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二黒の巳

平出修




 種田君と一しよに梅見に行つて大森から歩いて来て、疲れた体を休ませたのが「桔梗」と云ふお茶屋であつた。

「遊ばせてくれますか、」と種田君はいつもの間延まのびな調子で云つたあとで、「エヘツヘヘ」と可笑しくもないのに笑ふと云つた風に軽く笑つた。私は洋服であつたが、種田君は其頃紳士仲間に流行はやつた黒の繻子目しゆすめのマントを着て、舶来はくらいねず中折帽なかをればうかぶつて居た。

「いらつしやいまし、」と云つて上るとすぐ階子段はしごだんを自分から先に立つて、二階へ案内したのが、お糸さんであつた。色の浅黒い、中高な、右の頬の黒子ほくろが目にたつ、お糸さんはい女の方ではなかつた。すぐれて愛想のよいと云ふ程でもなかつた。それでも私達は其夜からお糸さんがきになつた。月に一度や二度は屹度きつと遊びに行つた。種田君はもう四十を越して居た。私だつて無責任の学生ではなかつた。宿場女郎しゆくばじよらうのさびれた色香にひかされて通ふ身の上でもなかつた。仕事で疲れた頭を休ませに、少し風の変つた処へ遊び場をさがしにあるいてた私達には、お糸さんのうちが最も適当であつた。品川に気のいいお茶屋があると云つては、いろいろの友達にも紹介した。松田君も行つた。宮川君も行つた。骨牌カルタの好きな、そしていつでも負ける草香君も行つた。お糸さんはすぐ是等の人人にもお気に入りになつた。「桔棟」へ行つて遊ばうか。二三人種田君の銀座の事務所に集まるとすぐ相談は決まるのであつた。日の暮れを待たずに行くこともあつた。今夜の費用を出さうと云つてはおごはななどを引いた。料理代をかけて碁をうつこともあつた。お糸さんの内では別に芸者をも開いて居た。おもちやと云ふお酌がまた私達のひいきであつた。其頃は十四であつたかと思ふ。円顔まるがほのむつちりとした可愛らしい子で、額付ひたひつきが今の菊五郎に似て居たので、おとはやおとはやと呼んで居た。おとはやと云はれると嬉しがつてよく私達の云ふ事をきいて、骨牌ふだのお掃除や碁石の出し入れをしてくれた。

「もうあちらへ行きませうよ。」六時がすぎるとお糸さんはいつも催促した。六時をさかひにして昼夜の花に為切しきりがつく、お糸さんは決して六時前にはあちらへ案内をしなかつた。客にむだなおあしを使はせないやうに考へてるからである。そんなことが私達の気に入るのであつたかもしれない。

「今日は此処でくらすんだ。」私はかう云つて動かないことがある。するとお糸さんはせきたてる。

「いけませんよ、待つてるぢやありませんか。」

「誰が誰をさ。」

「誰でせう。」

「だが、じつにもてないね。」

「御じやうだんばつかし。貴方方にそんなことがあるもんですか。みんなが大騒ぎですよ。」こんなことをお糸さんは云ふけれど、花魁おいらんの口上だと云つていい加減なこしらヘごとを客に耳打すると云ふ、そんな人の悪いことは、お糸さんは決してしなかつた。

「どう云ふんだらうとお糸さんに聞くのもをかしいが、じつさい愛想のない女だね、」と私が真面目顔に云へば、

「どうしたんでせうねえ。勿体もつたいないわ、貴方方に。」などとお糸さんは私に同情してくれる丈であつた。

「取りかへてごらんなさい、」と云つてくれたこともあつたが、

「なあにもてなくてもいいんだよ、」と私ははつきりしたことを云はない。

「貴方はさつぱりしていらつしやるんだから、」としひて見立替みたてがへを勧めるでもなかつた。

 ともすると連中一同が調子をはずして大騒ぎをすることがある。宮川君丈が上戸じやうごであとはみんな下戸げこであつた。その下戸の種田君に追分と云ふおはこがあつた。何程どれほど甘味うまみのあると云ふではないが、さびのある落ちついた節廻しは一座をしんとさせることが出来た。金太郎と云ふ芸者がひよつとこ踊でよく喝采を博した。おもちやはつづみをうつ。お糸さんも細いすきとほつた声で、中音に都々逸どどいつ端唄はうたを歌ふ。素人しろうとばなれのした立派な歌ひぶりであつた。さう云ふ中で私も負けぬ気でうろおぼえの御所車ごしよぐるまなどを歌ふのである。ある晩お糸さんが、

「おもちやさんがさう云つてましたの、栗村さんは歌を歌はないといい人だけどとね、」と云つておなかを抱へて笑つた。

「正直でいいね。」私も一しよに笑つた。

「おもちやさんは栗村さんに惚れたのと聞きますと、あの子がおもしろいんですの。惚れたつてつまらないわ、年が違ふんですものと云ふんです。自分と同じ位の人でなくちやならないと思つてるんですね。」

「さうさ。三十と十四ぢや少し違ひすぎるかも知れんね。」

 一年あまりの間に私達の遊びもやや気がぬけて来た。はずみがなくなつたと云はうか興味がさめたと云はうか。とにかく私達の足も大分遠のいて来た。

「すつかりお見かぎりですね。」などとお糸さんは電話をかけて来ることもあつた。私達は共時々いい加減の挨拶をして居たが、其頃は主に新橋で会遊するやうになつて居たのであつた。

