまい。
いよいよとなると、なお聞きたい、それさえ聞いたら、亡くなった母親の顔も見えよう、とあせり出して、山寺にありました、母の墓を
揺ぶって、
記の松に耳をあてて聞きました、松風の声ばかり。
その山寺の森をくぐって、里に落ちます清水の、
麓に玉散る石を
噛んで、この歯音せよ、この舌歌へ、と念じても、
戦くばかりで声が出ない。
うわの空で居たせいか、一日、山
路で
怪我をして、足を
挫いて寝ることになりました。ざっとこれがために、半月悩んで、ようよう杖を突いて散歩が出来るようになりますと、
籠を出た鳥のように、町を、山の方へ、ひょいひょいと
杖で飛んで、いや
不恰好な蛙です
||両側は家続きで、ちょうど
大崩壊の、あの街道を見るように、なぞえに
前途へ高くなる
||突当りが
撞木形になって、そこがまた
通街なんです。私が
貴僧、自分の町をやがてその九分ぐらいな処まで参った時に、向うの縦通りを、向って左の方から来て、こちらへ曲りそうにしたが、白地の浴衣を着てそこに立った私の姿を見ると、フト
立停った美人があります。
扮装なぞは気がつかず、
洋傘は持っていたようでしたっけ、それを
翳していたか、畳んだのを
支いていたか、
判然しないが、ああ似たような、と思ったのは、その行方が分らんという一人。
トむこうでも
莞爾しました
······ そこへ笠を深くかぶった、
草鞋穿きの、
猟人体の
大漢が、
鉄砲の
銃先へ
浅葱の小旗を結えつけたのを肩にして、鉄の鎖をずらりと
曳いたのに、大熊を一頭、のさのさと曳いて出ました。
山を上に見て、
正的に町と町が
附ついた
三辻の、その
附根の処を、横に切って、左角の土蔵の前から、右の角が、菓子屋の、その
葦簀の
張出まで、わずか二間ばかりの
間を通ったんですから、のさりと
行くのも、ほんのしばらく。
熊の
背が、
彳んだ
婦人の
乳のあたりへ、黒雲のようにかかると、それにつれて、一所に横向きになって
歩行き出しました。あとへぞろぞろ大勢
小児が
······国では珍らしい
獣だからでしょう。
右の方へかくれたから、角へ出て見ようと、
急足に出よう、とすると、
馴れない
跛ですから、腕へ台についた杖を忘れて、
躓いて、のめったので、
生爪をはがしたのです。
しばらく立てませんでした。
かれこれして、出て見ると、もうどこへ行ったか影も形もない。
その後、旅行をして諸国を
歩行くのに、越前の
木の芽峠の
麓で見かけた、炭を
背負った女だの、
碓氷を越す時汽車の窓からちらりと見ました、
隧道を出て、
衝と隧道を入る間の茶店に、うしろ向きの
女だの、
都では矢のように行過ぎる馬車の中などに、それか、と思うのは幾たびも見かけたんですが
······その熊の時のほど、印象のよく明瞭に今まで残ってるのは無いのです。
内へ帰って、
(美しき君の姿は、
熊に取られた。
町の角で、町の角で
|| 跛ひきひき追えど及ばぬ。)
もしや手毬唄の中に、こういうのは無かったでしょうか、と叔母にその話をすると、
真日中にそんなものを
視て、そんなことを云う
貴下は、
身体が弱いのです。当分外へは出てはなりません、と外出
禁制。
以前は、その形で、正真正銘の熊の
胆、と海を渡って売りに来たものがあるそうだけれど、今時はついぞ見懸けぬ、と後での話。
······」
三十二
「日が
経ってから、叔母が私の
枕許で、さまでに思詰めたものなら、保養かたがた、思う処へ旅行して、その唄を誰かに聞け。
(妹の声は私も聞きたい。)
と、
手函の
金子を授けました。今もって叔母が貢いでくれるんです。
国を出て、足かけ五年!
津々浦々、都、村、里、どこを聞いても、あこがれる唄はない。似たのはあっても、その後か、その
前か、中途か、あるいはその空間か、どこかに望みの声がありそうだな
······と思うばかり。また
小児たちも、手毬が下手になったので、
終まで突き得ないから、自然長いのは半分ほどで消えています。
とても尋常ではいかん、と思って、もうただ、その一人行方の知れない、
稚ともだちばかり、矢も
楯も
堪らず逢いたくなって来たんですが、魔にとられたと言うんですもの。
高峰へかかる雲を見ては、
蔦をたよりに
縋りたし、
湖を渡る霧を見ては、落葉に乗っても、追いつきたい。
巌穴の底も極めたければ、滝の裏も
覗きたし、何か前世の因縁で、めぐり逢う事もあろうか、と奥山の
庚申塚に一人立って、二十六夜の月の出を待った事さえあるんです。
トこの間
||名も嬉しい
常夏の咲いた霞川と云う秋谷の小川で、綺麗な手毬を拾いました。
宰八に聞いた、あの、嘉吉とか云う男に、緑色の珠を与えて、
月明の村雨の中を山路へかかって、
(ここはどこの細道じゃ、
細道じゃ。
天神様の細道じゃ、
細道じゃ。)
と童謡を
口吟んで通ったと云うだけで、早やその声が聞こえるようで、」
僧は魅入られたごとくに見えたが、
溜息を
吻と
吐き、
「まずおめでたい、ではその唄が知れましたか。」
「どうして唄は知れませんが、声だけは、どうやらその人
······いいえ、
······そのものであるらしい。この手毬を
弄ぶのは、
確にその
婦人であろう。その婦人は何となく、この
空邸に姿が見えるように思われます。
······むしろ私はそう信じています。
爺さんに
強請って、ここを一
室借りましたが、借りた日にはもう其の手毬を取返され
||私は取返されたと思うんですね
||美しく気高い、その
婦人の心では、私のようなものに拾わせるのではなかったでしょう。
あるいはこれを、小川の
裾の秋谷明神へ届けるのであったかも分らない。そうすると、名所だ、と云う、浦の、あの、子産石をこぼれる石は、以来手毬の糸が染まって、五彩
燦爛として
迸る。この色が、紫に、緑に、
紺青に、
藍碧に波を射て、太平洋へ月夜の
虹を敷いたのであろうも計られません、」
とまた
恍惚となったが、
頸を垂れて、
「その
祟、その罪です。このすべての怪異は。
||自分の
慾のために、自分の恋のために、途中でその手毬を拾った罰だろう、と思う、思うんです。
祟らば祟れ!飽くまでも初一念を貫いて、その唄を聞かねば置かない。
心の
迷か知れませんが。
目のあたり見ます、怪しさも、
凄さも、もしや、それが望みの唄を、
何人かが暗示するのであろうも知れん、と思って、こうその口ずさんで見るんです
||行燈が宙へ浮きましょう。
(美しき君の姿は、
萌黄の蚊帳を、
蚊帳のまわりを、姿はなしに、
通る
行燈の
俤や。)
······ 勿論、こんなのではありません。または、
(美しき君の
庵は、
[#底本では冒頭に「(」なし] 前の畑に影さして、
棟の草も露に濡れつつ、
月の
桂が
茅屋にかかる。)
······ ちっとも似てはおらんのです。屋根で
鵝鳥が鳴く時は、波に
攫われるのであろうと思い、板戸に馬の影がさせば、修羅道に
堕ちるか、と驚きながらも、
(屋根で鵝鳥の鳴き叫ぶ、
板戸に
駒の影がさす。)
と、
現にも、絶えず耳に聞きますけれど、それだと心は
頷きません。
いかなる事も堪忍んで、どうぞその唄を聞きたい、とこうして参籠をしているんですが、
祟ならばよし罪は
厭わん、」
と激しく言いつつ、心づいて、
悄然として僧を見た。
「ただその、手毬を取返したのは、唄は教えない、という宣告じゃあなかろうか、とそう思うと
情ない。
ああ、お話が
八岐になって、手毬は
······そうです。天井から猫が落ちます以前、私が縁側へ一人で坐っています処へ、あの
白粉の花の蔭から、
芋※[#「くさかんむり/更」、221-3]の葉を顔に当てた
小児が三人、ちょろちょろと出て来て、不思議そうに私を見ながら、犬ころがなつくように
傍へ寄ると、縁側から
覗込んで、手毬を見つけて、三人でうなずき合って、
(それをおくれ。)と言います。
(お前たちのか。)
と聞くと、
頭を
掉るから、
(じゃ、
小父さんのだ。)と言うと、男が毬を、という調子に、
