大正五年秋十月。
八月の中旬に英京倫敦を出た吾々の船は、南亞弗利加の喜望峯を

勿論自分は後にして來た亞米利加、英吉利、佛蘭西に樂しく過した春秋を囘顧して、恐らくは二度とは行かれないそれらの國に、強い悔恨と執着を殘したことは事實であつた。けれども、過ぎ去つた日よりも來るべき日は、より強く自分の心を捕へてゐた。常に晴れわたる五月の青空の心を持ち、唇を噛む事を知らずに、温い人の
船はもう神戸に近く、陸上の人家も人も近々と目に迫つて來た。昨夜受取つた無線電信によると、九州から遙々姉が出迎ひに來てくれる筈である。東京では父も母も弟も妹も、九十に近い祖母も待暮してゐるに違ひない。その人々にも今夜の夜行に乘れば明日の朝は逢へるのである。日本人には珍しい、狡猾卑劣な表情を持つてゐない公明正大な父の顏、憎惡輕侮の表情を知らない温情の象徴のやうな母の顏が、瞭然と目の前に並んで浮んだ。常に何等か自分の心を打込む對象が無くては生きてゐる甲斐が無いと思ふ自分にとつて、自分程立派な兩親を持つ者は世界に無いと思ふ信念に心のときめく時程純良な歡喜は無い。その父母の家に明日から安らかに眠る事が出來るのだ。幾度も/\甲板を
午前九時、船は遂に神戸港内に最後の碇を下した。船の

其處へ
豫て神戸横濱の埠頭には此種の人々がゐて、所謂新歸朝者を惱ますとは聞いてゐたが、それは知名の人に限られた迷惑で、自分の如きは大丈夫そんなわづらひはないと思つてゐたので、同船の客の中に南洋視察に行つた官立の大學の教授のゐる事を告げて逃げようとした。けれども彼等は承知しない。五分でも十分でもいゝから自分の話を聞き度いと言ひ張る。話は無い、話し度い事なんか何にも無いと云ふと、そんなら寫眞丈
これは一層自分には意外な請求だつた。誰人も名さへ知らない一書生の寫眞を新聞に掲げて
ちやんと用意して待つてゐた各新聞社の寫眞係りが、籐椅子を据ゑ、いかにも美術的の趣向だといふやうに浮袋を側に立てかけて、扨て自分を腰かけさせた。
馬鹿々々しい事だと思つた時は、もう寫眞は撮つてゐた。それでおしまひだと思つて立上らうとすると、新聞記者は最初の約束を無視して、是非とも話をしてくれと迫つて來た。約束が違ふではないかと
二人の中のどつちが朝日の記者で、どつちが毎日の記者だつたか忘れてしまつた。後日の爲に名刺丈は取つて置いたから机の抽出でも探せば姓名は判明するが、それは他日に讓らう。兎に角此の二人は、他人の一身上に重大な關係を
五分は瞬間に過ぎた。時計の針が五分

第一の問。貴下は外國では何を勉強して來ました。經濟ですか。
第一の答。私は雜學問をして來たので、何といふ一科の專門はありません。但し學校では經濟科の講義を聽講しました。
第二の問。文學の方はやりませんでしたか。
第二の答。私は學問として文學を修めた事は、日本にゐた時も外國にゐた時も、全くありません。
第三の問。今後職業を擇ぶに就ては保險事業をお擇びですか、又は慶應義塾の文科で教鞭をおとりになりますか。
第三の答。私の父は保險會社に勤めてゐますが、それも家業といふのではなく株式會社の事ですから息子も必ずその仕事をするといふ事はありません。慶應義塾になんか行つたつて教へる學問がありません。
第四の問。貴下の就職問題に就ての御尊父の御意見は。
第四の答。父は私の選擇に任せるでせう。
第五の問。外國の文藝上の新運動について何か話して下さい。
第五の答。別に新運動なんてものは無いでせう。日本の方がその點では新しいでせう。
恰も五分たつたので自分は最後の一句を冗談にして立上らうとした。するとたつたもう一つ質問し度いと云つて引止められた。第六の問。今後も創作を發表しますか。
第六の答。氣が向けばするでせうが、兎に角自分なんか駄目です。以前書いたものなんか考へても冷汗です。
