一
これよりさき、竜王の鼻から宇津木兵馬に助けられたお君は、兵馬恋しさの思いで物につかれたように、病み上りの身さえ忘れて、兵馬の後を追うて行きました。
よし、その言い置いた通り
ムク犬は
丸山の難所にかかった時分に日が暮れると共に、張りつめたお君の気がドッと折れました。
「ムクや、もう疲れてしまって歩けない」
杉の木の下へ倒れると、ムクもその傍に足を折って身を横たえました。
ムク犬が烈しく
ムクの吠える声は、
まだ若い丈夫そうな馬商人は、小馬を三頭ひっぱって、奈良田の方からここへ来かかりましたが、この暁方、この
「おやおや、この娘さんが危ない、こりゃ病気上りで無理な旅をしたものだ」
この若い馬商人は心得てお君の身体を
「おい姉さん、しっかりしなさいよ、眠るといかんよ、眠らんで眼を大きくあいておらなくてはいかんよ、わしはこれから有野村の
ほどなくお君はこの
馬大尽の家の前まで来て見るとお君は、その家屋敷の宏大なのに驚かないわけにはゆきません。
甲州一番の百姓は
甲州の上古は馬の名産地であります。聖徳太子の愛馬が出たというところから
それのみか、門を入ってからまるで森の中へ入って行くように、何千年何百年というような立木であります。
「
と馬商人がお君に言って聞かせただけのものはあります。
屋敷の中を流れる小流に
「
と呼びました。若い馬商人は、
「はい」
と言って女の人を見てあわてたようでありました。
馬上のお君もまた、その声を聞いてその人を一眼見るとゾッとしてしまいました。妙齢の
馬に乗っていたお君は、それを
「幸内、お前、いま山から帰ったの」
その呪われた妙齢の人は、
「これはお嬢様、お早うございまする」
幸内と呼ばれた若い馬商人は小腰を
「幸内、それはどこのお方」
と言って、呪われた女の人は、そのひきつれた眼を銀の針のように光らせて馬上のお君を見ました。
その時に、お君は身の毛が立って馬の上にも
無論、この時までもムク犬は黙々として馬と人とに従って
「これは、丸山の下で、難儀をしておいでなさるところを助けて上げたのでございます。まだ身体が弱っておいでなさるようでございますから、女中部屋まで連れて行って休ませて上げたいと思います」
「そう、早くそうしておやり、お薬が
「はい、有難うございます」
お君は馬上で聞いて、このお嬢様と呼ばれる人が、
「それから幸内や、その馬を
「はい」
「
お嬢様はこう言って、椿の花の枝を持ったままであちらへ行ってしまいました。嘘を言ってはなりませんよ、の
二
お君は若い馬商人の幸内に引合わされて、女中の取締りをしているお婆さんに会いました。このお婆さんは幸内から委細の物語を聞いた上で、
「まずい物を食べてみんなの女中と同じように働いてもらいさえすれば、いつまでいても悪いとは申しません」
さしあたり、こう言われたことはお君にとって仕合せでありました。女中はみんなで十五人ほどいました。その女中のうちにもおのずから甲乙があって、本人の柄によって奥向のと下働きのと二つに分れています。
「わたしは、骨の折れるような
とお君は、かえって下働きを志願しました。
お君が好んで下働きを志願したのはムクがいるからであります。もし奥向を働くようになって、ムクと離れる機会が多くなると、ムクの世話を人手にかけるのが気にかかる。少しは骨が折れても、朝夕ムクと同じところにいることがどのくらい力になるか知れません。お君の仕事といっては、普通の台所の仕事のほかには、馬にやる豆を煮たり鶏の餌をこしらえてやったりする手伝いで、大して骨の折れるようなことはありません。初めのうちは自分が
従来この家にいた幾多の犬も、ムクの姿を見た最初は
広々とした牧場、その中に
「こんな威勢のいいところを友さんに見せてやれば、どのくらい喜ぶか知れない、友さんもあんなところに
とお君はムクの勇ましさから、米友の身の上を考えました。
それを考え出すと、いったいここの旦那様という方が、どんなお方であろうかということをも考え及ぼさないわけにはゆきません。
「お藤さん、御当家の旦那様はどちらにいらっしゃるのでございます」
「旦那様御夫婦のおいでなさるところは向うの屋根の大きなお家さ、その向うに
「お嬢様の······」
お君にはここで前の日に小橋のほとりで会った、かの呪われた妙齢の女の姿がいちずに迫って来ました。
「お君さん、お前はお嬢様に会いましたか、まだですか」
「いいえ······」
とお君は首を横に振ってしまいました。
「そうですか」
と言ったきりで、お藤は気の抜けたような
「まだ、私は旦那様にもお目にかかりません」
「旦那様は、滅多に外へおいでになりませんけれど、どうかするとこの
「お年はお幾つぐらいでございます」
「もう、いいお年でしょうよ、あの三郎様や、お嬢様の親御さんですから」
「三郎様とおっしゃるのは?」
「こちらの総領のお方、この馬大尽のおあとを取る方なのよ」
「それから奥様は?」
「奥様には、わたしまだお目にかかったことがありません」
と女中のお藤が言いました。
その家の女中でいて奥様を知らないということは、お君の耳には奇異に聞えました。
「わたしが奥様のお
「それはどういうわけなのでございます、奥様は御別宅の方にでもいらっしゃるのですか」
「どういうわけだか、ほんとに、そう申してはなんですけれど変なお屋敷でございますよ。奥様はこちらにおいでなさるとも言い、また御別宅の方においでなさるともいうのですが、その辺が永年御奉公をしていて、わたしたちにはさっぱりわかりませんの。けれども今の奥様が二度目の奥様で、旦那様よりズットお若い方だなんて、女中たちの中では噂をしているものもあります。なんでも二度目か三度目の奥様に違いないので、あの三郎様やお嬢様の
「お嬢様が······」
どうしても話は、例のお嬢様のところへ落ちて行かねばならなくなりました。
お君が知らないと思って、この女中は、お嬢様のことについてはかなりくわしくお君に話して聞かせました。お嬢様の名はお銀様ということ。それはそれは怖ろしいお
してみれば、天然の病気と人間の手とふたりがかりで、あのお嬢様という人の面を
「これほどのお大尽でも、あればかりはどうすることもできませんね。それだからお君さんのような
とお藤はお君に向ってこう言いました。野菜類を洗ってしまってから、お君はムクに食物をやろうとしました。
ところが、いつもその時刻には来ているムクが見えませんから、お君は牧場へ出て、遠く眼の届く限りを見渡しました。しかしそこにもムクの姿が見られません。思うに群犬を率いて興に乗じて、あの山の後ろの方まで遠征して行ったものだろうと、お君は
この機会に少し牧場の状態でも見ておこうかと、お君はムクを尋ねながらに牧場の方へと歩んで行きました。
今、お君の頭の中では、ムクのことよりも一層、あのお嬢様のことが考えられてたまりませんでした。お君は自分ほど不幸なものはこの世にないと思っていた一人でした。ほとんど幸福というものを持たずに生れて、不幸という浪の中にのみ
病気をしたことのない者には、
そこにまた庭があって、池や泉水や
「幸内、幸内」
と座敷で呼ぶのは、あのお嬢様の声。呼ばれて、縁に腰をかけているのは、自分を助けて来てくれた若い馬商人。お嬢様の方の姿は座敷の中にいて見えませんけれど、幸内の姿は垣根越しによく見ることができました。
「幸内や、お前に貸して上げるには上げるけれど、お父様に話してはいけません」
「どう致しまして、旦那様のお耳に入りますれば、お嬢様よりは、わたしがどんなに叱られるか知れません」
「では大事に持っておいで。そうして三日たったらきっと返してくれるだろうね」
「それはもう間違いはございません」
「刀や脇差は幾本も幾本もあるのだけれど、この
「それは、もうよく存じておりまする、三日たてば間違いなくお返し申しまする」
幸内の前へお銀様は、手ずから長い桐の箱をさしおきました。
「これはどうも有難う存じます、お嬢様のおかげで日頃の望みが叶いまして、こんな嬉しいことはござりませぬ」
幸内は箱の上へお辞儀をしました。
「幸内」
「はい」
「お前がこの間つれて来た、あの
「へい、あれはおばさんに願ってお屋敷へ御奉公を致すようになりました」
「あれはお前、お前が前から知っていた子ではないの」
「いいえ、そんなことはございませぬ」
「では、あの山で初めて会ったのかい」
