大阪は二ツ井戸「まからんや」呉服店の番頭は
||「まからんや」は月に二度、疵ものやしみつきや、それから何じゃかや一杯呉服物を一反風呂敷にいれ、南海電車に乗り、岸和田で降りて二里の道あるいて六貫村へ
聴いて順平は何とも感じなかった。そんな年でもなく、寝床にはいって癖で足の親指と隣の指をすり合わせていると、きまってこむら返りして痛く、またうっとりした。度重なるうち、下腹が引きつるような痛みに驚いたが、お婆は脱腸の気だとは感付かなかった。寝いると小便をした。お婆は粗相を押えるために夜もおちおち寝ず、濡れていると敲き起し、のう順平よ、良う聴きなはれや。そして意地わるい快感で声も震え、わりや継子やぞ。
泉北郡六貫村よろずや雑貨店の当主高峰康太郎はお婆の娘のおむらと五年連れ添い、文吉、順平と二人の子までなしたる仲であったが、おむらが産で死ぬと、これ倖いと後妻をいれた。これ倖いとはひょっとすると後妻のおそでの方で、康太郎は評判のおとなしい男で財産も少しはあった。兄の文吉は康太郎の姉聟の金造に養子に貰われたから良いが、弟の順平は乳飲子で可哀相だとお婆が引き取り、ミルクで育てている。お婆が死ねば順平は行きどころが無いゆえ継母のいる家へ帰らねばならず、今にして寝小便を癒して置かねば所詮いじめられる。後妻には連子があり、おまけに康太郎の子供も産んで、男の子だ。
······お婆はひそかに康太郎を恨んでいたのであろうか。順平さえ娘の腹に宿らなんだら、まからんやが雨さえ降らせなんだらと思い、一途に年のせいではなかった。云うまじきことを云い聴かせるという残酷めいた喜びに打負けるのが度重って、次第に効果はあった。継子だとはどんな味か知らぬが、順平は七つの頃から何となく情けない気持が身にしみた。お婆の素振りが変になり、みるみるしなびて、死んで、順平は父の所に戻された。
ひがんでいるという言葉がやがて順平の身辺をとりまいた。一つ違いの
金造は蜜柑山をもち、慾張りと云われた。男の子がなく、義理で養子にいれたが、岸和田の工場で働かせている娘が子供をもうけ、それが男の子であったから、いきなり気が変り、文吉はこき使われた。牛小屋の掃除をした。蜜柑をむしった。肥料を汲んだ。薪を割った。子守をした。その他いろいろ働いた。順平は文吉の手だすけをした。兄よ、わりゃ教場で糞したとな。弟よ、わりゃ寝小便止めとけよ。そんなことを云いかわして喜んでいた。
康太郎の眼はまだ黒かったが、しかしこの父はもう普通の人ではなかった。悪性の病をわずらって悪臭を放ち、それを消すために安香水の匂いをプンプンさせていたが、そんな頭の働かせ方がむしろ不思議だとされていた。寝ていると、壁に活動写真がうつるようであった。ある日、浪花節語りが店の前に来て語っているから見て来いといい、順平が行こうとすると、継母は呶鳴りつけて、われも狂人か、そう云って継母はにがにがし気であった。その日から衰弱はげしく、大阪生玉前町の料理仕出し屋丸亀に嫁いでいる妹のおみよがかけつけると、一瞬正気になり、間もなく康太郎は息をひきとった。
焼香順のことでおみよ叔母は継母のおそでと口喧嘩した。それでは何ぼ何でも文吉や順平が可哀相やと叔母は云い、気晴しに紅葉を見るのだとて二人を連れて近くの牛滝山へ行った。滝の前の茶店で大福餅をたべさせながらおみよ叔母は、叔母さんの香典はどこの誰よりも一番
十歳の順平はおみよ叔母に連れられて大阪へ行った。村から岸和田の駅まで二里の途は途中に池があった。大きな池なので吃驚した。順平は国定教科書の「作太郎は父に連れられて峠を······」という文句を何となく想出したが、後の文句がどうしても頭に泛んで来なかった。見送るといって随いて来た文吉は、順平よ、わりゃ叔母さんの荷物もたんかいやとたしなめた。順平は信玄袋を担いでいたが、左の肩が空いていたのだ。文吉の両肩には荷物があった。叔母はしかし、蜜柑の小さな籠をもっているだけで、それは金造が土産にくれたもの、何倍にもなってかえる見込がついていた。
岸和田の駅から引返す文吉が、直きに日が暮れて一人歩きは怖いこっちゃろと、叔母は同情して五十銭呉れると、文吉は、金はいらぬ、金造叔父がわしの貯金帳こしらえてくれると云って受取らず、帰って行った。そんなことがあるものか、文吉は金造に欺されている、今に思い知る時があるやろと、電車が動き出して叔母は順平に云った。はじめて乗る電車にまごついて、きょろきょろしている順平は、碌々耳にはいらなかった。電車が難波に着くと、心に一寸した張りがついた。大阪へ行ったらしっかりせんと田舎者やと笑われるぞと、兄らしくいましめてくれた文吉の言葉を想出したのだ。
叔母の家についた。眩い電灯の光でさまざまな人に引き合わされたが、耳の奥がじーんと鳴り、人の顔がすッーと遠ざかって小さくなったり、急にでっかく見えたり、さすがに呆然としていた。しッかりしよと下腹に力をいれると差し込んで来て、我慢するのが大変だった。香典返えしや土産物を整理していた叔母が、順ちゃんよ、お前の学校行きの道具はときくと、すかさず、ここにあら。信玄袋から取出してみせ、はじめて些か得意であった。然るに「ここにあら」がおかしいと
遅い夕飯が出された。刺身などが出されたから、まごついて下をむいたまま黙々とたべ終り、漬物の醤油の余りを嘗めていると、叔母は、お前は今日から丸亀のぼんぼんやさかいそんなけちんぼな真似せいでもええといい、そして女中の方を向いてわざとらしい泪を泛べた。酒をのんでいた叔父が二こと三こと喋ると叔母は、猫の子よりましだんがナと云った。ふんと叔父はうなずいて、しかしえらい痩せとるなアと云った。
