五月二日付の一通、同十日付一通、同二十五日付の一通、以上三通にてわれすでに
厭き足りぬと思いたもうや。もはやかかる手紙願わくは送りたまわざれとの
御意、確かに承りぬ。されど今は
貴嬢がわれにかく願いたもう時は過ぎ去りてわれ
貴嬢に願うの時となりしをいかにせん。昨年の春より今年の春まで
一年と
三月の間、われは
貴嬢が
乞わるるままにわが友宮本二郎が上を
誌せし手紙十二通を送りたり、十二通に対する君が十五通の礼状を数えても一年と三月が間の
貴嬢がよろこびのほどは知らる。今十二通の裏にみなぎる春の楽しみを変えて三通を貫く苦き
消息となしたもうは
貴嬢ならずや。
貴嬢がいかに深き
事情ありと
弁解きたもうとも、かいなし、宮本二郎が沈みゆく今のありさまに何の
関りあらん。かの三通はげに
貴嬢が読むを好みたまわぬも
理ぞかし、これを
認めしわれ、心乱れて手もふるいければ。されどわれすでにこの三通にて
厭き足りぬと思いたまわば誤りなり。今はわれ
貴嬢に願うべき時となりぬ。
貴嬢はわが願いを入れ、忍びて事の成り行きを見ざるべからず、しかも
貴嬢、事の落着は遠くもあるまじ、次を見
候え。
||手荒く窓を開きぬ。地平線上は灰色の雲重なりて
夕闇をこめたり。そよ吹く風に
霧雨舞い込みてわが
面を払えば何となく秋の
心地せらる、ただ
萌え
出ずる青葉のみは季節を欺き得ず、げに夏の初め、この年の春はこの長雨にて
永久に
逝きたり。宮本二郎は言うまでもなく、
貴嬢もわれもこの悲しき、あさましき春の
永久にゆきてまたかえり来たらぬを願うぞうたてき。
わが心は鉛のごとく重く、暮れゆく空の雲をながめ入りてしばしは夢心地せり。われには少しもこの夜の送別会に加わらん心あらず、深き
事情も知らでただ
壮なる言葉放ち酒飲みかわして、宮本君がこの
行を送ると叫ぶも何かせん。
げに春ちょう春は
永久に
逝きぬ。宮本二郎は永久を契りし
貴嬢千葉富子に
負かれ、われは十年の友宮本二郎と海陸、幾久しく別れてまたいつあうべきやを知らず、かくてこの
二人が楽しき春は
永久にゆきたり。わが心は鉛のごとく重く、暮れゆく空は墓のごとし。
この
階下の大時計六時を
湿やかに打ち、泥を
噛む
轍の音
重々しく聞こえつ、車来たりぬ、
起つともなく起ち、
外套を肩に掛けて
階下に下り、物をも言わで車上に身を投げたり。運び行かるる先は五番町なる青年
倶楽部なり。
倶楽部の人々は二郎が南洋航行の真意を知らず、たれ
一人知らず、ただ倶楽部員の
中にてこれを知る者はわれ一人のみ、人々はみな二郎が産業と二郎が猛気とを知るがゆえに、年若き夢想を
波濤に託してしばらく
悠々の月日をバナナ実る島に送ることぞと思えり、百トンの帆船は彼がための墓地たるを知らざるなり。知らぬも
理ならずや、これを知る者、この世にわれとわが母上と二郎が
叔母とのみ。あらず、なお一人の
乙女知れり、その美しき
眼はわが鈍き眼に映るよりもさらに深く二郎が
氷れる胸に刻まれおれり。刻みつけしこの
痕跡は深く、凍れる心は血に染みたり。ただかの美しき乙女よくこれを知るといえども、素知らぬ顔して
弁解の
文を二郎が友、われに送りぬ。げに偽りという鳥の巣くうべき枝ほど怪しきはあらず、
美わしき花咲きてその実は
塊なり。
二郎が家に立ち寄らばやと、
靖国社の前にて車と別れ、庭に入りぬ。車を
下りし時は霧雨やみて珍しくも西の空少しく雲ほころび
蒼空の
一線なお落日の余光をのこせり。この遠く
幽かなる空色は夏のすでに近きを示すがごとく思われぬ。されど空気は重く
湿り、茂り合う葉桜の陰を忍びにかよう風の音は秋に異ならず、
木立ちの
夕闇は頭うなだれて影のごとく歩む人の
類を心まつさまなり。ああこのごろ、年若き男の
嘆息つきてこの木立ちを当てもなく行き来せしこと幾
度ぞ。
水瀦に映る雲の色は心
失せし人の顔の色のごとく、これに映るわが顔は
亡友の
棺を枯れ野に送る人のごとし。目をあげて心ともなく西の空をながむればかの遠き蒼空の一線は年若きわれらの心の秘密の
謎語のごとく、これを望みてわが心怪しゅう躍りぬ。ああ年少の夢よ、かの蒼空はこの夢の国ならずや、二郎も
貴嬢もこのわれもみなかの国の民なるべきか、何ぞその色の遠くして