「左様でござります」
「その後、お前はあの娘と口を利きましたか」
「いいえ、あれからまだ会いませんでございます」
「あの娘は
「どうでございましたか」
「あんなことを言っている、あの娘は
「
「姿はやつれていたけれど、ほんとに
「
「いいえ、かまわないでおいてあのくらいだから、お作りをしたら、どのくらいよくなるか知れない、わたしは着物を持っている、髪の飾りも持っている、貸してやりたい」
「お嬢様のそのお言葉をお聞かせ申したら、さだめて有難く思うことでございましょう、あの娘はほんの着のみ着のままで道に倒れていたのでございますから」
「わたしの物をそっくり
「お嬢様、何をおっしゃいます」
「ほほほ、わたしとしたことが、また我儘なことを言ってしまいました。幸内や、それでよいからお前は早くそれを持っておいで、誰かに見られると悪いから。見られてもかまわないけれど······」
「それではお嬢様、お借り申して参りまする、三日目には必ず持って参りますでございます」
幸内は頭を下げて、その長い桐の箱を風呂敷に包んで
「お前、帰りがけに、あの娘のところへ行って、あの娘に、わたしのところへ遊びに来るように、と言っておくれ」
「はい、
そう言って幸内は、長い桐の箱を小脇にして縁側を離れました。その桐の箱の中にはこのお嬢様の父なる人の、秘蔵の刀が入っているということが話の模様で推察されます。
お君が女中部屋へ帰って針仕事をしている時分に、ポツリポツリと雨が降り出してきました。
「こんにちは」
内にいたお君は、それが幸内の声であることを直ぐに
「どなた」
それと知りつつもお君は障子をあけると、
「私」
「これは幸内さん、よくおいでなさいました」
見ると幸内は、こざっぱりした
「さあ、どうぞお入りなさいまし」
お君は愛想よく迎えました。
「わしはこれから、ちと
「お嬢様から?」
「あい」
「畏まりました、有難うございます」
お君は幸内のお使御苦労にお礼を言いましたが、幸内はそれだけの言伝をしておいてここを出かけて行きました。
お君は暫らく幸内の行くあとを見送っていますと、
「お君さん」
朋輩女中のお藤が後ろから呼びかけました。
「お藤さん」
お君はそれを振返ると、お藤は、
「まあよかったことね、お君さん、お嬢様から
「でも、わたし何かお叱りを受けるのじゃないか知ら」
「そんなことがありますものか、お嬢様はよくよくのお気に入りでないと、こっちから何か申し上げてもお返事もなさらないの、それをお嬢様の方からお
「そうだとよいけれど、わたしは何かお叱りを受けるんじゃないかと思って」
「そんなことはありませんよ、わたしたちはこうして永いこと御奉公をしているけれど、まだお嬢様から、遊びにおいでとお迎えを受けた者は一人もありませんよ、それだのにお前さんばかり、そんなお沙汰があったのだから、ほんとうに
「あの、お嬢様はお気むずかしい方ではありませんか」
「いいえ、あれでなかなか察しがあって、よく行届くお方ですけれど、好きと嫌いが大変お強くていらっしゃる、このお屋敷でも、幸内さんのほかにはお嬢様のお気に入りといってはないのですよ」
「幸内さんは、そんなにお嬢様のお気に入りなんですか」
「ええ、幸内さんの言うことなら、お嬢様は大抵のことはお聞きなさいます、だから人が幸内さんとお嬢様とおかしいなんぞと蔭口を利きますけれど、まさかそんなことはありゃしませんよ」
まだあけていた障子の間から外を見ると、笠をかぶって包みをかかえた幸内が、ちょうど、いつぞや入って来た時に、お嬢様と会った小橋の上を渡って行く後ろ影が見えました。
三
お君はお銀様の居間へ上りました。
「お前のお国はどこ」
「伊勢の国でございます」
「伊勢の国はどこ」
「古市でございます」
「古市と言やるは、あの大神宮のおありなさるところ?」
「左様でございます、大神宮様のお
「そこで何をしていました」
「あの······」
お君がちょっと返事に困ったところへ、不意に庭先へ真黒な動物が現われました。それはムクでありました。
「ムクや、こんなところへ来てはいけません、ここはお前の来るところではありません」
と言ってお君は、お銀様の手前、ムクの
「これはお前の犬なの」
「はい、わたくしの犬なのでございます」
「まあ大きい犬」
「わたしのあとを少しも離れないので力になることもありますが、困ってしまうこともあるのでございます。さあ、早くあっちへ行っておいで」
「そんなに言わなくてもよい、主人のあとを追うのはあたりまえだからそうしてお置き」
「それでも、こんなところへ、失礼でございます」
「そうしてお置き」
ムクは許されたともないのに庭先へ坐ってしまいました。
「
お君もぜひなく、そのうえ追い立てることをしませんでした。
「このお菓子を食べさせておやり」
「こんな結構なお菓子を、
お君はそれを辞退しました。お銀様は別段に
「今日は雨が降って淋しいから、お前、その伊勢の国の話をしてごらん、わたしはどこへも出ることがいやだから、
「お嬢様なぞは、お出ましになってごらんあそばさずとも、御本や何かで御承知でございましょうから」
「名所図絵やなにかで、わたしも御参宮のことを知らないではないけれど」
「大神宮様あっての伊勢でございますから、あの通りはたいそう賑やかでございます、その賑やかなところで、わたしは暮らしておりました」
「そこで何を商売に?」
「それはあの······」
かわいそうにお君は、また行詰ってしまいました。
その時、
「姉様」
と言って庭の方からこの場を
「三郎さん、ここに来てはいけません」
とお銀様は叱るように言いました。
「それでも······」
「お帰りなさい、それにまあ、雨の中を傘もささないで」
お銀様は
「姉様」
と言って入って来たから、お君は呆れながらも黙って見ておられませんから、
「
と立って抱いてお上げ申そうとするのを、お銀様が抑えて、
「いいえ、そうしてお置きなさい。三郎さん、お前はここへ来てはいけないというのに、ナゼ帰りません」
「だって······」
三郎さんは、やはり雨の中に立ってお銀様の
「ここへ来るとお母様に叱られますよ」
「でも······」
三郎さんは大きな眼をキョロリとして、お銀様の方を見ていて立って動こうともしません。雨が降りかかって頭から面に
「早くお帰りというに」
お銀様の
「姉様、お菓子頂戴」
それでも三郎さんは帰ろうとしないでこう言いました。そのくせ、姉の傍へは寄って来ないで遠くから、いじけるように姉の気色を伺って、やはり雨の中に立っているのでありました。キョロリとした大きい眼の
「いけません」
お銀様はキッパリと断わってしまいました。
見るに見兼ねたから、お君はお銀様の抑えるのも聞かずに立って下へ降りて来て、三郎さんの傍へ寄り、
「
「
お銀様は相変らず
「ね、わたしに
お君は自分のさして来た傘を廻して、それを片手に持ち三郎様へ背を向けました。
お君がせっかく親切に背を向けたにかかわらず、三郎様はその時クルリと向き返って、スタスタともと来た方へ歩き出しました。お君はそのあとから傘を差しかけて追って行こうとするのをお銀様が、
「そっちへ行ってはなりません、そっちのお邸へ行ってはなりません」
命令するような強い声で呼び止めましたから、お君は立ち
三郎様は大きな下駄を引きずって雨の中を笠も
「お前は、まだ知るまいけれど、
「はい」
「さあ、お前はお上り。あの犬はどうしました、犬が
「あの犬は悪いことは致しませぬ」
お君は再びもとの座に帰りましたけれど、このことからなんとなくそのあたりが
お銀様はせっかくお君を相手に、名所の話などをして興を催されようとしていた時に、三郎様が来てその御機嫌を、すっかり
そうして、なんとかして不快になったお銀様の心を慰めて上げたいものだと思いました。けれども何といって慰めてよいか取附き場に苦しんでいましたが、そのうちにお君は、床の間に飾ってあった琴を見て、音曲の話を引き出しました。それはこの場合、お君にとってもお銀様にとってもよい見つけものでありました。
「まあ、お前、三味線がやれるの。それはよかった、わたしがお琴を調べるから、それをお前三味線で合せてごらん」
お銀様は大へんに喜びました。それで今の不快な感じが消えてしまった様子を、お君は初めて嬉しく思います。
その雨の日は、夜になっても二人の合奏の興が続きます。