さっぱりした着物を着せられたが、養子とは兄の文吉のようなものだと思っていた身に、何かしっくりしない気持がした。買喰いの銭を与えられると、不思議に思った。田舎の家は雑貨屋で、棒ねじ、犬の糞、どんぐりなどの駄菓子を商っているのに、手も出せなかったのだ。一と六の日は駒ヶ池の夜店があり、丸亀の前にも艶歌師が立ったり、アイスクリン屋が店を張ったりした。二銭五厘ずつ貰って美津子と夜店に行く時は、帯の中に銅貨をまきこんで、都会の子供らしい見栄を張った。しかし、筍をさかさにした形のアイスクリンの器をせんべいとは知らず、中身を嘗めているうちに器が破けてはっとし、弁償しなければならぬと蒼くなって嗤われるなど、いくら眼をキョロキョロさせていても、やはり以後かたくいましめるべき事が随分多かった。
ある日銭湯へ行くといって家を出た。道分ってんのかとの叔母の声をきき流して、分ってまんがな。流暢に出た大阪弁に弾みつけられてどんどん駆け出し、勢よく飛び込んでみると、おやッ! 明るいところから急に変った暗さの中にも、大分容子が違うとやがて気が付いて、わいは······、わいは······、あとの声が出ず、いきなり引きかえしたが、そこは銭湯の隣の果物屋の奥座敷で、中風で寝ているお爺がきょとんとした顔であとを見送っていた。表へ出ると、丁度使いから帰って来た滅法背の高いそこの小僧に、何んぞ用だっかと問われ、いきなり風呂銭にもっていた一銭銅貨を投げ出し、ものも云わずに蜜柑を一つ掴んで逃げ出した。ところが、それは一個三銭の蜜柑で、その時のせわしない容子がおかしいと、ちょくちょく丸亀の料理場へ果物を届けに来るその小僧があとで板場(料理人のこと)や女中に笑いながら話し、それが叔父叔母の耳にはいった。お前、えらいぼろい事したいうやないか。叔母にその事をいわれると、順平はぺたりと畳に手をついて、もう二度と致しまへん。うなだれて眼に涙さえ泛べるのだった。ひやかす積りであった叔母はあっ気にとられ、そんな順平が血のつながるだけにいっそいじらしく、また不気味でもあったので、何してねんや、えらいかしこまって。そう云って、大袈裟に笑い声を立てた。叱られているのではなかったのかと、ほっとすると順平は媚びた笑いを黄色い顔に一杯うかべて、果物屋のお爺がぼんぼんは何処さんの子供衆や、学校何年やときいたなどとにわかに饒舌になった。が、果物屋のお爺というのは唖であり、間もなく息をひきとった。
尋常五年になった。誰に教えられるともなく始めた寝る前の「お休み」がすっかり身についていた。色が黒いさかいと茶断ちをしている叔母に面と向って色が白いとお世辞を云うことも覚えた。また、しょっちゅう料理場でうろうろしていて、叔父からあれ取れこれ取ってくれと一寸した用事を
叔父は生れ故郷の四日市から大阪へ流れて来た時の所持金が僅か十六銭で、下寺町の坂で立ちん坊をして荷車の後押しをしたのを振出しに、土方、沖仲仕、飯屋の下廻り、板場、夜泣きうどん屋、関東煮の屋台などさまざまな商売を経て、今日、生国魂神社前に料理仕出し屋の一戸を構え、自分でも苦労人やと云いふらしているだけに、順平を仕込むのも、一人前の板場になるには先ず水を使うことから始めねばならぬと、寒中に氷の張ったバケツで皿洗いをさせ、また二度や三度指を切るのも承知の上で、大根をむかせて、けん(刺身のつま)の切り方を教えた。庖丁が狂って手を切ると、先ず、けんが赤うなってるぜといわれた。手の痛みはどないやとも訊いてくれないのを、十三の年では可哀相だと
叔父叔母はしかし、順平をわざわざ継子扱いにはしなかったのだ。そんな暇もないといった顔だった。
ある日、美津子が行水をした。白い身体がすうっと立ち上った。あっちイ行きイ。順平は身の置き場もないような恥しい気持になった。夜想い出すと、急にぽかぽかぺんぺんうらうらうら。念仏のように唱えた。美津子にはっきり嫌われたと蒼い顔で唱えた。近所のカフェから流行歌が聞えて来た。何がなし郷愁をそそられ、その文吉のことなども想い出し、泣いたろ、そう思うとするすると涙がこぼれてきて存分に泣けた。二度と見ない決心だったが、翌くる日、美津子が行水をしているとやはりそわそわした。そんな順平を仕込んだのは板場の木下であった。
板場の木下は、東京で牛乳配達、新聞配達、料理屋の帳場などしながら苦学していたが、大震災に逢い、大阪へ逃げて来たと云った。汚い身装りで雇われて来た日、一緒に風呂へ行ったが、木下が小さい巾着を覗いて一枚一枚小銭を探し出すのを見て同情し、震災の時火の手を逃れて隅田川に飛び込んで泳いだ、袴をはいた女学生も並んで泳いでいたが、身につけているものが邪魔になって到頭溺死しちゃったという木下の話を聞くと、順平は訳もなく惹き付けられ、好きになった。大阪も随分揺れたことだろうなと、長い髪の毛にシャボンをつけながら木下が問うと、えらい揺れたぜと順平はいい、細ごま説明したが、その日揺れ出した途端、未だ学校から退けて来ない美津子のことに気がつくと、悲壮な表情を装いながら学校へ駆けつけ、地震怖かったやろ、そういって美津子の手を握ってたら、何んや、阿呆らしい、地震みたいなもん、ちっとも怖いことあーらへんわ、そして握られた手はそのままだったが。
女学生の袴が水の上にぽっかりひらいて······という木下の話は順平の大人を眼覚ました。弁護士の試験をうけるために早稲田の講義録をとっているという木下は、道で年頃の女に会うときまって尻振りダンスをやった。順平も尻を振って見せ、げらげら笑い、そしてあたりを見廻すのだった。
