たださへ夏は氣短になり勝なのに全身麻醉をかけられて、外科手術をした後の不愉快な心持は、病院を出てから一週間にもなるのに、未だに執念深く殘つて居る。
甚だ汚ならしい話だが、疾患は痔瘻なので、病院へ通ふのに、乘物に腰掛けて搖られるのが苦痛で、何時も電車の釣革につかまつて立つて居るのであるから、芝の端から築地迄小一時間もかかる道中は、たとへ囘復期にありとはいへ、衰弱した身體には隨分
ところへ兄が見舞に來てくれて、いろんな話の末に、歌舞伎座の「沈鐘」を見に行かうと思ふが
自分は世に所謂新しい芝居を好んで見度がる一人であるが、それを嚴格に批判的に見る事はあまりに殘酷な氣がして堪へられない。殊に日本の俳優が泰西の名戲曲を演じる場合の如きは、その原作に對する尊敬と、出演者の努力を買ふ同情と、時には原作の偉大さと所演の貧弱さの餘りに極端な對比が惹起する憐愍から、やうやく一人立ちしてヨチヨチ歩く赤坊を見る親の心持で、いたはりいたはり見てゐる態度を取るのである。恐らくこれは自分一人でなく、世の劇評家諸氏といへども、歌舞伎劇に對するやうに、容赦なくうまいまづいを
最近に外國から歸つて來た兄は、長い間海外に生活した者の誰もが感じるやうに、まだ以前の生れ故郷の生活にしつくりあてはまらない心持から、何かしら新しい刺戟に興味を見出し度がつてゐるらしかつた。彼地に居る間に芝居を見て

その日は朝のうちに病院に行つて、診察の濟んだのは正午近かつた。病院の近所で認めた食事の終つたのが一時で、それから家に歸つて又出直す時間は十分あるけれども、電車に乘つて立ちづめの不愉快を考へると歸宅する氣はなくなつた。しかし四時開場の時間迄をどうして暮さうかと
主人は留守だつたが、心置きない間柄なので、勸められるままに上つて、不自由な身體を氣隨に横にさせて貰ひながら主婦と話し込んで居たが、後から他にお客が來たので、主婦はその日の新聞を自分の目の前に揃へてくれて、そのまま座敷の方に行つてしまつた。
「やまと」新聞に連載されてゐる泉鏡花先生の「芍藥の歌」に感服した後で、「時事新報」の文藝欄に本間久雄氏の「新秋文壇の收穫」=技巧派と無技巧派の對比=といふ創作月評中に「新小説」九月號所載、拙作「
由來雜誌新聞を精讀しない自分は、雜誌新聞の編輯者の爲めに最も調法な人の一人らしい本間氏の筆に成る文章||評論批評紹介飜譯等||を餘り拜見した事が無く、たまに拜見したのがあつても、全く拜見しなかつたと同じやうに、まるつきり忘れてしまつたのである。
非道い誤譯者だといふ事は、飜譯物の嫌ひな自分の發見ではなく、友達の一人に物好きがあつて、誤譯指摘の興味に沒頭してゐて、本間氏の飜譯は頗る蕪雜拙劣である上に間違ひだらけだといふ事を、御叮嚀にも原書と對照して、いやといふ程並べ立ててきかされた事があるのである。その時自分は、どうせ外國語を日本語に譯すのだから、ちつとは間違ひもあるだらうと、自分だつて飜譯をすれば間違ひだらけに違ひないと思ふ心持から、本間氏に同情したが、同時に、そんな不自由な語學の力で飜譯なんかしなければいいのにと考へたのは事實である。
扨て「時事新報」に出てゐる本間氏の批評は前々から續いてゐるもので、その日のは第六囘目であつた。第一囘から讀んでゐない自分には「技巧派と無技巧派の對比」といふ標題の意味がよく解らなかつたが、恐らくは此批評の序論として新秋文壇なるものに於て、多少なりとも努力した作家を分つて、技巧派と無技巧派の二派とし、之を今日の文壇の二潮流と見て批評してゐるのであらうと思ふ。しかし自分が技巧派なのか無技巧派なのかは、凡そ器用と無器用はあつても無技巧と呼ぶ可き作家の存在を知らない自分には想像がつかなかつた。
本間氏は「新嘉坡の一夜」の梗概を記して「永らく英佛に遊んでゐた男が、日本への歸途、新嘉坡に立ちより色街に痛飮して、滯歐中の女難の追懷に耽るといふ一夜を描いたものである」と云つてゐるが、これを讀んだ自分は餘りの意外に喫驚した。これは
