一
三月の二十五日にペテルブルグで奇妙きてれつな事件がもちあがった。ウォズネセンスキイ通りに住んでいる
イワン・ヤーコウレヴィッチは、礼儀のためにシャツの上へ燕尾服をひっかけると、食卓に向かって腰かけ、二つの葱の球に塩をふって用意をととのえ、やおらナイフを手にして、勿体らしい顔つきでパンを切りにかかった。真二つに切り割って中をのぞいてみると||驚いたことに、何か白っぽいものが目についた。イワン・ヤーコウレヴィッチは用心ぶかく、ちょっとナイフの先でほじくって、指でさわってみた。【固いぞ!】と、彼はひとりごちた。【いったい何だろう、これは?】
彼は指を突っこんでつまみ出した||鼻だ!······イワン・ヤーコウレヴィッチは思わず手を引っこめた。眼をこすって、また指でさわって見た。鼻だ、まさしく鼻である! しかも、その上、誰か知った人の鼻のようだ。イワン・ヤーコウレヴィッチの顔にはまざまざと恐怖の色が現われた。しかしその恐怖も、彼の細君が駆られた憤怒に比べては物のかずではなかった。
「まあ、この人でなしは、どこからそんな鼻なんか
だが、イワン・ヤーコウレヴィッチはもう生きた
「まあ、お待ち、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナ、こいつはぼろきれにでも包んで、どこか隅っこに置いとこう。あとで俺が棄ててくるよ。」
「ええ、聞きたくもない! 削ぎとった鼻なんかを、この部屋に置いとくなんて、そんなことを私が承知するとでも思うのかい?······この出来そくない野郎ったら! 能といえば、
イワン・ヤーコウレヴィッチは、まるで叩きのめされたもののように茫然として突っ立っていた。彼は考えに考えたが、さて何をいったい考えたらいいのか見当がつかなかった。【どうしてこんなことになったのか、さっぱり訳がわからないや。】と、とうとうしまいに耳の後を掻きながら彼は呟やいた。【きのう俺は酔っ払って帰ったのかどうか、それさえもう、はっきりしたことはわからないや。だが、こいつは、どの点から考えても、まったく有り得べからざる出来ごとだて。第一パンはよく焼けているのに、鼻はいっこうどうもなっていない。さっぱりどうも、俺には訳がわからないや!】イワン・ヤーコウレヴィッチはここで黙りこんでしまった。警察官が彼の家を捜索して鼻を見つけ出す、そして自分が告発されるのだと思うと、まるで生きた心地もなかった。美々しく銀モールで刺繍をした赤い立襟や佩剣などが、もう眼の前にちらついて······彼は全身ブルブルとふるえだした。とうとう下着や長靴を取り出して、そのきたならしい衣裳を残らず身につけると、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナの口喧ましいお説教をききながら、彼は鼻をぼろきれに包んで往来へ出た。
彼はそれを、どこか門の下の土台石の下へでも押し込むか、それとも何気なくおっことしておいて、つと横町へ
そこで彼は、何とかしてネワ河へ投げこむことは出来ないだろうかと思って、イサーキエフスキイ橋へ行ってみようと肚をきめた······。ところで、このいろんな点において分別のある人物、イワン・ヤーコウレヴィッチについて、これまで何の説明も加えなかったことは、いささか相済まない次第である。
イワン・ヤーコウレヴィッチは、やくざなロシアの職人が皆そうであるように、ひどい飲んだくれで、また、毎日他人の
さて、この愛すべき一市民は、今やイサーキエフスキイ橋の上へやって来た。彼は何よりもさきにまずあたりを見廻してから、よほどたくさん魚でもいるかと、橋の下をのぞくようなふりをして、欄干によりかかりざま、こっそり鼻の包みを投げ落とした。彼はまるで十*プードもある重荷が一時に肩からおりたように思った。イワン・ヤーコウレヴィッチは、にやりとほくそえみさえした。そこで彼は役人連の顔を
イワン・ヤーコウレヴィッチは礼儀の心得があったので、もう遠くの方から
「うんにゃ、旦那もないものだぞ。一体お前は今、橋の上に立ちどまって何をしちょったのか?」
「いえ、けっして何も、旦那、ただ顔を
「嘘をつけ、嘘を! その手で誤魔化すこたあ出来んぞ。素直に返答をしろ!」