ある時、気がついてみると、ふらふらと女中部屋の前にたたずんでいた。あくる日、千日前で「海女の実演」という見世物小屋にはいり、海女の白い足や晒を巻いた胸のふくらみをじっと見つめていた。そして又、ちがった日には「ろくろ首」の疲れたような女の顔にうっとりとなっていた。十六になっていた。二皮目だから今に女泣かせの良い男になると木下に無責任な賞め方をされて、もう女学生になっていた美津子の鏡台からレートクリームを盗み出し顔や手につけた。匂いに感づかれぬように、人の傍によらぬことにしていたが、知れて、美津子の嘲笑いを買ったと思った。二皮目だと己惚れて鏡を覗くと、兄の文吉に似ていた。眼が斜めに下っているところ、おでこで鼻の低いところ、顔幅が広くて顎のすぼんだところ、そっくりであった。ひとの顔を注意してみると、皆自分よりましな顔をしていた。硫黄の匂いのする美顔水をつけて化粧してみても追っ付かないと諦めて、やがて十九になった。数多くある負目の上に容貌のことで、いよいよ美津子に嫌われるという想いが強くなった。
ただ一途にこれのみと頼りにしている板場の腕が、この調子で行けば結構丸亀の料理場を支えて行けるほどになったのを、叔父叔母は喜び、当人もその気でひたすらへり下って身をいれて板場をやっている忠実めいた態度が、しかし美津子にはエスプリがないと思われて嫌に思っていたのだった。容貌は第二で、その頃学校の往きかえりに何となく物をいうようになった関西大学専門部の某生徒など、随分妙な顔をしていた。しかし、此の生徒はエスプリというような言葉を心得ていて、美津子は得るところ少くなかった。
日がたち、妊娠していると両親にも判った。女学校の卒業式をもう済ませていることで、両親は赤新聞の種にならないで良かったと安堵した。ある夜更け美津子の寝室の前に佇んでいたといわれて、嫌疑は順平にかかった。順平はなぜか否定する気にもならなかったが、しかし、美津子を見る目が恨みを呑んだ。雨の夜、ふらふらと美津子の寝顔に近づいたが、やはり無暴だった。美津子の眼は白く冴えて、怖ろしく、順平の狂暴な血は一度にひいた。
丸亀夫婦は美津子から相手は順平でないと告げられると、あわてて、何か改って順平を長火鉢の前へ呼び寄せ、不束な娘やけど、貰ってくれといった。順平ははっと両手をついてありがとうございますと、かねてこの事あるを予期していた如き挨拶であった。見れば、畳の上にハラハラと涙をこぼし、眼をこすりもしないで芝居がかった容子であるから、丸亀夫婦も舞台に立ったような思いいれを
婚礼の日が急がれて、美津子の腹が目立たぬ内にと急がれたのだ。暦を調べると、良い日は皆目なかったので、迷った挙句、仏滅の十五日を月の中の日で仲が良いとてそれに決められた。婚礼の日、六貫村の文吉は朝早くから金造の家を出て、柿の枝を肩にかついで二里の道歩いて、岸和田から南海電車に乗った。難波の終点についたのは正午頃だったが、大阪の町ははじめてのこと故、小一里もない生国魂神社前の丸亀の料理場に姿を現わしたのは、もう黄昏どきであった。
その日の婚礼料理に使うにらみ鯛を焼いていた順平が振り向くと、文吉がエヘラエヘラ笑って突っ立っていた。十年振りの兄だが少しも変っていないので直ぐ分って、兄よ、わりゃ来てくれたんかと順平は団扇をもったまま傍へ寄った。白い料理衣をきている順平の姿が文吉には大変立派に見え、背ものびたと思えたので、そのことを云った。順平は料理場用の高下駄をはいているので高く見えたのだった。二十二歳の文吉は四尺七寸しかなかった。順平は九寸位あった。順平は柿をむいて見せた。皮がくるくると離れ、漆喰に届いたので文吉は感心し、賞めた。
その夜、婚礼の席がおひらきになるころ、文吉は腹が痛み出した。膳のものを残らず食い、酒ものんだからだった。かねがね蛔虫を湧かしていたのである。便所に立とうとすると、借着の紋附の裾が長すぎて、足にからまった。倒れて、そのまま、痛い痛いとのた打ちまわった。別室に運ばれ、医者を迎えた。腸から絞り出して夜着を汚した臭気の中で、順平は看護した。やっと、落ち付いて文吉が寝いると、順平は寝室へ行った。夜は更けていて、もう美津子は寝こんでいた。だらしなく手を投げ出していた。ふと気が付いてみると、阿呆んだら。順平は突きとばされていた。
あくる朝、文吉の腹痛はけろりと癒った。早う帰らんと金造に叱られるといったので、順平は難波まで送って行った。
名ばかりの亭主で、むなしく、日々が過ぎた。一寸の虫にも五分の魂やないか、いっそ冷淡に構えて焦らしてやる方が良いやろと、ことを察した木下が忠告してくれたが、そこまでの意気も思索も浮ばなかった。わざと順平の子だといいならして、某生徒の子供が美津子の腹から出た。好奇心で近寄ったが、順平は産室にいれてもらえなかった。しかし、産婆は心得て順平に産れたての子を渡した。抱かされて覗いてみると、鼻の低いところなど自分に似ているのだ。本当の父親も低かったのだが。
近所の手前もあり、吩咐られて風呂へ抱いて行ったりしている内に、なぜか赤ん坊への愛情が湧いて来た。しかし、赤ん坊は間もなく死んだ。風呂の湯が耳にはいった為だと医者が云った。それで、わざと順平がいれたのであろうという忌わしい言葉が囁かれた。ある日、便所に隠れてこっそり泣いていると、木下がはいって来て、今まで云おう云おうと思っていたのだが······とはじめてしんみり慰めてくれた。そうして木下は、僕はもうこんな欺瞞的な家には居らぬ決心をしたといった。木下は、四十にはまだ大分間があるというものの、髪の毛も薄く、弁護士には前途遼遠だった。性根を入れていないから、板場の腕もたいしたものにならず、実は何かといや気がさしていたのだ。馴染みの女給がちかごろ東京へ行った由きいたので後を追うて行きたいと思っていた。その女給に通う為に丸亀に月給の前借が四月分あるが、踏み倒す魂胆であった。