傍から梶原氏が、あれは既に作者自身が葬つたものであると、自分の小説集「心づくし」の序文を引いて説明してくれた。右の如く簡短な質問に對する簡短な返答で苦痛の五分が過ぎた時、自分は後には何も氣がかりな事の殘つてゐない爽快な心持で姉や知人の群に歸つた。梶原氏は、自分の新聞記者に對する應對が意外に練れてゐると云つて稱讚し、これを海外留學の
船の人々に別れを告げ、上陸してからは先づ湯にでも
事毎に新鮮な印象を受ける久々の故郷は、自分を若々しくした。姉は自分をつくづく見て、
樂しい食事の後で、自分は姉夫婦と話しながら夕方迄その家に寢轉んでゐた。新聞記者の事なんか
三宮驛から、夕暮汽車に乘る時に、何氣なく大阪毎日新聞の夕刊を買つた。その二面に
今此處にその長々しい出たらめの新聞記事を掲げて、一々指摘してもいゝけれど、第一の問題たる廢嫡云々が、自分の如き我家の四男に生れたものにとつて、
あまりの事のをかしさに自分は抱腹して、その新聞を梶原氏及び姉夫婦に見せた。
何處からどういふ關係で、自分に廢嫡問題なるものを結び付けたかは、その時はあまりの馬鹿々々しさに存外氣にもかけなかつた。自分はたゞその記事の、今朝甲板上の五分間に取交した問答に比べて、あまり手際のいゝ嘘であるのを憤つた。しかし
第一にをかしかつたのは「氏は黒い頭髮を中央から
記者は先づ自分と父との間に職業問題に就き「意志の疎隔を生じ居れりとの風説」を糺したと云つてゐるが、彼は自分にむかつて、そんな質問をした事は無い。自分は父の寵兒ではあつても父との間に意志の疎隔などを生じてはゐなかつた。しかし狡猾なる記者は、その失禮な質問に對して、自分が平氣で返答をしてゐるやうに捏造した。「併し私の趣味が既に文學にあるとすれば保險業者として私が父の如く成功するや否やは疑問です」と洒々として新歸朝の青年文士は述べてゐる。
幸か不幸か自分は其の後某保險會社の一使用人として月給生活をする事になつた。自分と雖も會社に於て、出世をするのはしないよりも結構である。それが「成功するや否やは疑問です」などゝふてくされた事を云つてゐると思はれるのは[#「思はれるのは」は底本では「思はれのは」]、第一出世の妨げであり、同僚諸氏に對しても甚だ心苦しい次第である。
次に上述の廢嫡問題が出て、その廢嫡を事實にしようと運動してゐるのは「三田文學」の連中で、青年文士はその運動者に對して「私はその好意を感謝するものです」と云つてゐるのである。
想ふに此の記事の筆者は極めて想像の豐富な人であらうと思ふ。第一文章がうまい上に、知らない人が讀むと如何にも
殊に最後へ持つて來て「『父の業を繼いで保險業者になるか友人の盡力によつて文學者になるかそれは歸京の上でなければ分らず未だ未だ若い身空ですからね、一向決心がつきません、ハハハハハ』と語り終つて微笑せり」といふ一文で結んだところは、全然自分の會話の調子とは別であるが、知らない人には面目躍如たりだらうと思はれる。若しこれが他人の身の上に起つた事だつたら、自分も此の記事を信じたに違ひない。自分は此の如き達筆な記者を有する大阪毎日新聞の商賣繁盛を疑はない。
自分はいかにもをかしな話だといふやうにわざと平氣な顏をして人々にその記事を見せたが、梶原氏も姉夫婦も、ひどく眞面目な顏をして自分を見つめてゐるのであつた。
汽車が大阪に着くと姉夫婦は其處で下りて、自分は梶原氏と二人で殘つた。さうして京都迄の
此の無責任極まる記事は始め東京朝日新聞に出たのださうだ。憎む可き朝日新聞記者の一人は、我家を訪ひ、父に面會を求めて、その談話と共に、無理に借りて行つた自分の寫眞とを並べ掲げて世人の好奇心を迎へたのださうだ。
自分はその朝日の記事を知らない。しかし元來自分が廢嫡の權利を持つてゐない限り問題となる可き事柄で無いから、我が父の談話といふのも勿論恥を知らぬ記者の捏造したものに違ひない。けれども、その記事を讀む人間の數を思ふ時、自分は平然としてゐられなかつた。