幽かに、恋うるがごとく慕うがごとくはたまどろむごとくさむるがごときや。げにこの天をまなざしうとく望みて
永久の希望語らいし少女と若者とは幸いなりき。
池のかなたより二人の小娘、十四と九つばかりなるが手を組みて
唄いつつ来たるにあいぬ。一目にて貧しき家の
児なるを知りたり。唄うはこのごろ
流行る歌と覚しく歌の
意はわれに
解し難し。ただ二人が唄う
節の巧みなる、その声は
湿りて重き空気にさびしき波紋をえがき、絶えてまた起こり、起こりてまた絶えつ、
周囲に人影見えず、二人はわれを見たれど
意にとめざるごとく、一足歩みては唄い、かくて
東屋の前に立ちぬ。
姉妹共に色
蒼ざめたれど楽しげなり。
五月雨も夕暮れも暮れゆく春もこの二人にはとりわけて悲しからずとりわけてうれしからぬようなり、ただおのが唄う声の調べのまにまにおのが
魂を漂わせつ、人の上も世の事も絶えて知らざるなり。人生まれて初めは母の唄いたもう調べに誘われて安けく眠り、その次は自ら歌いて自ら眠るこの姉妹のごときなり、人唄えばとて自ら歌えばとてついに安き眠りを結び得ざるは
貴嬢のごとき二郎のごときまたわれのごとき年ごろの者なるべし、ただ二郎この
度は
万里の波上、限りなき自然の調べに触れて、誠なき人の歌に傷つきし心を安めばやと思い立ちぬ。げに
真情浅き
少女の当座の曲にその魂を浮かべし若者ほど哀れなるはあらじ。
われしばしこの二人を見てありしに二人もまた今さらのように
意づきしか歌を
止め、わが顔を見上げて笑いぬ、姉なるは
羞しげに妹なるはあきれしさまにて。われまたほほえみてこれに
応えざるを得ざりき。君はこのごろ毎夜狂犬いでて年若き娘をのみ
噛むちょううわさをききたまいしやと、妹はなれなれしくわれに問えり、問いの不思議なると問えるさまの
唐突なるとにわれはあきれて
微笑みぬ。姉はわが顔を見て笑いつ、愚かなることを言うぞと妹の耳を強く引きたり。されど片目の十蔵がかく語りしものを痛きことかなと妹は
眼をみはり口とがらせ耳をおおいて叫びぬ。たちまち姉は優しく妹の耳に口寄せて何事かささやきしが、その手をとりて引き立つれば妹はわれを見て
笑みつ、さて二人は唄うこともとのごとくにしてかなたに去りぬ。
げに見すぼらしき後ろ影、
蓬なす頭、色あせし衣、われはしばしこれを見送りてたたずみぬ。この哀れなる姿をめぐりて漂う調べの身にしみし時、
霧雨のなごり冷ややかに顔をかすめし時、一陣の風木立ちを過ぎて夕闇
嘯きし時、この
切那われはこの
姉妹の行く末のいかに浅ましきやを
鮮やかに見たる心地せり。たれかこの
少女らの行く末を守り導くものぞ、彼ら自ら唄いて自ら泣く時も遠くはあるまじ。
急ぎて裏門を
出でぬ、
貴嬢はここの梅林を
憶えたもうや、今や貴嬢には苦しき
紀念なるべし、二郎には悲しき木陰となり、われには恐ろしき場処となれり。
門を
出ずれば
角なる茶屋の娘軒先に立ちてさびしげに暮れゆく空をながめいしが、われを見て
微かに
礼なしぬ、
貴嬢はこの娘を憶えいたもうや。
賤しきこの娘を。
二郎はすでに家にあらざりき、叔母はわれを引き止めてまたもや
数々の言葉もて貴嬢を恨み、この恨み
永久にやまじと言い放ちて泣きぬ、されどいずこにかなお貴嬢を
愛ずる心ありて恨めど怒り得ぬさまの苦しげなる、見るに忍びざりき。叔母恨むというとも
貴嬢怒るに及ばじ、恨む心は女の心にして、恨む女は
愛ずる女なり、ただこの叔母を哀れとおぼさずや。
叔母のいいけるは昨夜夜ふけて二郎一束の手紙に油を注ぎ火を放ちて庭に投げいだしけるに、火は雨中に燃えていよいよ赤く、しばしは庭のすみずみを照らししばらくして次第に消えゆくをかれは静かにながめてありしが火消えて後もややしばらくは
真闇なる庭の
面をながめいたりとぞ。火や煙や灰や
闇黒や、二郎はその次に何者をか見たる。
わが車
五味坂を下れば茂み合う
樫の葉
陰より
光影きらめきぬ。これ
倶楽部の窓より漏るるなり。雲の絶え間には遠き星一つ
微かにもれたり。受付の十蔵、卓に
臂を置き
煙草吹かしつつ
外面をながめてありしがわが姿を見るやその片目をみはりて立ちぬ、その鼻よりは煙ゆるやかに
出でたり。軽く
礼して、わが渡す
外套を受け取り、太くしわがれし声にて、今宮本ぬしの演説ありと言いぬ。耳をそばだつるまでもなく堂をもるるはかれの
美わしき声、沈める