「ねえ、旦那、何なら一週に二度、いや三度でも、旦那のお顔を
「何だ、くだらない! 俺んとこへは
イワン・ヤーコウレヴィッチは、さっと色を失った。ところがここでこの一件はまったく霧につつまれてしまって、いったいその先がどうなったのか、とんと分らないのである。
二
八等官のコワリョーフはかなり早く眼を覚すと、唇を【ブルルッ······】と鳴らした。自分でもこれはいったいどういう原因からか、説明する訳にゆかなかったが、とに角、眼を覚すといつもやる癖であった。コワリョーフは一つ伸びをすると、テーブルの上に立ててあった小さい鏡を取り寄せた。昨夜、自分の鼻の頭に吹き出したにきびを見ようと思ったのである。ところが、おっ
ところで、これが一体どんな種類の八等官であったか、それを読者に知らせるために、この辺でコワリョーフなる人物について一言しておく必要がある。八等官といっても学校の免状のお蔭でその官等を獲得したものと、コーカサスあたりで成りあがった者とでは、まるで比べものにはならない。この両者は全然、類を異にしている。学校出の八等官の方は······。だが、このロシアという国は実に奇妙なところで、一人の八等官について何か言おうものなら、それこそ、西はリガから東はカムチャツカの
さて、コワリョーフ少佐には毎日ネフスキイ通りを散歩する習慣があった。彼の
あいにく、通りには一台の辻馬車も見当たらなかったので、彼はマントに身をくるみ、さも鼻血にでも困っているような恰好に、ハンカチで顔をおさえて、てくてくと歩いて行くよりほかはなかった。【だが、もしかしたら思い違いかも知れないぞ。そうむやみに鼻がなくなる訳はないから。】こう思ったので、彼は鏡をのぞいてみるために、わざわざ菓子屋へ立ち寄った。好いあんばいに店には誰もいなかった。小僧たちが部屋の掃除をしたり、椅子をならべたりしているだけで、中には
いまいましげに唇をかんで菓子屋を出た彼は、日頃の習慣に反して、誰にも眼をくれたり、笑顔を見せたりはすまいと肚をきめた。ところが、不意に彼は或る家の入口の傍で棒立ちになって立ちすくんでしまった。じつに奇態な現象がまのあたりに起こったのである。一台の馬車が玄関前にとまって、
哀れなコワリョーフは気も狂わんばかりであった。彼はこのような奇怪千万な出来事をどう考えてよいのか、まるで見当がつかなかった。まだ昨日までは彼の顔にちゃんとついていて、ひとりで馬車に乗ったり歩いたりすることのできなかった鼻が、まったく、どうして礼服を着ているなどということがあり得よう! 彼は馬車の後を追って駆けだしたが、さいわい、馬車は少し行って*カザンスキイ大伽藍の前でとまった。
彼は急いで、よくこれまでそれを見て
【どうして、あいつに近づいたものかな?】と、コワリョーフは考えた。【
彼は相手の傍らに立って咳払いをしはじめたが、鼻は寸時もその信心深そうな姿勢をくずさず、しきりに礼拝している。
「もし、
「何か御用で?」と、鼻が振りかえって答えた。
「わたくしには不思議でならないのですよ、
「どうも、おっしゃることが
【どう説明したものだろう?】と、コワリョーフはちょっと考えてから、勇を鼓してこう切りだした。「もちろん、わたくしはその······。それはそうと······。どうも、鼻なしで出歩くなんて、そうじゃありませんか、これが、あのウォスクレセンスキイ橋あたりで皮剥ぎ
「いや、さっぱりわかりませんねえ。」と、鼻が答えた。「もっとよくわかるように説明して下さい。」
「ね、貴下、」コワリョーフは昂然として言った。「わたくしには、あなたのお言葉をどう解釈していいかわからないのです······。この際、問題は明々白々だと思いますがねえ······それとも、お厭なんで······。だって、あなたは||このわたくしの鼻ではありませんか!」
鼻はじっと少佐を眺めたが、その眉がやや気色ばんだ。
「何かのお間違いでしょう。僕はもとより僕自身です。のみならず、あなたとの間に何ら密接な関係のあるべきいわれがありません。お召しになっている、その略服のボタンから拝察すれば、大審院か、あるいは、少なくとも司法機関にお勤めのはずですが、僕は文部関係のものですからね。」こう言うなり、鼻はくるりと向きを変えて、再び祈祷にうつった。