四
神尾主膳はその後しばらく、病気と称して
これは神尾の邸の裏の広場で試し物がある約束でありました。試し物はすなわち試し斬りであります。朝から神尾邸へ詰めかけて来た連中は、いずれも秘蔵の刀や自慢の脇差を持って集まりました。
あらかじめ罪人の
たとえ罪人の屍骸とは言いながら、人間の
そのなかでも師範役の小林は、さすがに剣道の達者だけあって、斬り方がいちばん
「小林氏、お待ち下さい、今日は貴殿に見ていただきたいものがある、貴殿の鑑定並びに
「してその拝見を
「ただいま持参致させる、いや、もう来そうなものじゃ、かねて約束しておいたこと故、間違いはないけれどまだ見えぬ、おっつけ見えるでござろう、いま暫らく」
と言って神尾は人待ち顔に見えます。小林師範も神尾が何物を見せてくれるだろうと、坐り込んで待つことになりました。その他一座の連中も多少の好奇心に誘われます。
「神尾殿、我々に見せたい品とおっしゃるその品は?」
「まず、お待ち下され、到着しての上で御披露する」
神尾の言いぶりが事実を明かさないでおいて、あっと言わせようという趣向のように見えます。
そこへ用人が出て来て、
「幸内が参りました、有野村の幸内が推参致しました」
「あ、幸内が来たか、待ち兼ねていた、急いでこれへ」
その席へ呼ばれて来たのは、有野の
幸内は前にお君のところへお銀様の
「これは皆様」
と言って幸内は
「おお、幸内、よく見えた、御列席の方々も
「遅れましてなんとも申しわけがござりませぬ」
「遠慮致さず、これへ出るがよい」
「左様ならば御免下されませ」
幸内は恐る恐る出て来ました。
「おのおの方」
と言って、神尾主膳は一同の方に向き直りながら、
「ここに見えたのは、これはおのおの方も御存じのことと思わるるが、有野村の伊太夫の家の雇人じゃ、あの馬大尽の雇人であるが、民家の雇人に似合わず感心なもので、剣術がなかなか達者である、村方でも稽古をし、この城下の町道場へもおりおり通う、いたって手筋がよろしい、お見知り置き下されたい」
と言って紹介しました。幸内は、こんなお歴々の方の中へ剣術が達者だの手筋がよいのと
「恐れ入りましてござりまする」
平伏してやっぱり頭が上りません。
「そのように恐れ入らんでもよい、実は今日は
「へへ、恐れ入りまする。せっかくの殿様のお言葉でござりまする故、主人から借受けて参りましてござりまする」
「それは大儀大儀、よく借受けて来た。伊太夫は変人のことでもあり、ことにあの品は滅多に人に見せぬ品であるそうな。其方の働きで、ここまで持参して来たのは何よりのこと」
「これがその品でござりまする」
幸内は、やはり恐る恐る
この箱は、前の日、幸内がお銀様から三日の約束で借受けて来た箱であります。この席へ持って出るために幸内は、この箱をお嬢様から借受けたのだということがわかります。
「おお、それそれ」
と言って神尾主膳は、その箱を受取りながら、
「おのおの方に、この品をお目にかけたい。その前に申し上げておきたいことは、この品はあの有野の馬大尽の家に先祖より伝わる秘宝、御列席のうちにも名のみ聞いて実を見んと思わるる向きが少なからぬことと推察致す。門外不出とも言うべきこの品を、この席に限りて一見致すことは仕合せ、充分の御鑑定を承りたいものでござる」
神尾主膳は風呂敷の結び目を解きかけてこう言いましたから、列席の者がなるほどと感心しました。
「それは、それは」
と言って列席がどよみ渡りました。さすがに神尾殿は苦労人だけあって、人を待たしおいて、アッと言わせる趣向がうまいと感じたものもありました。
何か趣向をしておいて、アッと言わせるということは、
しかしながら、列席の者のうちには、アッと言ったものばかりはありませんでした。例のいやみな神尾の癖がと、
「いかにも、あの有野の伊太夫が家に名刀があるとはかねて
やや皮肉まじりに言い出でたのは、鉄砲方の平野老人でありました。
「まことこの品が噂通りの名剣であるか、或いはさほどのものではないか、御一見の上でおのおの方の腹蔵なき御意見を承わりたい。拙者とても今日はじめて見る品」
神尾は平野老人の言い方が少し
それですから老人の方でも、また多少の意気張りが出て、眼鏡を拭いて掛け直しました。平野老人につづいては師範役の小林が名を得ていました。この両人のほかの者といえども、刀についてはみな相当の眼を持っていないものはありません。或いは平野や小林以上に、眼の肥えていて名の聞えないものが一座の中にいないとは限りません。
一応アッと言わせたけれども、あけて口惜しき玉手箱ではせっかくの趣向がなんにもならぬ。こんなことならば、一応自分が見ておいてから、この席へ出した方がよかったと神尾は、多少自分の軽率を悔ゆるようになりつつ、ようやく包みを解いてしまって、箱を開くと
刀身の長さは二尺四寸。神尾主膳がそれを抜いてつくづくと見ると、例の平野老人は眼鏡の
「うむ」
と考え込んでいましたが、そのままなんらの意見も述べないで平野老人の手へと渡してやりました。平野老人はそれを
「うむ」
これも
「さて、いかがでござるな、おのおの方」
その刀を鞘へ納めながら神尾主膳は一座を見廻しました。けれども、誰もまだウンともスンとも言いませんでした。相州物であろうとか、いいや備前とお見受け申すとか、おおよその見当さえ附ける人がありませんでした。おおよその見当を附けてさえ笑われることを恐れるほどに、わからないのがこの刀でありました。
「
平野老人がようやくこれだけのことを言いました。相州物とも大和物とも言わないで、肌のことから言い出したのは、
ともかくも平野老人が、これだけの口を開いてみると、次には小林師範役がなんとか言わなければならない立場になりました。
「模様を一見したところでは、肌が立って
最後のがというところへ、最も多くの余地を残しておきました。
「左様」
平野老人は呑込んだように
「その地鉄がなあ」
と附け足したけれども、地鉄がどうしたのだか、いよいよ呑込めなくなりました。これだけ言いかけたら、あとは小林師範役か誰かがバツを合せてくれるだろうと思っていたところが、小林はそれからなんとも言いませんでした。一座の者も黙っていましたから、老人は自身の言葉尻を持扱っていると列座の中から、
「
と
「以てのほか」
平野老人は首を振って
「則重ではござらぬ」
平野老人は
「そ、そ、そんならば、そんならば、老人のおめききは······」
と言って反問しました。
「なるほど、則重と言いたいところである、一応はそう言ってみたいところで、市川氏のおっしゃるのも御無理はない、
平野老人はこう言いました。
「そ、そんならば老人のお
市川は再び老人に返答を
「これは近頃の好題目、口に出して言うては皆々遠慮がある故に、
小林がこう言い出したのは、老人にも救いであり一座もみな同意しました。言い出したいけれども恥を掻くといけないと思って遠慮していたものが多いのを、それが無記名投票になれば恥はかき捨てになり、当れば名誉になるのですから、
開票して見ると、その鑑定に大胆を極めたのもあり、小心翼々と疑問を存したのもあったが、いずれもそれを古刀と見ることには異議はありません、新刀と書いたものは一人もありませんでした。
「どうもわからぬ」
開票してみて、いよいよ刀のえたいが不思議になってしまいました。則重もまた
「それでは、いよいよ則重かな」
一同の
「申し上げまする、これは則重ではござりませぬ、数年前、
さてこそ本阿弥が引合いに出されて来ましたから、一同は言い合わせたように幸内の面を見ました。本阿弥という名前は、とにもかくにもこの場合、重きをなすのであります。
「本阿弥家の折紙があるならば、あるように最初から言っておくがよい」
と平野老人が
「いいえ、折紙があるのではござりませぬ」
と幸内は言いわけをしました。
「どうしたのじゃ」
「本阿弥様は折紙を附けませぬ、手前共の主人も折紙を附けていただくことは嫌いなのでござりまする」
「して、本阿弥がなんと言った」
「本阿弥様が申しまするには、この刀は
「ナニ、伯耆の安綱?」
「はい」
「ははあ、伯耆の安綱か」
と言って、いったん
「なるほど」
「なるほど」
彼等は手から手に渡してつくづくとながめました。
「それだから言わぬことではない、一見しては
平野老人は得意になりました。さながら本阿弥を自分の味方に引きつけたように、鼻高々と一座を見廻すと、小林師範役は、