調なり。堂の
闥を押さんとする時何心なく振り向けば十蔵はわが外套を肩にかけ片手にランプを持ちて事務室の前に立ちこなたをながめいたり。この時われかの貧しき少女が狂犬のうわさせしといいし片目の十蔵を
憶い起こしぬ。十蔵はわが振り向きしを見て急にランプの火を小さくせり。われその
故を
解し得ず、ただ見る六尺ばかりの大男の影おぼろなるが静かに事務室の
中に消え去りしを。この十蔵が事は
貴嬢も知りたもうまじ、かれの片目は
奸なる妻が投げ付けし
火箸の傷にて
盲れ、間もなく妻は狂犬にかまれて
亡せぬ。このころよりかれが
挙動に怪しき節多くなり増さりぬ、元よりかれは世の常の人にはあらざりき。今は三十五歳といえど子もなく
兄弟もなし。
予は
闥を排して内に入りぬ。
三十余りの人々長方形の卓を囲みて居並びしがみな
眼を二郎の方にのみ注げば、わが入り来たれるに心づきしは少なかりき。一座粛然たる
中に二郎が声のみぞ響きたる。かれが
蒼白き顔は電燈の光を受けていよいよ蒼白く
貴嬢がかつて仰ぎ見て星とも
愛でし
眼よりは怪しき光を放てり。ただいずこともなく誇れる
鷹の
俤、
眉宇の間に動き、
一搏して南の空遠く飛ばんとするかれが離別の詞を人々は耳そばだてて
聴けど、暗き穴より飛び来たりし一矢深くかれが心を貫けるを知るものなし、まして暗き穴に潜める
貴嬢が白き手をや、一座の
光景わが目にはげに不思議なりき。
二郎は
病を養うためにまた多少の
経画あるがためにと述べたり、されどその経画なるものの委細は語らざりき。人々もまたこれを怪しまざるようなり。かれが支店の南洋にあるを知れる友らはかれ自らその所有の船に乗りて南洋に
赴くを怪しまぬも
理ならずや。ただひたすらその決行を
壮なりと思えるがごとし。
女の解し難きものの一をわが青年倶楽部の壁内ならでは
醸さざる一種の
気なりといわまほし。今の時代の年若き男子一度この
裡に入りて胸を開かばかれはその時よりして自由と人情との友なるべし。さてさらに
貴嬢の解し難きものの一を言わんか、この
気を呼吸するかの二郎なり。何ゆえぞと問いたまいそ、貴嬢もしよくこれを解し
得る少女ならんにはいかで暗き穴よりかの無残なる
箭を放たんや。二郎述べおわりて座につくや拍手勇ましく起こり、かれが周囲には早くも十余人のもの集まりたり。廊下に
出ずるものあり、煙草に火を点ずるものあり、また
二人三人は思い思いに
椅子を集め太き声にて物語り笑い興ぜり。かかる
間に卓上の
按排備わりて人々またその席につくや、
童子が
注ぎめぐる
麦酒の
泡いまだ消えざるを一斉に
挙げて二郎が前途を祝しぬ。儀式はこれにて終わり倶楽部の血はこれより沸かんとす。この時いずこともなく遠雷のとどろくごとき音す、人々顔と顔見合わす
隙もなく
俄然として家振るい、
童子部屋の方にて積み重ねし
皿の類の床に落ちし響きすさまじく聞こえぬ。
地震ぞと叫ぶ声室の
一隅より起こるや江川と呼ぶ少年真っ先に
闥を排して
駆けいでぬ。壁の落つる音ものすごく玉突き場の方にて起これり。ためらいいし人々一斉に駆けいでたり。
室に残りしは二郎とわれと岡村のみ、岡村はわが手を堅く握りて立ち二郎は卓のかなたに静かに椅子に
倚れり。この時十蔵室の入り口に立ちて、君らは早く逃げたまわずやというその声、その
挙動、その顔色、
自己は少しも恐れぬようなり。この時振動の力さらに加わりてこの室の壁眼前に
崩れ落つる勢いすさまじく岡村と余とは宮本宮本と呼び立てつつ戸外に駆けいでたり。十蔵も続いて駆けいでしが
独り二郎のみは室に残りぬ、われいかでためろうべき、二郎を連れ出さばやと再び内に入らんとするを岡村堅くわが手を握りて放たず、われら口々に宮本宮本と呼び立てぬ。この時十蔵卒然独り内に入りたり。われらみな十蔵二郎を救うことぞと思い、十蔵早くせよと叫び、戸口をきっと見て二人の姿の飛び
出ずるをまちぬ。
瓦降り壁落つ。われらみな
樫の
老木を
楯にしてその陰にうずくまりぬ。
四辺の家々より起こる叫び声、泣き声、
遠かたに響く騒然たる物音、げにまれなる強震なり。
待てど二郎十蔵ともに
出で来たらず、口々に宮本宮本、十蔵早く
出でよと叫べども答えすらなし、人々は顔と顔と見合して
愕き怪しみ、わが手を握りし岡村の手は振るいぬ。
この時わが胸を