コワリョーフはすっかりまごついて、はたと言句につまってしまった。【どうしてくれよう?】彼はちょっと考えた。その時、一方から気持のよい婦人の
コワリョーフはつかつかと進み寄って、胸衣の、バチスト麻のカラーを摘み出して形をととのえ、時計につけていた
コワリョーフは会堂の外へ出た。ちょうど好い時刻で、陽はさんさんとして輝いており、ネフスキイ通りは黒山のような人出であった。婦人連も、まるで洪水のように押し流されている。······
おや、彼の知り合いの七等官がやって来る。コワリョーフはこの男のことを中佐中佐と呼んでいた。殊に局外者の前でそう呼んだものである。あ、向こうにカルイジキンの姿も見える。これは大審院の一係長で、彼とは大の親友だが、ボストン・カルタを八人でやると、いつも負けてばかりいる男だ。おや、あすこから、コーカサスで八等官にありついた、もう一人の少佐が、こちらへ手を振っておいでおいでをやっている······。
【ちぇっ、くそ喰えだ!】コワリョーフはこう呟いてから、「おい、辻馬車! まっすぐに警察部長のところへやれ!」
コワリョーフは馬車に乗り込むと、「全速力でやれ!」と、ひたすら馭者をせきたてた。
「警察部長は御在宅ですか?」と、玄関へ入るなり彼は呶鳴った。
「いや、おいでになりませんよ。」という玄関番の答えだ。「たった今お出かけになったばかりで。」
「さあ、困ったぞ!」
「はい、まったく、」と玄関番はつけ加えた。「それもつい今しがたお出かけになりましたので。もう、ほんの一分も早ければ、御面会になれたかもしれませんのに。」
コワリョーフはハンカチを顔にあてたまま、馬車に乗りこむと、
「どちらへ?」と馬車屋が訊ねた。
「真直ぐに行け!」
「え? 真直ぐにね? だってここは曲り角ですぜ。右へですか、それとも左ですか?」
この問いがコワリョーフの心を制して、再び彼を考えさせた。かような事態に立ち至ったかぎりは、さしあたり治安の府に訴えるのが順当であった。というのは、直接これが警察に関係のある事件だからというよりも、警察の手配が他のどこよりもはるかに敏速に行なわれるからであって、鼻が勤めていると言った役所の手を経て満足な結果を期待しようなどとは、まったく沙汰のかぎりで、すでにあの鼻との問答それ自体からわかるように、あいつには少しも神妙なところがないから、今度も先刻と同じ調子で、こんな男とは一面識もないと言い切って、まんまと誤魔化してしまうに違いないからである。そういう訳でコワリョーフは、安寧の府たる警察署へ行くように、馭者に言いつけるばかりになっていたのであるが、急に考えが変って、あのペテン師の悪党野郎はすでに初対面の時からして、あんな図々しい態度をとったほどであるから、いい潮時を見て、まんまと都落ちをしてしまうかもしれない。もしそうなったら、あらゆる捜査も水の泡だ、水の泡でないまでも、まる一ヵ月は長びくだろう、それでは
「広告を受け付ける方はどなたです?」とコワリョーフは呶鳴って、「あ、今日は!」
「はい、いらっしゃい。」そう言って、白髪の係員はちらと眼をあげたが、そのまま又、
「ちょと掲載して貰いたいことがあるんですが······」
「どうかしばらくお待ち下さい。」そう言って係員は、片手で紙に数字を記入しながら左手の指で
「ね、旦那、その
分別くさい係員は大真面目な顔つきで聴き耳を立てながら、それと同時に、提出された原稿の文字が幾字あるかを勘定していた。あたりには皆それぞれ書付を手にした、老婆だの、手代だの、門番だのといった連中が多勢立っていた。その書付には、品行方正なる馭者、雇われたしというのもあれば、一八一四年パリより購入、まだ新品同様の軽馬車、売りたしというのもある。そうかと思うと、洗濯業の経験あり、他の業務にも向く十九歳の女中、雇われたしとか、堅牢な馬車、但し
「時に、ぜひひとつお願いしたいのですが······非常に緊急な用事なんでして。」と、とうとう我慢がならなくなって、彼は口を切った。
「はい只今、只今······。二ルーブルと四十三カペイカ也と······。只今すぐですよ!······一ルーブル六十四カペイカ也と!」そう言いながら白髪の紳士は、老婆や門番連の眼の前へ書付を投げ出しておいて、「ところで貴方の御用は?」と、ようやくコワリョーフの方を向いて訊ねた。