(わはは)と笑って、それなりに、ちらちらとどこかへ取って行ったんでした。」
|| 三十三
「何、
私がうわさしていさっせえた処だって
······はあ、お
前様二人でかね。」
どッこいしょ、と立ったまま、広縁が高いから、
背負って来た風呂敷包は、腰ぎりにちょうど乗る。
「だら、
可いけんども、」
と
結目を
解下ろして、
「天井裏でうわさべいされちゃ
堪んねえだ。」
と声を
密めたが、宰八は直ぐ高調子、
「いんね、
私一人じゃござりましねえ。喜十郎様が
許の仁右衛門の
苦虫と、学校の先生ちゅが、同士にはい、
門前まで来っけえがの。
あの、樹の下の、暗え中へ頭
突込んだと思わっせえまし、お前様、苦虫の
親仁が
年効もねえ、
新造子が抱着かれたように、キャアと云うだ。」
「どうしたんです。」
「何かまた、」
と、僧も夜具包の上から伸上って顔を出した。
宰八
紅顱巻をかなぐって、
「こりゃ、はい、御坊様御免なせえまし。御本家からも
宜しくでござりやす。いずれ喜十郎様お目に
懸りますだが、まず
緩りと休まっしゃりましとよ。
私こういうぞんざいもんだで、お辞儀の仕様もねえ。婆様がよッくハイ御挨拶しろと云うてね、お前様
旨がらしっけえ、団子をことづけて
寄越しやした。
茶受にさっしゃりやし。あとで私が蚊いぶしを才覚しながら、ぶつぶつ渋茶を煮立てますべい。
それよりか、お前様、腹アすかっしゃったろうと思うで、御本家からまた重詰めにして寄越さしった、そいつをぶら下げながら苦虫が、右のお前様、キャアでけつかる。
門外の草原を、まるで川の瀬さ渡るように、三人がふらふらよちよち、モノ小半時かかったが、芸もねえ、えら遅くなって済まんしねえ。」
「何とも御苦労、」
と僧は
慇懃に
頭をさげる。
「その人たちは、どうしたのかね。」
と明が尋ねた。
「はい、それさ、そのキャアだから、お前様、どうした仁右衛門と、云うと、苦虫が、
面さ渋くして、(ああ、
厭なものを見た。おらが鼻の
尖を、ひいらひいら、あの
生白けた芋の葉の
長面が、ニタニタ笑えながら横に飛んだ。精霊棚の
瓢箪が、ひとりでにぽたりと落ちても、御先祖の
戒とは思わねえで、酒も
留めねえ
己だけんど、それにゃ
蔓が枯れたちゅう道理がある。風もねえに芋の葉が宙を
歩行くわけはねえ。ああ、厭だ、総毛立つ、内へ帰って夜具を
被って、ずッしり汗でも取らねえでは、煩いそうに頭も重い。)
と
縮むだね。
例の
小児が駆出したろう、とそう言うと、なお悪い。あの声を聞くと
堪らねえ。あれ、あれ、石を鳴らすのが、
谷戸に響く。時刻も七ツじゃ、と
蒼くなって、風呂敷包
打置いて、ひょろひょろ帰るだ。
先生様、ではお前様、その重箱を提げてくれさっせえ、と
私が頼むとね。
(厭だ、)と云っけい。
(はてね、なぜでがす。)
ここさ、お客様の
前だけんど、気にかけて下せえますなよ。
(軍歌でもやるならまだの事、子守や手毬唄なんかひねくる様な
奴の、弁当持って堪るものか。)
と
吐くでねえか。
奴は
朋友に聞いた、と云うだが、いずれ
怪物退治に来た連中からだんべい。
お客様何でがすか、お前様、子守唄
拵えさっしゃるかね。袋戸棚の障子へ、書いたもの
貼っとかっしゃるのは、もの、それかね。」
明は恥じたる色があった。
「こしらえるのじゃない、聞いたのを書き留めて置くんです。数があって忘れるから、」
「はあ、
私はまた、こんな
恐怖え
処に落着いていさっしゃるお前様だ。
怨敵退散の
貼御符かと思ったが。
何か、ハイ、わけは
分ンねえがね、悪く言ったのがグッと
癪に
障ったで、
(なら
可うがす、客人のものは持ってもれえますめえ、が、お前様、学校の先生様だ。
可し、私あハイ、何も教えちゃもらわねえだで、師匠じゃねえ、同士に
歩行くだら
朋達だっぺい。蟹の宰八が手ンぼうの助力さっせえ。)
と
極めつけたさ。
帽子の下で目を据えたよ。
(貴様のような友達は持たん、失敬な。)と云って引返したわ。何か
託け、根は臆病で
遁げただよ。見さっせえ、
韋駄天のように木の下を駆出し、川べりの遠くへ行く仁右衛門親仁を、
(おおい、おおい、)
と茶番の
定九郎を
極めやあがる。」
三十四
その夜に限って何事もなく、静かに。
······寝ようという時、初夜過ぎた。
宰八が
手燭に送られて、広縁を折曲って、
遥かに廻廊を通った僧は、雨戸の並木を越えたようで、
故郷には蚊帳を釣って、一人寂しく友が待つ
思がある。
「ここかい。」
「それを左へ開けさっせえまし、入口の板敷から二ツ目のが、男が立って
遣るのでがす。行抜けに北の縁側へも出られますで、お
前様帰りがけに取違えてはなんねえだよ。
二三年この方、向うへは誰も通抜けた事がねえで、当節柄じゃ、迷込んではどこへ行くか、ハイ方角が着きましねえ。」
「もう分りましたよ。」
「
可かあねえ、
私、ここに待っとるで、
燈をたよりに出て来さっせえ。
私も、この障子の
多いこと続いたのに、めらめら破れのある
工合が、ハイ一ツ一ツ
白髑髏のようで、一人で立ってる気はしねえけんど、お前様が坊様だけに気丈夫だ。えら茶話がもてて、何度も土瓶をかわかしたで、
入かわって私もやらかしますべいに、待ってるだよ。」
僧は戸を開けながら、と、声をかけて、
「御免下さい。」
と、ぴたりと閉めた。
「あ、あ、気味の悪い。誰に
挨拶さっせるだ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。はて、急に変なことを考えたぞ
[#「考えたぞ」は底本では「考えだぞ」]。そこさ一面の障子の破れ
覗いたら何が見えべい
||南無阿弥陀仏、ああ、南無阿弥陀仏、
······やあ、
蝋燭がひらひらする、どこから風が吹いて来るだ。これえ消したが最後、
立処に六道の辻に迷うだて。
南無阿弥陀仏、御坊様、まだかね。」
「ちょいと、」
「ひゃあ、」
僧は半ば開いて、中に鼠の
法衣で立ちつつ、
「ちょいと
燭を見せておくれ。」
「ええ、お前様、
前へ戸を開けておいてから何か言わっしゃれば
可い。板戸が
音声を発したか、と
吃驚しただ、はあ、何だね。」
「入口の、この出窓の下に、
手水鉢があったのを、入りしなに見ておいたが、広いので暗くて分らなくなりました。」
「ああ、手、洗わっしゃるのかね、」
と手燭ばかりを、ずいと出して、
「鉢前にゃ、
夜が明けたら見さっせえまし、大した
唐銅の手水鉢の、この邸さ
曳いて来る時分に牛一頭かかった、見事なのがあるけんど、今開ける気はしましねえ。
······」
ええ、そよら、そよらと風だ。
そ、その鉢にゃ水があれば
可いがね、無くば座敷まで我慢さっせえまし、土瓶の
残を
注けて進ぜる。」
「あります、あります。」
ざっと音をさして、
「冷い美しい水が、
満々とありますよ。」
「嘘を
吐くもんでェねえ。なに
美い水があんべい。井戸の水は
真蒼で、小川の水は白濁りだ。」
「じゃあ
燭で見るせいだろうか、」
「そして、はあ、何なみなみとあるもんだ。」
「いいえ、
縁切こぼれるようだよ。ああ、葉越さんは綺麗好きだと見える。
真白な
手拭が、」
と言いかけてしばらく黙った。
今年より
卯月八日は吉日よ
尾長蛆虫成敗ぞする
「ここに
倒にはってあるのは、これは
誰方がお書きなすった、」
「
······南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
······」
「ああ、
佳いおてだ。」
と大和尚のように落着いて、
大く言ったが、やがてちと
慌しげに小さな坊さまになって急いで出た。
「ええ、
疾く出さっせえ、
私もう
押堪えて、座敷から庭へ出て用たすべい。」
「ほんとに誰が書いたんだね、女の手だが、」
と掛手拭を
賞めた癖に、薄汚れた畳んだのを自分の
袂から出している。
「
南無阿弥陀仏、ソ、それは、それ、この次の、次の、小座敷で亡くならしっけえ、どっかの嬢様が書いて