「まあお珍らしいこと。」お糸さんは私のかほを見るなりさう云つた。本統に久しぶりであつた。どうした気の向き様か草香君と一緒に半年振り程に「桔梗」へ行つたのである。

「此頃は新橋ださうですね。若くつて綺麗ですから御無理もありませんけれどねえ。」お糸さんはこんなことを云つてしんから珍らしさうに※(「欸」の「ム」に代えて「ヒ」、第3水準1-86-31)くわんたいした。

「どうだ松田君は来るかい。」

「さあ、」と云つてお糸さんはためらつたが、思ひ切つたと云ふ風をして、

「貴方がたお遇ひになりませんの。」

「遇はんこともないが、あまり消息がくはしくないんだて。」

「さうですか。実は大変なんですよ。ほらあちらへ出て居るはごちやんね。」

「あのおばあか。」草香君が引取つて云つた。

「かはいさうに。まだ二十五にしきやなりませんもの。」

「二十五ならおばあだあね、」と私も云つて、

「どんな女だか私にはよく分らないが。」

「二三度一座なすつたでせう。あのうちではお職株しよくかぶですの。もう本気になつて、松田さん松田さんつて、しよつちうのろけちらして居るんです。」

「それがどうした。」

「松田さんがうまいことをまたおつしやるんですから。何しろお若くてお立派で、それにお金持と云ふんですから、誰だつて本気になりまさあ、」とお糸さんは語調をくづして話をつづけた。

 最初は連れとであつたが、此頃は松田はよくひとりでやつて来て、羽衣はごろもと云ふ女を買ひなじんだ。もう女としての見所もない大あばずれだと私達はきいて居た。松田もまだどこかにお坊つちやんの処はあるが、それかと云つてそんな女に打ち込むほどの初心でもないのである。お座なりのお世辞がだんだん身を縛つてしまつて、ぬきさしの出来ない破目はめとなつたのでもあらう。

「さうして松田はどうすると云つてるの。」

為方しかたがないから借金だけ払つてやらうかと、おつしやつていらつしやいました。」

「馬鹿な、そんな事をしてどうなるか。」

「あたしもね、いろいろ考へて居ますけど、あたしから申上げたつてもねえ。」お糸さんは客の不為ふための事となるといつもかう真面目であつた。

 私と草香君とが松田の名で手紙を書いた。あんまり遊んだので首尾がわるくて上海の支店へ出稼ぎにやられた。何月の何日に東京を立つて何日に此地へついた。外国と云つた丈でも分るだらうが誠に寂しくてたまらない。かう云ふ趣意のものを書いてそれを上海の友人へ送つてそこから発信して貰ふ。一方松田君に遇つてしばらく足を遠のかせた。上海の消印のある手紙を請取つてお糸さんは女に見せた。手紙の表書はお糸さんにあてたので、お糸さんから女へ届くやうに仕組しくんであつたのである。女はすつかりにうけて、

「松田さんの奥さんもあんまりだ。あれつぱかしの遊びがなんだ、」と云つて腹を立て、「それにしても松田さんこそお気の毒な。知らぬ他国へなんどやられて、養子と云ふものはつらいわねえ、」と云つて、お糸さんの前でほろはろ泣いて居たと云ふ事だ。


「桔梗」へ行き出してから三年ほど後の事であつた。私は種田君の事務所へ行つた。宮川も草香も先に行つて居て、雑話に耽つて居た。

「今お糸が来るぜ、」と種田君は私を見るなり云つた。

「へええ。どうしたんです。」

「なんだか、先生にお願ひがありますつて、今電話が来たんだ。」

「久し振だね。あの方面の噂も。」

「一体四人が揃つたのも久し振じやないか。」と一番年かさの宮川君が云つた。

「なんだか無事にをさまりさうもないな。」草香君は例の如くにやにやして居る。

「品川方面は御免だよ。」

 こんなことを話し合つて居たが、お糸さんが来たら、何か一趣向ひとしゆかうをしようかと皆が思つてるらしかつた。

「今日はお糸さんがお客さんだ。」

「さあずうつとお先へ。」

 お糸さんが来ると四人が揃つて口口に串戯じやうだんを云つた。

「あら、まあ。」お糸さんも此一座の思ひがけない光景に驚いた。

「まあ。」とまた云つた。「皆さんどうなすつたんです。」

「君を待つて居たのさ。」

「君から電話だつたから、みんなを集めて置いたんだ。」

 お糸さんの用事つてのはつまらないことであつた。品川のある小新聞社の社員が艶種つやだねを売りに来たので、少しばかりの金を「桔梗」のおかみがくれてやつた。それと同じ様なことが外に二三軒あつたので足がついて、其奴そいつが警察へ引かれる。お糸さんもかかりあひとあつて警察へ呼び出された。

「警察へ行つてこれこれだと申上げると、警部さんが一一聞き取つて、何やら書いたものに判を押せと仰有おつしやるんです。判は持参致しませんと申しましたら、爪印つめいんでもいいつて仰有るんでせう。とうとう自分で名前を書いて爪印して来たんですが、一体それは何ていふ書付なんでせう。」