「わたしのお願いは······」と、コワリョーフが言った。「詐欺ともペテンともつかぬものに引掛りましてね||それが今もって、どうしてもわからないのです。で、その悪党をわたしのところへ引っぱって来てくれた人には、相当の謝礼をすると掲載していただければよろしいんです。」
「ところで、お名前は何とおっしゃいますか?」
「いや、名前など訊いて何になさるのです? そいつは申しあげられませんよ。何しろ知り合いがたくさんありますからね。例えば五等官夫人のチェフタリョワだの、佐官夫人のペラゲヤ・グリゴーリエヴナ・ポドトチナだのといったあんばいに······。それで、もしもそんな人たちに知れようものなら、それこそ大変です! ただ、八等官とか、いやそれより、少佐級の人物とでもしておいて下さればいいでしょう。」
「で、その逃亡者というのは、お宅の下男ですね?」
「下男などじゃありませんよ! そんなのなら、別に大したことではありませんがね! 失踪したのは······鼻なんで······」
「へえ! それはまた珍しい名前ですな! で、その鼻氏とやらは、よほどの大金を持ち逃げしたんですか?」
「いや、鼻というのは、つまり······誤解されては困りますよ! つまり、わたし自身の鼻のことで、それがね、どこかへ失踪して、わからなくなってしまったのです。畜生め、人を馬鹿にしやがって!」
「だが、どうして失踪したとおっしゃるんで? どうもよく
「どうしてだか、わたしにもお話のしようがありませんがね、しかし彼奴が今、
係員は何か思案をめぐらすように、きっと唇をひきしめた。
「いや、そういう広告を新聞に掲載する訳にはまいりません。」と、しばらく黙っていた後、やっと彼が言った。
「どうして? なぜですか?」
「どうしてもこうもありません。新聞の信用にかかわります。人の鼻が逃げ出したなんてことを書こうものなら······。すぐに、あの新聞は荒唐無稽な与太ばかり
「でも、この事件のどこに荒唐無稽なところがありますか? ちっともそんな点はないと思いますが。」
「そう思えるのは、あなたにだけですよ。先週もそんなようなことがありましたっけ。さる官吏の方がちょうど今あなたがおいでになっているように、ここへやって来られましてね、原稿を示されるのです。料金を計算すると二ルーブルと七十三カペイカになりましたが、その広告というのが、何でも黒毛の
「何もわたしは尨犬の広告をお頼みしているのではありません、わたし自身の鼻のことなんですよ。ですから、つまり自分自身のことも同然です。」
「いや、そういう広告は絶対に掲載できません。」
「だって、わたしの鼻はほんとに無くなっているのですよ!」
「鼻が無くなったのなら、それは医者の繩張ですよ。何でも、お好みしだいにどんな鼻でもくっつけてくれるというじゃありませんか。それはそうと、お見受けしたところ、あなたはひょうきんな方で、人前で冗談をいうのがお好きなんでしょう。」
「冗談どころか、神かけて真剣な話です! よろしい、もうこうなれば仕方がない、じゃあ、ひとつお目にかけましょう!」
「なに、それには及びませんよ!」と、係員は嗅ぎ煙草を一服やりながら言葉をつづけた。「しかしお差支えがなかったら、」と、好奇心を動かしながらつけ加えた。「ひとつ拝見したいもんですなあ。」
八等官は顔のハンカチをのけた。
「なるほど、これは奇態ですなあ!」と、係員が言った。「跡が、まるで焼きたてのパン・ケーキみたいにつるつるしてますねえ。よくもまあ、こんなに平べったくなったもので!」
「さあ、これでもまだ文句がありますかね? 御覧のとおりですから、どうしても掲載していただかねばなりません。ほんとに恩にきますよ。それに、こんな御縁でお近づきになれて、大変うれしいんです。」少佐は、この言葉でもわかるとおり、今度は少しおべっかを使う気になったのである。
「掲載するのは、無論、何でもありませんがね、」と係員は言った。「しかし、そんなことをなすっても、何のお
