暖かな春の夜で、濃い月の光が霞のかかったように
夜はかなりに更けていたが、彼は
桜の花が何処からともなく散る処があった。その花片は頬にもそっと当った。彼にはそれが春の夜がする手触りのように思われた。歩いているうちに、地べたも両側の屋敷も腰の刀も、己の形骸も無くなった。有るものは華やかな雲のような物で、その雲の間から、黒い瞳や、白い顔や、しんなりした肩や、円みのある腰などがちらちらした。
切支丹の山屋敷の手前の坂をおりて、坂の中程まで往くと、侍は右側の桜の樹の下に人影を見つけた。咲き乱れた花の梢には、朧に見える月の姿があった。花は音もなくちらちらと散って、その人影の上にも落ちていた。
侍はどうした人であろうかと、桜の下へ寄って往った。と、人影も前に動いた。それは顔の

「何方かお探しになっておりますか」
「私は第六天坂の下に叔母がいると云うことを聞きまして、尋ねてまいった者でございますが、往って見ますと、その叔母は、とうに何処へか引越していないので、此処まで帰ってまいりましたが、他に往く
と、女は萎れて云った。
「それはお困りでございましょう、貴方は何方からお出でになりました」
「私は浜松在の者でございますが、一人残っておった母に死なれまして、他に身寄りもございませんから、父の妹になる叔母を尋ねてまいった者でございます」
「それでは、その叔母さんの居処がお判りにならないのですな、それはお気の毒な······」と云って、侍は女の
女は悲しそうな顔をしながらも、さも、この同情にすがりたいと云うような素振をしていた。女の髪につけた油の匂がほんのりと鼻に染みた。
「······それに、もう夜が更けているし、それは困ったな」
と、侍は考えた。
「女子の一人旅では、こんなに遅くなっては、
「そうだ、どうかしなくてはならんが······」
「どうか
若い侍もそれを考えないではなかったが、独身者の処へ壮い女を伴れて往って泊めると云うことは、どうもうしろめたかった。しかし、それと云って女と別れて往くこともできなかった。
「そうだ、拙者の処へ往っても宜いが······」
「おさしつかえがございましょうか」
「別にさしつかえと云うことはないが」
「ではどうかお救けを願います」
「では往っても宜いが、拙者は独身者だから」と、侍は少し恥らうように云った。
女もちょっと顔を赧くしたが、その黒い眼には喜びが浮んだ。そして、二人はちょっと黙って立っていた。花は思い出したように散っていた。
やがて、侍は女を
江戸川縁の住居は
「この御恩は忘れません」
女は男の顔を見ると、直ぐこう云って涙を流した。侍はそれが可哀そうでもあれば、好い気もちでもあった。
「なに、こればかりのことが」
侍は次の室へ往ってかさかさとさしはじめた。それは茶を沸かして女に勧めるためであった。と、女は其処へやって来て、
「私がいたしましょう」と云って、無理に
茶が沸くと二人はまた行灯の前に往って坐った。
「こんなことを申しましては相済みませんが、男の一人住みでは、何かにつけて御不自由のようにお見受け申しますが、どうか私を飯焚になりと置いていただくことはできますまいか、
侍はもう女に対する執着が湧いていた。女を他へやりたくはなかった。
「それでは
「では私のお願いをお聞きくださいますか、ありがとうございます」
女の顔は晴ばれとして、黒い眼をうっとりとさして男の方を見た。侍の眼もうっとりとしていた。
その夜は朝まで暖かであった。女と枕を並べていた侍は、ふと眼を覚まして見ると、夜が明け放れているので、女を起さないようにそっと一人で起きた。起きる時に見ると、女は蒼白い顔を男の方に向けて、気もちよさそうに眼をつむっていた。
侍は
やがて飯もできたが、それでも女が起きて来ないので、どうかしたのではないかと思って、そっと奥の室へ往ってみた。女は枕から頭を落して真蒼な顔を見せていた。侍はびっくりして枕頭へ寄って往って、唐草模様のついた夜具に手をかけて捲ってみた。女の体は無くて首ばかりが寝ていた。首の切口は血みどろになっていた。
侍は
侍は検視の前でいろいろと聞かれた。侍はしかたなくその事実を話したが、話しているうちに顔色が変って、
「あれ、あれ、花が散る、花が散る」
と云って起ちあがって室の
「······花が散る、花が散る」
と云って騒いだ。