「なるほど、そう言われて仔細に見ると、地鉄に
と言って服してしまいました。
「伯耆の安綱というのはこれか、名にのみ聞いて、拝見するは今日が初め」
一座は幾度も幾度もその刀を見ました、見れば見るほど感心の
「本阿弥様も、しかと安綱とは仰せになりませんで、もし伯耆の安綱でなければ、それと同じような、またそれよりも上の作であろうと御鑑定になりましたそうでございます」
「なるほど」
「
「なるほど」
ここの一座には、安綱を見たものはいずれも初めてでありました。
伯耆の安綱は大同年間の名人、その時代は一千年以上を隔てたものです。よし安綱であってもなくても、それと同格或いは同格以上のものであらば、それは宝物とするのに充分であります。
見直しているうちに、一座は誰とてそれに不服を唱えるものはありませんでした。
「摂州多田院の宝物に
と言って平野老人は、再び手許に戻って来た名刀を
五
その席はそれで済みました。主人も客も、始めあり終りある会合を満足して退散しました。
ただここで変なことが一つ起りました。それは幸内の行方であります。幸内はあれから御馳走になって神尾家を辞したのは夕方のことでありました。もちろんその帰る時も
有野村の馬大尽の家では誰も、幸内がこの会合の席まで来たということを知ったものはありません。一日や二日帰らないからと言って、それはいつもあることだから誰も不思議とは思いませんでした。ただ一人、心配なのはお銀様ばかりです。今日で約束した三日の期限が切れるのに、幸内がまだ帰って来てくれないことをお銀様は心配していました。三日の期限が切れたから、直ぐにお父様に
それでも、幸内を信じたお銀様は、やがて幸内が持って帰ることと信じていました。
けれどもその三日も過ぎてしまったその夜も、ついに幸内が帰りませんでした。夜が明けてお銀様は、やや強くそのことを心配しはじめた時分にこの屋敷へ、馬に乗って若党をつれた立派な武士が、不意におとずれて来ました。
その武士が来て案内を乞うと、有野家の
「御支配様がおいでになった」
その騒ぎがお銀様の部屋までも聞えると、
「御支配様がお見えになったそうな」
と、お附のようになっているお君を顧みてお銀様が言いました。
「御支配様とはどんなお方でございますか」
とお君が尋ねました。
「それはこの甲府のお城を預かって、勤番のお侍をお
とお銀様が説明しました。
「それではあの、甲府のお城の殿様でございますね」
とお君が受取りました。
「この甲府には大名はないけれど、あの御支配様が同じお勤めをなさいます」
「こちら様へはたびたび、その御支配様がおいでになるのでございますか」
「いいえ、滅多にそんなことはありませぬ、もしそんなことのある時は、前以てお沙汰があるのに、今日はどうしてまあ、こんなに不意においでになったのでしょう」
不意にこの
新任の勤番支配が何用あって、
「馬を見せてもらいたいと思って、遠乗りの道すがらお立寄り致した次第、このまま
こう言われたので執事は安心しました。
こうして駒井能登守は、有野村の馬大尽の伊太夫に案内されてその厩と
「名馬というものは滅多に出て参るものではござりませぬな、こうして数ばかりはいくらか揃えてござりますれど、いずれを見ても
こう言って厩を見て行ったが、一つの馬の前へ来ると能登守が、しばらく足を留めていました。伊太夫その他の者もまた同じくその馬の前でとまりました。
「この馬は強い馬らしい」
能登守が立って見ている馬は、今まで見て来た馬のうちでいちばん強そうな
「よくそれにお目がとまりました、その辺がここでは
「これで
手代が主人に代って、
「四寸でござりまする」
「なるほど」
能登守は、まだいろいろとその馬をながめていました。
「お気に召しましたらば、
伊太夫は傍から勧めました。
「どうも、拙者には、ちと強過ぎるようじゃ、馬はまことに良い馬だけれど」
「左様なことはございますまい」
「昔、楠正成卿は三寸以上のを好まれなかったとやら。四寸の
「左様でございますとも、そのお心がけさえおありなされば、どのようなお馬にお召しなされてもお怪我はあるまいと存じまする。それに私共にては、
伊太夫はこんなことを能登守に向って語りました。能登守はこの栗毛の馬に乗ってみようという心を起しました。
ほどなく能登守が馬に乗って勇ましく馬場を駈けさせる姿を、伊太夫はじめこちらから見ていました。
それとは少し
「お君や、あのお方が御支配様でありましょう」
と言って、椿の木の下でお君を招いたのはお銀様であります。
「まだお若い方でございますね」
お君も木の蔭に隠れるようにして、やや遠く能登守の馬上姿を見ていました。
「ほんとに、まだお若い方」
とお銀様が言いました。お君が気がつくと、お銀様が馬上の御支配様を見ている眼の熱心さが尋常でないことを知りました。
お銀様も、やはりお若いお嬢様である。お若い殿方を見るのはいやなお気持もなさらないものかと、お君はそぞろに気の毒になってきました。それで自分もその御支配様が、馬に召して、だんだんに近いところへ打たせておいでになる姿を、お銀様と同じようにながめていますと、
「お幾つぐらいでしょうね」
お銀様がこう言いました。
「左様でございますね」
お君は、この時に御支配のお面とお姿とをよくよくとながめました。馬は二人の方へ向いて駈けて来ました。その間はかなりありましたけれど、こちらは木の蔭に隠れていましたから、向うではわかりません。
「お嬢様、御支配様は大へんお綺麗なお方でございますね」
「ええ」
とお銀様はこのとき振返って、お君の顔を見た眼つきに悲しい色が浮びます。
「帰りましょう、失礼だから」
自分が先に立ってさっさと家の方へ行ってしまいます。お君はぜひなくそのあとをついて行きました。
お居間へ帰るとお銀様は、わざとしたような笑顔を作って、
「お君や、お前の髪の毛が少し乱れている、それをわたしが直して上げましょう」
と言い出しました。
「お嬢様、それは恐れ多いことでございます」
と言ってお君が辞退をしました。
「いいから、ここへお坐り」
お銀様は少し乱れたお君の髪を撫でつけてやりました。そうして自分の差していた結構な
お君は、お銀様がなんでこんなことをなさるのかと変に思われてたまりません。
「お君や、お前、今日はわたしになってごらん、わたしと同じ髪を結って、わたしと同じ着物を着て、そうしてお前がこの家の娘になるといい」
「お嬢様、何をおっしゃいます、飛んでもないことを」
お君は
「わたしがお前になって、お前がわたしになった方がよい、ね、そうしてごらん、わたし、こんな髪の飾りも
「まあ、お嬢様」
お君がいよいよ呆れた時に、外でムクの吠える声がしました。
髪の飾りも要らない、着物も要らない、帯も要らないと言ったお銀様は、お君の呆れて
お君はそれも気にかかるけれど、いま吠えたムクの声も気にかかります。障子をあけて見るとムクが、今しも馬に乗って馬場の外へ打たせて行く能登守の馬を追いかけて、その足許に
「まあ、あの犬が殿様に······失礼な」
お君は驚きました。ムクを呼んで叱らなければならないと思いました。
「お嬢様、ムクが殿様に失礼をするといけませんから呼んで参ります」
と断わって、あわててそこを駈け出して、
「ムクや、ムクや」
お君はやや遠くから呼びました。お君から呼ばれさえすれば、いくら遠くにいてもかえって来るムクがこの時は、いよいよ能登守の馬の足に絡みついて、遠くから見ていると馬と人とを襲うているように見えます。
それを馬上の能登守がもてあましているようでしたから、お君は安からぬことに思うて息を切って、馬場から牧場の方へと枯草の原を駈けて行きました。
そのうちに、駒井能登守はたまり兼ねて馬から下りてしまったようであります。或いはムクが烈しく襲いかかったために落馬をされたのではないかと、お君はいよいよ安からず思いました。
馬から下りた能登守が、馬の口を取っていると、その時にムクも
「ムク、まあどうしたのです、お殿様へ御無礼を申し上げて」
お君は、せいせい言いながらムクを叱りました。駒井能登守は
「叱ってはいかぬ、こりゃ良い犬じゃ、この犬のおかげでわしは助かったのじゃ」
と言って駒井能登守は、一間ほど前のところの草の中を指さし、