「何ていふ書付か、それはお前さんに聞きたいんだ、こちらで。」と種田君が云つた。

「だつて読んでも見ないんですもの。」

「読まない書付に判を押すと云ふ事があるものか。」私は少し冷笑気味に云つて種田君に向ひ、

「告訴状かしら。」

「さうさね。」

「その告訴つてどんなことなんです。」

「つまり其男が恐喝したんだからよろしく御処分願ひますと云ふやうなことさ。」

「いいえ。あたしから御処分を願ひますなど決して申さなかつたんです。そんなことをするとあとがこはいんですもの。」

「ぢや始末書かも知れぬ。それからどうした。」

「もう帰つてよろしいと警部さんが仰有るものだから、それで事が治まつたものと思つてますと、昨日きのふこんな端書はがきが来たんでせう。」

 お糸さんは帯の聞から二つに折つた一葉の端書を取出した。種田君と私とが殆ど一しよに手を出した。見るとそれは予審判事からで訊問の筋があるから何月何日出頭せよと云ふ、例文の呼出状であつた。最前から話に気を取られながらも黙つて碁盤に向つて居た草香宮川の両君も之を見た。

「なんだいこんなもの。」最初に宮川君がふき出した。

「昨日夕方この端書が来ましたの、あたしに裁判所へ来いつてんでせう。私もうこはくてこはくて、昨夜ゆふべは寝ずに心配しましたわ。」

「何も心配することがないぢやないか。」種田君は微笑み乍ら云つた。

「だつて未決とやらへやられるつてぢやありませんか。」

「馬鹿な、そんな事が。」私は言下に打消した。

「でも内のねえさんが、それはそれは大騒ぎをやるんでせう。未決へ行くと、毛布がいるの紙がいるのつてね。明日あしたは内へ帰らない覚悟で出なけりやつて、今朝からお不動様を拝んで居ましたんですの。」

「お前さんがつまりゆすられたんでせう。」

「さうですわ。」

「自分がゆすられて、自分が監獄へ行つてたまるものか。」

種田君は全く真顔で説明をした。

「此端書はお前さんに尋ねたいことがあるから出て来いと云ふんだ。何でもない事ぢやないか。証人に呼ばれたんだよ、お前さんが。」

「へえ、それぢやまた警察のやうなことを聞かれるんですか。」

「さうだ。」

「それで先生。」お糸さんは少し落ちついた。「ねえ先生あとがこはいんですから、おあしはあげたけれど、あれは先方で何も仰有らないうちに、あたしからあげたんですつて、さう申したらわるいでせうか。」

「それこそ未決騒ぎがおきるよ。」私が話を引取つた。

「先方が何も云はんのに、君がおあしを上げたつて、そんなことは云つたつて、誰がほんとうにするものかね。」

「それはさうですねえ。」

「そんな嘘を云つちやいけないよ。」宮川君も側から口を出した。

「だつて跡がこはいんですもの。」

「跡がこはいからつて。それよりは明日の事だ。明日丈のことは正直に云つてしまへば、お不動様も何もありやしないよ、」と私が云つた。

「それぢやすぐ未決などへやられることはありますまいか。」お糸さんはまだ不安げに念を押してゐる。

「大丈夫さ。心配することはないよ。両先生が後見して下さるんぢやないか。」草香君が此話の総括そうくくりをつけてしまつたので、お糸さんは心から嬉しさうに、

「それで内での相談に、どうしたらよからうつて姐さんといろいろ考へましたの、何んでもこんな事は先生方におきき申すのが一番早いと思ひまして、電話でお伺ひ致しましたんです。あたしの様なものが上つて御迷惑かと存じましてね。ああ、もう之れですつかり安心致しました。」と何遍も何遍もお辞儀じぎをした。

「先生へ御礼はどうするんだい、」宮川君がそろそろからかひはじめた。

「いえもうなんなりとも、」とにつこりした。

 こんな時でも此女にはなまめかしいと思はれるこなしがちつとも見えない。あのきりやうでじやらじやらされては却つて辟易へきえきするかも知れぬが、盛り場に育つてここに年中呼吸して居る女とはどうしても思はれない。


 その次にお糸さんに遇つたのは一年ほど経つてからであつた。東京座で団蔵の師直と梅幸のお岩とが呼物で大層な景気であつた。私は家内と子供をつれて見物に行つた。其日お糸さんも三業組合の連中で私達のつい傍のますへ来てつた。私を見付けるとやつて来て何やかや話をして居た。家内にも挨拶をして居た。「おもちやさんも来てますよ、」と云つて、