頭腦のいい作家、頭腦の惡い作家と云ふのは近頃の文壇の流行語ださうで、頭腦のいい派、頭腦の惡い派と對比すると、それが技巧派無技巧派と同意味なのではないかとも思はれる。頭腦の惡い派に云はせると、頭腦のいい方は兎角靈魂の存在を忘れ勝でいけないのださうである。どんな靈魂を持つてゐるのかしらないが、本間氏は明かに頭腦の惡い派の重鎭なのであらうと、その時の自分の苛々した心持は、人の惡い愚劣な皮肉を弄んだ。
別段勝れていい頭腦の所有者でなくても、誰が讀んでもわかる事だと思ふが、「新嘉坡の一夜」は滯歐中の女難の追懷に耽る事を主として描いた作品では無い。その形式から見れば、新嘉坡の一夜そのものを描いた作品である。詳しく言へば
但し作者は近頃の文壇の流行に背馳して誇大な發想や、活動寫眞的小細工にみちた脚色を厭ふ傾向から、無理にも主觀的に説明的に流れるのを避け、強ひて平調な、殆ど紀行文に近い形式を擇んだ。その爲めには、「第一毒茶を勸めたといふのは
若しも此の平調を心掛けた結果の作品が、單に平調である丈で、暗示に富んでゐないと云つて責めるのならば、作者は此點に於て我が力及ばずと自分自身嘆いて居るのであるから、謹んで評者の眼識の高いのに服したであらう。不幸にして本間氏は作品の骨子をさへ正しくは捉へてくれなかつた。しかも自分では滿足した態度で
本間氏は、上月が支那
自分は批評の怖ろしさ、批評家といふものの怖ろしさを痛感した。若しも自分が「新嘉坡の一夜」の作者でなく、且つその作品を讀んだ事が無くて、此の批評を見たらば、恐らく自分は本間氏のもつともらし書振りから判斷して、その批評の正確さを疑はなかつたであらう。
自分は明かに「美醜の感覺」の鋭い人間に違ひ無い。且つ健全な二個の目を所有してゐる限り、その鋭い感覺は目に觸れる對象の外形の美醜を強く感じる事は當然である。「新嘉坡の一夜」の主人公上月は、長い間の航海に、青空と青海に圍まれて塵埃を浴びず、帆綱に鳴る潮風と船
評者は又作者を目して「西洋崇拜であり、貴族趣味」だと呼んでゐるが、「新嘉坡の一夜」の何處から推斷して作者を西洋崇拜の貴族趣味だといふのであるか。自分は殘念ながら今日の日本人が歐米人に勝つてゐるものと自惚れて安んじてはゐられないが、さりとて外の今日の日本人、殊に文壇の人々に比べては、あまりに西洋崇拜の度の低過ぎる一人だとさへ考へてゐる。自分などから見ると、本間氏その他同傾向の人々、もつと明確に云へばヂヤアナリズム信奉者程盲目的の西洋崇拜者は無いやうに思はれる。取捨選擇も無く西洋人の所説を紹介し、西洋人の作品を誤譯する事など、自分などには、思ひも及ばない事である。新嘉坡の町を歩いてゐる上月が、汚ない町を過ぎた後で、大きな旅館の前に立つて、憧憬の念を抱きながら西洋を想ふのは、別れて來た土地に對する愛着から自然と起る感情以外の何ものでもない。さういふあたりまへの温情さへ感じ得ない程の木像的思索家に「人類に對する親しい感情」がほんとに起るとは想像されない。彼等は先づ西洋の本を捨てて||彼等自身の言葉を借りていへば||街に出づる必要がある。
今日の文明の形成者として、東洋人よりも西洋人の方が偉かつた事は疑ひが無い。しかしそれは單に「外形の美醜の判斷」がもたらした結果では無い。その文明を生み出した彼等を尊敬するのである。甚だ面白くない例だが、之を文壇に見ても、本間氏の如き見當違ひの批評家さへ、大きな顏をしてゐられる我文壇の貧弱さは、いかに贔負目に見ても崇拜の對象にはなり兼るのである。