衝きて起こりし恐ろしき
想いはとても
貴嬢の
解したまわぬ境なり、またいかでわが筆よくこれを
貴嬢に伝え得んや。試みに想い
候え、十蔵とは
奸なる妻のために片目を失いし十蔵なり、妻なく子なく兄弟なく言葉少なく気重く心怪しき十蔵なり。二郎とはすなわち
貴嬢こそよく知りたもう二郎なり。あわれこの二人は始めよりその運命を等しゅうすべきところありて黙々のうちその
消息を互いに会しいたるならざるか。柱鳴り瓦飛び壁落つる危急の場にのぞみて二人一室に安座せんとは。われこれを思いし時、心の冷え渡るごとき恐ろしきある者を感じぬ、
貴嬢はただこの二人ただ自殺を
謀りしとのみのたもうか、げに二郎と十蔵とは自殺を
謀りしなるべきか。あらず、いかで自殺なる二字をもってこの二人の怪しき
挙動の秘密を解き
得べきぞ、
貴嬢がいわゆる人とは自ら生きんことを計り自ら死なんことを謀る動物なるべし、この二つの一つを
出でざる動物なるべし。
間もなく振動は全くやみぬ。われら急に内に入りて二人を求めしに、二郎は元の席にあり、十蔵はそのそばの椅子に座し、二郎が
眼は鋭く光りて
顔色は死人かと思わるるばかり
蒼白く、十蔵は怪しげなる微笑を口元に帯びてわれらを迎えぬ。あまりの事に人々出す言葉を知らざりき。倶楽部員は二郎の安全を祝してみな散じゆき、事務室に居残りしは幹事
後藤のみとなりぬ。十蔵は受付の卓に
倚りて煙草を吹かし、そのさまわがこの夜倶楽部に来し時と変わらず見えたり、ただ口元なる怪しき微笑のみ消えざるぞあやしき。
余は二郎とともに倶楽部を
出でぬ。
一天晴れ渡りて黒澄みたる大空の星の数も
算まるるばかりなりき。天上はかく静かなれど地上の騒ぎは
未だやまず、五味坂なる派出所の前は人山を築けり。余は家のこと母のこと心にかかれば、二郎とは明朝を期して別れぬ。
家には事なかりき。しばし母上と二郎が
幸なき事ども語り合いしが母上、恋ほどはかなきものはあらじと顔そむけたもうをわれ、あらず女ほど頼み難きはなしと真顔にて言いかえしぬ。こは世にありがちの押し問答なれどわれら
母子の間にてかかる
類の事の言葉にのぼりしは例なきことなりける。されど母上はなお貴嬢が情けの変わりゆきし順序をわれに問いたまいたれど、われいかでこの深き秘密を語りつくし得ん、ただ浅き知恵、弱き意志、順なるようにてかえって主我の念強きは女の性なるがごとしとのみ答えぬ。げにわれは思う、女もし恋の光をその顔に受けて
微笑む時は花のごとく輝く
天津乙女とも見ゆれど、かの恋の光をその背にして逃げ惑うさまは世にこれほど醜きものあらじと、貴嬢はいかが思いたもうや。
母上との物語をおえて二階なるわが
室にかえり、そのまま身を椅子に投げ、両手もてわが顔をおおいぬ。この時こころの疲れ、身の疲れを一時に覚えて底なき穴に落ちゆく
心地し、しばしは何事をも忘れたり。
夢現の境を漂うて夜のふくるをも知らざりしが、ふと心づきて急に床に入りたれど今は心さえてたやすくは眠るあたわず、明けがた近くなりてしばしまどろみぬと思うや、目さめし時は東の窓に映る日影珍しく
麗かなり、
階下にては母上の声す、続いて聞こゆる声はまさしく二郎が叔母なり、朝とく来たりて何事の相談ぞと耳そばだつれど叔母の日ごろの快活なるに似ず
今朝は母もろともしめやかに物語して笑い声さえ
雑えざるは、いぶかしさに
堪えず、身を起こして衣着かえんとする時階段を上り来る音してやがて頭さしいだせしはわが妹なり、宮本の叔母様来たりたまいぬ早く
下りたまえと言い捨ててそのまま階下にゆけり。
朝の事をおわるや急ぎて母上の室を入れば、母上と叔母とは
火鉢を中にして対したまい、叔母はわが顔を見て物をものたまい得ず、ハンケチにて
眼ふきふき一通の手紙を渡したまえり。これ二郎が手紙なり。
文は短けれど読みおわりて繰り返す時わが手振るい涙たばしり落ちぬ、今
貴嬢にこの
文を写して送らん要あらず、ただ二郎は今朝夜明けぬ先に
品川なる船に乗り込みて直ちに出帆せりといわば足りなん。この身にはもはや要なき品なれば君がもとに届けぬ、君いかようにもなしたまえと書き添えて
貴嬢の写真一枚はさみあり、こは
貴嬢がこの正月五日御地より送りたまいし物の由。さてわれにも要なき品なれば