貼っただとよ、
直きそこだ、今ソンな事あどうでも
可え。頭から、
慄然とするだに、」
「そうかい、ああ私も今、手を
拭こうとすると、真新しい
切立の掛手拭が、冷く濡れていたのでヒヤリとした。」
「や、」と横飛びにどたりと踏んだが、その
跫音を忍びたそうに、腰を浮かせて、
同一処を
蹌踉蹌踉する。
三十五
「そうふらふらさしちゃ
燈が消えます。貸しなさい、私がその
手燭を持とうで。」
「頼んます、はい、どうぞお
前様持たっせえて、ついでにその
法衣着さっせえ姿から、光明
赫燿と願えてえだ。」
僧は燭を取って一足出たが、
「お爺さん、」
と呼んだのが、
驚破事ありげに聞えたので、手んぼうならぬ手を
引込め、
不具の方と
同一処で、
掌をあけながら、
据腰で顔を見上げる、と
皺面ばかりが燭の影に
真赤になった。
||この赤親仁と、青坊主が、廊下はずれに物言う
状は、鬼が
囁くに異ならず。
「ええ、」
「どこか
呻吟くような声がするよ。」
「芸もねえ、
威かしてどうさっせる。」
「聞きなさい、それ
······」
「う、う、う、」
と
厭な声。
「爺さん、お前が呻吟くのかい。」
「いんね、」
と変な顔色で、鼻をしかめ、
「ふん、難産の
呻吟声だ。はあ、
御新姐が
唸らしっけえ、
姑獲鳥になって鳴くだあよ。もの、奥の小座敷の方で聞えべいがね。」
「奥も小座敷も私は知らんが、障子の方ではないようだ、便所かな、」
「ひええ、今、お前様が
入らっしたばかりでねえかね、」
「されば、」
と斜めに聞澄まして、
「おお、庭だ、庭だ、雨戸の外だ。」
「はあ、」
と宰八も、聞定めて、
吻と息して、
「まず
構外だ、この雨戸がハイ鉄壁だぞ。」と、ぐいと
圧えてまた
蹈張り、
「野郎、
入ってみやがれ、野郎、
活仏さまが附いてござるだ。」
「仏ではなお
打棄っては
措かれない、人の声じゃ、お爺さん、明けて見よう、誰か
苦んでいるようだよ。」
「これ、静かにさっせえ、
術だ、術だてね。ものその術で、
背負引き出して、お前様
天窓から塩よ。
私は手足い
引捩いで、月夜蟹で
肉がねえ、と
遣ろうとするだ。ほってもない、開けさっしゃるな。早く座敷へ行きますべい。」
「あれ、聞きなさい、助けてくれ
······と云うではないか。」
「へ、
疾いもんだ。人の気を引きくさる、坊様と知って慈悲で釣るだね、開けまいぞ。」
と云う時
······判然聞えたが、しわがれた声であった。
「助けてくれ
······」
「
············」
「
············」
「宰八よう、」
|| と、
葎がくれに虫の声。
手ぼう
蟹ふるえ上って、
「ひゃあ、苦虫が呼ぶ。」
「何、虫が呼ぶ?」
「ええ、
仁右衛門の声だ。
南無阿弥陀仏、ソ、ソレ見さっせえ。宵に
門前から
遁帰った親仁めが、今時分何しにここへ来るもんだ。見ろ、畜生、さ、さすが畜生の浅間しさに、そこまでは心着かねえ。へい、人間様だぞ。おのれ、荒神様がついてござる、
猿智慧だね、
打棄っておかっせえまし。」
と雨戸を離れて、肩を一つ
揺って
行こうとする。広縁のはずれと覚しき
彼方へ、板敷を離るること二尺ばかり、消え残った
燈籠のような
白紙がふらりと出て、
真四角に、
燈が
歩行き出した。
「はッあ、」
と
退って、僧に
背を
摺寄せながら、
「経文を唱えて下せえ、入って来たわ、
南無まいだ、なんまいだ。」
僧も
爪立って、
浮腰に透かして見たが、
「
行燈だよ、余り手間が取れるから、座敷から葉越さんが見においでだ。さあ、三人となると私も大きに心強い
||ここは
開くかい。」
「ええ、これ、開けてはなんねえちゅうに、」
「だって、あれ、あれ、助けてくれ、と云うものを。鬼神に横道なし、と云う、
情に
抵抗う
刃はない
筈、」
枢をかたかた、ぐっと、さるを上げて、ずずん、かたりと開ける、袖を絞って
蔽い果さず、
燈は
颯と夜風に消えた。が、吉野紙を蔽えるごとき、薄曇りの月の影を、
隈ある暗き
葎の中、底を分け出でて、打傾いて、その光を宿している、目の前の飛石の上を、
四つに
這廻るは、そもいかなるものぞ。
三十六
声を聞いたより形を見れば、なお
確実に、飛石を這って
呻いていたのは、苦虫の仁右衛門であった。
月明に、まさしくそれと認めが着くと、
同一疑の
中にもいくらか
与易く思った処へ、明が
行燈を提げて来たので、ますます力づいた宰八は、二人の指図に、思切って庭へ出たが、もうそれまでに
漕ぎ着ければ、露に濡れる分は
厭わぬ親仁。
さやさやと
葎を分けて、おじいどうした、と
摺寄ると、ああ、宰八か助けてくれ。この手を
引張って、と拝むがごとく指出した。左の
腕を、ぐい、と
掴んで、
獣にしては毛が少ねえ、おおおお
正真正銘の仁右衛門だ、よく化けた、とまだそんな事を云いながら、肩にかけて
引立てると、飛石から離れるのが
泥田を踏むような足取りで、せいせい
呼吸を切って、しがみつくので、
咽喉がしまる、と
呟きながら、宰八も
疾く
埒を明けたさに、委細構わずずるずる
引摺って縁側に来る間に、明はもう一枚、雨戸を開けて待構えて、気分はどう?まあ、こちらへ、と手伝って引入れた、仁右衛門の右の手は、
竹槍を握っていたのである。
これは、と驚くと、
仔細ござります。水を一口、と云う舌も
硬ばり、唇は土気色。手首も冷たく
只戦きに戦くので、ともかく座敷へ連れよう
······何しろ危いから、こういうものはと、竹槍は明が預る。
引そいだ
切尖の
鋭いのが、
法衣の袖を
掠ったから、
背後に立った僧は慌てて身を開いて、行燈は手前が、とこれが先へ立つ。
さあ
負され、と蟹の甲を押向けると、いや、それには及ばぬ、と云った仁右衛門が、僧の
裾を
啣えた
体に、膝で
摺って縁側へ
這上った。
あとへ、竹槍の青光りに艶のあるのを、柄長に取って、明が続く。
背後で雨戸を閉めかけて、おじい、腰が抜けたか、弱い男だ、とどうやら
風向が
可さそうなので、宰八が
嘲けると、うんにゃ足の裏が血だらけじゃ、
歩行と
痕がつく、と這いながら云ったので
||イヤその音の
夥しさ。がらりと閉め棄てに、明の
背へ
飛縋った。
||真先へ行燈が、坊さまの裾
[#「裾」は底本では「据」]あたり宙を
歩行いて、血だらけだ、と云う苦虫が馬の
這身、竹槍が
後を
圧えて、暗がりを蟹が通る。
······広縁をこの
体は、さてさて
尋常事ではない。
やがて座敷で介抱して、ようよう正気づくと、仁右衛門は
四辺を

し、あまたたび
口籠りながら、相済みましねえ、お客様、御出家、宰八
此方にはなおの事、四十年来の
知己が、余り気心を知らんようで、面目もない次第じゃ。
御主人鶴谷様のこの別宅、近頃の怪しさ不思議さ。余りの事に、これは
一分別ある処と、三日
二夜、口も利かずにまじまじと勘考した。はて
巧んだり!てっきりこいつ
大詐欺に極まった。
汝等が
謀って、見事に
妖物邸にしおおせる。棄て置けば
狐狸の
棲処、さもないまでも乞食の宿、
焚火の火
沙汰も不用心、給金出しても人は住まず、持余しものになるのを見済まし、立腐れの柱を根こぎに、瓦屋根を踏倒して、
股倉へ
掻込む算段、図星図星。しゃ!明神様の
託宣||と
眼玉で
睨んで見れば、どうやら近頃から
逗留した渡りものの
書生坊、悪く優しげな
顔色も、絵草子で見た
自来也だぞ、盗賊の張本ござんなれ。晩方
来せた旅僧めも、その同類、茶店の
婆も怪しいわ。手引した宰八も抱込まれたに相違ない。道理こそ化物沙汰に輪を
掛る。待て待て
狂人の真似何でもない事、嘉吉も一升飲まされた
||巫山戯た
奴等、どこだと思う。秋谷村には甘え柿と、苦虫あるを知んねえか、とわざと臆病に見せかけて、宵に
遁げたは
真田幸村、やがてもり返して
盗賊の巣を
乗取る
了簡。
いつものように
黄昏の軒をうろつく、嘉吉
奴を
引捉え、
確と親元へ預け置いたは、屋根から
天蚕糸に
鉤をかけて、行燈を釣らせぬ分別。