貴族趣味についても自分は「新嘉坡の一夜」の何處から推斷された非難なのか飮み込めない。あの作品の何處に貴族趣味が説いてあるか。しかし若し貴族趣味といふものが、平俗凡庸卑劣淺薄を憎み、よりよき人の世を憧憬する事を指すのならば、自分は確かに貴族趣味だ。「人類に對する親しい感情」を多分に持ち、且人類の醜惡なる事實の力強さに壓迫を感じて惱む自分は、どうかしてよりよき人の世の出現を希望すると同時に、醜惡なる人間の影を潛める事を熱望してゐる。小説の月評にさへ、流行の民衆がる機會を捉へんとする人間の心の「内部に透入して」、自分はその醜惡を憎むので、その人間の面つきのまづい爲めに嫌惡するのではない。
自分の貴族趣味は、頭腦の惡い人間よりもより多く無反省な人間を憎み、良心を所有しない人間を唾棄する。換言すれば、わけもわからない癖にわかつた顏をし、もつともらしい風をして出たらめを云ふ人間を嫌ふのである。さういふ人間の集團が存在する限り、人類の幸福は阻まれるからである。
自分は長火鉢の側に不自由な
冷靜になつた自分は續いて本間氏の芥川龍之介氏の小説「奉教人の死」に對する批評を讀んだ。さうしてあの小説を「此作は作者が長崎耶蘇會出版の『れげんだ・おれあ』と題する書の中の傳説に文飾を施したものに過ぎないと云つてゐるのによつても解る通り、全體としてやはり在來の童話の味はひである、傳説の味はひである」と云ひ「童話以上、傳説以上||作者獨自の解釋なり、創意なりを加へたものを求めたい」とあるのを見ると氣の毒になつて、「人類に對する憐愍さ」をさへ本間氏に對して感じたのである。
自分は芥川氏の作品を餘り好まないが、しかしそのづばぬけた「
自分は二人とも見た事は無いのだけれど、芥川氏の人の惡い微笑を浮べた顏と、本間氏の眞面目がつてゐる顏を想ひ浮べて吹出し度くなつた。
「どうも失禮致しました。」
と襖をあけて主婦が出て來たので、自分は何氣ない顏をして新聞をたたんだ。
「隨分御退屈でしたでせう。」
「いいえ、新聞を拜見してゐました。」
「さうさう、主人がさう云つてましたよ、今朝の新聞に貴方のお書きになつたものの批評が出て居ますつてね。」
「エエ、今それを讀んでゐたんです。」
「いかがです、評判はいいんですか。」
「イイエ、不相變叱られてゐるんです。」
「なんですか
「だつて私の小説にさへ原稿料を拂ふんですもの。」
自分は主婦の氣持のいい顏付と、齒切のいい言葉を聞いて、輕い氣分になつて笑つた。
「どうも難有うございました。時間ですから芝居の方に行きませう。」
「面白いんですかしら。評判はいいやうですね。」
「評判て新聞のでせう、あてになるもんですか。」
自分は今の本間氏の批評から人を信用しない心持になつてゐたので、憎まれ口をききながら立上がつた。
歌舞伎座に行くと、兄や嫂はもう來てゐて、自分が患部を氣にして妙な格好で横坐りに坐ると、直ぐに幕が開いた。
まるまると肥つた松井須磨子の山姫が金髮をくしけづりながら、目の前の蜂にいけぞんざいな口をきいて居る。誰だつたか忘れたが、松井須磨子の豐滿な肉體の極めて肉感的な事を讚美した文筆の士があつた。たしかに近代的
自分は新しい戲曲の爲めに冷汗を覺えてゐると、
「これは
と兄は低い聲でつぶやいた。教養のある紳士が、何かの機會で、婦人の見るべからざる姿態を見せられた時につぶやくやうな、困つて赤面したやうな兄の樣子を見て、自分は腋の下の汗を拭いた。
口のきき方も山姫の無邪氣さには遠く、
やがて歌をうたつた。小學生の生徒が「螢の光、窓の雪」と歌ふやうに、極めて單純にうたつた。
やがて踊つた。忘年會でかつぽれを踊る會社員よりも危ない足どりだつた。
自分は兄と顏を見合せて苦笑した。
言ふ忽れ、又しても外形の美醜によつて判斷するものと。自分が此の時の不愉快は、屡々泰西の戲曲を演じる松井須磨子は、何故にもつと歐米人の姿態||身ぶり、手ぶり、足ぶりを研究しないか、カチュウシヤの歌をうたひ、さすらひの歌をうたひ、更に山姫の歌をうたふ松井須磨子は、何故にほんたうに聲の出るやうに正式の聲樂の練習をつまないのか。何故に西洋舞踏の初歩位はもう少し正確に學ばないのか。餘りに無反省なその心事を不愉快に思つたのである。