八等官はがっかりしてしまった。彼が新聞の下の方の欄へ、ふと目をおとすと、そこに芝居の広告が出ていて、美人として評判の、さる女優の名前に出っ喰わしたので、すんでのことに彼の顔はほころびかかり、その手は*
広告係の方もコワリョーフの苦境にはつくづく心を打たれたものらしかった。相手の悲しみを幾分でも慰めてやろうと思い、せめて言葉にでも同情の意を表わすのが当然だと考えて、「まったく、飛んだ御災難で、ほんとにお気の毒です。嗅ぎ煙草でも一服いかがです? 頭痛や気鬱を吹き払いますし、おまけに痔疾にも大変よろしいんで。」こういいながら広告係は、コワリョーフの方へ煙草を差し出して、器用にくるりと蓋を下へ廻した。その蓋には、ボンネットをかぶった婦人の肖像がついていた。
この不用意な仕草がコワリョーフをかっといきり立たせてしまった。「人をからかうにも場合があるでしょう。」と、彼は憤然として言った。「御覧のとおり、わたしには、ものを嗅ぐ器官がないのですよ! ちぇっ、君の煙草なんか、くそ
コワリョーフがそこへやって行ったのは、ちょうど分署長が伸びをして、大きなあくびを一つして、【ええっ、ぐっすり二時間も寝てやるかな!】とつぶやいた時であった。だから、八等官の入来が時機を得ていなかったことは予測に難くない。この分署長は、あらゆる美術や工芸の大の奨励家であったが、何よりも
分署長ははなはだ冷淡にコワリョーフを迎えると、食事の後で審理をするのは適当でないとか、腹を満たしたら、すこし休息するのが自然の
まさに急所を突かれた形である! それにここでちょっと指摘しておきたいのは、コワリョーフがひどく怒りっぽい人間であったということである。自分自身のことならば、何を言われてもまだ我慢ができたけれど、地位や身分に関しては、断じて許すことができなかった。芝居の狂言などでも、尉官に関してなら、すべて大目に見て差し支えないが、いやしくも佐官級の人物に楯つくなどという場面は絶対にいけないという考えを持っていた。で、その分署長の応対ぶりにすっかり面喰った彼は、ブルッと首を震わせると同時に、少し両手を拡げながら、自負心をこめるようにして言った。「どうも、そう、あなたの方から侮辱がましいことをおっしゃられては、まったく二の句がつげませんよ······」そして外へ出てしまった。
彼は極度に疲れて我が家へ立ち帰った。もはや
イワンはとっさにがばと起きざま、急いで後へまわって外套をぬがせた。
少佐は自分の部屋へ入ると、ぐったり疲れた惨めな我が身を安楽椅子へ落としたが、やがてのことに二つ三つ溜息を吐いてからこう呟やいた。
【ああ、ああ! 何の因果でこんな災難にあうのだろう? 手がなくても、足がなくても、まだしもその方がましだ。だが、鼻のない人間なんて、えたいの知れぬ
これはまったく合点のゆかないことだった。たとえばボタンだとか、銀の匙だとか、時計だとかが紛失したのならともかく||無くなるものにも事をかいて、どうしてこんなものが無くなったのだろう? それも、おまけに自分の
イワンがきたない自分の部屋へ引きさがるよりも前に、控室で「八等官コワリョーフ氏のお宅はこちらですか?」という、聞きなれない声がした。
「どうぞお入り下さい。少佐のコワリョーフは手前です。」そう言って、急いで跳びあがるなり、コワリョーフは扉をあけた。
入って来たのは、毛色のあまり
「あなたは御自分の鼻を無くされはしませんか?」
「ええ、無くしました。」
「それが見つかりましたよ。」
「な、何ですって?」と、コワリョーフ少佐は思わず大声で口走った。彼はあまりの嬉しさに、ろくろく口もきけなかった。彼は眼を皿のようにして、自分の前に立っている
「変な機会からでしてね、あやうく高飛びをされる、きわどいところで取り押えたのです。奴はもう乗合馬車に乗り込んで、リガへ逃げようとしていました。旅行券もとっくに或る官吏の名前になっていましてね。不思議なことに、本官でさえ最初は奴を紳士だと思いこんでいたのです。が、幸い眼鏡を持っておりましたので、すぐさまそれを鼻だと見破ったのです。本官は近眼でしてね、あなたが鼻の先に立たれても、ぼんやりお顔はわかりますが、鼻も髯も、皆目、見分けがつきません。手前の
コワリョーフはそれどころか、心もそぞろに「で、かやつはどこにいるのです? どこに? わたしはすぐにでも駆けつけますから。」とせきたてた。