貴嬢に送り返すべきなれど思う節あればしばしわが手もとに秘め置く事といたしぬ。無益とは知りつつも、車を駆りて品川にゆき二郎が船をもとめたれど見当たらぬも
理なり、
問屋の者に聞けば第二号南洋丸は今朝四時に出帆せりとの事なれば。
ああ哀れなる二郎、われらまたいつ再びあうべきぞ。
貴嬢はわれもはやこの一通にて
厭き足りぬと思いたもうや。あらず、あらず、時は必ず来たるべし
|| 大空
隈なく晴れ都の空は
煤煙たなびき、沖には
真帆片帆白く、房総の
陸地鮮やかに見ゆ、
射す日影、そよぐ潮風、げに春ゆきて夏来たりぬ、楽しかるべき夏来たりぬ、ただわれらの春の
永久に
逝きしをいかにせん
|| 時は果たして来たりぬ、ただ貴嬢もわれも二郎もかかる時かかるところにて三人相あうべしとは
想いもよらず。
時は果たして来たりぬ、
一年と二月は
仇に過ぎざりき、ただ
貴嬢にはあまり早く来たり、われには
遅く来たれり、
貴嬢は
永久に来たらざるを
希い、われは一日も早かれとまちぬ、いずれにもせよ余がこの手紙
認むべき時はついに来たれり。
夏の
玉章一通、年の暮れの玉章一通、確かに届きぬ。われこれに答えざりしは今の時のついに来たりて、われ進みて
文まいらすべきことあるをかねて
期しいたればにて深き
故あるにあらず。今こそ答えまいらすべし、ただ一
言。弁解の言葉連ねたもうな、二郎とてもわれとても
貴嬢が弁解の言葉ききて何の用にかせん。二郎が深き悲しみは
貴嬢がしきりに言い立てたもう
理由のいかんによらで、貴嬢が心にたたえたまいし愛の泉の
涸れし事実の故のみ。この事実は人知れず
天が下にて行なわれし
厳かなる事実なり。
いかなる言葉もてもこれを言い消すことあたわず、大空の星の
隕ちたるがごとし、二郎はその
理由のいかんを見ず、ただ光の
失せぬるを悲しむ。げにこの悲しみや深し。
友の交わりを続けてよとの
御意、承りぬ。これより後なお真の友義というものわれらが中に絶えずば交わりは
勉めずとも深かるべし、ただわが言うべきを言わしめたまえ、貴嬢のなすべきことは弁解を
力むることにはあらで、
諸手を胸に加え厳かに省みたもうことなり、静かにおのが心を吟味したもう事なり、今われ実にかの人を愛するや否やと。おのれの心の変わりゆきし跡を見たもうてあきれたもうとも笑いたもうとも泣きたもうとも、そは貴嬢が自由なり、されどあきるるも笑うも泣くもみな貴嬢が
品性によりてのことなれば、あながち貴嬢が自由ともいい
難し。
さて時はついに来たりぬ、いざわが文に入らん。
午後四時五十五分発横浜行きの列車にわれら二人が駆け込みし時は車長のパイプすでに響きし
後なることは貴嬢の知りたもうところのごとし。二郎まず入りてわれこれに続きぬ、貴嬢の姿わが目に入りし時はすでに遅かりき、われら乗りかうるひまもなく汽車は進行を始めたり。
貴嬢の目と二郎が目と空にあいし時のさまをわれいつまでか忘るべき、貴嬢は
微かにアと呼びたもうや
真蒼になりたまいぬ、
弾力強き心の二郎はずかずかと進みて貴嬢が正面の座に身を投げたれど、まさしく貴嬢を見るあたわず両の
掌もて顔をおおいたるを貴嬢が
同伴者の年若き君はいかに見たまいつらん。ただ静かに貴嬢を顧みたまいて
貴嬢の顔色の変われるに心づき、いかにしたまいし
心地悪しくやおわすると甘ゆるように問いたまいたる、その時もしわが顔にあざけりの色の浮かびたりせば
恕したまえ、二郎が耳にはこの声いかに響きつらん、ただかれがその
掌を静かに
膝の上に置きて貴嬢が
伴の方をきっと見たる、その時のかれが
眼より怪しき光の
閃きしを貴嬢はよくも
得見たまわざりしと覚ゆ。
貴嬢がわずかに頭をあげて、いなとかの君の問いに答えたまいたる、その声は墓のかなたより亡者や吹き込みし。
よき物まいらせんとてかの君手さげの内を探りたまいしが、こはいかに
宝丹を入れ置きぬと覚えしにと当惑のさまを、貴嬢は見たまいて、いなさまでに候わずとしいて取り繕わんとなしたもうがおかしく、その時もしわが顔に
卑下の色の動きたりせば
恕したまえ。
われ二郎に向かいて、御身は宝丹持ちたもうならずやと問えば、二郎、打ち惑いたるさまにてわずかに、しかりと答う。かの君の
肝太きことよ、直ちに二郎に向かって、少し賜わずやと求めたもう。貴嬢がこの時の
狼狽のさまこそおかしけれ、君よさまでには候わず宝丹には及ばずと訴うるようにのたまいし声はしわがれて