「そこに古井戸がある、その古井戸へ、すんでのことに馬を乗りかけるところであった、それをこの犬が追いかけて来て留めてくれた、初めは狂犬かとも思うて、
と言って、能登守は汗を拭きました。
「まあ、左様でございましたか。ムクや、よくお殿様に危ないところをお教え申しました、お前はやっぱり良い犬でした」
お君は駈け寄ってムクの首を抱きました。その時、能登守はお君とムクとを見比べていましたが、
「この犬は、お前の犬か」
「はい、わたくしの犬でございます」
「お前はここの家の······」
「雇人でござりまする」
能登守は、お君とその犬との
駒井能登守は有野村の馬大尽のところから帰り道に、
「一学」
と言って若党の名を馬の上から呼びました。
「はい」
「あの犬を大切にしていた娘を、そちは見たような女と思わぬか」
「はいはい、そのことでござりまする、私もそのように申し上げようかと存じておりましたところでござりまする」
「何と思うていた」
「遠慮なく申し上げてもよろしうござりましょうか」
「遠慮なく申してみるがよい」
「左様ならば申し上げてしまいまする、あの女の子は奥方様に生写しでござりまするな」
「そうか、
能登守は莞爾として一学を顧みました。
「左様でござりまする、奥方様より歳は二つ三つ若いようでござりまするが、あれで奥方様と同じお作りを致させますれば、全く以てわたくしたちまで見違えてしまうでござりましょう」
「その通りじゃ」
そうして馬を打たせて、
「殿様」
「何だ」
「あの、奥方様はいつごろ、こちらへお見えになりまする」
「それはいつともわからん」
「御病気の
「別に変りはないようじゃ」
「一日も早くお迎え申したいと、家来共一同、そのことのお噂を申し上げない日とてはござりませぬ」
「年内はむずかしかろう、年を越えてもことによると······」
「来春になりますれば、ぜひお迎えに上りとう存じまする」
「あれもこっちへ来たいと言って、いつの手紙にもそのことを書いてあるが、あの身体では
「殿様も御心配でございましょうけれど、奥方様もさだめてお淋しいことでございましょう、どうか早くお迎え申したいものでござります」
「一学」
「はい」
「あの栗毛を受取りに行く時、あの女にも何か物を
「左様でござりまする」
「あの犬のために怪我をせずに済んだのじゃ、犬と持主に心付けを忘れぬように」
「しかるべきものを
「その時に、一応あの女の身の上を聞いてみるがよい、もし邸へ来るような心があるならば、伊太夫へ話をして呼んでみてもよい」
「はい」
一学は主人が、あの女のことを親切に思うていることに気がつきました。
六
馬大尽の雇人の幸内は、三日目の日が暮れてしまってもついに屋敷へは帰りません。
伯耆の安綱と称せしかの名刀もまた、幸内と共にその行方を失ってしまいました。
この前後のこと、甲府の町うちにおりおり辻斬があります。
三日か四日の間を置いて、町の
一刀の
斬られたのは幸内ではありませんでした。ところの方角も幸内の帰って行ったのとは違いますし、ことに斬られた本人が近在の煙草屋でありましたから、直ぐに本人の家族へ沙汰があって、これらが駈けつけて泣きの涙です。
町奉行の役人と、前日神尾の家へ集まった師範役の小林文吾とその弟子どもも駈けつけました。
町奉行の検視の役人は、現場に立って
「たしかに物取りの
「
もう一人が、やっぱり浮かない面をして、現場を今更のように見廻すのであります。
「それがみんな同じ手」
と、もう一人が言いました。
「非常な斬り方である、これはどうも······」
と言って三人の役人が一度に小林師範役に眼を着けました。
彼等にはなんとも解釈がしきれないから、それで小林の意見を
「これだけに斬る者は······」
と言って、小林も頭を
「刀が非常な
小林は今その屍骸の斬り口を検査して見て、舌を捲いているところでありました。この一カ月来、これで四度辻斬があったのに、そのうち三度まで小林は立会っていました。
先日神尾の屋敷で試し物があったのも、一つはこの辻斬があったから、それに刺戟されたものであります。
一人二人の間は話の種であったけれども、四人目となっては町の人の
「もし当地に
「ともかくも、今夜より一層警戒を厳重に致さねばならぬ」
小林文吾は自宅へ帰っていろいろと考え込んでしまいました。
小林は小野派一刀流を
城内の勤番のなかに覚えのある者で、一応小林と手を合せない者はないはずであります。それであるのに見当がつかない。思い惑うているそこへ、
「先生」
と言って現われたのは、先刻、辻斬の立会に連れて行った岡村という高弟でありました。
「おお岡村氏」
「先刻は失礼を致しました」
「いや先刻は大儀でござった」
「先生、それにしても腹が立ちまするな」
岡村は何か余憤があるらしく、
「先生、拙者の考えには、この辻斬はたしかに城内の勤番の武士のうちにあると、こう見当をつけましたが
「それそれ、拙者もそう思っているが、その勤番のうちで、それでは誰と目星をつけ様がない、それで考えが行詰ってしまっている」
「左様、城内の侍ならば、先生と我々との間に大抵の品定めがきまるのでござりまする、それで拙者もいろいろと考えてみましたが、とうとう一つ考え当りました」
「それは誰じゃ」
「先生、意外な人でござりまするよ、それこそは」
「遠慮なく言って見給え」
「そんなら申してみましょう。しかし先生、城内で我々が、まだその腕前を海とも山とも見当のつけられないものがたった一人あるはずでございます、先生もひとつ、それをお考え下さいまし」
「左様な人は······今もつくづくとそれを考えて、考え抜いたけれど、左様な人は一人もないのじゃ」
「それがあるから不思議でございます」
「誰じゃ、言って見給え」
「それは先生、あの今度御新任になった御支配の駒井能登守でございます」
「ナニ、駒井能登守殿?」
小林もさすがにその
「しかし先生、これには寸分も証拠とてはござりませぬ、先生なればこそ、
「なるほど」
「今夜ということに限らず、これから一心にあの駒井能登守殿の挙動をいちいち探査してみとうござりまする、いかがなもので」
「なるほど」
「そうしていよいよ、これはという動きの取れぬところを押えたら、相手が相手だけに妙ではございませんか」
「うむ、面白い」
ここに至って小林師範役は膝を打ちました。岡村も喜んで、
「では先生も御賛成下さいますな」
「いかにも。やって見給え。しかし相手が相手だけに用心も一層じゃ」
その後、岡村は道場へはあまり姿を見せないようになりました。その当時暫らくは辻斬の噂がありませんでした。岡村はまだなんとも報告を
ところが、それから六日目の朝っぱら、小林師範役がまだ床を離れたばかりの時分に、あわただしく一人の門弟が、
「先生、先生、先生、大変でござりまする、大変」
小林はその
「先生、先生、また辻斬がございました、また辻斬が······斬られたのは岡村氏でございます、岡村氏が
「ナニ、岡村が?······」
小林文吾も
小林文吾はあまりのことに、暫らく口も利けないくらいでありました。
七
その晩、一間のうちでしきりに刀を
竜之助は
その燈火の下で竜之助は、秋の水の流れるような刀を拭うておりました。
刀は幾本も幾本もあって、
ある時はまたそれを行燈の下で二三度振ってみました。ある時はまたその刃切れを調べるようにしていました。
刀は、いずれも二尺以上のものばかりです。こうして四本かぞえて五本目に抜いた刀は、二尺三寸余りあるように見えます。
「ははあ、これだな、これが
と
「これは斬れそうだ」
と言いました。刃を上にして膝へ載せてから
それですから、刀の寝刃を合せる時には大概の勇士でも手が震うものであります、心が
音無しの構えに取った時に見る、真珠を水の底に沈めたような眼の光こそ今は見ることができませんけれど、その代りに蒼白い面の表一面に
今、ようやく
この屋敷は甲府を離るること半里、
神尾主膳が何故に机竜之助をここへ置いたかということは、まだ疑問でありましたけれど、ここへ置かれた机竜之助は、
竜之助をここへ移したものが神尾主膳でありとすれば、今ここへ刀をあてがっておくその人も神尾主膳でなければならぬ。
神尾主膳の名を
竜之助がこの古屋敷に来てから、もうかなりの時がたちましたけれど、まだ一回も外へ出たのを見たものがありません。幾間も幾間もある屋敷の、いずれの間に住んでいるのであるかさえもよくわかりませんでした。しかし、夜になると、屋敷の番人をしている男が食物を運ぶのと