「あすこの土間で、お納戸なんど色の羽織をきて、高島田につてませう。いまちよいと中腰になつてます、あれですよ、」

と指さして居ると、おもちやもふつとこちらを向いた。お糸さんはおいでおいでをした、「なあに。」と云つたやうなこなしをして私の方へ桝の枠をつたはつて来た。

「栗村さんよ。おもちやさん。」

「まあ、」と云つておもちやは頭を下げた。

「大きくなつたなあ。」私は本統にかう云はずに居られなかつた。「もう立派な姐さんになつたね。」

「え、え、此頃はもう、隅におけませんよ。」お糸さんは蓮葉はすつぱに云つた。

「いやよ姐さん。」眼のぱつちりした、額付の広いところがお酌の時のおもかげそのままではあるが、女になり切つてしまつたところが、其日の私には珍らしいのであつた。

「此人だあね、」と私は家内を振り返つて、

「歌さへ歌はなけりやいい人だと云つたのは。」

「さうでしたか、」と家内も笑つた。

「そんなこと、まだおぼえていらしつたんですか、」とおもちやも笑つた。

 次の幕合まくあひにお糸さんは、子供にと云つておもちやの箱を買つて来てくれた。そして此楽屋がくや裏にお岩様を祭つてあるからお参りにいらつしやいと誘つた。

「可愛いお嬢さんですこと、本統に可愛いんですこと、」

と云つて娘の手を引いてくれた。私達もその跡についた。楽屋のうす暗い二階を上つたところに祭壇がある。初穂はつほ、野菜、尾頭付の魚、供物ぐもつがずつとならんで、絵行燈ゑあんどんや提灯や、色色の旗がそこ一杯に飾られて、稍奥まつた処にあるほこらには、線香の烟がまうとして、蝋燭の火がどんよりちらついて居る。お糸さんは祠の前へ跪坐きざして叮嚀ていねいに礼拝した。

「何を願つて来たの、どうかいい人を授けて下さいかね。」

「商売繁昌をお願ひ申したんですわ。」

「ここへ来てもまだ慾張つてゐるんか。」

「一番当りさはりがなくつていいでせう。」

「神様の前に当りさはりを考へてゐるものがあるものか。」

「当りさはりつて云へば、いつかはいろいろ御心配をかけまして、あの裁判の事で。」

「どうしたね。種田君から一寸聞いたけれど。」

「お蔭様でねえ。あたしお話伺つてすつかり安心しちまひまして、夕飯まで遊ばせて戴いたんでせう。帰つたのが十時頃でしたわ。内ぢやお昼過ぎに出たつきりなもんですからどうしたんだらうと云つて心配してゐましたつてさ。私の顔を見るとどこへ行つてゐたんだよつて、姐さんが申しますの。これこれだと話をすると、それはまあよかつたと皆が喜んでくれましてね。それでもあたしばかりそんな呑気に御馳走になつたりなんどしていいけど、内ぢや大そう心配して居たんですから、姐さんの前へきまりがわるくなりましてね。」

「それで裁判所へ行つたの。」

「ええ、行きました。午前九時つてますから、一生懸命に朝起して出かけましたの。十一時頃まで、あの廊下の椅子の処で待たされて散々になつちまひました。判事さんの前へ行きますと、お前は誰だつて、大そう威張つてねえ。」私達はもう舞台の廊下に来て居つた。単物ひとへものからセルへうつる時候で、生憎あひにく其日はむし熱いので、長い幕合を涼みがてら廊下に出て居る人が多かつた。

「それから·········と云ふ者を知つてるかとおつしやいますから、へいと申しました。どうしておあしをやつたかとおたづねになりますから、ふだん懇意にしてますからと申しますと、懇意にしてるからつておあしをやるやつがあるかとどなられましたの、もうあたしふるあがつちまひました。」

 そこへおもちやもやつて来た。

「姐さん夢中ね。」

「ああ。あの裁判のお話さ。」

「さう。」

「大きくなつたなあ。」私はまたかうくりかへした。「いくつかね。」

「十八になりました。」

「もう四五年もたつたからなあ。」

「この頃はちよつともいらしつて下さらないんですもの。ねえ姐さん。」

「新橋の方がそりや上等ですもの。」

「そんな訳ぢやないんだ。すつかり納まつてしまつたんだよ。さうさう。此間やまと新聞かで品川芸者の評判記が出てゐたが、おもちやさんが一流の流行つ児だと書いてあつたんだ、蔭乍ら喜んで居たよ。」

「どうも御親切様。」

「しかし女はかうも変るものかね。それにくらべるとお糸さんはいつもおんなじだが、一体いくつかね。」

「もうおばあさんですよ。」

「さうでもあるまい。けれど初めて遇つたときだつて、まさか十九や二十ぢやなかつたんだからなあ。やつぱりひとりかね。」

「誰が相手にしてくれますものか。」

 舞台の用意が出来たと見えて、木がはいつた。やがて幕あきのしやぎりの鳴物なりものが耳に近く響いて来た。


 私達の連中もいろいろ変つた。松田君は二年程掛かつてこしらへ上げた保険会社と銀行とで、社長やら頭取やらの位置を占めて、青年実業家として方方を切廻して居る。草香君は其会社の支配人となつた。宮川君は何か失敗してしばらく音信もしない。一番気の毒なのは種田君で長いことわづらつた。そして脊髄の疾患で立ち居が不自由になつた。小半里の路さへ歩くにも容易でない。ふだん半病人の生活をつづけて居る。去年の一月の中頃であつた。種田君と私の家族とが穴守あなもりへ遊びに行つて一泊して夕方帰途についた。蒲田で乗換へた品川行の電車が生憎あひにく混雑して居つて、腰をかける席もなかつた。種田君の病体では釣革をたよりに立つて居るのが苦しさうであつた。中途でしやがんだりしてやつと品川へついた。電車を下りたら目まひがしてあるけぬと云ひ出した。どこにか休んで行かうと云ふことになつたが、どこへ行くと云つても外に知つた家もないから、「桔梗」へでも行かうと云ひ出した。細君達や子供は先へ帰ることにして私が残つた。