かねて
謀計を
喋合せた、同じく晩方
遁げる、と見せた、学校の訓導と、その筋の
諜者を勤むる、
狐店の親方を誘うて、この三人、十分に支度をした。
二人は表門へ立向い、仁右衛門はただ一人、怪しきものは突殺そう。狸に化けた人間を
打殺すに仔細はない、と竹槍を
引そばめて、木戸口から庭づたいに、月あかりを
辿り辿り、雨戸をあてに近づいて、何か、手品の種がありはせぬか、と透かして屋根の
周囲をぐるりと見ると。
······ 三十七
烏が一羽
歴然と屋根に見えた。ああ、あの下
辺で、産婦が二人
||定命とは思われぬ無残な死にようをしたと思うと、屋根の上に、姿が何やら。
この姿は、
葎を分けて忍び寄ったはじめから、
目前に
朦朧と映ったのであったが、立って丈長き葉に添うようでもあり、寝て根を
潜るようでもあるし、浮き上って
葉尖を渡るようでもあった。で、大方仁右衛門自分の
身体と、竹槍との組合せで、
月明には、そんな影が出来たのだろう、と怪しまなかったが、その姿が、ふと屋根の上に移ったので。
ト見ると、肩のあたりの、すらすらと
優いのが、いかに月に描き直されたればとて、
鍬を担いだ骨組にしては余りにしおらしい、と心着くと柳の腰。
その細腰を
此方へ、背を
斜にした
裾が、
脛のあたりへ
瓦を敷いて、細くしなやかに
掻込んで、
蹴出したような
褄先が、中空なれば遮るものなく、
便なさそうに、しかし
軽く、軒の
蜘蛛の
囲の大きなのに、はらりと乗って、
水車に霧が
懸った風情に見える。背筋の
靡く、
頸許のほの白さは、月に預けて際立たぬ。その月影は
朧ながら、濃い黒髪は緑を
束ねて、森の影が雲かと落ちて、その
俤をうらから包んだ、向うむきの、やや中空を仰いだ
状で、二の腕の腹を
此方へ、雪のごとく白く見せて、
静に
鬢の毛を
撫でていた。
白魚の指の
尖の、ちらちらと髪を
潜って動いたのも、思えば見えよう道理はないのに、てっきり耳が動いたようで。
驚破、
獣か、人間か。いずれこの邸を踏倒そう屋根
住居してござる。おのれ、見ろ、と一足
退って竹槍を
引扱き、鳥を差いた覚えの
骨で、スーッ!
突出した得物の
尖が、右の袖下を
潜るや否や、踏占めた足の裏で、ぐ、ぐ、ぐ、と声を出したものがある。
地が急に柔かく、ほんのりと暖かに、ふっくりと綿を踏んで、下へ沈みそうな心持。
他愛なく膝節の崩れるのに驚いて、足を見る、と
白粉の花の上。
と思ったがそれは遠い。このふっくりした白いものは、
南無三宝仰向けに倒れた女の胸、膨らむ乳房の
真中あたり、
鳩尾を、土足で
蹈んでいようでないか。
仁右衛門ぶるぶるとなり、
据眼に
熟と見た、白い
咽喉をのけ
様に、苦痛に反らして、黒髪を乱したが、唇を
洩る歯の白さ。草に鼻筋の通った顔は、忘れもせぬ鶴谷の嫁、
初産に世を去った
御新姐である。
親仁は
天窓から氷を浴びた。
恐しさ、怪しさより、勿体なさに、慌てて踏んでいる足を
除けると、我知らず、片足が、またぐッと乗る。
うむ、と
呻かれて、ハッと開くと、
旧の足で踏みかける。
顛倒して慌てるほど、
身体のおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から
垂々と血を吐くのが、
咽喉に
懸り、胸を染め、乳の下を
颯と流れて、仁右衛門の
蹠に
生暖う垂れかかる。
あッと腰を抜いて、手を
支くと、その黒髪を
掻掴んだ。
御免なせえまし、御新姐様、御免なせえまし、と夢中ながら一心に詫びると、
踏躪られる苦悩の中から、目を開いて、じろじろと見る瞳が動くと、口も動いて、
莞爾する、
······その唇から血が流れる。
足は
膠で附けたよう。
同一処で
蠢く処へ、宰八の声が聞えたので、
救助を呼ぶさえ
呻吟いたのであった。
かくて、手を取って
引立てられた
||宰八が見た飛石は、魅せられた仁右衛門の幻の目に、すなわち御新姐の胸であったのである、足もまだ
粘々する、手はこの通り血だらけじゃ、と
戦いたが、行燈に透かすと夜露に
曝れて白けていた。
「
我折れ何とも、六十の親仁が
天窓を下げる。宰八、
夜深じゃが本宅まで送ってくれ。片時もこの居まわり三町の間に
居りたくない、
生命ばかりはお助けじゃ。」
と言って、誰にするやら仁右衛門はへたへたとお辞儀をした。
そこで、表門へ廻った二人は、と
皆連立って出て見ると、訓導は式台前の敷石の上に、ぺたんと坐っていた。
狐饂飩の亭主は見えず。
······後で知れたがそれは一散に
遁げた、と言う。
何を見て驚いたか、
渠等は
頭を
掉って語らない。一人は
緋の
袴を
穿いた官女の、目の黒い、耳の
尖がった
凄じき女房の、
薄雲の月に袖を重ねて、木戸口に
佇んだ姿を見たし、一人は朱の
面した大猿にして、尾の九ツに裂けた姿に見た、と誰伝うるとなく、程
経って
仄に
洩れ聞える。
|| 三十八
二人寝には楽だけれども、座敷が広いから、蚊帳は式台向きの
二隅と、障子と、
襖と、両方の
鴨居の中途に釣手を掛けて、十畳敷のその三分の一ぐらいを
||大庄屋の夜の調度
||浅緑を垂れ、
紅麻の
裾長く
曳いて、縁側の
方に枕を並べた。
一日、朝から雨が降って、昼も夜のようであったその夜中の事
||と語り掛けて、明はすやすやと寝入ったのである。
いずれそれも、怪しき
事件の一つであろう。
······あわれ、この
少き人の、聞くがごとくんば連日の
疲労もさこそ、今宵は友として我ここに在るがため、幾分の安心を得て
現なく寝入ったのであろう、と小次郎法師が思うにつけても、蚊帳越に
瞻らるるは床の間を
背後にした
仄白々とある
行燈。
楽書の文字もないが、今にも畳を離れそうで、
裾が伸びるか、
燈が出るか、蚊帳へ入って来そうでならぬ。
そういえば、掻き立てもしないのに、明の寝顔も、また悪く明るい。
「
貴下、
寝冷をしては
不可ません。」
寝苦しいか、白やかな胸を出して、
鳩尾へ踏落しているのを、
痩せた胸に
障らないように、
密っと
引掛けたが何にも知らず、まず
可かった。
||仁右衛門が見た
御新姐のように、この手が触って血を吐きながら、
莞爾としたらどうしょう。
そう思うと寝苦しい、何にも見まい、と目を
塞ぐ、と塞ぐ後から、
睫がぱちぱちと音がしそうに開いてしまうのは、心が
冴えて寝られぬのである。
掻巻を
引被れば、
衾の袖から襟かけて、
大な
洞穴のように覚えて、足を
曳いて、何やらずるずると引入れそうで不安に堪えぬ。
すぽりと脱いで、坊主
天窓をぬいと出したが、これはまた、ばあ、と云ってニタリと笑いそうで、自分の顔ながら気味の悪さ。
そこで
屹となって、襟を合せて、枕を仕かえて、気を沈めて、
「
衆怨悉退散、」
と
仰向けのまま
呪すと、いくらか心が静まったと見えて、旅僧はつい、うとうととしたかと思うと、ぽたり、と何か
枕許へ来たのがある。
が、
雨垂とも、血を吸膨れた蚊が一ツ倒れた音とも、まだ聞定めないで
現[#ルビの「うつつ」は底本では「うつ」]でいると、またぽたり
······やがて、ぽたぽたと落ちたるが、今度は
確に頬にかかった。
やっと冷たいのが知れて、
掌で
撫でると、
冷りとする。身震いして少し起きかけて、旅僧は恐る恐る
燈の影に
透したが、
幸に、血の
点滴ではない。
さては雨漏りと思う時は、蚊帳を伝って
雫するばかり、はらはらと降り
灌ぐ。
耳を澄ますと、屋根の上は大雨であるらしい。
浮世にあらぬ仮の宿にも、これほど
侘しいものはない。けれども、
雨漏にも
旅馴れた僧は、押黙って
小止を待とうと思ったが、ますます雫は繁くなって、掻巻の裾あたりは、びしょびしょ、
刎上って
繁吹が立ちそう。
屋根で、
鵝鳥が鳴いた事さえあると聞く。家ごと霞川の底に沈んだのでなかろうか。
······トタンに額を打って、
鼻頭に
浸んだ、大粒なのに、むっくと起き、枕を取って
掻遣りながら、立膝で、じりりと寄って、肩まで