殊に自分を怒らしたのは、その朝日新聞の下等なる記者が、老年病後の父に對して臆面も無く面會を求め、人の親の心を痛める事を構へて、之をうら問うたといふ一事である。自分の歸朝期日の豫定より早くなつたのも、父の健康が兎角勝れず、近くは他家の祝宴に招かれた席上昏倒したといふ憂ふ可き事の爲であつた。物質的に酬はれる事の極めて薄かつたにも拘らず、日本の實業家には類の無い、責任感の強い父が一生を捧げた事業から退隱した時、最も父を慰めるものは吾々子等の成長であるに違ひない。その子等の一人の、長らく膝下にゐなかつた者が、幾年ぶりで歸つて來るといふ矢先に、不祥なる噂を捏造吹聽され、天下に之を流布すべき新聞紙の記事に迄されたといふ事は、親として心痛き事であると同時に、世の親に對して、如何にも無禮暴虐である。彼をおもひ之をおもふ時、自分は
京都で梶原氏に別れると直ぐに手帖を取出して、先づ大阪毎日新聞に宛て、夕刊記載の記事の捏造である事、その記事を取消すべき事、その捏造を敢てしたる記者を罰すべき事を書送るつもりで草案を書き始めた。先づ目に觸れたものから、溯つて朝日の記事一讀の後は、それにも一文を草して送り
自分が久しぶりで歸つた故郷の第一日は、かくて不愉快なものになり
翌朝、愈々東京へ近づいて行く事を痛切に思はせる舊知の景色が、窓近く日光に輝いてゐるのを見た時、自分は再び爽かな心地で父母の家にかへりゆく身を限り無く喜んだ。口漱ぎ、顏を洗ひ、髯を剃つて、一層晴々した心持になつて食堂に入つて行つた。
何處にも空いた食卓は無く、食卓があれば必ず知らない人がゐた。つかつかと進んだのが立
給仕に食品の注文をして、手持無沙汰でゐると、既に最後の珈琲迄濟んだその紳士は、いきなり自分に向つて話しかけた。貴方は今朝の新聞に出てゐる方ではありませんかと、訊ねるのである。自分は驚いて彼の顏を見た。紳士は、かくしから一葉の新聞を出して自分に見せた。大阪朝日新聞である。
「文壇は日本の方が」といふ變な題が大きな活字で組んであつて、傍に==ズツト新らしい==と註が入つてゐる。此の題を見て自分は肌に粟を生じた。世の中に洒落の解らない人間程怖しいものは無いと云つた人があるが、此の記事の筆者の如き最も洒落の解らぬ人間であらう。自分は記者兩人の愚問を避ける爲に、文藝上の新運動如何の問に對して新しいのは日本だと答へたが、その時の自分の語氣から、唯それが其場限りの冗談に等しいものだつた事は、誰にもわかる筈であつた。馬鹿に會つてはかなはないと思つた。
けれども更に考へてみると、此の記者も亦記事捏造の手腕に於ては、大阪毎日の記者に勝るとも劣らない
此の記事によると、初めて自分の廢嫡問題なるものを捏造掲載した時の標題は「廢嫡されても文學を」といふのであつた。淺薄な
あまりにくだくだしい捏造指摘は自分ながら馬鹿々々しいから止めるが、日本新聞界の兩大關と自稱する毎日朝日の記者が、一人の口から出た事を、全然違つて聽取つた事實を、此の二つの記事を對照して見る人はあやしまなければならない筈だ。二人とも全然自分勝手な腹案を當初から持つてゐて、記事の大部分は、自分に面會する前に原稿として出來上つてゐたのだらうと思ふ。たゞ彼等が一致した事は、自分の黒い衣服を紺背廣だと誤り記してゐる一事ばかりであつた。毎日記者は「ハハハハハと語り終つて微笑せり」と結んだが、朝日記者は「苦し氣に語つて人々と共に上陸した」と記してゐる。人を馬鹿にした話である。二人揃つてやつて來て、二人で質問しながら、お互によくも平氣で白々しい出たらめを書いてゐられるものである。馬鹿、馬鹿、馬鹿ッ。自分は思はず叫ばうとして、目の前の紳士の存在を思つて、苦笑した。
どうも新聞記者といふものは嘘を書くのが職業ですから困ります、と云ひながら、その新聞を持主に返へした。それでも貴方のお話を伺つて書いたのでせう、と若い紳士はいかにも好奇心に光る目で自分を見ながらきき出した。自分は不愉快な氣持で食事も