 二人は「桔梗」の入口の戸をあけてうちへはいつた。六畳の上りはなけやき胴切どうぎりの火鉢のまはりに、お糸[#「糸」はママ]さんとおなかさんとがぼんやりして居た。今私達があけた戸口から外の寒い空気が、いいあんばいにぬくまつてゐた二人の女のはだへをさした。なげしの上の神棚の灯がちよつとまたたいた。

「今晩は。」

「あらつ。」二人の女は等しく目をあげた。

「いやお久しう。」種田君は例の調子で、例の笑ひ方をした。

「お糸さんは。」

「居ますのよ。まあおあがりなさいまし、」と私達の方へ云つてお仲さんは二階の方へ、

「お糸姐さん、お糸姐さん、」と呼んだ。そそくさと二階を下りて来たお糸さんは、

「どうなすつたの、」と云つて種田君の外套に手をかけて半ばぎかけたのを受取つて、

「全くねえ、あんまりなんですもの、」と訳の分らぬことを云ひつつ,お仲さんの袖をひいて、

「お二階はなんだしね。」

「一寸休ませて貰へばいいんだ、奥でいいんだよ、」と種田君は中腰になつて火鉢に手をかざした。

「今日は穴守の帰りさ。種田さんが気分がわるいと云ふんで、奥さんの承認を経てここへ来たんだ。あたたかくしてやつてくれ給へ。」

 二人はやがて奥へ通つた。座蒲団が薄いからつて二つも重ねてくれたり、火鉢は二つで足りないつて三つに火をかんかんおこしてくれたりして、お糸さんは一人でせかせか働いて居た。少し落付くと種田君も気分が直つた。おなかがすいたので何かのあつらへもした。お糸さんは湯婆ゆたんぽをこさへて寝巻と一つにもつて来て、

「まあこれでも抱いて、お寝巻をおひきなさいまし、本統にびつくりしましたわ。それでも忘れて下さらなかつたんですわねえ。」と云つて気をかへて、

「種田さんは長いことおわるくいらつしつたんですつて、お話は承つてをりましたんですけど、お見舞も致しませんですみません。ちつとはおよろしいんですか。まだおわるさうね。お困りですことねえ。」

「こんないい人が、こんな病気になるつてのは実に天道様てんたうさまもひどいよ。」

「全くねえ。どこがお悪くいらつしやいますんです。」

「ここの辺だ、」と種田君は腰のまはりを撫でて、

「腰がふらふらするのでね。」

「まあ、どうしてそんな御病気に。」

「道楽のむくいさ。」種田君は笑ひ乍ら云つた。

「貴方にそんなことがあるもんですか。ねえ栗村さん。それはさうと少しはおあつたかくなりましたの。」

「大きに。お蔭で、結構、結構。すつかりいい気分になつた。おもちやさんでも呼んで貰はうか。」

「およろしいんですか。そんなことをなすつても。」

「おもちやが来たつて、口説くどくと云ふ訳ぢやないぢやないか。」

「あら、さうでしたわねえ、」とお糸さんは、立つて膳を運ぶやら、寂しいから景気づけにと銚子を一本もつてくるやらして居た。間もなくおもちやが来た。

「いよう。」種田君はこの大人おとなびた女の姿を好奇の目で迎へた。

「いやよそんなに、あたしの顔ばつかり見ていらしつて。」

別嬪べつぴんになつたねえ。」間延まのびの口調がいかにも誇張のない驚きをあらはしてゐる。

「何しろ品川で一流だからね。」

「そんなにおだてるもんぢやなくつてよ。さあ、久しぶりにお聞かせなさいな。」

「歌つてもいいかい、又蔭で何のかのと云はれるからなあ。」

「またあんなこと、もう忘れつちまふんですよ。昔のことなんか。」

「どうです。かう云ふ薄情はくじやう女です。」

「いいことよ。」

一昨年をととしだつたね、芝居であつたのは。」

「さうでしたわ。そのせつはしつれい。」

 おもちやは軽く会釈えしやくして三味線を取上げた。種田君は追分を唄つた。ちやんとつぼにはまつた声が快くみんなの耳に流れ込んだ。

「栗村さんは。」

「歌ふさ。歌つても大丈夫かい。」

「もう決して嫌つたりなんぞ致しません。」

 一頻ひとしきり陽気になつた。お糸さんも二階のお客さんを送りつけて手がすいた。

「みなさんに一度揃つて来ていただくといいけどねえ。」お糸さんはかう云つて、一さかりのあつた私達の連中を、一一云ひ出しては、「どうしていらつしやるの、」と聞糺ききただして居たが、

「先日松田さんがいらしつてよ。」

「ほう。」私達はお糸さんの話を迎へた。

「四五人連でおいでになつて、みんなにはいいのをあてがつてくれつて、御自分はぢきにお帰りなさいました。貴方はと申しますと、『お糸さん、私も昔と違つてなあ、どうも品川で女買が出来なくなつたよ。』つて笑つていらつしやいました。」

