本話
寒い風に黄ばんだ木の葉がばらばらと散っていた。斗賀野の方から山坂を越えて来た山内
「あすこに寺があったかなあ」と、監物は銃を左の肩に置きかえて云った。
「ありました。あれは清龍寺の末寺で積善寺といいます」
と、監物の
「そうか、あれで一服しようじゃないか」
「そうでございます、が、今日は殺生の途中で、
「なに、今時は、坊主からして、魚も
「そうでございますなあ」
「かまわん、かまわん、一服しよう」
生垣のある寺の門がすぐ見えた。監物はその門へ足を向けた。
「ようこそお立寄りくださいました。さあ、どうぞ此方へ」
住職は小腰を屈めながら客殿の方へ
客殿は本堂の前を右の方へ折れ曲ったその横手の処にあった。監物が
「やれ、やれ、みな
鹿を初め獲物の兎や雉などは、
其処へ柿色の腰衣を着けた納所坊主が、茶の盆を持って縁側の曲角から来た。その茶は監物の前に出された。監物は隻手にその茶碗を執って一口飲んで乾いた咽喉を潤しながら、見るともなしにむこうの方にやった眼にふと
「
監物の眼は丘の裾になった小さな祠に注がれていた。
「あれは薬師堂でございます。あの薬師の脇立になっております不動は、銘はありませんが、運慶か湛慶か、
傍にいた住職が云った。
「そうか、それは一つ見たいな」
監物はそう云って残りの茶を口にした。
「どうか御覧くださいますように」と、住職は揉手しながら云った。
「見よう」
監物が腰をあげると老僧が
芒の穂が其処にも此処にもあった。住職は祠の前へ往って一足後になっている監物の傍に来るのを待ち、左の手首にかけた珠数を持ちなおして、それを爪繰りながら何か口の裏で唱え、それが終ると
「これだな、なるほど」と、監物は不動の木像に眼を留めた。
「どうしても、運慶か湛慶かの作と思いますが」
「うん、そうだな」と、云って何か考えだした監物は「これを持って往こう、これがいい」
住職は眼を円くして監物の横顔を見た。
「門口が淋しいから、これを据えるといいだろう」と、云って住職の方を見た監物の眼と住職の驚いた眼が
「どうだ、和尚さん、持って往ってもいいだろう」
「は、愚僧はどうでもよろしゅうございますが」と、当惑した顔をした。
「本尊の御薬師様を持って往くのじゃない、おつきの不動様じゃ、おつきは他にもいるから、一人位は持って往ってもいいだろう」
住職は口をもぐもぐさすのみで何も云えなかった。
「もし、面倒なことが起れば、俺が盗んで往ったと云えばいい」
住職は小さな唸るような声をだした。
「おい、甚六、これを持って往け」と、監物は
「はい」
頬髯の生えた熊のような顔をした臣の一人は、ずっと寄って往って、
住職は小さな声で念仏を始めた。
監物の一行はその夜
「
酔の廻った監物はこう云って床の間の方を見た。微暗い蝋燭の光を受けて不動の木像が立っている。
「坊主にはちと気の毒であったが、彼の不動奴、ちょっと面白い恰好じゃないか、なるほど、運慶か湛慶であろうよ」
その時監物の耳に怪しい物の音が聞えた。監物は耳をかたむけた。
とん、とん、とん、とん、······
それは陣太鼓の遠音であった。
「彼の音が、彼の音が聞えるか」
監物は右の手をあげてその手の掌で、皆の
「聞えるか」
「何も聞えません」と、臣の一人が云った。
「そうか、俺の耳には陣太鼓の音が聞えたが」
監物はまた耳をすましたが風の音より他にもう何も聞えなかった。
「陣太鼓のように思ったが、空耳であった、考えてみれば今の世に、陣太鼓の鳴ることもないて」
監物は忌いましそうな顔をして、膳の上の盃を執ってぐっと
「あ」
監物が驚いて声をたてた時には、焔の光は無くなって床の間は元のように微暗い蝋燭の光が弱よわと射していた。監物は眼の
「昨夜、おかしな夢を見たよ」
「どんな夢じゃ」
「どんな夢と云うて、それは不思議な夢じゃよ、背の高い色の煤黒い、大きな男が、空中を馬に乗って、俺の傍をぐるぐると飛び歩いたが、その男の体からは、一面に真紅な火が燃えていて、物凄かったよ」
「なに、火が燃えていた、俺も火の夢を見たよ、なんでも俺が歩いていると、火の
二人が話をしているのを傍にいた朋輩の一人が聞いて、
「火の話をしておるが、俺も不思議な夢を見たよ、一人で野原を歩いていると、足をやる処が皆火になって、どうしても歩けない、何処か火のない処はないかと思うて、逃げ廻っておると、小さなお堂が見える、其処へ逃げて往って見ると、不動様が立っておった。夢はそれで覚めたが、何しろこれまで見たことのない夢であったよ」
その話はきれぎれに監物の耳に入った。監物は厭な顔をした。彼は体から火の炎々と燃えている奇怪な男に、終夜追いかけられた夢を見ていたのであった。
監物は
監物は藩主の一族で三万石の領地を受けて、藩の家老格に取扱われている者であったが、至って片意地の強いきかぬ気の男であったから、村役人の家の怪異なども別に気に懸けなかったが、それでも心の何処かに一点のしみを残していた。
その日は初冬の空が晴れて黄色な明るい日が射して、空が
雷雨は一時ばかりも続いてけろりと止んでしまった。監物が便所へ往った時に見ると、空は宵のように一面の星であった。翌日になって村の人は不思議な