その夜、二人でカフェへ行った。傍へ来た女の安香水の匂いに思いがけなく死んだ父のことを思い出し、しんみりしている順平の容子を何と思ったか、木下は耳に口を寄せて来て、この女子は金で自由になる、世話したげよか。順平は吃驚して、金は出しまっさかい、木下はん、あんた口説きなはれ、あんたに譲りまっさ。いつの間にか、そんな男になっていた。脱腸をはじめ、数えれば切りのない多くの
文吉は夜なかに起されると、大八車に筍を積んだ。真っ暗がりの田舎道を、提灯つけて岸和田までひいて行った。轍の音が心細く腹に響いた。次第に空の色が薄れて、岸和田の青物市場についた時は、もう朝であった。筍を渡すと、三十円呉れた。腹巻の底へしっかりいれて、ちょいちょい押えてみんことにゃと金造にいわれたことを思い出し、そのようにした。ふと、これだけの金があれば大阪へ行ってまむしや鮒の刺身がくえると思うと、足が震えた。空の車をガラガラひいて岸和田の駅まで来ると、電車の音がした。車を駅前の電柱にしばりつけて、大阪までの切符を買い、プラットフォームに出た。電車が来るまで少し間があった。そわそわして決心が鈍って来るようで、何度も便所へ行きたくなった。便所から出て来ると電車が来たのであわてて乗った。動き出してうとうと眠った。車掌に揺り動かされて眼を覚すと、難波ア、難波終点でございまアーす。早う着いたなアと嬉しい気持で構内をちょこちょこ走り、日射しの明るい南海道を真っ直ぐ出雲屋の表へかけつけると、まだ店が開いていなかった。千日前は朝で、活動小屋の石だたみがまだ濡れていた。きょろきょろしながら活動写真の絵看板を見上げて歩いた。首筋が痛くなった。道頓堀の方へ渡るゴーストップで交通巡査にきびしい注意をうけた。道頓堀から戎橋を渡り心斎橋筋を歩いた。一軒一軒飾窓を覗きまわったので疲れ、ひきかえして戎橋の上で佇んでいると、橋の下を水上警察のモーターボートが走って行った。後から下肥を積んだ船が通った。ふと六貫村のことが連想され、金造の声がきこえた。わりゃ、伊勢乞食やぞ、杭(食い)にかかったらなんぼでも離れくさらん。にわかに空腹を感じて、出雲屋へ行こうと歩き出したが方角が分らなかった。人に訊くにも誰に訊いて良いか見当つかず、なんとなく心細い気持になった。中座の前で浮かぬ顔をして絵看板を見上げていると、活動の半額券を買わんかと男が寄って来た。半額券を買うとは何の事か訳が知れなかったから、答えるすべもなかったが、これ倖いと、ちょっくら物を訊ねますが、出雲屋は? この向いやと男は怒った様な調子でいった。振り向くと、なるほど看板が掛っている。が、そこは順平に連れてもらった店と違うようだ。出雲屋が何軒もあるとは思えなかったから、狐につままれたと思った。しかし、鰻を焼く匂いにはげしく誘われて、ままよとはいり、餓鬼のように食べた。勘定を払って出ると、まだ二十七円と少しあった。中座の隣の蓄音機屋の隣に食物屋があった。蓄音機屋と食物屋の間に、狭くるしい路地があった。そこを抜けるとお寺の境内のようであった。左へ出ると、楽天地が見えた。あそこが千日前だと分った嬉しさで早足に歩いた。楽天地の向いの活動小屋で喧しくベルが鳴っていたので、何かあわてて切符を買った。まだ出し物が始っていなかったから、拍子抜けがし、緞帳を穴の明くほど見つめていた。客の数も増え、いよいよ始った。ラムネをのみ、フライビンズをかじり、写真が佳境にはいって来ると、よう! よう! ええぞとわめいてあたりの人に叱られた。美しい女が猿ぐつわをはめられる場面が出ると、だしぬけに、女への慾望が起った。小屋を出しなに勘定してみたら、まだ二十六円八十銭あった。大阪には遊廓があるといつか聴いたことを想出した。そこでは女が親切にしてくれるということだ。エヘラエヘラ笑いながら、姫買いをする所はどこかと道通る人に訊ねると、早熟た小せがれやナ、年なんぼやねンと相手にされなかった。二十三だというと、相手は本当に出来ないといった顔だったが、それでも、自動車に乗れと親切にいってくれた。生れてはじめての自動車で飛田遊廓の大門前まで行った。二十六円十六銭、廓の中をうろうろしていると、掴えられ、するすると引き上げられた。ぼうっとしている内に十円とられて、十六円十六銭。妓の部屋で、盆踊りの歌をうたうと、良え声やワ、もう一ぺん歌いなはれナ。賞められて一層声を張りあげると、あちこちの部屋で、客や妓が笑った。ねえ、ちょっと、わてお寿司食べたいワ、何ぞ食べへん? 食べましょうよ。擦り寄られ、よっしゃ。二人前とり寄せて、十一円十六銭。食べている内に、お時間でっせといいに来た。帰ったら嫌やし、もっと居てえナ。わざと鼻声で、いわれると、よう起きなかった。生れてはじめて親切にされるという喜びに骨までうずいた。又、線香つけて、最後の十円札の姿も消えた。妓はしかしいぎたなく眠るのだった。おいと声を掛けて起す元気もない。ふと金造の顔が浮び、おびえた。帰ることになり、階段を降りて来ると、大きな鏡に、妓と並んだ姿がうつった。ひねしなびて四尺七寸の小さな体が、一層縮る想いがした。送り出されてもう外は夜であった。廓の中が真昼のように明るく、柳が風に揺れていた。大門通を、ひょこひょこ歩いた。五十銭で書生下駄を買った。鼻緒がきつくて足が痛んだが、それでもカラカラと音は良かった。一遍被ってみたいと思っていた鳥打帽子を買った。一円六十銭。おでこが隠れて、新しい布の匂がプンプンした。胸すかしを飲んだ。三杯まで飲んだが、あと、咽喉へ通らなかった。一円十銭。うどんやへはいり、狐うどんとあんかけうどんをとった。どちらも半分たべ残した。九十二銭。新世界を歩いていたが、絵看板を見たいとも、はいってみたいとも思わなかった。薬屋で猫イラズを買い、天王寺公園にはいり、ガス灯の下のベンチに腰かけていた。十銭白銅四枚と一銭銅貨二枚握った手が、びっしょり汗をかいていた。順平に一眼会いたいと思った。が、三十円使いこんだ顔が何で会わさりょうかと思った。岸和田の駅で置き捨てた車はどうなっているか。提灯に火をいれねばなるまい。金造は怖くないと思った。ガス燈の光が冴えて夜が更けた。動物園の虎の吼声が聞えた。叢の中にはいり、猫イラズをのんだ。空が眼の前に覆いかぶさって来て、口から白い煙を吹き出し、そして永い間のた打ち廻っていた。