「その御心配には及びませんよ。御入用な品だと思いましたので、ちゃんとここへ持参いたしました。ところで奇態なことに、重要な本件の共犯者がウォズネセンスキイ通りのインチキ理髪師でしてね、現に留置所へぶちこんでありますよ。本官は大分まえから、どうも彼奴は飲んだくれで、窃盗もやりかねない奴だとにらんでいましたが、つい一昨日のこと、ある店からボタンを一揃いかっぱらいましてね。時に、あなたの鼻には全然異状がないようです。」そういいながら、巡査はかくしへ手を入れて、そこから紙にくるんだ鼻を取り出した。
「あっ、これです!」と、コワリョーフは頓狂な声をあげて、「確かにこれです! まあ御一緒にお茶を一つ召上って下さい。」
「いや、おおきに有難いですが、そうはしておられません。これから懲治監の方へ廻る用事があるのです······。時に日用品の騰貴はどうです······。手前のところには姑、つまり愚妻の母ですなあ、それもおりますし、子供がたくさんありましてね、特に長男は大いに見込みのある奴です、なかなか利巧な小伜でして。だが、養育費にはまったく手を焼きます······」
巡査の立ち去った後もなおしばらく、八等官は妙に漠然とした心持で、ぽかんとしていたが、ようやく二、三分たってから、初めて物を見たり感じたりすることができるようになった。あまりに思いがけない悦びが、彼をこのような放心状態に陥れたのであった。彼はやっと見つけることのできた鼻を、用心深く両手に受けて、もう一度それをしげしげと打ち眺めた。
【うん、これだ! 確かにこれだ!】と、コワリョーフ少佐はつぶやいた。【ほら、この左側にあるのは、きのうできたにきびだ。】少佐はあまりの嬉しさに、げらげら笑い出さんばかりであった。
しかし、何事も永続きのしないのが世の習いで、どんな喜びもつぎの瞬間にはもうそれほどではなくなり、更にそのつぎにはいっそう気がぬけて、やがて何時とはなしに
【もし、くっつかなかったら、どうしよう?】
こう我と我が胸に問いかけた時、少佐の顔はさっと蒼ざめてしまった。
名状し難い恐怖を覚えながら、彼はテーブルの傍へ走りよると、うっかり鼻を斜めにくっつけたりしてはならぬと、鏡を引きよせた。両手がブルブル震えた。彼は用心の上にも用心をしながら、鼻をそっと、もとのところへ当てがった。けれど、
【さあ、これさ! ちゃんと喰っつかないのか、馬鹿野郎!】と、彼は躍起になってぼやいたが、鼻は木石のように
彼はあわただしくイワンを呼んで、医者を迎えにやった。その医者は同じ建物の中二階にある、はるかに上等の部屋を領していた。堂々たる風采の男で、見事な漆黒の頬髯と、みずみずしくて健康な妻を持ち、毎朝、新鮮なりんごを食べ、四十五分もかかって
「いや、これあいけない。矢張りこのままにしておくんですなあ。下手にいじくれば、いっそういけなくなりますよ。それあ、無論、くっつけることはできますがね。何なら今すぐにだってつけてさしあげますが、しかし正直のところ、かえってお為めによくありませんよ。」
「飛んでもない! どうして鼻なしでいられましょう!」と、コワリョーフは言った。「これ以上、悪くなりっこありませんよ。ちぇっ、まったく、こんな馬鹿な恰好ってあるもんじゃない! こんな変てこな
「いや、手前はけっして、」と医者は、高くもなければ低くもない、が、懇々とした、非常に粘りづよい声で言った。「けっしてその、利慾のために治療を施しているのではありません。それは手前の抱懐する主義と医術とに反するからです。いかにも往診料はいただきます。しかしそれは拒絶してかえって気を悪くされてはと思えばこそです。無論、この鼻にしても、つけてつけられなくはありませんよ。しかし、それはかえって悪くするばかりだと申しあげているのです。これほど誠意をもって申しあげても、手前の言葉を信じていただかれませんのかね。まあ自然のなりゆきに任せるのが一番ですよ。そして冷たい水で精々洗うようになさいませ。なあに、鼻はなくても、あった時同様、健康で暮らせますよ。それに何ですよ、この鼻は壜へ入れてアルコール漬にしておくか、もっと手をかければ、それに強いウォッカと沸かした酢を大匙に二杯注ぎこんでおくのです||そうすれば、相当うまい金儲けができますよ。あまり高いことさえおっしゃらなければ、手前が頂戴してもいいんですがね。」