「さうさな、松田君も今は日の出だからなあ、」と私も云つた。お糸さんは其詞の後について、

「貴方ののがまだゐますよ。」

「へえ、あれがかい。これは驚いた。」

「今夜行つておやりなさいな。」

「松田君ぢやないが、どうもねえ。しかしお糸さん、あの頃もをりをり話したこつたが、どうしてもあの女とは気が合はなかつたね。」

「さうでしたわねえ。どうしたんでせうね。」

「やつぱりもてないのさ。ところで一つ珍談があるんだ。お糸さんにも話さない事なんだが。」

「あのひとのことで。」

「さうさ、なんでも年の暮だつたよ、ここから皆と一しよに行つたんだ、もう座敷はあいてゐないので、例の通りすぐ返らうとすると、妙にとめるんだねえ。をかしいなと思つたけれどちつとは己惚うぬぼれもあるわね。まあ名代みやうだいへ坐り込んだ。すると女がやつて来て、ありもしない愛嬌を云つてるだらう。いい加減にこつちもあひしらひしてゐると、こんどはあの婆さんが来て、年始の手拭を何反とかこさへてくれと云ふんだ。」

「そんな事がありましたかしら、そしてどうなすつたの。」

「まさかいけないとは云はれないぢやないか、いくら位いるんだと、わざと問うてやつたのさ。大したことではありませんと云ふから、之れで間に合しておけと云つて、拾円ふだを一枚おいてきた。小一年にもなる女だから、それ位のことは惜しくもないさ、惜しくつともまあ惜しくないつてことにしておくさ。けれど甘く見てやがるかと思ふと、癪にさはつたよ。」

「それでも貴方は、あの人一人つきりにしておおきなすつたわね。」

「かへたつてどうなるものか。」

「だから今夜行つておあげなさいよ。」

「もう真平まつぴらだ。」

 かうは云つたけれど、私はどんなにして居るか遇つて見たいと思はぬでもなかつた。四年もたてば、私も変つた。女も変つたであらう。どれほど変つたか遇つて様子が見たかつた。しかし突然今私が行つたら女は何と思ふであらう。私はかう云ふ種類の女に対しても常にある憧憬どうけいをもつてゐる。もし私の憧憬する幻をもととして、私にあつた今夜の女の心持を想像して見ると、女は屹度きつとはづかしいと思ふであらう。四年にもなる今日迄、まだこんなざまをして居りますと云はなければならない女の苦痛は、決してなみ大抵ではあるまい。

「今日来て下さる丈の親切のある方なら、なぜ顔を見ずに帰つて下さらなかつた、」と云つて、口に出さぬまでも心に怨めしく思ふであらう。それ程つらい思を女がするだらうと思つてるのに、そのつらさうな顔を見に行くのは、私はあまりむご為打しうちであると思つた。もし又私の想像に反して、女が案外平気で洒蛙洒蛙しやあしやあして居つたら、私の美しい憧憬は破れ、私の美しい幻は即座に消えてしまふであらう。さうなれば私の方で苦痛だ。私はまだ夢の中の人間となつて居りたいのであつた。

「何しろ今日は看護人なんだから、」と云つて、九時少し過ぎに「桔梗」を出た。

 乾ききつた寒中の夜の風は、外套の袖をつらぬく程であつた。折角せつかく暖かになつた二人の身体はまた凍り付くかと思はれた。種田君はややたしかな歩調を運ばせ乍ら、

「どうも不思議でならん、」と呟いた。

「何がです。」

「あすこの内のものの親切がさ。実に今夜なども有難い位であつた、」と種田君は沁沁しみじみ感じ入つて居つた。


 それから一年の間は私の病気の記録の外何もない。去年の十二月の初めに内のものが帝劇へ行つたらお糸さんに遇つたと云ふ話をして居つたきり、噂もなかつた。梅はもう遅く桜はまださかない今年の三月の中頃であつた。病上りの身体で少し疲れも来たから、穴守へでも行つてゆつくり遊んで来ようと思つた。友人の藤浪君と二人づれで行くことにした。れでもどうやら物足らない様に思つたが、ふと病中にきいたことを思出した。帝劇で遇つたときお糸さんが羽田に居ると云つて居つたと、内の者が帰つてから話をしたその事である。ひよつとしたら羽田へ旅館でも出して居るのかもしれない、さうとすればその内へ行つてやればいい。すぐ「桔梗」へ電話をかけさせた。

「お糸さんが電話口ヘ出ました。」と執次とりつぎの者が云ふ。をかしいと思つて、自分で話して見ると、羽田に居ると云ふのは何かの聞違ききちがひで、やはりあの内に居るんだと云ふことだ。

「もしお前さんが羽田へ行つてるのなら、尋ねようと思つてね。」

「いいえ、あたしはやつぱり内ですよ。貴方がた羽田へいらつしやるの。」

「これから行かうつてんだ。どうだ、一しよに行かないかい。」

「本統ですか。」

「本統とも。」初めは本気でもなかつたが、おしまひに今これから行くから支度をして待つてをれと云ふ約束になつて電話を切つた。

「さあ行かう。」私は藤浪君をせき立てた。出がけに不意の来客などがあつた為時間が少し延びた。八ツ山下で電車を下りた。其あたりは往来の人で相変らずの雑沓だ。鉄道線路の上にまたがつて居る橋の上には、埋立工事の土車つちぐるまの運転を見ようとして、誰も誰も一寸ちよつと足をとめて見る。「こらつ、たつちやいかん、」と云つて査公がやかましく逐払つてゐる。払はれた人が通りすぎもせぬうちに又新らしい人が立ちどまる。査公は終日「こらつ」を繰り返さねばならぬのであつた。