夜が明けて、文吉は天王寺市民病院へ担ぎ込まれた。雑魚場から帰ったままの恰好で順平がかけつけた時は、むろん遅かった。かすかに煙を吹き出していたようだったと看護婦からきいて、順平は声をあげて泣いた。遺書めいたものもなかったが、腹巻の中にいつぞや出した古手紙が皺くちゃになってはいっていたため、順平に知らせがあり、せめて死に顔でもみることが出来たとは、やはり兄弟のえにしだといわれて、順平は、どんな事情か判らぬが、よくよく思いつめる前に一度訪ねてくれるなり、手紙くれるなりしてくれれば、何とか救う道もあったものをと何度も何度も繰り返して愚痴った。病院の食堂で玉子丼を顔を突っこむようにして食べていると涙が落ちて、なにがなし金造への怒りが胸をしめつけて来た。
ところが、村での葬式を済ませた時、ふと気が付いてみると、やはり金造には恨みがましい言葉は一言もいわなかった様だった。くどく持ち出された三十円の金を、弁償いたしますと大人しく出て、すごすごと大阪へ戻って来ると、丁度その日は婚礼料理の註文があって目出度い目出度いと立ち騒いでいる家へ料理を運び、
しかし、本能的に女に拒まれるという怖れから、肩をさわるのも躊躇され、まごまごしている内に、妓は眠って了った。いびきを聴いていると、美津子の傍でむなしく情けない想いをした日々のことが連想された。
朝、丸亀へ帰る途々、叔父叔母に叱られるという気持で心が暗かったが、ふと丸亀から逐電しようと、心を決めると、ほっとした。家へ帰り、どないしたんや、家あけてという声をきき流して、あちこちで貰う祝儀をひそかに貯めて二百円ほどになっていた金を取出し、着物を着変えた。飛び出すんやぞ、二度と帰らんのやぞという顔で叔父叔母や美津子をにらみつけたが、察してくれなかったようだ。それと気付いて引止めてくれるなり、優しい言葉をかけてくれるなりしてくれたら思い止まりたかったが、肚の中を読んでくれないから随分張合いがなく、暫くぐずついていたが、結局、着物を着変えたからには飛び出すより仕方ない、そんな気持でしょんぼり家を出た。
あとで、叔母は、悪い奴にそそのかされて家出しよりましてんと云いふらした。家出という言葉が好きであった。叔父は身代譲ったろうと
順平は千日前金刀比羅裏の安宿に泊った。どういう気持で丸亀を飛び出したのかと自分でも納得出来ず、所詮は狂言めいたものかも知れなかった。紺絣の着物を買い、良家のぼんぼんみたいにぶらぶら何の当てもなく遊びまわった。昼は千日前や道頓堀の活動小屋へ行った。夜は宿の近くの喫茶バー「リリアン」で遊んだ。「リリアン」で五円、十円とみるみる金の消えて行くことに身を切られるような想いをしながら、それでも、高峰さん高峰さんと姓をよばれるのが嬉しくて、女給たちのたかるままになっていた。
ある夜、わざと澄まし雑煮を註文し、一口のんでみて、こんな下手な味つけで食べられるかいや、吸物というもんはナ、出し昆布の揚げ加減で味いうものが決まるんやぜと浅はかな智慧を振りまいていると、髪の毛の長い男がいきなり傍へ寄って来て、あんさんとは今日こんお初にござんす、野郎若輩ながら軒下三寸を借り受けましての仁儀失礼さんにござんすと場違いの仁儀でわざとらしいはったりを掛けて来た。順平が真蒼になってふるえていると女給が、いきなり、高峰さん煙草買いましょう。そう云って順平の雑魚場行きのでかい財布をとり出して、あけた。男は覗いてみて、にわかに打って変って、えらい大きな財布でんナと顔中皺だらけに笑い出し、まるで酔っぱらったようにぐにゃぐにゃした。男はオイチョカブの北田といい、千日前界隈で顔の売れたでん公であった。
その夜オイチョカブの北田にそそのかされて、新世界のある家の二階で四五人のでん公と博打をした。インケツ、ニゾ、サンタ、シスン、ゴケ、ロッポー、ナキネ、オイチョ、カブ、ニゲなどと読み方も教わり、気の無い張り方をすると、「
オイチョカブの北田は金が無くなると本職にかえった。夜更けの盛り場を選んで彼の売る絵は、こっそりひらいてみると下手な西洋の美人写真だったり、義士の討入りだったりする。絶対にインチキと違うよ、一見胸がときめいてなどと中腰になって、何かをわざと怖れるようなそわそわした態度で早口に喋り立て、仁が寄って来ると、先ず金を出すのがサクラの順平だ。絵心のある北田は画をひきうつして売ることもある。そんな時はその筋の眼は一層きびしい。サクラの順平もしばしば危い橋を渡る想いにひやっとしたが、それだけにまるで凶器の世界にはいった様な気持で歩き振りも違って来た。
気の変りやすい北田は
ある日、北田は博打の元手もなし売屋も飽いたとて、高峰、どこぞ無心の当てはないやろか。といったその言葉の裏は、丸亀へ無心に行けだとは順平にも判ったが、そればっかりはと拝んでいる内に、ふと