捲れた
寝衣の袖を引伸ばしながら、
「もし、大分漏りますが、もし葉越さん。」
と呼んだが答えぬ。
目敏そうな人物が、と驚いて手を
翳すと、
薄の穂を
揺るように、すやすやと
呼吸がある。
「ああ、よく寝られた。」
と
熟と顔を見ると、明の、
眦の切れた
睫毛の濃い、目の上に、キラキラとした清い玉は、
同一雨垂れに濡れたか、あらず。
······ 来方は我にもあり、ただ
御身は髪黒く、顔白きに、我は
頭蒼く、
面の黄なるのみ。
同一世の
孤児よ、と覚えずほうり落ちた法師自身の同情の涙の、明の夢に届いたのである。
四辺を見ると、この人目覚めぬも道理こそ。雨の雫の、糸のごとく乱れかかるのは、我が
身体ばかりで、明の床には、
夜をあさる
蚤も
居らぬ。
南無三宝、魔物の
唾じゃ。
三十九
例の、その幻の雨とは悟ったものの、見す見すひやりとして濡るるのは、笠なしに山寺から豆腐買いに里へ
遣られた、小僧の時より辛いので、
堪りかねて、蚊帳の裾を
引被いで出たが、さてどこを
居所とも定まらぬ一夜の宿。
消えなんとする
旅籠屋の
行燈を、時雨の軒に便る心で。
僧は
燈火[#「燈火」は底本では「灯燈」]の
許に
膝行り寄った。
寝衣を見ると、どこも露ほども濡れてはおらぬ。まず頬のあたりから腕を
拭こうとしたほどだったのに
······もとより寝床に雨垂の音は無い。
その腕を長く、つき反らして
擦りながら、
「
衆怨悉退散。」
とまた念じて、
静と心を沈めると、この功徳か、蚊の声が無くなって、
寂として静まり返る。
また余りの
静さに、自分の
身体が消えてしまいはせぬか、という懸念がし出して、
押瞑った目を夢から覚めたように
恍惚と、しかも
円に開けて、
真直な燈心を
視透かした時であった。
飜然と映って、
行燈へ、中から透いて影がさしたのを、女の手ほどの
大な
蜘蛛、と
咄嗟に首を
縮めたが、あらず、
非ず、柱に触って、やがて
油壺の前へこぼれたのは、
木の葉であった、
青楓の。
僧は思わず手で拾った。がそのまさしく木の葉であるや、しからずや、確かめようとしたのか、どうか、それは
渠にも分りはせぬ。
ト続いて、
颯と影がさして、
横繁吹に乗ったようにさらりと落ちる。
我にもあらず、またもやそれを拾った時、
先のを、
「一枚、」
と思わず
算えた。
「二枚、」
とあとを数え果さず、三枚目のは、貝ほどの
槻の葉で、ひらひらと
燈を
掠めて来た、影が
大い。
「三枚、」
と口の
裡で
呟くと、早や四枚目が、ばさばさと行燈の紙に
障った。
「四枚、五枚、六枚、七枚、」
と数える内に、拾い上げた膝の上は、早や隙間なく落葉に埋もるる。
空を仰ぐと、天井は底がなく、
暗夜の
深山にある心地。
おお、この森を峠にして、こんな晩、中空を越す
通魔が、魔王に、はたと捧ぐる、関所の
通証券であろうも知れぬ。膝を払って
衝と立って、木の葉のはらはらと揺れるに連れて、ぶるぶると
渠は身震いした。
「えへん!」
と
揉潰されたような
掠れた
咳して、何かに目を転じて、心を移そうとしたが、風呂敷包の、御経を取出す間も遅し。さすがに心着いたのは、障子に四五枚、かりそめに
貼った半紙である。
これはここへ来てからの、心覚えの
童謡を、明が書留めて
朝夕に且つ吟じ且つ
詠むるものだ、と宵に聞いた。
立ったままに寄って見ると、
真先に目に着いたのが濃い墨で、
僧は更に
悚然とした。
落葉一枚、
二枚、三枚、
十とかさねて、
落葉の数も、
ついて落いた君の年、
君の年
|| 振返ると、まだそこに、掃掛けて
廃したように、
蒼きが黒く
散々である。
懐かしや、花の
常夏、
霞川に影が流れた。
その
俤や、俤や
|| 紙を通して障子の
彼方に、ほの白いその俤が
······どうやら
透いて見えるようで、固くなった耳の底で、天の高さ、地の厚さを、あらん限り、深く、
遥に、星の座も、竜宮の
燈も
同一遠さ、と思う
辺、
黄金の鈴を振るごとく、ただ
一声、コロリン、と琴が響いた。
はっと半紙を見ると、瞳へチラリ。
と字が動いたよう。続けて
|| と記してあった。
四十
客僧は思案して、心を落着け、
衣紋を直して、さて、中に仏像があるので、床の間を借りて差置いた、荷物を今解き始めたが、深更のこの
挙動は、木曾街道の
盗賊めく。
不浄よけの
金襴の
切にくるんだ、たけ三寸ばかり、
黒塗の小さな
御厨子を捧げ出して、
袈裟を机に折り、その上へ。
元来この座敷は、京ごのみで、一間の床の間に
傍に、高い袋戸棚が附いて、
傍は直ぐに縁側の、戸棚の横が満月
形に庭に望んだ丸窓で、
嵌込の戸を開けると、葉山繁山中空へ波をかさねて見えるのが、今は焼けたが
故郷の家の、書院の構えにそっくりで、
懐しいばかりでない。これもここで
望の達せらるる
兆か、と床しい、と明が云って、直ぐにこの戸棚を、
卓子擬いの机に使って、
旅硯も据えてある。椅子がわりに
脚榻を置いて。
······ 周囲が広いから、水差茶道具の類も乗せて置く。
そこで、この男の旅姿を見た時から、ちゃんと心づもりをしたそうで、
深切な宰八
爺いは、夜の
具と一所に、机を
背負て来てくれたけれども、それは使わないで、床の間の隅に、
埃は据えず差置いた。心に
叶って
逗留もしようなら、用いて書見をなさいまし、と夜食の時に言ってくれた。
その机を、今ここへ。
御厨子を据えて、さてどこへ置直そうと
四辺を
視た時、蚊帳の中で、
三声ばかり、
太く明が
魘された。が
······此方の胸が痛んだばかりで、揺起すまでもなく、
幸にまた
静になった。
障子を開けて、縁側は自分も通るし、一方は庭づたいに入った口で、日頃はとにかく、別に今夜は何事もない。
頻に気になるのは、大掃除の時のために、一枚はずれる仕掛けだという、向うの天井の隅と、その下に開けた事のない隔ての
襖の合せ目である。
「わが仏守らせたまえ。」
と祈念なし、机を取って、
押戴いて、
屹と見て、
其方へ、と座を立とうとする。
途端であった。
「しばらく。」
ずしん、
地の底へ響く声がした。
明が呼んだか、と思う蚊帳の
中で、また
烈しく
魘されるので、
呼吸を詰めて、
「
············」
色を変える。
襖の陰で、
「客僧しばらく
||唯今それへ参るものがござる。往来を
塞ぐまい。押して通るは自在じゃが、仏像ゆえに遠慮をいたす。いや、
御身に向うて、害を加うる
仔細はない。」
ト見ると襖から
承塵へかけた、
雨じみの
魍魎と、肩を並べて、その
頭、
鴨居を越した偉大の人物。眉太く、
眼円に、鼻隆うして口の
角なるが、
頬肉豊に、あっぱれの人品なり。
生びらの
帷子に引手のごとき漆紋の着いたるに、白き襟をかさね、
同一色の無地の
袴、折目高に
穿いたのが、襖一杯にぬっくと立った。ゆき
短な右の手に、畳んだままの扇を取って、温顔に微笑を含み、
動ぎ出でつ、ともなく客僧の前へのっしと坐ると、気に
圧された僧は、ひしと
茶斑の大牛に
引敷かれたる心地がした。
はっと机に、
突俯そうとする胸を支えて、
「誰だ。」
と言った。
「六十余州、
罷通るものじゃ。」
「何と申す、
何人······」
「到る処の悪左衛門、」
と扇子を構えて、
「唯今、秋谷に
罷在る、すなわち秋谷悪左衛門と申す。」
「悪
············」
「悪は善悪の悪でござる。」
「おお、悪
······魔、人間を
呪うものか。」
「いや、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、
夜鴉の
羽うらも輝き、瀬の
鮎の
鱗も光る。
隈なき月を見るにさえ、
捨小舟の中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶えたる処は、かえって
茅屋の屋根ではないか。
しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、