 お糸さんは待ちあぐねて居つた。

「かつがれちやつたのかとも思ひましたが、電話がまじめなお話ですし、そんなわるさをなさる方でないし·········。」

「どうもお待ち遠さま。」

「あら、そんなに改まつて、何ですね。もう此頃はおよろしいんですか。」

「まあ生命いのち丈は取りとめたよ。」

「それはお目出度うございました。一体御病気はどんな·········。」

「肋膜さ。」

「さうですか。うちのおもちやもやつぱり。」

「肋膜をやつてるの。」

「ええ、赤十字病院へ行つてますの。も二月ほどになります。」

「そりや大事な金箱を痛めて困るね。此病気は長いからな。」

 お仲さんの酌んで出した番茶に喉をうるほして三人づれで出かけた。

 館の門をはいると、女中が式台しきだいの処へ出迎して居る。

「妙なお客が来ると思つてるだらう。」私は女中の方を見乍ら云つた。

「男二人に女が一人つてんだからな。」藤浪君も笑つた。

「その女もこんなにきたないおばあさんですものねえ。」

 果して女中の眼の中には判断に迷つたらしい色がただよつて居た。

「おとまりでいらつしやいませうか。」座敷の都合でもあるのか、此三人の正体をさぐる材料にでもするのか、女中はかうきいた。

「とまるかも知れんが、とにかく二時だ、御空腹と云う処だ。」

「かしこまりました、」と云つて女中は奥まつた座敷の二階に通した。

 上日うはひがいいので、電車から橋を渡つて赤い鳥居の並んだ途をあるいて来る間に、全身は少し汗ばむ程であつた。座敷へ落着くと軽い疲労を覚えて私はすぐ横になつた。わづらつた左の肋膜がまだいたむので右に臂枕をした。お糸さんは枕をさがしてきて、お寒いからつて私のマントを取つて上へかけてくれた。

「やつぱりやせていらしつてね。」

「まあ見てくれ、こんなだ。」私は寝ながら左の腕をさしのべた。

「いたいたしいこと。あたしはこんなに、」とお糸さんは右の袖をかかげて見せた。節の短い円く肥つた腕ではあるが、女らしいふくらみがないのであつた。

「強さうだね。」藤浪君はかう云つて、

「僕はどうだ。」がんぢやうな前膊ぜんはくの皮膚はやや赤味を帯びて、見るから健康を語つてゐる。

「いい体格だね、」と私は惚れ惚れしてそれを飽かず見入るのであつた。

 私はだんだん眠けがさして来た。お糸さんと藤浪君とはいろいろ面白いことを話合つて居る。

「ぢや今はおひとり。」お糸さんが藤浪君にきいた。

「独りだ。先月八人目のかかあににげられたんだ。」

「どうなすつたの。」

「何にもしないが逃げるんだ。」

「そんなことがあるもんですか。」

「実際だ。八人のうち、二人に死なれて、六人に逃げられたんだ。どうかと云つて手を合せて拝むんだけれど、みんな逃げてしまふ。それも僕の景気のいい時ならいいんだが、もう為方がないときばつかり騒ぐから、逃げて行く女に手当もやれずさ。」

「逃げて行くやうな女でもかはいいものですか。」

「そりやさうとも。僕の方ぢや決して憎くないんだからね。ああして僕をすてて行つても女の身で差当り困るだらうと思つて、どうにか出来るまで辛抱して居てくれといつでも頼むんだ。女と云ふものはひどいよ。景気がわるいと騒ぎ出すからな。」

「奥さんと別れたとき、おさびしくはなくつて。」

「それは寂しいさ。ああまたひとりものになつたと思ふと、世の中がまつくらになるやうに思ふね。」

「それでも新しいかたがお出来になればいいでせう。」

「さあ。さうだが前の女もやつばりかはいいね。」

 私はこんな会話を半意識的に聞いて居た。先月私が伊豆の転地先から帰つて来ると藤浪君が留守中のことを話した。その後で茶を酌み乍ら、藤浪君が女房を離縁したと云ふことを自分から云つた。

「僕をおどつもりだつたんだらう、離縁状に判を押せと云つて来たんです。よしと云つてすぐ署名捺印した。そして僕から戸籍役場へ直接郵送してしまつたんです。するとあの離縁状は私の本心でないからつて、嬶が手紙をよこしたが、それはもう届を発送したあとだつたから、今頃は驚いてるでせう。」

「無茶のことをするね、君。」

「なあに金が出来れば又どうにもなりますよ。さうだが今の僕の境遇ですから困るんです。」

 かう云ふ藤浪君の態度は、今は貧乏故、すてて行く女に手当もやられぬことをうらみとすると云ふことの外、何の未練もないやうに見えた。けれど今きいてゐれば、あの無頓着な、どちらかと云へばちとずぼらのすぎる男の胸にも、女に逃げられた時の寂しみを味つてゐるんだと私は思つた。