間もなく、美津子が近々に聟を迎えるという噂を聴いた。翌日、それとなく近所へ容子を探りに行くと本当らしかった。その足で阪大病院へ行った。泣きたんで行けという北田の忠告をまつまでもなく、意見されると、存分に涙が出た。五円貰った。その内一円八十銭で銘酒一本買って、お祝、高峰順平と書いて丸亀へ届けさせ、残りの金を張ると、阿呆に目が出ると愛相をつかされる程目が出た。
北田と山分けし、北田に見送られて梅田の駅から東京行の汽車に乗った。美津子が聟をとるときいては大阪の土地がまるで怖いもののように思われたのと、一つには、出世しなければならぬという想にせき立てられたのだ。東京には木下がいる筈で、丸亀にいた頃、一度遊びに来いとハガキを貰ったことがあった。
東京駅に着き、半日掛って漸く荒川放水路近くの木下の住いを探し当てた。弁護士になっているだろうと思ったのに、そこは見るからに貧民窟で、木下は夜になると玉ノ井へ出掛けて焼鳥の屋台店を出しているのだった。木下もやがて四十で、弁護士になることは内心諦めているらしく、彼の売る一本二銭の焼鳥は、ねぎ八分で、もつが二分、酒、ポートワイン、泡盛、ウイスキーなどどこの屋台よりも薄かった。木下は毎夜緻密に儲の勘定をし、儲の四割で暮しを賄い、他の四割は絶対に手をつけぬ積立貯金にし、残りの二割を箱にいれ、たまるとそれで女を買うのだった。
木下が女と遊んでいる間、順平は一人で屋台を切り廻さねばならなかった。どぶと消毒薬の臭気が異様に漂うていて、夜が更けると大阪ではきき馴れぬあんまの笛が物悲しく、月の冴えた晩人通りがまばらになると殺気が漲っているようだった。大阪のでん公と比べものにならぬほど歯切れの良い土地者が暖簾をくぐると、どぎまぎした。兄ちゃんは上方だねといわれると、え、そうでんねと揉手をし、串の勘定も間違い勝ちだった。それでも、臓物の買い出しから、牛丼の飯の炊出し、鉢洗い、その他気のつく限りのことを、遊んでいろという木下の言葉も耳にはいらぬ振りして小まめに働いていたが、ふと気がついみると、木下は自分の居候していることを嫌がっているようであった。遠廻しに、君はこんなことをしなくても良い立派な腕をもっているじゃないかと木下はいい、どこか良い働き口を探して出て行ってくれという木下の肚の中は順平にも読みとれた。木下は順平が来てからの米の減り方に身を切られるような気持がしていたのだ。が、たとえどんな辛いことも辛抱するが、あの魚の腸の匂がしみこんだ料理場の空気というものは、何としてもいやだった。丸亀の料理場を想出すからであろうか。そんな心の底に、美津子のことがあった。
しかし、結局は居辛くて、浅草の寿司屋へ住込みで雇われた。やらせて見ると一人前の腕をもっているが、二十三とは本当に出来ないほど頼りない男だと見られて、それだけに使い易いからと追い廻しという資格であった。あがりだよ。へえ。さびを擦りな。へえ。皿を洗いな。宜ろしおま。目の廻るほど追い廻された。わさびを擦っていると、涙が出て来て、いつの間にかそれが本当の涙になりシクシク泣いた。出世する気で東京へ来たというものの、末の見込みが立とう筈もなかった。
ある夜、下腹部に急激な痛みが来て、我慢しきれなく、休ませて貰い、天井の低い二階の雇人部屋で寝ころんでいる内に、体が飛び上るほどの痛さになり、痛アい! 痛アい! と呶鳴った。
声で吃驚して上って来た女中が土色になった顔を見ると、あわてて医者を呼びに行った。脱腸の悪化で、手術ということになった。十日余り寝た切りで静養して、やっと起き上れるようになった時、はじめて主人が、身寄りの者はないのかと訊ねた。大阪にありますと答えると、大阪までの汽車賃にしろと十円呉れた。押しいただき、出世したらきっと御恩がえしは致しますと、例によって涙を流し、きっとした顔に覚悟の色も見せて、そして、大阪行きの汽車に乗った。
夕方、梅田の駅につきその足で「リリアン」へ行った。女給の顔触れも変っていて、小鈴は居なかった。一人だけ顔馴染みの女が小鈴は別府へ駈落ちしたといった。相手は表具屋の息子で、それ、あんたも知ってるやろ、昆布茶一杯でねばって、その代りチップは三円も呉れてた人や。気がつけば、自分も今は昆布茶一杯注文しているだけだ。一本だけと酒をとり、果物もおごってやって、オイチョカブの北田のことを訊くと、こともあろうに北田は小鈴の後を追うて別府へ行ったらしい。勘定を払って外へ出ると、もう二十銭しかなかった。夜の町をうろうろ歩きまわり、戎橋の梅ヶ枝できつねうどんをたべ、バットを買うと、一銭余った。夜が更けると、もう冬近い風が身に沁みて、鼻が痛んだ。暖いところを求めて難波の駅から地下鉄の方へ降りて行き、南海高島屋地階の鉄扉の前にうずくまっていたが、やがてごろりと横になり、いつのまにか寝込んでしまった。
朝、生国魂神社の鳥居のかげで暫く突っ立っていたが、やがて足は田蓑橋の阪大病院へ向った。当てもなく生国魂まで行ったために空腹は一層はげしく、一里の道は遠かった。途々、なぜ丸亀へ無心に行かなかったのかと思案したが、理由は納得出来なかった。病院へ訪ねて行くと、浜子はこんどは眼に泪さえ泛べて、声も震えた。薄給から金をしぼりとられて行くことへの悲しさと怒りからであったが、しかし、そうと許り云い切れないほど、順平は見窄らしい恰好をしていた。云うも甲斐ない意見だったが、やはり、私に頼らんとやって行く甲斐性を出してくれへんのかとくどくど意見し、七円めぐんでくれた。懐からバットの箱を出し、その中に金をいれて、しまいこみながら、涙を出し、また、にこにこと笑った。浜子と別れると、あまい気持があとに残り、もっともっと意見してほしい気持だった。玉江橋の近くの飯屋へはいって、牛丼を注文した。さすが大阪の牛丼は真物の牛肉を使っていると思った。木下の屋台店で売っていた牛丼は、繊維が多く、色もどす赤い馬肉だった。食べながら、別府へ行けば千に一つ小鈴かオイチョカブの北田に会えるかも知れぬと思った。