「雷鳴の最中には、監物殿のお邸のうえのあたりから、火の
「何しろ不思議な雷鳴じゃ」
監物の耳にこんな話が聞えて来たが、彼は別になんとも思わなかった。
それから三日ばかりすると何処ともなしに不思議な音がしはじめた。それは地の底でもなければ谷の間でもない。またそれかと云って空中でもないが、不思議などうどうと云う譬えば遠い海鳴か、山のむこうの風の音とでも云いそうな音が、その日の朝明け比から始まってその日は終日聞え、夜になってもまだ聞えていたが、何時の間にか止んでしまった。
「一体、あの音は何だろう」
「この間の
「俺は七十になるが、まだこんな不思議なことに逢ったことはない、奇体なことじゃ、これは何かの
その翌日の昼比不意に旋風が起って、村の百姓屋の物置小屋を捲きあげて春日川の川中へ落した。山から薪を着けて来た一疋の
「これは、どうしてもただごとではない、きっと怖ろしいことの前兆じゃ」
「怖ろしいことじゃ、怖ろしいことじゃ、これは何かの祟りじゃ」
それから四五日経った。朝から降っていた雨は夕方から風が添うて、怖ろしい暴風雨となり一晩中荒れ狂った。その暴風雨の中に山崩れがして、三軒の農家が埋まったが幸いに死傷はなかった。
「ますます不思議じゃ、どうしても、これは何かの
「これは、早く払わないと、このうえ、どんな事があるかも判らない、困ったことになったものじゃ」
「監物殿が、戸波の寺から、不動様を持って来たから、それからじゃ」
「どうも不動様の祟りらしいぞ」
監物の耳にこうした噂も伝わってきた。彼はこの噂を聞いて冷笑した。
その翌々晩、
「明りを、明りを、早く、明りを」
監物はそう云いながらも刀を正眼にかまえて少しも油断しなかった。人の駈け歩く
「旦那様」
監物は手許の光に眼を止めた。
「甚六か、此処だ、怪物を仕留めた」
「どうなさいました」
臣は不審して監物の顔を見た。
「うん」
監物は不動の木像を見詰めて立っていた。と、その時であった。ばらばらと云う怪しいものの弾ける物音が裏山の方でしはじめた。続いて人の叫ぶ声がした。邸の裏の山林が火を発したところであった。真紅な火は裏山の空に燃えあがって、その焔が風に吹かるる秋雲のように西に東に
「旦那、大変、大変じゃ」
臣は手燭の火を落して叫んだ。監物は刀を投げ捨てた。
「甚六、この不動様を戸波へ戻しに往け」
「あれ、あれ、旦那、山火事でございます」
監物の耳へは何事も入らなかった。監物は唸るように云った。
「甚六、甚六、早く不動様を戸波へ戻しに往け」
山林の火は四方へ燃え拡がって山の
「甚六、早く往かんか、甚六」
監物の声はうわずって聞えた。
不動尊の木像はその夜のうちに戸波の積善寺に返して、薬師堂の中へ元のように納めた。そして、その勢では附近の山林を焼き尽さねば
余話
大正九年八月某日、土佐を漫遊していた桂月翁と私は、戸波の青年に招かれて須崎と云う海岸町から戸波の家俊へ往った。それは虚空蔵と云うつくね芋の形をした、土佐では人に知られた山に驟雨のくる日であった。
登山の好きな桂月翁は、青年に
祠の中の縁起を書いた
私は木像をひとわたり見た後に檮の脇立を借りて眼を通した。
「薬師脇立不動之儀、正徳歳中山内監物殿御盗被レ成候所、於二当村一不思議之事出来仕、是ハ不動尊無二御座一故ト申、迎帰、薬師一同奉二修覆一畢」
と云う文句があった。山内監物殿御盗みなされの処に至って私は微笑した。
「なる程、御盗みは奇抜だ」
戸波を去る時、桂月翁は、「いにしえもかかるためしはあると聞くふたたび返せ沖つ白波」と、云う和歌を書いて村の人の一人に与えた。こんなことで盗品が返ってくるなら、警察に和歌係を置いてさしずめ桂月翁を課長にするだろう。
薬師堂を見に往った時のことであった。私に脇立を見せてくれた県会議員は、その帰りに薬師堂の前の稲田に指をやって、
「一度この薬師様が繁昌して、四方から参詣人が集まって来て、このあたりに薬師町が出来て、
と、云って丘の懐になった処に生えている孟宗竹の藪を指さして、
「あすこが、演戯小屋でありました」と教え、それから
その薬師町の繁昌は明治二十年比まで続いたが、それがみょうなことからぱったり火の消えたように衰微した。その原因というのは、「どいまつ」と云われた土居松次という博徒が、何かの怨みから白木琢次と云う者をつけ覘っていた。何んでもその琢次と云うのは松次よりも腕も口も達者で、堂々と二人で争っては松次が負けると云うようなところから、松次は琢次の隙を覘っていた。ところで
「よし、今日こそやっちゃるぞ」
松次はこう云って急いで
「今日こそやったぞ」
松次はその首を引掴んだ。しかし、それは琢次ではなかった。琢次が起きて帰った後で、宵から薬師堂で通夜をしていた隣村の男が、朝になって帰って見ると寝床があったので
「お薬師様でお通夜していたものが殺された、神様も頼みにならん」
薬師堂の参詣に来ていた者がこう云って我も我もと逃げ帰ったので、それからは
「その旅館は此処でした、この辺の田は、皆な私が拓きました」
県会議員は私といっしょに薬師町の跡の田の間を歩きながら、「どいまつ」の話などを聞かした。その「どいまつ」は後に七人程人を殺して、