お種は赤い襷をかけ白地の手拭を姉様
そこは土佐の高岡郡、その当時の佐川領になった長野から
谷川の縁には薊の花が咲き青芒の葉が垂れて、それが流れの上にしなえて米粒のような泡をからめていた。お種はもう三枚目の
「お種さん」
と、云って
「お種さん、お種さん」
と、初めの声がまた呼んだ。お種は気が
「お種さんは、私を忘れたの」
と、少年はにっと笑った。お種はどうしてもその少年に見覚えがなかった。お種はしかたなしに、
「どなたでございましたか」
と、云ったがひどく恥かしくて顔のほてるのを覚えた。
「今に判ります、それでは、また近いうちにお眼にかかります」
と、少年はまたにっと笑って体の向きをかえ、日浦坂の方へ歩いていった。お種はうっとりとなってその後姿を見送りながら、あんなに親しく口を利くからには知っている人にちがいないが、何処で逢った人だろうと考えてみたがどうしても思いだせなかった。ただ、ああして日浦坂の方へ往くところを見ると、
お種は何時の間にか体を真直にしていた。少年の姿はすぐ雑木の陰に隠れてしまったが、お種はうっとりとなってそのまま立っていた。
お種はその日の夕方、母親といっしょに
「お種はそこで、何をぼんやりしよる、はよう飯を
「うウ」
お種はまだぼんやりしているので母親が畳みかけて云った。
「はよう飯を喫て、与平さんのところに湯が沸いたと云うから、もろうて入って来た」
「あい」
お種はやっと気が注いたようにあがって来て母親の傍で飯を
「今晩は、ふだんのように飯を喫わんが、心地でもわるいか」
「わるうない、なんともない」
お種は母親の顔を見た。
「なんともなけりゃ、これから往て、湯に入って来た」
「あい」
「おそうなったら、湯がきたのうなる、はやいがいい」
「あい」
お種は土間へおりて手拭竿から手拭を執り、糠袋を持って表へ出た。月が出て外は明るかった。お種は門口の二三段の石段をおりて家の下の道を右の方へ往った。道の右側は並んだ人家の下の低い崖で、左側は勾配の緩い畑地であったが、其処には熟した麦があり
お種の往った家は半丁ばかり離れていた。其処は家の前に蜜柑や枇杷を植えてあった。お種はその果樹園の中を通って往き、裏の馬小屋と
「今度はお種さんの番じゃ、はよう入るがいい、良い人が何処ぞで待ちよる」
お種の後から来ている老人がからかいながら云った。すると風呂桶から出ようとしている
「お種さんのような
お種はそこで湯に入って帰りかけた。霧がかかって月の光がぼんやりしていた。門口の果樹園まで帰ったところで、其処の暗い処からひょいと出て来た者があった。
「お種さん」
それはまぎれもなく猪作の声であった。お種は厭な者に逢ったものだと思った。
「お種さん、そんなに嫌うもんじゃないよ」
お種はしかたなしに足を止めた。
「嫌やせんよ」
「嫌わなけりゃ、
背のずんぐりした角顔の
「どんな話」
「べつにどんな話でもない、こちへ来てみい」
「何処へ往く」
「此処でいい、もすこし中へはいり、人に見える」
「いやよ、そんな処へ往くは、用事があるなら
お種は恐ろしくなったので走って逃げようとした。と、男の手が蛇のように体にまきついた。
「いや、なにをする」
「そんなに嫌うもんじゃないよ」
お種は体の自由を失ってしまった。男はそのままお種を抱きかかえて、果樹の茂みの中へ入って往こうとした。その男の眼の前に不意に閃いたものがあった。男はお種を突き放してその手で両眼を被いながら、
「あッ」
と、叫んで後へ飛びすさった。男の眼の前には大きな紫色をした鋏のような物が閃いたのであった。男は燕のように身を飜えして逃げて往った。
お種は抱きかかえられる間もなく突きはなされたので、よろよろとして倒れそうになったのをやっと踏みこたえた時に、門の前の霧の中へ逃げ込んで往く男の後姿を見た。お種はこれは
翌日からお種は仕事が手につかなくなった。彼女はしかけていた仕事の手を止めてぼんやりしたり、家の前に出て立ったりした。洗濯にやってみると僅か二三枚の