また庭の幾所に
ここに置かれた机竜之助が刀調べをしていることも、その調べた刀によって巻藁の類を試していることも、ひまつぶしとしてはそうありそうなことであります。
そこで寝刃を合せ
その音で竜之助は、刀を持ったまま長持の方を向きました。竜之助が長持の方を向いた時に、長持の蓋がまた続けざまにガタガタと二つばかり動きました。三つ目には、もっと烈しい音で、下から力を極めて何か持ち上げるような音で長持が動きました。
「騒ぐな、騒いだとて時が来ねば許しはしない」
と長持の蓋に向ってこう言いました。その様、何か心得ているらしく見えます。しかし動きはじめた長持は、竜之助のこの声を聞いて静まることがなくて、かえって烈しい音を続けざまに中から立てて、それに相答うるような有様でありましたが、
「おとなしうしておれ、騒ぐとかえってためにならぬ」
竜之助は叱るように、また教えるように、或いは
口では叱るように、教えるように、または嚇すように騒ぐなと言ったけれど、その態度は冷然たるもので、いよいよ動き荒れ出した長持の蓋も箱も中から裂けてしまいそうになってきた時も、竜之助は立とうとも動こうともしませんで、やはり冷然として、その刀を鞘に納めてしまいました。その途端に長持のいずれの部分かが、メリメリと裂けるような音がしたかと思うと、中からもがき出したのは一人の男。
それはちょうど、
古い長持であったから、それで
竜之助は今しも鞘へ納めた手柄山正繁の刀を膝元へ引きつけたままで、ただそちらの方を見て坐っているばかりでありました。この刀は
真黒になって手足を縛られた人間が、やっと立ち上った形は、大きな


のたりのたってその男は、ついに竜之助の膝のところまで来ると、その膝を枕にするようにして竜之助の
「
竜之助は左の手でそれを払い退けると、その男は
「うるさい」
竜之助は再びそれを払い退けました。払い退けられて男は三たび竜之助の膝にのたりつきました。その口を
突き放され、突き放され、またのたりつく有様は
しかしながら、机竜之助の両眼が暗くて、その人の何者であるやを見て取ることができないにしても、たとえささやかながら
これは馬大尽の家の幸内でありました。
「神尾殿が来てなんとかするまで、もとのところで窮命しておれよ」
竜之助は、やはり片手でさぐって、のたり廻る幸内の
幸内を振り飛ばした机竜之助は、やがて手柄山正繁の一刀を腰に差して立ち上りました。
振り飛ばされた幸内は、長持の隅のところへ投げ倒されたなりで、今度は動くことをしませんでした。そうしておいて竜之助は、懐中から
足音は廊下を伝ってこの座敷へ来るのであります。
「机氏、机氏」
と言って竜之助を呼びました。
「おお、主膳殿か」
竜之助はそれを知って、燈火を吹き消すことをやめて、
主膳は片手に長い箱を抱えて、
「竜之助殿、貴殿に見せたい品がある、それでワザワザやって来た」
「それはそれは」
主膳は長い箱を目の前へ取り直して、
「いつぞや噂をした伯耆の安綱の刀が手に入った」
「ははあ、安綱がお手に入ったか、それは
主膳が包みを解いて箱の中から出した袋入りの白鞘は、前日試し物のあった日から、幸内と共に行方不明になった馬大尽の家に伝わる宝刀であります。
しばらくして神尾主膳は、燈下でその安綱の鞘を払って竜之助の前に突き出して、
「二尺四寸、
と言いました。
「
と言って竜之助は笑いました。
「ともかくも手に取って見給え」
主膳はその刀を持ち添えるようにして、竜之助に手渡ししました。
「なるほど」
竜之助は伯耆の安綱の刀を手に取って、持ち試みていましたが、
「安綱といえば古刀中の古刀、誰もその位を争うものはないのだが、さて実力はどれほどのものか知らん」
と言って
「竜之助殿、貴殿ひとつ試してみる気はないか」
「この安綱を?」
「左様」
安綱を試してみろと言われて、竜之助は首を横に振りました。
「いかに名刀なりとて、千年もたっては隠居同様、ただ名物として奉って置くが無事であろう」
「たとえ千年二千年たとうが、精が
「拙者には名刀といわず、無名刀といわず、手に合うたものがよろしい」
「それはそうかもしれぬ、しかし、安綱ほどの刀を試して、千年からの
神尾主膳は机竜之助をして、伯耆の安綱と称せらるるこの名刀を試させん
「それはそうであろう、伯耆の安綱ともいわれる刀で犬猫も斬れまいし、滅多に
竜之助は
「折れても承知、その刀の真の切れ味が知りたい」
と神尾は言いました。
「折れて承知ならば、一番斬ってみようか」
竜之助はこう言いました。
「頼む」
神尾は
竜之助は打返して、その刀を振り試みていました。
「よし、試してみよう」
竜之助はやはり巻藁か土壇を切るように
「それでは、机氏」
と言って、主膳は伯耆の安綱を竜之助に預けて帰ろうとします。
「もう、お帰りか」
「このごろは甲府の市中が物騒でな、我々とても油断しては歩けぬ」
「物騒とは?」
「辻斬が
「辻斬が?」
竜之助はこの時、苦笑いをしました。主膳は刀を差しながら、
「昨夜も、小林と申す剣道の師範役の高弟が斬られたのじゃ、斬った奴は何者だともまだわからぬ、奉行の手でもわからぬし、城内の者にも心当りがない、しかし斬り手は非常な腕だ、それで甲府の上下、身の毛を
「うむ」
「もし貴殿の眼でも見えたなら、こういう時には、その
「目が見えたら辻斬をして歩く方へ廻るかも知れぬ」
「ははは、そうありそうなことじゃ」
神尾主膳はなにげなく笑いましたが、この時はじめて気のついたように、
「竜之助殿、あの長持の中の物、あれを貴殿にお任せ申そう、安綱の切れ味、ことによったら、あれで試して御覧あれ」
「よろしい」
主膳は別に長持へ近く寄ってそれを改めてみようともしませんでした。竜之助もまた長持から怪しい者が出て来て、自分の膝へ
こうして神尾主膳はこの古屋敷を出て行きました。甲府から半里、駕籠にも乗物にも乗らずに来て、玄関には草履取と提灯持兼帯の男が一人待っているばかりでした。
八
その晩、甲府八幡宮の茶所で
土間には炭火がカンカンと
下には
「どっこいしょ、
と言ってそこを立ちました。立つ時に米友は
「なんだか知らねえが、今夜はこの八幡様へでえだらぼっちが来るそうだから、それで
油差と床几を手に持って外へ出た米友が、こんなことを言いました。そうして社の鳥居のところから始めて幾つもある木の燈籠や、石の燈籠をいちいち見て歩いて、消えそうなやつへは油を差して歩きました。歩くといっても、やはり米友は
境内を残る
「眠ってえな」
と言って眼を
「はははは、笑あせやがら」
なんと思ったか米友はカラカラと笑い出して、
「でえだらぼっちなんというものは見たことも聞いたこともねえんだ、でえだらぼっちが来たからったっても、なにもそんなに驚くことはあるめえじゃねえか」
と言いました。何か米友はそのでえだらぼっちについて
「そのでえだらぼっちが喧嘩に来るから、それを怖がっているような八幡様じゃあ、八幡様の有難味が薄いや、でえだらぼっちが来たら来たように、俺らがなんとかひとつ掛合ってみてやろうじゃねえか」
米友はしきりにでえだらぼっちのことを言って
「あ、眠っちゃいけねえんだ」
茶釜を
やや暫く居眠りをしていた米友が、
「あ、また眠っちまった」
と言って二度目に眼をさました時は、何か気にかかるようなものがあるような様子です。
「はてな、今、足音がした、たしかにここで足音がしたに違えねえんだ」
と言って、米友は眠い目を

「誰だい、誰か来たのかい」
と
「まさか、でえだらぼっちじゃあるめえな」
と言って座右を顧みた時に、そこに六尺の手槍がありました。
「兄い、なかなか寒いじゃねえか」
気軽に茶所へ入って来たのは、でえだらぼっちでもなければ、八幡様の廻し者でもないようです。竹の笠を被って
「うむ、寒い」
米友は案外な
「兄い、済まねえがお茶を一杯振舞ってくんねえ」
と言いました。
「いくらでも飲みねえ」
仲間体の男は貧之徳利を土間へ置いて、大土瓶から熱いお茶を注いで飲みました。お茶を飲むところを笠の下から見ると、この仲間体の男は、
「どこへ行ったんだい、もう
と米友は
「ナニ、部屋からの帰りなんだ」
と仲間体の男はなにげなき
「兄い、
と言いました。
「ははは、不寝番だよ、今夜はでえだらぼっちが来るというから、それで寝られねえんだよ」
