常陸と下総との間を流れた大利根の流れは、犬吠崎の傍で海に入っている。それはいつのことであったか判らないが、未だ利根川に
利根川の口に秋風が立って、空には日に日に鱗雲が流れた。もう鮭の期節が来たのであった。貧しい漁師は裏の網小屋の中にしまってあった鮭網を引き出して来て、破れ目を繕い、網綱を新らしくして、鮭の登るに好い潮時を覘っていると、やがてその潮時が来た。で、翌日のしらじら明けに網を入れようと思ってその用意をした。
夜になると漁師は、明日の縁起祝いだと云って、女房に蕎麦切をこしらえさして、それで二三合の酒を飲んでいた。
「明日はまだ他に網をやる者はなかろうが、好い潮時だ、うんと獲れるぞ」
漁師は膳の前に坐って蕎麦切を
「そんなに獲れてくれると好いが、どうだか」と、女房は
「いや獲れる、この潮時に獲れずにいつ獲れる、見ておれ」
「それでも、未だ早いじゃないか」
「早いことがあるもんか、去年は十日も早かったじゃないか」
人の気配がして入口へ旅僧が来て立った。明りにと
「や、お坊さんじゃ、鮭の前祝いに一杯やりよるところじゃが」と、漁師は女房の方を顧みて、「その蕎麦切でも進ぜたらどうじゃ」
女房は蕎麦切を椀に盛って出した。
「これは有難い」と、旅僧は押し戴くように受け、竹の簀子を敷いた縁端に腰をかけて、「蕎麦切の御馳走はありがたいが、鮭を獲る前祝いだと思うと、鮭に気の毒じゃ、どうだな、鮭を獲ることをやめては」
漁師は笑いだした。
「鮭を獲るのを気の毒じゃと云うてやめたら、こちとら
「それもそうじゃが、物の生命をとるのは殺生じゃ、決して好い報いは来ない」
「好い報いが来ないと云うても、親譲りの漁師じゃ、他にしようもないことじゃ」
「それもそうじゃが、せめてこの二三日でも、やめたらどうじゃ」
「二三日位ならやめても好いが、二三日魚を獲らなかったところで、その後で獲りゃあ同じことじゃないか」
「そうじゃない、この二三日の潮時に、多くの鮭は皆登るから、それでも罪業が軽くなるわけじゃ」
「お坊さんは、この二三日の潮時に、鮭の登ると云うことを、どうして知っているのじゃ」
「そんなことは、
「それじゃ
「だから二三日はやめるが好いだろう」
漁師は黙っていた。旅僧はやっと蕎麦切を
「殺生の報いは、恐ろしいものじゃろうか」と漁師は聞いた。
「恐ろしいとも、一家一門が畜生道に墜ちて、来世は犬畜生に生れて来る」
旅僧はいつの間にか蕎麦を喫い終って、椀を前に置いていた。漁師は鮭も欲しかったが、旅僧の詞も恐ろしかった。
「じゃ、二三日は見合すとしようか」
「それが好い、それが好い、出家は悪いことは云わない」
漁師は旅僧の詞を守って、二三日は鮭網を入れまいと定めてしまった。旅僧は御馳走になった礼を云って、
「お前さんは、じゃ、明日は、やめるつもり」と、女房は
「お坊さんが、ああ云うからな」と、漁師は女房の顔を見た。
「
女房にそう云われると、そんな気のしないこともなかった。
「そうじゃろうか」
「どうせそんなことじゃよ、それでのうて、彼のお坊さんが、漁のことを知るもんかね」
「それもそうじゃ、じゃ、やっぱりやるとしようか」
「そうとも、あんな者に欺されてたまるもんかね」
朝、一番鶏といっしょに起きた漁師夫婦は、利根川の流れに舟を浮べて網を入れた。其処には川を登らんとする驚くべき鮭の集団があった。未だ夜の明けきらないうちに、舟に
その夜、彼の漁師の家では、酒を買い、肴をこしらえて、近隣の者に御馳走することにして、獲った鮭の中から旨そうな奴を選んで、それを料理した。と、その一つの腹から
貧しい漁師の家は、その日の漁に莫大な利益を得て、忽ち村一番の長者になり、何不自由のない身の上となったが、漁師の神経には、鮭の腹から出た蕎麦のことがこびりついて消えなかった。
その前後から漁師の女房は妊娠して翌年の夏になって出産したが、それは醜い女の児で、そのうえ、顔には魚の
長者の眼の前には、二三日鮭を獲ることを見合せと云った旅僧の姿と、鮭の腹から出た蕎麦切が縺れ合って見えていた。長者は怖ろしそうな顔をして乳母に抱かれている醜いわが子を見ていた。
長者の家はますます富んだ。どんな慾望でも願うて得られないものはなかったが、醜い
女はもう
その時都の者だという売卜者が来た。売卜者は病気にさえ罹っていた。少しでも善根を積んで、罪障を消滅したいと思っている長者は、これを見ると己の家へ泊めて病気の手当までしてやった。
売卜者は

長者はその後、食事もしないで
その翌日、長者は売卜者を己の室へ呼んだ。
「折入って
売卜者は醜い
「聞き入れてくださいますか、これは有難い、では、善は急げじゃ、今晩の中に仮祝言をしてください」
長者は喜んで家の者に命じて座敷の用意をさした。そして、それが出来ると売卜者と女を並べて仮祝言の盃をさした。売卜者は眼をつむるようにして女のほうは見なかった。女は醜い顔を伏せていた。
売卜者は義理に迫って盃をしたものの、醜い女の傍にいることはどうしてもがまんができなかった。彼は女の睡るのを待ってそっと寝床を抜けだした。そして、雨戸を開けて
売卜者は歩いているうちに、女が気の毒になって来た。病気になるまで
後で眼を覚した女は、売卜者のいないのに
哀れな女の死骸は銚子の川口へ流れ着いた。村の人は憐んでその死骸を収め、女の歯と