 そのうちに女中が膳をもつて来た。

「姐さん五勺でいいから、」と藤浪君は酒をあつらへて、

「景気をつけよう、」と云つて独りで陽気になつて居る。私も起きて箸をとる一人となつた。

「こちらのお話は面白いですねえ、」とお糸さんは私に話しかけた。

「本統に奥さんがおありなさらないの。」

「なあにいい加減のことよ。それでも君がどうかしたいつて云ふんなら。」

「あたしがどうしようたつてねえ、貴方。」お糸さんは藤浪君を見てはれやかに笑つた。

「僕の方はすぐでもいいんだがね。ただいつまでもくつついて離れないつてのが欲しいよ。お糸さんならそこは確かだらうと思ふ。」

「わかりませんよ。景気がわるくなると逃げだす方かもしれません。」

串戯じやうだんは串戯だが、お糸さんはまだないの、」と私は詞を改めた。

「そんな気のきいたものがある位なら。」

「ないつてことがあるかね。」

「ほんたう。そんなものがあれば大変ですもの。」

「何が大変なんだ。」

「うちがですよ。それはなかなかむづかしいんですから。」

「むづかしいつて、お糸さんは『桔梗』の娘分だらう。」

「ええ。」

「それでどうして。」

「とても駄目なんです。もうあきらめてゐますわ。」

「あきらめる年でもあるまい。一体いくつになるね。」

「あたし、じこくのみです。」

巳年みどしと云ふと、とかく執念深いだらう。」

「いいえ、おなじ巳でも一白や三碧とはちがひますの。縁の薄い星ですつて。」

「僕もじこくのみだ。ぢやお糸さんも二だね。僕もやつばり星にまけてるんだ。」と藤浪君が云つた。

「貴方も星まはりが悪いんですわね。」

「じこくのみは三十二か。それならまだ盛りと云ふもんだ。今の内ならどうにもなるだらう。」

「もう遅うござんすわ。考へてごらんなさい。どんなかたが来てくれますか。殿方で三十五六で独り身だと云ふ方は、何かそれには訳がありませう。」

「さうさなあ。女房にさられたとか、しにあとで子供があるとか。さもなけりや身がもてないとかだらうね。」

「だもんですから考へて見ますと、おそろしくなりますの。と云つてまさか二十代の人ももてませんでせう。」

「それもさうだな。けれどさうしてゐたら、心細くはないの。」

「たよりないとも思ひますわ。行先のことなど考へますとね。けれど男の方ほどあてにならないものはないやうな気もしますわ。」

「浮気もの相手の商売をしてゐるから、そんなところが目につくんだ。」

「僕はまた女ほど宛にならんものはないと信じて居る、」と藤浪君が云つた。

「さうぢやありませんよ。女の方がまだたしかですよ。」

「君がさう云つても駄目だよ、」と私は藤浪君に云つて、

「お糸さんは、女買にゆくときの男を知つてる丈で、まじめなときの男を目に入れないんだから。」

「大さう話がむづかしくなりましたこと。あ、貴方の華魁おいらんね。あのしともひきましたよ。」

「さうかい。一ぺんあひたかつたな」

「うそばつかり。これですもの、殿方はあてにならないわ。」

 食事を終つた頃私達の隣の間へお客が来た。間の唐紙からかみをたて切る女中の後からちらとその客の様子を見て取つた。夫婦ではなさ相な若い男女の二人連であつた。廂髪ひさしがみつて羽織を着流したすらりとした肩付は、商売人ではない。

「やつてるなあ。」藤浪君がおさへる様な声をして笑つた。

「そんなに岡焼おかやきなさるから奥さんに嫌はれるんですよ。」お糸さんも亦忍び声で云つて笑つた。私も笑つた。

 日脚が短い。五時にはあかりがついた。夜の商売だからと云つてお糸さんは帰り支度をした。そこまで送らうと云ふので三人揃つて出かけた。

「貴方方おまゐりは。」

「稲荷様なんぞどうでもいい。」

「でもあらたかですよ。」

「心願するかね。」私は藤浪君を振り向いた。

「例の一件が成功する様につてか。」

「とにかくいらつしやいな。」お糸さんは要館かなめくわんを出て左の本堂の方へ行く。私達もついて行つた。堂のうらを通つて右へ曲ると、社務所がある。お札やお米を受ける所もある。其向うがお穴様だ。お糸さんは油揚あぶらあげを買つてお穴様へ供へた。そして御鈴みすずを何遍もふつた。かすか柏手かしはでもうつた。長いこと礼拝をした。やがて暗い穴の中へ杓子を入れて砂を三杯ほど紙袋につめた。

「なにするんだい、」と私が問うた。

「これですか。お砂を戴いて行きますの。之を庭先にまいておきますの、商売繁昌のおまじなひに。」

 それから本堂の前へ出た。そこにもお糸さんはお参りをした。私達も引きつけられたやうになつて、真実心でお参りをした。

「お土産みやげは。」

「もう沢山ですわ。いろいろ有難うござりました、」と云つて二歩三歩お糸さんはあるいたが、

「今夜いらつしやらないの、」と云つた。

「ああ、病人だからね。」

「さうでしたわねえ。ぢやしつれいします。どうぞお近いうちに。」

 私達は赤い大きな鳥居の傍で、お糸さんの小走りで帰つて行く後姿を見送つた。

(明治四五・六・八|一〇稿/「スバル」明治四五・七/『畜生道』所収)






底本:「定本 平出修集」春秋社


   1965(昭和40)年6月15日発行

※底本のルビは片仮名で表記されていますが、外来語を除きすべて平仮名に直して入力しました。

※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された3行を、丸括弧で挟んで組んであります。

入力:林 幸雄

校正:松永正敏

2003年5月6日作成

青空文庫作成ファイル:

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