「ははあ、なるほど」
と言って仲間体の男は
「でえだらぼっちがこの八幡様へ喧嘩をしかけに来るんだそうだ、それで八幡様のお庭を明るくしておけと神主様の言いつけだ、だからこうして不寝番をして、時々燈籠へ油を差して歩くんだ」
米友はワザワザ申しわけのように言っていると、
「なるほど、それは御苦労さまだ、油を差すのはいいが、油を売っちゃいけねえよ」
「ばかにしてやがら、油なんぞを売るものか」
「それでも今、コクリコクリとやっていたじゃあねえか、あんなときにでえだらぼっちがやって来たらどうする」
「そりゃあ、コクリコクリやっていたって、
「えらい」
と言って米友を
「兄い、睡気ざましに一口
と言って、傍へ置いた貧之徳利を取り上げて少しく振って試み、それから懐中へ手を入れて
小林文吾は言葉も身ぶりも、やっぱり仲間そっくりで、徳利を振ってみて、懐中から経木皮包を取り出しました。
「兄い、うめえ
「
と米友は断わりました。
「そんなことを言わねえで、一杯つきあったらどうだい」
「酒は飲めねえんだ」
「そうかい、そりゃあせっかくだな」
と小林文吾が、多少気の毒そうに徳利を引込めたから、米友もそれに好意を表する気になりました。
「俺らは飲めねえけれど、お前、そこで飲むなら飲みねえ。ナニ構わねえよ、神様の前だってお前。神様だってお
「そうかい、それじゃ済まねえが、一杯やらしてもらうとしよう」
小林文吾は米友の好意を得て、また徳利を引き出しました。その徳利から、さきに借りた茶碗へ
「俺が一人で飲んで、お前に見せておいては済まねえ、酒がいけなければ
といって小林文吾は、経木皮包を開いて火箸を横にしてそれを
「おっと待ってくれ、酒はいいけれど肴の方はよしてもらいてえ、酒は神様も召上るけれど、まだ目刺を八幡様が召上ったという話は聞かねえからな」
「なるほど」
小林は米友の理窟に伏して、強いて目刺を焼こうともしません。
「このごろは世間が騒がしいからな」
ややあって小林は、何ともつかずにこんなことを言いました。
「ははは、世間が騒がしいというのは、あの辻斬のこったろう」
「うむ」
米友が存外平気なのを見て、小林は眼を丸くしました。
「十日ばかり前の晩にこの松山の向うで一人
「そんなものに流行られてはたまらねえ」
と小林は額を押えました。
「甲府へはまだ流行って来ねえけれども、江戸でも
米友の気焔は、少しく小林の注意を呼び起したらしく、
「俺も久しいこと江戸へ行って見ねえが、江戸の市中もそんなに物騒なのかい」
「そうさ」
米友はここで
「江戸へ行って見ねえ、つまり徳川の
「なるほど」
「何しろ
「なるほど」
「貧窮組というのは、貧乏人の
「なるほど」
「それに比べりゃあ、甲府なんぞは無事なものさ、一人や二人の辻斬は、どうも仕方がなかろうぜ」
「ところが一人や二人じゃねえんだ······」
小林はそれに附け加えて何か言おうとした時に、十日ほど前の晩に人が斬られたという松林の方で、
「鍋や||き、うどん」
自慢の声が長く引いて聞えて来ました。
「来たな、鍋焼が来たぞ」
米友はどうやらその鍋焼うどんを待ち構えているらしくあります。
「鍋や||き······」
二度目に聞えた時に、鍋や||きだけで止まってしまいました。うど||ん、という声を続けるところで急に
「ウ||」
と唸ったのは
「どうした」
小林文吾は、いま転げ込んだ鍋焼饂飩を引き起して、
「そ、そ、そこで斬られた||」
鍋焼饂飩は、
「
そのあとで米友が鍋焼饂飩の
鍋焼饂飩は、やっと回復したけれども、まだ生きた空はありません。
「いったい、こりゃどうしたんだい」
と言って尋ねてみましたけれど、その返事がいっこう
「ああ、危ねえ、危ねえ」
と言いながら、またもそこへ入って来たのは
「兄さん、すんでのことに、命拾いをして来たよ」
笠を取ったその人は七兵衛でありました。
「やあ、お前様はさいぜんのお客様」
と鍋焼饂飩が叫びました。
「
と言って七兵衛は鍋焼うどんを慰めました。
「でもまあ、命拾いをしたにはしましたがねえ」
と鍋焼饂飩は
「商売道具がこわれたね、
七兵衛はかなり重味のある財布を首から外して、鍋焼うどんの屋台の上へ投げ出しました。
「こんなにいただいちゃあ、こんなにいただいちゃあ済みませんねえ」
と言って鍋焼饂飩は恐縮してしまいました。それには
「やれやれ、こうして俺たちは命からがら逃げて来たのに、また物好きな人もあればあるもので、わざわざ斬られにあとを
七兵衛は米友を顧みて水を向けましたけれど、米友は苦笑いしてそれに応ずる
九
その晩はそれで済みました。その近所にべつだん斬られた人もありませんし、
米友は昨夜の睡眠不足があるから夜が明けると共に、担ぎ出されても知らないくらいに寝込んでしまったから、日がカンカン寝ているところの障子に当るのも御存じがありません。
米友がこうしてグッスリと寝込んでしまっている朝、この八幡宮へ珍らしい二人の参詣者がありました。二人とも同じ年頃の女であります。そうして二人ともに藤の花の模様の
「お嬢様」
と一人の娘が言いました。
「あい」
一人の娘が
「ここが八幡様でございますね」
「ああ、ここが八幡様」
こう言って二人は石段を登ります。この時はまだほかに参詣の人もありませんし、この近所を通る人も極めて
お宮の前へ来てから、はじめてそのうちの一人が頭巾を
お宮の前へ来てお君だけが頭巾を取りましたけれど、もう一人の娘は決して頭巾を取らないのであります。頭巾を取らないで八幡様のお宮の
「君ちゃん」
頭巾を取らない方の娘が呼びますと、
「はい」
お君はやはり恭しく返事をして、頭巾を取らない娘の方へ寄って来ました。
「わたしはここに待っているから、お前だけあちらへ行ってお
頭巾を取らない娘が言いました。
「承知しました、ではお嬢様、暫らくこれにお待ち下さいませ」
「あの、お君や、もし年を聞いたら十九で、
「はい」
「家を出てから今日で七日目になるということや、大切な宝を持って出たということも、聞かれたら答えてもよいけれど、あまり細かくは言わないように」
「はい、よろしうございます」
「それから、わたしの家の名前だの、幸内の名前だの、わたしの名前など、尋ねられても決して言わぬように」
「
お君は頭巾を取らない娘と、これだけの問答をして、一人だけ
ほどなく、お君は一枚の紙を手に持ってお宮の中から出て来ました。
「お嬢様、お
水屋のところに立って待っていた頭巾を取らない方の娘||いちいち頭巾を取らない方の娘とことわらなくても、それはお銀様と言ってしまった方がよいのです。お君の手に持っていたお御籤の紙がお銀様の手に渡されると、お銀様は受取って読みました。お銀様は紫の女頭巾はほとんど眼ばかりしか出さないように深々と
「お嬢様、お御籤の
「この通り八十五番の大吉と出ていますわいな」
「大吉、それは結構でございます、この八幡様のお御籤が大吉と出ますようならば、もう占めたものでございますね」
「まあ、お聞き、大吉は凶に帰るということもあるから、一通り読んでみなくては」
お銀様は小さい声で読みました。
お銀様はお君を呼ぶのに君ちゃんと言ったり、お君と言ったり、またお君さんと言ったり、いろいろであります。
「はい」
「この文句がわかって?」
「いいえ」
「これだけでは、わたしにもよくわからないから、この下に仮名で書いてあるのを読んで見ましょう、
「はい」
「それから
「まあ、しだいしだいに······」
お君はなんだか充分に呑込めないような面をしました。
「その次に、
「なんにしても結構なお
「けれどもお君や、心ながくとあったり、しだいしだいとあってみれば、これは急のことではないらしい」
「左様でございますか」
「わたしは急であって欲しい、一日も一刻も早くその望みが叶えて欲しい」
「わたしもそのように思いまする」
「気長く待っていられることと、居ても立っても待ってはいられないことがあるのを、神様は御存じないかしら」
「そんなことはございません」
「でも、このことの晩きを愁えずの、心長く時節を待ての、しだいしだいに望みが叶うのと、そんなことが今のわたしに堪えられようか、わたしはこのお御籤が
お銀様はどうしたのか、急に眼の色が変って、いきなりそのお御籤の紙を
「何をなさいます、お嬢様」
お君が、
「まあ、
と言って、お君は怨めしそうに、いま投げ込まれたお御籤の紙を見つめていますと、