損わるるは自業自得じゃ。」
四十一
「
真日中に天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。
出会えば
傍へ外れ、
遣過ごして
背後を参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れ
終せぬ、見て驚くは
其奴の罪じゃ。
いかに客僧、まだ
拙者を疑わるるか。」
と
莞爾として、客僧の坊主頭を、やがて天井から
瞰下しつつ、
「かくてもなお、我等がこの宇宙の間に
罷在るを
怪まるるか。うむ、疑いに

られたな。

いたその瞳も、直ちに瞬く。
およそ天下に、
夜を一目も寝ぬはあっても、
瞬をせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ
夥間一統、すなわちその人間の瞬く間を世界とする
||瞬くという一秒時には、日輪の光によって、
御身等が
顔容、衣服の
一切、
睫毛までも写し取らせて、御身等その生命の終る後、幾百年にも
活けるがごとく伝えらるる長い時間のあるを知るか。石と樹と相打って、火をほとばしらすも瞬く間、またその消ゆるも瞬く間、銃丸の人を貫くも瞬く間だ。
すべて一たびただ一
人の瞬きする間に、水も流れ、風も吹く、
木の葉も青し、日も赤い。天下に何一つ消え
失するものは無うして、ただその瞬間、その瞬く者にのみ消え失すると知らば、我等が世にあることを
怪むまい。」
と悠然として
打頷き、
「そこでじゃ、客僧。
たといその者の、自から招く
禍とは言え、月のたちまち雲に隠れて、世の暗くなるは
怪まず、
行燈の火の不意に消ゆるに
喚き、天に星の飛ぶを
訝らず、地に
瓜の躍るに絶叫する者どもが、われら一類が
為す
業に
怯かされて、その者、心を破り、気を
傷け、身を
損えば、おのずから引いて、我等修業の
妨となり、従うて罪の
障となって、実は
大に迷惑いたす。」
と、やや歎息をするようだったが、
更めて、また言った。
「時に、この邸には、当月はじめつ
方から、別に
逗留の客がある。
同一境涯にある
御仁じゃ。われら附添って
眷属ども一同守護をいたすに、元来、
人足の絶えた空屋を求めて
便った処を、
唯今眠りおる少年の、身にも命にも替うる
願あって、身命を
賭物にして、推して
草叢に
足痕を留めた以来、とかく人出入騒々しく、かたがた妨げに相成るから、われら承って片端から
追払うが、弱ったのはこの少年じゃ。
顔容に似ぬその志の堅固さよ。ただお
伽めいた事のみ語って、自からその
愚さを恥じて、客僧、御身にも話すまいが、や、この方実は、もそっと
手酷い
試をやった。
あるいは大磐石を胸に落し、我その上に
蹈跨って
咽喉を
緊め、五体に七筋の蛇を
絡わし、
牙ある
蜥蜴に
噛ませてまで
呪うたが、頑として退かず、悠々と歌を唄うに、
我折れ果てた。
よって最後の試み、としてたった今、
少年に人を殺させた
||すなわち殺された者は、客僧、
御身じゃよ。」
と、じろじろと見るのである。
覚悟しながら
戦いて、
「ここは、ここは、ここは、
冥土か。」
と目ばかり働く、その顔を見て、でっぷりとした頬に笑を
湛え、くつくつ
忍笑いして、
「いや、別条はない。が、ちょうどこの少年の、いまし
魘された時、客僧、何と、胸が痛かったろう。」
ズキリと
応えて、
「おお、」
「すなわち少年が、御身に毒を飲ませたのだ。」
「
············」
「別でない。それそれその戸袋に
載った
朱泥の
水差、それに
汲んだは井戸の水じゃが、久しい
埋井じゃに因って、水の色が
真蒼じゃ、まるで透通る草の汁よ。
客僧等が茶を参った、
爺が汲んで来た、あれは川水。その
白濁がまだしも、と他の者はそれを用いる、がこの少年は、
前に猫の死骸の流れたのを見たために、
得飲まずしてこの井戸のを仰ぐ。
今も言う通りだ。殺さぬまでに
現責に苦しめ呪うがゆえ、
生命を縮めては相成らぬで、毎夜少年の気着かぬ間に、振袖に
緋の
扱帯した、
面が
狗の、召使に持たせて、われら秘蔵の
濃緑の酒を、
瑠璃色の
瑪瑙の
壺から、
回生剤として、その水にしたたらして置くが
習じゃ。」
四十二
「少年は
味うて、天与の霊泉と舌鼓を打っておる。
我ら、いまし少年の魂に命じて、すなわちその酒を客僧に勧め飲ましむる夢を見させたわ。(ただ一口試みられよ、
爽な涼しい
芳しい酒の味がする、)と云うに因って、客僧、
御身はなおさら
猶予う、手が出ぬわ。」
とまた
微笑み、
「毒味までしたれば、と少年は、ぐと飲み飲み、無理に勧める。さまでは、とうけて恐る恐る干すと、ややあって、客僧、御身は
苦悶し、
煩乱し、七転八倒して黒き血のかたまりを吐くじゃ。」
客僧は色
真蒼である。
「驚いて少年が介抱する。が、もう
叶わぬ、臨終という時、
(われは僧なり、身を殺して仁をなし得れば無上の本懐、君その素志を他に求めて、
疾くこの恐しき魔所を
遁れられよ。)
と遺言する。これぞ、われらの
誂じゃ。
蚊帳の中で、少年の
魘されたは、この夢を見た時よ、なあ。
これならば
立退くであろう、と思うと、ああ、
埒あかぬ。客僧、御身が仮に落入るのを見る、と涙を流して、共に死のうと決心した。
葛籠に秘め置く、
守刀をキラリと引抜くまで、
襖の蔭から見定めて、
(ああ、しばらく、)
と留めたは、さて、殺しては相済まぬ。
これによって、われら守護する逗留客は、御自分の方から、この邸を開いて、もはや
余所へ
立退くじゃが。
その以前、
直々に貴面を得て、客僧に
申談じたい儀があると
謂わるる。
客は
女性でござるに因って、一応
拙者から申入れる。ためにこれへ
罷出た。
秋谷悪左衛門取次を致す、」
と高らかに云って、
穏和に、
「お逢い下さりょうか、いかが、」
と云った。
僧は思わず、
「は、」と答える。
声も終らず、小山のごとく膝を
揺げ、向け直したと見ると、
「ござらっしゃい!」
破鐘のごときその大音、
哄と響いた。目くるめいて、魂遠くなるほどに、大魔の
形体、片隅の暗がりへ
吸込まれたようにすッと
退いた、が
遥に小さく、およそ蛍の火ばかりになって、しかもその
衣の色も、
袴の色も、顔の色も、
頭の毛の
総髪も、
鮮麗になお目に映る。
「御免遊ばせ。」
向うから襖一枚、
颯と
蒼く色が変ると、
雨浸の鬼の絵の輪郭を、乱れたままの輪に残して、ほんのり桃色がその上に浮いて出た。
ト見ると、房々とある
艶やかな黒髪を、
耳許白く
梳って、
櫛巻にすなおに結んだ、顔を
俯向けに、
撫肩の、細く袖を引合わせて、胸を抱いたが、
衣紋白く、空色の
長襦袢に、
朱鷺色の無地の
羅を
襲ねて、草の葉に露の玉と散った、浅緑の帯、薄き腰、弱々と糸の艶に光を帯びて、
乳のあたり、肩のあたり、その明りに、朱鷺色が、
浅葱が透き、
膚の雪も
幽に透く。
黒髪かけて、襟かけて、月の
雫がかかったような、
裾は
捌けず、しっとりと
爪尖き
軽く、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、
果なき夜の暗さを引いたが、
歩行くともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に
雪洞が二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。そのいずれかが
狗の顔、と思いをめぐらす暇もない。
僧は前に
彳んだのを
差覗くように一目見て、
「わッ、」
とばかりに
平伏した。
実にこそその
顔は、爛々たる
銀の
眼一
双び、
眦に紫の
隈暗く、頬骨のこけた
頤蒼味がかり、浅葱に
窩んだ唇裂けて、
鉄漿着けた口、
柘榴の舌、耳の根には針のごとき
鋭き
牙を
噛んでいたのである。
四十三
「おお、自分の顔を隠したさ。
貴僧を
威す心ではない、
戸外へ出ます支度のまま