その夜伝蔵が仕事のかえりに寄った。伝蔵は戸波の家俊から日傭稼ぎに来ている者であった。お種と母親は表座敷に
「お種さんは、今晩うかん顔をしておるが、どうした」
伝蔵は白い

「うウ」
お種はそう云ったばかりで伝蔵のほうを見向きもしなかった。
「お種はよっぽど、どうかしておるよ」
母親は伝蔵の顔を見て云った。
「もうすこしおってもいいじゃないか」
と、云って夜おそくまで引止めて話すのが常であった。
「どうしたろう」
「この二三日、どうもおかしい」
伝蔵は母親と暫く話していたが、どうしてもお種が対手にならないので、淋しそうな顔をして帰って往った。
翌朝になってお種が一二枚の洗濯物を持って出かけようとするので、裏の納屋の口で麦の穂をこいていた母親が止めた。
「一枚二枚はめんどうじゃないか、明日またいっしょに洗うたらいいじゃないか」
「いっしょになったらうるさい、洗うてくる」
「お前がうるさいなら、わしが洗うてやる、今日はやすんだら、どう、麦を刈る時分は時候がわるい、やすんだらいいじゃないか」
「ついでに洗うてくる」
母親は強いて止めずに思うとおりさしておくがいいと思った。
「それなら洗うて来た、はようもどったよ」
「あい」
お種は眼だたないように化粧をして
「はようもどったよ」
「あい」
お種はものに引き寄せられるようにして出て往った。母親はその後を見送って考え込んでいたが、そうしてもいられないので急いで麦の穂をこきだした。母親はそうして麦をこいているうちにもお種のことが気になるので、半時ばかりして往ってみた。
お種は洗濯物を
お種の変事を知ると附近の者も集まって来た。人びとはお種の母親から数日来のお種のそぶりを聞いて、精神に異状ができてふらふらと家を出たものだとかんがえる者もあれば、
午後になって人びとは方面を別けて探すことになった。そして、そのうちの一組は佐川の町から松山街道に向い、一組は高知の城下に向い、一組は日浦坂を越えて戸波方面へ向った。
日浦坂を越えようとした一組は、坂の上のほど落ちの傍まで往くと
「池を見よ」
「池でどんなことがあるかも判らん」
人びとは道の下になった池の縁へ雑木の下を
青澄んだ池の水は山の窪地にひっそりと湛えていた。一行十余人の人びとは水草の生えた池の縁におりて彼方此方に眼をやった。
そのうちに一行の一人が
「櫛がある、櫛がある」
人びとはその男の指さす方に眼をやった。其処には水に落ちたばかりの
「なるほど櫛じゃ」
「
すると
「それはたしかに、お種さんの挿しておった櫛じゃ」
それは彼の猪作であった。
「猪作が云やまちがいない、遊びに往きよったから」
暫時の間
「どうしても他じゃない」
「どうしてあげる」
「鉤のようなものを入れるか」
「はやけりゃ助かるかも判らん」
「
人びとは頭をあつめて評議をした。
「あしが入ってみよう」
それは猪作であった。
「そうか入ってくれるか」
「そりゃいい」
猪作は
人びとはじっとして猪作の出て来るのを待っていた。煙草を一ぷく吸う位の間を置いて、猪作が潜った処から二間ばかりの
猪作が怪しい死方をしたのでもうほど落ちへ往ってお種を探さなかったが、他に手がかりがないうえにほど落ちにはたしかに櫛があったところから、お種も猪作のような怪しい死方をしているものとして、お種の家ではお種のいなくなった日を命日にしてその冥福を祈ることになった。
お種がそんなことになった時、お種の家の者にもまして悲しんだのは伝蔵であった。伝蔵は日傭に来たかえりには何時もお種の家へ寄って母親を慰め、それによって
その日も伝蔵は日傭の帰りにお種の家へ寄って母親と話していて遅くなって帰って往った。それは
「来な、来な」
と、何処からともなしに呼ぶ声がした。伝蔵は不思議に思って足を止めた。
「来な、来な」
と、はじめの声がまた云った。伝蔵は、
「くそっ」
と、云って舌打ちしたが強いて往くのもいけないとおもったので、引返して日浦坂と虚空蔵山の間にある坂を越えた。
其処には越えた処に
それは
伝蔵は嘲り笑いをして立っていた。と、仏像はみるみる消えて
そして、気が注いて眼を開けてみると、