自分が如何に説明しても、彼は矢張り新聞の記事を信じるらしく、少くとも廢嫡問題の將來に最も興味を持つ心持をかくしてもかくし切れないのであつた。兎に角才能のある方がそれを捨てるといふのは惜しい事ですから、などと一人合點で餘計な事をいふのである。自分は苦笑しながら食事を終つた。
東京に着いて、母や弟妹や、親類友だちに久々で逢ふ時、自分はもう
その日から我家の電話は新聞社からの電話で忙しく鳴つた。玄關に名刺を出すごろつきに等しい新聞記者を一人々々なぐり倒し度くいきまく自分と、それらの者の後日の復讐を恐れる家人との心は共に平靜を失つてしまつた。老年の父母が、自分が憤りの餘り、更に一層彼等から意地の惡い手段を以て苦しめられる事を氣づかふのを見てゐると、
あまりに多數のごろつきの玄關に來るのを歎く母の乞を容れて、中の一新聞を擇んで面談し、事實を語る事を承知して、折柄電話で會見を申込んで來たタイムス社の記者と稱する者に丈逢ふ事に決めた。
二人のタイムス記者と稱する者が大きな風呂敷包を持つてやつて來た。自分は勿論ヂャパン・タイムスと信じてゐたので、そのつもりで話をしてゐた。彼等は巧妙に調子を合はせてゐる。自分は教はりはしなかつたが、慶應義塾の高橋先生は今でもタイムスに筆を執つて居られるか、といふ問にも、然りと返事をしたのである。さうして約卅分は過ぎた。すると二人の中の一人は俄に話をそらして、實は今日は別にお願ひがあると云ひながら、その持參の風呂敷を解いて、「和漢名畫集」といふものを取出し、それを買つてくれと云ひ出した。創立後幾年目とかの紀念出版だといふのである。自分は勿論斷つたが、それならお宅へお買上を願ふから取次いでくれといふので、爲方なく奧へ持つて行つた。母は買つてやつて早く歸した方が無事だと云ふのである。馬鹿々々しい、こんな下らない物をとは思つたが、母の心配してゐる樣子を見ると心弱くなつた。とう/\自分はなけなしの小遣から「和漢名畫集」上下二册金四拾圓也を支拂はされた。
ところが後日聞くところによると、このタイムス社は、ヂャパン・タイムス社ではなく、日比谷邊りに巣をくつてゐる人困らせの代物であつた。自分は自分の人の
新聞雜誌の噂話に廢嫡問題の出る事は尚しきりに續いた。これよりさき大正二年の春にも、憎むべき都新聞は三日にわたつて「父と子」なる題下に、驚くべき捏造記事を掲げた事があつた。その記事の記者は自分が曾て書いた小説を、すべて作者の過去半生に結びつけて、ありもしない戀愛談迄捏造した。厚顏にしてぼんくらなる記者は、その記事の最後に、「彼は今英國のケムブリッヂにゐる」と書いて、御叮嚀にも劍橋大學の寫眞を掲げた。當時自分は北米合衆國マサチュセツ州のケムブリッヂといふ町にゐたのである。
その都新聞の切拔を友だちの一人が送つてくれた時、自分は隨分怒つた。しかし考へてみると、あと形も無い戀愛談も、あと形もない廢嫡問題よりは、少くとも愛嬌がある丈ましであつた。自分は自分が如何に此の下等愚劣なる賤民、即ち新聞記者の爲に、其後も屡々不快な思ひをさせられたかを述べる前に、ついでに出たらめの愛嬌話を添へて僅かに苦笑しようと思ふ。
大正五年十月二十七日發行の保險銀行時報といふ新聞には、二つの異なる記事として自分の事を材料とした捏造記事が出てゐる。記者はさも消息通らしい筆つきで書いてゐるのが寧ろ氣の毒な程愛嬌であるけれども、書かれた者にとつては、矢張り憎む可き記事であつた。
第一は「保險ロマンス」といふ題下に「此父にして此子」といふ標題で、例の廢嫡云々が噂に上つてゐる。その記事によると或人が例の廢嫡問題を、我父に質問したといふのである。如何に父の齡は傾いたと雖も自分の四男を嫡男だと思ひ違へるわけが無い。然るに此の記事によると、父も亦その問題を事實起り得るものとして返答をしてゐるのである。記事の捏造である事は敢て論ずる迄もあるまい。