天保山の大阪商船待合所で別府までの切符を買うと、八十銭残ったので、二十銭で餡パンを買って船に乗った。船の中で十五銭毛布代をとられて情ない気がしたが、食事が出た時は嬉しかった。餡パンで別府まで腹をもたす積りだった。小豆島沖合の霧で船足が遅れて、別府湾にはいったのはもう夜だった。山の麓の灯が次第に迫って来て、突堤でモリナガキャラメルのネオンサインが点滅した。
船が横づけになり、桟橋にぱっと灯がつくと、あっ! 順平の眼に思わず涙がにじんだ。旅館の法被を羽織り提灯をもったオイチョカブの北田が、例の凄みを帯びた眼でじっとこちらをにらんでいたのだ。兄貴! 兄貴! とわめきながら船を降りた。北田は暫くあっ気にとられて物も云えなかったが、順平が、兄貴わいが別府へ来るのんよう知ったナというと、阿呆んだらめ、わいはお前らを出迎えに来たんやないぞ、客を引きに来たんやと四辺を憚かる小声で、それでもさすがに鋭くいった。
聴けば、北田は今は温泉旅館の客引きをしており、小鈴も同じ旅館の女中、いわば二人は共稼ぎの本当の夫婦になっているのだという。だんだん聴くと、北田はかねてから小鈴と深い仲で、その内に小鈴は孕んで、無論相手は北田であったが、北田は一旦はいい逃れる積りで、どこの馬の骨の種か分るもんかと突っ放したところ、こともあろうに小鈴はリリアンへ通っていた表具屋の息子と駈落ちしたので、さてはやっぱり男がいたのかと胸は煮えくり返り、行先は別府らしいと耳にはさんだその足で来てみると、いた。温泉宿でしんみりやっているところを押えて、因縁つけて別れさせたことは別れさせたが、小鈴はその時||どない云いやがったと思う? と、北田はいきなり順平にきいたが、答えるすべもなくぽかんとしていると、北田はすぐ話を続けて||わては子供が可哀相やから駈落ちしたんや。どこの馬の骨か分らんようなでん公の種を宿して、認知もしてもらえんで、子供に肩身の狭い想いをさせるより、表具屋の息子が一寸間アが抜けてるのを倖い、しつこく持ちかけて逐電し、表具屋の子やと否応はいわせず、晴れて夫婦になれば、お腹の子もなんぼう幸せや分らへん。そんな肚で逐電したのを因縁つけて、オイチョの北さん、あんたどない色つけてくれる気や。そんな不貞くされに負ける自分ではなかったが、父性愛というんやろか、それとも今更惚れ直したんやろか、気が折れて、仕込んで来た売屋の元も切れ、宿賃も嵩んで来たままに小鈴はそこで女中に雇われ、自分は馴々しく人に物いえる腕を頼りにそこの客引きになることに話合いしたその日から法被着て桟橋に立つと、船から降りて来た若い
その夜は北田が身銭を切って、自分の宿へ泊めてくれることになった。食事の時小鈴が給仕してくれたが、かつて北田に小鈴に肩入れしているとて世話してやろかと冷やかされたことも忘れてしまい、オイチョさんと夫婦にならはったそうでお目出度うとお世辞をいった。
あくる日、北田は流川通の都亭という小料理屋へ世話してくれた。都亭の主人から、大阪の会席料理屋で修行し、浅草の寿司屋にも暫くいたそうだが、うちは御覧の通り腰掛け店で会席など改った料理はやらず、今のところ季節柄河豚料理一点張りだが、
一月ほど経ったある日、朝っぱらから四人づれの客が来て、河豚刺身とちり鍋を注文した。二人いる板場のうち、一人は四、五日前暇をとり、一人は前の晩カンバンになってからどこかへ遊びに行ってまだ帰って来ず、追い廻しの順平がひとり料理場を掃除しているところだった。主人に相談すると、お前出来るだろうといわれ、へえ出来まっせとこんどは自信のある声でいった。一月の間に板場のやり口をちゃんと見覚えていたから、訳もなかった。腕をみとめて貰える機会だと、庖丁さばきも鮮かで、酢も吟味した。
夜、警察の者が来て、都亭の主人を拘引して行き、間もなく順平にも呼び出しが来た。ぶるぶる震えて行くと、案の定朝の客が河豚料理に中毒して、四人の内三人までは命だけくい止めたが、一人は死んだという。主人は、ひと先ず帰され、順平は留置された。だらんと着物をひろげて、首を突き出し、じじむさい恰好で板の上に坐っている日が何日も続くともう泣く元気もなかった。寒かろうと、北田が毛布を差入れしてくれた。
二日たった昼頃、紋附を着た立派な服装の人が打っ倒れるように留置場へはいって来た。口髭を生やし、黙々として考えに耽っている姿が如何にも威厳のある感じだったから、こんな偉い人でも留置されるのかと些か心が慰まった。ふと、この人は選挙違反だろうと思った。鄭重に挨拶をして毛布を差出し、使って下さいというと、じろりと横目でにらみ、黙って受けとった。あとで調べの為に呼び出された時、係の刑事に訊くと、あれは山菓子盗りだといった。葬式があれば故人の知人を装うて葬儀場や告別式場に行き、良い加減な名刺一枚で、会葬御礼のパンや商品切手を貰う常習犯で、被害は数千円に達しているということだった。なんや阿呆らしいと思ったが、しかし毛布を取り戻す勇気は出なかった。中毒で人一人殺したのだから、最悪の場合は死刑だとふと思いこむと、順平はもう一心不乱に南無阿弥陀仏、と呟いていた。そんな順平を山菓子盗りは哀れにも笑止千万にも思い、河豚料理で人を殺した位で死刑になってたまるものか、悪く行って過失致死罪······という前例も余り聴かぬから、結局はお前の主人が営業停止をくらう位が関の山だろうと慰めてくれ、今はこの人が何よりの頼りだった。