······まあ、お恥かしい。」
と、横へ取ったは
白鬼の面。端麗にして威厳あり、眉美しく、目の優しき、その
顔を
差俯向け、しとやかに手を
支いた。
「は、は、はじめまして、」
と、しどろになって会釈すると、
面を上げた
寂しい頬に、唇
紅う
莞爾して、
「
前刻、
憚へいらっしゃいます、廊下でお目に
懸りましたよ。」
客僧も、今はなかなかに胴
据りぬ。
「
貴女はどなたでございます。」
と尋ねたが、その時はほぼその誰なるかを知っているような気がしたのである。
美女は
褄を深う居直って、蚊帳を
透して打傾く。
萌黄が迫って、その
衣の色を薄く包んだ。
「この方の、
母さんのお
知己、明さんとも、お友達
······」
と口を結んだが
愁を帯びた。
此方は、じりじりと膝を向けて、
「ああ、貴女が、」
「あの、それに就きまして、
貴僧にお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。」
とまた蚊帳越に
打視め、
「お
最愛しい、
沢山お
窶れ遊ばした。罪も
報もない方が、こんなに
艱難辛苦して、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、
母さんの恋しさゆえ。
その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私を
懐しがって、迷って恋におなりなすった。
その唄は
稚い時、この方の母さんから、口移しに
教わって、私は今も、覚えている。
こうまで、お
憧れなさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせ
申とうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖に
搦んで手に
縋り、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。
どうして
貴僧、
摺抜けられよう、突離されよう、振切られましょう、私は引寄せます、
抱緊めます。
と血を分けぬ、男と女は、天にも地にも許さぬ
掟。
私たちには自由自在
||どの道浮世に背いた
身体が、それでは
外に願いのある、私の願の邪魔になります。よしそれとても、
棄身の私、ただ
最惜さ、可愛さに、気の狂い、心の乱れるに
随せましても、覚悟の上なら私一人、自分の身は
厭いはしませぬ。
厭わぬけれど
······明さんがそうすると、私たちと
同一ような身の上になりますもの
······ それはもう、この頃のお心では、明さんは本望らしい
||本望らしい、」
とさも
懸想したらしく胸を抱いたが、鼻筋白く打背いて、
「あれあれ御覧なさいまし。こう言う
中にも、明さんの
母さんが、花の
梢と見紛うばかり、雲間を漏れる
高楼の、
虹の
欄干を乗出して、叱りも
睨みも遊ばさず、
児の可愛さに、鬼とも言わず、私を拝んでいなさいます。お美しい、お優しい、あの御顔を見ましては、恋の
血汐は葉に染めても、秋の
あの字も、明さんの名に
憚って声には出ませぬ。
一言も交わさずに、ただ御顔を見たばかりでさえ、
最愛しさに覚悟も弱る。私は夫のござんす
身体。
他の妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の優しさが、身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。
実の
産の母御でさえ、一旦この世を去られし上は
||幻にも姿を見せ、
乳を呑ませたく添寝もしたい
||我が
児最惜む心さえ、天上では恋となる、その
忌憚で、御遠慮遊ばす。
まして私は他人の事。
余計な御苦労かけるのが
御不便さ。決して私は明さんに、
在所を知らせず隠れていたのに、つい
膝許の
稚いものが、粗相で
手毬を流したのが悪縁となりました。
彼方も私も身を苦しめ、心を
傷めておりましたが、お
生命の
危いまでも、ここをおたち遊ばさぬゆえ、私わきへ参ります。
あんまりお心が
可傷しい、さまでに思召すその毬唄は、その内時節が参りますと、自然にお耳へ入りましょう!
それは今、私がこの邸を
退きますと、もう隅々まで家中が
明くなる。明さんも思い直して、またここを出て
旅行立ちをなさいます。
早や今でも
沙汰をする、この邸の不思議な事が、
界隈へ拡がりますと、
||近い処の、別荘にあの、お一方
······」
四十四
「
病の後の保養に来ておいでなさいます、それはそれは美しい、
余所の
婦人が、気軽な腰元の勧めるまま、
徒然の慰みに、あの宰八を内証で呼んで、(鶴谷の邸の妖怪変化は、
皆私が手伝いの人と一所に、
憂晴らしにしたいたずら
遊戯、聞けば、怪我人も
沢山出来、嘉吉とやら気が違ったのもあるそうな、つい心ない、気の毒な、
皆の手当をよくするように。)
······ と
白銀黄金を
沢山授ける。
さあ、この事が世に聞えて、ぱっと
風説の
立ますため、病人は心が
引立ち、気の狂ったのも安心して治りますが、
免れられぬ因縁で、その
令室の夫というが、
旅行さきの海から帰って、その風聞を耳にしますと
||これが世にも恐ろしい、嫉妬深い男でござんす。
|| その
変化沙汰のある間、そこに
籠った、という旅の少年。
······ この明さんと、御自分の
令室が、てっきり不義に
極った、と最早その時は言訳立たず。鶴谷の本宅から買い受けて、そしてこの空邸へ、その令室をとじ
籠めましょう。
貴僧。
その美しい
令室が、人に
羞じ、世に恥じて、
一室処を
閉切って、自分を
暗夜に封じ籠めます。
そして、日が
経つに従うて、見もせず聞きもせぬけれど、
浮名が立って
濡衣着た、その明さんが何となく、慕わしく、懐かしく、
果は恋しく、
憧憬れる。切ない思い、激しい恋は、今、私の心、また明さんの、毬唄聞こうと狂うばかりの、その
思と
同一事。
一歳か、
二歳か、
三歳の後か、明さんは、またも国々を
廻り、廻って、唄は聞かずに、この里へ廻って来て、空家
懐し、と思いましょう。
そうなる時には、
令室の、恋の染まった
霊魂が、五
色かがりの手毬となって、霞川に流れもしよう。明さんが、思いの丈を
吐く息は、冷たき煙と
立のぼって、中空の月も隠れましょう。二人の
情の火が
重り、白き炎の花となって、
襖障子も燃えましょう。日、月でもなし、星でもなし、
灯でもない
明に、やがて顔を合わせましょう。
邸は世界の
暗だのに。
······この十畳は暗いのに。
······ 明さんの迷った目には、
煤も香を吐く花かと映り、蜘蛛の巣は
名香の
薫が
靡く、と心時めき、この世の
一切を
一室に縮めて、そして、海よりもなお広い、金銀珠玉の御殿とも、宮とも見えて、
令室を一目見ると、唄の女神と思い
祟めて、
跪き、伏拝む。
長く冷たき黒髪は、玉の緒を
揺る琴の糸の肩に
懸って響くよう、
互の口へ出ぬ声は、
膚に波立つ
血汐となって、聞こえぬ耳に
調を通わす、
幽に触る手と手の指は、五ツと五ツと打合って、水晶の玉の擦れる音、
戦く
裳と、震える
膝は、漂う雲に乗る心地。
ああこれこそ、我が母君
······と
縋り寄れば、乳房に重く、胸に
軽く、手に柔かく
腕に
撓く、女は我を忘れて、抱く
|| 我児危い、
目盲いたか。罪に落つる谷底の
孤家の灯とも
辿れよ。と実の母君の大空から、指さしたまう星の光は、
電となって壁に
閃めき、分れよ、
退けよ、とおっしゃる声は、とどろに棟に鳴渡り、涙は降って雨となる、
情の露は樹に
灌ぎ、石に灌ぎ、草さえ受けて、暁の
旭の影には
瑠璃、
紺青、
紅の
雫ともなるものを。
罪の世の御二人には、ただ
可恐しく、
凄じさに、かえって一層、ひしひしと身を寄せる。
そのあわれさに堪えかねて、今ほども申しました、
児を思うさえ恋となる、天上の
規を越えて、