「いんにゃ、駄目です! 幾らになっても売るもんですか!」と、コワリョーフ少佐は
「いや、失礼しました!」と、医者は
そのすぐ翌る日、彼は告訴するに先だって、佐官夫人に手紙を出して、夫人が彼に当然返すべきものを文句なしに返してくれるかどうか一応問い合わせて見ることに肚をきめた。その内容はつぎのようなものであった。
拝啓
貴女のとられたる奇怪な行動は近頃もって了解に苦しむところに御座候。かような振舞によって貴女は何ら得られるところとて之無 く、小生をして余儀なく御令嬢と結婚せしめ得るなどとは以っての外のことと御承知あって然 るべく候。小生の鼻に関する一件も、その首謀者が貴女を措いて他に之無きことと同様、明々白々の事実にて候。鼻が突如としてその位置を離れ、或は一官吏の姿に変装し、或はついに本来の姿に返りて逃走するなど、こは貴女、ないしは貴女と同様まことに上品なる仕事に従事する輩 の操る妖術の結果に他ならず。よって、万一上述の鼻にして今日中に本来の位置に復帰せざるに於ては、小生は已むを得ず法律による防衛に訴える他之無きことを前以って御通告申しあぐるを小生の義務と存ずる次第に御座候。
貴女のとられたる奇怪な行動は近頃もって了解に苦しむところに御座候。かような振舞によって貴女は何ら得られるところとて
さりながら、貴女に対し全幅の敬意を捧げつつ、貴女の忠順なる下僕たることを光栄と存じ候。
プラトン・コワリョーフ拝
アレクサンドラ・グリゴーリエヴナ様
拝復
お手紙を拝見いたし、この上なく驚き入りました。打ち割ったところ、思いもよらぬことにて、まして、あなた様より身に覚えもなきかようなお咎めを蒙ろうなどとは、ほんとうに夢にも思いがけないことでございました。第一、あなた様のおっしゃるような官吏などは、変装したのもしないのも、ついぞ家へ寄せつけたこともございませんわ。もっとも、フィリップ・イワーノヴィッチ・ポタンチコフさんなら、おいでになったことがございます。御品行もよく、ごく真面目で、たいへん学問もおありになる方で、宅の娘をお望みのようでしたけれど、あの方が少しでも当てに遊ばすようなことは、わたくしけっして匂わせもしませんでしたわ。お手紙にはまた、鼻のことが書いてございましたが、あれはわたくしがあなた様に鼻をあかせる、つまり、正式にお断わり申しあげるとでもお考えになってのことでございましたなら、当方こそ意外に存じます次第にて、それはむしろあなた様の方からおっしゃったことで、わたくし共は、御存じのとおり、全く反対の考えでございました。それ故、只今あなた様から正式にお申し込み下さいますれば、すぐにも娘は差しあげるつもりでおります。それこそ、常々わたくしの心より切望していることでございますもの。では、そうなれかしと祈りつつ擱筆いたします。かしこ。
お手紙を拝見いたし、この上なく驚き入りました。打ち割ったところ、思いもよらぬことにて、まして、あなた様より身に覚えもなきかようなお咎めを蒙ろうなどとは、ほんとうに夢にも思いがけないことでございました。第一、あなた様のおっしゃるような官吏などは、変装したのもしないのも、ついぞ家へ寄せつけたこともございませんわ。もっとも、フィリップ・イワーノヴィッチ・ポタンチコフさんなら、おいでになったことがございます。御品行もよく、ごく真面目で、たいへん学問もおありになる方で、宅の娘をお望みのようでしたけれど、あの方が少しでも当てに遊ばすようなことは、わたくしけっして匂わせもしませんでしたわ。お手紙にはまた、鼻のことが書いてございましたが、あれはわたくしがあなた様に鼻をあかせる、つまり、正式にお断わり申しあげるとでもお考えになってのことでございましたなら、当方こそ意外に存じます次第にて、それはむしろあなた様の方からおっしゃったことで、わたくし共は、御存じのとおり、全く反対の考えでございました。それ故、只今あなた様から正式にお申し込み下さいますれば、すぐにも娘は差しあげるつもりでおります。それこそ、常々わたくしの心より切望していることでございますもの。では、そうなれかしと祈りつつ擱筆いたします。かしこ。