呼吸するも苦しげにおわしぬ。
二郎やむを得ず宝丹取りだして、われに渡しければわれ直ちに薬を
掬いて貴嬢が前に差しいだしぬ、この時
貴嬢が
眼うるみてわが顔を打ち守りたまいたる、ああ
刻き君かなとのたまいしようにわれは覚えぬ。
たやすく貴嬢が
掌いだしたまわぬを見てかの君、早く受けたまわずやと
諭すように物言いたもうは
貴嬢が親しき
親族の君にてもおわすかと二郎かの時は思いしなるべし、ただわれ、宇都宮時雄の君とはこの人のことよと一目にて
看破りたれば、
貴嬢に向かってかかる物の言いざましたもうを少しも怪しまざりき。
貴嬢が掌に宝丹移せし時、
貴嬢は再びわが顔を打ち守りたまいぬ、うるみたる貴嬢の目の中には、むしろ一
匙の毒薬たまえ
刻き君とのたもう心
鮮やかに読まれぬ。二郎はかの
方に顔を
負け、何も知りたまわぬかの君は、ただ一口に飲みたまえと命ずるように言いたもう、そのさまは、何をかの君かく誇りたもうぞと問わまほしゅうわが思いしほどなりき。
貴嬢が
眼を閉じて掌を口に当て、わずかに仰ぎたまいし宝丹はげに
魂に
沁み髄に
透りて毒薬の力よりも深く貴嬢の命を刺しつらん。されどかの君は大口開きて笑いたまい、宝丹飲むがさまでつらきかと
宣いつつわれらを見てまた大口に笑いたもう。げに
平壌攻落せし将軍もかくまでには
傲りたる色を見せざりし。
二郎が苦笑いしてこの将軍の
大笑に
応え奉りしさまぞおかしかりける。将軍の
御齢は三十を一つも越えたもうか、二郎に比ぶれば四つばかりの兄上と見奉りぬ。
神戸なる某商館の立者とはかねてひそかに聞き込みいたれど、かくまでにドル臭き方とは思わざりし。ドル臭しとは
黄金の力何事をもなし得るものぞと堅く信じ、みやびたる心は少しもなくて、学者、宗教家、文学者、政治家の
類を一笑し倒さんと意気込む人の
息気をいう、ドルの文字はまたアメリカ帰りの紳士ちょう意をも含めり。詳しき説明は宇都宮時雄の君に請いたもうぞ手近なる。
いずこまで越したもうやとのわが問いは
貴嬢を苦しめしだけまたかの君の
笑壺に入りたるがごとし。かの君、
大磯に一泊して明日は
鎌倉まで引っ返しかしこにて両三日遊びたき願いに候えど
||。われ、そは
御楽しみの事なるべし、大磯鎌倉は始めてのお越しにや。かの君さりげなく、
妹には始めての遊びになん。ああこの時、わが目と二郎の目とは
電のごとく貴嬢が目を射たり、
蒼ざめし貴嬢が顔はたちまち火のごとく赤く変わり、いそぎハンケチもておおいたまいし後はしばしわれらの言葉も絶えつ。
貴嬢がかかる
気高き兄君をもちたもうことはわれらまことに知らざりき、まして貴嬢が鎌倉の辺に遊びたもうは始めての由を聞き、われらあきれてしばしは物も
得言わず眼をみはりて貴嬢を打ち守りたる、こは
理あることと貴嬢もうなずきたまわん、かくにわかに顔色を変えたもうは限りなき恥を感じたまいしこととわれらは見たり。
貴嬢はよも鎌倉にて初めて宮本二郎にあいたまいたる、そのころの
本末を忘れたまわざるべければ。
鎌倉ちょう二字は二郎が旧歓の夢を呼び起こしけん、夢みるごときまなざし遠く窓外の
白雲をながめてありしが静かに眼を閉じて手を組み、
膝を重ねたり。
げに横浜までの五十分は
貴嬢がためにも二郎がためにもこの上なき苦悩なりき、二郎には旧歓の
哀しみ、貴嬢には現場の苦しみ、しかして二人等しく限りなきの恥に打たれたり。ただ
貴嬢の恥は二郎に対する恥、二郎の恥は
自己に対する恥、これぞ男と女の相違ならめ。
汽車横浜に着きてわれら立ちあがりし時、かの君も立ちあがりて厚く礼のべたもう、その時
貴嬢もまたわずかに顔なるハンケチを
外して口ごもりたもうや直ちにまた身を座に投げハンケチを顔に当てたまいぬ。その手のいたくふるえるさまわが目にも知れければ、かの君顧みたまいて始めて怪しと思う色を
眼の中に示したまえり。
乗る客、下りる客の雑踏の間をわれら
大股に歩みて立ち去り、停車場より波止場まで、波止場より南洋丸まで二人
一言も交えざりき。
船に
上りしころは日ようやく暮れて東の空には月いで、わが影淡く甲板に落ちたり。卓あり、粗末なる
椅子二個を備え、主と客とをまてり、
玻璃製の
水瓶とコップとは雪白なる
被布の上に置かる。二郎は手早くコップに水を