人々は山姫のくるくる

森の精ワルドシュラアトの無邪氣らしくいい氣なのは左程でもなかつたが、池の精ニツケルマンのお神樂の素盞嗚尊のやうな風をして、その癖妙に村の色男らしい塗りつぶした顏で、ものを言はない時でも年中變てこに口を開いてゐる氣取つた、いゝ氣持さうなのは、見るに堪へなかつた。

その「外形」の醜さは明白であるが、此の人々に「沈鐘」が了解されてゐるとは、如何に新劇贔負の自分にも思ひも及ばない事であつた。あらゆる點に於て不勉強である。無責任無反省で、且つ自慢さうに演じてゐるのが氣に喰はなかつた。
「自由劇場」の役者達は、雜誌新聞に衆をたのんで筆陣を張る
自分は役者達の態度に不滿を感じると同時に、その指導者に對しても不滿だつた。
自分は松井須磨子を所謂新しい女優の中では、他の者に比べて段違ひにうまいと思つてゐて、指導さへよかつたら、もつといい芝居をして見せてくれる人だと信じてゐる。けれども須磨子の柄から云つても、藝風から云つても、決して「沈鐘」を演ずべきではなく、もつと寫實的な戲曲に向く人であると斷言してもいい。何故わざわざ柄に無い「沈鐘」を選んで「藝術座の女皇」に演じさせようとしたのか。或人々は島村抱月氏が妻子を捨てて須磨子とくつついた事實から「沈鐘」を選んだのだと噂するが、そんな評判は信じたく無い。恐らくは「藝術座」の連中の
けれども開場以來一週間に近いその日さへ、入りは八分迄あつた。「自由劇場」も「土曜劇場」も、その他の劇團の多くも息をひそめてしまつたのに、兎にも角にも「藝術座」は、ひとり帝都の大劇場で客を呼んでゐるのは、原因が無くてはならない。
自分などが餘りに無責任、無教練なうたひぶりに冷汗を覺えてゐる隣の棧敷では、新橋邊の生意氣さうな若い藝者を引連れてゐる成金らしい五十男が、
「須磨子の聲はええなあ。」
と感に堪へてゐるのだから、或は正直に感服して見てゐる多數があるのかもしれないけれど、それよりもその人々を感服させる何か特別の原因があるのに違ひない。
「よくこんな芝居でも見に來る人があるね。河合のためかしら。」
兄はいぶかしさうに場内を見

二幕目、三幕目、四幕目、さうして最後の幕が濟んだ時に、自分は此の見てゐても恥しい戲曲の終りを喜ぶ安心と共に「藝術座」の強味を認め得た。それは向不見の強味である。自分が罵倒したくて堪らない無責任そのものの強味である。さうだ。藝術的良心の無い強味だ。無鐵砲の強味だ。
勿論それは眞の強味ではない。しかし少くとも、ともすれば現在を支配しようとする強味である。藝術的良心の強い者が、ああでも無い、かうでも無いと思ひ惱み、手も足も出なくなり勝な時に、何等顧慮する事なく、馬車馬の勢を以て驅け出すのだ。實に此の無反省の強味は、現代の政治にも、事業界にも、文壇にも、歴々として現れてゐる。怖ろしいと思つた時、自分は本間久雄氏の存在を想ひ起した。
「いかがでございます、只今のは。」
お茶を持つて來た出方は、愛想のいい顏をつき出してきいた。
「あんまり感心しなかつたよ。」
「なんですか手前どもには、からつきしわからねえんですが、兎に角歌舞伎座のものぢやございませんや。」
と一人で眉をあげて罵倒したが、
「まづ山の手のものでございませうなあ。」
と云ひ得て嬉しいと云つた顏付で立ち去つた。
自分はふだんならば、こんな月並な江戸がりは嫌ひなんだが、その時は味方を得たやうな氣がして一緒に痛快がつた。それは確かに弱者の聲であらう。吠えられて逃げてゆく犬の悲しい叫びであらう。後から群つて追ひ迫る野良犬の一匹々々別々ならば怖ろしくもないのだが、密集してゐる力の塊にはなみなみのものではかなはない。素早く横町に姿をかくす育のいい犬の聲にちがひない。
さうだ。文壇も劇壇も、たとへ根柢の無い勢力ではあらうけれど、ほしいままに跋扈してゐるのは向不見の強味を持つ
||「三田文學」大正七年十月號・十一月號