もう一つは「閑話茶談」といふ題で、身に覺えの無い艶種である。「三田派の新しい文士に水上瀧太郎といふのがある。それにカフヱ・プランタンの(春の女)と(秋の女)が競爭でラヴしてゐたことなどは文壇では夙に誰も知りつくしてゐたが一般の世間はまだ餘り知つてゐない」といふ冒頭で、同じく廢嫡問題に言及し、最後に「それにつけても餘計なことだが、
自分はカフヱ・プランタンといふ家に足を踏入れたのは前後三囘きりである。一體に日本のカフヱに
驚く可き事は、初め憎むべき東京朝日新聞の記者の捏造した一記事が、それからそれと傳へられて、眞の水上瀧太郎の他に、もう一人他の水上瀧太郎が人々の腦裡に實在性を持つて生れた事である。此の水上瀧太郎は某家の嫡男で、その父と父の業を繼ぐか繼がないかといふ問題から不和を生じ、廢嫡になるかならないかといふ瀬戸際迄持つて來られた。勿論物語の主人公だから世にも稀なる才人である。新聞記者の語をかりて云へば天才といふものなのである。
ところが眞の水上瀧太郎は新聞記者の傳へた都合のいゝ戲曲的場景の中に住んではゐなかつた。彼は天才でもなんでもない。彼はもつたいない程その父にその母に愛されて成人した。彼が小説戲曲を書いて發表したのは事實である。しかも曾て文筆を持つて生活しようと考へた事は一度もなかつた。彼の持つて生れた性分として、彼は身の
自分は自分を第三者と見て、上述の如き記述をした。しかしその眞の自分を知つてゐる者は自分以外には數人の友人の外に誰もない事實を思ふと、流石に寒い心に堪へ難くなる。一度東京朝日新聞の奸譎邪惡憎む可き記者の爲に誤り傳へられてから、自分の目の前に開かれる世界は暗くなつた。或學者は人間の愛を説いて、愛とは理解に他ならないといふ。それを愛の一部だとしか考へない自分も、無理解の世界、誤解の世界には生きてゐられない。見る人逢ふ人のすべてが、新聞によつて與へられた先入觀念で自分を見る世界が、自分にとつてどんなものであるか、恐らくは人をおとしいれる事を職とする憎む可き程淺薄低級なる新聞記者には理解出來まい。
自分を知らない人で、朝日その他の新聞の捏造記事を見た人は、殆どすべて彼の記事を眞實を語るものと思つたに違ひない。友だちの中にも、知己の中にも、彼の記事を信じた人がある。自分は屡々初見の人に紹介される時「例の廢嫡問題の」といふ聞くも
幸にして自分は衣食に事缺かぬ有難い身の上であつたし、幸にして奉公口もあつたから、その點は無事であつたが、若しまかり間違つたら、此の如き記事によつて人は衣食の道をさへ求め難きに至る事は、想像出來ない事ではない。
幸にして自分は獨身生活を喜んでゐるから、その點は心配はなかつたが、假りに自分が配偶を探し求めてゐるとしたら、恐らくは廢嫡問題の爲に、世の中の娘持つ程の親は、二の足を踏んだに違ひない。
要するに自分は、世間の目から廢嫡問題の主人公としての他、偏見無しには見られなくなつてしまつたのだ。多數の人間の集會の席に行くと、あちらからもこちらからも、心無き人々の好奇心に輝く
如何に寛容な心を持ちたいと希ふ自分も、かかる世の中に身を置いては、どうしても神經の苛立つ事を止めかねた。どいつも
自分は決して新聞記者を、社會の木鐸だなどとは考へてゐないが、彼等が此の人間の形造る社會の出來事の報告者であるといふ職分を尊いものだと思ふのである。然るに憎む可き賤民は事實の報告を第二にして、最も挑發的な記事の捏造にのみ腐心してゐる。さうして新聞記者といふものに對して適當なる原因の無い恐怖をいだいてゐる世間の人々は、彼等に對して正當の主張をする事をさへ憚つてゐて、相手が新聞記者だから泣寢入のほかはないと、二言目には云ふのである。それをいゝ事にして
根も葉も無い捏造記事の爲に、幾多の家庭の平和を害し、幾多の人々の社會生活を不愉快にし、幾多の人の種々の幸福を奪ふ彼等の行爲を世間は何故に許して置くのか。
繰返して云ふ。自分は新聞記者を心底から憎む。馬鹿馬鹿馬鹿ッ。その面上に唾して踏み
||「三田文學」大正七年一月號