注ぎて一口に飲み干し、身を椅子に投ぐるや、貞二と叫びぬ。
声高く
応してここに駆け来る男は、色黒く骨たくましき若者なり、二郎は
微笑みつ、早く早くと優しく促せり。若者はただいまと答え身を
回らしてかなたに去りぬ。二郎、空腹ならずや。われ、物言うも苦し。二人は相見て笑いぬ、二郎が
煙草には火うつされたり。
今宵は月の光を
杯に
酌みて快く飲まん、思うことを語り尽くして声高く笑いたし、と二郎は
心地よげに東の空を仰ぎぬ。われ、こしかた行く末を語らば
二夜を重ぬとも尽きざらん、行く末は神知りたもう、ただ
昨日を
今日の物語となすべし、泣くも笑うもたれをはばからんや。
二郎、早く早く貞二、と叫びてまた快く笑い、こしかたは夢のみ、夢を語るに泣くは愚かなり。われ、ともかくも早く飲み早く食わずば泣くのほかあらず。
間もなく貞二が運ぶ
酒肴整いければ、われまず二郎がために
杯を
挙げてその健康を祝し、二郎次にわがために杯を挙げかくて二人ひとしく高く杯を月光にかざしてわが
倶楽部の万歳を祝しぬ。
二郎はげに泣かざるなり、貴嬢が上を語りいで、こし
方の事に及べど、かれはただ夢みるごときまなざしにて杯の底をながめ、哀れなる少女よとかこつのみ。ああ時よ!。時の力は不思議なるかな、一年余りの月日は二郎が燃ゆるごとき恋を変えて一片の
憐みとなしぬ。かれが沸騰せし心の海、今は春の
霞める波平らかに貴嬢はただ愛らしき、あわれなる
少女富子の姿となりてこれに映れるのみ。されどかれも年若き男なり、時にはわが語る言葉の
端々に
喚びさまされて旧歓の
哀情に
堪えやらず、貴嬢がこの姿をかき消すこともあれど、要するに哀れの
少女よとかこつ言葉は地震の夜の二郎にはあらず、燃ゆる恋はいつしか静かなる憐みと変われり。されど
貴嬢、こはわが
期しいたる変化なるのみ。
今日汽車の内なる
彼女の
苦悩は見るに忍びざりき、かく言いて二郎は
眉をひそめ、杯をわれにすすめぬ。
泡立つ杯は月の光に凝りて
琥珀の
珠のようなり。二郎もわれもすでに耳熱し気
昂れり。月はさやかに照りて海も
陸もおぼろにかすみ、ここかしこの
舷燈は星にも似たり。
げに見るに忍びざりき、されど彼女自ら招く
報酬なるをいかにせん、わがこの言葉は二郎のよろこぶところにあらず。
二郎、君は
報酬と言うや、何の報酬ぞ。
われ、人の愛を盗みし報酬なり。
二郎はしばし黙して月を仰ぎつ、前なる
杯を挙げ光にかざせば珠のごとき色かれが額に落ちぬ。しからば愛を盗まれし者の
報酬は何ぞと言いつつ飲み干せり。われ、
哀しき心にその
美酒の
浸み渡る心地ならめ。二郎は歓然として笑いまた月を仰ぎぬ。
この時
檣のかなたに立つ人あり、月を背にして立てばその顔は知り難し。突然こなたに向きて、しからば問いまいらせん、愛の盗人もし何の
苦悩をも自ら覚えで浮世を歌い暮らさばいかに、これも何かの報酬あるべきか。
二郎は高く笑いてわが顔をながめ、わが答えをまつらんごとし。問いの
主はわれ聞き覚えある声とは知れど思いいでず。
檣の方に身を突きいだして、
御問いに答えまいらすはやすし、こなたに進みてまず杯を受けたまえといえば、二郎は、来たれ来たれと手招きせり。
檣の陰より現われしは
一個の大男なり。
見忘れたもうなと言いもおわらず卓の横に立つは片目の十蔵ならんとは。二郎は椅子を離れ手を
拍って笑いぬ。
いかで忘るべきと杯を十蔵の前に置き、飲み干してわれに与えよ再会を祝せん。
十蔵はわれを
寿きて杯を飲み干しつ、片目一人、この船に加わりいることをかねて知りたまいしやと問う。われ、なんじの影地震の
夜の間に消え
失せぬと聞き、かの時の挙動など思い合わして大方は
推しいたれどかく相見ては今さらのようにうれし。
かつて酒量少なく言葉少なかりし十蔵は海と空との世界に呼吸する一年余りにてよく飲みよく語り高く笑い
拳もて卓をたたき鼻歌うたいつつ
足尖もて拍子取る
漢子と変わりぬ。かれが貴嬢をば盗み去ってこの船に連れ来たらばやと叫びし時は二郎もわれも耳をふさぎぬ。かれの説によれば、貴嬢はもと心順なる
少女なれば境によりてその情を動かすがゆえに南洋丸に乗せて一年が間、浮世の風より救い出さば必ず
御顔にふさわしき天津乙女となりたもうとの事なり、われはたやすくこれを信ずるあたわざるのみ。