アレクサンドラ・ポドトチナ
プラトン・グジミッチ様
【そうか】と、コワリョーフは手紙を読み終ってつぶやいた。【すると夫人には何の罪もなさそうだな。こいつは
そうこうするうちに、この稀有な事件の取沙汰は都の内外に拡がって行ったが、よくある
この一件に横手を打って喜んだのは、せっせと夜会に通う社交界の常連で、彼らは
三
この世の中にはじつに馬鹿馬鹿しいこともあればあるものだ。時にはまるで嘘みたいなこともあって、かつては五等官の制服で馬車を乗り迴し、あれほど
「おいイワン、ちょっと見てくれ、俺の鼻ににきびができたようだが。」そう言っておきながら、さて肚の中では、【
しかし、イワンは「何ともありませんよ。にきびなんか一つもありません。きれいなお鼻でございますよ!」と言った。
【ちぇっ、どんなもんだい!】と、少佐は心の中で歓声をあげて、パチンと指を鳴らした。その時、入口からひょっこり姿を現わしたのは
「第一、手はきれいか?」と、コワリョーフはまだ遠くから呶鳴りつけた。
「へえ、きれいで。」
「嘘をつけ!」
「ほんとに、きれいですよ、旦那様。」
「ようし、見ておれ!」
コワリョーフは腰をおろした。イワン・ヤーコウレヴィッチは彼に白い布をかけると、刷毛を使って見る見る彼の頤髯と頬の一部をば、まるで商人の家の
「おい、こら、こら、何をするんだ!」と、コワリョーフが呶鳴りつけた。イワン・ヤーコウレヴィッチはびっくりして両手をひくと、ついぞこれまでになく狼狽してしまった。が、やがてのことに、注意ぶかく顎の下へ剃刀を軽くあてはじめると、相手の嗅覚器官に指をかけないで顔を
それがすっかり片づくと、コワリョーフはすぐさま大急ぎで衣服を改め、辻馬車を雇って真直に菓子屋へ乗りつけた。店へ入るなり、彼はまだ遠くから、「小僧っ、チョコレート一杯!」と呶鳴ったが、それと同時に素早く鏡の前へ顔を持って行った||鼻はある。彼は朗らかに後ろを振り返ると、少し瞬きをしながら、嘲るような様子で二人の軍人をちらと眺めた。その一人の鼻はどうみてもチョッキのボタンより大きいとは言えなかった。そこを出ると、かねがね副知事の椅子を、それが駄目なら監察官の口をとしきりに奔走していた省の役所へ赴いた。そこの応接室を通りすぎながら、ちらと鏡をのぞいてみた||鼻はある。つぎに彼は、もう一人の八等官、つまり少佐のところへと出かけた。それは大の悪口屋で、いつもいろんな辛辣な皮肉を浴びせるものだから、彼はよく、【ふん、何を言ってやがるんだい、ケチな皮肉屋め!】と応酬したものである。で、彼は
さて、我が広大なるロシアの北方の
だが、まあ、それはそうとして、それもこれも、いや場合によってはそれ以上のことも、もちろん、許すことができるとして······実際、不合理というものはどこにもあり勝ちなことだから||だがそれにしても、よくよく考えて見ると、この事件全体には、実際、何かしらあるにはある。誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ||稀にではあるが、あることはあり得るのである。
一八三三|一八三五年作
訳注
プード||重量単位、一六・三八キロに当る。
カザンスキ大伽藍||アレクサンドル一世が当時の著名な建築家ウォロニヒンをして造営せしめた大伽藍(一八一一年竣工)で、優美な円頂閣やコリント式の豪華な柱廊に結構をきわめている。
スパニエル||愛玩用の小形の尨犬。
北方の蜂||一八〇七年ペテルブルグで発刊された月刊雑誌。同じくペテルブルグで一八二五年から四十年間にわたり続刊された新聞。ここでは後者を指すものと思われる。
ペレジナ煙草||南ロシア産の下等な安煙草。
ラペー||フランス煙草の名称。
踊り椅子。この踊り椅子についてはプーシキンもその日記(一八三三年十二月十七日付)に記して笑っている。||「市中で妙な出来事が噂されている。主馬寮、某の家で家具が急に動いたり跳ねたりしだした、というのだが、N曰く、これはきっと宮廷用の家具がアニチコフ(宮廷)へ入ることを切望してるんだ、と。」
ホズレフ・ミルザ卿||一八二九年、ニコライ一世と協約のためロシアに来た、有名なペルシアの政治家。