「お君や、帰りましょう、もうどうなってもわたしは知らない」
お銀様はお君の手を取って引き立てるようにし、自分が先へ立ってお宮の前の
「お嬢様、ナゼあんなことをなさいます、せっかくのお御籤を······罰が当ります」
「何だか、わたしは知らない」
お銀様はお君を引き立てて、お宮の外へ出てしまいました。
「大吉は凶に帰る」
この時、茶所で、米友が昼寝をしていたのはどうも仕方がありません。お銀様は先に立って、
「お城を見て行こう、お城の方へ廻って見物して帰ることにしようわいな、早く」
「お嬢様、今日はこれだけでお帰りなさいませ」
「いいえ、お城を見て行きましょう」
「お城の方へおいであそばすと暇がかかって、お家で御心配になりますから」
「そんなことはかまわない、お城の方へ廻ってみたい、お前いやなら一人でお帰り」
「それではお
お君はやむことを得ずして、賑かな方へとお銀様に引かれて行くのでありました。その間にお君は紫縮緬の女頭巾を被り直しました。お銀様は、いつもよりは早い足どりでお城の大手の方へ、大手の方へとめざして歩いて行きましたが、どうもお君は、それが少しずつ物狂わしいように思われて、不安の念に
甲府の城は
ここへ来ると、お天守台も御櫓も前に見えなかったのが、よく見えます。
お城の大手の濠の前に立ってお銀様は、
「君ちゃん、わたしは、どうも幸内がこのお城の中にいるようにばかり思われてならない」
と言いました。
「左様でございますか」
と言って、お君も同じくお城の方を見ていました。
「幸内は、お父様の大切なあの刀を、あたしから借りて、この御城内のどなたかへ見せに来たものに違いない、この御城内のお方でなければ、有野村の近所で、あの刀を見たいというような人があるはずはないのだから」
「それもそうでございます、御城内のどなた様へおいでなさいましたか、それがわかりさえしますれば······」
とお君の返事から、お銀様は暫く考えて、
「あの、お君や」
と少し改まったように言いました。
「はい」
「お前は、この御城内に
「いいえ」
お君は、どうして

「おありだろう」
と言ってお銀様は、意味ありげにお君の面を見ました。
「いいえ、わたくしなんぞが」
とお君は言葉に力を入れて言いわけをしましたけれど、お銀様はそれを
「お前はこの御城内にお
「お嬢様、どうしてそんなことがございましょう、わたしは
「けれどもお前、よく考えてごらん」
「どんなに考えましても」
「そう、お前、知ってるじゃないか」
「いいえ」
「まだわからないの」
「どうしてもわかりません」
「そんなら、わたしが言って聞かせる、それいつぞや、お馬を調べにわたしの屋敷へお見えになった、あの······」
「あ、御支配の駒井能登守様でございましたか」
「そうそう、あのお若い
「左様でございましたか、それならば、わたしはよく存じておりまする」
「それごらん、知っているくせに」
「それでもお嬢様、あの殿様を、わたし
「いいえ、あの殿様はお前を知っている、お前はあの殿様に
「御贔屓なんぞとお嬢様」
「いいえ、そうではありません、あの殿様からお前に、あんな結構な下され物があったのは、あれは殿様がお前を好いているからなのよ、わたしはそう思っている」
「お嬢様、飛んでもないことでございます、あれはムクの働きなのでございますよ、ムクが殿様のお馬の危ないところを助けたから、ムクへのお礼心で、それで、わたしの方へ、あんな結構な下され物があったのでございますよ」
「そればかりではありません、殿様がお帰りの時に、わたしはじっと見ていました、殿様は幾度も幾度もお前の姿を振返っておいでになりました、お前はそれを知らなかったであろうけれど、わたしはちゃんと見ていました、お前はあの殿様に思われているのに違いない、いいえ、わたしの見た眼に違いはありません」
お君は、お銀様からこの言葉を聞いた
「お嬢様、そんなことをおっしゃって、わたしをお
「いいえ」
お銀様は、冷たい
「お嬢様、もうお帰りになっては
「いいえ」
お銀様は、お城の方ばかりを見ていました。お君もせんかたなしにお城の方を見ていると、
「お君や、お前、あの殿様のところへお訪ねしてみる気はないかえ」
「どう致しまして、わたしなどが······」
「そうではありませぬ、お前があの駒井様をお訪ねすれば、駒井様は、喜んで会って下さるに違いない」
「どうしてそのようなことが······」
「ほかの人では、滅多にお会いになるまいけれど、お前が訪ねて行けば、あの殿様はきっと喜んでお会いなさる」
「お嬢様、そのようなお話は、もう御免を
「まあ、お待ち、お君、お前はそんなに帰ることばかり
「はい」
「わたしは、お前に頼みたいことがある」
お銀様の言葉は、いよいよ権高くなってしまいました。
「お嬢様、今更、そんなに改まって」
「お前に頼みたいということは、いま言った通りお前はこれから、あの御支配の駒井能登守様のお邸まで行って来ておくれ、わたしはここで待っているから」
「お嬢様、そんなお使いが、わたくしなんぞに勤まるものでございましょうか」
「いいえ勤まります、勤まると思うから、わたしはお前に頼みます」
「まあ、どうしたらよろしうございましょう」
「これから行って、橋を渡って大手の御門へ入り、御門番には、御支配様のところへ通る、有野村の伊太夫から来たと言えば、きっと通して案内してくれますから、そうしてごらん」
「それでもお嬢様、殿様がお会い下さるか、下さらないか」
「まだお前、そんなことを言っているの。きっと会います、きっと殿様は、お前の訪ねたことを喜んで、直ぐにお前をお呼びになるにきまっている」
「お嬢様、それはただお嬢様の御推量だけでございましょう」
「そうではありませぬと言うに。それはお前よりも、わたしの方がよく知っている。そうしてお前、殿様の
「そんならお嬢様、わたしが行って、ともかくもお願い致してみましょうか」
「そうしておくれ」
「わたしなんぞが、お訪ねをしたからとて······」
お君はお銀様の言葉というよりは、その圧力の烈しい命令に押しやられるようになって、大手の橋を渡って御門番の方へと歩みました。お君はお銀様からせがまれて御門番のところへ行き、
「御支配様にお目にかかりたいのでございますが」
「御支配様は太田筑前守様か駒井能登守様か」
「駒井能登守様に」
「何の用で」
門番の足軽は六尺棒を突き立て、お君の姿をジロジロと見渡しておりました。
「あの、有野村の藤原の家から参りました、主人より殿様へのお使いでございます」
「左様か」
足軽は
「有野村の藤原家とあらば
「いいえ」
「御門鑑がなければ滅多に通すことはならない······」
と門番は
「のだが······」
という言葉を附け加えて、
「駒井能登守様は格別の
と言いました。
「有難うございます」
とお君はお辞儀をしました。
「しかし、ただいま
「君と申しまする」
「よろしい、有野村の藤原の家から来たお君殿、ただいま取次いで上げる、暫くそこで待たっしゃい」
門番の足軽は
お君が門番の控所に腰をかけて待っていると、そこへ通りかかったのは役割の市五郎でありました。前は一蓮寺の境内でお君らの一行が興行をしている時に、木戸を突かれて大騒ぎを起したのがこの市五郎であります。市五郎はたいそう景気のよい身なりをして、
「案の如く駒井の殿様は御調練のお差図であるが、お前のことを申し上げると、直ぐにお許しになった」
お君は足軽に導かれて行きます。
門番の控所を出た役割の市五郎は、何か考えながら廓の外へ出た時に、またも一人、柳の木の蔭に立っている妙齢の女を認めました。
市五郎は眼を丸くして後ろから、わざとその女の傍の方へ寄って行きました。
「はてな、不思議なことがあればあるもの、今お城の中に入った女がもうここへ来ている」
市五郎は自分の眼を拭いながら近寄りました。そこへ立っていた女は、いま控所で見たお君の姿と身なりも形も寸分違わないで、ただ頭巾を被っているのと、いないのとだけの相違ですから、あまりの不思議とその女の側近くやって来たために、柳の蔭でお城の方ばかりを向いていた女が急に振返りました。
振向かれて市五郎はタジタジとしました。後姿も
お銀様が振返った時に、一時
市五郎が同心長屋の角を町の方へ入った時分に、何も知らないお銀様は、まだお城の方を見て、お君の帰るのを待っている。