十蔵はその片目を細くして小歌うたいつ、たちまち卓を打ちて、君よかの問いの答えはいかにしたまいしとその片目をみはりぬ。二郎はいたく
酔い、椅子の
背に腕を掛けて
夢現の境にありしが、急に頭をあげて、さなりさなりと言い、再び
眼を閉じ頭を
垂れたり。
もし君が言わるるごとくば世には
報酬なくして人の愛を盗みおおせし男女はなはだ多しと、十蔵はいきまきぬ。
われ、なんじの妻のごときをいえるにや。
あらず、あらず、
彼女は犬にかまれて
亡せぬ、恐ろしき
報酬を得たりと答えて十蔵は
哄然と笑うその笑声は
街多き
陸のものにあらず。
二郎は
頭あげて、しからばかのふびんなる
少女もついには犬にかまるべきか。
犬や犬や浮世の
街にさすろうもの犬ならざるいくばくぞ、かみつかまれつその日と
夜を送り、そのほゆる声騒がしく、とてもわれらの住み得べきにあらず、船を家となし風と波とに命を託す、安ければ買い高ければ売り、酒あれば飲み、大声あげて歌うもわがために耳傾くるは大空の星のみ
||月さゆる夜は風清し、はてなき海に帆を揚げて
||ああ君はこの歌を知りたもうや
||月さゆる夜は風清し
||右を見るも左を見るも島影一つ見えぬ
大海原に帆を揚げ風斜めに吹けば船軽く傾き月さえにさえて波は黄金を砕く、この時
舷に立ちてこの歌をうたうわが
情を君知りたもうや、げに
陸を卑しみ海を
懼れぬものならではいかでこのこころを知らんや、ああされど君は知りたもう
|| 十蔵はその
杯を干してわが前に置き、
||されど君は知りたもうと繰り返せり。
この時二郎は静かに頭をあげて月を仰ぎしが急に身を起こしてかなたこなたと歩みつつ、ああ心地よき夜やと言い、皿よりパインアップルの太き一片を取りて口に入れつ、われを顧みて、なんじその杯を干してわれに与えずや。かれはわが杯を受けて心地よげに飲み干し、大空を仰ぎて、愛盗まれし者の受くべき
報酬はげに幸いなりき、十蔵なんじもその一人ならずやと杯を十蔵が前に置きぬ。十蔵は半ば眠りて
応えなし。片目を
微かに開きしもまた閉じたり。
夜はいよいよふけ月はますますさえ、市街の物音もやや静まりぬ。二郎は欄に
倚りわれは帆綱に腰かけしまま深き思いに沈みしばしは言葉なかりき。なんじはまことに幸いなる
報酬を得たりと思うや二郎、とわれは二郎の顔を仰ぎて問いぬ。
二郎は目を細くして月を仰ぎつ、うれしき報酬とは思わず、されどかの少女をふびんなりと想えば限りなき哀れを覚え、われに
負きし挙動など忘れはて、ただ
懐かしさに
堪えず、げにふびんなるはかの少女なり。
二郎しからばなんじにまいらすべき一
品ありと、かねて用意せる
貴嬢が写真のポッケットより取り出して二郎が手に渡しぬ。何心なく受け取りてかれはしばし言葉なくながめ入りぬ、月の光は冷ややかに
貴嬢が姿を照らせり。
そはなんじが叔母に託して昨年の夏の初め、品川出帆の朝、わがもとに送りたる品なり、今再びこれをなんじに
還さん、なんじはなお手もとに置き難しと言うや、かく言いしわが言葉は短けれどその
意は長し。
二郎はなお言葉なくながめ入りぬ。
げにかたじけなしと軽く
戴き
内衣兜に入れて目を閉じたり。
二郎がこの言葉はきわめて短くこの
挙動ははなはだ単純なれど、その深き
意はたやすく
貴嬢の知り得ざるところなり。
なんじはげにわが友なりと二郎はわが手を堅く握りて言えり、その声はふるいぬ。われこの時二郎に向かって、よししからばわが言うをきけ、人は到底陸の動物なり、かつなんじはわれらと共になすべき
業を有すと言い放つを願わざりしにはあらねど、されど二郎ほどの男、わが言葉によりて感憤するほどの不覚をなさじ、かれ必ずかれの志あり、海を
懼れず陸を懼れずなさんと欲するところをなすはこの若者なるをわれ知れば、ただしばしそのなすところに任さんのみと思いてやみぬ。
二郎はわれを導きてその
船室に至り、
貴嬢の写真取り出して写真掛けなるわが写真の下にはさみ、われを顧みてほほえみつ、
彼女またわれらの中に帰り来たりぬといえり。この言葉は短けれどその
意は長し
|| この書状は例によりてかの人に託すべけれど、
貴嬢が手に届くは必ず数日の後なるべし、
貴嬢もしかの君に示さんとならば、そは
貴嬢の自由なり、われには何の
関りもなし。
(明治三十年十一月作)