掟を破って、母君が、雲の上の
高楼の、玉の
欄干にさしかわす、
桂の枝を引寄せて、それに
縋って御殿の外へ。
空に
浮んだおからだが、下界から見る月の中から、この世へ下りる間には、雲が
倒に百千万千、一億万丈の滝となって、ただどうどうと底知れぬ下界の
霄へ落ちている。あの、その上を、ただ
一条、霞のような
御裳でも、
撓に揺れる
一枝の桂をたよりになさる
危さ。
おともだちの
上
たちが、ふと一人見着けると、にわかに天楽の
音を
留めて、はらはらと
立かかって、上へ桂を繰り上げる。引留められて、御姿が、またもとの、月の前へ、薄色のお召物で、
笄がキラキラと、星に映って見えましょう。
座敷で
暗から不意にそれを。明さんは、手を取合ったは
仇し
婦、と気が着くと、
襖も壁も、
大紅蓮。
跪居る畳は針の
筵。袖には
蛇、膝には
蜥蜴、
目の
前見る地獄の
状に、五体はたちまち氷となって、
慄然として身を
退きましょう。が、もうその時は
婦人の一念、大
鉄槌で砕かれても、引寄せた手を離しましょうか。
胸の
思は火となって、上手が書いた金銀ぢらしの
錦絵を、炎に
翳して見るような、
面も
赫と、
胡粉に注いだ
臙脂の
目許に、
紅の涙を落すを見れば、またこの恋も棄てられず。
恐怖と、
恥羞に震う身は、
人膚の
温かさ、唇の燃ゆるさえ、清く涼しい月の前の母君の有様に、
懐しさが劣らずなって、振切りもせず、また
猶予う。
思余って天上で、せめてこの声きこえよと、下界の唄をお唄いの、母君の心を
推量って、多勢の上

たちも、妙なる声をお合せある
||唄はその時聞えましょう。明さんが
望の唄は、その自然の感応で、胸へ響いて、聞えましょう。」
と、神々しいまで
面正しく。
······ 僧は合掌して聞くのであった。
そして、その人、その時、はた明を待つまでもない、この
美人の手、一たび我に触れなば、
立処にその唄を聞き得るであろうと思った。
四十五
美人は
更めて、
「
貴僧、この事を、ただ貴僧の胸ばかりに、よくお留め遊ばして、おっしゃってはなりません。これは露ほども明かさずに、今の処、明さんを、よしなに慰めて上げて下さいまし。
日頃のお
苦みに疲れてか、まあ、すやすやとよく寝て、」
と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻の
薫がはっとして、肩に
萌黄の姿つめたく、
薄紅が布目を透いて、
「
明ちゃん
······」
と崩るるごとく、
片頬を横に
接けんとしたが、
屹と
立退いて、袖を合せた。
僧を見る目に涙が宿って、
「それではお
暇いたしましょう。
稚い事を、
貴僧にはお恥かしいが、明さんに一式のお
愛相に、手毬をついて見せましょう、あの
······」
と掛けた声の下。
雪洞の
真中を、蝶々のように
衝と抜けて、
切禿で
兎の顔した、
女の
童が、袖に
載せて捧げて来た。手毬を取って、
美女は、
掌の白きが中に、魔界はしかりや、紅梅の大いなる
莟と
掻撫でながら、
袂のさきを
白歯で含むと、ふりが、はらりと
襷にかかる。

たけた
笑、
恍惚して、
「まあ、私ばかり
極が悪い、皆さんも来ておつきでないか。」
蚊帳をはらはら取巻いたは、
桔梗刈萱、
美しや、
萩女郎花、優しや、鈴虫、松虫の
||声々に、
(向うの
小沢に
蛇が立って、
八幡長者のおと
女、
よくも立ったり、
企んだり、
手には二本の珠を持ち、
足には
黄金のくつを
穿き
······)
壁も
襖も、もみじした、座敷はさながら手毬の錦
||落ちた
木の葉も、ぱらぱらと、
行燈を
繞って操る
紅。中を
縢って雪の散るのは、幾つとも知れぬ女の手と手。その手先が、心なしにちょいちょい触ると、僧の手首が
自然はたはたと
躍上った。
(京へのぼせて狂言させて、
寺へのぼせて
[#「のぼせて」は底本では「のぼせた」]手習させて、
寺の和尚が道楽和尚で、
高い縁から突落されて、)
と
衝と投げ上げて、トンと落して、高くついた。
待てよ。
古郷の
涅槃会には、
膚に抱き、
袂に捧げて、町方の娘たち、一人が三ツ二ツ手毬を携え、同じように着飾って、山寺へ来て
突競を戯れる
習慣がある。
少い男は
憚って、
鐘撞堂から
覗きつつその
遊戯に
見愡れたが
······巨刹の
黄昏に、大勢の娘の姿が、
遥に壁に
掛った、極彩色の
涅槃の絵と、
同一状に、一幅の中へ縮まった景色の時、本堂の
背後、
位牌堂の暗い畳廊下から、一人水際立った
妖艶いのが、突きはせず、手鞠を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔場を隔てた
几帳窓の前を通る、と見ると、もう誰の蔭になったか
人数に紛れてしまった。それだ、この人は、いや、その時と寸分違わぬ
|| と僧は心に
||大方明も鐘撞堂から、この
状を、今
視めている夢であろう。何かの拍子に、その鐘が鳴ると目が覚めよう、と思う内
······ 身動ぎに、この
美女の
鬢の
後れ毛、さらさらと頬に
掛ると、その影やらん薄曇りに、
目ぶちのあたりに寂しくなりぬ。
(
笄落し
小枕落し
······)
と
綾に取る、と根が揺らいで、さっと黒髪が肩に乱るる。
みだれし
風采恥かしや、早これまでと思うらん。落した手毬を、
女の
童の、拾って抱くのも顧みず、よろよろと
立かかった、蚊帳に姿を引寄せられ、
褄のこぼれた立姿。
屋の棟
熟と打仰いで、
「あれ、あれ、雲が乱るる。
||花の中に、母君の胸が
揺ぐ。おお、
最惜しの
御子に、乳飲まそうと思召すか。それとも、私が
挙動に、心騒ぎのせらるるか。
客僧方には見えまいが、
地の底に
棲むものは、昼も星の光を仰ぐ。御姿かたちは、よく見えても、かしこは天宮、ここは地獄、
言といっては交わされない。
美しき夢見るお方、」
あれ、かしこに母君
在ますぞや。
愛惜の一念のみは、魔界の
塵にも曇りはせねば、我が袖、鏡と御覧ぜよ。今、この瞳に宿れる
雫は、母君の
御情の露を取次ぎ参らする、
乳の
滴ぞ、と
袂を傾け、差寄せて、
差俯き、はらはらと落涙して、
「まあ、
稚児の昔にかえって、乳を求めて、
······あれ、目を覚す
······」
さらば、さらば、
御僧。この人夢の覚めぬ間に、と片手をついて、わかれの会釈。
ト玄関から、
庭前かけて、わやわやざわざわ、物音、人声。
目を
擦り、目を

り、目を
拭いいる客僧に立別れて、やがて
静々||狗の顔した腰元が、ばたばたと
前へ立ち、炎燃ゆ、と
緋のちらめく袖口で音なく開けた
||雨戸に
鏤む星の
首途。十四日の月の有明に、片頬を見せた
風采は、薄雲の下に朝顔の
莟の解けた風情して、うしろ髪、
打揺ぎ、一たび蚊帳を振返る。
「やあ、」
と、蚊帳を払って、明が
飜然と飛んで
縋った。
|| 袂を支える旅僧と、
押揉む二人の目の
前へ、この時ずか、と
顕われた偉人の姿、
靄の中なる林のごとく、黄なる
帷子、幕を
蔽うて、
廂へかけて
仁王立、大音に、
「通るぞう。」
と一喝した。
「はっ、」
と云うと、奇異なのは、宵に宰八が一杯
||汲んで来て、
||縁の
端近に置いた
手桶が、ひょい、と
倒斛斗に
引くりかえると、ざぶりと水を
溢しながら、アノ手でつかつかと
歩行き出した。
その後を水が走って、早や
東雲の雲白く、煙のような
潦、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、
舳を
颯と乗上げて、
白粉の花越しに、すらすらと
漕いで通る。大魔の袖や帆となりけん、
美女は船の
几帳にかくれて、
(ここはどこの細道じゃ、
細道じゃ、
天神様の細道じゃ、
細道じゃ、
少し通して下さんせ
······)
最切めて
懐しく聞ゆ、とすれば、
樹立の
茂に
哄と風、木の葉、緑の瀬を早み
······横雲が、あの、横雲が。
明治四十一(一九〇八)年一月