都亭の主人はしかし営業停止にならなかった。そんな前例を作れば、ことは都亭一軒のみならず、温泉場の料理屋全体が汚名を蒙ることになり、ひいてはここで河豚を食うなと喧伝され、市の繁栄に影響するところが多いと都亭の主人は唱えて、料理店組合を動かした。そして、問題は都亭の主人の責任といえば無論いえるが、しかし真のそして直接の原因はルンペン崩れの追い廻しの順平にあることは余りにも明白だ。そんな怪しい渡り者に河豚を料理させたというのも、河豚料理が出来るという嘘を真に受けただけであって、真に受けたのは不注意というよりも寧ろ詐欺にかかったというべきだと彼は必死になって策動した。オイチョカブの北田は何をっと一時は腹の虫があばれたが、しかし彼も今は土地での気受けもよく、それに小鈴のお産も遠いことではなかった。泣きたんの手で順平の無罪を頼み歩いたが、尻はまくらなかった。
間もなく順平は送局され、一年三ヵ月の判決を下された。過失致死罪であった。一年三ヵ月と聴いて、順平は涙を流して喜んだ。
徳島刑務所へ送られた。ここでは河豚料理をさせる訳ではないからと、賄場で働かされた。板場の腕がこんな所で役に立ったかと妙な気がした。賄の仕事は楽であったが、煮ているものを絶対に口にいれてはいけぬといわれたことを守るのは辛かった。ある日、我慢が出来ずに、到頭禁を犯したところを見つけられ、懲罰のため、仙台の刑務所に転送されることになった。
護送の途中、汽車で大阪駅を通った。編笠の中から車窓を覗くと、いつの間に建ったのか、駅前に大きな劇場が二つも並んでいた。護送の巡査が駅で餡パンを買ってくれた。何ヵ月振りの餡気のものかとちぎる手が震えた。
懲罰のためというだけあって、仙台刑務所での作業は辛かった。土を運んだり木を組んだり、仕事の目的は分らなかったが、毎日同じような労働が続いた。顔色も変った。馴れぬことだから、始終泡をくっていた。朝仕事に出る時は浜子のことが頭に泛んだ。夕方仕事を終えて帰る時は美津子、食事の時は小鈴の笑い顔を想った。夜寝ると彼女達の夢をみた。セーラー服の美津子を背中に負うているかと思うと、いつの間にかそれは浜子に変って居り、看護服の浜子を感じたかと思うと、こんどは小鈴の肩の柔さだった。
一年たち、紀元節の大赦で二日早く刑を終えると読み上げられた時、泣いて喜んだ。刑務所を出る時、大阪で働くというと大阪までの汽車賃と弁当代、ほかに労働の報酬だと二十一円戴いた。仙台の町で十四円出して、人絹の大島の古着、帯、シャツ、足袋、下駄など身のまわりのものを買った。知らぬ間に物価の上っているのに驚いた。物を買う時、紙袋の中から金を取り出して、みてはいれ、また取り出し、手渡す時、一枚一枚たしかめて、何か考えこみ、やがて納得して渡し、釣銭を貰う時も、袋にいれては取り出してみて調べ、考えこみ、漸く納得していれるという癖がついた。また道を歩きながら、ふと方角が分らなくなり、今来た道と行く道との区別がつかず、暫く町角に突っ立っているのだった。
仙台の駅から汽車に乗った。汽車弁はうまかった。東京駅で乗換える時、途中下車して町の容子など見てみたいと思ったが、何かせきたてられる想いで直ぐ大阪行きの汽車に乗り、着くと夜だった。電力節約のためとは知らず、ネオンや外燈の消されている夜の大阪の暗さは勝手の違う感じがした。何はともあれ千日前へ行き、木村屋の五銭喫茶でコーヒとジャムトーストをたべると十一銭とられた。コーヒが一銭高くなったとは気付かず、勘定場で釣銭を貰う時、何度も思案して大変手間どった。大阪劇場の地下室で無料の乙女ジャズバンドをきき、それから生国魂神社前へ行った。夜が更けるまで佇んでいた辛抱のおかげで、やっと美津子の姿を見つけることが出来た。美津子は風呂へ行くらしく、風呂敷に包んだものは金盥だと夜目にも分ったが、遠ざかって行く美津子を追う目が急に涙をにじませると、もう何も見えなかった。泣いているこのわいを一ぺん見てくれと心に叫んだ甲斐あってか、美津子はふと振り向いたが、かねがね彼女は近眼だった。
その夜、千日前金刀比羅裏の第一三笠館で一泊二十銭の割部屋に寝て、朝眼が覚めると、あっと飛び起きたが、刑務所でないと分り、まだあといくらでも眠れると思えばぞくぞくするほど嬉しく、別府通いの汽船の窓でちらり見かわす顔と顔······と別府音頭を口ずさんだ。二十銭宿の定りで、朝九時になると蒲団をあげて泊り客を追い出す。九時に宿を出て十一銭の朝飯をたべ、電車で田蓑橋まで行った。橋を渡るのももどかしく、阪大病院へかけつけると、浜子はいなかった。結婚したときかされ、外来患者用のベンチに腰を下ろしたまま暫くは動けなかった。今日は無心ではない、ただ顔を一目見たかっただけやと呟き呟きして玉江橋まで歩いて行った。橋の上から川の流れを見ていると、何の生き甲斐もない情けない気持がした、ふと懐ろの金を想い出し、そうや、まだ使える金があるんやったと、紙袋を取り出し、永いこと掛って勘定してみると、六円五十二銭あった。何に使おうかと思案した。良い思案も泛ばぬので、もう一度勘定してみることにし、紙袋を懐ろから取り出した途端、あっ! 川へ落して了った。眼先が真っ暗になったような気持の中で、ただ一筋、交番へ届けるという希望があった。歩き出して、紙袋をすべり落した右の手をながめた。醜い体の中でその手だけが血色もよく肉も盛り上って、板場の修業に冴えた美しさだった。そや、この手がある内は、わいは食べて行けるんやったと気がついて、蒼い顔がかすかに紅みを帯びた。交番に行く道に迷うて、立止まった途端、ふと方角を失い、頭の中がじーんと熱っぽく鳴った。
順平はかつて父親の康太郎がしていたように、首をかしげて、いつまでもそこに突っ立っていた。